《 7月31日 》

   ルシエール小屋(3507m) 〜 ダン・ブランシュ(4357m) 〜 ルシエール小屋(3507m) 〜 フェルペクル(1885m) ⇒ シオン(500m) ⇒ ツェルマット(1600m)

   7月31日、夜中に咳を押さえるのに苦労した。 脱水を恐れて水分をこまめに取ったため殆ど眠れず、朝食時間の4時の30分ほど前に起床して静かに準備を始める。 昼間の陽気さとは別人のように、周りの人達も物音ひとつ立てず無言で手際よく準備を始めていた。 決められた4時の5分前に食堂の明かりが灯ると、テーブルには既にほぼ全員の顔が揃っていた。 朝食はパンとジャムにオートミールが小鉢に盛られていたが、前回の経験を活かしてコーヒー用のミルクだけを飲み、持参したクロワッサンとチーズを食べた。 皆よりも一足先に狭い入口付近でハーネスを着けて靴を履くが、朝食を食堂で食べない人達もいるようでごった返していた。 体調はほぼ昨日と変わらずで、緊張感が体のだるさを押し殺している感じだ。 ダビッドから「今日は暖かいのでジャケットは着なくて良い」と言われたので、アンダーシャツの下にTシャツを着て中間着の薄いフリースのみで行くことにした。 

   前回以上に慌ただしくテラスでロープを結び、4時20分に山小屋を出発。 山小屋の裏手の踏み跡のある急勾配のモレーンを登り始めると、すでに頭上には沢山のヘッドランプが揺れていた。 まるでマッターホルンのスタート時のように、岩稜の核心部での良いポジションを得るためか、のっけからダビッドはショートロープでグイグイと私を引っ張っていく。 体調が十分ではないので、せめてもスタート時だけはゆっくり登りたかったが、思惑とは全く逆の展開になってしまった。 もうなるようにしかならないと開き直るしかない。 登り始めて20分足らずで標高差100mほどを稼ぎ、氷河の取り付きに着いた。 先行していた他のパーティーはここでロープを結んでいたので、何組かのパーティーをここで追い抜いた。 少しダビッドの思惑が良い方に転じたのか、ややペースが落ちたので安堵する。 体もようやく目覚めてきた。 氷河の登高はすぐに終わり、アイゼンを外して易しい岩場をしばらく登ると、核心部となる南稜の取り付きの手前のヴァンドフルーリュッケ(3703m)という広い鞍部に出た。 今のところ風は無いが、南稜は風がいつも強いとガイドブックに記されていたので、念のためジャケットを着る。 

   鞍部からは再びアイゼンを着け、短い氷河をトラバース気味に僅かに下って南稜に取り付く。 ここでも1パーティーを追い抜いたが、まだ先行しているパーティーが何組かある感じだ。 易しい岩場を僅かに登ると、すぐに雪庇のような尾根に復帰し、南稜の核心部のグラン・ジャンダルム(4098m)の岩塔が岩稜の先に望まれた。 天気は予報どおり良さそうで朝焼けが綺麗だ。 黎明のマッターホルンが意外と近くに見えた。 岩稜を直登するとアップダウンの繰り返しになってしまうようなので、基本的に左側から巻くようにして岩の斜面を登る。 短いが途中に小さな氷河があるため、アイゼンは着けたままだ。 自力では登れないような4級以上の岩はなく、むしろ前回のグラン・コンバンの方が難しいように思えた。 

   一番大きなグラン・ジャンダルムは左から大きく巻き、急斜面の長い雪のクーロワールをスタカットで登る。 クーロワールの終了点のビレイポイントに複数のパーティーが見えたので、ダビッドは直前のパーティーを追い抜くことなくその後ろについて登っていく。 ロープが伸びきるまでの間にようやく一息入れることが出来た。 今日の私にとってはまさに“至福の時間”だ。 クーロワールの終了点の先も岩ではなく雪の急斜面の登りが続き、グラン・ジャンダルムを越えた先で尾根に復帰した。 相変らず風の無い穏やかな天気で、登頂の可能性がにわかに高まった。 

   ここからはアイゼンを外し、頭上に見える幾つかの小さなジャンダルムを直登したり左から巻いたりしながら登った。 尾根上にジャンダルムが無くなると、再びアイゼンを着けてミックスの雪稜を直登する。 山頂からしか見えないと思っていたオーバーガーベルホルンやツィナールロートホルンが右手に見られるようになった。 意外にもダビッドの口から「あと10分で山頂に着くのでそこで休みましょう」という言葉が出た。 登頂を確信して喜んだのも束の間、ダビッドは再びペースを上げてグイグイと私を引っ張っていく。 息が切れ足がもつれ始めた時、不意に傾斜が緩んで山頂の十字架が目に飛び込んできた。

 

