オーバーガーベルホルン(4063m)

  9月1日、am3:30起床。 屋外のトイレに行くと、昨日と同じ満天の星空であり、満月が煌々と輝いていた。 もともとの天気予報も今日は快晴であったため、早くも心が弾む。 身支度を整えて食堂に行くと、すでにフランス隊は慌ただしく朝食を食べ、少し遅れて入ってきたヘンドリー氏と入れ替わるようにして出発していった。 今日は山頂への往復に10時間以上かかることが予想されているので、私も昨日より幾分早く朝食を済ませ、am4:45に氏とアンザイレンして山小屋を出発した。

  ゴロゴロとした大きな岩の上を5分も歩かないうちに氷河への取り付きとなり、すぐにアイゼンを着ける。 遙か前方の氷河上にはフランス隊を含む先行パーティーのヘッドランプの灯がいくつか揺れている。 取り付きからは傾斜の殆ど感じられない緩やかな登りが続き、まだ目覚めていない体には嬉しい限りだ。 またヘンドリー氏も決して飛ばそうとはせず、普通の歩みを続けていく。 難易度の高い山なので、ルート上にこういう楽な区間があると嬉しくなる。 “もしかしたら今日も夢が叶うかもしれない”と考える心の余裕さえ生まれた。

  ところが、そんな悠長な気分に浸ったのも束の間、何故か突然気分が悪くなり始め、そのうちお腹も少し痛くなってきた。 訳の分からない突然の不可解な体の変調にひどく動揺したが、こんなことで弱音を吐いたら山には連れていってもらえないので、ヘンドリー氏には内緒で騙し騙し歩を進めていった。 岩稜登攀のように息が切れるほどのペースではないのが救いだが、“こんなつまらないことで潰れてしまったら本当に情けない”と気が滅入る。 オーバーガーベルホルンの支峰であるヴェレンクッペに向けて氷河上を左へ回り込むようにして進むと、間もなくクレバス帯となり、冷たい風が上から吹き下ろしてくるようになった。 クレバスを大きく迂回しながらやり過ごすと、氏のペースが少し早くなったような気がした。 このままの状態では先が思いやられるが、今日の登山にこぎ着けるまでの長い道のりを考えると、最悪でも何とかヴェレンクッペまでは登りたいと願った。 突然ヘンドリー氏が後ろを振り返り、「月がとても明るいので、ヘッドランプを消していきましょう」と声を掛けた。 この指示が単に氏の情緒的な理由によるものなのか、前後のパーティーに所在を知られたくないという戦略的な?理由だったのかは定かでないが、灯を消すと気持ちは更に暗くなった。 レモン味の飴玉をしゃぶって気分の悪さをごまかす。 氷河は次第に勾配を増し、また前日までの入山者が少なかったことを物語るかのように、トレイルは脛ぐらいまで新雪に足が潜るようになった。

  am6:10、山小屋から1時間半ほどで広大なトリフト氷河を渡り切り、ヴェレンクッペの岩壁の基部に着いた。 休憩するにはちょうど良い広場があり、先行していたフランス隊と3人組のガイドレスと思われるパーティーが休んでいた。 出発した時点ではかなり差があったのにもう追いついてしまった。 背後にはツィナールロートホルンのシルエットが大きく浮かび、東の空は茜色に染まり始めていた。 ここから先の岩場では休憩する所が無いのであろう、ヘンドリー氏は登攀に備えザイルを短めにセットしながら、「何か食べたり飲んだりしますか?」と休憩を促した。 お腹の調子の悪さは僅かに回復したようであったが、行動食は食べずにアミノ酸入りの温かい紅茶を一口だけ飲んだ。 意を決して?、氏にお腹の辺りを指しながら「リトル・ビット・バッド(お腹の調子が少し悪いのですが・・・)」とさり気なく訴えてみたが、意味が通じなかったのか、それとも私の造り笑顔に騙されたのか、氏は全く気に留めていない様子であった。 氷河上にはまだ幾つものヘッドランプの灯が揺れていたが、皆ヴェレンクッペへのガイドレスのパーティーで、最初からオーバーガーベルホルンの頂を目指していたのは、結局私達を含めここにいる3パーティーだけであった。

