《 1日 〜 2日 》 頼母木山 ・ 杁差岳 ・ 地神山
飯豊山荘 〜 丸森尾根 〜 地神北峰 〜 頼母木山 〜 大石山 〜 杁差岳 〜 杁差小屋(泊)〜 大石山 〜 頼母木山 〜 地神山 〜 扇ノ地紙 〜 梶川尾根 〜 飯豊山荘 (往復/周回)
一週間以上も早く梅雨入りしてしまい、週末の甲信地方の天気が良くなかったので飯豊の山に出掛けた。 大日杉小屋から本山・御西岳を往復するルートを行く計画は出来ていたが、少しでも梅雨前線から離れようと、一番北の杁差岳に行った。 前回は6年前の秋に奥胎内から日帰りで往復したが、今回はハクサンイチゲなどの花々が期待できる飯豊温泉からの往復(一部周回)ルートとした。 道の駅『関川』に前泊し、翌朝登山口の飯豊山荘へ向かう。 飯豊山荘の下段の駐車場には既に10台ほどの車が停まっていたが、スキーを担いで石転び沢に向かう人が多い感じだった。 丸森尾根の途中にある夫婦清水の水場はまだ残雪の下で、この時期の稜線の小屋にも水は引かれてないので、登りの分と合わせて5リッターの水を担いでいくことにした。 すでに陽も高くなった8時前にようやく飯豊山荘前の登山口を出発。 標高400mからいきなり丸森尾根の急登が始まるが、痩せた尾根の木々は疎らで、初夏の強烈な陽射しがまともに頭上から照り付け、地獄のように暑い。 尾根に咲く色鮮やかなツツジが暑苦しくさえ感じる。 眠くても早立ちをしなかったことが悔やまれた。 飯豊山荘から1時間ほど急坂と暑さに辟易しながら登り続けると、4人の中高年の男女のパーティーに追いつき、道を譲られる。 やはり稜線のハクサンイチゲのお花見が目的で、頼母木小屋に泊まられるとのことだった。 尾根が新緑のブナ林になると、所々で登山道に残雪が見られるようになったが、6月に入ったばかりのせいか、タムシバもほんの僅かしか花が咲いていなかった。 足元にはカタクリとイワウチワ、そして季節外れのヒメサユリが一輪だけ薮の中に咲いていた。 標高1000m付近から尾根を残雪が覆うようになり、雪渓からの涼しい風が吹いてくる日陰で一息入れる。 ここら辺りにあるはずの夫婦清水は標識もまだ雪の中だった。 雪渓に出ると上空の薄雲が陽射しを少し遮り、ようやく気持ち良く登れるようになった。 麓の長者原の盆地の先に朝日連峰の山々が遠望された。 再び登山道が出てきたのでしばらくこれを辿る。 登山道には所々にカタクリや峰桜が咲いていた。 天気は予報に反してあまり良くないが、丸森峰(1620m)の手前辺りから右手に杁差岳(1636m)が見えるようになった。 森林限界を超えた丸森峰から先では雪渓の傾斜がやや急になり、6本爪のアイゼンを着けて登る。 先ほどまでの暑さが嘘のように、稜線から冷たい風が吹いてくる。 杁差岳とその山頂直下に建つ杁差小屋が目線の高さに見えたが、ここから水平に山腹をトラバースして行けば1時間ほどで着きそうなほど杁差小屋が大きく見えた。 左手の梶川尾根の向こうに再び飯豊本山が見えると稜線が近くなり、雪渓の傾斜が一段と急になった。 キックステップで急な雪渓を登り、笹薮の切り裂きから登山道に入った所が稜線上の地神北峰(1790m)で、予定より少し早く12時半に着いた。 天気は予報に反して不安定なのか、上空には太陽の暈(かさ)や虹が見られた。 北の方角にはこれから辿る頼母木山から杁差岳までの稜線が一望され、登山道はほぼ露出しているようだった。 今日の宿泊地として予定していた頼母木小屋も手に取るような近さに見え、状況に応じて杁差小屋まで足を延ばそうと思った。 山頂でランチタイムをしていると、頼母木山方面からの単独の男性と出会った。 雑談を交わすと地元の方のようで、藪のうるさい西俣ノ峰を通るルートで登ってこられたとのことだった。 飯豊ではGWに雪が結構降ったので花の開花は少し遅れ、頼母木山周辺のハクサンイチゲもまだ殆ど咲いてないとのことでがっかりした。 気を取り直して頼母木山方面に向かうが、3年前に訪れた時は稜線が白く見えるほどのハクサンイチゲやコザクラの咲いていた場所にはまだその蕾しか見られず、頼母木山を越えて頼母木小屋へ下る辺りでようやくハクサンイチゲやシラネアオイが点々と見られるようになった。 それと引き換えに二王子岳(1420m)など周囲の山々には残雪がまだ白く輝いていた。 お花畑で写真を撮ることもなかったので、まだ陽の高い1時半過ぎに頼母木小屋に着いた。 小屋には誰もいなかったが、一人分の荷物が置いてあった。 ロケーションの良い頼母木小屋に15年ぶりに泊まることを楽しみにしていたが、この先の杁差小屋にも泊まってみたかったので、先に進むことにした。 ちょうど一番暑い時間帯となったが、稜線上には涼しい風が僅かに吹いていて快適だった。 頼母木小屋から先では満開の峰桜の木々が多く、予定外の“お花見”となった。 