食堂の明かりが灯ると、テーブルには既にほぼ全員の顔が揃っていた


慌ただしくテラスでロープを結び、4時20分に山小屋を出発する


黎明のマッターホルン


南稜の核心部のグラン・ジャンダルム(4098m)の岩塔が岩稜の先に望まれた


岩稜は直登せずに基本的に左側から巻くようにして岩の斜面を登る


途中に小さな氷河があるためアイゼンを着けたまま登る


グラン・ジャンダルム(右)の下の雪のクーロワール


クーロワールの終了点の先も岩ではなく雪の急斜面の登りが続いた


グラン・ジャンダルムを越えてから尾根に復帰した


アイゼンを外して幾つかの小さなジャンダルムを登った


山頂直下のミックスの雪稜


   8時ちょうどに先行パーティーに祝福され待望のダン・ブランシュ(4357m)の山頂に着いた。 ここまでとても長い道程に感じたが、山小屋を発ってからまだ3時間40分しか経っていなかった。 眼前にはようやくお目当てのヴァイスホルンが望まれ、ダビッドが提案している北稜も良く見えた。 マッターホルンはもちろん、オーバーガーベルホルンやツィナールロートホルンもツェルマット側からの見慣れた山容とは違って新鮮だ。 先日登ったグラン・コンバンもすぐに分かった。 ダビッドと固い握手を交わし登頂のお礼を言う。 ダビッドはもう何度も登っているので感激はないだろう。 先行パーティーが登頂の余韻に浸りながら寛いでいたためか、予想に反してダビッドもすぐに下山するようなそぶりは見せなかったので、思う存分周囲の山々の展望を愛でながら写真を撮った。


ダン・ブランシュの山頂


ダン・ブランシュの山頂


ダン・ブランシュの山頂から見たヴァイスホルン


ダン・ブランシュの山頂から見たマッターホルン


ダン・ブランシュの山頂から見たグラン・コンバン(中央奥)


ダン・ブランシュの山頂から見たグラン・コロニエル(3961m)


山頂から見たオーバーガーベルホルン(右) ・ ツィナールロートホルン(中央) ・ ヴァイスホルン(左)


ダン・ブランシュの山頂から見たベルナー・オーバラントの山々


   先行パーティーが順次下山を始め、後続パーティーも次々と登ってきたので、20分ほど滞在した山頂を後にする。 下山は基本的に私が先頭だ。 これから登ってくる後続パーティーとの行き交いがあるため、図らずも帰路はジャンダルムを乗り越えて往路とは少し違ったルートで懸垂を交えながら下った。 下りも何度かビレイポイントでの順番待ちがあったが、全般的に先日のグラン・コンバンよりも岩が易しく標高差もなかったので、予想よりも早く11時半に山小屋に着いた。

 

ダン・ブランシュの山頂直下から見たダン・デラン


南稜を下る


グラン・ジャンダルムの直下


ヴァンドフルーリュッケから見た南稜


予想よりも早く11時半に山小屋に着いた


   午前中の好天が嘘のように灰色の雲が湧き始めたので、登頂の余韻に浸る間もなく下山の準備をしながら昼食のレシュティ(茹でたジャガイモの上にチーズをのせてオーブンで焼いたもの)を注文し、コーラで祝杯を上げた。 他のパーティー達は早々に下山を始めたので、私達も慌ただしく正午過ぎに山小屋を後にする。 足が思ったよりも疲れていなかったことと、憧れのダン・ブランシュに登れたという昂揚感で登攀区間と同じようなペースで歩いたため、山頂に居合わせたダビッドの知り合いのガイドのパーティーと相前後しながら途中で1回休憩しただけで3時半前に駐車場に着いた。

 

昼食のレシュティ


慌ただしく正午過ぎに山小屋を後にする


午前中の好天が嘘のように灰色の雲が湧き始めた


ダビッドの知り合いのガイドパーティーと相前後しながら足早に下る


   ダビッドは下山中に急用の連絡が入ったようで、その知り合いのガイドに私の送迎を依頼し、急遽駐車場で別れることになった。 用意しておいたサミットボーナスをダビッドに手渡し、そのガイドの車でシオンの駅まで乗せてもらった。 予想どおりシオンの町はとても暑く、今日も最高気温が35度くらいあったのではないかと思われた。 5時前の普通列車に乗って乗換駅のフィスプに向かう。 妻にSMSで登頂と下山の報告をすると、今日はこれから町でお祭りがあるとのことだった。 図らずもフィスプからは前回と同じ5時37分発の電車に乗ってツェルマットに帰ることになった。 ツェルマットのメインストリートには所狭しと屋台やテーブルが並べられ、多くの観光客で賑わっていた。 もちろん7時を過ぎたこの時間帯にピッケルやヘルメットを括り付けた荷物を背負って歩いているのは私だけだったが、逆にそれが何故か誇らしく思えた。


ダビッドの知り合いのガイドの車でシオンの駅まで乗せてもらった


シオンの駅


シオンから普通列車に乗って乗換駅のフィスプに向かう


ツェルマットのメインストリートには所狭しと屋台やテーブルが並べられ、多くの観光客で賑わっていた


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ヨ ー ロ ッ パ ア ル プ ス    ・    山 行 の 報 告    ・    T O P