フィンスターアールホルン(4273m)

  8月26日、am3:30起床。 高所順応のため水分を多めに取ったので夜中に2度もトイレに起きたが、熟睡は出来たので体調は万全である。 真夜中も今も空には星が見え、天気は予報どおり良さそうだ。 一方、残念ながら妻は長い帰路のことが心配なので大事をとって登らないとのことであり、私だけが登ることになってしまった。 私の判断ミスによる怪我なので、妻には申し訳ない気持ちで一杯だったが、このことが後で登頂を左右することになるとは知る由もなかった。 身支度を整え少し早めに食堂に行くと、すでにインボデン氏はテーブルにつき、「良く眠れましたか?」と相変わらず細かな気を遣ってくれた。 氏はいつも朝食をとらないとのことで少々驚いた。 am4:30には氏と共に外のテラスに出て、昨日の打ち合わせどおり地元のガイドパーティーが出発するのを待つ。 相変わらず満天の星空であり天気は申し分なかったが、生暖かい風が少し吹いているのが気掛かりだった。

  am5:00前、妻の見送りを受けて地元のガイドパーティーに続いて山小屋を出発した。 このパーティーのガイド氏とクライアントの2人は私と同じ位の年に見えた。 もう一組のガイドパーティーは少し遅れて出発するようであった。 一年ぶりにアルプスの山を登ることに対する独特の緊張感と、ルートのコンディションに対する不安感、ようやく山に登れることになった喜び、憧れの山に対する期待感が相互に入り混じった何とも言えぬ複雑な気分で山小屋の裏手のアルペンルートをヘッドランプの灯を頼りに登っていく。 外国人とはいえ3人パーティーの後なのでペースは速くもなく、まるで5人のパーティーで登っているような感じがする。 所々にケルンの積まれたアルペンルートの登りは非常に快適で、45分ほどで氷河の取り付きに着いた。 ここでアイゼンを着けてアンザイレンしたが、もう一組のガイドパーティーを待っているのか、地元のガイドパーティーはなかなか出発せず、10分以上も休憩することになった。 休憩している間に他のガイドレスのパーティーも次々に取り付きに着いた。 インボデン氏が何度も苦しそうな深い咳をしていたので、「大丈夫ですか?」と声を掛けると、意外にも顔を横に振りながら、「ノー・グッド(体調が悪い)」と屈強なガイドらしからぬナーバスな表情をあらわにした。 朝食をとらなかったのは、体調が悪かったためであろうか?。 私も過去に何度か突然体調が悪くなる経験をしたことがあるので、今はただ氏の体調が良くなることを祈るしかなかった。

  ようやく地元のガイドパーティーが腰を上げ、再び先頭で氷河を登り始めた。 まだ気温が低く雪も締まっているので、アイゼンの爪を利かせながら少し速めのペースで登っていく。 予想以上にクレバスの多い斜面を30分ほどジグザクを切って登ると、後続のパーティーのヘッドランプの灯はかなり下方になった。 間もなく夜が白み始め、フィーシャー氷河越しに山々の輪郭がはっきりと見え始めた。 これからアルプスの素晴らしい夜明けのドラマが始まるのだ。 しかしながら今日は少し薄雲が広がり、全くの快晴という感じではなかった。 氏は相変わらず登りながら苦しそうな咳をしている。

  取り付きから下部の氷河を淡々と休みなく1時間ほど登ると、氷河上を顕著な岩稜が横切り、岩が露出しているフリューシュテュクスプラッツ(朝食場/3616m)という所に着いた。 昨日インボデン氏がここから先のしばらくの区間が一番の危険地帯だと言ってた場所である。 氏は相当具合が悪いのか、私に何も説明することもなく岩の上に座り込み苦しそうな深い咳をしていたので、再び「大丈夫ですか?」と声を掛けて氏を気遣うが、細かな説明をしても私が理解出来ないことは分かっているので、頭を垂れたまま顔を横に振るだけであった。 地元のガイドパーティーのクライアントもその状況を見て、心配そうに氏に声を掛けていた。 一方、地元のガイド氏はインボデン氏と言葉を交わすことはなかったが、今度も10分ほどここでゆっくりと休憩していた。図らずも周囲の山肌が朝焼けに染まり始め、感動を味わいながら写真を撮ることが出来たが、氏の体調のことがとても心配である。 最悪の場合氏は自ら下山を決断するかもしれない。 この先のルートのコンディションよりもそのことの方が気掛かりであった。

