9月1日、長かった猛暑にも終止符が打たれ、避暑地らしい涼しい朝を迎えた。 今シーズンのアルプス山行も今日で終わりだ。 昨夜の天気予報では曇り時々雨という悪い予報だったが、雪化粧したアイガーの頂上に朝陽が当たってキラキラと白く輝いていた。 山は美しいが、当分の間アイガーは登れないだろう。 ピッツ・ベルニーナには登れなかったが、第一志望のアイガーが1回のチャンスで登れたことは幸運だったとあらためて思った。 今日は天気が悪いので町の散策だけで過ごす予定でいたが、青空が拡がったため、以前から行ってみたかったファウルホルン(2681m)へのハイキングに出掛けることにした。
ファウルホルンはグリンデルワルトの町(谷)を挟んで南側のベルナー・オーバーラントの高峰と対峙している山稜の一峰で、北側の眼下にはブリエンツ湖を見下ろす展望に恵まれた山だ。 私がアイガーを登った日に妻が縦走したルート(フィルストの展望台〜バッハアルプゼー〜ファウルホルン〜シーニゲプラッテ)は、グリンデルワルトを起点とするハイキングトレイルの中では折り紙付きで、ファウルホルンはこのルートのハイライトだ。 今日はこのコースを一部割愛し、尾根を縦走せずにグリンデルワルトからファウルホルンを周回する予定だ。
先日感銘を受けた町外れの教会の墓地に妻を案内し、その前のバス停からポストバスに乗って2週間前に行ったグローセ・シャイデック(1962m)に再度向かった。 am10:00ちょうどにバスが峠に着き、新雪により前回とは全く趣を異にした白い肌のアイガーやヴェッターホルンの写真を撮ったが、手袋をしないと寒いほど気温は低かった。 写真を撮り終えると間もなく天気は急変し、青空はあっという間に消えて空の色は鉛色に変わってしまった。 アイガーもいつの間にかどす黒い雨雲に覆われ、周囲の景色も全く輝きを失ってしまったが、マーモットの甲高い鳴き声に耳を傾け、トレイルの脇の高山植物を愛でながら、予定どおりフィルストの展望台(2171m)を目指して歩き始めた。 エンツィアンというスイスではメジャーなリンドウ科の紫の花も、寒さのせいか花びらは固く蕾んだままだった。 絶望的な空模様が作りだす寒々しい山肌に、放牧された多くの牛たちが白・ベージュ・茶・黒といった色々な模様のアクセントをつけ、カウベルの音を賑やかに鳴らしていることが唯一の救いだった。 フィルストの手前でザイル等の登攀具を持った日本人のパーティーに出会った。 “この辺りで登攀具を使って登る山は無いはずだが”と思いつつ挨拶を交わすと、先日メンヒスヨッホヒュッテでお会いした北九州市役所の山岳会の方々だった。 早速話を伺うと、グリンデルワルト周辺もこの2〜3日天気が悪く、高い山には登れなかったとのことで、今日は先日私達が登ったシュヴァルツホルンに登ってきたという。 トレッキングピークの山も降雪により“ヴァリエーションルート”に変わったのだろう。
pm0:30にフィルストの展望台に着いたが、気温は6℃しかなく、陽射しもないので風が少しでも吹くとかなり寒い。 このまま下山してしまおうかとも思ったが、天候の回復を祈りながら余った食料で作った昼食を食べ、山上のオアシスのバッハアルプゼー(2265m)まで行ってみることにした。 グリンデルワルト周辺でも一番人気のあるトレイルも今日はさすがにハイカーの姿は少ない。 湖の手前辺りからトレイルの脇に昨日降った新雪が見え始めた。 フィルストからはただ黙々と霧の中を歩き続け、1時間ほどでバッハアルプゼーの湖畔に着いた。 3年振りに訪れた絶景地だったが、深い霧が辺りを包み、山々はおろか湖すら満足に見ることが出来ず、写真を撮るのも悲しくなるくらいだった。 しばらく湖畔に腰を下ろし、名残惜しいスイスの滞在をしみじみと味わっていると、突然頭上から太陽光線が矢のように射したかと思うと周囲の霧が一瞬上がり、エメラルドグリーンに輝く湖が姿をあらわした。 僅か2〜3分の出来事だったが、山の神からの粋なプレゼントに思わず歓声を上げずにはいられなかった。 更に霧が上がることを期待して最終目的地のファウルホルンまで行ってみることにしたが、期待とは裏腹に登るにつれて霧はますます深まり、雨粒が落ちてこないのが不思議なくらいだった。 足早にファウルホルンから下ってくる人はいるが、私達の後から登ってくる人はもういなかった。 湖からゆっくり小1時間ほど登ると、古びた避難小屋(休憩舎)に着き、小屋のすぐ上で今日の下山コースに予定しているブスアルプへ下るトレイルが分岐していた。
快晴の日に頂を踏んでいる妻を小屋に残し、空身でファウルホルンの山頂を目指す。 寒い所で長時間妻を待たせては悪いので駆け足で登る。 今回登れなかった憧れの山々への思いが一気に爆発したかのように走るスピードに拍車が掛かった。 トレイル上には10cmほどの新雪が積もっていたが、人気のコースなので既に踏み固められた立派なトレイルが出来ていた。 10分ほどで山頂を巻いてシーニゲプラッテ方面に向かう縦走路との分岐となり、これを左手に見送ってさらに勾配を強めたジグザグのトレイルを5分ほど息を切らして登っていくと、頂上直下に建つヒュッテがおぼろげに頭上に見えた。 二棟に分かれていた古びたヒュッテの間の階段を通り、pm3:20にファウルホルンの山頂に着いた。
天気が良ければ360度の展望に恵まれる素晴らしい頂だが、ヒュッテのスタッフが黙々と物資の整理をしていただけで他には誰もいなかった。 濃霧のため視界は10m程しか利かなかったが、私にはこの頂からの景色が良く見えた。 二度の滞在で充分に楽しませてくれたベルナー・オーバーラントの山々に対してもはやカメラは不要だった。 素晴らしいガイド諸氏に連れていってもらった数々の高嶺のピーク、登山の合間に妻と歩いたハイキングトレイル、宿泊した山小屋や滞在中に知り合った方々の記憶がまるで昨日のことのように鮮明に思い出された。 その思い出を一つ一つ噛みしめるように小広い山頂を一周し、周囲に向かって心のシャッターを切った。 僅か5分ほど滞在しただけで霧に煙るファウルホルンの頂を辞して妻の待つ避難小屋へ駆け降りていったが、何故か私の心の中は晴々としていた。 アルプスの蒼い空のように・・・。