5月4日、昨日からの雪が降り止まず、ナーでは今までで一番多い積雪となった。 今日からテシ・ラプツァ峠に向けてのトレッキングが始まるが、朝食後にポーター達が集まらず、9時半にロッジを出発する。 平岡さんのGPSで受信している簡易な天気予報では、ナーは明日から5日間晴れの天気が続くようだ。 ヤルン・リとの分岐を過ぎてからも平坦な道が続いたが、雪のため落ち着いて休めないのが辛い。 ツォー・ロルパ(氷河湖)が近づいてくると傾斜が急になり、積雪量も一段と増えてきた。 ツォー・ロルパは今回のトレッキングで一番楽しみにしていた場所だが、雪でホワイトアウトした状況ではなす術がなかった。 湖尻に建つ新しい山小屋でララ・ヌードル(インスタントラーメン)を食べて一息ついた。
山小屋から少し下ってから、広いモレーンの谷を緩やかに登っていく。 山小屋から1時間ほどで着いたチュキマのキャンプ地には新しい避難小屋が建っていた。 GPSでの標高は4584mだった。 高度障害なのか、到着直後から強烈な睡魔が襲ってきた。 SPO2は83、脈拍は69だったが、体調はヤルン・リのB.Cよりも悪い感じがした。 夕食はシャム・ダイが調理したダルバートと卵焼きにレトルトの穴子の蒲焼きを加えてテントの中で食べた。
5月5日、深い眠りで目覚めると、昨日までとはまるで違う青い空と白い山が見えた。 放射冷却で冷え込んだテントの内側の霜が酷く、寝袋もびっしょり濡れていた。 朝食はラクパが届けてくれたララ・ヌードルをテントの中で食べた。
沢沿いのトレッキングルートをアタック用の二重靴を履いて歩く。 出発するとすぐに暑くなり、陽射しも強烈になったが、昨日までの天気とあまりにも違うため、暑さに対して全く対応出来ない。 水は2L近く用意したが、所々で雪を口に含みながら歩く。 夜中との温度差は体感気温で50度くらいありそうだ。 モレーンの沢を登っていくので標高はほとんど稼げないが、焦らずゆっくり登る。 ツォー・ロルパ(氷河湖)の全容が見える所まで来ると少し疲れも取れた。
ヤルン・リを一緒に登ったベディンの案内人が、ナーのロッジに食堂テント(夜はポーター達の寝場所となる)を放置したままベディンに帰ってしまうという事件があり、ラクパが食堂テントをナーまで取りに戻ったため、隊のペースは遅々として捗らなかった。 積雪も次第に増え、ラクパの代わりに田口さんとシャム・ダイが交代で先頭をラッセルする展開となった。 最初の峠のような所で一息入れると、そこから先は登山道が露出していたが、標高差で150mほど下ったため、出発地点と標高が変わらなくなってしまった。 落石が多い危険地帯をさらに下ると、意外にも前方に地図に記されていない山小屋が見えてきた。
天気は安定し日はまだ高いが、今日のトレッキングはこの山小屋までとなった。 GPSでの山小屋の標高は4662mで、チュキマより100mほどしか上がっていなかった。 新しい山小屋は密閉性が高く快適だったが、テントサイトの立地はあまり良くなかった。 SPO2は85、脈拍は70で、体調は昨日よりも良かった。 夕方になってラクパがようやく山小屋に着いたが、疲労の色が濃いことが見て取れた。 夕食は小屋の中で、ダルバートと卵焼きにレトルトの鰯の生姜煮を食べた。 今日は入山以来初めて一日中天気が良く、夜も星空が素晴しかった。
5月6日、昨日と同じような快晴無風の良い天気となった。 起床時のSPO2は84、脈拍は62だったが眠りが浅く、体調は万全だった昨日ほど良くなかった。 朝食はゆで卵とジャガイモにパンケーキで美味しく食べられた。
山小屋から雪のない登山道を下り、昨日と同じようにモレーンの沢を延々と登っていくが、トータルでは下りの方が多く、歩けば歩くほど出発地点より標高が下がっていく。 周囲の山々の景観が素晴しいのが救いだ。 その後も何度か登り下りを繰り返し、ようやくモレーンから離れる場所にある目印の大岩が眼下に見えた。 大岩の右側を下り、左手のルンゼを少し登って右岸の岩場に取り付く。 意外にも岩場のルートは良く整備されていて、新しい金属製のワイヤーやステップが取り付けられていた。 岩場を登りきると間もなく、アルプスにあるような斬新な金属製のシェルターが目に飛び込んできた。 シェルターにはオーストリア人の登山家のデビッド・ラマの名前と標高が記されていたが、地図には記されていなかった。 今日のキャンプ地はここに決まり、明日のテシ・ラプツァ峠越えの可否を見極めるため、ダワとラクパが偵察とトレースを付けに出掛けていった。
