ヴァイスミース(4023m)

  8月28日、am4:30起床。 身支度を整えて本館の食堂へ向かう。 気温は低いが、有り難いことに風も無く満天の星空であった。 昨日の天気予報でも快晴を告げていたので、期待が高まり早くも胸が踊り始める。 “私は本当に単純な人間だなあ”とつくづく思う。 少し遅れて食堂に現れたイワン氏と予定どおりam6:00ちょうどに山小屋を出発。 ガイドブックによれば山小屋から山頂までの所要時間は3〜4時間と短く、クレバス以外の危険は無い山なので全く気は楽だ。 空は僅かに白み始め、5分ほど先にある氷河の取り付きまでの幅の広い岩屑のトレイルにヘッドランプは不要であった。 右手にはドムを盟主とするミシャベルの山々の白い山肌が、まだ明けぬ夜空にシルエットのように浮かび上がり、これから始まるドラマチックな朝焼けのシーンに付加価値をつけている。

  取り付きでアイゼンを着け、アンザイレンして慎重にクレバス帯を登り始める。 ふと、4年前に霧に煙る中を“下見”と言い聞かせてここを訪れたほろ苦い思い出が蘇ってきた。 20分ほど登り体が温まってきた頃、西の空がピンク色に染まり始め、イワン氏に声を掛けて早くも写真タイムとさせてもらう。 その直後に今度はミシャベルの山々の白い山肌がモルゲンロートに染まり始め、すぐにまた足を止めて写真を撮らせてもらうが、氏は快く何度もそれを許してくれた。 北側の斜面を登っているため、御来光を拝むことは出来なかったが、すでに周囲には白い山肌と青空しか見えず、絶好の登山日和となったようだ。 突然今度は氏が足を止め、ルートから少し外れた雪壁に立てかけてあったアルミの大きな梯子を指して、「あれは昨年の猛暑でクレバスが開き過ぎた時に使った物です」と説明してくれた。 クレバス帯を登り終えると、大勢の登山者によって踏み固められた幅が50cmほどある明瞭なトレイルが現れ、以後山頂までそれは続いていた。 氏のペースも昨夜の“公約”どおり非常にゆっくりであり、私はもちろんのこと心配性の妻もすでに登頂を確信したようで、「今日の天気ならガイドレスでも登れたね〜」と軽口を叩くほどであった。

  取り付きから1時間ほど登ると、主稜線に上がる手前に唯一アクセントを付けている大きな岩が露出している所に着き、そこで最初の休憩となった。 先行していた一組のパーティーもそこで休憩していた。 そこは主稜線への取り付きであるばかりか素晴らしい展望台でもあり、足下のサース・タール(谷)を挟んで大きく聳え立つドムが圧巻であった。 モンテ・ローザも良く見える。 「今日は良い天気になりましたね!」とイワン氏に全身で喜びを表現すると、氏は間近に見える山並みを指し「来年はあのリムプフィシュホルン(4199m)を登りに行きませんか?。 あそこにはブリタニアヒュッテという山小屋があって、そこを拠点にすれば翌日シュトラールホルン(4190m)にも登れて非常に効率的ですよ」と、まだ今日の山の頂にも着いていないのに、笑いながら話しかけてきた。 氏も今日の好天に上機嫌なのであろう。

  10分ほど休憩した後、山頂に向けて真っすぐに延びる主稜線の左側をキープしながら(右側は急な崖となっているのであろう)緩やかに登る。 すでにホーザースハウスは足下に小さく見え、ペースは遅いものの短時間で効率良く標高を稼いだようであった。 左手には明日登る予定のラッギンホルンが、この山とは対照的に雪のない岩肌をさらして鎮座している。 トレイルは相変わらず明瞭で、今夏の悪天候もこの山に関しては全く影響がなかったことが分かった。 今日の登山には“苦しい”とか“辛い”とか“不安”という登山中に一度は感じる要素がまるで無い。 唯一心配なのは、こんなに楽な登山を体が覚えてしまうと、これから予定しているヴァイスホルンのような厳しい山が登れなくなってしまうのではないかということである。

