憧れのヨーロッパアルプス 7

  【アルプスの3大北壁】
   私が初めてグランド・ジョラスという山の存在(名前)を知ったのは、おそらく山に関する何かの書物で“アルプスの3大北壁”(マッターホルン・アイガー・グランド・ジョラス)についての記述を読んだ時だろう。 その時はただ漠然と険しい山をイメージしただけだったが、グランド・ジョラスという名前の響きがとても新鮮だったことだけが僅かに頭の片隅に残っていた。 当時の私はアルプスの山についての知識が乏しく、その山がどこにあり、どんな容姿をしているのかということさえ知らず、また気に留めることもなかった。 数年の時を経て再びこの山と巡り会ったのは、ヨーロッパアルプスの山に登ろうと思い立ち、今では愛読書となっている『アルプス4000峰登山ガイド』のページをめくった時だった。 そして初めてアルプスの山を訪れた2000年の夏から2年後にモン・ブランを登る計画をした時に、麓のシャモニの町からアクセス出来る同峰に目が止まり、登山対象の山として同峰を意識することになった。 しかしながら当時はインターネットの環境が無く、この山の一般ルートの登山の情報については同ガイドブック以外では適当なものが見当たらなかった。

   2002年の夏に初めてシャモニを訪れた時は、グランド・ジョラスの北壁を3回(そのうちの1回は僅か1日で)登ったことがあるガイドのダビット氏と2週間の山行を共にしたが、ルートのコンディションが悪く、結局滞在中に同峰に登ることは出来なかった。 登山の合間に行ったモン・ブラン山群の山々を映し出す山上の湖で有名なラック・ブランへのハイキングで、メール・ド・グラス(氷河)の最奥にストイックな面持ちで屹立するグランド・ジョラスの北壁を初めて自分の目で捉えることが出来たが、この時は不覚にも眼前に聳え立つエギーユ・ヴェルトの雄姿に一目惚れしてしまった懐かしい想い出がある。 難攻不落のドリュ(3754m)の大岩峰をその懐に従え、緑濃い森の上に悠然と鎮座するエギーユ・ヴェルト(4122m)の純白の頂はとても魅力的で、登攀の難易度はかなり高いことは知りつつも、いつの日かその頂に立ちたいと願わずにはいられなかった。 そしてこの時からこの山を私のアルプス登山の最終目標にしようと心に誓った。 意外にもガイドブックに記されている難易度の標記とは違い、エージェントの神田さんは「ジョラスは結構難しいので、ジョラスに登れたらヴェルトにも登れると思いますよ」とアドバイスしてくれたことは記憶に新しい。 登頂の可能性が僅かにでも出てきたことで、グランド・ジョラスと共にエギーユ・ヴェルトへの憧れはますます強まっていった。

   翌年の2003年の夏にマッターホルンに続き運良くアイガーの頂にも1回のチャンスで登ることが叶った私は、一つの遊び心で目標にしていた“アルプスの3大北壁”を擁する山のフィナーレを飾るべく、昨年グランド・ジョラスを目指してシャモニを再訪したが、直前に降った未曾有の大雪のためB.Cの山小屋(ボカラッテ小屋)が小屋じまいするという珍事に見舞われ、再びスタートラインに立つことが出来なかった。 “アルプスの3大北壁”なる安易な発想は自然界では通用せず、当初マッターホルンやアイガーに比べて易しいと思い込んでいたグランド・ジョラスの頂はますます遠ざかっていった。

   ところで今年で7年連続となる私(達)のアルプス詣は、すでにライフワークの一部にもなってしまった感がするが、昨年の登山計画が大雪の影響で全て実行されなかったため、今年はその計画を殆ど修正することなしに実行することにした。 即ち、シャモニをB.Cとして第一目標のグランド・ジョラスを筆頭に、エギーユ・ヴェルト(下見を含む)、昨年ガイドのジジ氏も“とても美しい山”と絶賛していたグラン・コンバン(4314m)、ジョラスやヴェルトと同様2002年の夏に初めてその雄姿を拝んだエクラン山群の名峰ラ・メイジュ(3983m)、そして昨年登頂直前で涙を飲んだリスカム(4527m)を加えた5座をシャモニのガイドと登るという計画だ。 もちろん過去の経験から、よほど運(天気)が続かない限りこの5座を全て登ることは不可能だろう。 だが可能な限り最大限のふろしきを広げて臨むのが自分のスタイルなので、今回も欲張って目一杯の計画とした。 但し、ガイドの手配については神田さんからのアドバイスもあり、最初のグランド・ジョラスのみ予備日を1日設けて3日間ガイドを拘束し、その後のガイドの手配については天気と相談しながらその都度決めるということにした。 尚、今シーズンのガイド拘束料は一日265ユーロ(邦貨で約39,800円)とのことだった。 この計画を実行するため、シャモニでの滞在日を8月18日〜9月2日(現地日付)の実質16日間とし、航空券についてはH.I.Sに依頼したが、ユーロの値上がり(出発時のレートは@150円)により滞在費用も嵩むようになったので、今年はホテルでの宿泊をやめて短期契約のアパートを試してみることにした。 早速シャモニの神田さんの事務所(A.P.J)に照会したところ、希望(予算)に合った物件を探していただけるとのことで、バスタブ・冷蔵庫・テレビのある部屋で@10,000円以下の物件の手配をお願いすることにした。 航空券はマレーシア航空の安いチケット(@121,000円)が手に入ったが、年初からの原油の高騰による燃料代のチャージが@30,000円も掛かった。 アパート探しは1か月ほど時間が掛かったが、@51ユーロ(邦貨で約7,650円)という安価で希望どおりの物件が見つかった。 初めて利用するアパートは色々と不安な面があったが、結果的には全ての面でホテルよりも快適だった。

   GW明けの週末は悪天候続きで、事前の“訓練山行”はままならなかったものの、ここ数年アルプスに通っている経験から体力面では心配ないと思ったが、これは大変なおごりであったことを本番で思い知らされることになった。 7月からアルプスでガイドとして活躍されている近藤謙司さんと江本悠滋さんが、日々の活動の様子や山や天気の状況をブログを通じてタイムリーに発信していることがとても参考になり、インターネットの有り難みを痛感した。 また昨年ネットで知り合った若松さんというフランス在住の友人ともシャモニで再会する約束を交わし、日本を発つ日にガイドの江本さんから「お互いの時間が合えば、シャモニでお会いしましょう」との嬉しいメールも届いた。 今回のアルプス山行は、山だけではなく色々な方との出会いが待っていそうな予感がした。

  【3度目のシャモニ】
   2006年8月17日の早朝、今回も私をサポートしてくれる頼もしい相棒の妻と共に成田空港へ向かう。 毎度のことだが、淋しがりやの私には一人旅は似合わない。 事前に起きた爆弾テロの未遂事件で、空港の警備や荷物の検査が厳しいことが予想されたが、いつもとさほど変わらなかったので助かった。 ただ原油の値上がりにより、荷物の重量は今まで以上に厳しくチェックしているようだった。 出国時は自宅の体重計を使って計測出来るが、お土産で重くなる帰国時はいつもこれが悩みの種だ。

   今回で2回目の利用となるマレーシア航空の便はam10:30に定刻どおり成田を出発。 乗り継ぎのクアラルンプールまでは所要7時間、時差は1時間だ。 クアラルンプールでのトランジットは7時間半もあるが、ロビーにはリクライニングチェアもあり、昨年のモスクワ空港に比べたら遙かに快適だ。 クアラルンプールから13時間半の長旅で翌朝のam6:30にチューリッヒのクローテン空港に到着。 こちらもテロの影響は無く、いつものように入国手続きはスムースだった。 別棟の地下にある列車のホームへと急いだが、予定していたジュネーブ行きの特急列車は車両故障のため20分ほど遅れて到着した。 途中の乗換駅のローザンヌでは接続の時間が殆ど無いので、この段階でシャモニへの到着が1時間近く遅れることになってしまった。 さらにこの列車は途中のベルンで運転が打ち切られ、同駅から各駅停車の鈍行に乗り換えることとなり、のっけからつまずいてしまったが、この列車の遅れが原因で意外な出来事が待っているとは知る由もなかった。

   ローザンヌで運良く同じホームに待機していたブリーク方面行きの列車に飛び乗り、マルティーニで下車してシャモニ行きの登山電車を待つ。 いつも利用する構内のパン屋に昼食のサンドイッチを買いに入ると、突然後ろから日本語で声が掛かった。 驚いたことに何と声の主はガイドの増井行照さんであった。 増井さんとは5年前にツェルマットで初めてお会いし、マッターホルン登山のアドバイスをしていただいたが、帰国後すぐに今度は北アルプスの山中で偶然再会するというご縁があった。 今回のグランド・ジョラス登山についてもその後増井さんから手紙でアドバイスをいただいていたが、まさか増井さんとの偶然の再会がこんな所であるとは夢にも思わなかった。 今年もツェルマットでマッターホルンのガイドをされていた増井さんが何故ここにいるのか訊ねたところ、8月に入ってからツェルマット周辺は度重なる降雪でマッターホルンは全く登れない状況になってしまい、お客さん(秋里さん)とグリンデルワルトへ観光に行くつもりでいたが、今朝の天気予報を見てグリンデルワルト行きも急遽取り止め、少しでも天気が良さそうなシャモニに行き先を変更したとのことだった。 お互いに計画通りであれば、この偶然の再会はなかったので、私達のみならず増井さんも大変驚いていた。 シャモニまでの車中では増井さんや秋里さんと山談義に花を咲かせたことは言うまでもない。 国境の駅で登山電車を乗り換え、シャモニの谷へ下っていくと、不意に青空の下にドリュを従えたエギーユ・ヴェルトが姿を現し、皆一様に窓から身を乗り出して写真を撮った。 私にとっては憧れの山が見えたことが、またお二人にとっては久々の青空と山がとても嬉しかったようだ。 秋里さんは大きな一眼レフのカメラで、増井さんも写真にはかなり造詣が深いようだった。

   結局、予定より1時間近く遅れてpm1:00過ぎにシャモニへ到着。 お二人はまだホテルが決まってないので、これから探しに行かれるとのことだった。 せっかくの機会なので再度お二人と待ち合わせ、夕食をご一緒させていただくことにした。 日本でレンタルした携帯でA.P.Jの事務所に電話を入れると、数分後にスタッフの岡村(貴)さんが駅まで迎えにきてくれた。 早速宿泊するアパートに案内してもらったが、意外にもアパートは駅から僅か1分足らずのメインストリート沿いにあり、その立地条件の良さに驚いた。 3階の部屋に案内してもらうと、室内も想像していた以上に広く、収納式のシングルベッドが2つ、4人掛けのテーブルと椅子にソファーが2つ、備付けの大きなクローゼットと背の低い収納家具も使い勝手が良さそうだった。 また、電気調理器・冷蔵庫・オーブンが備えつけられた台所には食器や鍋・フライパン等の調理器具が豊富にあり、大きなバスタブ付のお風呂も希望どおりだった。 南向きの窓からはモン・ブランやシャモニ針峰群が良く見え、この条件でホテルの約半額で泊まれるのはとても割安な感じがした。 ただ、テレビのアンテナがなく、画面が綺麗に映らないのは、いかにもフランスといった感じだった。 お茶を飲みながら岡村さんとしばらく歓談すると、この物件(部屋)はリゾートマンションの一室で、この物件のオーナーは自分が使わない時期は不動産屋を介して他人に貸しているとのことだった。 シャモニでは夏よりも冬のスキーシーズンの方が盛況で、夏は比較的このようなアパートが空いているようだった。 意外にも岡村さんは夏の期間だけアルバイトで、一緒に働いている妹さんと二人で神田さんの家に居候されているとのことだった。 岡村さんから明日のpm6:00にここで神田さんとガイド氏を交えてグランド・ジョラスのミーティングをすることを伝えられた。

   荷物の整理を終えてから友人の若松さんに電話を入れ、アパートの所在地を伝えて一週間後の土曜日にこちらで会う約束の再確認をした。 若松さんは私達と会うためわざわざシャモニに2泊された後、フランスの友人とツェルマットまでのオート・ルートの縦走を計画されているとのことだった。 つい先日も長期に亘ってエクランやヴァノワーズの山々を踏破されたばかりで、そのバイタリティには本当に脱帽だ。 アパートから最寄りのスーパーの『カジノ』までは歩いて1分ほどでとても便利だった。 いつものようにミネラルウォーター・ジュース・野菜・牛乳・卵・ハム・チーズ・スパゲティ・缶詰・その他の食料品、そして今回は来客用のビールも買った。

   約束したpm7:00に増井さん達と『スネルスポーツ』で落ち合い、増井さんがシャモニに来た時は必ず行かれるという『アトムスフェアー』というアルブ川沿いのレストランに入った。 待ち合わせの時間まで、増井さんはスネルスポーツで神田さんと情報交換しながら、明日の帰国のためのジュネーブまでの車の送迎の依頼と商売道具の登攀具の買い物をし、秋里さんはブレヴァンの展望台でモン・ブランや針峰群の写真を撮っていたとのことだった。 お店にはちょうど4種類のディナーメニューがあったので、一つずつ注文して皆で取り分けることにした。 秋里さんは山男らしく酒豪だったが、意外にも増井さんは私と同じようにアルコールは苦手な方だった。 いつもであれば初日の夕食は自炊で簡単に済ませるところを、のっけから美味しいフランス料理に舌鼓を打つことになり、妻はとても満足そうだった。 増井さんは大変グルメで、ツェルマットでも夕食はいつも美味しい店で楽しまれていたとのことだった。 食事中にあらためて増井さんの山やガイドの経歴等を伺うと、意外にも40歳過ぎまで普通のサラリーマンをされ、地元の山岳会の会員にホームゲレンデの御在所の岩場で長年クライミングの指導をされ、今のガイド業はその延長線上にあるとのことだった。 秋里さんもベテランの山ヤさんで、皆で山談義をしているとあっと言う間に時間は過ぎていった。 注文した白ワインが1本空いたところでレストランを出て、3年前に滞在したホテル『クロワブランシュ』のテラスのカフェで酔い醒ましのカフェオーレを飲み、私達のアパートにお二人を招いてさらに歓談してから解散した。


登山電車の車窓から見たレマン湖とダン・デュ・ミディ(オート・シーム)


登山電車の車窓から見たドリュ(右の岩塔)を従えたエギーユ・ヴェルト


登山電車の車窓から見たシャルドネ


登山電車の車窓から見たシャモニ針峰群


登山電車の車窓から見たドリュ(中央右)とエギーユ・ヴェルト(中央左)


シャモニで滞在したアパート


アパートの部屋


アパートの部屋


ガイドの増井さん(中央)


増井さんらと夕食を共にする


   8月19日、am7:30起床。 山々には雲が湧き、モン・ブランやエギーユ・デュ・ミディは見えないが、シャモニ針峰群は辛うじて雲の合間から見える。 今日から私の朝の日課となるパン屋への朝食の買い出しとガイド組合(シャモニ山の家)へ天気予報を見に行く。 山の家の入口に貼り出されているインターネットのシャモニ地域の天気予報によると、今日と明日は曇りだが、グランド・ジョラスのアタック予定日の明後日からはしばらく好天が続くようだった。 町中にはパン屋がいくつかあり、どこで買おうか迷ったが、山の家の近くに行列が出来ている店が目にとまり、滞在期間中はずっとその店で買い続けることになった。 さすがにパンが主食の国なのでその種類はとても豊富で、長さや形の違うフランスパンが10種類以上あったが、殆どの人は80センチほどの一番細長いフランスパン(1ユーロ)を買っていた。 今日は少し割高だが、その半分ほどの長さで値段がほぼ同じ少し高級そうなフランスパンとクロワッサンを試すことにした。 メインストリートの脇の通りでは、毎週土曜日だけに催される朝市の準備が進められていて、業者が車の荷台やテントに所狭しとチーズや惣菜、魚介類等の生鮮食料品を並べていた。 アパートに帰ると妻が朝食の準備をしていたので、ちょうど良い朝の散歩となった。

   今日は明日からの登山に向けての高所順応と雪上訓練をするため、費用は高いが一番効率的なエギーユ・デュ・ミディの展望台に行く。 昼前に町外れのロープウェイ乗り場に着いたが、天気がすぐれないためか観光客の姿はまばらだった。 ミディの展望台までのロープウェイの往復料金は昨年より1ユーロ値上がりして@36ユーロ(邦貨で約5,400円)だった。 車窓からはブレヴァン方面からの沢山のカラフルなパラグライダーが空を舞っているのが見えた。 「今年もまた山(グランド・ジョラス)に登れなかったら、今度こそあれをやろう」と妻に提案する。 予想どおり中間駅のプラン・ドゥ・レギーユを過ぎると雲や霧で視界は悪くなり、間近に迫るシャモニ針峰群がとても寒々しく感じた。

   ミディの駅舎で身支度を整えて外の展望台に出てみると、依然として視界が悪くまた風も強かった。 ヴァレー・ブランシュは人気のルートなので人影は見えるものの、ナイフエッジの雪稜のコンディションは悪そうで、登下降共に難儀しているように見えた。 ヴァレー・ブランシュでの雪上訓練はしばらく様子を見ることにして、天候が回復するまで展望台までの階段の登り下りをすることにした。 階段は数えてみると102段で、高度計での標高差は25mだった。 寒々しい天候のため観光客は皆無で、わざわざこんなバカなことをする変人はいないと思ったが、一人の外国人の同志がいたのが嬉しかった。 ゆっくりだが休まずに展望台まで10回ほど階段を往復すると、少し青空が覗くようになり、また風も収まってきたので、満を持してヴァレー・ブランシュへ下ることにした。 鉄柵を乗り越えて雪上でアンザイレンし、新調した登山靴と10本爪のアイゼンを初めて試す妻を先頭に明瞭なトレイルをコンティニュアスで慎重に下る。 視界が利かなくなることを想定し、要所要所で足を止めて後ろを振り返る。 途中一か所だけ足場の脆い急斜面があり、確保し合いながら最初の平坦地まで下りる。 幸いにも天気は悪化せず、展望台が見えなくなることはなかった。 まだ下から登ってくるパーティーも見えたので、シャモニ針峰群への縦走路の分岐の手前まで下り、展望台から標高差で150m位の所で登り返すことにした。 天気には恵まれなかったが適度な緊張感もあり、結果的には訓練にはちょうど良かった。 ミディの駅舎で装備を解き、行動食を食べながら更に1時間ほど粘って肺を拡げ、pm5:00にロープウェイでシャモニへ下った。

   アパートに帰ると間もなく、神田さんがアパートを訪ねてきた。 神田さんは開口一番「初めて来たけど、良い部屋だね!」と私達同様に驚いていた。 間もなくガイド氏も車でやってきた。 神田さんが「彼の名前はクリストフ、ガイド歴は13年で今一番脂が乗ってるとても良いガイドだよ」と太鼓判を押しながら紹介してくれ、早速こちらも自己紹介しながらガイドのクリストフ・ブグ氏と握手を交わしたが、神田さんの紹介とは裏腹に私達より少し若く(後で聞くと39歳だった)思えた氏のお腹の周りもだいぶ脂が乗っているように見えた。 私のアルプスの山に対する情熱を氏に伝えるため、日本で用意したアルプスの20余峰の“登頂リスト”を見せた。 お二人にビールを勧めながら、あらためて神田さんにグランド・ジョラスを始め今シーズン私達が希望している山々の現在のコンディションを訊ねると、ジョラスは神田さんの知る限りでは7月に2〜3人の日本人がノーマルルートで登頂しているが、8月に入ってからは天候不順で入山者が少なくコンディションは不明で、予想どおりエギーユ・ヴェルトは核心部のウインパー・クーロワールの雪が痩せ、今シーズンは絶望的とのことだった。 逆にシャモニ周辺で現在登れるのは、岩山ではダン・ジュ・ジェアン・クルト(隣のレ・ドロワットも可能かもしれない)・プチ・ヴェルト、雪山ではリスカムとエギーユ・ド・ビオナセイとのことだった。 また、当初ジョラスはガイドと1対2で登れると思っていたが、1対1でないと駄目ということが分かった。 神田さんから明日も天気はあまり良くないので、明日からの登山日程を1日ずらした方が良いというアドバイスがあり、再び明日のpm6:00にスネルスポーツで氏を交えて最終的なミーティングをすることになった。 神田さんらを見送り、夕食を自炊して食べてから若松さんに電話を入れ、ジョラスの登山日程は1日ずれたが、何とかスタートラインに立つことが出来たことを報告した。