  間もなく若者2人組のガイドパーティーと4人組のガイドパーティーが相次いで追いついてきた。 打ち合わせどおりなのか、若者2人パーティーは殆ど休憩せずに今度は先頭で登り始め、その後を4人パーティーが続き、私達“5人パーティー”はその後に続いた。 周囲が明るくなってきたのでルートの状況が良く分かる。 意外にも朝食場の先の新雪は数10cmほどで大したことはなく、先行パーティーのラッセルにも助けられて殿の私は全く快適だった。 しばらくすると先行していた4人パーティーが立ち止まっていた。 どうやらそのパーティーの一人の女性に何かアクシデントがあったらしく、一人が連れ添って下山していくところであった。 今日の状況では下山していく彼女らの姿に自分たちの姿をダブらせずにはいられなかった。

  朝食場から30分ほど登ると、先行していた若者2人パーティーが休憩していた。 その先には大規模なデブリ(雪崩の跡)が見られ、その手前でトレイルは無くなっていた。 おそらく昨日登ったというパーティーはこの先のフギザッテル(4088m)ではなく、ここで引き返したのであろう。 高度計の標高はまだ4000mに達していなかった。 これも打ち合わせどおりなのか、再び地元のガイドパーティーが先行し、私達のパーティーが小判ザメのようにぴったりと後ろから続くことになった。 先頭の地元のガイド氏が一人でラッセルを続けているためペースは必然的にゆっくりであり、爽やかな朝の山々の景色を堪能しながら所々で写真を撮る。 山小屋からは見えなかったグロース・フィーシャーホルン、ユングフラウ、アイガー、そしてアレッチホルンの山頂も見え始めた。 しばらくするとインボデン氏は自分の体調を考えてのことであろうか、地元のガイドパーティーに追従することなく、自分のペースで登っては立ち止まって休憩し、前との差が開いてくるとまた自分のペースで登るという方法に切り替えた。 「頑張れ!、頑張れ!」と心の中で氏を応援する。 叶うことなら元気な私が氏と代わってあげたいと思った。 そんな登り方を繰り返しながら次第に傾斜を増してくる雪面を登り続けていくと、ようやくフギザッテルと呼ばれる主稜線上のちょっとした鞍部が上方に見えてきた。 ザッテルは風の通り道となっているのであろうか、風が急速に強まり始めた。

  am8:10、山小屋を出発してから3時間半ほどでフギザッテルに着いた。 ザッテルからは、こことほぼ同じ高さのシュレックホルンとラウターアールホルンの頂が眼前に迫り、その荒削りで堂々とした雄姿に思わず気持ちが昂った。 稜線の向こう側には朝陽が当たっていたが、ザッテルには5mほどの風が断続的に吹いていて休憩には向かなかった。 本来であればインボデン氏から「あと1時間ほどで山頂ですよ!」と標高差200m足らずとなった右手の岩稜を見上げながら説明があるところであろうが、体調不良でまるで別人のようになってしまった氏は、真っ先にザックを下ろし、その上にしゃがみ込んだまま動かない。 再び絞り出すような苦しそうな咳を何度かした後、意外にも氏は私に「水を貰えませんか?」と言ったので、お腹の調子が悪いのなら温かい紅茶の方が良いと思いテルモスを差し出すと、何故か氏は水の方が良いというので、水筒のスポーツドリンクをあげたが、氏は水筒を忘れてしまったのであろうか?。 「具合はいかがですか?」とまるで反対の立場になったように氏に声を掛けると、先ほどよりもさらに精彩を欠いた表情で「事態は深刻です」と一言だけ呟いた。 もしこのような状況にパートナーである妻や友人がなった場合、その進退については本人に決めてもらう以前に下山を勧めるに違いないが、氏はプロのガイドであり、また医師の資格もあるということなので、私からはそれ以上の余計なことは言わずに氏の判断に委ねようと思った。

