【ロールワリン山群】
想定外に長引いたコロナ禍で海外の山に行けなくなり、ようやく4年ぶりにガイドの平岡さんが募集したネパールの登山ツアーに参加することになった。 目標の山はラムドゥン(5930m)とパルチャモ(6273m)の2座で、いずれも過去に行ったことがないロールワリン山群に聳える山だ。 パルチャモへのアタックベースとなるテシ・ラプツァ峠(5755m)はロールワリン山群とクーンブ山群を繋ぐ氷河の峠で、一般的なトレッキングの許可書では通行出来ず、標高も高いことから訪れる人も少ない辺境の地のようだ。
一般的にパルチャモを登るには、クーンブ山群の登山やトレッキングベースとなるナムチェからテシ・ラプツァ峠にアプローチするが、今回の計画ではエベレスト街道の喧噪を避け、マイナーなロールワリン山群のトレッキングをしながらラムドゥンに順応を兼ねて登り、ナムチェとは反対側からテシ・ラプツァ峠にアプローチするというのがコンセプトだ。
今回の登山隊のメンバーは、10年前にアマ・ダブラムをご一緒した田口さんと初対面の石塚さん・木賊さんの4名で、いずれもエベレストやK2・マナスルなどの高峰を登られている同好の士だったので、遠征の期間を通じてとても楽しくまた心強かった。
2023年4月20日、成田空港の出国ロビーで平岡さんと4年ぶりに再開する。 久々の海外遠征ということで、登山隊の集合日よりも一日早くカトマンドゥに入る予定でいたが、マレーシア航空のクアラルンプール行きの出発が7時間も遅れたため、当日の夜にカトマンドゥに着く予定が、クアラルンプールの空港内のホテルで一泊し、カトマンドゥに着いたのは翌日の昼過ぎになってしまった。
4月21日、カトマンドゥの空港には日本人の姿は見られず、今春のエベレストには登山隊が殺到し、過去最高の478人に登山許可が出たとのことだが、一般観光客やトレッカーはまだコロナ前には戻っていないことを実感した。 入国審査ではワクチン接種証明書の提示を求められた。 観光ビザは事前にネットで申請していたため、窓口で50ドルを支払うだけですぐに取得出来た。 空港でSIMカードを1,200ルピー(邦貨で約1,300円)で購入する。 空港の建物は内部がリフォームされ、エレベーターが設置されていた。 出迎えはエージェントのマウンテン・エクスペリエンスの社長のタムディンで、私のことを覚えていてくれた。
宿泊するホテル『チベット・インターナショナル』はボダナートのすぐ近くで、三つ星程度の少し古いホテルだった。 到着後間もなく、今回の遠征のサーダーのダワ・ダイとラクパ・テンジンの二人が打ち合わせを兼ねて挨拶にやってきた。 珍しく夕立があったが、この雨が今シーズンのネパールの異常気象を告げるものであるとは知る由もなかった。 夕食は日本のコンビニで買ったおにぎりで済ませ、ホテルのフロントで30ドルを3,870ルピーに両替した。
【カトマンドゥからナーへ】
4月22日、ホテルの最上階にあるレストランで石塚さんと木賊さんにお会いし、慌ただしく朝食のバイキングを楽しむ。 屋上のテラスからはボダナートやカトマンドゥの町が良く見えた。 ロビーで出発の準備をしていると、同じエージェントのパッケージツアーで数日前にパルチャモを登ったという日本人の女性(花田さん)が見送りにきてくれた。 ナムチェ側からのパルチャモの登頂は比較的容易だったが、テシ・ラプツァ峠は積雪が多くて越えられなかったとのことだった。
7時半にホテルを出発。 今回の登山ツアーのスタッフ(シェルパ・コック・ポーター)全員とエージェントが手配した観光バスでトレッキングの起点となるチェッチェ(1377m)に向かう。 観光バスは新しく、予想以上に快適な乗り心地だった。 喧噪のカトマンドゥ市街を抜けてからもしばらくは小さな町が続いていた。 バスの給油を兼ねた休憩の後、昼食は新しい観光客向けのドライブインでダルバートを食べた。 カーブの多い2000m前後の峠を幾つも越え、その最高高度は2600mほどだった。 近年開通したチェッチェの奥の水力発電所へ通じる道路は未舗装だったが1時間ほどで通行出来た。