フランス山岳会の事務所


山の家(ガイド組合)の近くにあるパン屋


長さや形の違うフランスパン


メインストリートの脇の通りで毎週土曜日だけ開催される朝市


高所順応のためエギーユ・デュ・ミディの展望台で階段を登り下りする


雪上訓練のためヴァレー・ブランシュへのナイフエッジの雪稜を下る


ヴァレー・ブランシュへの雪稜から見たエギーユ・デュ・ミディ


神田さんとガイドのクリストフ氏


   8月20日、am7:30起床。 前夜から降り始めた雨は止まず、山の家(ガイド組合)には寄らずにパン屋へ行く。 予報以上に悪い天気に絶望し、早々に今日はハイキングに行かないことに決めた。 昨日に続いて優雅に朝食を食べる。 こういう時の我が家はなかなか快適で、今回のアパート滞在は正解だった。 間もなく雨が止むと、急速に青空が広がり始めたが、モン・ブランの山頂は見えなかった。 新雪に輝くグーテ稜はとても綺麗だが、登山には障害となるだろう。 シャモニに滞在しているガイドの江本さんの携帯に電話を入れてみたが、不在なのか繋がらなかった。 町の散策に出掛けると再び雨が降り始めたが、変わりやすい天気で30分ほどで止んでしまった。

   昼食前に今回も大変お世話になっているA.P.Jの事務所を訪ねる。 運良く多忙な美智子さんが事務所におられ、3年ぶりの嬉しい再会となった。 玄関先でお土産を渡して失礼するつもりが、コーヒーを御馳走になりながらついつい長居をしてしまった。 美智子さんの話では、4〜5年前に比べてシャモニを訪れる日本人観光客は激減したが、これは今の日本が不況ということではなく、団体ツアーが少なくなったからのようだった。 シャモニ周辺で一般の登山者が登れる山はモン・ブランしかなく、他はクライミングの愛好家が訪れるだけなので、ブームが去れば一般大衆が押し寄せないのは自然の成り行きとのことだった。 意外にもシャモニを訪れる観光客(スキー客)はイギリス人が多く、彼らは単に本国から近いという理由からではなく、シャモニの町の雰囲気が好きなのだそうだ。 今回の爆弾テロ未遂事件では、英国航空が直後に発表した機内持込品の規制を知らない大半の観光客がロンドンのヒースロー空港で携帯・カメラ・登山用品等を没収され、当社もその対応に追われる日々がしばらく続いたとのことだった。 グランド・ジョラスは7年ほど前に頂上付近のセラックが崩壊し、登山者が7〜8名亡くなって以来、再発の危険性があるため登山者が減っているとのこと。 ガイドの増井さんもセラックの落氷の危険性について指摘していたが、一般ルートでこれほど大きな事故があったとは知らなかった。

   忙しい時間を割いて私達の暇つぶしに付き合ってくれた美智子さんに感謝してA.P.Jの事務所を出る。 今まで気が付かなかったが、スネルスポーツの近くに大きな書店があり、山岳書専門のコーナーには驚くほど沢山の山の写真集やガイドブックや地図が揃っていた。 どれも興味をそそられる内容のものばかりで、写真の多い高価なエクラン山群のガイドブックなどを買ってしまった。 アパートで昼食を食べ、教会で明日からの登山の成功を神に祈った。 山の家に天気予報の確認に行くと、山小屋へのアプローチとなる明日はまずまずの天気で、アタック日の明後日とその翌日の予備日は共に快晴となっていた。

   約束のpm6:00前にスネルスポーツへ行き、明日からの登山に備えて山岳保険(@58ユーロで2か月有効)の申し込みをする。 間もなくクリストフ氏が現れたが、なぜか氏は浮かない顔つきで、昨日せっかく登頂リストを見せたのに、ユングフラウやグラン・パラディゾ等の山に変更することを神田さんを通じて提案していた。 やはりルートのコンディションが良くないので氏は慎重になっているのだろう。 逆に私からルートのコンディションを神田さんを通じて氏に訊ねると、最近入山者が全くいないので何とも言えないとのことだった。 しばらく神田さんと氏との間でやり取りが続いたが、最後は私の熱意に負けた神田さんが氏を説得し、予定どおりグランド・ジョラスに行くことになった。 明日のam9:30にここで待ち合わせることにして打ち合わせは終了した。

   モン・ブランの山頂も見えるようになり、天気の回復の兆しが見えてきたので足取りは軽い。 食料品を『スーパーU』で買ってからアパートに戻る。 ガイドの江本さんの携帯に電話を入れると、今日はシャモニの天気が悪かったのでイタリア方面でクライミングのガイドをしていたとのことで、明日以降でお互いにスケジュールが空いた時に会いしましょうと提案してくれた。 夕食後は若松さんからわざわざ電話があり、グランド・ジョラスの登頂の成功を祈念された。


アパートのベランダから見たシャモニ針峰群


山の家(ガイド組合)


教会で明日からの登山の成功を神に祈る


  【グランド・ジョラス】
   8月21日、am7:30起床。 シャモニに来てから初めての快晴の天気だ。 抜けるような爽やかな青空を背景にモン・ブランとエギ−ユ・デュ・ミディの頂が朝日に照らされて輝いている。 朝食を遅めに食べてam9:00過ぎにサポート役の妻と共にスネルスポーツへ向かう。 途中、念のため山の家に天気予報の確認に行くと、明日・明後日共に晴れの予報に変わりなく安堵する。 神田さんにからボカラッテ小屋に宿泊の予約の電話を入れてもらい、予定どおりam9:30にクリストフ氏の車でシャモニを出発する。 日曜日だったが、午前中の早い時間帯のせいかモン・ブラン・トンネルの渋滞は全くなかった。 トンネルを抜け、イタリア側のアントレーヴの村から僅かに山道を辿ると、シャモニから30分ほどで登山口のプランパンシュー(1595m)のキャンプ場に着いた。 駐車場の周囲にはロッジやレストランがあり、人出は多く車も数十台停まっていた。 今回はルートのコンディション次第では登れないかもしれないので、せめてグランド・ジョラスの雄姿を麓から写真に収めたかったが、生憎昨日までの雨が雲を呼び、その願いは叶えられなかった。

   am10:15に駐車場を出発。 すぐに『ボカラッテ小屋まで3時間30分』という真新しい標識が目にとまったが、その後は山小屋まで標識は一切なかった。 ガイドブックに記されているように、小さな教会の脇を通ると樹林帯の中のハイキングトレイルは徐々に勾配を増した。 5mほどの高さの樅の木が点在するようになると、山々を覆っていた雲は次第に消え、雪を身に纏った岩峰が見えてきた。 念のためクリストフ氏に山の名前を訊ねてみると、紛れもなく昨年登ったエギーユ・ド・ロシュフォールとその隣接峰のドーム・ド・ロシュフォールだった。 間もなく森林限界となったが、山肌の草原には可憐な高山植物はあまり見られず、唯一ヤナギランがそこら中に群生し、バッタのような虫の音がうるさいほど響いていた。 氏がブルーベリーの木を教えてくれ、皆で摘み取って食べたが、あまり美味いとは思わなかった。

   登山口からちょうど1時間登ったところで、氷河から流れ出す沢を見下ろす広場のような所で休憩となった。 登山口から400m以上の標高差を稼ぎ、麓のキャンプ場はすでに眼下に見えた。 この辺りからトレイルは少々険しくなり、氷河の舌端を見上げながら大小の岩屑の中を通るアルペンルートとなった。 相変わらずグランド・ジョラスの頂は望めなが、雲が夏の陽射しを遮ってくれるお陰でアプローチの登高にはちょうど良い。 時々陽が射して青空が覗くと、目上の寒々しい景色は一変し、岩と氷河の織りなす素晴らしい景観が蘇る。 時々ポツリポツリと上から下ってくる人がいるが、皆一様に軽装のハイカーで、登山者らしき人はいなかった。 固定ロープがある急斜面の岩場を登りきると、プランパンシュー氷河を見下ろす崖の上にへばりつくように建っているボカラッテ小屋(2804m)に着いた。 クリストフ氏のペースは決して速くはなかったが、まともな休憩を1回しか取らなかったので、駐車場から僅か3時間足らずだった。 猫の額ほどの狭いテラスからはフェレの谷を挟んで対峙する3000m級の緑の山並みの向こうに、真っ白なグラン・パラディゾ(4061m)が遠望された。

   山小屋を切り盛りしている若夫婦は、ご主人がアメリカ人で奥さんがイタリア人ということだったが、お二人共とても優しく親切な方で、珍客である私達を歓迎してくれた。 奥さんは日本の文化に興味があるようで、京都に来たことがあるとのことだった。 こぢんまりとした山小屋はアイガーのミッテルレギヒュッテよりも更に一回り小さく、食堂には簡素なテーブルセットが3組置かれ、隣合わせの寝室は蚕棚の3段ベッドで20人寝れば一杯だった。 先客のハイカーが一人いたが、間もなく下山していったので、山小屋には私達だけとなった。 宿泊の手続きはクリストフ氏がしてくれたので、スープとパスタ(ペンネ)を注文してお腹を満たす。 意外にも今シーズンは7月を中心に多くの日本人がこの山小屋を訪れたようで、宿帳には8名もの名前が記されていた。 いつものように私達の足跡を宿帳に残したことは言うまでもない。

   昼食後はクリストフ氏の提案で明日の登攀ルートの下見に行くことになった。 明日に備え高度計の数字を山小屋の標高に合わせる。 妻も同行を許されたので一緒に登ることにする。 山小屋の裏手の岩場をひと登りすると、所々に小さなケルンが積まれた岩屑のアルペンルートとなったが、間もなくトレイルは新雪で埋もり、膝ぐらいまで雪にもぐるようになった。 幸い天気は尻上がりに良くなり、眼前にはロシュフォールの岩峰群が圧倒的な迫力で望まれた。 氏を先頭に新雪をラッセルしてしばらく登り続けると、プランパンシュー氷河の取り付きに着いた。 高度計の標高は3040mで、山小屋からの標高差は200mほどだった。 下見はここまでなのか、氏はザックを下ろし手で穴を掘りはじめた。 明日のための目印を作っているのかと思ったら、何と弱層テストをしていた。 氷河を見上げながら明日辿るルートを氏が説明してくれたが、度重なる降雪で氷河上のトレイルは皆無で、肝心の山頂方面も右手の大きな岩尾根に隠されていて全く見えなかった。 いずれにしても明日実際に登ってみなければ核心部のコンディションは分からないので、この一般ルートを数回登ったことがあるという氏の経験に委ねるしかないようだ。

   帰路は急ぐ必要は全くないので、周囲の景色の写真を撮りながらゆっくりと下る。 山小屋に戻ると、テラスで寛いでいた人達が下山していったので、再び私達だけで貸し切り(必然的に明日の登山は私達のパーティーのみ)となった。 明日は長い一日になりそうなので、夕食の時間まで遅い昼寝をする。 クリストフ氏もアイポットで音楽を聴きながらベッドにもぐり込んだ。 しばらく人肌に触れていないせいか毛布はとても冷たく、3枚掛けてもまだ寒かった。

   夕食の時間が近づくと、何やら隣の食堂が騒がしくなった。 意外にもこの時間になって数人のパーティーが到着したようだ。 東洋人である彼らの姿は目に入ったが、日本語の響きは聞こえてこなかった。 クリストフ氏から彼らはネパール人で、パーティーのリーダーは氏の知り合いのガイドだと教えられた。 氏はさらに、毎年この時期はネパールのクライミングシェルパの精鋭達がフランス山岳会の招きで登山の研修にシャモニを訪れていると教えてくれた。 たまたま今回の研修の対象に選んだ山がグランド・ジョラスだったようだ。 意外にもシェルパ達はすぐに自炊で夕食の準備に入り、静かだった山小屋はにわかに活気づいた。 予期せぬ“同志”の登場に心が弾み、彼らに片言の英語で話しかけると、メンバーの中にはエベレストの頂に数回立ったことがあるという猛者もいて驚いた。 また、意外にも若い彼らが知っていた唯一の日本人の登山家は、女性でエベレストを初登頂した田部井さんとのことだった。 和やかに“ネパール隊”のパーティーと写真を撮り合うと、彼らの持っていたカメラは全て日本製のデジカメで、時代の流れを感じた。 夕食を食べながら、「明日はネパール隊の精鋭達がルート工作やラッセルをしてくれるので楽勝ですね!、左団扇で彼らの後をついて行きましょう」と笑いながらクリストフ氏に投げかけると、氏も「ラッキー!」とおどけていた。 当初は私達だけの孤独で困難な登攀が予想されたが、彼らの出現により登頂の可能性がにわかに高まったような気がして嬉しかった。 果して彼らは“救いの神”となるのだろうか?。


シャモニに来てから初めての快晴の天気となる


登山口のプランパンシューのキャンプ場


ボカラッテ小屋へのトレイルから見たドーム・ド・ロシュフォール


固定ロープがある急斜面の岩場を登る


ボカラッテ小屋


ボカラッテ小屋のテラスから見たアントレーヴの村


ボカラッテ小屋のテラスからが遠望したグラン・パラディゾ


   ボカラッテ小屋付近から見たドーム・ド・ロシュフォール(右)とエギーユ・ド・ロシュフォール(左)


プランパンシュー氷河の取り付き


プランパンシュー氷河


山小屋の寝室


山小屋の食堂


ネパールのクライミングシェルパの精鋭達


山小屋を切り盛りしている若夫婦


   8月22日、am3:00起床。 昨夜は珍しく熟睡したようで、夜中にトイレに起きなかった。 私達よりも遅く寝たネパール隊はすでに起きていて、静かに出発の準備をしていた。 外のトイレに行くと空は満天の星空だったが、月は山の陰に隠れているのか見えなかった。 クリストフ氏からハーネスは着けずに出発するとの指示があり、慌てることなくゆっくり朝食を食べる。

  am3:45、「セ・パティ(出発)!」とクリストフ氏と声を掛け合い、妻に見送られてネパール隊より一足先に出発する。 昨日の下見が功を奏して、ヘッドランプの灯でも充分にルートが分かる。 氏はちょうど良いペースでリードしてくれ、標高もまだ低いので呼吸は楽だ。 30分ほどで楽々と標高差200mを稼ぎ、プランパンシュー氷河の取り付きに着いた。 氏の指示でアイゼンとハーネスを着けていると、間もなくネパール隊が追いついてきた。 氏とネパール隊のフランス人のガイド氏が何やら言葉を交わす。 彼らはすでにハーネスを着けていたので、ここからは彼らが先行すると思ったが、ほんの少しの差で私達が先行することになった。

   クリストフ氏とアンザイレンし、いよいよ憧れのグランド・ジョラスへの登攀が始まった。 氷河の雪は昨日の柔らかさが嘘のように固く締まり、斜度もきつくないので快適な登高だ。 風は殆ど無く体調も万全で、間もなく私達を追い越すネパール隊のルート工作により、登頂の可能性が高まり心が弾む。 斜面の傾斜が急になり、直登を避けてアイゼンの爪を利かせながらジグザグに斜上するようになると、氏のペースが幾分速くなった。 意外にもネパール隊のヘッドランプの灯はまだだいぶ下で、登るにつれてどんどん離れていくような感じがした。 傾斜はますます急になり、所々で突然暗闇の中に出現するクレバスに架かるスノーブリッジをスピーディーにやり過ごす。 アンザイレンしているとはいえ全く気の抜けない状況が続き、一般ルートがヴァリエーションルートのように感じる。 トレイルのあるルートは心理的な安堵感をもたらし、それはとても有り難いことだが、今日のように全くトレイルが無い山の魅力は別の意味で本当に計り知れない。 こんな凄い経験が出来るのもアルプスのガイド登山の魅力だろう。

   まだ明けきらない夜空の下、左手にモン・ブランの白い山肌が微かに望まれる。 シーズン初めの山とは思えないほど順調に足は前に出て、繋がれたザイルがピンと張られることもなく、取り付きから1時間半ほどで『レポゾワールの岩場』と呼ばれる岩稜の基部に着いた。 ここはグランド・ジョラスのピークの一つのエレーヌ・ピーク(4045m)に突き上げている顕著な岩稜の末端だ。 振り返ると、ネパール隊のヘッドランプの灯は遙か遠くになっていた。 昨夜の山小屋の若主人の話では、この2週間誰も山頂を踏んでいないので、もし仮にネパール隊が期待外れだった場合、今日はクリストフ氏の経験と技術だけが頼りだ。 同じような状況だった一昨年前のオーバーガーベルホルンのことが思い出された。 ここで短い休憩となり、温かい紅茶で行動食を胃に流し込んだが、残念ながら周囲はまだ真っ暗闇で写真は撮れなかった。 意外にも氏からヘルメットを被るようにとの指示はなく、結局今日一日氏共々被ることは無かった。 氏の思考ではヘルメット装着の有無は、自己責任の範疇なのだろうか?。

   岩稜の基部で5分ほど休憩し、am5:45に行動を再開する。 ガイドブックには岩稜を忠実に登ると記されていたが、クリストフ氏は岩稜を右から迂回し、岩稜の淵に沿って急な雪壁を登り始めた。 間もなく氏は躊躇無く手掛かりが多くなったミックスの岩稜に取り付いたので、ルートを知り尽くしている氏の後ろ姿が頼もしく感じた。 夜が白み始め、間もなくヘッドランプは不要になった。 新雪とのミックスになっている岩稜は、基本的に上からの氏のコールに合わせてスタカットで登ることを繰り返す。 新雪だが雪は固く締まり、ルートも荒れていないので、逆に雪を上手く利用してステップを作りながら臨機応変に攀じっていく。 ありがたいことに風が全く無いので、多少困難な所でも落ちついて登ることが出来た。 所々に先人達が残した古いハーケンやスリングが見られ、一般ルート上を忠実に辿っていることが分かった。 岩稜は次第に易しくなり、コンティニュアスで登れるようになったが、先ほどまでの全身を使った登攀で体内の酸素が欠乏し、氏のペースについていくのがやっとの状態になってしまった。 苦しさを紛らわすために、高度計の数字をちょくちょく見ながら、稼いだ標高と残りの標高を頭で計算しながら登る。 岩稜の基部から1時間近く岩稜を登り続けると傾斜は一旦緩み、所々で岩が露出している緩やかな雪稜となった。 それとは対照的に先ほどからの体のバテ状態は回復せず、ドラマチックな早朝の景色の変化を楽しむ余裕も無くなりつつあったが、すでに夜は明け、モン・ブランの山頂がピンク色に染まり始めていた。 図らずもその直後に休憩となり、黎明のモン・ブランとロシュフォールの峰々、朝焼けに染まりつつあるグラン・パラディゾ方面の山並みを写真に収めることが出来た。 一方、頼みのネパール隊はすでに視界から消えていた。


『レポゾワールの岩場』と呼ばれる岩稜の基部


黎明のモン・ブラン


   短い休憩の後、次第に傾斜を増していくミックスの岩稜を登り続けると思ったが、クリストフ氏は躊躇無く右手のカール状の雪面(グランド・ジョラス氷河)を真横にトラバースした。 45度ほどの急斜面の長いトラバースだったが、ピッケルを深く刺し込みながら慎重に氏の切ったステップに足を置き、コンティニュアスで進む。 これはルートを知り尽くしたガイドとのマンツーマンだから出来ることで、ガイドレスでのコンティニュアスはとても危険だ。 10分ほどでスリリングなトラバースを終えると、グランド・ジョラスのピークの一つのウインパー・ピーク(4184m)から派生している急峻な岩稜の末端に着いた。 ウインパー・ピークは1865年にエドワード・ウインパーが当時未踏峰だったエギーユ・ヴェルトの偵察をするため、同じく未踏峰だったグランド・ジョラスに登った時の最高到達点を記念して命名されたピークだ。 ガイドブックにはこの岩稜は下降時に使われるが、条件が良ければこの岩稜を直上してウインパー・ピークを登り、雪稜を辿って最高点のウォーカー・ピーク(4208m)に登ることも出来ると記されているが、氏はここでも躊躇無く岩稜を少しだけ登ってから乗越し、先ほどより長いが傾斜は緩い雪面を右へトラバースしながら緩やかに斜上していった。

