エギーユ・ド・ロシュフォール(4001m)

  9月1日、am4:30起床。 身支度を整えて階下の食堂に行くと、どこかで見覚えがある年配の外国人の男性が朝食の列に並んでいた。 人の顔を一度見たら忘れない特技を持つ妻と違い、常日頃から記憶力の悪い私であったが、この時ばかりはすぐにその方が昨年の夏にピッツ・ベルニーナ登山の時に泊まった山小屋(マルコ・エ・ローザ小屋)で夕食の席を共にし、翌日はピッツ・パリュの頂でお互いの写真を撮り合ったアメリカ人のパーティーのうちの一人であることを思い出した。 あまりの偶然さに驚き、興奮しながら声をかけてみると、嬉しいことに彼も覚えていてくれたようで、お互いに思わぬ場所での再会となった。 日本の山ではよくある話だが、もともと計画外であったこの山小屋でまさか彼と再会するとは夢にも思わなかった。 念のため今日の予定を訊ねたところ、私達と同じエギーユ・ド・ロシュフォールとのことであり、明日もまた同じくトゥール・ロンドとのことで、度重なる偶然に驚かされた。 間もなく彼のプライベートガイドである金髪の女性も食堂に現れ、皆で偶然の再会を喜び合った。お二人との再会は今回の山行中最も印象深い出来事となった。

  am5:50、ジェラー氏とアンザイレンして山小屋を出発。 ヘッドランプの灯を頼りに、まだ真っ暗なジェアン氷河を緩やかに下る。 前方には5分ほど前に出発したアメリカ隊のヘッドランプの灯が見えている。 間もなく同じ位の緩やかな登りとなり、正面にダン・デュ・ジェアンの黒いシルエットが浮かんでいるのが見えた。 三日月がその右上に輝いているが、なぜか星はあまり見えない。 嬉しいことに風は全くなく、氷河上は不気味なほど静かであった。 後ろを振り返ると、まだ明けきらぬ濃い群青色の空を背景にモン・ブランの白い頂が幻想的に望まれた。 すかさず氏に声をかけ、写真を一枚撮らせてもらう。 間もなくお二人揃って写真撮影に余念がないアメリカ隊を追い越す。 斜面の傾斜は徐々に増してきたが、10分ほどで再び緩やかな登りとなった。 淡いピンク色の空を背景にエギーユ・デュ・ミディも見えてきた。 このまま天気が変わらなければ、今日も快晴の一日となるに違いない。 背後のモン・ブランがモルゲンロートに染まり始めたので、再び氏に声をかけ、写真を撮らせてもらう。 氏も「ブティフル!、ブティフル!」と相槌を打っていた。

  山小屋から1時間少々でジェアン氷河を登り終え、ロシュフォール稜の岩場への取り付きに着いた。 ジェラー氏の指示でヘルメットを被り、10分ほどの小休止となる。 周囲を見渡すと取り付き点は上下に二箇所あるようで、途中で私達を追い越していったガイドレスのパーティーは下のルートを取ったが、氏はそれに追従することなく、クラストした急斜面をしばらく斜上し、上から取り付くルートを取った。 間もなく登ってきたアメリカ隊は、すぐに岩に取り付ける下のルートを取った。 恐らくそちらの方がノーマルルートで、氏は少しワイルドであるが、時間的に早く登れる直登ルートを取ったようにも思えた。 上から覆いかぶさるような急なミックスの岩場を、氏の的確なルートファインディングで岩の弱点をつきながらぐんぐん登る。 氏は現役のクライマーのような華麗な動きではないが、ベテランらしい確実な足の運びで私達を導いてくれる。 背後のモン・ブランの上空はますます青みを増し、アルプスの青空となっていった。

  am8:00前、ようやく頭上が明るくなり、稜線に上がる手前で不意にダン・デュ・ジェアンの頂稜部の巨大な岩塔が目の前に現れた。 まさに“巨人の歯”という呼び名がぴったりのその頂まではここから標高差で100mほどであろうか。 固定ロープのある山頂への一般ルートはここから左へと回り込んでいくようであった。 以前アイガーを案内してくれたガイドのゴディー氏であれば、「試してみますか?」と誘ってくれそうな気がした。 ありがたいことに稜線に上がってからも風はなく、岩塔の基部からはクレバスの発達した広大なヴァレー・ブランシュの全容とエギーユ・デュ・ミディ、プラン針峰が望まれ、その展望の良さに思わず心が弾んだが、まだまだこれはほんの序章に過ぎなかった。 日溜まりのように暖かい岩塔の基部でしばらく休憩しているとアメリカ隊のお二人が到着した。 「良い天気に恵まれ最高ですね!」と声をかけ、お互いの記念写真を撮り合うと、男性客(アンドリューさん)から「あとで写真の交換を是非やりましょう!」と思いがけない提案があり、とても嬉しかった。