地神北峰から標高が200m以上低くなった大石山との鞍部のお花畑には5分咲きではあるが、みずみずしいハクサンイチゲの大群落が見られ、疲れも吹っ飛ぶ。 奥胎内からの足ノ松尾根が上がってくる大石山(1562m)から先では稜線の起伏が激しくなり、鉾立峰(1573m)へ向かって一旦鞍部まで大きく下って急坂を登り返す。 足元には再びカタクリやシラネアオイが所々に見られるようになった。 鉾立峰からは杁差小屋が指呼の間に望まれ、狭い山頂の傍らにピッケルやアイゼンなどの登攀具をデポする。 週末にも係らず地神北峰からは誰とも出会うことなく、まだ陽の高い3時半過ぎに杁差小屋に着いた。 小屋には誰もいなかったので、明るく広い2階に荷物を置き、小屋のすぐ裏手の山頂に行く。 前回と同じく山頂は貸し切りだった。 空には薄雲があるが、午後のわりには展望はまずまずで、北に朝日連峰、南に蒜場山(1363m)、西には佐渡ケ島なども遠望された。 地神北峰から辿ってきた山々の残雪の模様が複雑で面白い。 風の無い静かな山頂でのんびりと周囲の残雪の山々を眺める。 小屋に戻って近くの雪から水を作ったが、初夏の残雪は見た目よりも汚れていて、フィルターから落ちるスピードが明らかに遅かった。 小屋の外にはトイレが2つもあるが、小屋の入口には『杁差岳避難小屋』と書かれた表札があり、他の飯豊の小屋のような料金箱がないことに気が付いた。 小屋のノートを見ると、最後に記されていたのは一月前の5月3日で、地元の山岳会のパーティーだった。 6年前の秋に自分が書いたものや、3年前の同時期に山仲間の山人さん&モコモコさんが書いたコメントがあり懐かしかったが、翌日そのお二人がこの小屋を訪れるとは、その時は知る由もなかった。 夕食の時間となったが、他に誰も小屋を訪れず、図らずも小屋は貸し切りとなった。 薄雲が最後まで取れなかったので、日本海に沈む夕陽は見られなかったが、雲の切れ目に燃えるような夕焼けの空と、新発田の町の夜景が綺麗だった。
翌朝は未明から山頂で朝焼けショーを楽しむ。 昨日は見えなかった蔵王連峰が雲海の上に浮び、北東の空が燃えるようなモルゲンロートに染まる素晴らしい朝焼けだった。 ご来光を拝んでから小屋に戻って朝食と出発の準備をする。 5時半前に杁差小屋を出発して往路を地神北峰まで戻る。 時々雲が陽射しを遮るが、まずまずの天気で足取りは軽い。 今日も残雪と新緑のコントラストが美しい二王子岳がカメラの被写体の主役だ。 大石山と頼母木小屋の鞍部のお花畑で再びハクサンイチゲの大群落を堪能する。 頼母木小屋で昨日の4人の中高年のパーティーと再会する。 昨夜は5人が小屋に泊まったとのことだった。 まだシーズン始めだったこともあり、この界隈は人出が少なかったようだ。 地神北峰で昨日登った丸森尾根を見送り、指呼の間の地神山(1849m)を経て梶川尾根が分岐する扇ノ地紙(1889m)へ向かう。 稜線から花は消えたが、周囲の山と谷は見渡す限り残雪と新緑のコントラストが美しい。 9時に扇ノ地紙に着くと、偶然にも昨日地神北峰で出会った地元の方に再会した。 昨夜は門内小屋に泊まり、これから私達と同じ梶川尾根を下るとのことだった。 門内小屋に泊まったのは3人とのことで、杁差小屋が空いていたのは、奥胎内への道路がまだ通行止めになっているからだと教えてもらった。 展望の良い扇ノ地紙からは、指呼の間の門内岳はもちろんのこと、北股岳や梅花皮岳、その鞍部の石転び沢の源頭から顔を覗かせている大日岳、そして飯豊本山までが一望された。 このまま主脈上の山々を漫歩して行きたい気持ちをこらえるのに時間が掛かったが、9時半前に再訪を誓って梶川尾根を下る。 丸森尾根と比べて上部の雪渓の傾斜はゆるやかで、アイゼンやピッケルは不要だった。 意外にも梶川尾根上部の雪渓はすぐに途切れ、広く平らな笹の尾根には池塘が見られた。 再び梶川峰(1692m)まで緩やかな雪渓となり、稜線を振り返ると石転び沢を登っている人が何人も見えた。 雪の禿げた這い松の茂る梶川峰からは次第に残雪の尾根は痩せ、雪の下の五郎清水付近からは傾斜もかなり急になった。 途中から6本爪のアイゼンを着けるが、残雪が硬くピッケルが刺さらない所もあり、補助ロープで確保しながら慎重に下る。 上空にはいつの間にか夏の雲が湧き始めていた。 湯沢峰(1021m)まで残雪が登山道を覆っていたので、付近のタムシバの木々にはまだ花が僅かにしか咲いてなかった。 湯沢峰を過ぎてブナの新緑が眩しくなってくると、ようやく足元にカタクリの群落が見られたが、8年前の6月中旬にこの尾根を下った時に見た様々な種類の花々には出会えなかった。 最後は丸森尾根と同じような痩せ尾根の急坂を一気に下り、まだ陽の高い1時半過ぎに飯豊山荘の駐車場に着いた。 飯豊山荘から車で10分ほどの国民宿舎『梅花皮荘』で入浴し、その先の『マタギの館』で手打ち蕎麦を食べてから、新潟経由で長い帰途についた。