日没前にトレッキングの起点となるチェッチェのロッジに到着。 ロッジでは石塚さんと同室になり、ゴールのルクラまでずっと一緒だった。 ロッジは古くて隙間風が入り込み、避難小屋にベッドが置いてあるという感じだった。 夕食のチキンカレーは質素だったが、不思議と日本風の味がした。
4月23日、ロッジの前の車道から標識に従って右に下るトレッキングルートに入る。 車道に沿って流れるボーテ・コシ(川)を吊橋で渡ると、比較的新しいコンクリートの階段が延々と続いた。 途中に東屋のようなトタン屋根の新しい休憩舎があったので迷わず休憩する。 1時間ほどで簡素なチョルテンが建つシミガオンの集落の入口に着く。 ジャガイモや小麦畑の中をしばらく登って行くと、あっけなく今日の宿泊地のシミガオンのロッジ(2036m)に着いた。
陽当たりの良いロッジは快適で、お湯はぬるいがシャワーが使えた。 ベッドのマットレスは柔らかく、布団も清潔で綺麗だった。 昼食はフライドライス(炒飯)とチーズオムレツで予想以上に美味しかった。 ネットが繋がり妻に電話が出来た。 昼過ぎから天気が下り坂になり、雷が鳴るほどの激しい夕立が降ると、暖かかった室内も一気に寒くなった。 雨は夜まで降り続き、10年の大雨(山は大雪)の苦い思い出が蘇ってきた。 夕食はチキンカレーとベジモモ(野菜餃子)で、コックのシャム・ダイが道端で摘んできたわらびを炒めて食べた。
4月24日、朝からすっきりしない天気だ。 今日もコンクリートの階段が多いが、登り一辺倒だった昨日と違って下りもあった。 曇天で山々の展望は全くないが、赤いシャクナゲが随所に咲いていて癒やされる。 昨日と同じように前後を歩くトレッカーの姿はなく、唯一大雨のため4日間ナーのロッジに滞在して引き返してきたというペアのトレッカーとすれ違った。 簡素なロッジがあるスルムチェでティータイムとなる。
恐れていたとおり正午前から雨が降り始め、初めて新品のポンチョを羽織る。 ドンガンの一つ手前のキャルチェのロッジで雨宿りを兼ねた昼食となる。 田口さんが蛭に血を吸われた。 広いキャンプサイトのあるドンガン(2791m)のロッジは大きかった。 夕方から晴れたので、濡れた衣類や靴を乾かし、ロッジの周辺の満開のシャクナゲを楽しめた。
4月25日、赤や白、そして日本と同じピンクのシャクナゲが咲くロールワリン・コーラ(川)沿いの道を歩く。 昨日までのようなコンクリートの階段の急坂は少なく、地味ながらじわじわと高度を上げていく。 今日は一日の標高差が1000mほどあり、また宿泊高度も富士山とほぼ同じになるため、意識的にペースを抑えながら歩く。 タンティンカルカの新しいロッジでチャパティがメインのランチパックを頬張る。
今日も天気が不安定で昼前から小雨となり、ベディンに近づくにつれて霰のような雪となった。 ベディン(3740m)はテシ・ラプツァ峠までのトレッキングルートで一番大きな集落で、ロッジ以外の民家が幾つも見られた。 宿泊するロッジは寒々しかったが、暖炉に火が入ると暖かくなった。 麓の町で架線が切れる事故で停電していたが、ソーラー発電で部屋のライトのみ点灯した。 停電の影響でネットも繋がらなかった。 夕方になると晴れてきて、ようやく周囲の山々が見えるようになった。 標高は高かったが体調は良く、夕食をお腹一杯に食べることができた。
4月26日、夜中は軽い動悸で3〜4回起きただけで、朝食も美味しく食べられた。 雲はあるものの久々に爽やかな晴天の朝で、初めてガウリシャンカール(7134m)がまともに見えた。 トレッキングを開始してから初めてずっと前後に白い山々を眺めながら歩く。 コースタイム以上の時間が掛ったが、予想よりも足が上がり、午前中にナーのロッジ(4180m)に着いた。 昨日までのロッジと遜色のない新しく綺麗なロッジだった。
