ビスホルン(4159m)

   8月6日、ダビッドよりも早く1時半前に起床。 前夜は予想どおり緊張と興奮、おまけにニンニクのスープのせいで殆ど寝ることは出来なかったが、体調は思ったよりも良く、三回目にしてようやく高度に順応した感じで疲労感も無かった。 天気は予報よりも良くなったのか、空には月が煌々と輝き星も綺麗に見えていた。 身支度を整え、まだ暗い食堂で持参したクロワッサンとチーズを食べる。 ヴァイスホルンに登るのは私達だけだろうと思っていたが、2時に食堂に現れたのはダビッドとオーストリアのガイドのワッペンをジャケットに着けた若い二人のパーティーだった。 運良くトイレを済ませ、ヘルメットを被りハーネスを着けてテラスに出る。 間もなくダビッドが現れ「今日は暖かいのでジャケットは着なくて良い」と言うので、ジャケットを脱いでいくことにした。 

   ロープは結ばずに2時半ちょうどに山小屋を出発する。 5分ほど登り下りしながらモレーンの中の踏み跡を足早に進んでいくと氷河の末端となり、アイゼンを着けてロープを結ぶ。 後ろから追いついてきたオーストリア人のパーティーと入れ違いに先行する。 勾配が殆ど無いスプーンカット状の氷河の斜面は、ビスホルンへの登山者が大勢歩いているはずだが、踏み固められた明瞭なトレースは無くとても歩きにくかった。 ダビッドは氷河の上を登山道を歩くような感覚で飛ばしていくが、自分でも不思議なくらい息が上がらなかったので安堵する。 幅の狭いクレヴァスをいくつか跨いでいくと、間もなく想定していた明瞭なトレースに合流した。 恐らくルートを熟知しているダビッドは、ショートカットして最短のルートで進んでいるのだろう。

   明瞭なトレースに合流するとやや勾配が増してきたが、それでもブライトホルンを登っているような感じだ。 ダビッドにしては遅いペースで安堵したが、今日の制限時間の7時間から逆算すると、山小屋からの単純標高差が900mのビスホルンの山頂まで3時間以内に着かないと、ダビッドの引き返そうとする気持が強まるだろうから、ロープにテンションは絶対かけられない。 ペースはゆっくりながら(それでも充分速い)も、緊張感のある登高となり、後続のオーストリア人のパーティーを振り返ることなく、静寂の暗闇の中を足元だけに集中して黙々と登り続けた。 ありがたいことに風邪は治ったのか、喉が渇いて貼り付くような不快感はなかった。 

   大きなカーブを切り返すたびにそろそろ休憩かと期待するが、ダビッドが足を止める気配は全くなかった。 今日に限っては私から休憩をリクエストすることはタブーなので、ダビッドに任せて登り続けるしか術がなかった。 高度計を見ればどのくらい登ったのか見当がつくが、標高を見てガッカリするのが嫌なので、バテるまでは見ないことにした。 こんな登り方をするのも久しぶりだが、全てはヴァイスホルンの頂に立つためだと思うと、苦しさや辛さの中にも言葉では表現出来ない充実感があった。 マラソンにも似た感覚かもしれない。 

   時間の感覚が無くなり、頭の中はすでに空っぽになっていた。 もうどうにでもなれと開き直った時、目の前に小さな雪壁が立ちはだかり、ようやくダビッドの足が止まった。 ダビッドはロープを短くたぐり、10mほどの雪壁を一気に登ると、そこは広場のようになっていた。 ダビッドが再び足を止め後ろを振り返ったので、ようやくここで休憩かと思ったが、意外にもダビッドの口から「ビスホルン、サミット」という言葉が出たので驚いた。 時計を見ると確かに標高は4150mになっていたが、時刻はまだ4時54分だった。 自分でも信じられないが、2時間半足らずでビスホルンを一気に登ってしまったのだ。 もちろん足はかなり疲れていたが、目標にしていた3時間以内に登れたので、ヴァイスホルンへの道が開かれたようで嬉しかった。 ダビッドはさらに「ヴァイスホルンの山頂が見えますか?」と暗闇に浮かぶそのシルエットを指さし、「まだあそこは遠いですよ」と言って背中のザックを下ろそうとはしなかった。 ダビッドの思いもよらない発言に驚いたが、ここでダビッドのやる気をそいではまずいので、まだ温かさの残るショルダーベルトのコーヒーを一気に飲み、記録用の写真を一枚撮っただけで、休まずに先に進むことにした。

 

朝食のオートミール


ロープは結ばずに2時半ちょうどに山小屋を出発する


氷河の末端からオーストリア人のパーティーと入れ違いに先行する


山小屋から2時間半足らずでビスホルンの山頂に着いた


   アイゼンを着けて一旦コルまで緩やかに下り、ビスホルンへの最後の登り返しに入る。 もういくらダビッドでもここからはゆっくり登るだろうという甘い期待は裏切られ、先ほどと全く変わらないペースでグイグイと私を引っ張る。 もう彼には付き合いきれないので、テンションを掛け続けたまま一気に登り、今日二度目のビスホルンの山頂に着いた。 すでに11時を過ぎているため山頂は貸し切りだった。 ビスホルンの山頂からはヴァイスホルンがとても美しく望まれ、ツィナールロートホルンと同じくこの山の頂がヴァイスホルンの一番の展望台だということを教えてくれた。 未明の山頂と同じように、ダビッドは背中のザックを下ろそうとしなかったが、ここは私の意見を通してもらい5分ほど撮影タイムとした。 

   ビスホルンの山頂からは再び私が先頭になり、踏み固められたトレースを下り始めたが、傾斜が緩く滑落の心配がないと判断したダビッドが先頭になって足早に下る。 遥か前方を下っていた何組かのパーティーを全て追い抜き、山頂から1時間で氷河の取り付きまで下ってしまった。 取り付きで再度ダビッドと握手を交わし、お礼と労いの言葉を掛ける。 ロープが解かれ、アイゼンを外してモレーンの踏み跡を僅かに歩き、予想よりもだいぶ早い12時半前に山小屋に戻った。


北稜から見たビスホルン


北稜の岩場の取り付きから見たビスホルン


二度目のビスホルンの山頂


ビスホルンの山頂


ビスホルンの山頂から見たヴァイスホルン


踏み固められたトレースをダビッドが先頭になって足早に下る


氷河の取り付きから見たヴァイスホルン(中央奥)とビスホルン(左)


山 日 記    ・    T O P