ロープヘルナー(2566m)

   8月24日、am7:00前の天気予報によると今日と明日の天気はまずまずだが、夕立と雷が予想される少々不安定なものだった。 結局、この天気予報は見事に当たったので、ガイドが雇用出来なかったことは幸いだった。 階下のレストランに行き、今日もアイガーの見える窓際の席に座ったが、登れたことによる気持ちの余裕からか、アイガーが一回り小さく見えた。 朝食をのんびり食べながら、計画していたハイキングのリストの中から、ロープへルナー(2566m)という山に登ることにした。 ハイキングのガイドブックには、昨日妻が縦走したトレイルは“表銀座”で、今日のトレイルは“裏街道”だと表現されていた。 コースタイムは6〜7時間だ。

   am9:00にホテルを出発し、観光案内所にピッツ・ベルニーナ登山のガイドの予約をするために立ち寄る。 3年前に訪れた時に応対してくれた上西さんと再会した。 7年前からこちらに勤めているという上西さんも、今シーズンの暑さには驚いているようだった。 am9:50発の下りの登山鉄道に乗り、ツヴァイリッチーネンで乗り換えて、am10:25にラウターブルンネンに到着。 駅前の観光案内所で登山口のイーゼンフルー行きのバス乗り場を教えてもらう。 観光案内所で貰った時刻表には一般のものには載っていない臨時便も記されていた。 出発時間近くになるとバス乗り場にはどこからともなく人々が集まり、まるで図ったかのように20人乗りの村営の小型マイクロバスはぴったり満席となった。

   am11:05発のバスは5分ほど谷間の道を線路沿いに下った後、左に折れて谷から這い上がるように狭い急勾配の道を登り始めると、間もなくトンネルに入った。 トンネルの内部は左方向にカーブしているようで、バスはぐんぐん左へ左へと回り込むように登っていく。 いったいこのトンネルの構造はどうなっているのだろうと不思議に思い始めた時、突然目の前が明るくなり、バスは一気に高度を稼いで崖のような所に躍り出た。 どうやらこのトンネルは山中をループ状に貫いていたようだった。 バスは相変わらず急勾配の道で谷から這い上がり、駅から15分ほどで終点のイーゼンフルー(1081m)に着いた。 裏街道にもかかわらず、週末のせいか車が10台ほど駐車していた。 荷物用かと思うような縦型の小さなゴンドラに乗り、ハイキングの起点となるズルワルト(1530m)に向かう。 ゴンドラは急勾配の崖を舐めるように駆け登り、僅か7〜8分ほどで約450mの標高を稼ぎズルワルトに着いた。 逆光ではあるが、谷を挟んでヴェッターホルンやベルナー・オーバーラント三山が屏風のように望まれ、麓の緑の牧草地とのコントラストが絶妙なアルプスらしい風景が展開していた。

   『ロープホルンヒュッテ方面』と記された黄色のハイキング標識に導かれ、牧草地につけられた平らな幅の広い車道のようなトレイルを歩く。 気温が高いので遮るものが無い日向は、夏の陽射しでとても暑い。 牧草地には時期が遅いにもかかわらず、クロッカスを中心に様々な種類の高山植物が咲いていた。 トレイルが次第に細くなり勾配もきつくなってくるとようやく樹林帯に入った。 展望や花は無くなったが、涼しくてほっとする。 途中何人かのハイカー達とすれ違う。 裏街道だが愛好者は多いようだ。 1時間ほど樹林帯の中を黙々と登り続けたが、昨日の登山による足の疲労は余り感じなかった。 時々頭の中に昨日逃したメンヒのことが浮かんでくる。