  写真を撮っている間に他のパーティーは相次いで出発していった。 アイゼンは外さずにヘルメットを被り、5分ほど休んだだけで私達も彼らの後を追った。 私は内心ホッとした。 先行するパーティーがいるため、この先の登攀では“順番待ち”をすることが予想され、結果的にゆっくり登れるからだ。 しかしこの甘い期待は百戦錬磨の登山家であるヘンドリー氏によって見事に裏切られた。 周囲がまだうす暗いため遠目には分からないが、正しいルート上はミックスとなっており、既にアイゼンを外していた先行パーティーは所々で迂回を余儀なくされ苦戦していた。 それに引き換えルートを熟知している氏は、その状況を見て先行パーティーの後には続かず、急な雪壁のような所を選んで、アイゼンを蹴り込みながら私のためにステップを作り、素早く私を引っ張り上げた。 さすがに高報酬だとサービス?も良い。 結局取り付きを出発してから僅かの間に先行パーティーを追い越してしまった。 後続となった他のパーティーはルートファインディングに手を焼き、私達の動向を気にしている様子がありありとうかがえた。

  間もなく正しいルートと思われる所に合流したようであったが、ヘンドリー氏は先ほどの私の“直訴”にも耳を貸さず、なおも私をグイグイと引っ張り上げ、後続パーティーはあっと言う間に視界から消えた。 岩壁の傾斜が強まり、雪がほぼルート上から無くなった所で、氏からアイゼンを外すようにとの指示があり、急いでアイゼンを外し、後続パーティーの姿が見える前に再び登攀を開始した。 酸っぱい飴玉の効果があったのか、ありがたいことに気分の悪さはだいぶ和らいできた。 また一番心配していた風も全く無く、これで何とかヴェレンクッペまでは登れそうな気がして安堵した。 コンティニュアスで登る時は一生懸命氏のペースについていくが、スタカットで登る時は意識的にゆっくりと登るようにして体力の温存に努める。 後続パーティーに追いつかれない限り、氏も大目に見てくれるだろう。 左手には朝陽に照らされ淡く輝き始めたマッターホルンの北壁が大きく望まれ、その目を見張るような素晴らしい景観に体調の悪さも忘れてしまうほどであった。

  am7:00前、険しい岩稜帯から突然平らな広場のような所に飛び出すと、その直後に待望の御来光となった。 正面には台形のヴェレンクッペの頂稜部が純白の衣裳を纏って鎮座し、スキー場のスロープのような広い斜面の上には、一筋の明瞭なトレイルがその頂に向かって印されていた。 傾斜も緩そうで山頂までここから20分とはかからないだろう。 相変わらずこの広場にも風が無く、昇ったばかりの太陽の恵みを受けてとても暖かい。 ヘンドリー氏から再びアイゼンを着けるようにとの指示があり、図らずも絶好の撮影ポイントで休憩することとなった。 北の方角には昨日登ったツィナールロートホルンがマッターホルンの北壁に負けない迫力で聳え立ち、その頂の右にはヴァイスホルンの頂稜部が顔を覗かせている。 生憎ミシャベルの山々やモンテ・ローザグループは逆光であるが、ありがたいことに今日は予報どおりの雲一つ無い快晴の天気となった。 素晴らしい景色が良い薬となったのか、体調もだいぶ良くなってきたが、まだまだ安心は出来ない。 空腹感はあったが行動食を食べるのは我慢し、再び温かい紅茶だけを飲んだ。