午後は高所順応のため、ロッジの裏山を標高差で200mほどハイクアップする。 ネットが繋がらず、平岡さんの衛星携帯も不調のため、今後しばらくは妻への連絡が出来ない。 SPO2を測ってみると80で、脈拍は63だった。 今日も夕方から雪になった。 夕食は肉のあるメニューがないので、毎日フライドライス(炒飯)になってしまう。 今晩から厚手のダウンジャケットに替えるつもりが、誤って妻のダウンを持ってきたことが分り愕然とした。
4月27日、起床時のSPO2は87、脈拍は61で数値は良い。 昨夜は前日と同じように動悸のみで頭痛はなかったが、夜中に初めて持病の鼻詰まりの症状が出てしまった。 昨日よりもさらに良い天気で気持ちが上がる。 依然として食欲は旺盛だが、まだ順応途上のようで指先が冷たい。
ラムドゥン登頂に向けての順応のため、明後日泊まるヤルンB.C付近へハイキングに出掛ける。 新雪を纏った周囲の山々に心が弾むが、今日こそはと期待していた青空は徐々に色褪せ、いつものような曇り空となってしまった。 ロッジから3時間ほど登った4710m地点でハイキングを終了し、B.Cまで下見に行く平岡さんを見送りラクパと共に下山する。 通常は雪がないとされるB.Cまでの道に新雪が積り、午後になると毎日降雪がある今の状況ではH.Cまで行くのが精一杯で、ラムドゥンの登頂は難しいと思われた。
午後はB.Cに上げる荷物の仕分けをする。 当初は順応のためナーのロッジに3泊する予定だったが、メンバーの順応状態が良いとのことで明日からヤルンB.Cへ向かうことになった。 私はまだ順応状態は充分と思えなかったが、今の状況でラムドゥンを登るためには仕方がないと思い、あえて意見は言わなかった。 昼過ぎのSPO2は81で、脈拍は63だった。 夕方からまた雪が降り始めた。
【ヤルン・リ】
4月28日、起床時のSPO2は80、脈拍は63で数値は昨日よりも悪かったが、夜中は昨日と同じように頭痛はなく動悸だけだった。 昨日よりも明らかに空の色が青いが、今日もまた午後は天気が崩れるのだろうか。
今日から4泊5日の日程でラムドゥンの登頂に向けてロッジを発つ。 最初のうちは昨日降った雪の影響は殆どなかった。 昨日よりもさらにゆっくり登ることを心掛けたが、順応は着実に進んだようで、昨日のハイキング終了点まで早い時間で着いた。 そこからさらに積雪が増した道を1時間以上登ってヤルンB.Cに着いた。 B.Cにはトタン屋根が一部壊れた石造りの簡素な小屋が建ち、先に到着したシェルパ達が私達のテントを設営してくれた。 GPSでの標高は4994mだった。 テントメイトはロッジと同じ石塚さん。 天気の傾向は相変わらずで、到着して間もなく雪が降り始めたが、麓のナーとは全然雪の量が違う。 テントの中で石塚さんが持参したフォルクローレの動画を聴いてリラックスする。
夕方のSPO2は74、脈拍は72だったが、頭痛がじわじわと忍び寄ってくる。 石塚さんは頭痛が全くないということで羨ましい。 深呼吸に努めたので頭痛は次第に解消し、夕食前には何とか治まった。 寒々しい小屋はあるものの、専用のダイニングテントはなく、B.Cならではの心地良さが全く無い。 そう思うのはモチベーションが下がっている証拠だろうか。 夕食は昨日ようやく手に入れた新鮮な鶏肉にダルスープをかけて食べたが、久々に食べた肉はとても美味しく感じた。
4月29日、起床時のSPO2は80、脈拍は62で、5000m近くの数値としては良かった。 昨夜は最初に熟睡した後は軽い頭痛で何度か目が覚めたが、未明から不思議と頭痛がなくなった。 夜中は降雪があったが、朝はまずまずの天気で、いつもと変わらないパターンだ。
