ヴァイスミース(4023m)

   8月26日、am4:30起床。 夜中は風の音がうるさかったので天気が心配だったが、とりあえず星が見えたのでホッとする。 果して昨夜イワン氏が予想したとおり好天の一日になるのだろうか?。 身支度を整え、本館の食堂で一同顔を合わせ朝食を食べる。 行動時間が長くないので、この山小屋の朝は余裕がある。 朝食後に別館でハーネスを着け出発の準備をしていると、氏から予備のカラビナやATC等の不用品は出来る限り山小屋にデポするように指示があった。 さすがの氏もクライアントが4人だと重たいのだろう。

   予定より少し遅れてam6:10に別館を出発。 すでに夜は白み始め、氷河の取り付きまでヘッドランプは不要だった。 右手にはすでにドムを盟主とするミシャベルの稜線が、うっすらと白く浮かび上がって見えている。 荘厳でドラマチックなアルプスの夜明けのシーンがこれから上映されるかと思うと、それだけで胸が高鳴る。 昨年も運良くその瞬間に立ち会うことが出来たが、今日も西廣さん夫妻をアルプスの虜にさせるような素晴らしい夜明けのシーンが見られることを期待したい。 10分足らずで取り付きに着き、アイゼンを着けアンザイレンして一同ヴァイスミースの頂を目指す。 予想どおり私が殿(しんがり)だった。

   取り付き付近の岩場は早朝の締まった雪に覆われていて歩き易い。 すぐにクレバス帯に入るが、昨日までの入山者のお陰で今のところは踏み跡も明瞭だ。 間もなく雲海の上に浮かぶミシャベルの稜線の背後がピンク色に染まり始めた。 さあ、いよいよ上映の開始だ。 今日は5人パーティーの殿なので、イワン氏を呼び止めるまでもなく、歩きながら何枚も写真を撮る。 登攀の腕前は全く上がらないが、こういう技術だけはだいぶ向上したようだ。 荘厳なアルプスの夜明けは音をたてずに進行し、ヴァイスミースの山影を映しているミシャベル連山の白い山肌を次第にモルゲンロートに染めてゆく。 今度ばかりは氏を呼び止めてフラッシュの花を咲かせる。 私にとってはこのシーンを見ただけで、もう今日の目的の半分は達成したのと同じだった。 昨年登った時には大きく口を開いていたクレバスの殆どは雪で埋まり、幅の広い側溝のように上から幾重にも横たわっている。 クレバスとクレバスの間を縫うようにその縁を歩きながら進む。 上方にはすでに2パーティーが先行しているのが見えた。 登山ルートは北側斜面なので陽射しには当分恵まれないが、山頂の上空にはすでに青空が拡がり、天候が急変しないかぎり好天に恵まれた頂を踏めそうだった。 前を行く西廣さん夫妻の足取りも軽そうだ。 クレバス帯を過ぎた所あたりから、トレイルは降雪後最初に登った猛者達の意向で少々険しくなってきた。 右手の急な斜面に小さな雪崩の跡がはっきりと見えた。 先行しているパーティーは4人と3人の編成だったが、先頭は多少のラッセルがあるようで、間もなく彼らに追いついた。 昨年は山頂までストックのみで登ったが、今日はここでイワン氏からピッケルに持ちかえるように指示があった。 先行するパーティーのペースはさらに落ち、痩せたトレイル上で止まって待つこともしばしばだった。 昨年は全くのお気楽登山だったので、今日は山頂まで登れる保障があれば、多少困難な方が刺激的で楽しいかもしれないと勝手に思った。 あと僅かで最初の休憩場所となる露岩に着くことも分かっているので気も楽だ。 唯一心配なのは、周囲の雲海が上がってこないかということだけだ。