   間もなく頭上に巨大なシャンデリアのような芸術的なセラック(氷塔)が見えた。 これがあの悪名高い(過去に死亡事故のあった)セラックだろう。 朝陽が当たり始めた氷の芸術作品は見事だが、落石ならぬ落氷が頻発する危険地帯だ。 クリストフ氏は「ここからは少し急ぎましょう!」と指示し、足早に5〜6分でセラックの真下を通過すると、先ほどまでの急登の連続が嘘のように傾斜のない広大な雪のテラスとなった。 イタリア側の空には見渡すかぎり雲一つなく、天気予報どおりの晴天が期待出来そうだ。 安全地帯に入ったので氏のペースはとてもゆっくりとなり、間もなく予想どおり氏から休憩の指示が出た。 時刻はam7:45を、高度計はすでに4000m近くを示していた。 いつも忙しそうに行動食を頬張りながら周囲の写真を撮っている私を見かねてか、氏は頼んでもいないのに私からカメラを預かり、モン・ブランを背景に写真を撮ってくれた。 全く登ってくる気配が感じられないネパール隊の動向について氏に投げかけると、氏は「彼らは氷河の水で炊事をしたためお腹をやられ、途中で引き返したのでしょう!」と笑いながら言い放った。 さらに氏は「あそこの稜線を上がれば山頂ですよ!」と説明してくれたが、その表情と口調には一昨日の最終打ち合わせの時とはまるで違う、穏やかな余裕の雰囲気が感じられた。 すでに核心部や危険地帯を過ぎ、登頂の確信を得たのだろうか?。 どんなに標高を稼いでも、この先で不測の事態により登攀不能となればそれまでなので、過大な期待は持たないよう肝に命じる。 僅か5分ほどの休憩だったが、緊張感が持続しているためか短くは感じなかった。


レポゾワール稜から見下ろしたプランパンシュー氷河


巨大なシャンデリアのような芸術的なセラック(氷塔)


山頂直下の広大な雪のテラスから見たモン・ブラン


山頂直下から仰ぎ見た山頂方面


   最後の休憩をしてから、しばらく緩やかな雪の斜面を登り、左手に進路を変えてミックスの雪稜に取りつく。 朝陽が背中に当たり始め、体だけでなく不安な心まで暖めてくれる。 先ほどまでの急峻な岩稜の登攀と比べて遙かに易しい幅の広いミックスの雪稜の登高に緊張感もだいぶ薄らいできた。 一方、登り始めの快調さが嘘のように、ますます足が言うことをきかなくなり、今度は山とではなく自分との闘いになってきた。 間もなく傾斜は緩み、岩は視界から消え、あとは単調な雪の斜面が東の方向に延々と続いていた。 クリストフ氏と結んだザイルは弛むことが無く、まるで荷物のように氏に引きずられていく。 あまりの私の変わりように氏が心配して立ち止まり、「苦しいのは呼吸ですか、それとも足ですか?」と聞いてきた。 とっさに造り笑顔で「両方です!」とジェスチャーを交えながら答えると、氏は何故か納得したように微笑んだ。 高度計の数字はすでに4100m台を示しているが、左手には山頂(ウォーカー・ピーク)より20mほど低いウインパー・ピークがまだまだ目線よりも高く聳えている。 “こんなことではヴェルトには登れないぞ!”と自らに檄を飛ばす。 風が急に強くなり、氏を呼び止めてジャケットを着込む。 束の間の休息の後、心の中で数字を数えながら一歩一歩鉛のように重たい足を前に踏み出す。 100まで数えるとまた1から数え直す。 日頃のトレーニング不足を思い知らされたが、もう後の祭りだ。 有り難いことに先ほど一瞬強まった風も次第に収まってきた。

   不意に雪面の傾斜が無くなると、クリストフ氏がこちらを振り返り、ザイルをゆっくりと束ね始めた。 青空以外には何も見えなかった空間の向こうに、レ・ドロワット(4000m)やクルト(3856m)を従えてメール・ド・グラスから屏風のように屹立している憧れのエギーユ・ヴェルトの雄姿が悠然と望まれた。 憧れのグランド・ジョラスの頂に辿り着いたのだ。 “あの長谷川恒男さんが世界初の北壁冬季単独登攀を成遂げた山の頂に自分も立つことが出来た!”と抑えきれない感動が沸き上がってくる。 「メルスィー・ボクー!!、サンキュー・ベリー・マッチ!!」。 氏と力強く握手を交わし、肩を叩き合って体全身で喜びと感謝の気持ちを伝えた。 氏も私がひどく感動している姿を見て、とても上機嫌だった。 高時計の数字は4198m(山の標高は4208m)を、時刻はam9:00ちょうどを指していた。 一昨日降ったばかりの新雪が眩しく輝き、クリストフ氏と二人だけでこの広大な空間を独占している気分は最高だ。 モン・ブラン山群の全ての山のみならず、マッターホルン・モンテ・ローザ・ヴァイスホルン等のヴァリス山群の山々も遠望され、グラン・コンバンも近い。 一般ルートでは麓から大半を登山電車で登るアイガーや、ゴンドラが架けられているマッターホルンとは全く違うこの孤高の山の頂には、正に原始の薫りが漂っていた。 先ほどまでの疲れも一気に吹っ飛び、休む間もなく360度のパノラマ写真を撮る。 氏とも記念写真を撮り合ったが、寒さによるカメラの誤作動でレンズカバーが全開せず、せっかくの写真が駄目になっていたことが悔やまれる。 それにしても何と神々しい頂だろうか!。 雪庇に注意しながら寒々しい北壁を覗き込む。 レショ氷河からの高度差は凄いの一言だ。 それとは対照的に南のイタリア側は緑濃い山並みが見え、北壁のあるフランス側とは全く正反対の様相を呈していた。 “次はあのヴェルトだ!”。 エドワード・ウインパーがヴェルトの偵察に、当時未踏だったこの山を登った時のように私も誓いを新たにした。


グランド・ジョラスの山頂


グランド・ジョラスの山頂


山頂から見たエギーユ・ヴェルト


山頂から見た北側の針峰群(中央はタレーフル)


山頂から見たモン・ブラン


山頂から見た支峰のウインパー・ピーク(右の崖が北壁)


山頂から見たグラン・コンバン(中央)とヴァリス山群の山々(遠景)


山頂から見た北壁の下のレショ氷河


山頂から見たグラン・パラディゾ(中央遠景)


   快晴無風の天気だが、この山の頂に長居は出来ないことは、登ってきたルートの状況からみて明らかだった。 am9:15、もう二度と来ることは叶わない憧れの頂に別れを告げる。 先ほどのセラックの下のトラバースを避けるため往路とは同じルートは取らず、支峰のウインパー・ピークとのコルに向けてシュカブラの発達した緩やかな雪稜を私を先頭に下る。 モン・ブランを正面に見据えながら、束の間の稜線漫歩を味わっていると、緊張感が緩んだのか不意に目頭が熱くなってきた。 マッターホルン以来のこの現象は、三度目でようやく登頂が叶ったということではなく、原始の薫りが漂う汚(けが)れの無い純白の雪稜が演出する独特の雰囲気に包まれたせいであるような気がした。

   コル付近まで緩やかに下ると、ウインパー・ピークへは登り返さず、同ピークへ突き上げている岩稜の下部に向けて急な斜面を斜めにアイゼンの爪を利かせてぐんぐん下る。 突然下から登ってくる登山者の姿が目に入って驚いたが、彼らは他でもないネパール隊だった。 ネパール隊は2人と3人のパーティーに別れて急峻なクーロワールの中の雪壁を登っていた。 間もなくネパール隊とクーロワールの終了点付近ですれ違ったが、ガイド氏同士は軽く言葉を交わし合っただけだった。 すれ違い際に隊員達にエールを送ったが、彼らはすでに引き返したと思っていたので、彼らとの再会がとても不思議に思えた。 私達も岩稜には取り付かず、ネパール隊によって作られた見事なつぼ足のステップを利用し、クリストフ氏に上から確保されながら50度以上はあると思われる急峻なクーロワールの中の雪壁を下った。 ネパール隊がここを登路に使ったのは、セラックの下のトラバースを避けるためだったのか、それとも帰路のルートを担保するためだったのかは分からないが、図らずも当初の目論見どおり彼らのルート工作の恩恵を受けることになった。

   クリストフ氏に言われるまでもなく、バックステップでピッケルのブレードを雪面に刺し込みながらザイル一杯に下り、下り終えた所でビレイを取って氏にコールする。 これを6〜7回繰り返すとようやく傾斜は緩み、右の頭上に巨大なセラックの全容が見えた。 再び繰り返し何回かスタカットで下っていくと、登ってきた私達の微かな踏み跡に合流した。 気温が上がり標高も下がってきたので、休憩しながら氏共々ジャケットを脱ぐ。 休憩後は再び氏の指示で先頭を交代せず、コンティニュアスで踏み跡を忠実に辿りながら下る。 間もなくミックスの岩稜を乗越し、急斜面の危険なトラバースに入ったが、ここでも先頭は私のままだった。 恐らく私が後ろでスリップした場合に氏が止められないからだろう。 雪が緩み始めているので先ほどよりも緊張するが、ここが一番の核心部なので気合を入れて一歩一歩進む。 このトラバースが終われば後は難しくないと思ったのは大間違いだった。


ネパール隊とクーロワールの終了点付近ですれ違う


クーロワールの急峻な雪壁を登るネパール隊


巨大なセラックの下の急峻な雪壁をスタカットで下る


岩稜に沿って繰り返し何回かスタカットで下る


一番の核心部の氷河のトラバース


   氷河のトラバースを無事終えると、登路と同じミックスの岩稜(レポゾワールの岩場)に取り付き、私達の踏み跡を注意深く目で追いながら、スタカットでのクライムダウンとロワーダウンをスピーディーに繰り返す。 登りでの核心部もあっと言う間に下り、プランパンシュー氷河への取り付きに着いた。 もうここまで来ればゴールは近い。 モン・ブランやロシュフォールの峰々を仰ぎ見ながら一息入れる。 意外にも私が写真を撮っている傍らでクリストフ氏はザックからGPSと双眼鏡を取り出し、氷河に印された私達の踏み跡をつぶさに観察していた。 ルートを熟知している氏が何故ここに来てそんなことをしているのか不思議だった。 氷河の下りにもかかわらず氏が先行し、しばらく下った所で私に待つように指示すると、ルートを見失った訳でもないのに周囲を徘徊して下るルートを模索していた。 そしてまた少し下った所で再び同じような行動を繰り返していた。 氏はよほどヒドゥンクレバスが怖いのだろう。 何度か試行錯誤した後に、今度はザイルをさらに伸ばして私を先頭に下ることになった。 その直後、踏み出した足がスーッと抵抗もなく股までもぐり、その勢いで前のめりに転んで膝を少し捻った。 ヒドゥンクレバスだ!。 雪が重たくて足が抜けない。 後ろから氏が「スキーで転んだ時のように、体を谷側に預けて回転しなさい」とアドバイスしてくれたが、それでもなかなか足が抜けずに肝を冷やす。 やっとの思いでクレバスから這い出すと、氏は再び私を先頭に下るよう指示した。 今の雪の状態からすると、どちらが先頭でも再びクレバスに落ちることは必至なので、敢えて氏は私を先頭に起用したのだろう。 後ろから氏に確保されているため絶対的な恐怖感はないが、いきなり足がすくわれるのはとても嫌な気分だ。 氏が今日一番慎重になっている理由があらためて分かった。 恐る恐る足を踏み出すため、スピードは全く上がらない。 背後から人の声が聞こえてきたので振り返ると、すでにネパール隊がレポゾワールの岩場を下ってきていた。 その後2〜3回引きずり込まれるようにヒドゥンクレバスにはまったが、心の準備が出来ていたので慌てることもなく、また全て浅いものだったので大事には至らなかった。 危険なクレバス帯は終わったのか、しばらくすると氏が先頭を交代した。 氏も気が緩んだのか、20mほど下の大きなクレバスを渡るための確保支点を作っている時に、不用意にもGPSを足元に落とし、クレバスに飲み込まれてしまった。 氏がとても悔しがったことは言うまでもないが、クレバスの内側に僅かに残っていたスノーブリッジを渡ろうとした時、幸運にもそのボトムに落ちていた氏のGPSを拾うことが出来た。 ようやくクレバス帯を終え、氏はアイゼンを外すように指示し、傾斜の緩くなった雪面を膝までもぐりながら転がるように駆け降りていった。 間もなく氷河の取り付き(アルペンルートの終点)に妻の姿が見えたので、ピッケルを振り回して勝利の凱旋を告げた。 pm1:45、妻に迎えられ取り付きに着き、再び登頂請負人のクリストフ氏と固い握手を交わす。 今日の登頂もルートを熟知した氏がいなければ叶わなかったに違いない。 ザイルが解かれ、憧れのグランド・ジョラスの登攀は終わった。 未明に山小屋を出発してからちょうど10時間が経っていた。 氏との記念写真を妻に撮ってもらい、しみじみと山を見上げながら溜め息をつく。 妻は1時間も前からここで待っていたようで、毎度のことながら本当に申し訳なかった。 妻に今日の登山の経過をネパール隊の動向を交えてながら断片的に報告しながら山小屋までゆっくり下る。


ミックスの岩稜を私達のトレースを注意深く目で追いながら下る


双眼鏡で氷河に印された私達のトレースをつぶさに観察するクリストフ氏


ヒドゥンクレバスの多いプランパンシュー氷河


氷河の取り付き(アルペンルートの終点)で妻に迎えられる


   山小屋に着くと、小屋番の若夫婦がハイカー達と一緒に狭いテラスで日光浴をしていたが、私の嬉しそうな顔をみるや登頂を祝福してくれた。 クリストフ氏にビールをおごり、私達はソフトドリンクで祝杯を上げ、パスタとスープの遅い昼食をとった。 このまま昼寝でもしていきたかったが、これからまだ麓まで下らなければならないので、食後の休憩もそこそこに着替えをして荷物をまとめる。 お世話になった小屋番の若夫婦との記念写真を撮ってもらい、ネパール隊の到着を待たずにpm3:15に山小屋を後にした。

   昨日は霧に包まれていたグランド・ジョラスも今日は下から良く見えたが、その頂は遙か遠く、つい先ほどまでその頂にいたことが嘘のようだ。 駐車場に着くまで何度も振り返り写真を撮る。 昨日とは違い登攀具を携えた2〜3組のパーティーと途中ですれ違った。 明日も予報どおり良い天気なのだろうか?。 登山口のプランパンシューのキャンプ場は、夏休みを楽しむ家族連れで賑わい、原始の世界から現実の世界に戻ったようだった。

   予想どおり帰路はモン・ブラン・トンネルの渋滞にはまり、1時間近くトンネルの入口で待たされた。 pm7:00にスネルスポーツに着き、神田さんに登頂報告と簡単な土産話をしてから、クリストフ氏を交えて明日以降の計画の打ち合わせを行う。 天気予報では明日までは良い天気だが、明後日以降は天気が崩れるとのことだったので、予備日としていた明日一日を有効に使おうと、以前から考えていたエギーユ・デュ・プラン(プラン針峰)への日帰り登山を提案したところ、二人とも快諾してくれたので、明日のam6:30にミディへのロープウェイ乗り場で氏と待ち合わせることになった。


山小屋に着くと小屋番の若夫婦が登頂を祝福してくれた


山小屋とプランパンシューのキャンプ場の間から見たグランド・ジョラス


山小屋とプランパンシューのキャンプ場の間から見たグランド・ジョラス


プランパンシューのキャンプ場から見たグランド・ジョラス


  【エギーユ・デュ・プラン】
   8月23日、am5:30起床。 夜明けの時間が遅いため周囲はまだ真っ暗だが、純白のグーテ稜が微かに見えて安堵する。 朝食を済ませ、am6:00過ぎにアパートを出発する。 早朝のシャモニの町を歩いている人は見られなかったが、ロープウェイ乗り場に着くと、すでに十数人の人達が列を作っていた。 約束のam6:30にクリストフ氏がやってきたが、ロープウェイの始発はハイシーズンが終わったため、am7:00からとなっていた。 am7:00直前に次々と登山者や観光客が集まってきたが、前売りの乗車券を持っている人が多く、改札が始まると切符を買っていない私達より先にどんどんロープウェイに乗り込んでいったため、始発に乗ることが出来なかった。 すっかり出端をくじかれた感があったが、ロープウェイの車窓からは朝陽に照らされて輝くエギーユ・デュ・ミディの頂とその背後に素晴らしい青空が望まれ、今日の山行への期待が大いに高まってくる。 間もなく左手にまるで剣山(けんざん)のような針峰群を身にまとったプラン針峰がその険しい山容を披露してくれたが、果して本当にあんな所を登ることが出来るのであろうか?。

   am7:30過ぎにミディの山頂駅に到着。 さながら満員電車のようなロープウェイから解放され、駅舎の片隅で身支度を整えて氷河の出口へ向かう。 昨日とは違いロープウェイで労せずして登った山だが、雲一つ無い快晴の天気の下にグランド・ジョラスがヴァレー・ブランシュを挟んで眼前に望まれ、何とも言えない嬉しい気分だ。 今日の目的の山のプラン針峰がちょうどエギ−ユ・ヴェルトの前山のように眼前に鎮座し、素晴らしい山岳景観を造り出している。 しかしながら、“好事魔多し”との諺どおり、その後に展開する意外な結末をこの時は知る由もなかった。

   古いガイドブックに記されたプラン針峰(3673m)への登攀ルートは、エギーユ・デュ・ミディ(3842m)から出発し、コル・デュ・プラン(3475m)まで雪稜を下ってから、ミックスの雪稜をロニヨン・デュ・プラン(3601m)及びコル・スーペリア・デュ・プラン(3535m)を経てその山頂に至り、山頂からはアンベール・デュ・プラン氷河を下ってルカン小屋(2516m)を経由し、メール・ド・グラスを歩いてモンタンベールの鉄道駅に縦走するというものだった。 クリストフ氏にその話を向けたところ、現在では氷河の状態が良くないので、一般的にはエギ−ユ・デュ・ミディからの往復となっているとのことだった。

   氷河の出口でクリストフ氏とアンザイレンし、ナイフエッジの雪稜をヴァレー・ブランシュ方面へ下る。 意外にも雪稜にはすでに30人ほどの登山者が列をなしていた。 ガイドとスタカットで下っている年配の女性が渋滞の原因で、僅か100mほど下るのに30分以上を費やしてしまった。 ヴァレー・ブランシュへ下っていく大半の登山者と別れ、私を先頭にコル・デュ・プランに向けて緩やかに幅の広い雪稜を下る。 最高の天気と最高の展望だが、前後に多くのパーティーがいるため、後ろの氏から「急いで行きましょう!」と指示があり、写真撮影もそこそこに小走りにどんどん進む。 何とか先行していた一組のパーティーを追い越したものの、エギーユ・デュ・ミディ直下のコスミック小屋から出発したパーティーもいるので、焼け石に水だった。


ロープウェイの車窓から見たエギーユ・デュ・ミディ


ミディから見たプラン針峰(手前)とエギーユ・ヴェルト(奥)


ミディから見たグランド・ジョラス(左)とダン・ジュ・ジェアン(右)