午前中は順応と偵察を兼ねてH.C方面へのハイキングに出掛ける。 ルートは一旦ナー側に戻るように谷を下ってから顕著な尾根に取り付く。 雪の中にケルンが見える所もあるが、雪が深い所では所々で雪を踏み抜く。 歩き易い尾根に乗ったのも束の間、尾根から外れてガラ場を下り基調でトラバースする。 順応目的なので体力を温存したいが、標高はどんどん下がっていく。 雪に覆われた氷河湖が見えた所でハイキングを終了したが、GPSでの標高は5083mで、B.Cから2時間半ほどで標高を100mも稼いでいなかった。 ダワとラクパはH.C方面への偵察に向かったが、すでに降り積もった軟雪と日々降り積もる雪で、明日のH.C予定地(5400m)まで一日で辿り着けるのか、さらにその先の山頂まで登れるのか、あらためて疑問に思えた。
予定よりも少し遅れて正午過ぎにB.Cに戻ったが、ダワとラクパも相次いで戻ってきたので、それほど遠くまで偵察に行っていないことが見て取れた。 昼食後に平岡さんから、ラムドゥンはプレ登山として消耗が激しく、本命のパルチャモに影響するのみならず登頂の可能性も低いので、登頂の可能性があるヤルン・リ(5630m)に変更したいという提案があり、メンバー一同迷わず賛同した。
若い頃にシェルパとしてラムドゥンに2回、ヤルン・リに3回登頂したというコックのシャム・ダイによると、ラムドゥンは長いと言われるメラ・ピーク以上に長くて時間も掛るが、B.Cから指呼の間に見えるヤルン・リであれば登頂は容易とのことだった。 午後はまた降雪となり、衛星携帯の不調とネットの不通で明日以降の天気予報が分らず、ヤルン・リでさえも雲行きが怪しくなってきた。 昼過ぎのSPO2は76、脈拍は70だった。 H.Cに上げる荷物の仕分けと登頂の準備をしていると、顔がむくんで気分が悪くなってきたので体温を測ると37.4度だった。
4月30日、久々に朝から曇り空だったが、雪は降っていないので予定どおりH.Cに向かう。 目標のヤルン・リはB.Cからでも登れそうなくらい近いので気は楽だ。 歩き始めると間もなく青空が覗くようになったが、チュキマゴ(6258m)が何とか見えただけで、そのさらに奥のラムドゥンは終始見えなかった。 所々にケルンが積まれた踏み跡もありそうな勾配の緩やかなルートを登る。 途中で2回ほど休憩し、B.Cから4時間ほどで先行したシェルパによってテントが設営されたH.Cに着いた。 GPSでの高度は5289mで、ヤルン・リの山頂はもう目と鼻の先だった。
午後になるとまた雪が降ってきたが、陽射しも多少あるので、テント内はちょうど良い暖かさだった。 SPO2は74、脈拍も74で、5300m近くの高度としてはまずまずだ。 嬉しいことに食欲は衰えず、夕食はフリーズドライの白米と赤飯、レトルトの鯖の味噌煮を自炊して食べた。
5月1日、4時前に起床して朝食のカップ麺を食べる。 SPO2は72、脈拍は73で熱もあるが体調は不思議と良かった。 周囲が明るくなると、ダワが雇用した地元のベディン在住の案内人がやってきたが、この案内人がとんでもない人物だったことは、この時は知る由もなかった。 昨夜からの雪が降り止まないため、予定していた5時に出発出来ず、テントの中で待機する。 6時に平岡さんから、天候の回復が見込まれないため登山を中止する決定があった。 この日のために体調を調整してきたが、この天気では仕方が無い。 B.Cにいるポーター達もすぐにH.Cに上がってこれないので、個人装備は全て背負って下ろすように指示があった。 気持ちを切り替えてパッキングに精を出していると嘘のように天気が変わり、抜けるような青空の下にヤルン・リが見えたので、急遽予定を変更して登ることになった。