  頂上に続く痩せた岩稜には新雪がべったりと付いていて、ミックスの状態となっていた。 雪がなければアイゼンを外して快適な岩稜登攀となるのであろうが、今日のようなコンディションでしかも風が強いと、何度も登頂経験のある地元のガイド氏でもルートファインディングが大変だろう。 ここでもやはり10分ほどの長い休憩をした後、地元のガイドパーティーがミックスの岩場に取り付いた。 私達もてっきりその後に続くのかと思ったところ、インボデン氏は若者2人パーティーに先に行ってもらうようにしたので、私達が3番手となった。 後続のパーティーは、まだザッテルまで上がって来ていなかった(結局他のパーティーは全てザッテルで引き返した)。

  主稜線の岩場に取り付くと、下から吹き上げてくるような風は一段と強まり、時折10m以上の突風が吹くこともあった。 地元のガイド氏が試行錯誤しながら脆い雪面にルート工作を施して、2人のクライアントとはスタカットで登り、若者2人パーティーと私達がその後をスピーディーにコンティニュアスで続く。 インボデン氏は余裕が無いのか、私を信頼しているのか、一度たりとも後方を振り返ることはなかった。 私もこれに応えるべく全神経を遣い、絶対にザイルにテンションをかけないように努めた。 長い時には10分近くも風の寒さに震えながら待たされることもあり、僅か200m足らずの登攀は遅々として捗らない。 立っているだけが精一杯の痩せた岩稜なので、ザックに入った薄手のダウンを着ることも出来ず、オーバー手袋をしている指先も冷たくなってくる。 待っている間は常に深呼吸を行って血中酸素濃度を増やし、体内から冷えきった体を暖める努力をした。 私がこんな状態であるから、衰弱している氏はもっと大変に違いない。 ここは氏と共に頑張るしかない。 憧れの頂はもうすぐそこだ。 地元のガイド氏のルート工作に痺れを切らした若者2人パーティーが尾根上にルートを求めて途中から別れたが、風の強さもあって途中で行き詰まってしまい、再び私達の後について登ることになった。 ザッテルから山頂までは1時間もあれば充分だと思っていたが、もうすでに1時間半以上が経過していた。 足下には登頂を諦めてザッテルから下っていくパーティーの姿が見える。

  不意に地元のガイド氏がインボデン氏に何やら大声で叫んだ。 ドイツ語であったが、その状況から話の内容はすぐに汲み取れた。 氏はあらためて私に「あと僅か30mほどで山頂ですが、山頂付近の雪の付き方が非常に危険で、ここから上へは登れません。 大変残念ですが、今日はこの地点を山頂とします」と丁寧に説明してくれた。 いつもであれば冷静さを失うところであるが、今回の登山については大雪のため日本を出発する前から困難が予想され、かつ、こちらに来てからの悪天候、ガイドの手配ミス、下山ルートの相違、ルートのコンディションの不明瞭さ、昨日の妻の怪我、そして今日の氏の突然の体調不良と色々な出来事があり過ぎたので、すでに心の準備は出来ていた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ユー・アー・グッ・ガイド!、ここまで良く頑張った!!」。 私の山頂に対する強い憧れを何とか叶えようと、体を張ってここまで導いてくれた氏と力強く握手を交わし、肩を叩き合って感謝の気持ちを伝えた。 今日の山頂には360度の展望も十字架もなかったが、今の私にとってそれらは全く不要であった。 なぜならそこはどんなに優れたカメラでも写すことの出来ない心の頂だったからである。 氏にとっても忘れることの出来ない頂となったに違いない。 am9:50、私は憧れのフィンスターアールホルンの山頂に辿り着いた。 ベルナー・オーバーラント山群の最高峰の頂からはユングフラウ、メンヒ、アイガーの三山はもちろんのこと、グロース・フィーシャーホルン、ヒンター・フィーシャーホルン、グロース・グリュンホルン、シュレックホルン、ラウターアールホルン、アレッチホルンの全ての4000m峰が見渡せ、東の方角には当初下山ルートとして予定していたオーバーアール湖とグリムゼル湖が並んで見えた。 それとは反対に山深さのゆえ、麓の町や人工物は一切見えない。 唯一残念だったのは足下から流れ出すフィンスターアール氷河がアレッチ氷河以上に痩せ細り、黒ずんでいたことだった。 すでに眼下となったシュレックホルンを背景にしてインボデン氏に記念写真を撮ってもらい、僅か数分で二度と訪れることは叶わないであろう想い出の頂を後にした。