  10分ほどゆっくり休憩した後に眼前のヴェレンクッペの頂を目指して出発したが、後続パーティーはまだ現れなかった。 見た目以上にしっかりした踏み跡がつけられたトレイルに助けられ、拍子抜けするほど簡単に雪のスロープを登り切り、10分足らずで第一関門であるヴェレンクッペ(3903m)の山頂に辿り着いた。 すぐに目に飛び込んできた本峰のオーバーガーベルホルンは、期待を裏切ることのない神々しさで私を圧倒し、そのすぐ右隣にはダン・ブランシュが寄り添うように聳え、その迫力のある景観に付加価値を付けている。 ルート上の難所として恐れられている“大ジャンダルム”と名づけられた岩稜のピークも朝陽に照らされて良く分かる。 ルートや体調次第でこの先どうなるか分からないので、ヘンドリー氏にお願いして一枚だけ写真を撮らせてもらう。 山小屋を出発してから約2時間半が経過し、先日イワン氏から言われた所要時間である5時間のちょうど半分の時間で中間点のヴェレンクッペの頂に着くことが出来たので、ここまで来たら何が何でもあの頂を踏みたいと願った。

  am7:20、いよいよ憧れのオーバーガーベルホルンに向けてヴェレンクッペの頂を出発。 私が先頭になり幅の広い雪稜をコルに向けて下る。 もちろん昨日と同様私達が一番乗りで、前後には全く人影は見えない。 トレイルは先ほどまでの立派な踏み跡とはまるで違う数パーティーの足跡だけとなり、所々にラッセルした苦労の跡も見られ、宿帳にも記されていたとおり、ヴェレンクッペまでのガイドレス登山が圧倒的に多いことが良く分かった。 雪稜は次第に痩せ、ナイフリッジとなった。 稜線上は雪庇となっているのであろうか、踏み跡は一段下がった北側の斜面につけられていた。 標高差で100mほど下るとコルに着き、ここから先は再びヘンドリー氏が先頭になり、登り一本調子の易しい雪稜を登る。 相変わらず不気味なほど風は無く、どうやら山の神に歓迎されたようであった。 氏のペースもゆっくりとなり、私の体調もだいぶ良くなったようで、にわかに登頂への期待が高まってきた。

  間もなく大ジャンダルムの基部に着き、再びミックスの岩登りとなった。 今回もアイゼンは外さずに登ることになったが、先ほどのヴェレンクッペへの登りに比べると明らかに岩のグレードは上がり、クラックが中心の3級の箇所が多くなった。 残置スリングやリングボルトが要所要所にあったが、雪が無いことを前提にこれらの支点が設けられているため、アイゼンの前爪を僅か数cmの岩棚に乗せて登ることもしばしばで、登攀には体力を要した。 しかし相変わらず稜線上には風が無く、太陽の光を浴びながらゆっくりとホールドやスタンスを探して登ることが出来て助かった。 もしこうした環境に恵まれなかったら、素人の私はすぐに困難な状況に追い詰められてしまうだろう。 最後の核心部には長さ10m、直径が3cmほどの荒縄のようなロープが太い鉄杭を支点に上から3本ぶら下がっていた。 ちょうどマッターホルンにある固定ロープのような感じで、意外と簡単に登ることが出来たが、最後の1本を使ってジャンダルムの頂上まで登ることなく、2本目を登り終えた所から、右へトラバース気味に巻くルートを進み、再び痩せた岩稜の登下降を繰り返して大ジャンダルムの登攀を終えた。

  再び登り一本調子の雪稜の登りとなり、雪庇の張り出している稜線から数メートル離れた右の斜面につけられた足跡のトレイルを登っていく。 山頂までの標高差もあと200mほどとなり、このまま足跡のトレイルをひたすら辿って行けば、山頂直下の岩場の取り付きまで何の問題もなく行けるだろうと思った。 また、お腹の調子も良くなってきたので、もう山頂も夢ではないと密かに思い始めたが、そんな素人の甘い考えはこの山には通用しなかった。