ヴァレー・ブランシュへ下る雪稜は30人ほどの登山者で渋滞していた


プラン針峰(左)への稜線    奥はエギーユ・ヴェルト


   高度感のあるナイフエッジの雪稜を下り終えたコル・デュ・プランからはミックスの雪稜となったが、険しい岩塔が連なる稜上は行かずにシャモニ(左)側の岩塔の基部に沿って雪の急斜面をスタカットで登る。 コンティニュアスで登るベテランのパーティーもあり、複数のパーティーのザイルが交錯することもしばしばだった。 静かだった昨日とは全く違う光景に戸惑いながらも、クリストフ氏が先行している間に周囲の絶景の写真を撮る。 日本ではあまり知られていないプラン針峰への登攀だが、地元ではメジャーであることが良く分かった。 これはロープウェイを使えば日帰りが可能というアクセスの良さと、素晴らしい山岳景観によるところが大きいからに他ならない。 そしてガイド登山なら、ロシュフォール稜と同じような刺激的な登攀を気軽に楽しめるからだろう。

   am10:00前、岩場に取り付くこともなくエギーユ・デュ・ミディを出発してから2時間足らずでロニヨン・デュ・プランの広々とした平坦な雪のピークに着いた。 ここはルート上のオアシスのような所で、およそ針峰群の真っ只中にいるとは思えない。 今まで先を争っていた各パーティーもここで一息入れていた。 クリストフ氏も私達に休憩を促し、何枚も記念写真を撮ってくれた。 快晴無風の天気は変わらず、行動食を頬張りながら周囲の写真を撮るが、被写体は自然とジョラスとヴェルトが中心になってしまう。 すでにミディもだいぶ遠くになり、逆にプラン針峰の頂が指呼の間に望まれた。 最初は半信半疑だったが、もうここまでくれば登頂は間違いないと思った。


ミディからロニヨン・デュ・プランへ


他のパーティーとしばしばザイルが交錯する


ロニヨン・デュ・プラン(左)


ロニヨン・デュ・プランの直下


ロニヨン・デュ・プランの直下から見たエギーユ・デュ・ミディ


ロニヨン・デュ・プランの山頂


ロニヨン・デュ・プランから見たグランド・ジョラス


   ロニヨン・デュ・プランから見たトリオレ(左)・タレーフル(中央)・レショ(右)


ロニヨン・デュ・プランから見たモン・ブラン


   休憩後に再び稜上の岩塔をシャモニ(北)側に巻いて登っていくと、先行している数組のパーティーが順番待ちをしている姿が見えた。 この先によほど困難な所があるのか、先に進む気配は全く感じられず、私達も1時間近くそこで待たされしまった。 渋滞の原因は目の前に見える主稜の反対(南)側に抜けるための狭い岩のギャップの通過だと思われたが、実際はギャップの先の急斜面のミックスの岩場の下降だった。 一人がやっと通れるくらいの幅の狭い高さ3mほどのギャップを越え、陽の当たる主稜の南側に出ると、そこにはビレイポイントが無く、そこから先の下降に時間が掛かっていたのだ。 実際に下ってみると、急斜面のミックスの岩場は雪が脆く、確保なしでは不安を感じるような所だった。

   今日一番の核心部と思われる岩場を下り終え、ようやく最後の詰めに入ろうかという所で再び渋滞は始まった。 眼前には手の届きそうな所にコル・スーペリア・デュ・プラン(鞍部)から屹立するプラン針峰が神々しく望まれた。 先ほどとは違う陽光に恵まれたビューポイントだったが、10分・20分と何もせず時間だけが経過していくのがとても辛い。 クリストフ氏に「通常ここから山頂までどの位掛かりますか?」と訊ねると、1時間とのことだったが、氏は「pm1:00までに山頂に着かなければ、その時点で引き返すことにします」とつけ加えた。 すでに時刻はam11:30を過ぎ、今の渋滞の状況ではpm1:00までに山頂着くかどうかは微妙だった。 通常の登山とは逆に帰路が登り基調となるため、仮にぎりぎりプラン針峰に登れたとしても、ロープウェイの最終のpm5:00までに焦ってミディまで戻らなければならないことを危惧した妻が、「山頂は諦めて、ゆっくり景色を眺めながら戻りたい」と言った。 登頂の可能性はまだ残っていたが、いつも留守番役をしてくれている妻の意見に従い、再訪することを心に誓って引き返すことにした。


狭い岩のギャップの手前で順番待ちとなる


無数の針峰群の向こうに見えるエギーユ・ヴェルト


引き返し地点から見たプラン針峰


引き返し地点から見たコル・スーペリア・デュ・プラン(鞍部)への下り


   ギャップを乗越し、ロニヨン・デュ・プランの手前まで戻って後ろを振り返ると、先頭のパーティーがようやくコルを通過し、トレイルの印されていない最後の雪の斜面を登っている姿が見えた。 それを見るなり後悔の念が湧いてきたが、意外にも私達に同調したかのように、他のガイド登山のパーティーも次々に引き返してきていることが分かった。 この渋滞では登頂は可能でも、何かのアクシデントでロープウェイの最終に間に合わないと困る(ガイドもクライアントも明日の予定が入っている)ので、正午という時間で見切りをつけたのだろう。 それを見て私達の心も幾分軽くなったが、今シーズンは妻が一つもピークを踏めなくなるとはこの時は知る由もなかった。

   もう急ぐ必要は全く無いので、モン・ブラン山群の大パノラマを満喫しながら、まるでガイドレスのような気楽さで、所々で足を止めては写真を撮り、登頂という栄誉と引き換えにした稜線漫歩を楽しむ。 ロシュフォール稜の縦走の痛快さにも迫る素晴らしさだ。 雲一つ無い青空を背景に、プラン針峰とその背後に連なるシャモニ針峰群の無数の矛先、モン・ブラン・ダン・ジュ・ジェアン・ロシュフォール・ジョラス・ヴェルト・ドロワット・クルト・トリオレ・タレーフル・レショ、そしてミディの針峰群が勢揃いし、少し隔てた所からグラン・コンバンがその大きな図体を誇示し、目を凝らせばその背後にマッターホルンやヴァイスホルンも遠望される。 だが、何といっても今日の一番のお気に入りは、眼前のグランド・ジョラスだったことは言うまでもない。


帰路のロニヨン・デュ・プランからコル・デュ・プランへ


帰路のコル・デュ・プランからミディへの登り返し


プラン針峰(左端)とロニヨン・デュ・プラン(左)


ミディへの雪稜を登り返す後続のパーティー


プラン針峰(左)とエギーユ・ヴェルト(中央)


エギーユ・デュ・ミディの直下


ミディの直下から見たグラン・コンバン(中央奥)


   pm3:00前、コースタイムの1.5倍ほどの時間をかけてミディの展望台に着くと、氷河への出口にも観光客が出入りし、展望台は鈴なりの賑わいだった。 クリストフ氏はザイルを解くと、私達と荷物を残して一目散にロープウェイの整理券を貰いに行ってくれた。 氏に改めてお礼を述べてチップを手渡すと、意外にも「また後日お会いしましょう(一緒に山に行きましょう)」という感じの言葉が返ってきた。 神田さんから、ガイドは同じ人にならないと言われていたので、これは社交辞令なのだろう。 夕方に用事があるという氏と別れ、展望台で少し休んでいこうと思ったが、あまりの観光客の多さに気後れし、私達も早々に下山することにした。 中間駅のプラン・ドゥ・レギーユで下車し、下からプラン針峰と辿ったルートを眺めながら写真を撮り、pm4:00過ぎにロープウェイでシャモニに下りてきたが、まだ展望台に向かう観光客が大勢列を作っていたのには驚いた。

   洒落たオープン・カフェで遅い昼食を食べ、真っ直ぐアパートに帰る妻と別れ、山の家に天気予報の確認に行く。 明日はやはり天気が崩れ、明後日もまだ天気は回復しないという予報だった。 夕食前に若松さんから電話があり、グランド・ジョラスの登頂の報告をすると、「酒井さん以上に嬉しいかもしれない!」と興奮気味に登頂を祝ってくれた。 若松さんは予定どおり明後日の夕方にシャモニに来られるとのことで、天気予報が変わらなければ(天気が悪ければ)、無事再会することが出来そうだった。


プラン・ドゥ・レギーユから見たプラン針峰


プラン・ドゥ・レギーユから見たエギーユ・ヴェルト


プラン・ドゥ・レギーユから見たエギーユ・ルージュ(赤い針峰群)


  【シャモニの休日】
   8月24日、am8:00起床。 天気予報は当たり、昨日の快晴が嘘のように1時間ほど前から夕立のような激し雨が降り出した。 パン屋へは行かず持参した日本食で朝食を済ませ、山の家に天気予報を見に行く。 昨日の暖かな空気がシャモニの谷に残っているためか、寒さは全く感じない。 少しでも予報が良くなることを期待して英文の天気予報を読んだが、逆に昨日の予報以上に悪くなってしまい、良い天気になるのは6日後からになっていた。 今日と明日は天気が悪いことは分かっていたが、この先しばらく停滞を強いられるのかと思うと気分が滅入る。 グランド・ジョラスで運を使い果たしてしまったのだろうか。

   とりあえず今日はハイキングには行かずに町の散策と休養に充てることにした。 先日見つけた大きな書店に寄ってからスネルスポーツに行くと、ガイドの中山茂樹さんが神田さんと打ち合わせ中だった。 中山さんは服装や装飾品もお洒落に決められ、まるで芸能人のようだった。 神田さんは今日の予想以上の雨で当初登頂の可能性があったレ・ドロワットやクルトは雪でしばらく登れないので、焦らずに次のチャンスを待った方が良いとアドバイスしてくれたが、天気は4日後くらいから良くなるという見方をしていた。

   予報どおり午後になっても雨模様の天気だったので、昼過ぎにガイドの江本さんに電話を入れた。 江本さんはこれからクライミングジムでトレーニングをするというので、滅多にない機会なのでジムにお邪魔することにした。 町の中心から少し離れたスポーツ施設内の室内プールの片隅にあったクライミングジムは使用料が一日3.8ユーロと安かったが、室内は狭く天井も低いため、ボルダリングが中心の施設になっていた。 もちろん日本人は他にいるはずもなく、ちょうど休憩されていた江本さんはすぐに分かったが、意外にも江本さんは私と同じ小柄な体格で、どこにそんな凄いパワーが潜んでいるのか不思議だった。

   江本さんはここ数年、夏はシャモニをベースに日本から入れ替わりにやって来るお客さんの登山やクライミングのガイドをされているが、もともとはスキーの滑降選手として長野オリンピックを目指していたという。 お父さんの仕事の関係で高校時代をフランスで過ごしたが、練習で膝の靱帯を断裂してしまい、オリンピックは諦めてしばらくは自転車競技などをしていたが、フランスの友人の勧めで山に登り始め、それがきっかけで山岳ガイドになられたとのことだった。 もちろんフランス語はとても流暢だ。 しばらくの間アルプスの山の話題に花を咲かせ、江本さんの練習風景を見学したが、フリーのボルダリングということもあって、全身の力を使ったダイナミックな動きが印象的だった。 「ガイドの仕事ばかりだと筋力が落ちるので、時々トレーニングをしてるんですよ」と言いながら、必死の形相でオーバーハングした壁に取り付けられたホールドを一つでも多く勝ち取ろうとする執念には本当に頭が下がった。 その傍らでは少しお腹の出たお父さんと小さな子供が仲良く練習して(遊んで)いる姿が見られ、その対比がとても滑稽だった。 私もオーバーハングに挑戦してみたが、鉄棒にぶら下がっているような感じで、どんどん腕の力を消耗するだけで全く歯が立たなかった。

   トレーニングが終わると私達のアパートに江本さんを招き、ビールを飲みながら色々と興味深い話を聞かせていただいた。 江本さんはシャモニ滞在中は高校時代の友人の家で寝泊まりをされ、仕事で使う車もそこで借りているとのことだった。 マッターホルン登山のお客さんも多いが、シャモニからツェルマットまでは車で2時間半で行けるため、ツェルマットに泊まる必要はないとのことで、この点については私も目から鱗だった。 江本さんはクリストフ氏のことも良く知っていて、一緒に山を登ったこともあったようだが、意外にもガイド同志でプライベートの登山をする場合、相手を巻き添えにする可能性があるため、危険な所ではザイルは結ばないとのことだった。 それに関連して江本さんは“登山家として一流なのは寿命で死ぬこと(レビュファのことを例に挙げて)”という信念を強く持っていた。 江本さんとの話は尽きなかったが、これからお客さんと夕食を共にされるとのことで、滞在中の再会を約してアパートから見送った。


昨日の快晴が嘘のような曇天のシャモニ針峰群


クライミングジムでガイドの江本さんと歓談する


筋トレを兼ねてボルダリングを楽しまれる江本さん


アパートに江本さんを招く


   8月25日、am8:00起床。 天気予報は外れ、昨日の雨もすっかり止んで、青空の下にモン・ブランがすっきり見えた。 とても悔しかったが、“昨日の雨(山は雪)で、晴れていても今日は登れない”と何度も自分に言い聞かせる。 朝食を簡単に済ませハイキングに行く。 目的地は私のお気に入りの場所で、手軽に行ける山上の湖のラック・ブランだ。 山の家に天気予報を見に行くと、今は晴れているが今日はやはり不安定な天気のようで、さらに向こう3日間は天気が悪そうだった。 好天が遠ざかっていくことでマイナス指向が芽生え、グランド・ジョラスの感動が薄らいでいくが、気を取り直してシャモニの駅へ向かう。 途中のバルマ広場では今日の夕方スタートする『ウルトラトレイル』(モン・ブラン山群を一周する155kmの山岳マラソン大会)の準備のため、その関係者で賑わっていた。

   am9:41発の登山電車に乗り一つ目のプラで下車する。 前回の滞在時にはシャモニからブレヴァンの展望台までゴンドラとロープウェイで上がり、展望台からブレヴァンのコル〜フレジェール〜アンデックスを経てラック・ブランへ縦走したが、今日はシャモニの隣の村のプラからフレジェールまでロープウェイで上がって直接ラック・ブランへ登り、東に少し下った所にあるシェズリー湖を経て、起点のフレジェールまで下る周回コースとした。 コースタイムは4時間ほどだ。

   のっけからロープウェイの故障で30分ほど待たされ、am10:30に起点のフレジェール(1877m)に到着。 空には天候の急変を告げるかのように色々な形をした筋雲がそこら中に点在しているが、予報に反してまだ青空は続いており、展望台から眼前に鎮座する憧れのエギーユ・ヴェルトとドリュ、一昨日辿ったプラン針峰を始めとするシャモニ針峰群、そしてその二つの山塊の間を縫うように流れるメール・ド・グラスの最奥に屏風のように屹立するグランド・ジョラスの北壁の写真を何枚も撮る。 東の方角にはシャルドネ針峰(3824m)とアルジャンチェール針峰(3902m)が高さを競うように並び、南の方角にはそれらの全ての尖峰、針峰を見下ろすかのように盟主のモン・ブランが悠然と聳え、何度見ても飽きない大展望に溜め息をつく。

   展望台から僅かに下り、シャモニの谷を挟んで眼前の岩と雪の高嶺と対峙するエギーユ・ルージュの荒々しい岩峰の山腹につけられた幅の広いハイキングトレイルをラック・ブラン(2352m)に向けて登り始める。 冬場はスキー場となる気持ちの良い牧草地を所々で足を止めながら大きくジグザグを切っていく。 単独者は少なく、年配の夫婦や子連れのハイカー、若者のグループが絶えず前後を歩いている。 風は弱いがまるで秋のようなすがすがしさで、じっとしていると寒いくらいだ。 登るにつれて鬼の角のようなダン・デュ・ジェアン(4013m)も姿を現した。 途中にある小さな池を過ぎるとトレイルは勾配を増して登山道らしくなり、ランデックスからの縦走路と合わさると間もなくエギーユ・ルージュの最高峰のベルヴェデール針峰(2965m)のカールに底に抱かれたラック・ブランに着いた。

   ラック・ブラン越しのエギーユ・ヴェルトはまるで一幅の絵を見ているようで、本当に惚れ惚れするような美しさだ。 山麓の穏やかな緑濃い森とは対照的な険しく荒々しい岩肌と雪を戴いたその頂稜部のコントラストが絶妙で、怪峰ドリュを従えたこの山の景観の素晴らしさには誰も異を唱えないだろう。 エギーユ・デュ・ミディやグランド・ジョラスから見た同峰とは全く違う独立峰のような風貌がより一層その美しさに磨きをかけているのかも知れない。 今シーズンの登頂は絶望的かもしれないが、アルプスの登山の最終目標に相応しい本当の意味での大きな山だ。 難しいとは言え、モン・ブランだけに沢山の人が押し寄せ、何故こんなに素晴らしい山に(特に日本人は)もっと目を向けないのか不思議だ(ヴァイスホルンやビーチホルン等も同じだが)。 ラック・ブランは山小屋が湖畔に建つ下の小さな湖と上の大きな湖の二つあるが、上の湖には以前訪れた時と同様に雪解けの冷たい水の中を泳いでいる外国人がいた。 湖畔でランチタイムとし双眼鏡で周囲を眺める。 バルムのコルの向こうにベルナー・オーバーラントの山々が見え、エギーユ・ヴェルトの中腹に架けられているロープウェイの終点駅のグラン・モンテ(3297m)のすぐ上の急な雪壁をプチ・ヴェルト(3512m)に登る登山者の姿が見えた。 4年前に初めてここを訪れた時は、モン・ブランを始めとする眼前の高嶺は全て未踏だったため、その後着実にその頂に足跡を残せたことがとても嬉しかった。 あとは眼前のヴェルト、そしてシャルドネとアルジャンチェールの頂にも辿り着ければさらに嬉しいのだが。

   1時間ほど湖畔でゆっくりしてから、予定どおりシェズリー湖方面へ下り、pm3:30に起点のフレジェールに戻った。 午後に入ってから空はますますその色を濃くし、予報に反して昼間は天気が崩れなかった。 麓のプラへロープウェイで下り、pm4:03発の登山電車でシャモニへ帰った。 同じ電車に若松さんも乗っているかもしれないので、車内を移動しながら探してみたが、見当たらなかった。 次の電車は1時間後だったので、アパートに帰ってからシャワーを浴びていると、若松さんがアパートを尋ねてこられた。 マルティーニ方面から来られると思ったのは私の早合点で、若松さんは反対方面からシャモニへ来られたとのことだった。


プラから見たシャモニ針峰群(左)とモン・ブラン(右)


ロープウェイの終点のフレジェールから見たシャモニ針峰群


フレジェールから幅の広いトレイルをラック・ブランへ登る


ラック・ブランから見たエギーユ・ヴェルト


ラック・ブラン(上の湖)


   ラック・ブランから見たシャルドネ針峰(中央左)とアルジャンチェール針峰(中央右)


ラック・ブラン付近から見たモン・ブラン


フレジェールの手前から見たエギーユ・ヴェルト


フレジェールから見たグランド・ジョラスの北壁


   昨年インターネットで知り合ったフランス在住の若松さんとは今年の4月に日本でお会いして以来の再会だったが、それが今回シャモニで実現するとは本当に不思議で、妻共々お互いの再会を喜び合った。 もし天気が良ければ山に出掛けてしまい、お会いする機会を逸してしまったので、悪天候にも感謝しなければならない。 昨日の江本さんもそうだが、ネットのお陰で見知らぬ方との交流が出来るようになったことは本当に素晴らしいことだ。 夕食はアパートで食べようということになり、皆でスーパーに食材やお酒(ワイン)を仕入れにいく。 途中のバルマ広場では間もなくスタートするウルトラトレイルのランナーや観客でごった返していた。 シャモニではそれなりのイベントなのか、A.P.Jの岡村さん姉妹もこぞって応援に来ていた。 若松さんも傍らにいた見知らぬランナーにとても流暢なフランス語で気さくに話しかけていた。 若松さんは英語をマスターしたことがきっかけでフランス語の勉強も始めたとのことだったが、その努力と才能には本当に脱帽だ。 スーパーでは私達にとって敷居が高い秤売りの生ハムや、素材や味が全く分からない惣菜類も若松さんの注文で無駄なく買うことが出来た。 ワインとケーキも買い、最後はアパートの1階にあるテイクアウト専門のピザ屋で焼きたてのピザを買って、楽しい夕食会の開催となった。 私のグランド・ジョラスとプラン針峰の山行報告を皮切りに、ガイドの増井さんや江本さんとの交流の話題、若松さんが山仲間と共に先日辿られた『エクラン・オート・ルート』(若松さん命名、エクラン山群の主要なピークや峠を幾つも越えていく展望に優れた屈指の縦走コース)と『トゥール・ドゥ・ラ・ヴァノワーズ』(フランスで最初に国立公園に指定され、3000m峰が100座以上もあるヴァノワーズ山群を周遊するロング・トレイル)の土産話、明後日から友人と計画されている『オート・ルート』(シャモニからツェルマットまで氷河の山々を辿って行くアルプス随一の縦走コース)のコースの説明、フランスでの日常生活、etc・・・。 あっと言う間に日付は変わり、深夜遅くまで話が弾んだ。 アパートには予備の布団があったので、そのまま若松さんにはアパートに泊まっていただいた。