  右側からダン・デュ・ジェアンの岩塔の基部を巻き、雪田となっている小広い稜線を僅かに進むと、絵に描いたような素晴らしい展望と芸術的とも言えるロシュフォール稜の核心部の雪稜が待っていた。 ヴァレー・ブランシュから大河のように流れ出しているメール・ド・グラス(氷河)を境に、左手にはシャモニ針峰群の無数の尖峰が屹立し、右手にはドリュを従えた憧れのエギーユ・ヴェルトとレ・ドロワットが荒々しさを競い合ながら屏風のように立ちはだかり、これから向かう稜線の先にはゴールのエギーユ・ド・ロシュフォールとその支峰のモン・マレー(3989m)、そしてその両峰を繋ぐ吊り尾根の間からグランド・ジョラスの白い頂稜部が僅かに望まれた。 幾重にも左右に屈曲したナイフエッジの雪稜には、色々な方向に向かって雪庇が張り出し、さながら芸術作品のようであった。

  ナイフエッジの雪稜に足を踏み出すが、風もなく雪が適度に締まっていることに加え、先行者のトレイルが綺麗につけられているので全く不安はない。 それどころか殿を務めていることを良いことに、歩きながらこの絶景の写真を撮りまくった。 危険なのは雪稜ではなく、実はこの私自身であった。 これほどまでに刺激的で極楽のような稜線漫歩が他のアルプスの高嶺にあることを私は知らない。 いつまでもこの時間が続けば良いとさえ思わずにはいられなかった。 振り返るとダン・デュ・ジェアンの尖塔がまるで鬼の角のように雪稜から突き出し、芸術的な風景にさらに磨きをかけていた。 再び岩稜帯となる少し手前の最後の急な下りで、ジェラー氏に確保してもらいピッケルのブレードを刺しながら慎重に20mほどの凍てついた雪壁をクライムダウンする。 ここが今日一番の難所であった。 下降点で上から降りてくる氏を待っているとアメリカ隊のお二人が稜線上に現れたので、遠くからお互いの写真を撮り合った。

  遠目には感じなかった重厚で荒々しいエギーユ・ド・ロシュフォールの頂が覆いかぶさるように眼前に迫り、明るい雪稜から再び日陰の寒々しい岩稜の登攀となった。 雪は殆ど無くなり、アイゼンを外す。 ルート上の岩はホールドも沢山あり全く難しくないが、正しいルートを行かないとすぐに行き詰まってしまうようで、先行していた二組のガイドレスのパーティーもルートファインディングに手を焼き、再び私達が先行することになった。 ジェラー氏のペースはちょうど良く、また疲労感も無いので全く順調であったが、頂上直下の長い1ピッチを先行した氏が上から何やら大声で叫んだ。 私達にはその言葉の意味をどうしても理解することが出来ず、しばらく立ち往生して上と下で叫び合う一幕があった。 結局氏は諦めてそのまま登り続けることとなったが、下山の際にその地点を通過すると、そこには氏がデポした短いスリングが2本置かれており、氏はそのスリングを肩からかけて登ってくるように指示したということが分かった。 スリングは仏語では『サーングル』とのことであり、今回は大事に至らなくて良かったが、やはり山で言葉が全く通じないということは危ないことだと痛感した。