  体調の悪いインボデン氏を気遣い、後方にいた若者2人パーティーが先を譲ってくれた。 後ろから氏に確保はされているが、氏への負担をかけないように先ほど同様全神経を集中させ、単独行のつもりで慎重かつスピーディーに痩せ尾根を一目散に下る。 結局私達を含む3パーティー以外は全てフギザッテルから引き返し、後から登ってくるパーティーは無かった。 僅か30分ほどでフギザッテルに到着し、再び氏にスポーツドリンクを飲ませると、先ほどよりも幾分体調が良くなったようであった。 相変わらず風の収まらないザッテルで10分ほど行動食を食べながら休憩し、ようやく下ってきた若者2人パーティーと入れ替わりにザッテルを出発した。

  フギザッテルまで登って引き返した後続のパーティーによって明瞭に刻まれたトレイルを、私が先頭になって駆け降りるように下る。 高度を下げることが氏にとって一番の薬だからだ。 あっと言う間にフリューシュテュクスプラッツ(朝食場)を通過し、さらに柔らかくなった雪面を休まずに下り続け、フギザッテルから僅か1時間10分でアルペンルートの取り付きまで下った。 足首を痛めているため、取り付きに妻の姿はなかった。 ここは山小屋よりも開放感があり、山々の展望が良いため、先に下山した何組かのパーティーが思い思いに寛いでいた。 そのうちの一人から「頂上まで行かれたんですか?」と訊ねられたので、「そうです!、この素晴らしいガイドさんに連れていってもらいました!」と誇らしげに答えた。 「コングラチュレーションズ!」。 「サンキュー!」。 このやり取りを聞いて、曇りがちだったインボデン氏の表情が少し明るくなったことを肌で感じた。

  取り付きからはフィーシャー氷河越しに見たグロース・グリュンホルンがとても立派に見えた。 4000m峰であるが周囲を高峰に囲まれているため、グリンデルワルトからはもちろん、ユングフラウヨッホからもバッハアルプゼーからも見ることが出来ない奥ゆかしい山だ。 今日これから登り返すグリュンホルンリュッケが目線の高さに見える。 アイゼンを外して、ザイルが解かれた。 ザイルを束ねているインボデン氏を待たずに妻の待つ山小屋へと下る。 山小屋から取り付きまでのアルペンルートは、良く踏まれた明瞭なトレイルであることが分かった。


出発前にヒュッテのテラスでインボデン氏と


フリューシュテュクスプラッツ(朝食場)から見た朝焼けの空


フリューシュテュクスプラッツ(朝食場)から見たフィンスターアールホルンの山頂


フリューシュテュクスプラッツ(朝食場)からフギザッテルへ


フギザッテルへの登りから見たグロース・グリュンホルン(左)とグロース・フィーシャーホルン(右)


フギザッテルから辿ってきたルートを見下ろす(右下に後続のパーティー)


フギザッテルから頂上に続く痩せた岩稜


山頂への登りから見たフギザッテル(左下に後続のパーティー)


強風のため山頂への登攀は遅々として捗らない


山頂への登りから見たシュレックホルン


山頂への登りから見たユングフラウ(中央左)とメンヒ(右)


山頂への登りから見たアレッチホルン(中央奥)


フィンスターアールホルンの頂稜部


山頂直下の最終到達地点


今日のフィンスターアールホルンの山頂


山頂からはフィンスターアール氷河の先にオーバーアール湖とグリムゼル湖が並んで見えた


フリューシュテュクスプラッツ(朝食場)から見たフィンスターアールホルンの山頂


フリューシュテュクスプラッツ(朝食場)から見たフィーシャー氷河


フィンスターアールホルンヒュッテ付近から見たグロース・グリュンホルン


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