ゴンドラの駅舎(別館)を出発する


取り付きでアイゼンを着けアンザイレンする


ドムを盟主とするミシャベルの山々


雲海の上に浮かぶミシャベルの山々の背後がピンク色に染まり始める


ヴァイスミースの山影を映すミシャベルの山々がモルゲンロートに染まる


取り付きから中間点の露岩へ


   am7:50、山小屋から1時間40分で中間点の露岩に着く。 さすがに大きな岩は雪に埋まっていなかった。 先行していた2パーティーもここで休憩するようだ。 すでに4000m峰を2座登った体は高所にだいぶ順応したようで、休まなくても大丈夫なほどだった。 昨日登ったアラリンホルンやリムプフィシュホルン、少し離れてモンテ・ローザなどの山々が望まれ、西廣さん夫妻に解説する。 先ほどまでミシャベルの山肌に影を映していたヴァイスミースは、今度はその雄姿を手前の雲海に投影している。 上空はすでに爽やかな青空が一面に拡がり、一同皆登頂を確信した。 10分ほど休憩してから、今度は私達のパーティーが次の目標の西稜のコルに向けて先行することとなった。 傾斜が増し足元の雪が硬くなったので、トレイルは踏み跡から足跡へ変わり、昨日降った新雪がうっすらトレイルに乗っていた。 イワン氏は意識的に少しペースを上げたが、追随する後続のパーティーも遅れずについてくる。 トレイルは西稜のコルではなく、右の西峰(3820m)に向けて登っていくような感じだったが、先人が拓いた道には逆らえない。 登るにつれて風が強まってきたが、西稜のコルに上がる少し手前でようやく朝陽に迎えられホッとした。

   露岩から40分ほどで最後の休憩ポイントの西稜のコルに着き、各々トイレタイムとする。 露岩付近と同様にこのコルも素晴らしい展望台で、山頂からの景色と遜色がない。 昨年は黒々とした岩肌をさらしていた隣りのラッギンホルン(4010m)も今日は真白く雪化粧している。 雲海は3000m辺りで落ち着いたようで、雲海越しに遠くベルナー・オーバーラントの山々が見渡せた。 後続のパーティーはコルで休憩しなかったので、再び彼らが先行することとなった。 コルから山頂付近までは雪庇を避けるため稜線から少し左の陽の当たらないトレイルを行く。 山頂直下までは風の通り道となっているようで、太陽の恵みで温まった体には寒く感じる。 雪庇の張出しが大きいため、昨年よりだいぶ稜線を左に離れ、最後はくの字に90度近く右に折れて待望の山頂へイワン氏に導かれていった。

   am9:25、山小屋から3時間15分でヴァイスミースの山頂に辿り着いた。 5人パーティーながら、昨年とほぼ同じ時間で登ることが出来た。 「お疲れ様でした〜!、登頂おめでとうございま〜す!」、「サンキュー・ベリー・マッチ!、ダンケ・シェーン!」。 西廣さん、節子さん、妻、そしてイワン氏と次々に握手を交わす。 一同余裕の笑顔で、とても賑やかな頂だ。 辿り着いた達成感よりも、目標だったマッターホルンに登れなかった西廣さん夫妻が、快晴の天気の下に4000m峰を登れたことがとても嬉しかった。 これでご夫妻もアルプスの虜になることは間違いない。 グループ登山の良いところは、悲しみは半分に、喜びは倍になることだ。 西廣さんは雲海に浮かぶ周囲の銀嶺を眺めながらタバコに火をつけた。 節子さんも妻も爽やかなアルプスの頂に満足顔だ。 私はいつものように写真撮影に余念がない。 谷を埋め尽くしている雲海が絶景にさらにアクセントを付けている。 テルモスの暖かい紅茶を飲み、行動食を頬張りながら歓談し、背景やメンバーを替えながら記念写真を撮り合った。 この間に数組のパーティーが登ってきたが、皆一様に暖かな山頂で思い思いに寛いでいた。 意外にも、別館の階段の下に繋がれていた黒い大きな犬が飼い主と一緒に登ってきて、皆の目を驚かせた。


西稜のコルに上がる少し手前で朝陽に迎えられる


西稜のコルから見たヴァイスミースの山頂


ヴァイスミースの山頂


ヴァイスミースの山頂から見たモンテ・ローザ


ヴァイスミースの山頂から見たミシャベルの山々


ヴァイスミースの山頂から見たラッギンホルン


黒い大きな犬が飼い主と一緒に登ってきて、皆の目を驚かせた


   am9:50、天気は崩れる気配は全くなく、いつまでも去り難い頂だったが、今日は午後になるとヒドゥンクレバスを踏み抜く危険があり、また、山小屋からクロイツボーデンまで歩いて下らなければならないので、イワン氏の意見に従って下山にかかる。 下山はいつものように殿の私が先頭を任される。 山小屋までは2時間と掛からないので、まだ他に下山するパーティーはない。 また、ホーザースへのゴンドラが運休しているため、麓から日帰りで登ってくるパーティーもなく、まるで私達だけで山を独占しているかのような錯覚を覚える。 正面に終始ミシャベルの山並みを見据え、シャッターチャンスをうかがいながらマイペースで下る。 あっという間に西稜のコルを通過し、最初に休憩した露岩まで下った所で一息入れ、痩せた急なトレイルを慎重に下る。 イワン氏に声を掛け、所々で足を止めては不気味に口を開いているクレバスの内部を覗き込んだり、触ったり、写真を撮ったりした。 ようやく下から登ってくる2組のパーティーとすれ違うと、彼らはいずれも大きな荷物を背負った縦走者だった。

