《 22日 》
C.2(5500m) 〜 ラサック(6017m) 〜 C.2(5500m)
7月22日、夜中の零時前に起床。 起床前のSPO2は73、脈拍は65とこの高度では申し分ない。 頭痛や鼻づまりもなく体調は珍しく万全だ。 カップ麺のきつねうどんを普通に食べることが出来た。 一方、朋子さんは喉の風邪が治らず、残念ながらアタックを断念されるとのことだった。 天気は良い方に安定しているようで風もなく暖かい。
予定よりも少し遅く1時半前にC.2を出発。 すでにロドリゴ達の先発隊は出発していた。 私と妻は昨日と同じようにアグリとロープを結び、緩やかなイェルパハ西氷河を源頭のコルに向かって登り始める。 意外にも30分も登らないうちにアグリが立ち止まり、右サイドの切り立った側壁を見上げていた。 側壁にはヘッドランプの灯りが見え、ロドリゴ達が取り付いていることが分かった。 ロドリゴ達がなぜ緩やかな氷河を詰めずに敢えて垂直に近い壁に取り付いているのか全く理解出来なかった。 アグリと後ろから追いついてきた平岡さんもその様子を唖然として見ていたが、どうやら氷河の状態が悪いので高巻いているのではなく、この崖のような側壁を稜線に向かって登っていくようだった。 昨日ロドリゴから報告があったフィックスロープを3〜4ピッチ登るというのはここのことだったのか。 平岡さんが「こんな所は登れない!」と叫び、アグリも仲介に入ってガイド同士でしばらく協議をしたが、百戦錬磨のアグリですらこの寂峰を登ったことはなく、結局この山域に一番詳しいロドリゴの判断に任せるしか術がなかった。 それでもこの3〜4ピッチの岩場を頑張って登れば、活路が見えると信じて壁に取り付くことになった。 もともと私がラサックの存在を知り、この山に憧れるようになったのは、2005年のロドリゴと丸山さんの登頂記録を見たことがきっかけだったが、その時のルートはC.2からセラック帯を通り、イェルパハ西氷河の源頭のコルの手前から側壁に取り付いていたはずだ。
側壁の取り付きで疑心暗鬼でアイゼンを外し、フィックスロープの垂れ下がった赤茶けた岩壁を順番に登る。 暗闇の中で手掛かりや足場を探しながらの登攀のため、先頭で登ることになった伊丹さんから泣きが入る。 もちろん5000mを超える高所ではなおさらだ。 当初から岩を登る計画であれば、それなりに心の準備も出来ているが、今日のアタックではイェルパハとのコルまで氷河を歩き、そこから急峻な雪稜を登ることをイメージしていたので余計に違和感があった。 最初の1ピッチはトップの伊丹さんからラストの西廣さんが登るまで1時間以上掛かった。 人も獣も通らない正に人跡稀なルートのため、注意して登らないと足元の500円玉ほどの岩がボロボロと下に落ちる。 ガバだと思って掴んだ人の頭ほどの岩が剥がれ落ちる寸前だったりすることも珍しくなかった。 下山後に知ったが、アグリも左目に岩が当たり、目が真っ赤に充血していた。 2ピッチ目も同じように順番待ちやらで遅々として捗らず、暗闇の中、大人数でこの不安定な岩場を登ることに違和感を覚えた。 借り物のロープマンは過去に使ったことがなく、オーバー手袋での操作がとてもやりにくかった。 風が全くなかったことが唯一の救いだ。
ロドリゴの報告どおり、崖のような岩場を3〜4ピッチ登ると、そうやく傾斜が少し緩み、頭上には雪壁があらわれた。 雪壁の基部でアイゼンを着け、同じようにフィックスロープをユマーリングで登る。 夜が白み始め、ヒリシャンカのシルエットが暗闇から浮かび上がってきた。 雪壁は僅か1ピッチしかなく、その先は再び岩場となっていたのでアイゼンを外す。 美しい朝焼けが始まり、今までで一番良い天気になりそうな期待が持てたが、果たして無事山頂に辿り着けるのかどうか、全く予想もつかなかった。
雪壁の先では傾斜がさらに緩み、岩のバンドを斜めに登ったり、トラバースするようになったが、先頭のロドリゴ達が登りながらフィックスロープを取り付けているため、今度はそれを待つのに時間が掛かる。 相変わらず天気は安定し、不思議なくらい風が無いことがラッキーだった。 周囲が明るくなり、岩も易しくなったので、登頂への期待がにわかに高まってきた。 眼前にはイェルパハの巨大な西壁が威圧的な面持ちで迫り、当初登ることを想定していたイェルパハ西氷河の源頭のコルの向こうにシウラ・グランデ(6344m)とサラポ(6127m)が並んで見えた。
8時になるとようやく暖かな太陽の光が当たるようになり、頭上に待望の雪の稜線が見え始めた。 そこから2ピッチほどで再び雪壁があらわれたが、どうやらこの上にはもう岩場は無さそうで、このまま頂上稜線へ雪の上を登れそうだった。 アイゼンを着けて隊の最後尾でフィックスロープを1ピッチ登ると、意外にもそこはもう山頂直下のコルで、先に山頂に着いていたメンバーの姿が見えた。 ありがたいことにコルに上がっても全くの無風で、走り出したくなるような気持ちを抑えながら皆の待つ山頂に向かう。 緩やかな雪稜を僅かに歩き、9時半過ぎに待望のラサック(6017m)の山頂に辿り着いた。 朋子さんがいないのが玉にキズだが、想定外の岩場を耐えて登った解放感と、快晴無風の山頂からの大展望にメンバー一同お祭り騒ぎだ。 誰彼となく祝福と労いの握手を交わし、皆で写真を撮り合った。 もちろん、ロドリゴ以外は全員初登頂だ。
気が付くと30分以上も山頂に居座っていたが、下りも時間が掛かることは火を見るよりも明らかなので、アグリに促されて重い腰を上げて山頂を辞する。 次は誰がこの寂峰の頂を訪れるのだろうか、少なくとも日本人は当分の間いないだろう。 下りはトラバース部分を除いて全て懸垂で降りるが、上部でのロープを回収しながら下部のロープを固定するため、登りと同じように行動時間よりも待ち時間の方が長くなる。 岩はボロボロだが、落石をおこさないように下らなければならないので、足だけでなくロープを制動する手にも力が入る。 懸垂に不慣れな妻から泣きが入る。 当初の計画では、登頂がスムースにいった場合はB.Cまで下ることになっていたが、C.1に下ることさえ無理だろう。 山頂から取り付きまでの標高差は500m足らずだが、予想以上に下りに時間が掛かり、最後尾の妻が疲れはてながら氷河に降り立ったのは夕方の4時半過ぎだった。
5時前に留守番のスタッフ達に迎えられて三々五々C.2に到着。 朋子さんは一足先にB.Cに下りたとのこと。 ラウルが作ってくれた暖かいスープや焼きそばが空きっ腹にしみる。 フィックスロープの回収で私達よりも遅くC.2に到着したロドリゴ達を労い、皆無事に登頂を果たしたことを祝って記念写真を撮った。 今日ラサックに登れたのは、頼もしいロドリゴや手厚いサポートをしてくれたスタッフ達のお蔭に他ならない。 アタックを終えた安堵感と疲れで、朝までぐっすり眠ることが出来た。