《 30日 》
C.2(5350m) 〜 チョピカルキ(6354m) 〜 C.2(5350m) 〜 C.1(4800m)
7月30日、日付が変わる前に起床して準備を始める。 朝食はワラスのスーパーで買ったカップラーメンだ。 昨夜の7時頃からほぼ熟睡出来たので体調は良い。 起床後のSPO2と脈拍は78と73で、この高度では十分な数値だった。 風が少しあるのが気掛かりだが、妻や西廣さん夫妻も体調は良さそうだ。 昨日の打ち合わせどおり、アグリを先頭にラウル、妻、私の順にロープを結び、ダリオは西廣さん、節子さん、マヌエルの順にロープを結んだ。 以前は高い所は苦手だと言っていたラウルも今日は気合が入っていて頼もしく思える。
予定より少し遅れて1時15分にC.2を出発。 心配していた風もほぼ収まった。 稜線のコルに向けて広い斜面を登っていく。 数値的にも十分順応しているように思えたが足取りが重く、前を登る妻に常にロープで引っ張られるような状態がしばらく続いた。 後続のダリオは私のすぐ後ろにピッタリとくっつき、まるで追い立てるかのような勢いで登ってくるが、自分のペースを保って登る。 アグリは一昨日のスイス隊のトレースに従い、クレヴァスも迂回せずに飛び越えながら進んだ。 2時半過ぎに標高5600mの稜線のコル付近に着き、最初の休憩となった。
コルから稜線(南西稜)に上がると傾斜が一段と増し、地形やルートも複雑になってきた。 寒さも少し増してきたが、ありがたいことに稜線上も風が無く、コルから1時間ほど登った所でまた休憩となった。 遥か眼下に麓の町の明かりが見えた。 このまま順調に行けるだろうと思ったのも束の間、その先に大きなクレヴァスがあり、アグリがルート工作をしている間しばらく待たされた。 ヘルメットを被り、行動食を食べていると、足のつま先が冷たくなってきた。 やっかいなクレヴァス帯を無事通過し、後続の西廣さん夫妻のパーティーを待ちながら、標高6000m付近で三回目の休憩となった。 夜明けが音もなく近づき、ワスカラン南峰のシルエットが暗闇から浮かび上がっていた。
西廣さん夫妻のパーティーのヘッドランプの灯りが見えると、彼らの到着を待たずに先行することになり、目の前に立ちはだかる急峻な雪壁を右から回り込むように迂回すると、しばらくの間はテラスのように広くて緩やかな斜面の登りとなった。 東の空が茜色に染まり始めると、不意におびただしい数の山々の頂が目の前に見えた。 振り返えれば、ガルガンタのコルを挟んでワスカラン南峰と対峙する北峰も指呼の間に望まれ、その迫力ある景観に思わず息を飲んだ。 ご来光が近づき、周囲が次第に明るくなってくると、ようやく目の前の山々がブランカ山群のほぼ中央にあるコパ(6188m)とワルカン(6125m)、そして南部のトクヤラフ(6032m)、チンチェイ(6222m)、ワンサン(6395m)、パルカラフ(6274m)などであることが分かり、そのユニークな展望に心が弾んだ。
再び稜線に沿って急斜面の登りになると、足元の新雪が急に深くなった。 アグリとラウルが懸命にステップを刻んでくれるが、雪は脆くピッケルがもう一本欲しいくらいだ。 後続の西廣さん夫妻のパーティーも見えてきた。 モルゲンロートに染まり始めたワスカラン南峰がいつの間にか目線の高さになり、このまま登り続けるとワスカランを超えてしまうのではないかと思えるほどだった。 30分ほど急斜面を頑張って登り続け、最後に短い雪壁を確保されながら這い上がると、山頂手前のなだらかですっきりとした雪稜の末端に着き、ようやく私達にも暖かい太陽の光が当たるようになった。 ここからは初めて巨大な雪庇が張り出したチョピカルキの山頂が見えたが、まだそこに辿り着けるかどうかは確信が持てなかった。 北東の方角のアマゾン側は一面雲海で埋まり、隣に聳えるコントライェルバス(6036m)がすでに目線の下に望まれた。
ありがたいことに天気は快晴無風の登山日和となり、高度とは反比例するかのように足取りは軽くなった。 暖かな陽射しを浴びながらしばらくの間は気持ちの良い稜線漫歩となり、山頂直下の芸術的な雪庇の基部を右から回り込み、クレヴァスを一つ越えると、山頂に向けてやや急な斜面の登りとなった。 頭上にはもう青空しか見えなかった。 傾斜が緩むと先頭のアグリが振り返り、両手を挙げて私達の到着を待っていた。
7時45分、C.2から6時間半で待望のチョピカルキ(6354m)の頂に辿り着いた。 初めてブランカ山群の6000m峰に登れた妻を祝福して抱擁し、アグリとラウルに感謝の気持ちを伝えながら固い握手を交わした。 広くもなく狭くもない理想的な山頂からの展望は予想以上に素晴らしく、それまで見えなかったブランカ山群北部の山々が目の前にずらりと勢揃いし、ここから見えない山は無いと言っても過言ではなかった。 もちろん眼前にはペルーの最高峰でブランカ山群の盟主でもあるワスカラン南峰(6768m)が圧倒的な大きさで鎮座し、チョピカルキがケチュア語で“中央の隣”という意味であることがあらためて良く分かった。 筆舌に尽くし難いこの大展望は、今まで登ったブランカ山群の山の中では間違いなく一番で、この山に登らずしてブランカ山群の山は語れないとさえ思った。 快晴無風の孤高の頂で、360度の大展望に興奮しながら夢中で写真を撮り続けた。
西廣さん夫妻のパーティーを待ちながら山頂で寛いでいたが、いつまで経っても登ってくる気配がなかったので、8時半に下山することになった。 山頂から下り始めると、ようやく山頂直下に西廣さん夫妻の姿が見えたので、しばらくそこで待機し、すれ違い際にお二人の登頂を労ってから下山した。 下りでは基本的に急斜面は全て懸垂したので、その区間では登りと同じくらいの時間が掛かった。 途中からラウルが先頭になり、山頂から3時間近く下った所で西廣さん夫妻のパーティーが追い付いてきたので、そこで一緒に休憩することになった。
その後も懸垂を繰り返しながら正午にコルまで下ると、後は一気に留守番のメシアス、エリセオ、ノルベルトの3人が首を長くして待つC.2に駆け足で下り、山頂を発ってから4時間後の12時半にC.2に着いた。 ちょうど明日アタックする他の隊もC.2に着いたところだった。 アグリから、食料が無いので今日中にB.Cまで下りたいという提案があったが、後続の西廣さん夫妻のパーティーの到着が1時間後になってしまったので、協議の結果とりあえずC.1まで下ることになった。
荷物を整理して2時半にC.2を発つ。 下山中に靴が壊れてしまった西廣さんをアグリがサポートしながら、全員が同じロープでアンザイレンして下ったが、途中でダリオのアイゼンも壊れてしまい、C.1への到着は4時半過ぎになってしまったので、無理をせず今日はここで泊ることにした。 C.1にも食料をデポしてなかったようで、夕食はスープと行動食の余りで済ませたが、登頂出来た満足感と安堵感に満たされた幸せな夜を過ごした。