《 10月2日 》

C.2  ( 6 3 0 0 m ) ⇒ C.3  ( 6 7 0 0 m )

   10月2日、5時半に起床。 前回の順応ステージでもそうだったが、6000mを超えるC.2(6300m)での宿泊は体への負荷が大きく、B.Cでは順応している体にもダメージを与える。 前回の順応でC.2に泊まった時からすでに2週間が経過してしまったので、その効果も殆ど感じられなかった。 相変わらず食欲はあまり湧かず、朝食は昨夜残したアルファー米に塩昆布を入れた茶漬けとポタージュスープで充分だった。

   7時過ぎにC.3(6700m)に向けて出発する。 昨日のような快晴ではないが、風も無く良い天気だ。 朝の冷え込みは今までで一番厳しかったが、陽が昇ってからは暖かくなり、厚い羽毛服の上下ではどうみても過剰装備だ。 前回の高度計の記録ではC.2からC.3の間の標高差は400m足らずであるばかりか単調で登り易い斜面のみなので、天気と体調さえ良ければ昨日と比べて全く気楽なものだ。 ただAG隊や埼玉岳連隊のようにC.3での睡眠時に酸素を使わないため、昨日にも増して無駄な筋力を使わないよう、また体内酸素の温存を心掛けて登る。

   C.2を出発して間もなくクレバスに向かって一旦少し下って登り返す所があるが、その後はC.3まで幅の広い緩やかな勾配の氷河が続くので、所々に他の隊のキャンプ(C.2)が設けられていた。 私達の隊はキャンプを4つ出しているが、3つの隊も結構あるように思えた。 相変わらず風は無く穏やかだが、山頂付近や稜線では強風により雪煙が舞っているのが見えた。 

   体感気温は高いが気温は低いので、C.2から上では雪が良く締まっていてトレースが薄い。 最初の1時間ほどはそれなりのペースで登れたが、標高に比例して次第に足が重たくなってくる。 途中で暑さに耐えきれず厚い羽毛服を脱ぐ。 前回はシングルの登山靴で空身に近かったこともありそれほど苦しまなかったが、今日はC.3が見えてからは酸欠で足が全く言うことを聞かなくなり、最後の50mを登るのに1時間近くかかってしまった。

   11時前にヘロヘロになってC.3に到着。 予想に反してC.2からは3時間半近くを要した。 体内酸素の温存を心掛けて登ったつもりが、図らずもすでに体内酸素を使い果たしてしまった。 他の隊は眼前の雪壁の上のコルや私達よりも少し下の斜面にC.3を建設していたが、私達の隊のテントは今にも崩れそうな雪壁の真下にへばり付くように設営されていた。 確かに地形的には稜線の風がテントに直接当たらないが、背後の雪壁が少しでも崩れたら一巻の終わりだ。 そこを敢えてキャンプ地にしたのは、素人の私には計り知れない何らかの理由があるのだろう。 今日も先に到着した工藤さんと一緒にテントに入ったが、前室部分は空洞状態でテントへの出入りもはばかられた。 日課の水作りもままならず、雪は雪壁から後室に吹き込んでくる雪を利用する始末だ。 スタッフから明日の行動用の酸素ボンベが配られた。 親日家のウォーリーが高度障害に苦しみ、途中で引き返したということが後で分かった。

   稜線から吹き込んでくる風は冷たく、3時過ぎには陽が当たらなくなってしまったのでテントの中でも寒かった。 酸欠の体はどんどん消耗していく一方なので、地道に水分の補給と深呼吸を繰り返して体調の管理をする。 酸素が吸える明日の朝までの辛抱だ。 平岡さんからも今晩が一番の頑張りどころだと気合を入れられる。 遅い昼食はポタージュスープとおしるこ、夕食はとうとうアルファー米が半分しか食べられなくなった。 SPO2は常に70台前半しかなく、脈拍も80台以下には下がらなかった。 工藤さんはいつもどおり安らかに寝てしまったが、このまま普通に寝てしまうと朝にはSPO2が50台になってしまうことは必至なので、寝ながら深呼吸を定期的に行い、敢えて眠らないようにした。


C.2からC.3へ


C.2からC.3の間には所々に他の隊のキャンプ(C.2)が設けられていた


6500m付近からは登高スピードが格段に遅くなる


C.2からC.3(右上部のコル)へは単調な広い斜面が続く


C.3直下


他の隊のキャンプ(C.3)


雪壁の真下にへばりつくように設営されたC.3のテント


C.3から見たピナクルの岩塔


C.3から見たナイケピーク(6211m)


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