  15分ほどゆっくりとしたペースで足取りも軽く登っていくと、次第に勾配が急になり始めた。 下から見上げた時はこの辺りから稜線上の岩場に取り付くのであろうと思っていたが、雪庇の張り出しが大きいため、すぐには岩場に取り付くことが出来そうにない。 そうなると選択肢は山頂直下まで続く北側の雪の急斜面を登るしかないが、この斜面は上方で50度以上の斜度があり、数百メートルの長さにわたって下の氷河まで続いている。 スリップしたら最後、途中では絶対に止まらない。 気が付くと、いつの間にか足跡のトレイルは無くなっていた。 ヘンドリー氏は立ち止まって上を見上げながら、どの辺りで岩に取り付こうかと思案している。 その傍らで臆病な私は再び昨日のように“ここから先は危険過ぎて無理だ”と決めつけて尻込みをしていた。 そんな私の心配をよそに氏の決断は早く、そのまま怯むことなく北側の急斜面に向かって登っていった。 斜面の角度が急になるにつれて風の当たり方が強いのであろうか、先ほどまでとは明らかに雪質が異なり、表面が固くクラストしていた。 氏は再び立ち止まり、右手で繋いでいるザイルの一方を握って私を確保しながら、左手でピッケルを振り上げて、そのブレードの部分で器用に足場を切り始めた。 砕けた氷がガラスの破片のように容赦なく飛んでくる。 何かの本で読んだことはあったが、実際に目で見るのは初めてであった。 いくら高報酬とは言え、急な斜面に30cm位の間隔で足場を作ることは大変手間が掛かる作業である。 私の道楽のために地道な作業を繰り返している氏には本当に申し訳ないが、もう黙って氏の後について行くしかなかった。 足場にアイゼンを斜め横から置き“二の字”の登りが繰り返し続く。 僅か30mほどの標高差を30分ほど費やして凍った急斜面を登ると、ようやく稜線上に岩が露出している所が現れ、無事取り付くことが出来た。 岩場は相変わらずミックスとなっていたが、先ほどの大ジャンダルムの登攀に比べれば容易であった。 そして何よりも二日続きの山行で、氏との呼吸が合ってきたことが登攀をよりスムースにしているような感じがした。 いよいよ今度こそ憧れの頂へのラストスパートに入った。 もう恐れるものは何もない。 無我夢中で岩を攀じる。 間もなく視界には青空の占める割合が大きくなり始め、その僅か数分後には眼前に遮るものなくダン・ブランシュの雄姿が大きく望まれた。 思わず拳を握りしめて「やったぜー!!」と心の底から叫ぶ。

  am9:10、未明に山小屋を出発してから4時間半ほどで、憧れのオーバーガーベルホルンの山頂の一角に辿り着いた。 そのまま10mほど凸凹の岩の上を歩いていくと山頂らしい所があったが、十字架は立っていなかった。 ヘンドリー氏は山頂はさらにあと10mほど先に行った所だと説明してくれ、ほんの僅かだけ高い雪庇の上までわざわざ導いてくれた。 雪庇の先にはマッターホルンの“弟分”であるダン・デラン(4171m)が荒々しい面持ちで氷河から屹立し、ダン・ブランシュにも負けない迫力で望まれた。 雪庇の上は危ないのですぐに岩の露出した所まで引き返す。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!、オーバーガーベルホルン・イズ・マイ・ドリーム!!」。 昨日に続き、素人の私を憧れの頂へ導いてくれた氏に体全身で感謝の気持ちを表現し、両手で拝むように固い握手を交わした。 突然の体調不良で一時は登頂も危ぶまれたが、展望台から羨望の眼差しで眺めていた神々しい山の頂に立つことが出来てもう何も言うことはない。 今回は第一目標のヴァイスホルンに登ることはもう叶わないであろうが、この素晴らしい山の頂を踏めたことで十二分に満足出来た。 氏は私の記念写真を撮り終えると、昨日同様に一段下がった陽当たりの良い場所を陣取り、煙草に火をつけた。 その後ろ姿には正に職人(登頂請負人)の雰囲気が漂っていた。 昨日のツィナールロートホルンの頂に続き、この山の頂も大変展望に恵まれていた。 同峰を取り囲むように聳えているマッターホルン、ツィナールロートホルン、ヴァイスホルン、ダン・ブランシュ、ダン・デラン等の山々は昨日と大きく変わる訳ではないが、昨日は雲海が谷を埋め尽くしていたため、今日の方が高度感が凄くてリアルである。 雲一つ無い快晴無風の頂からは周辺の山や谷や氷河は隅々までくまなく望まれたが、逆に町や人家というものは全く見えない。 目を凝らすと、遥か遠くの足下にスネガの展望台が豆粒のように見えた。 確かにあそこからここを見上げたら、とても素人が行ける所だとは思えないだろう。 心配性の妻は今頃どこかでこの山を眺めながら、私の安否を気にしているに違いない。 一方、私は360度の大パノラマに興奮しながら、同じような構図の写真を何枚も何枚も撮り続けることしか術が無かった。