フランス在住の若松さん


バルマ広場に集う『ウルトラトレイル』のランナーや観客


スーパーで夕食の食材を買う


アパートで夕食会を開催する


デザートのケーキ


   8月26日、am7:30起床。 今日も天気予報は外れ、青空の下にモン・ブランの山頂がすっきり見えている。 昨日も雨は降らず、当てにならない天気予報を恨むが、そのお陰で若松さんと会えたので心中はとても穏やかだった。 朝食のパンを買いに行くと、メインストリートの脇では土曜日だけ開催される朝市の準備が進められ、あらためてシャモニに来てからすでに一週間が過ぎてしまったことを知った。 昨夜の話の続きをしながら遅い朝食を食べ、皆で町の散策に出掛ける。 すでに観光客で賑わっていた朝市では、若松さんに陳列されている品物の説明をしてもらったり、初めてクリーニング店で洗濯の注文をする。 若松さんがまるで私達のプライベート通訳になってしまい申し訳なかったが、いつの日か本当のプライベート通訳兼ガイドになってもらい、フランスを始め世界の山々を案内してもらえたら嬉しいと思った。 山の家に当たらない天気予報を見に行くと、今日は午後から天気は崩れ、良い天気は明後日からとなっていたが、それも長続きはしないようだった。 

   若松さんのリクエストで、最近では神田さんの存在で全く足が遠のいてしまった山の家の1階のガイド組合に行く。 カウンターの傍らにいた地元のガイド氏に若松さんが声を掛け、私の身になって色々とヴェルトの情報を訊ねてくれた。 ガイド氏によれば、これからまとまった雪が積もり、登攀ルートのウインパー・クーロワールに再び良い雪がつけば、今シーズンまだチャンスがあるかも知れないとのことで、神田さん同様に「ジョラスが登れたらヴェルトも登れますよ」とのお墨付きをいただくことが出来て嬉しかった。 まだ行ったことがなかった2階のインフォメーションルームと3階の事務所兼資料室にも行ってみると、資料室にはモン・ブラン山群の大きなジオラマが展示してあり、アルプスの山々の豊富な登攀ルートのガイドブックや資料のみならず、そこを実際に登った人(ガイド等)の最新のコメントが記された冊子も置いてあり、その情報量の多さに驚いた。 もっとも殆どが仏語で書かれているため、残念ながら私には全く分からなかった。 資料室で情報収集をして山の家を出ると、バルマ広場ではこれからゴールするウルトラトレイルのランナーを待つ観客と大会のスタッフで今日も大盛況だった。 再び朝市に戻り、先ほど選んでおいた昼食用の食材を買ってアパートに戻る。 メインディッシュはサーモンやホタテ等の魚介類が沢山入ったパイ包みだ。 昼食後に神田さんと江本さんにそれぞれ電話を入れてみると、神田さんはクリストフ氏と共にpm6:00に、江本さんもpm7:30頃にそれぞれアパートに来ていただけることになった。


若松さんとシャモニの町を散策する


観光客で賑わう土曜日だけ開催される朝市


山の家2階のインフォメーションルーム


山の家3階の事務所兼資料室


事務所兼資料室のモン・ブラン山群の大きなジオラマ


事務所兼資料室の登攀ルートのガイドブック


サーモンやホタテ等の魚介類が沢山入ったパイ包み


   午後に入ってからは予報どおり天気は下り坂となり、夕方から雨が降り始めた。 運悪くちょうど雨足が一番強まった頃に神田さんとクリストフ氏とが一緒にアパートを尋ねてきた。 図らずもクリストフ氏との嬉しい再会となり、若松さんも神田さんとは何度か面識があるようで、単なる山行の打ち合わせだけに止まらず、ビールを飲みながらしばらく歓談することになった。 神田さんの話では、昨日モン・ブランで強風のため衰弱した登山者22人がヘリで救助され、このうち日本人を含む2人が凍傷で入院するという騒ぎがあったとのこと。 明日以降の山行の予定については、神田さんがヴェルトなどの山々のB.Cのクーヴェルクル小屋に電話で照会したところ、ヴェルトには最近3組のパーティーが入ったがいずれも敗退、ドロワットは入山者がいないのでルートの状況は不明、クルト(3856m)は良く登られているとのことだった。 神田さんは明後日が天気が良く風も無い予報なので、明日の午後に山小屋に入り、明後日にアタックするのがベストだという。 やはり今回はヴェルトは無理そうで、登る山はドロワットかクルトになってしまったが、登頂の可能性を度外視してヴェルトに少しでも近い方のドロワットを希望した。 傍らでそのやり取りを聞いていた若松さんが、ヴェルトに強い執着心を持っている私の心情を一生懸命クリストフ氏に説明してくれ、最終決定は明日のam9:30にスネルスポーツで神田さんが行うことで落ちついた。

   神田さんは1971年の夏に1ビバークでグランド・ジョラスの北壁を制したが、その翌年の冬に今は亡き登山家の加藤保男さんや中野融さんらとのパーティーで再びその北壁に臨まれ、途中3日間吹雪で閉じ込められたが、艱難辛苦の末に登攀を成功させたという伝説的な武勇伝を披露する一方、今は意外にもレマン湖からシャモニ、ヴァノワーズを経てニースまでの山中を歩く『グラン・ランドネ』と呼ばれる長距離のハイキングトレイルを毎年4〜5日かけて少しずつ楽しみながら踏破しているとのことだった。 また、ひと昔前はパラグライダーに傾倒していた時期があり、その飛行回数は延べ200回以上にも及ぶとのことで、20年前にはスネルスポーツでパラグライダーを販売し、日本に持ち込んで飛行の実演もしたが、残念ながら商売にはならなかったという逸話がとても印象的だった。

   明日の再会を約してお二人を見送ると、間もなく江本さんが約束どおり私達のアパートを尋ねてくれたので、早速若松さんを紹介して再度ビールで乾杯する。 江本さんも最近の当たらない天気予報に翻弄され続けているとのことで、今日は午前中の束の間の晴天をとらえ、エギーユ・デュ・ミディにロープウェイで上がり、『コスミック・バッドレス』という難しいクライミングのルートのガイドをされたとのことだった。 昨日に続き、アルプスの山々の話題を中心に、今回江本さんとお会いするきっかけとなった古典的なガイドブックのレビュファの名著『モン・ブラン山群100選』を例に挙げ、日本とフランスの登山に対する意識や技術の違い等にも話が及び、とても興味深かった。 江本さんは「クライミングをやると登山のフィールドが増えるので、是非始められたらいかがですか」と熱心に勧めてくれた。 江本さんの夏のアルプスのガイド料は一日当たり5万円という料金設定だそうだが、意外にもこのことは一般には公開していないとのことだった。 その理由として、今のところ来シーズンまでリピーターの方を中心に予約が入っているからとのことだった。 但し、この5万円というのはモン・ブラン登山のガイド料を想定していて、それ以上に難しい登山やクライミングをする場合には、さらに金額が上乗せされるとのことだったが、シャモニの天気が悪い時には晴れているイタリア側のゲレンデや町の観光にまで希望に応じて臨機応変にアレンジしてもらえるというので、クライミングが主な目的のお客さんにとっては何よりだろう。 お客さんも中高年ばかりではなく、20歳台の女性もいるとのことだった。 今晩も江本さんとの話は尽きなかったが、これからお客さんと夕食を共にされるとのことで、皆でアパートから見送った。 アパートで夕食を済ませると、若松さんも駅の反対側にある宿に帰られた。

  【レ・ドロワット】
   8月27日、am7:30起床。 夜中に再び雨が降ったようで、シャモニの町も霧に煙っている。 果して神田さんからドロワットへのゴーサインは出るのだろうか?。 パン屋にクロワッサンを買いに行くと、ウルトラトレイルの参加ランナー達がぽつりぽつりと誇らしげな笑顔でゴールしてくる姿が見られた。 この時間帯だとトップ集団ではなく、完走だけを目指している愛好家のレベルなのだろうが、それでも155kmという距離は半端ではない。 まばらとなった観客に混じって思わず拍手を送ってしまう。 早朝から若松さんがわざわざアパートまで来てくれ、今日もお喋りを楽しみながら一緒に朝食を食べる。 ようやく青空が少し覗くようになり、これからオート・ルートに向けて出発する若松さん共々、空の色の変化に一喜一憂だった。 山の家に天気予報を見に行くと、今日は午前中は曇りだが午後からは晴れ、明日と明後日は共に午前中は晴れだが夕方は雨となっていた。 天候が徐々に安定してくるというには程遠い、単に雨が降らな時間帯があるといった感じの不安定な天気が続くようだった。

   約束のam9:30にスネルスポーツに行くと、意外にも神田さんはすぐにクーヴェルクル小屋に予約の電話を入れてくれ、正午前にモンタンヴェール行きの登山電車の駅でクリストフ氏と待ち合わせをするよう指示した。 山小屋の周辺の新雪は5cmほどとのこと。 明日の天気は心配だが、プラン針峰から数えて4日ぶりに山に入れるのでアパートに帰る足取りは軽い。 すでに山行の支度は済んでいるので、次回の参考のために若松さんが泊まっているドミトリーの宿に案内してもらう。 相部屋だが寝室や食堂は清潔で、邦貨で1泊1〜2千円程度という格安の料金には驚きだった。 登山電車で登山口のアルジャンチェールへ向う若松さんをシャモニの駅に見送り、私達も身支度を整えてモンタンヴェール行きの登山電車の駅に向かう。 駅前で落ち合ったクリストフ氏と共に正午ちょうどの登山電車に乗り込む。 ドリュが眼前に迫るモンタンヴェール(1909m)はシャモニ周辺の展望台の中でもポピュラーだが、天気がすぐれないためか乗客はまばらだった。 樅の木の樹間からはシャモニの谷を挟んでラック・ブラン周辺の山々が見えるが、シャモニ針峰群の山腹の森の中を登っていくため、全般的に車窓からの風景は冴えない。 終点近くで突然新雪を身に纏ったドリュの尖峰が望まれ、思わず身を乗り出す。


シャモニの駅から近いドミトリーの宿


オート・ルートに向けて出発する若松さんをシャモニの駅に見送る


   シャモニから20分ほどでモンタンヴェールに到着し、メール・ド・グラス(氷河)に向けて幅の広いハイキングトレイルを下る。 5分ほどでハイキングトレイルとの分岐があり、右の山道に入ると間もなく氷河を見下ろす崖の上に着いた。 氷河までの標高差は100mほどだろうか。 下を見下ろすと、急傾斜のスラブの岩壁には長い鉄梯子が2列に並んで取り付けられていた。 妻を気遣って氏が「確保しますか?」と声を掛けてくれたが、高度感はあるものの慎重に下れば問題なさそうだったので、そのままゆっくり鉄梯子を下った。 梯子の段数を数えると、何と333段だった。 最後の梯子の末端には短い梯子を継ぎ足した跡があった。 氏の説明では、氷河は温暖化により後退しているのみならず、その高さ(厚さ)も低く(薄く)なっているとのことだった。 鉄梯子は下の氷河から見上げるとその全容が良く分かり、とてもユニークな存在だった。

   メール・ド・グラスはクレバスだらけだったが、氷河の上に堆積している岩屑の上に印された明瞭な踏み跡を辿れば落ちる心配は無いので、アイゼンだけを着けてザイルは結ばなかった。 取り付き付近では縦のクレバスも多く見られた。 山の天気はまだ回復せず、正面に見えるはずのグランド・ジョラスの北壁は雲や霧の中だ。 意外にも氷河上では大勢の人達がそこら中で様々な訓練をしていた。 クリストフ氏によると大半はモン・ブランへの登山者で、最初にここでアイゼンワークの練習をし、次にヴァレー・ブランシュで高所順応をするという。 日本人の登山者と違い、モン・ブランに登る外国人は全くの素人が多いからだろう。 氏もこのような講習会のガイドをしているという。 青光りしている大きなクレバスを何度も迂回しながら氷河の中央部を遡る。 土砂が堆積しているクレバスの表面は薄汚れているが、その奥深い所には水流も見られとても神秘的だ。 大きな釜のようになっている底が安定したクレバスの中ではアイスクライミングやレスキューの訓練なども行われていた。 氷河の取り付きから傾斜の緩い氷河上を黙々と40分ほど歩くと訓練する人達もなくなり、氷河上は私達だけの世界となった。 所々に標識のような長い木の棒が氷河の真ん中に立てられていたが、氏によるとこれは標識ではなく、氷河の高さ(雪の量)を計るための道具だという。

   クレバスも無くなり、唯一の目印の木の棒から30分ほど傾斜の緩い氷河上を歩き続けると、左手のモレーンの上にトレイルの目印と思われるドラム缶のような人工物が置いてあった。 アイゼンを外してドラム缶を目指して氷河からモレーンに上がり、しばらくそこで休憩する。 入山者が少ないためか、モレーン上の踏み跡は明瞭ではなく、所々に積んである小さなケルンを見落とすと、すぐに道を見失ってしまい難儀する。 水晶が混じった石がそこら中に見られ、程度が良く小振りなものを拾いながら歩く。 モレーン上のアルペンルートも相変わらず傾斜が緩く、小さな下りもあって標高は全く稼げない。 目印のドラム缶から40分ほど歩くと、再び左手の絶壁の上に鉄梯子が何段も取り付けられていた。 先ほどより壁の傾斜は増し、一部はほぼ垂直に近かったため、マッターホルンのヘルンリ稜で良く見られた豚のしっぽのような確保支点が所々の岩に設置されていた。 こちらの段数は211段と先ほどの3分の2ほどだったが、所々で鉄の杭や小さなステップでトラバースしながら梯子を乗り換えるため、スリル満点で面白かった。

   刺激的な鉄梯子を登り終えてからも頭上のモアヌ針峰(3412m)の基部を回り込むように急登のアルペンルートが続き、メール・ド・グラスの取り付きから山小屋までの約900mの標高差もようやくここでどんどん稼げた。 相変わらず雲や霧で周囲の展望が利かないトレイルを黙々と登る。 トレイルの傾斜が緩むと、アルペンルートからハイキングトレイルに変わり、山小屋が近いことが分かる。 マーモットの鳴き声が響き、周囲を見渡すと頭上に小さな二つの山小屋が見えた。 一つは冬期小屋として使われている昔の山小屋で、クーヴェルクル(仏語で蓋の意)の名前の由来となったという大きな一枚岩の下に、まるで押し潰されたような恰好で建っていた。


メール・ド・グラス(氷河)への急傾斜のスラブの岩壁を鉄梯子で下る


2列に並んで岩壁に取り付けられているユニークな333段の鉄梯子


クレバスだらけのメール・ド・グラスをアンザイレンせずに歩く


氷河上では様々な訓練が行なわれていた


氷河の高さ(雪の量)を計るための長い木の棒


モレーンの上に積んである小さなケルンを目印に進む


モレーン上には水晶が混じった石がそこら中に見られた


絶壁に取り付けられていた211段の鉄梯子


   pm4:15、B.Cのクーヴェルクル小屋に到着。 モンタンヴェールの駅から3時間45分の道のりだった。 山小屋の入口の看板に記されていた標高(2687m)に高度計を合わせる。 立派な石垣の上に建つ頑丈そうな石造りの山小屋はとても味わいがあり、生憎今は何も見えないが、数あるアルプスの山小屋の中でも屈指の展望を誇ると言われているらしい。 一階には50〜60人は楽に座れる広い食堂とアルプスの山小屋にしては珍しく自炊用の食堂と清潔なトイレがあった。 2階の寝室も適当な大きさの部屋に区切られ、ベッドの配列にもセンスの良さが感じられた。 今まで泊まった数多くのアルプスの山小屋の中でも設備の面では一番かもしれない。 天気があまり良くないせいか、登れる山がないためか、宿泊客はまばらだった。 大きなザックを背負ったドイツ人のパーティーもいたが、彼らは山には登らず明日はさらに違う氷河を辿ってグランド・ジョラスの北壁を登るためのB.Cとなるレショ小屋(2450m)まで行くという(後日彼らと再会し、水晶を採りに来ていたことが分かった)。 意外にも宿帳には日本人の足跡が随所に見られ、いつもHPでその記録を参考にしているMさんという若い方のコメントや、その他のベテラン氏の登攀記録や周囲の山小屋の貴重な情報も記されていた。 海外在住の邦人の方や、関西の旅行会社のツアーで来たハイキングの団体も数多く見られ、この山小屋の人気の高さをあらためて認識した。 食堂のカウンターの脇には漬物石ほどの大きさの立派な水晶が飾ってあり、先ほど拾った水晶混じりの石がとても貧素に見えた。 薪ストーブで暖かい食堂で寛いでいると、ようやく周囲の霧が上がり青空が少し覗いてきた。 慌ててカメラを持って外のテラスに急ぐ。 しばらく待っているとグランド・ジョラスの神々しい北壁が霧の間から顔を出し、その大迫力に興奮しながら何枚も同じような構図の写真を撮った。 残念ながら明日予定しているドロワットやヴェルト、そしてモン・ブランは見えなかったが、クリストフ氏にテラスで記念写真を撮ってもらった。

   今回は山に登らない妻が楽しみにしていた夕食は期待していた以上だった。 テーブル毎にステンレスの鍋に入ったコンソメスープ(お代わりは自由)とチーズと程よい固さのパンが前菜に出され、メインディシュは大皿に入ったラザニアがやはりテーブル毎に出され、その味も麓のレストランより美味しかった。 なぜアルプスでは山小屋の夕食が安くて美味しいのだろうか本当に不思議だ。 山小屋の標高が低いので消化不良の心配もなくお代わりをしてお腹一杯に食べる。 デザートにはフルーツポンチが付いた。 この山小屋の宿泊料は2食付きで45ユーロ(邦貨で約6,800円)だった。 クリストフ氏に一応アルコールを勧めたが、今日も氏はワインをグラスに一杯飲んだだけで、お腹の周りを摩りながら「実は甘いものの方が好きなんですよ!」と笑い飛ばしていた。 パリ育ちの氏は39歳で、現在はその近くのフォンテンブルクというお城で有名な町でパートナーの女性と暮らしているという。 夏と冬はガイドの仕事で半年間シャモニにいるので、春と秋にしかフォンテンブルクには住んでいないようだ。 オフシーズンにはいわゆるビルの窓拭きのようなアルバイト的な仕事をしているという。 氏のパートナーもかなりの山ヤさんのようで、アイスクライミングをやったり、マッキンリーを登ったり、氏と一緒に南米のアコンカグアやワイナポトシにも行ったことがあるという。 アルプスの山の中で一番好きな山は、ヴェルトとシャルドネということだったが、シャルドネは最初に登った山だからで、モン・ブランも6月頃に登れば雪も綺麗でとても美しい山なんですと教えてくれた。 夕焼けの時間が迫り、皆で再び外のテラスに出ると、グランド・ジョラスのみならず、ロシュフォール稜とダン・ジュ・ジェアン、そして分厚い雲の隙間からモン・ブランの頂も一瞬望まれた。 依然として雲や霧が谷を埋めつくしているが、上空には清々しい青空が広がり、明日の好天が期待出来た。 クリストフ氏から明日はam3:00に起床し、準備が出来次第出発しますとの指示があった。 どうやら明日山に登るのは私達だけのようだった。