   突然樹林が切れ、明るい草原のような所に飛び出した。 正面に熊の手の指のようなユニークな形をした奇峰ロープヘルナーが、そして右上の高台の上にはロープホルンヒュッテがそれぞれ小さく見えた。 しばらく登ると地図には載っていない牛小屋に着いた。 入口の脇には人の頭ほどある大きなカウベルがずらりと並んでいる。 小屋はトレイルの分岐に建っていて、左に登ればロープヘルナー、右に登ればロープホルンヒュッテ、その中間を登るとズルスゼーという湖に至る。 トレイルを右にとり、15分ほどで赤いスイスの国旗がたなびくロープホルンヒュッテ(1955m)に着いた。 ちょうどランチタイムだったので、ヒュッテのテラスは大勢のハイカー達で賑わっていた。 まだ目標のロープヘルナーまでの道のりは長かったが、今までに登ったり歩いたりした思い出の山々の絶好の展望台となっているヒュッテの傍らでゆっくり寛いだ。

   pm1:50、重い腰を上げてヒュッテを出発。 正面にロープヘルナーを望みながら、ズルスゼーの湖畔を通って先ほどの小屋に戻ってくると、にわかに上空を黒い雲が覆い始めた。 グリンデルワルト方面の空はまだ青かったので、そのまま予定どおりロープヘルナーに向かって急斜面のトレイルをジグザグに登っていった。 甘い期待も虚しく、15分ほど登った所でとうとう雨が降り出し、あっと言う間に本降りとなった。 仕方なくその場で立ち止まり、一本しかない傘の下で二人で雨宿りをする。 幸い10分ほどで小康状態となったため、再び急な斜面を登っていくと、ソオス谷へと下るトレイルとの分岐に牛小舎があり、その軒下で雨宿りをすることにした。 牛小舎の周囲は牛の糞だらけで、雨で緩んだ泥のような地面と区別がつかないので、スリップしないように慎重に歩く。 このま登り続けるか谷に下るかを思案していると、山頂からのトレイルを一人のハイカーが濡れ鼠になりながら下ってきて私達の傍らに逃げ込んできた。 ロープヘルナーの頂稜部の巨大な岩塔に登れるかどうかはガイドブックに記されてなかったので、「山頂まで登られたんですか?」とそのハイカー氏に訊ねてみたところ、「足場の悪い所もありましたが登れました。 ここから1時間位ですよ」と教えてくれた。 登れないと分かれば、天気も不安定なので潔く諦めようと思ったが、このハイカー氏の情報により登ることに決め、再び雨が小降りになったところを見計らって山頂を目指して出発した。 雨風はしのげないが、尾根上のトレイルからの展望が良いことだけが救いだ。 すぐにまた他のパーティーが下ってきたので情報収集すると、彼らは頂上には登らずにその脇を巻いてきたとのことだった。 次のパーティーはラテン系で全く英語が通じなかった。 しばらく登っていくと今度は14〜5人のいかにも岩登りの訓練の帰りのようなヘルメットを被った団体とすれ違った。 果してハイカー氏の言ったとおり本当に山頂まで辿り着けるのだろうか?。

   雨もようやくあがり、牛小舎から40分ほどでロープヘルナーの巨大な岩塔群の基部に着いた。 緑の稜線から突き上げている黒々とした熊の手の指のような奇妙な岩塔の高さは50mといったところか。 垂直に近い岩壁の左に明瞭なトレイルがつけられていたが、右にも微かな踏み跡があった。 ハイカー諸氏の情報から、直感的に右が登攀ルートではないかと思い、ルートファインディングしながら踏み跡を辿り、バンド状となっている所をしばらく登ってみたが、途中で全く手掛かりが無くなってしまった。 仕方なく先ほどの分岐に戻り、今度は左のトレイルを進むことにした。 取り付きを探しながら岩壁の真下の巻き道をトラバース気味に歩いていくと、上からパラパラと細かい石が落ちてきた。 この上が登攀ルートに違いないと上を見上げると、そこには登山者の姿はなく、石を落としたのはシュタインボックの親子だった。 先ほどの団体が山を下り、もう今日は誰も来ないと思ったのだろう(実際私達が最後だった)。 彼らとの遭遇に胸を踊らせたが、肝心の登攀ルートは最後まで分からないまま岩塔群の基部を通過してしまった。 しかし岩屑のコルを挟んで、その直ぐ前に独立した岩塔がもう一つあり、絶壁を巻いて裏側に回り込んでみると、そこを登る踏み跡があった。 岩屑の踏み跡を辿ってジグザグの急斜面を登っていくと、無事その頂(2566m)に辿り着くことが出来た。