東の空が茜色に染まり始める


朝陽に照らされるヴェレンクッペの頂稜部


朝陽に照らされるツィナールロートホルンと右肩の南東稜から顔を出すヴァイスホルン


朝陽に照らされるマッターホルン


ヴェレンクッペの山頂から見たオーバーガーベルホルンとダン・ブランシュ(右)


オーバーガーベルホルンの山頂


山頂から見たダン・ブランシュ


山頂から見たツィナールロートホルン(手前)とヴァイスホルン(奥)


山頂から見たマッターホルン


山頂から見たダン・デラン


山頂から見たモンテ・ローザ(左)・リスカム(中)・ブライトホルン(右)


山頂から見たドム(中央)


山頂で寛ぐヘンドリー氏


  am9:30、ヘンドリー氏が腰を上げた。 天候も安定しているため、私が強く希望すればもう少し山頂に留まることは出来そうであったが、素人の私にも先ほど登ってきたルートを下ることが困難であることは分かっていたので、山頂に固執する気は全くなかった。 二度と来ることは叶わない頂に別れを告げ、また下山後に展望台から眺めることを楽しみに下山にかかった。 いつもどおり私が先頭になり、後ろからヘンドリー氏に確保されながら稜線上の岩場を下る。 全く急ぐ必要は無いので、アイゼンの爪を引っ掛けないように注意しながらゆっくりと確実に下る。 今日は昨日のように岩にエビのシッポが張り付いていることもなく気が楽だ。 そろそろ岩場も終わろうかという所で下から声が聞こえ、フランス隊と3人組のガイドレスのパーティーが相次いで登ってくるのが見えた。 すでに私達より1時間ほど遅れているが、彼らは氏の作った足場を登る恩恵を受けることが出来たはずだ。 すれ違い際にフランス隊のお客さんを励してエールを送ると、彼からも登頂祝いの言葉が返ってきた。 岩稜の下降を終え、先ほどの急な雪の斜面の下りとなる。 足場は逆に彼らのお陰で立派になり、目が眩むほどの急傾斜も怖いと感じることはなかった。 しかし下りでは何が起こるか分からないので、一歩一歩足元に集中しながら慎重に下る。 間もなく傾斜は緩み、しばらく快適な雪稜を下った後、再び大ジャンダルムの登下降となったが、体調が良くなったためか登攀もスムースで、全く問題なくクリアーすることが出来た。 コルからはヘンドリー氏が先頭になり、ヴェレンクッペへと100mほど登り返した。

  am11:20、山頂から約2時間で再びヴェレンクッペの頂を踏んだ。 先ほどはただ通過しただけだったので、ヘンドリー氏にお願いして記念写真を撮ってもらう。 この頂を単にオーバーガーベルホルンの支峰として片づけるか、独立したピークの一つとして見るかどうかの議論は他に譲ることにして、この頂からの展望も本当に素晴らしく、地元の登山愛好家がガイドレスで登ってくる理由も納得出来る。 先ほどは思わず息を呑んだ本峰への登攀ルートや大ジャンダルムもすでに懐かしい思い出となった。 ヴェレンクッペの頂から5分ほどで雪のスロープを下り、アイゼンを外してトリフト氷河の取り付きに向かって岩場を下降する。 ミックスの岩場もだいぶ雪が溶けたようで、登りの時とは違い正規のルートを下る。 氷河の取り付きで再びアイゼンを着け、15分ほど大休止をした後、“ウイニングラン”にしては長過ぎるトリフト氷河を下る。 早朝の体調不良の原因は一体何だったのであろうか・・・?。

