《 11月4日 》

    B.C ( 4 6 0 0 m )

   11月4日、モーニング・ティーのサービスに合わせて7時半に起床。 起床前のSPO2は86、脈拍は52だったが、昨日の登攀で二の腕が少し筋肉痛だ。 間もなくテントサイトに陽が当たり始める。 今日も雲一つない快晴の天気だが、B.Cに来てから初めて風が少し吹いていた。 昨日C.2.7まで行ければ今日がアタック日だったが、山頂も風が強いのだろうか。 

   朝食の後は平岡さんとパサンが今後の登山の見通しについて長々と協議していた。 皆もその動向が気になり、テントサイトには重苦しい雰囲気が漂っていた。 今日は休養日なので皆は洗濯や物干しなどをしていたが、私はダイニングテントで日記を書いたりしながらだらだらと時間を潰した。 

   昼食後に平岡さんから、次の理由で山頂アタックが事実上出来なくなったとの説明があった。 @一昨日他の隊と共同して8人のスタッフで山頂へのルート工作を行ったが、C.2からC.2.7までルートが出来なかったこと。 Aルートが出来なかった理由は、氷の層の下に柔らかい雪が多く、フィックスロープを固定するスノーバーが刺さらないこと。 B私達の隊のみならず他の隊のスタッフも、ルート工作が不可能と判断したこと。 C共同でルート工作をした他の隊も、この結果を受けて撤収を決めたこと。 平岡さんからひと通り丁寧な説明があった後、サーダーのパサンからも同じような内容の説明があった。 ナムチェ・バザールで周囲の山々に積もった新雪を見た時から、ある程度覚悟はしていたので、それほど驚くことはなく、この決定もスムースに受け入れることが出来たが、悔しい気持ちに変わりはなかった。 説明の前よりも周囲の空気は一層重たくなった。 振り返れば、2年前にアマ・ダブラムを登ろうとしてマナスルに変更し、去年はラッセル隊との日程が合わずにヒムルンに行き、今年こそはと三度目の正直で臨んだ山だったので、何とも例えようがない複雑な心境だった。 アイランド・ピークに登れたことが唯一の心の支えだ。 

   途方に暮れる間もなく、予備日がまだ1週間ほどあるので、今後の行動をどうするか早急に決めなければならない。 地図を広げて登れそうな山を探すと、メラ・ピーク(6476m)が目に留まったが、B.Cまでヘリで行かなければ日程的に無理なことに加え、同じような状況が想定されるため、登頂の可能性はいつもより低いとのことだった。 泉さん達が先日登ったロブチェ・イースト(6119m)であればアプローチを含め短時間で登れるし、登頂の可能性も高いので、協議の結果、別働隊の林さん、安倍さん、利岡さんと共に四人でロブチェ・イーストを登ることにした。 他のメンバーは基本的にカトマンドゥに戻ることを決めたようだった。

   昼過ぎに妻や節子さん達をルクラまで案内してくれたチェリンがB.Cに着いた。 ルクラ周辺の天気が悪く、予定日にカトマンドゥへの飛行機が飛ばなかったので、翌日ヘリで飛んだとのことだった。 本隊は4日後の8日にB.Cを発つことが決まったが、希望すれば明日から一泊二日で再度C.2まで登っても良いということになった。 夕方、日本に帰国した妻に電話を架け、アマ・ダブラムに登れなくなったことと、明日以降ロブチェ・イーストを登りに行くことを伝えた。 

   夕食の鶏肉の唐揚げとコロッケはとても美味しかったが、気持ちはまだ上の空だった。 夕食後はもっぱら山以外の話題で夜遅くまで皆で歓談した。 メンバーが多かったことで、沈黙することがなかったことが救いだった。


モーニング・ティーのサービス


テントサイトに陽が当たり始める


朝食を待つ


今日も雲一つない快晴の天気だが、B.Cに来てから初めて風が少し吹いていた


今後の登山の動向が気になり、テントサイトには重苦しい雰囲気が漂っていた


洗濯や物干しなどをする


山頂アタックが出来なくなった理由について説明するサーダーのパサン


今後の行動について協議する別働隊のメンバー


カトマンドゥに戻ることを決めた泉さんと田口さん


夕食の鶏肉をさばくコックのドゥルゲ


残照のアマ・ダブラムの頂


夕食


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アマ・ダブラム