   眼前にはコルを挟んで手が届きそうな所に、登れなかった巨大な岩塔群が鎮座していた。 標高はほぼ同じだったので、ようやくハイカー諸氏の一連の話の内容が理解出来た。 どちらが正式なロープヘルナーの頂上なのかは分からないが、こちらの頂も反対側がスッパリと切れ落ちた崖となっていて、遙か眼下にはインターラーケンオストの町とその左にトゥーン湖、右にブリエンツ湖が見えた。 ロープホルンヒュッテもすでに豆粒ほどの大きさになっている。 斬新な山頂からの景色に心を奪われ、いつのまにか20分ほど経過してしまったが、天気は相変わらず不安定で帰りの電車の時間も心配になってきたので、グリュッチュアルプのケーブル駅を目指してソオス谷方面へ下ることにした。

   来た道を引き返すと、先ほど岩壁の上にいたシュタインボックの親子がトレイルを横切り、下の牧草地に草を食みに出掛けるところだった。 何度も後ろを振り返りながら雨宿りした牛小舎の手前まで戻り、分岐をソオス谷に向かって折れ、再びロープヘルナーに戻るような感じでトラバース気味に牧草地の中の踏み跡を緩やかに下る。 再び頭上にはロープヘルナーの岩塔群が違った形で見えてきた。 目を凝らすとあちこちにシュタインボックの姿が見られた。 ソオス谷を流れる沢の源頭部を飛び石伝いに渡り、急な崖をジグザグにぐんぐん下り高度を下げる。 再び小雨がパラつき始めた。 谷底まで下り、沢と平行してつけられている平坦なトレイルを黙々と歩く。 一軒の山小屋風の廃屋を過ぎると五叉路の分岐があった。 地図を確かめながら少し登り返すと再び展望が開け、要所要所にベンチの置かれた明瞭なトレイルとなったが、肝心の天気は回復せず山々は雲を呼んでいた。

   しばらく行くとトレイルは薄暗い樹林帯の中をトラバースするようになり、樹林が切れた所がグリュッチュアルプのケーブル駅(1485m)だった。 同駅はミューレンに向かう登山電車とラウターブルンネンへの下りのケーブルとが接続しているが、時間が遅かったせいかハイカーの姿はおろか駅員もいなかった。 本当に電車やケーブルはまだ動いているのだろうか?。 ベンチもない寒々しい改札口で首を長くしてケーブルの到着を待っていると、ほんの一瞬だったが、厚い雲や霧が風に飛ばされ、夕陽に照らされてピンク色に染め上がった神々しいユングフラウの雄姿が突然目の前に大きく現れ、ハイキングのフィナーレを飾ってくれた。

   静寂の空気を切り裂いて突然電車の来る音が響きわたり、20人ほどの乗客を乗せた小さな登山電車が到着した。 予想どおり乗客の全員がその直後にラウターブルンネンから上がってきたケーブルに乗り換え、私達と同様にラウターブルンネンへ下った。 ラウターブルンネンからは往路を戻り、pm8:05発の登山電車に乗って次のツヴァイリッチーネンで乗り換え、薄暗くなったpm9:10にようやくグリンデルワルトに帰り着いた。


ベルナーオーバーラント三山の好展望地に建つロープホルンヒュッテ


ロープホルンヒュッテから見た奇峰ロープヘルナー


ロープヘルナー(右の岩塔を登った)


ロープヘルナーで見たシュタインボックの親子


ロープヘルナーの巨大な岩塔群


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