  間もなく岩稜は急速に痩せて周囲が明るくなり、三方向からの尾根が合わさった顕著なピークに踊り出ると、ジェラー氏は無言で足を止めた。 紛れもなくそこはもうエギーユ・ド・ロシュフォールの山頂であった。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!」。 憧れの頂に導いてくれた氏と力強く握手を交わして感謝の気持ちを伝える。 一人が立つのがやっとの狭い不安定な岩の頂ゆえか、十字架やプレートといった人工物は何も無かった。 時計を見るとam9:45であり、意外にも未明に山小屋を出発してから僅か4時間ほどの道のりであった。 高度感溢れる頂からの360度の展望は筆舌に尽くし難く、モン・ブラン山群の名だたる山々や氷河が隅々まで見渡せ、眼前に聳える姉妹峰のドーム・ド・ロシュフォール(4015m)の向こうには憧れのグランド・ジョラスの白い頂が大きく望まれた。 3年前にラック・ブランから仰ぎ見た同峰の北壁のストイックな姿とはまるで違う、重量感のあるどっしりとした山容であった。 もちろん一般ルートはこの稜線の先を辿る訳ではないが、今回も登頂が叶わなかった憧れの山に一歩近づけたような気がした。 「ブティフル!、ブティフル!。 ファンタスティ〜ック!、ファンタスティ〜ック!」と氏が感情豊かに連呼するので、私もつられて「ファンタスティ〜ック!」と思わず叫ぶ。 私達のすぐ後を次々と登ってきた二組のガイドレスのパーティーにも「コングラチュレーションズ!」と興奮しながら声をかけ、皆と握手を交わし合って登頂の喜びを分かち合う。 妻の顔も満足感に満ち溢れ、快晴無風の頂からの展望の新鮮さに、ただただ感激しているようであった。 南の方角には裾野を長く引いたグラン・パラディゾが遠望された。 今頃は西廣さん夫妻もちょうどその頂に立っているのではないだろうか。 良い天気に恵まれ、お二人も充分にアルプスの山を満喫されていることだろう。 辿ってきた芸術的な雪稜を上から見下ろす。ダン・デュ・ジェアンもだいぶ遠くなった。 明日登山予定のトゥール・ロンドは背後の雄大なモン・ブランとは比べものにならないほど小さな存在であった。 皆で記念写真を撮り合いアメリカ隊の到着を待つが、絶景の撮影を楽しまれているのか、なかなか山頂には姿を見せず、残念ながら山頂での記念写真を撮り合うことは出来なかった。 

  am10:00過ぎ、リクエストすればまだしばらく山頂に留まることも出来たが、ジェラー氏に促されて下山にかかる。 間もなくすれ違ったアメリカ隊のお二人は予想どおり満面の笑みで登攀を楽しまれていた。 途中、30mほどの長い懸垂下降をした時に、下からのコールがなかなか上に伝わらず苦労する場面もあったが、核心部の急な岩稜帯を下り終え、再び刺激的な雪稜をダン・デュ・ジェアンの基部を目指して意気揚々と漫歩する。 至福の時を過ごすとはまさにこのような状況のことを言うのであろうが、反面“自己満足のために大枚を叩いてこんな贅沢な遊びをしていて良いのだろうか・・・?”という妙な気持ちにさいなまれてしまった。 気温の上昇で霧が湧き始めたダン・デュ・ジェアンの基部でジェラー氏に何枚も記念写真を撮ってもらい、ミックスの岩場をジェアン氷河へと下る。

  ロシュフォール稜を無事下り終え、取り付きから氷河を10分ほど下った平らな所でジャケットを脱ぐ。 稜線上では暑さは全く感じなかったが、氷河上は強烈な照り返しでとても暑い。 さらに少しだけ下った後は、ゴールのトリノ小屋まで緩い登り返しが続く。 雪が腐って重たいが、急ぐ必要は全くないのでジェラー氏のペースは遅い。 pm1:30に山小屋に到着。 テラスで氏と再び固い握手を交わして、あらためて感謝の気持ちを伝える。 登攀具を解き、喫茶室で注文したサンドイッチを食べながら、相変わらずなかなか通じない英語でしばらく氏と歓談したが、結局氏はワインを一杯飲み終えると、昨日同様寝室に直行し、お昼寝をされていた。 体を労っているのか、習慣なのかは分からないが、なぜかそれがとても滑稽であった。 テラスに出て今日辿ったロシュフォール稜をしみじみと眺める。 昨日までは判然としなかったエギーユ・ド・ロシュフォールの地味な山頂が手に取るように良く分かった。 一方、断崖絶壁となっている山小屋の南(イタリア)側斜面では、融雪による落石の音が途絶えることはなかった。