  pm1:20、山頂から約4時間で山小屋に到着。 再びヘンドリー氏と力強く握手を交わしてお礼を言うと、氏から今日も「グッド・クライミング!」との言葉が返ってきた。 早速氏を食堂に誘い、昼食を兼ねた2日間の山行の打ち上げを行う。 氏は2缶のビールをあっと言う間に空けてしまった。 今日も昼食にレシュティを注文したが、昨日とは違うトマトの乗った別バージョンであった。 たまたま食堂に居合わせた氏の知人のガイド氏に記念写真を撮ってもらったが、氏は悪戯っぽく私の前に自分の飲み干した空のビールの缶を置いたりしてとても上機嫌だった。 二日間にわたり私の夢を叶えてくれた登頂請負人の氏に、感謝の気持ちを込めて100フランのチップを手渡し、メールアドレスを訊ね帰国後に山行中の写真を送ることを約束した。

  ささやかな打ち上げを終えると、ヘンドリー氏は登攀具で武装した勇ましいガイドから短パン姿の“ハイカー”に変身し、明日の仕事に向けて颯爽と山を下りていった。 ツェルマットまでここから1500mの下りであるが、たぶん氏の足なら2時間位で着いてしまうのであろう。 氏を見送ってから私も着替えと荷物の整理を済ませ、山小屋のスタッフにお礼を言って思い出深いロートホルンヒュッテを後にした。 往復8時間以上も歩き続けた直後であったが、憧れの山に登れた満足感で足取りは軽い。 また今日は午後に入ってからも快晴の天気は続き、逆光ではあるが目の前に屏風のように広がるモンテ・ローザグループの銀嶺を眺めながらの下山は、まさに登山者冥利に尽きるものであった。 所々で後ろを振り返り、昨日・今日の思い出に浸りながらも、残りあと3日となった滞在日の間に、どこかもう一山登ろうと思案を巡らす。

  山上のオアシスであるトリフトに近づくと、山小屋の傍らに人がポツンと佇んでいるのが見えた。 目の悪い私にもそれが妻であることがすぐに分かり、ストックを振り回して応えた。 もちろん目の良い妻の方はずっと前から分かっていたようであった。 私のことが心配で、わざわざツェルマットから迎えにきてくれたのかと思ったところ、昨日は予定どおりメッテルホルン(3406m)の頂を目指したが、途中まで霧が濃く(雲海の下だったので)、また山頂付近の雪が多かったため登頂を断念し、今日再びツェルマットのホテルから標高差が1800mある同峰にアイゼンを着けて登り、先ほどこの山小屋に下ってきたとのことであった。 日頃からモチベーションの低い妻にそんな芸当が出来るものかと驚かされた。 以前田村さんに勧められたメッテルホルンは、期待に違わず素晴らしい展望の山であり、またその頂稜部はとてもユニークな形をしていたとのことであった。 私も報告したいことは山ほどあったが、自分だけ大枚を叩いて良い思いをしたので、とりあえず控えめな登頂報告をするに留めた。 もう急ぐ必要は全く無くなり、二人ともかなり疲れていたので、足を労りながらゆっくりツェルマットへと下った。

  pm6:30、ロートホルンヒュッテから3時間半ほどかけてツェルマットに着き、そのまま駅前のマクドナルドに直行して簡単に夕食を済ませた。 ホテルに帰り久々に風呂に入って汗を流すと、目標を達成した安堵感で気が緩み、明日の計画も立てずに寝てしまった。


辿ってきた稜線


ヴェレンクッペの頂稜部


ヴェレンクッペの山頂(背景はツィナールロートホルン)


ヴェレンクッペの岩壁の基部


トリフト氷河を下る


トリフト氷河から見たツィナールロートホルン


トリフト氷河から見たヴェレンクッペ


ロートホルンヒュッテの食堂でヘンドリー氏と


屏風のように広がるモンテ・ローザグループの銀嶺を眺めながら下山する


トリフトから見たカストール(中央左)とポリュックス(中央右)


素晴らしい展望のメッテルホルンのユニークな頂稜部(妻の撮影)


メッテルホルンの山頂から見たオーバーガーベルホルンとダン・ブランシュ(右)(妻の撮影)


山 日 記    ・    T O P