  しばらくすると未明に出発したと思われるパーティーがもう下山してきた。 今日中にラッギンホルンにも登るつもりなのであろうか?。 すれ違い際彼等に「リミテッド・エクスプレス!」と声を掛けると、彼らは苦笑いしていたが、イワン氏は私達に「ベリー・ビジー(忙しいのは嫌いだ)!」と吐き捨てるように言った。 相変わらず主稜線の左側をキープしながら緩やかに登っていくと、ちょっとした広場となっている平らなコルに着いた。 ようやくここで私達にも太陽が当たり始めると、イワン氏はとても嬉しそうに空に向かって何やら大きな声で叫んだ。 風もなく日溜まりとなっているそのコルで休憩となったことは言うまでもない。 ここからは山頂も指呼の間に見え、山頂に向けて一筋の明瞭なトレイルが真っすぐに伸びていた。 どうやら先行しているのは先ほどの1パーティーだけのようであった。

  コルからは再び主稜線の左側につけられている日陰のトレイルを登る。 傾斜が少し増して高度感も出てきたが、締まった雪はアイゼンが良く利きとても登り易かった。 左手のラッギンホルンにも良く陽が当たるようになり、写真を撮ろうとイワン氏に声を掛けると、氏は笑いながら「それは構いませんが、山頂まであと5分ですよ」と言った。 氏の言ったとおり間もなく傾斜は緩み、稜線は陽光に満ち溢れたなだらかな雪のスロープとなった。 数十メートル先に見えるパーティーのいる所が山頂であろう。

  am8:55、出発してから僅か3時間足らずで憧れのヴァイスミースの山頂に辿り着いた。 大きな雪庇の張り出した広い山頂に十字架は無かった。 雲一つ無い青空の下、すぐ隣のラッギンホルンの右にはフレッチホルン(3993m)が顔を揃え、その遙か後方には昨年訪れた懐かしいベルナー・オーバーラントの名峰の数々が遠望された。 モンテ・ローザはツェルマットからの見慣れた山容とは全く違う姿で望まれ、相変わらずドムを頂点とするミシャベルの山々は恰好の被写体を提供している。 絶好の天気に恵まれ、何の苦労もなく辿り着いた頂には達成感や安堵感といった言葉は見当たらない。 何と穏やかで幸せに満ちたアルプスの頂であろうか!。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、パーフェクト!」。 イワン氏と満面の笑顔で握手を交わす。 氏も絶好の天気に恵まれた頂に、一人の登山者として喜びを表していた。 妻も全く疲れた様子は無く、余裕の笑顔だ。 妻に続いて3人組のパーティーとも握手を交わし、お互いに記念写真を取り合った。 写真撮影や行動食の補給もいつものように慌ててすることはない。 2台のデジタルカメラとコンパクトカメラで気が済むまで周囲の写真を撮った。 4年前に悪天候で登山を断念した悔しさも報われ、先日のピッツ・ベルニーナ、ピッツ・パリュに続き、相次いで雪辱を果たすことが出来て気持ちも晴々とした。 妻と山座同定を楽しんでいると、イワン氏もさり気なくこれに加わり、私達の知らないイタリア側の遠くの山や湖、そして周囲の低い山の名前を一つ一つ丁寧に教えてくれた。 モンテ・ローザの足下に見える湖は、1965年に氷河が大崩落して大勢の死者が出たために造られた人造湖であるとのことであった。 私達の登ってきたルートの反対側にはアルマゲラー小屋(2860m)から登ってくる明瞭なトレイルがあり、二組のパーティーが相次いで登ってきたのは意外だった。 

  am9:40、快晴無風の山頂に45分ほど滞在した後、イワン氏に促されることもなく私を先頭に下山にかかった。 急いだ訳でもないのに30分ほどであっと言う間に主稜線を下り終え、先ほど休憩した大岩の辺りに着くと、土曜日ということもあってか麓からの日帰り登山者達が次々に登ってくるのが見えた。 さながらブライトホルンやモン・ブランのような賑わいだ。 すでに気温は上昇し、雪も腐り始めてきているので、快適な登山にはならないだろう。 当初の計画どおりであれば、私達もあの集団の中にいたと思うと、今回は正に“災い転じて福となす”との諺どおりであった。 少し優越感に浸りながら登ってくる多くの登山者達に道を譲り、鼻歌交じりにマイペースで下る。 相変わらず楽しさに満ち溢れた登山である。 しかも今日は山小屋に連泊するため麓まで下ることもない。 下部のクレバス帯からはイワン氏が先頭になり、クレバスを跨いだり飛んだりしながら和気あいあいと進んだ。