立派な石垣の上に建つ頑丈そうな石造りのクーヴェルクル小屋


センスの良いクーヴェルクル小屋の寝室


クーヴェルクル小屋の広い食堂


夕食のメインディシュのラザニア


山小屋のテラスから見たグランド・ジョラスの北壁


   8月28日、am3:00起床。 クリストフ氏が真っ先に外の様子を見に行き、「良い天気ですよ!」とにっこり微笑んだ。 持参したハムや柔らかいチーズでパンを食べる。 手際よく身支度を整え、妻に見送られてam3:45に山小屋を出発する。 空には満天の星が輝き、体調も万全だ。 昔の山小屋の前を通過すると間もなく、タレーフル氷河へ下る踏み跡を辿って急峻な岩場を下る。 所々に目印となる小さなケルンが積んであるが、ヘッドランプの灯ではなかなか見つけられず、多少強引に下れる所を下る。 15分ほどで氷河に降り立つ。 高度計の標高は2610mで、山頂までの単純標高差はここから約1400mということになる。

   氷河とは名ばかりの大小の岩が堆積している河原のような所をゆっくり登っていく。 傾斜はとても緩やかだが、クリストフ氏のペースは極めて遅く、まだ目覚めていない体にはちょうど良いかった。 氏は時々「流れ星が見えますよ!」と振り返って教えてくれた。 30分ほど歩いて高度計を見るが、まだ100mほどしか標高を稼いでいなかった。 足元の岩は次第に小さくなり、下に埋もれている氷河の氷が露出してくるようになると、ちょうど良い目印となる大岩があり、その傍らでアイゼンを着けてアンザイレンする。 グランド・ジョラスやモン・ブランのシルエットが月明かりではっきりと見える。

   クリストフ氏は大岩の下にストックをデポし、いよいよここからが本番となった。 岩の混じった氷河は3000mを越えた辺りから純白の雪へと変わっていった。 グランド・ジョラス同様、ここ数週間人が入っていないためトレイルは皆無だ。 斜面は少し急になったが、グランド・ジョラスほどではない。 氏のペースは相変わらず遅く、全く快適そのものだ。 体も高所にだいぶ順応し、相変わらず体調は万全だ。 あとは核心部の岩場での雪の付き方だけが心配だが、この山域を熟知している氏のことだから、ジョラス同様何とか頂に導いてくれるだろう。 風も無く絶好の登山日和になりそうでワクワクする。 一昨日降り積もった新雪がアイゼンの爪を通じて分かるようになると、ルートはクレバス帯に入った。 氏は足元を確かめながら一歩一歩ゆっくりと、そして帰路のことを考えてのことか、必要以上に足元を踏み固めながら登っていく。 お陰で後ろの私は階段を歩くような感じで登るため、核心部の岩場の登攀に備えて体力を充分に温存出来た。 ふと、“好事魔多し”というフレーズが脳裏をかすめた。 

   いつしか夜は白み始め、ヘッドランプは不要となった。 覆いかぶさるようなドロワットの岩稜の取り付きが頭上に見え、アプローチの雪の斜面も残り1時間足らずだと推測された。 急ではあるが相変わらず単調な登高が続き、岩稜の取り付きの稜線上のコルまであと僅かと迫った時、突然クリストフ氏は足を止めて休憩を促した。 ちょうど背後の山並みがモルゲンロートに染まり始めていた。 私が写真好きなことはすでに氏も分っていたので、その配慮もあったのだろうか?。 願ってもない撮影ポイントからグランド・ジュラスを皮切りに、次々に朝焼けの山々の写真を撮る。 一通りの写真を撮り終え、氏とその感動を共有しようと思った直後、氏の口から全く意外な言葉が飛び出した。 「モン・ブランの山頂直下に小さな雲が掛かり始めているのが見えますか?。 あの雲は気圧が低いことを示しています。 あの雲は次第にモン・ブラン全体を覆い、あと2〜3時間後にはこちらにもやって来るでしょう。 大変残念ですが、今日はここで引き返します」。 モルゲンロートに染まっている眼前の雄大な景色に歓喜し、その中の僅か一片の雲の存在など全く気にも留めていなかった私にとって、氏の発した一連の言葉はまさに晴天の霹靂だった。 もしかすると私の聞き間違いかとも思い、念のため氏に「天気が悪いのでここで引き返すということですか?」と訊ねたところ、氏は顔をこわばらせながら「そうです、ここで引き返します。 今日の私達は本当に運が悪かった」と繰り返し説明し、頭上に見え始めたドロワットの頂稜部の写真も記念に撮っておくように勧めてくれた。 氏が今回初めてのガイドであれば、何か他の方法がないものかと食い下がったかもしれないが、人一倍頂に執着している私を充分理解している氏にそれを切り出すことは無用だった。 すでに下山の決定を下したにもかかわらず、氏は私の心情を察してか、しばらくそこに留まり再び写真を撮りながら名残惜しく山々と対峙している私を暖かく見守ってくれた。

   15分ほど“心の山頂”で朝焼けのグランド・ジョラスの北壁を鑑賞してから、氏に促されることなく自ら下山の意思表示をした。 高度計の標高は3393m、時刻はam6:40だった。 登ってきたトレイルではなく、足下に見えるタレーフル氷河の末端に向けて急な雪の斜面を、アイゼンの踵に重心を置いて下るようにとクリストフ氏から指示があった。 雪がちょうど良い固さに締まっているので小気味よくアイゼンが利き、あっと言う間に稼いだ標高を落としていく。 下りながら所々で足を止め、写真を撮らせてもらう。 氏の予想どおり、早くもジョラスの山頂には灰色の雲が取り付き始めた。 振り返ると、登っている時には暗くて見えなかったドロワットの頂稜部が大きく望まれた。 出発前ドロワットはヴェルトの偵察的な感じで、ルートの状況が悪ければ潔く諦めようという心境だったが、まだ現実的に天気が崩れている訳ではなく、山も良く見えるので下るにつれて悔しさが増してくる。 その気持ちを何とか支えてくれたのは眼前のジョラスだった。

   間もなく登ったトレイルと合流し、緩やかな斜面をしばらく下るとクリストフ氏がストックをデポした目印の大岩が見え、その傍らでアイゼンを外してザイルも解かれた。 先ほどまで水色だったドロワットの背景の空の色もいつの間にか灰色になっていた。 氷河上から雪が見えなくなると、右手にヴェルトとその支峰のグランド・ロシューズ(4102m)とエギーユ・デュ・ジャルダン(4035m)が仰ぎ見られた。 ヴェルトの登攀ルートのウインパー・クーロワールも良く見え、偵察という当初の目的だけは達成することが出来た。 氷河から100mほど岩を攀じって山小屋の建つ岩棚へと登り返し、am8:15に山小屋に戻った。 周囲はすでにモノトーンの世界となり、山々の頂稜部分は全て怪しげな雲で覆われていた。 朝の散歩を終えて食堂で遅い朝食を食べ始めていた妻は、まさか私がこんなに早く戻ってくるとは思わなかったようで驚いていた。


妻に見送られてクリストフ氏と山小屋を出発する


未明のモン・ブランの山頂直下に掛かる小さな雲


モルゲンロートに染まり始めたグランド・ジョラス


最終到達点から見たレ・ドロワットの頂稜部


朝焼けのグランド・ジョラス(左端)とモン・ブラン(右端)


朝焼けのタレーフル氷河(妻の撮影)


タレーフル氷河の末端から見たモン・ブラン


タレーフル氷河の末端から見たグランド・ジョラス(左)


   タレーフル氷河の末端から見たレ・ドロワット(右)とエギーユ・ヴェルト(左)


クーヴェルクル小屋に戻る


   山小屋で一息入れたかったが、雷や土砂降りの雨が降りそうな不安定な天気だったので、妻も急いで帰りの支度をしてam8:45に山小屋を出発した。 早くここから脱出したいという気持ちとは裏腹に、何度も後ろを振り返っては未練がましく山々の写真を撮る。 眼下のモレーンに下りる直前で念のため神田さんに電話を入れると、天気予報は外れて明日も天気は悪くなったとのことで、ようやく諦めがついた。 鉄梯子を下り、昨日と全く同じルートをまるで敗残兵のようにただ黙々と歩く。 雨が降り出さなかったのが唯一の救いだ。 今日も氷河上では様々な訓練が行われていた。 クリストフ氏も明日は講習会でヴァレー・ブランシュをガイドするとのことだったが、多分中止になるだろうと言った。 メール・ド・グラスから半ば義務感のように鉄梯子を登り、正午ちょうどにモンタンヴェールの駅に着いた。 タッチの差で下りの登山電車に乗れず、駅の近くにあった昔の水晶採りの活躍の様子や水晶を展示している観光用の洞窟を見学したが、まさか明後日ここを再訪することになるとは知る由もなかった。

   pm0:30発の登山電車でシャモニへ下り、駅前のレストランでクリストフ氏と最後の食事を共にする。 今日も氏から色々な山の話を伺う。 昨年の秋、チョ・オユーにガイド仲間7人で行こうと計画したが、だんだんと人数が減って3人になってしまい断念したこと、来年はボリビアの最高峰のサハマ(6542m)に友人らと3人で行く計画をしていること、ヒマラヤの山の中ではプモ・リ(7161m)に一番興味がある(登ってみたい)こと、フィッツロイは風が強く、良い天気が続かないので行きたくないこと等の話しが興味深かった。 日常会話は相変わらず全く駄目だが、山の話になると良く理解し合えるから不思議だ。 この2日間で撮ったデジカメの写真を液晶画面で氏に見せると、余りの多さに驚いていた。 最後に「酒井さんはグランド・ジョラスの登りのスピードから判断してヴェルトは大丈夫。 また来年一緒に登りに行きましょう!」と言ってくれたことが嬉しかった。 食後は氏に20ユーロのチップを手渡し、再会を誓って大型のバイクに乗って帰る氏を見送った。

   pm2:00にアパートに帰ったとたん激しい雨が降り始めた。 夕方、雨が小降りになったので山の家に天気予報を見にいくと、明日は一日中雨模様で明後日の午後から天気は快方に向かい、その後は晴れの天気が2日間続くようだった。 残りの滞在日程からみて、これが最後のチャンスだろう。 その足でスネルスポーツに神田さんを訪ねると、このまま今日と明日雪が降り続いてウインパー・クーロワールが雪で埋まれば、4日後にヴェルトに登る最後のチャンスがあるかも知れないこと、第二希望のグラン・コンバンの方が逆に降雪により難しいかも知れないことをアドバイスしてくれた。 今後はエルベ・サシュタ氏という少し年配の方が私のガイドをしてくれるそうだ。 氏は数年前に全盲の日本人(金山さん)をガイドの中山さんと二人でモン・ブランの頂に導いた方で、人柄もとても良いとのことだった。 もし、このラストチャンスでヴェルトに登れたら、今日の敗退も帳消しになるに違いなく、スネルスポーツからの帰りの足取りは急に軽くなった。


メール・ド・グラスとグランシャルモ


眼下のモレーンへ長い鉄梯子を下る


メール・ド・グラスから見たドリュ


モンタンヴェールへ長い鉄梯子を登る


モンタンヴェール駅付近の観光用の洞窟を見学する


モンタンヴェール駅から見たドリュ


モンタンヴェール駅とグランシャルモ


   8月29日、am7:30起床。 カーテンを開けると、町は深い霧に煙っていた。 妻の話では夜中はずっと雨が強く降っていたという。 この雨が今後の登山活動に良い影響をもたらすのか否かは神のみぞ知るところだ。 昨日のドロワットの敗退の後遺症が残っていないのは、やはりグランド・ジョラスの登頂の余韻がまだ残っているからだろう。 逆にもしそれが無かったらと思うとゾッとする。 人間(自分)は本当につまらないことで一喜一憂するものだとつくづく思った。

   朝食をいつものパン屋に買いに行く。 ウルトラトレイルも終わり、スタッフが会場の後片付けをしていた。 天気も悪いし、今日からシャモニはしばらく静かになるだろう。 朝食をゆっくり食べ、のんびりと日記を綴ったりして寛ぐ。 昼前に両替えと山の家の天気予報を見に出掛ける。 予報は昨日と基本的に変わらず、明日の午後から天気は快方に向かい、その後は晴れの天気が2日間続くようだった。 しかしそれも長続きせず、再びその後は天気が崩れそうだった。 今日を入れて残り5日となったシャモニ滞在だが、登山のチャンスはやはりあと一回しかないだろう。 昼食後もアパートでのんびり寛ぐ。 まるで今シーズンのアルプス登山が終わったかのような錯覚に陥りそうだった。

   pm3:00、スネルスポーツに神田さんを訪ねる。 岡村(千)さんもちょうど店内にいたので、しばらくお喋りを楽しむ。 意外にも岡村さんは、お姉さんの手伝いでシャモニに来てから山登りに目覚め、最近ではクライミングも始めて、いつかはドリュに登ってみたいとのことだった。 神田さんから、明日はまだ様子を見て明後日から山に入ることを勧められたが、いずれにしてもガイドのエルベ氏がpm6:00に来店するので、その時に氏の意見も聞きながら協議することになった。 雨は再び激しくなったが、いったんアパートに帰り、pm6:00に再びスネルスポーツに神田さんを訪ねる。 間もなくエルベ氏が現れたので、簡単な自己紹介を行い握手を交わす。 氏はメガネをかけているせいか、どことなくインテリ風で外見はガイドらしく見えなかった。 開口一番、ヴェルトの可能性について氏に訊ねたところ、降雪直後なので明日実際に行ってみなければ山のコンディションは分からないが、4日後は再び天気が崩れるので、ヴェルトに登るなら明日から入山してクーヴェルクル小屋に泊まり、とりあえず明後日は隣のドロワットを登って、ヴェルトの登攀ルートのウインパー・クーロワールの下見を行い、可能性があればその翌日にアタックすれば良いとのことだった。


ウルトラトレイルが終わり閑散としているシャモニの町


スネルスポーツに神田さんを訪ねる


ガイドのエルベ・サシュタ氏


  【雪崩】
   8月30日、am7:00起床。 夜明け前にようやく雨は上がったが、まだ黒い雲が空に残っている。 幸いにも天気の目安となるグーテ稜が微かに見えているので安堵した。 空模様に一喜一憂するのは本当に登山よりも疲れる。 昨日よりも更に気温は下がり、部屋の中にいても寒く感じる。 朝食後に山の家へ天気予報の確認に行くと、町中やスネルスポーツで時々見かけた二人の日本人の若者と天気予報の掲示板の前で出会った。 彼らの旅の話を伺うと、私達とほぼ同じ日程でスイスに入りガイドレスでマッターホルンを目指したが、同峰が降雪で登れないためダン・デュ・ジェアンに目標を変えたが、こちらもコンディションが悪く、明日モン・ブランを登って帰国するとのことで、お互いのラストチャンスを祈念し合った。 天気予報は昨日と変わらなかったが、明日の最高気温は標高1500mで0度、3800m〜4800mでマイナス10度とのことで、この時期にしてはかなり寒い感じだった。 am9:30にスネルスポーツで神田さんとエルベ氏を交えて最終打ち合わせを行う。 とりあえず明日からは天気が良いので、予定どおりドロワットを再び登ることになり、前回より1時間遅いpm1:00発の登山電車でモンタンヴェールに向かうことになった。

   昼食後に今回もまたサポート役の妻と共にアパートを出発。 約束の時間にエルベ氏とシャモニの駅前で落ち合い、すぐに入線してきた登山電車に乗り込む。 前回よりも少し天気が良いので乗客も多い。 樹林帯を抜けるまで目新しい景色もないので、しばらく目を閉じて電車に揺られていく。 20分ほどでモンタンヴェールに到着。 前回にも増してドリュの岩峰は新雪で真っ白に染まり、陽光に暖められて雪煙をなびかせていた。 メール・ド・グラスに下る鉄梯子の所で、昨夜クーヴェルクル小屋に泊まったという日本人のハイキングのグループと出会った。 リーダーらしき人の話では、山小屋の周辺の新雪は僅かだという。 雪が少ないとヴェルトの登攀ルートのウインパー・クーロワールは登れないし、逆に多いとドロワットには登れない。 いったい今回のリベンジにはどのような結末が待っているのか?。 今日も氷河上はトレーニングをする人達で賑わっていた。

   取り付きからはエルベ氏の判断でアイゼンを着けずに氷河を辿る。 午後からの出発だったが、空にはまだ厚い雲が残り、歩くには涼しくて快適だった。 短期間にこの氷河(クーヴェルクル小屋)を2回も往復した日本人はそうはいないだろう。 今日は雲間から時々ジョラスの頂や周囲の針峰が望まれ、退屈な氷河歩きを救ってくれる。 氏はモレーン上の目印のドラム缶を見送り、さらに氷河を詰めた先からモレーンに上がったため、その後のルートファインディングには苦労した。 一昨日往復したルートなので、私達の方が良く分かっているようだった。 絶壁に取り付けられた211段の鉄梯子を登るとようやく青空が広がり、眼前に神々しいジョラスの北壁が望まれた。

   pm5:00に山小屋に到着。 宿泊客は前回よりも多く20人ほどだったが、どうやらまた私達以外には山を登る人はいないようだ。 一昨日同宿したドイツ人のパーティーと再会したが、彼らはハイキングではなくこの辺りの水晶を採っていたようだ。 夕食の時間まで食堂の暖かい薪ストーブの傍らで寛ぐ。 エルベ氏はルートの下見に行ったのか、あるいは昼寝をしているのか、夕食の時間まで食堂に現れなかった。 前回と同じように山小屋の夕食は今日も大変美味しかった。 コンソメスープとチーズの前菜は前回と同じで、メインディッシュはマカロニサラダが添えられた豚肉のピカタ(トンカツ)で、肉も柔らかくお代わりも自由だった。

   夕食後はエルベ氏と片言の英語でしばらく歓談する。 氏は53歳で、ジュネーヴの近郊の町でスポーツ用品店を奥様と共に営まれ、夏のシーズン中だけ山のガイドをしているとのことだった。 残念ながら日本には来たことはないが、クリストフ氏と同様に世界の山々、特に高い山に興味を持たれ、エベレスト(南西稜)を始め、ガッシャーブルムII峰(8035m)、ガウリサンカール(7134m)といったヒマラヤの難峰を登ったという一方、アラスカのマッキンリーやエクアドルのチンボラソやコトパクシといった各国を代表する名山にも登ったことがあるという。 氏から明日は前回よりも1時間早いam2:00に起床し、準備が出来次第出発しますと指示があった。


クーヴェルクル小屋へ再度メール・ド・グラスを辿る


クーヴェルクル小屋の手前で見たマーモット


クーヴェルクル小屋から見たグランド・ジョラス


夕食のメインディシュの豚肉のピカタ(トンカツ)


   8月31日、am2:00起床。 朝というよりはまだ夜中という感じだが、昨夜は夕食をお腹一杯食べて8時過ぎに寝たので、眠さは全く感じない。 3日前の朝と全く同じ要領で朝食を済ませ、手際良く身支度を整えてam2:45に妻に見送られて山小屋を出発。 前回と同じように満天の星空だったが、不安定な天気が続いているので全く安心出来ない。 ヘッドランプの灯を頼りに小さなケルンを探しながら分かりづらいタレーフル氷河への下降路を模索するが、3日前にここを辿った私の方が氏よりもルートが分かっているようで、前回に増して岩場を強引に下ることが多かった。

   タレーフル氷河に降り立つと、風は多少あったが気になるほどではなかった。 前回に比べて雪の量はそれほど多くなく、せいぜい新雪が10cmほど積もったような感じだった。 この程度の雪の量ではとうてい明日予定しているヴェルトのウインパー・クーロワールは雪で埋まらないだろう。 堆積している大小の岩は雪で埋まり、氷河上は前回に比べて歩き易くなっていた。 まだ周囲が暗いせいかエルベ氏のペースは遅く、アプローチの歩行は全く快適そのものだ。 40分ほどで目印の大岩があり、今回もその傍らでアイゼンを着けてアンザイレンする。 まだam4:00で、グランド・ジョラス同様に山頂までの長い道のりが予感された。