   am11:20、山頂から僅か1時間半ほどで取り付きに着いた。 明日も天気が良さそうな感じがしたので、登攀具を外しながら念のためイワン氏に明日の予定を訊ねると、「マッターホルンに4人連れて行くのは無理ですよ!」とジョークを発してから、ポリュックスに登るという返答があったが、明日は曇りがちでそれほど良い天気にはならないそうだ。 もう一泊山小屋に泊まって、明日はラッギンホルンに登ろうかと考えたが、氏の一言で私達も下山を決めた。 目と鼻の先の山小屋に向かって歩いていくと、山小屋の少し上に建設中の新しいゴンドラの駅舎が見えた。 私達が泊まった駅舎(別館)は今シーズンで最期になってしまうかも知れない。 氏にあらためて一同お礼を述べ、下山の準備を整えてから食堂でささやかな祝杯を上げる。 氏と西廣さんは土台のパンにワインがたっぷりしみ込んだ『ポパイ』を注文した。 昨日に続いて計画どおりに事が運び、私だけでなく西廣さん夫妻も満足感に満ちた面持ちだ。 氏には一同より感謝の気持ちを込めて50フランのチップを手渡した。

   pm1:00、イワン氏と共に山小屋(ホーザースハウス)を出発。 ゴンドラの中間駅のクロイツボーデンまで約1時間、700mの下りだ。 昨日よりもトレイル上の雪は溶け、歩き易くなっていた。 登頂の余韻に浸りながらも、明日以降の計画を思案しながら歩みを進める。 クロイツボーデンの駅舎の軒下にデポした荷物をピックアップし、霧の中に見え隠れしているヴァイスミースの頂に別れを告げてゴンドラに乗り込む。 ゴンドラの中で再びイワン氏と雑談を交わしたが、意外にも氏は物知りで、日本の小泉首相のことや新潟の大地震のことも良く知っていた。 逆に、「英語は何年位学校で学ぶのですか?」という氏からの問いかけには、答えるのも恥ずかしく、苦笑いしながら「僅かな時間です」といって誤魔化すのが精一杯だった。

   pm2:30に麓のサース・グルントに着き、イワン氏に車でツェルマットまで送ってもらう。 道中の車窓からビーチホルン(3934m)が見えたので、「あの山に登りたいが、難しいですか?」と訊ねると、意外にも「マッターホルンより少し難しい程度ですよ」という嬉しい答えが返ってきた。 但し、ツェルマットからだとアプローチに時間がかかるとのことだった。 サース・グルントから約40分のドライブでツェルマットに着き、再会を誓ってイワン氏と別れたが、決して社交辞令ではなく、いつかまた別の山で氏と一緒になる予感がした。

   ホテルに戻ってシャワーを浴びてから、西廣さん夫妻とツェルマットでの最終滞在日となる明日の計画の打ち合わせを行う。 私は今回のツェルマット滞在中に新しいピークを一つも踏んでいないことと、今回の第一目標だったヴァイスホルンに少しでも近づきたいとの思いから、昨年妻が単独で登ったメッテルホルン(3406m)を登りたいという提案をしたが、西廣さん夫妻は明日はゆっくりハイキングでもしたいという希望があり、初めて別行動をすることになった。

   明日の計画が決まったので、アクティブマウンテン社の事務所に滞在中のお礼に伺う。 茂木さんから、Mさんがマッターホルンのテスト登山となるポリュックスに無事登られたという吉報をいただいた。 西廣さんの提案で、お世話になった茂木さんや田村さんを明日の夜食に誘ったが、茂木さんは予定が入っているとのことで、田村さんと懇親会を行うことになった。


露岩付近から西峰を振り返る


露岩から取り付きへ


山小屋の食堂でささやかな祝杯を上げる


ゴンドラの中間駅のクロイツボーデンまで歩いて下る


想い出の山    ・    山 日 記    ・    T O P