  am11:00、ホーザースへは目と鼻の先である氷河への取り付きに到着。 憧れのヴァイスミースへの極楽登山は終わった。 登攀具を外してしばらくのんびりと寛ぐ。 取り付きからの岩屑のハイキングトレイルには氷河見物の日本人観光客も散見され、そのうちの一人に「あの山は登ることが出来るんですか?」と訊ねられ、何故かそれが少し誇らしかった。 am11:30に山小屋に到着。 別館で着替えをした後、食堂でイワン氏と昼食を共にする。 氏の勧めで注文した通称『ポパイ』という料理は、下の土台となっているパンにワインがたっぷりとしみ込んでいたので、お腹が一杯になったことも手伝って急に睡魔が襲ってきた。 しばらく氏と歓談した後、天気も少し崩れてきたため、別館の寝室で昼寝を決め込んだ。

  眠っている間にさらに天気は悪くなったようで、目覚めた時にはすでにヴァイスミ−スは雲の帽子を深く被っていた。 あっという間にpm6:00からの夕食の時間となり食堂に行くと、今日は土曜日ということもあって昨日の倍以上の宿泊客で賑わっていた。 今晩のメインディシュは豚肉を柔らかく煮たものと山小屋のメニューの定番であるマッシュポテトであり、昨夜に続きとても美味しかった。 麓からのゴンドラが新鮮な食材を運んでくれるからであろう。 残念ながら天気は回復せず昨日のような素晴らしい“夕焼けショー”は叶えられなかったが、雲の合間から稜線に沈む夕陽だけは辛うじて見ることが出来た。

  夕食後イワン氏に今後登山を予定している三つの山々についの話をすると、私のアルプスでの登山経験からすれば、全て登れるのではないかという嬉しい“お墨付き(社交辞令?)”を頂くことが出来た。 尚、通常ヴァイスホルンは6時間、オーバーガーベルホルンは5時間、ツィナールロートホルンは4時間で登れるとのことであり、私がガイドブックを読んで予想した時間より全て1時間短かった。 すでにアルパインセンターでガイドの予約はしてあることを氏に話したところ、意外にも氏は笑いながら「予約をキャンセルして私と一緒に登りませんか?」と提案してきた。 今日一緒に登ったことで氏には“良い客”に思えたのであろうか?。 もちろん私も氏なら申し分ないし、そう願いたかったが、今年はこれらの山のルートの状況が悪く、他の山に変更せざるを得ない可能性があったことと、会話に自信がないため電話だけでは詳細なやりとりが出来ない(携帯電話もない)ので、折角の氏からの誘いを苦笑いしながら断らざるを得なかった。 多分“プライベート”にした方が所属先のガイド組合へのマージンを支払わなくて済み、氏の手取りが増えるからであろう。 氏のあっけらかんとした合理的な提案に、いかにもイタリア風な気質を感じた。


ミシャベルの山々の白い山肌がまだ明けぬ夜空にシルエットのように浮かび上がる


ミシャベルの山々がモルゲンロートに染まり始める


取り付きから西稜の肩に向けて登る


西稜のコルから見たヴァイスミースの山頂


ヴァイスミースの山頂直下


ヴァイスミースの山頂


山頂から見たラッギンホルン    背後はベルナー・オーバーラントの山々


山頂から見たモンテ・ローザ


山頂から見たドムを盟主とするミシャベルの山々


山頂から見た東側の風景


山頂から遠望したアレッチ氷河とフィンスターアールホルン(右上)


西稜のコルから見たヴァイスミースの山頂


西稜のコルから見たラッギンホルン


中間点の露岩付近から見た山頂


中間点の露岩付近から見たビーチホルン


氷河の取り付きから見たドム(中央)


ホーザースハウスの食堂


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