   しばらくすると傾斜が徐々に強まり、3000mを越えた辺りから新雪の量が目に見えて増えてきた。 これならウインパー・クーロワールが雪で埋まっているかもしれないという期待が湧いてくる。 3日前に往復しているとは言え、周囲がまだ暗いため正確なルートの状況は分からないが、前回の最終到達地点の稜線のコル付近からクリストフ氏が下降に使ったルートを登っているような気がした。 今日もトレイルは皆無で、また他に登るパーティーもいないため、登頂の成否は全く予想がつかない。 登るにつれて新雪の量は多くなり、先頭のエルベ氏は膝下くらいのラッセルとなったばかりか、セカンドの私も脆い雪に足を取られ、とても登りにくくなった。 一人でラッセルを強いられている氏のスピードは当然のことながらさらに遅くなった。 前回より1時間早出をしたのはこのためだったのだろう。 幸か不幸かクレバスの存在も全く分からない状況だ。 新雪が深いと斜面の傾斜がさらにきつく感じられる。 前回は鼻歌交じりだった氷河の登高も今日は体力の消耗が著しい。 常に先頭でラッセルしなければならない氏はなおさらのことだろう。 ダイアモンド・ダストのような細かい雪が目の前をチラつき始め、ヘッドランプの灯火に照らされてキラキラと輝く。 幻想的な光景に思わず嬉しくなるが、天気のことが心配になる。 空を見上げるとまだ星が見えていたので安堵したが、この雪が上空の強い風によって運ばれてきたものだとは思いもよらなかった。 新雪はさらに深まり、所々の吹き溜まりではセカンドの私も股までもぐることもしばしばだった。 ふと“深雪のためまた登れないのでは?”という不安が頭をよぎった。 高度計を見ると、すでに前回到達した地点付近まで登っていることが分かった。 あと1時間もすれば稜線のコルに出られるはずだ。 相変わらずサラサラと細かい雪が舞い続けていたが、この雪がその直後に襲ってきた雪崩の前兆だったとは知る由もなかった。

   突然得体の知れぬ強烈な圧力が前方から襲いかかり、まるで後ろからも引っ張られるように勢い良く吹き飛ばされた。 暗闇の中、余りにも唐突にそれが襲いかかってきたので、それが雪崩だと認識するには数秒の時間を要した。 そしてそれが雪崩だと分かった次の瞬間、4か月前のGWにスキーで行った針ノ木岳で出会った若い男性と2人の女性が、私達とすれ違った直後に雪崩に遭って亡なった不幸な事故が真っ先に頭に思い浮かんだ。 雪崩は体全身を強く圧迫し、呼吸は止められ、足がもぎ取られそうになった。 “あゝ私も彼らと同じような運命を辿るのか、彼らもこうして死んでいったのだ”。 体の自由が全く利かなくなり、死がいよいよ現実のものとなってきたことを自覚したが、生への唯一の希望があった。 それは氏と結んだザイルだった。 このままどんなに流されようとも雪崩は傾斜の緩やかなところで止まり、どちらか一人が雪崩に埋まっていなければ助かる(助けられる)可能性はある。 体を浮かせる努力をして雪崩の表面に出られればしめたものだが、自然の猛威に対してそんな器用なことは到底出来ず、なすがままに身を任せるしかなかった。 いちばん辛かったのは呼吸が出来ないことだった。 呼吸が出来れば恐怖感はかなり緩和されただろう。

   どの位の時間が経過したのだろうか?。 雪崩に揉まれている時間はとても長く感じたが、それはせいぜい20秒前後だっただろう。 突然再び強い衝撃が全身に加わると同時に体が急に軽くなった。 周囲が暗いため雪崩が襲ってきた瞬間と同じように、現状を認識するのに数秒の時間を要した。 冷静さを取り戻して我に帰ると、大きな雪のブロックを跨ぐ恰好で座っていることが分かった。 助かった!!!。 呼吸が出来ない恐怖からも解放され、例えようのない嬉しさと安堵感がこみ上げてきた。 それは正に九死に一生の出来事だった。 幸運なことに目出帽の下の眼鏡とヘッドランプは無くさなかったので周囲の状況が良く分かった。 そこはまさにデブリの真っ只中だった。 さらに幸運なことに、足を少し捻った程度で五体満足で、装備も片方のスパッツが裂けただけだった。 10mほど左にはエルベ氏の姿も見えたので安堵した。 「アイム・オーケー!、アイム・オーケー!、アー・ユー・オーケー?」。 自分の無事を大声でアピールしたが、エルベ氏からの反応はなかった。 “もしや?”と思い、直ぐに氏のもとに歩み寄ると、氏は無事ではあるもの雪を相当吸い込んだらしく、しばらくの間うずくまったまま苦しそうにむせ返っていた。 ようやく氏も落ち着きを取り戻すと、今度は「クレイジー!、クレイジー!!、クレイジー!!!」と何度も吐き捨てるように大声で叫んだ。 恐らく先頭の氏の方が雪崩の圧力が強く、肉体的にも精神的にもショックが大きかったのだろう。 また、ピッケルとストック、そしてヘッドランプも失っていた。 幸いにも私と同様に足を少し捻った程度で怪我はないようだ。 「ゴー・ダウン?」と念のため氏に確認すると、「イエス、デンジャラス(ここにいたら危ない)!」とのことで、氏は失った装備を探す素振りもせず、直ぐに下山することを指示した。 ガイドとしてのプライドもあるので、氏にピッケルを差し出して私が先行することを提案したが、氏がヘッドランプだけを借りて先行することになった。 後ろから再び不意打ちを食らう恐怖感に怯えながら、コンティニュアスでスピーディーに下る。 深雪とは言えスリップは厳禁だ。 10分ほどで標高差にして200mほど駆け下りると傾斜が緩やかになり、ようやく一息つけるようになった。 氏は20mほど下に何かを見つけて指さした。 それはまるで蛍のような淡い光を雪の上に洩らしていたエルベ氏のヘッドランプだった。 氏がそれを拾い上げると、まるで自分達の分身のようにとても愛しく感じた。

   間もなく夜が白み始め、先ほどの悪夢が嘘のように清々しい夜明けのシーンが始まろうとしていた。 目印の大岩の所まで下るとザイルが解かれた。 エルベ氏は雪崩の原因について、上空でかなり強い風が吹いているため、コルの直下に積もった新雪が雪庇となり、その一部が崩れ落ちたのではないかと説明してくれた。 生死の境目をさまよったばかりだが、意外にも後遺症や気持ちの動揺が感じられないのが自分でも不思議だった。 恐らく暗かったことで何も見えなかったからだろう。 それ以上に、理由こそ違え同じ山で二度も続けて敗退したことの悔しさが先に立っていた。 今日は風が強いものの良い天気になりそうだし、明日も引き続き良い天気が予想されているため、私の頭の中は雪崩のことよりも明日の計画のことが気になっていた。 明日再びドロワットにアタックするのは気分的に嫌だし、また雪崩の危険性もあるので、本命のヴェルトについてエルベ氏に水を向けたところ、ピッケルを失ったこともあってか、即座に「ノー!」という答えが返ってきた。 これからすぐに下山したとしてもシャモニに着くのは午後になってしまうので、明日アタック出来る山はリスカムしか選択の余地がなかった。 リスカムなら妻も一緒に登れるし、今の状況ではベストだろう。 今回の計画では最下位の希望としていたリスカムに、何としても行きたくなってきたから不思議だ。 リスカム登山のB.Cのニフェッティ小屋までは昨年行ってるので、これからのスケジュールの見通しがつく。 エルベ氏は私のこの提案に少し驚いていたが、私の心情を察してか二つ返事で了解してくれた。 雪崩はおろか氏もとんだお客に捕まったものだ。

   氷河から山小屋の建つ岩棚への取り付きをエルベ氏と探しながら下ってきたが、ケルン等の目印が見つけられず、高度計の標高を頼りに強引に岩を攀じって登り返す。 空の色は灰色から淡いピンク色、水色、そして青空へと短時間で変わり、悔しいことに予報以上の快晴の天気になった。 am7:20に山小屋に戻ったが、すでに妻は朝食を終えて周囲の散策に出掛けていて不在だった。 明日リスカムに登るためには正午までにシャモニへ下山したかったので、周囲を双眼鏡で見渡したが、妻の姿は見えなかった。 笛を吹き鳴らし、大声で何度も叫んで妻の帰りを待つが、いっこうに帰ってくる気配はなかった。 このままだと時間切れになってしまうので焦るが、山を登りにきたのに一体自分は何をやっているのかと情けなくなる。 ようやくエルベ氏が双眼鏡で妻の姿を見つけ、妻のいる所まで早足で駆け登ると妻も気付いたが、なぜ見当違いの方向から突然私が現れたのか理解出来ずに驚いていた。 詳しい理由は後で説明することにして、妻にも急いで帰る支度をするように伝える。 毎度ハプニング続きのアルプスの旅だが、妻にとってこのドタバタ劇は本当に迷惑なことだった。

   am8:40に山小屋を出発してシャモニへの帰途につく。 ヴェルトへの憧れの気持ちが失せなければ、またいつかここを訪ねることになるだろう。 再訪を誓って足早にトレイルを下り始めたものの、振り返りながら青空を背景に屏風のように屹立するヴェルトとドロワットの写真を何枚も撮る。 雪崩に遭ったコル付近は相変わらず白い雪煙が舞っていた。 風が強く湿度も低いためか、ますます空の色は青みを増し、シャモニに来てから一番の快晴の天気となった。 モンタンヴェールの駅へメール・ド・グラスを急いで下りながらも、モン・ブラン、ジョラス、ロシュフォール、そしてシャモニ針峰群といった素晴らしい被写体に釘付けとなる。 山の写真を撮るにも絶好の日和だ。 オート・ルートを縦走中の若松さんも稜線上でこの青空に歓喜しているに違いない。 氷河から333段の鉄梯子を登り、am11:30にモンタンヴェールの駅に着き、すぐに入線してきた登山電車に飛び乗って目標にしていた正午ちょうどにシャモニに着いた。 神田さんに電話を入れ、雪崩の件を簡単に報告し、明日の計画を大幅に変更してこれからリスカムに向かうことを伝えた。 神田さんから、明日も天気は良いとの太鼓判を押されたので安堵した。


タレーフル氷河の末端から見た未明のドロワット


タレーフル氷河の末端から見た未明のモワヌ針峰


タレーフル氷河の末端から見た未明のモン・ブラン


クーヴェルクル小屋付近から見たグランド・ジョラス


クーヴェルクル小屋付近から見たドロワット


クーヴェルクル小屋付近から見たモン・ブラン


メール・ド・グラスとグランシャルモ


メール・ド・グラスの源頭部(右奥がトゥール・ロンド)


モンタンヴェール付近から見たメール・ド・グラスとグランド・ジョラス


  【リスカム】
   1時間後のpm1:00にシャモニの駅で落ち合うことをエルベ氏と約束し、リスカムへ登る準備のためいったんアパートに帰る。 濡れたジャケット等の衣類を乾かしながら、破れたスパッツの補修や行動食のセットをしているとあっという間に時間が経ち、マクドナルドでハンバーガーと飲み物を買ってシャモニの駅に急ぐ。 少し遅れて車でやってきた氏と合流し、リスカムのイタリア側の登山口のスタッフェルに向けて出発した。 氏も準備に忙しかったようで、私達同様に車中でパンを頬張っていた。 国境のモン・ブラン・トンネルは良い天気にもかかわらず不思議と全く渋滞はなかった。 トリノ方面に向かう高速道路も空いていたので、シャモニから2時間半くらいでスタッフェルに着くことが分かり、ゴンドラの運転時間にもよるが、夕食前には山小屋に着きそうだった。 車中で妻に先ほどの雪崩の一件のことを詳しく話すと、驚きを超えて私の異常なまでの山への執着心に呆れていた。

   間もなく車窓からグラン・コンバンが大きく望まれた。 今回も是非登りたいと願っていたが、なかなかこの山も登頂の機会に恵まれない山だ。 高速道路の左手の山の斜面の岩肌が剥き出しとなっている所が見えたが、エルベ氏からシャモニ(フランス側)で天気が悪い時はこの辺りの岩場をゲレンデとしてよく使っていると教えられた。 サン・マルティンのICで高速道路を降り、九十九折りの山道へ入っていく。 昨年一度通っただけなのに登山口までの道や車窓から見える風景は記憶に新しかった。 グレソネイの集落の手前からはリスカムとモンテ・ローザ山塊のヴァンサン・ピラミッド(4215m)が雲一つ無い青空の下に大きく望まれ、昨夏の想い出が鮮明に蘇ってきた。

   pm3:15、シャモニから2時間15分でゴンドラの発着場のあるスタッフェル(1818m)に着いた。 急いでシャモニから駆けつけたにもかかわらず、すでに観光のハイシーズンは終わり、昨年同様ゴンドラの発車時間まで1時間以上待たされることになった。 ゴンドラを待つ間、妻がエルベ氏にヘルメットの使用の有無を訊ねると、山小屋までなら(明日リスカムに登らない人は)必要ないと言われ、明日のリスカム登山がガイドと1対2でないことが分かり、さすがの妻もがっかりしていた。 今回も私のサポート役になってしまった妻は、今シーズンは一つもピークを踏むことなく終わってしまった。


クールメイユール付近から見たダン・デュ・ジェアン(中央の岩塔)


アオスタ付近から見たグラン・コンバン


グレソネイ付近から見たリスカム


登山口のスタッフェルから見たカストール(中央)


   pm4:30発のゴンドラに乗り、中間駅で一回乗り換えてpm4:50に終点のサラティバス(2971m)から山道を歩き始める。 夏のアルプスでは日没がpm8:00過ぎのため陽はまだ高いが、これから上に向かって登っていく人はいなかった。 雪の混じったトレイルを黙々と登り続け、ストレンベルク(3202m)というピークを越え、サラティバスから1時間でアラーニャからのロープウェイが上がってくるプンタ・インドレインの駅(3260m)に着いた。 水分を補給しただけで休まずにまた黙々と山小屋を目指して登り続ける。 トレイルを覆う積雪は昨年よりも多い感じで、明日のリスカムは大丈夫だろうかと心配になる。 意外にも氏から、今日泊まる山小屋は昨年泊まったニフェッティ小屋(3647m)ではなく下のマントヴァ小屋(3498m)だと告げられた。 ニフェッティ小屋だと到着がpm7:00を過ぎてしまうからだろう。 昨年ガイドのジジ氏が、マントヴァ小屋の方が空いていて食事も旨いと言ってたことを思い出す。 今日は楽だが明日の山頂アタックに30分ほど余計に時間がかかるのが玉にキズだ。 ニフェッティ小屋との分岐を右に見送り、いったん少し下ってから岩屑の中のトレイルを右に回り込むように登っていくと頭上に山小屋が見えた。

   pm6:50、途中休憩もなく登り続けたので、サラティバスからちょうど2時間で今日の宿泊地のマントヴァ小屋に着いた。 こぢんまりとしているが、周囲の景観にマッチした石造りの良い雰囲気がする山小屋だった。 入口の扉を開けて中に入ると、すでに1階の食堂では夕食が始まっていた。 ニフェッティ小屋とは違い、空いているだろうと予想していたが、意外にも食堂は宿泊客で溢れ返っていた。 宿泊の受付をしてからエルベ氏に案内されて3階の寝室に行くと、私達と同様に1回目の夕食にあぶれた人達が結構多く、週末の日本の山小屋のような賑わいだった。 さすがに国内最高峰のモンテ・ローザの人気がとても高いことをあらためて知らされた。 1時間以上も待たされ、ようやく2回目の夕食の準備が整い食堂に行く。 前菜は具が沢山入ったミネストローネ(スープ)とボロネーゼ(フィットチーネ)の選択だったので、妻と一つずつ選んで分け合った。 エルベ氏は食前にビールを飲んでからお決まりのワインへと続き、私にも良く眠れるからと勧めてくれた。 メインディッシュは温野菜の盛り合わせとカレー風味の羊の肉だったが、ボロネーゼ以外は味付けが濃く、お腹一杯食べる気にはならなかった。 夕食を終えるとすぐに氏は調理場に行き、明日の朝食の時間を1時間ほど繰り上げるように交渉していたが、am4:30前には用意が出来ないとのことで、「イタリアだから仕方がないか!」と呆れ顔で不満げに私達に愚痴をこぼした。 結局明日はam4:00に起床し、準備が出来次第出発することになった。 氏からの情報では、リスカムは最近登られているので、天気さえ悪くなければ登頂は多分大丈夫とのことだった。 就寝前に外のトイレに行くと、モン・ブランの方角の空がちょうど夕焼けに染まっていたので、明日も今日と同じ晴天になることを確信した。 大部屋の寝室はマナーは守られていたものの、人が多いため色々な雑音があちこちで発生していたが、今朝はam2:00から起きて活動していたので、すぐに深い眠りに落ちた。


   マントヴァ小屋へのトレイルから見上たヴァンサン・ピラミッド(右)とリスカム(左)


マントヴァ小屋へのトレイル


マントヴァ小屋


マントヴァ小屋から見たリスカム


夕食のメインディッシュのカレー風味の羊の肉


マントヴァ小屋から見た夕焼けのモン・ブラン


   9月1日、am3:30起床。 大部屋の寝室は静まり返り、まだ誰も出発の準備をしている人はいない。 外のトイレに行くため階下に下りていくと、食堂はまだ真っ暗で朝食の用意はされてなかった。 ありがたいことに空は満天の星空で、目を凝らすとリスカムの黒いシルエットが微かに浮かんでいる。 誰もいない食堂で準備運動をしながら身支度を整えていると、今回も留守番役になってしまった妻も起きてきた。 am4:00過ぎに調理場の明かりが灯り、配膳カウンターの横のテーブルにパンやシリアルと飲み物が並べられた。 間もなくエルベ氏も食堂に現れたが、宿泊客の中でリスカムを登るのは私だけ(リスカムを登る人は上のニフェッティ小屋に泊まる)のようで、昨夜の夕食の喧騒が嘘のような静かさだ。

   am4:50、妻に見送られて山小屋を出発。 暗闇の中、上方にニフェッティ小屋の灯が見えるのが何とも不思議な光景だ。 岩混じりのトレイルを僅かに登った所でアイゼンを着けてアンザイレンする。 遙か眼下の麓の町の夜景がとても綺麗だ。 雪が良く締まっているためアイゼンが良く利いて快適だが、出発時間が予定よりも遅かったせいか、ペースは昨日のように遅くはなかった。 山小屋を出発してから30分足らずでニフェッティ小屋からの明瞭なトレイルと合流すると、しばらくの間は傾斜は殆ど無くなり、逆に氏のペースは遅くなった。 ニフェッティ小屋から出発した先行パーティーのヘッドランプの灯火が上方で揺れている。 果してリスカムに向かうパーティーなのだろうか?。 モンテ・ローザへの大勢の登山者によって踏み固められられたトレイルは明瞭でとても安定している。 傾斜は徐々に強まっていくが、この先のトレイルの状況は記憶に新しく、また氏のペースも依然としてゆっくりなのでとても快適だ。 間もなく背後から勇ましい足音が近づき、若い二人組のパーティーが勢い良く傍らを追い越していったが、氏は彼らのペースに惑わされることなく、依然としてゆっくりではあるが休まずに私を導いていく。 傾斜がさらに強まると、トレイルはクレバス帯へ入った。 周囲がようやく白み始めると、氏のペースが次第に早まっていった。 私には少しオーバーペースだったが、リスカムをリクエストした本人が弱音を吐いていたのでは情けないので、一生懸命氏のペースについていく。 今日は今シーズン最後の登山で、もうあと数時間で憧れの山の頂に立てるのだから、ここは何とか頑張るしかない。 傾斜が緩くなるモンテ・ローザとのトレイルの分岐までの辛抱だ。