  談話室で寛いでいるとアメリカ隊のお二人が現れたので、あらためて自己紹介をしながら歓談する。 クライアントの男性の名前はアンドリュー・レイソムさん(61歳)、ガイドの女性はキャシー・コーズリー氏(48歳)とのことであったが、お二人とも実際の年齢よりも若く見えた。 私達の英語はいつものとおり全くお粗末であったが、お二人とも根気よく耳を傾けて下さったので、私達が話したことは大体通じたようであった。 キャシー氏はガイド歴が23年というベテランであり、アンドリューさんとはアルプス以外にもヒマラヤのロブジェ・イースト(6119m)やチョ・オユーを始め、キリマンジャロ、その他数多くの名峰を一緒に登られているとのことであった。 一方のアンドリューさんはアルプスは今回で12回目で、若い頃には違うガイドとマッターホルンやツィナールロートホルン、その他数々の山を登られているとのことであった。 今シーズンはここに来られる前にモン・ブランをバリエーションルートから登ったり、プチ・ベルトの登攀を楽しまれていたとのことであり、お二人の山歴の凄さには脱帽であった。 意外にもキャシー氏はアンドリューさんにも負けないほど良いカメラを持っていた。 ただガイドをするだけでなく、素晴らしい風景とそれを背景にしたクライアントの登攀姿を写真に収める心配りが、プライベートガイドとして長年続いている理由の一つなのであろう。 帰国後に写真をメールで送り合うことを約して、お互いの住所やメールアドレスの交換をする。 本当に便利な時代になったものだ。 お二人とアルプスを始め世界の山々の話をしているとあっと言う間に時が経っていった。 今日は山も本当に素晴らしかったが、その印象も薄らぐほどお二人との偶然の再会とお喋りは楽しかった。

  キャシー氏は明日は曇天だと予想しいてたが、夜中にトイレに起きると空には沢山の星が見えていた。 遙か眼下のクールマイユールの町の明かりが夜空の星に負けずとても綺麗だった。


未明のエギーユ・デュ・ミディ


未明のモン・ブラン


モルゲンロートに染まるモン・ブラン


ロシュフォール稜の取り付きから見たモン・ブラン


ダン・デュ・ジェアンの頂稜部の巨大な岩塔


ダン・デュ・ジェアンの頂稜部の岩塔の基部から見たエギーユ・デュ・ミディ


アンドリュー・レイソムさん(右)とガイドのキャシー・コーズリー氏(左)


エギーユ・ド・ロシュフォール(右)とその支峰のモン・マレー(左)    グランド・ジョラス(中央奥)


“アルプスで最も優美な雪稜”と言われるロシュフォールのナイフエッジの雪稜に足を踏み出す


ロシュフォール稜を辿る私達のパーティー(キャシー氏の撮影)    左上がエギーユ・ド・ロシュフォールの山頂


ロシュフォール稜から見たエギーユ・ヴェルト


ロシュフォール稜から見たモン・ブラン


ロシュフォール稜から見た鬼の角のようなダン・デュ・ジェアンの頂稜部


ロシュフォール稜から見たシャモニ針峰群の無数の尖峰(左下がメール・ド・グラス)


ロシュフォール稜から見たエギーユ・ド・ロシュフォールの山頂


凍てついた雪壁の下降点でアメリカ隊のお二人と互いに写真を撮り合う(キャシー氏の撮影)


山頂手前の雪庇が発達した雪稜


山頂直下の岩場を登攀する私達のパーティー(キャシー氏の撮影)


エギーユ・ド・ロシュフォールの山頂


山頂から見たロシュフォール稜の核心部


山頂から見たグランド・ジョラス(右の雪の急斜面がボカラッテ小屋からの一般ルート)


山頂から見たモン・ブランと辿ってきたロシュフォール稜(右手前)


満面の笑みで登攀を楽しまれていたアメリカ隊のお二人


“アルプスで最も優美な雪稜”をダン・デュ・ジェアンの基部を目指して下る


刺激的なナイフエッジの雪稜を意気揚々と漫歩する


ロシュフォール稜から見たエギーユ・ヴェルト(左)・レ・ドロワット(中)・クルト(右)


強烈な照り返しで暑かったジェアン氷河に降り立つ


山小屋の談話室でアンドリューさん(右)、ガイドのキャシー氏(左)と歓談する


山小屋のテラスから見たダン・デュ・ジェアン(左)とエギーユ・ド・ロシュフォール(右)


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