5月7日、今回の遠征の目的のテシ・ラプツァ峠(5755m)を是が非でも越えるため、未明にビバークシェルターを出発する。 氷河の峠越えは登山と変わらないので、スタートからアイゼンを着けていく。 昨日までのような快晴の天気ではないが、まずまずの良い天気になりそうで安堵した。
最初の急な岩棚を登ると、その後はしばらく緩やかな登りが続いた。 新雪はそれなりに積もっていたが、先行するシェルパと田口さんやポーター達のトレースに助けられる。 周囲の山々の景観は昨日にも増して素晴しいが、陽射しが当たるようになると暑くなり、日影で風に吹かれると寒くなるのが玉にキズだ。 パルチャモの北壁は見えてきたが、テシ・ラプツァ峠はなかなか見えない。 一箇所だけあった急な雪壁を慎重に登ると、ようやくテシ・ラプツァ峠方面の展望が開けた。
峠の手前からは時々雪が舞い、風が吹き抜ける峠は雪が氷化していた。 シェルパがフィックスロープを張ってくれたので、これを掴んで登る。 待望のテシ・ラプツァ峠には雪に埋もれたタルチョがあっただけだったが、憧れのパルチャモが指呼の間に神々しく望まれ、クーンブの山々の一部も遠望された。 予想どおり峠の反対側からのトレースはなく、しばらく誰も峠を訪れていないことが分った。
峠から少し下り、ビバークシェルターから10時間ほどを要してパルチャモのH.Cに着いた。 H.Cも深い雪で覆われ、最近利用されたような形跡はなかった。 設営してもらったテントに入ると間もなく雪が降ってきたので、明日のパルチャモの登頂に一層不安が募った。 夕食はフリーズドライの白米とビーフシチューにカップうどんで、高所ながらそれなりに美味しく食べられた。 夕食後に平岡さんから明日の行動予定についての説明があったが、かなり大変な登山になるとのことで身が引き締まる。 夜中は頭痛は無かったが、持病の鼻詰まりで殆ど眠れなかった。
5月8日、3時過ぎに起床してアタックの準備にかかる。 雪は止んでいたが、風が当たらないキャンプ地に風が吹いていたので、テシ・ラプツァ峠から先では強風が予想された。 キッチンスタッフからお湯を貰い、カップうどんと羊羹を食べる。 5時過ぎに平岡さんを先頭に田口さん、石塚さん、私の順でロープを結んで出発する。 木賊さんは残念ながらメンバーに加わらなかった。 テシ・ラプツァ峠まではトレースがあるためか、ダワとラクパは後から追いかけてくるようだ。
テシ・ラプツァ峠までは昨日の下りのトレースを登り返す。 平岡さんのスピードは早くはないが決して遅くはない。 予想どおり峠に着くと風が強まり、前方のいたる所で雪煙が舞っていた。 気温も低いがむしろ酸欠で指先が冷たいため、オーバー手袋を羽毛のミトンに替える。 峠からは正面に見える山頂方面に向かってほぼ真っ直ぐに登っていく。 間もなくロープを結んだダワとラクパが追いついてきたが、何故か先頭に立ってラッセルすることなく、私達を後方や側面から支援するという形になった。 風は吹き止むことはなかったが、陽光で暖かくなってきたので助かった。
出発してから1時間半ほど登った所で、平岡さんがラクパとルートの偵察に向かったため、図らずも最初の休憩となった。 風も少し弱まり、周囲の山々の写真を撮る。 意外にも間もなく戻ってきた平岡さんから、ノーマルルートに合流するために通る区間の雪の状態が悪く、現状の装備では安全な登山が出来ないため、登山を中止せざるを得ないという説明があった。 何故こんなに早く登頂を諦めるのかと一瞬耳を疑ったが、これまでの天気の経緯や状況を鑑みて、登頂は紙一重だと思っていたので、この決定にはメンバー一同何ら異論はなかった。 高度計の標高は5840mと6000mにも達しておらず、H.Cからも200mほどしか登っていなかったが、最高到達地点での記念写真を撮り合って下山することになった。
H.Cで1時間ほど撤収作業を行ない、メンバー全員の記念写真を撮ってナムチェ方面へ下る。 ここからはクーンブ山群の領域となるがトレースはなく、登攀具などの装備がないポーター達にとっては昨日以上に過酷なものとなった。 案の定、出発して間もなくポーターの一人が滑落し、運良く10mほどで止まったものの、荷物やテントがさらに下まで落ちてしまい、平岡さんとラクパが救助と荷物の回収に向かった。 その後もワイヤーロープやハシゴのあるミックスの急な岩場があり、ポーター達が安全に下れるように荷物をロープで下ろしたり、私達も懸垂下降で下る場面もあった。 昨日と同じように多くの時間を要したが、山頂アタックの時間が短かったことが幸いし、ナムチェ側からの最終集落となるテンボーのロッジに明るいうちに着いた。 農家が片手間にやっているような簡素なロッジだが、野菜などの食材が豊富なことも手伝って料理が丁寧で美味しかった。