   左奥にあるモン・ブラン山群の山々や背後のグラン・パラディゾが淡いピンク色に染まり始め、荒い息づかいとは対照的にアルプスの山のドラマチックな夜明けのシーンが静かに進行している。 ヘッドランプも不要となった。 エルベ氏は人が変わったかのようにさらにグイグイと私を引っ張り続け、先ほど追い越していった若い二人組のパーティーに追いつき、今度は彼らを追い越してしまった。 酸欠で視野狭窄にでもなったのか、何となく目が霞んでくるような感じがする。 まるで肩で息をするような状態で呼吸を乱しながら登り続け、am6:30過ぎにようやくモンテ・ローザとのトレイルの分岐に着いた。 正面に見え始めたデュフールシュピッツェ(4634m)やツムシュタインシュピッツェ(4563m)の頂稜部が記憶に新しい。 高度計の数字は4000mを少し超え、山頂までの標高差の半分ほどを稼いだが、核心部のナイフエッジの雪稜を待たずにすでに全身の疲労感が激しい。 酸欠で注意力が散漫になり、テルモスをザックから取り出すため不用意に手袋を外して地面に置いたところ、突然風が吹いてスルスルと手袋が斜面を滑っていった。 ザイルが邪魔ですぐに追いかけることが出来なかったので、手袋は20mほど先の雪庇の向こうに消えていった。 エルベ氏が「クレイジー(何たることだ)!」と叫んだが、予備に持っていた手袋を氏に見せると妙に感心していた。 行動食を頬張りながら写真を撮ろうとしたが、寒さでバッテリーが作動せずとても悔しかった。 上方のリスヨッホからリスカムに向かうパーティーの姿が見えたので安堵したが、彼らが途中で引き返してこないことを祈った。 「ペースが速かったら申し出て下さい」と氏が遅ればせながら言ったので、やはり途中から意識的にペースを上げたことが分かった。

   リスヨッホに向けて分岐からトレイルを左に折れると、予想どおりこちらの踏み跡は薄く、間もなく膝下のラッセルとなった。 新雪に足を取られるとすぐに息が上がってしまい、疲労はますます蓄積されていった。 これから辿るナイフエッジの雪稜にはすでに3〜4パーティーが取り付いているのが見えたが、足元のトレイルの状況から見て、どうやら先行パーティーはニフェッティ小屋からではなく、ジグナールクッペ(4554m)の山頂に建つマルゲリータ小屋から出発したようだった。 勾配は緩いがすでに体は酸欠状態のため、何とかごまかしながら足を上へ運ぶ。 間もなくモンテ・ローザとリスカムを繋ぐ稜線の鞍部のリスヨッホ(4151m)に着くと氏は再び足を止めた。 ザイルを氷河の登高用から雪稜の登攀用に短くセットするためだ。 眼前には爽やかな青空を背景に急峻なナイフエッジの雪稜が朝陽に照らされて輝き、先行パーティーのトレイルがその稜上に明瞭に刻まれていた。 スイスとの国境になるリスヨッホからは、ヴァイスホルンを筆頭にヴァリス山群の山々が望まれ、風も弱く登頂の可能性はにわかに高まった。 雪稜を登り始める直前で待望のご来光となり、暖かな陽射しが背中に当たった。

   am7:30、いよいよ核心部のナイフエッジの雪稜の登りにかかる。 階段上につけられた先行パーティーのトレイルは今日のものだけではなく、昨日登ったパーティーの踏み跡を拡幅しているような感じだった。 見た目よりも痩せた雪稜の傾斜はきつく、滑落したら自分では止めることは出来ない。 なるほど今日は天気もトレイルも安定しているが、もしそうでなければガイドと1対2のコンティニュアスでは登れ(下れ)ないだろう。 刺激的な雪稜はまだ雪が締まっている時間帯なので、登りに関しては全く問題は無かった。 問題なのは私の体の方だった。 エルベ氏のペースは先ほどより遅くなり、私には普通のペースだったが、まるで高所登山のように足が重く、すぐに息が切れてしまう。 再び肩で息をしながら景色を愛でる余裕もなく、ただ夢中で氏の背中を追いかける。

   リスヨッホから20分ほどで200m近くの標高差を駆け上がり、いわゆる“肩”の部分に辿り着いた。 それまで見えなかった山頂方面の展望が一気に開け、山小屋や途中のトレイルから見上げた頂稜部の印象とはまるで違うスケールの大きさに思わず息を飲んだ。 高度計の数字から山頂までの標高差はもう200m足らずのはずだが、その頂はまだ遙か遠くに見えた。 エルベ氏に写真を撮りたいとリクエストしたが、その実はバテていたのでほんの僅かでも休みたかったのだ。 足下のグレンツ氷河の流れていく先に、ダン・ブランシュ・オーバーガーベルホルン・ツィナールロートホルン・ヴァイスホルンのお馴染みのカルテットが頭を揃え、まるでギャラリーのように私達を見守っているようだった。 振り返ると後続のパーティーの姿は見えなかった。 私達が殿(しんがり)なのだろうか?。

   肩の部分からは痩せた吊り尾根を小刻みに登り下りしながら進み、頂稜部に向けての最後の登りでは尾根は少し広くなり、左に発達した雪庇を避けるように尾根の少し右下にトレイルが刻まれていた。 すでに先頭のパーティーが山頂に到着しているのが見え、次のパーティーがいる位置でこの先のルートの状況も良く分かった。 私達もあと30分ほどで山頂に辿り着きそうだった。 登頂を確信し、いつもなら小躍りしたくなるような心境だが、今はそんな気持ちさえ起こらないほど足取りが重い。 グランド・ジョラスの時は高所に順応していなかったが、今日は充分に順応しているはずなので、日頃のトレーニング不足を痛感した。 エルベ氏と繋がれたザイルは張りっぱなしでたわむことはなく、私の不調を察知した氏が時々心配して振り返る。 “こんなことではヴェルトには登れないぞ”と自らに檄を飛ばすが、私のぺースはますます遅くなる一方だった。


妻に見送られてエルベ氏と山小屋を出発する


黎明のモン・ブラン(中央遠景)


黎明のグラン・パラディゾ(中央遠景)


モンテ・ローザとリスカムを繋ぐ稜線の鞍部のリスヨッホ


リスヨッホから見たリスカムの“肩”


“肩”と山頂の鞍部から見た山頂


“肩”と山頂の鞍部から見た“肩”


   純白のトレイルに岩が混じり始め、指呼の間に人影が見えた。 登頂の喜びよりも、ようやくこの苦しさから解放されるのかという安堵感が先に立っていた。 間もなく錆びた古い十字架が見え、二人組のパーティーがその傍らで寛いでいた。 そこは山頂の僅かに手前の岩場で、山頂(東峰)はさらに5mほど上の雪庇の上だった。 後ろからエルベ氏を確保しながらちょっとした岩を攀じり、am8:40に憧れのリスカム(4527m)の頂に辿り着いた。 山小屋を出発してから4時間足らずだったが、予想に反して辛くて苦しい登高だった。 「メルスィー・ボクー!、サンキュー・ベリー・マッチ!」。 私の強引なリクエストに快く応じてくれたエルベ氏と固い握手を交わし、言葉が足りない分は体全体で感謝の気持ちを伝えた。『ジルバー・バスト(白銀の鞍)』という別名どおり、雪庇の発達した長大な稜上にはまだトレイルが続き、先行パーティーが西峰(4479m)を目指している姿が見えた。 雪稜は西峰を境に標高をぐっと下げ、カストール・ポリュックス・ブライトホルンの頂がその先に続き、このまま下り基調に縦走を続けていきたい気持ちに駆られたが、幸か不幸か体はもう言うことを聞かなかった。 初めからリスカムを計画していれば、昨年ガイドのジジ氏が勧めてくれた、西峰からクィンティノ・セラ小屋を経由して登山口のスタッフェルに下りる周回ルートを辿れたが、ゴルナーグラートの展望台から何度も仰ぎ見た遙かなる高嶺の頂に辿り着けただけでも充分満足だった。 雲一つ無い快晴の空の下、モン・ブラン・モンテ・ローザに続きアルプスで三番目の標高を誇る山頂からは、眼前に対峙するモンテ・ローザの主峰のデュフールシュピッツェや今年も厚く雪化粧したマッターホルンのみならず、ドムの背後のベルナー・オーバーラントの山々やモン・ブラン山群の山々までくまなく見渡すことが出来た。 氏とお互いの記念写真を撮り合い、大展望に歓喜しながら昨日の雪崩の悪夢も忘れさせてくれるような至福の時を過ごした。

   休憩を兼ねて行動食を食べようとザックを下ろしたところ、意外にもエルベ氏から「少し風が出てきたので、下(リスヨッホ)で休みましょう」と下山を促された。 天気に恵まれたこの展望の頂にもう少し留まりたかったが、昨日の雪崩の教訓を生かして素直に氏の指示に従い、僅か10分ほどでほろ苦い想い出の山頂を辞した。 いつの間にか高くなった太陽の暖かな陽射しをまともに浴びた雪稜の雪は緩み始め、もうしばらくするとコンティニュアスでスピーディーに下るのは難しくなりそうだった。 ピッケルをしっかり打ち込みながら慎重に下るが、安全と思われる所ではその都度氏に声を掛け、立ち止まって写真を撮らせてもらう。 途中ガイドレスの2組のパーティーとすれ違ったが、今日リスカムを登ったのは私達を含めて6〜7パーティーだった。

   純白の大海原(氷河)に島のように浮かぶモンテ・ローザの衛星峰を正面に見据えながら、高度感たっぷりの刺激的な雪稜を休まずに下り続け、山頂から50分ほどで雪稜の取り付きのリスヨッホに降り立った。 登りでは気が付かなかったが、無数のシュカブラが純白の氷河のキャンバスに芸術的な幾何学模様を描いていた。 先ほど一旦強まった風も収まり、氷河上は照り返しで暑くなってきた。 ジャケットを脱ぎ、今は有り難みを感じない熱い紅茶を一気に飲み干した。 憧れのヴァイスホルンを眺めながら行動食を頬張る。 ヴェルト同様、あの山の頂にも何としても立ちたいものだ。 しばらく休憩してから、先ほどラッセルした自分達の踏み跡を辿り、モンテ・ローザへのトレイルの分岐に向かう。 分岐に近づくと一人の小柄な登山者が佇んでいる姿が見え、間もなくそれが妻だと分かった。 内心はとても嬉しかったが、いくら易しいルートとは言え単独で氷河を登ることはアルプスの山では非常識なので、気持ちとは裏腹に妻を叱らざるを得なかった。 案の定、氏も「クレイジー!」と叫び、軽率な妻の行動に驚いていたが、山(頂)に対するこだわりがない妻にとっても、今シーズンはいつも私の留守番役でストレスが溜まっていたのだろう。 直ぐに氏が妻をザイルの中間に繋ぎ、3人で山小屋まで下山することになった。


リスカムの山頂直下の十字架


リスカムの山頂


山頂から見たモンテ・ローザの主峰のデュフールシュピッツェ


山頂から見たモンテ・ローザの衛星峰


山頂から見たヴァイスホルン


山頂から見たリスカム西峰(右手前)とマッターホルン(中央奥)


山頂から見たドム


山頂からナイフエッジの雪稜を下る


   リスヨッホから見たデュフールシュピッツェ(中央)とツムシュタインシュピッツェ(右)


モンテ・ローザへのトレイルの分岐から見たリスカム


マントヴァ小屋から単独で登ってきた妻をザイルで繋ぐ


   ニフェッティ小屋を過ぎてル−ト上からクレバスの危険がなくなった所でザイルが解かれ、am11:15にマントヴァ小屋に到着。 モンテ・ローザに登る登山客を送り出した山小屋は昨夜の賑わいが嘘のようにガランとしていた。 エルベ氏と再び固い握手を交わしてお礼を述べ、早速ビールを勧めた。 今日も雲一つない快晴の天気が続き、山小屋のテラスで祝杯を上げながらリスカムを眺めて登頂の余韻に浸る。 ゆっくりとランチを食べ、お昼寝でもしていきたい気分だが、pm1:30のゴンドラの運行時間に合わせて下山したいという氏の希望で、正午に山小屋を後にした。 途中のプンタ・インドレインで休むことなくサラティバスまで1時間半ほどで一気に下り、ゴンドラを乗り継いで登山口のスタッフェルにpm2:00前に着いた。 スタッフェルを車で出発して間もなく、グレソネイという小さな町のレストランで久々にゆっくり昼食をとった。 エルベ氏と拙い英語で歓談したが、何といっても一番の話題は昨日の雪崩の一件で、氏も運命を共にしたかもしれない私とは何か特別な縁を感じているとのことだった。

   昼食後、モンテ・ローザの銀嶺に見送られてサン・マルティンのICから高速道路に入る。 このまま順調に行けばあと1時間ほどでシャモニに帰れるはずだったが、グランド・ジョラスやロシュフォール山稜を仰ぎ見るクールマイユールの町を過ぎた所でモン・ブラン・トンネルの渋滞につかまってしまった。 道路脇には『ここから1時間・45分・30分』といった標識が見られ、トンネルが慢性的に渋滞することを示唆していた。 1時間ほど渋滞にはまり、ようやくトンネルを通過すると、反対(フランス)側の出口付近に大型のトラックが横転し、この渋滞の原因を作っていたことが分かった。 シャモニの駅にpm6:00に着き、エルベ氏に30ユーロのチップを手渡して再会を誓って別れた。 神田さんの携帯に電話を入れ、リスカムの登頂報告と明日の行動予定を伝えると、滞在費用とガイド料の精算に明朝アパートに来てくれることになった。 アパートに戻ってシャワーを浴びてから帰国のための荷物の整理を行い、シャモニでの最後の夕食を『さつき』に食べに行った。 若松さんのオート・ルートからの下山予定は明日だったので、念のため携帯に電話を入れたが繋がらなかった。


マントヴァ小屋


マントヴァ小屋のテラスでエルベ氏と祝杯を上げる


マントヴァ小屋から見たリスカム


プンタ・インドレインを経てサラティバスへ下る


クールマイユールの町から仰ぎ見たグランド・ジョラス


   9月2日、am6:30起床。 薄雲は多少あるものの、空の色は澄んでいた。 今日も良い天気になるのだろうか。 朝食を残飯整理で済ませ、荷物のパッキングを済ませる。 明日の帰りの便の出発時間が早いので、今日はチューリッヒ空港の近くのホテルに泊まるが、チェックインは夜遅くでも構わないので、天気が良ければどこか適当な所にハイキングに行こうと思った。 早朝から若松さんの携帯に何度か電話をしてみたが、まだ下山されていないのか繋がらなかった。

   am9:00に神田さんが岡村(貴)さんと共にアパートに来てくれたので、滞在費用とガイド料の支払いをする。 ガイド料はグランド・ジョラスが845ユーロ(邦貨で約126,800円)、プラン針峰が355ユーロ(邦貨で約53,300円)、ドロワットが640ユーロ(邦貨で約96,000円)、2回目のドロワットとリスカムは抱き合わせで1,080ユーロ(邦貨で約162,000円)という料金だったが、このうちリスカムは760ユーロ(邦貨で約114,000円)で、雪崩に遭ったドロワットについてはエルベ氏との協議の上、半額の320ユーロという異例の措置がとられたようだ。 念のため、ヴェルトのガイド料について神田さんに訊ねたところ、グランド・ジョラスと同じ845ユーロとのことで、私の熱意が伝わったのか「次回は是非ヴェルトに登れるように手配しましょう!」と力強く約束してくれた。 神田さんは今日は休日とのことだが、モン・ブラン登山の手配でひっきりなしに携帯が鳴り、相変わらず忙しそうだった。 神田さんに相応のチップを手渡して見送ってから、岡村(貴)さんとしばらく歓談する。 岡村さんは地方のある会社に勤めていたが、男女の待遇の格差に疑問を感じて退職し、得意の語学を生かしたいと渡欧したが、フランスの田舎町では英語が全く通じず、シャモニに来てA.P.Jに勤めることになったようだ。 日本での登山経験は多少あるが、最近では妹さんが本格的にクライミングを始め、今では自分より山に夢中になっているとのことだった。


予想以上に快適だったシャモニの駅前のアパート


アパートの窓から見たモン・ブラン


   am10:00過ぎに岡村さんに鍵を渡し、アパートをチェックアウトする。 早朝は良かった天気は残念ながら下り坂のようだったが、スネルスポーツで荷物を預かってもらい、バルムのコルへのハイキングに出掛ける。 シャモニから登山電車に乗り、4つ目のモンロックという駅で下車する。 車窓からはヴェルトとドリュが灰色の空を背景に凄味を帯びて望まれたが、やはりアルプスの山には青空が似合う。 バルムのコルへ上がるゴンドラ乗り場のあるル・トゥールまで緩やかな坂道を登っていく。 後退した氷河の舌端が間近に迫り、牧歌的な風景にアクセントを付けている。 道路の両脇には別荘のような建物が点在し、ジョギングしている人の姿も見られた。 だらだらと30分ほど歩いていくと、ゴンドラ乗り場の前に広い駐車場があり、車も結構停まっていた。 ここをトゥール・デュ・モン・ブランの起点や終点にしている人も多いようで、中にはロバで沢山の荷物を運んでいる団体客もいた。 残念ながら天気は相変わらずの曇天で、山の方は雨模様だった。 電光掲示板にはゴンドラとリフトを乗り継いだ終点のバルムの気温は5℃と表示されていた。 トイレの前のベンチで1時間ほど天気の回復を願って待っていたが、とうとう小雨が降り始めてしまったので、潔くハイキングは取り止め、ちょうど到着した循環バスに乗ってシャモニに帰ることにした。

   再び若松さんに電話をしてみたが、まだ繋がらなかったので、土産物屋を見て回りながらスネルスポーツに預けてある荷物を回収し、pm2:42発の登山電車に乗って日本への帰途に着いた。 スイスとの国境の峠にあるル・シャトラール・フロンティエール駅で乗り換え、マルティーニに向かって下り始めた時に若松さんからの待望の電話があり、先ほどシャモニに着いたとのことだった。 若松さんに渡した私の計画表では、シャモニを発つ日が誤って明日の朝になっていたため、まだ私達がシャモニ付近にいると思われたようだった。 登山電車は1時間に1本しかなく、次の駅で下車してトンボ返りでシャモニに戻っても、すぐにまたシャモニを発たなければならないので、仕方なく電話でお互いの山行の成果を報告し合い、日本での再会を約束した。 若松さんが今回縦走されたオート・ルートは予想どおりとても素晴らしかったという話しを伺い、私もいつか是非行ってみたいという思いが強くなった。 若松さんは今晩シャモニでお互いの報告会が出来ることを楽しみにしていたようで本当に申し訳なかった。


登山電車の車窓から見たヴェルト(中央左)とドリュ(中央右)


バルムのコルへ上がるゴンドラ乗り場があるル・トゥール


   今シーズンのアルプス山行では、念願だったグランド・ジョラスに登れたことが何よりも一番の収穫で、原始の香りが漂うその純白の頂は、決して忘れることのない想い出の場所となった。 一方のエギーユ・ヴェルトは下見は出来たものの、その頂に辿り着くためには色々な条件が揃わないと難しいという認識を新たにした。 またラ・メイジュはアプローチの不便さ、グラン・コンバンは情報量の不足が今後も課題となりそうだった。 一方、ジョラスではヒドゥンクレバスを、ドロワットでは初めて雪崩を体験したりして、アルプスの山の厳しさを再認識した。 他方、今回も予想以上に色々な方々と出会い、そして皆さんのお蔭でアルプスの山旅を楽しむことが出来た。 マルティーニの駅でのガイドの増井さんとの偶然の再会に始まり、シャモニではエージェントの神田さん、美智子さん、岡村さん姉妹、ガイドの江本さん、そして何といっても若松さんと再会出来たことが、本当に良い想い出となった。 もちろん、命を預けたガイドのクリストフ氏とエルベ氏との素晴らしい登攀の記憶は、私のみならず両氏も決して忘れることはないだろう。 そして今回はずっと私のサポート役になってしまったばかりか、色々な心配や度重なるドタバタ劇で迷惑をかけてしまった妻にも心から感謝したい。


山 日 記    ・    T O P