予定よりも2時間半遅れて7時半にH.Cを出発。 ハーネスのみを着けてロープは結ばず、アイゼンもまだ着けない。 飛び入りの案内人と田口さんが先行し、降り積もった新雪をラッセルしていく。 疑似晴天だったのか青空はすぐに消え、いつもの曇天に戻ってしまったが、天気の回復を祈りながら登り続ける。 雪がなければ踏み跡がありそうな岩棚をしばらく登ると、カールの底のような広い雪原に出た。 後続の木賊さんは体調を考慮してラクパと共にH.Cに戻ったようだ。 正面に見える雪壁に向かって雪原を横断し、雪壁の基部でアイゼンを着ける。
雪壁は見た目ほど急ではなく、先行する田口さん達が付けてくれたステップで登り易かった。 ありがたいことに風は全く無かったが天気は悪くなる一方で、先行する二人の姿もいつの間にか見えなくなった。 雪壁から顕著な尾根に取り付くと間もなく案内人がデポしたザックとロープがあった。 高度計を見ると山頂までの標高差が120mほどだったので、二人がラストスパートに入ったのだろうと思えた。 ダワから休憩の提案があったが、天気が更に悪化する可能性があったので、石塚さんの意見も聞かずにこれを断り、ゆっくりだが足を止めずに登り続けた。 間もなく田口さんと案内人が足早に下ってきたので登頂を確信した。 ラッセルしてくれた二人を労って山頂の様子などを教えてもらう。 平岡さんから休憩を促され、行動食を頬張りながら一息つく。 休憩後しばらく登ると、ダワが後ろを振り向いて写真を撮ったので、そこが山頂だと分った。
ホアイトアウトした猫の額ほどの狭い山頂からは周囲の景色は何も見えなかったが、一旦は中止となった切羽詰まった状況で、新たな山頂を踏めたことは感動的だった。 天気がますます悪くなることが予見されたため、記念写真を撮り合っただけで僅か数分で山頂を後にする。 下りもロープは結ばず、スピーディーにアイゼンを着けた雪壁の基部まで一気に下った。 気持ちが昂揚していたのか、テントが撤収されたH.Cの跡地を気付かずに通り過ぎ、正午過ぎにポーター達が待つB.Cに着いた。 シャム・ダイが作ってくれたカレー風味のジャガイモ料理をお腹一杯に食べた。
登攀具などをポーターに預け、靴もトレッキングシューズに履き替えてナーのロッジに下る。 往路よりも雪の量は格段に増え、ポーター達はチェーンスパイクを履いていた。 雪は下るにつれて小降りとなったが、麓のナーでも積雪が見られた。
ロッジには明日からパルチャモを目指すというパーティーなどの姿が見られた。 夕方のSPO2は85、脈拍は56で体温は37.1度だった。 ナーとH.Cの標高差は1100mほどだが、夕食は以前にも増して美味しく食べられ、三泊四日の順応登山もそれなりに効果があったように思えた。
5月2日、久々に熟睡出来たが疲れで顔がむくんでいた。 順応登山が一日早く終ったため、今日と明日はナーでの休養日となったが、部屋の中は冷蔵庫と同じくらいの気温なので、快適に過ごすことが出来ないのが玉にキズだ。 午前中はB.Cへの荷上げのため分離した荷物を合体して整理するが、雪が降り止まないので濡れた衣類などが乾かせないのが辛い。
昼食は連泊する私達を歓迎してくれたのか、ロッジのオーナーが絞めたばかりの鶏を振る舞ってくれ、コックのシャム・ダイがチキンカレーを作ってくれた。 午後になると大粒の雹が降り、まだまだこの先も不安定な天気が続くことが予見された。
5月3日、青空は見えているが、いつもと同じようなすっきりしない天気だ。 体調は万全ではないが悪くもなかった。 午前中の僅かな陽射しを利用して濡れた物を乾かす。 シャム・ダイの助けを借りて洗髪すると、まるで温泉にでも入ったかのような爽快感があった。
昼食後は昼寝をして過ごしたが、まるでモンスーンの時期のように今日も雪が降り始めた。 この状況でヤルン・リよりも標高が高いテシ・ラプツァ峠を越えることが出来るのか、その先のパルチャモを登ることができるのかは、神のみぞ知るところだろう。 夕方のSPO2は87、脈拍は57だった。
【パルチャモ】
5月4日、昨日からの雪が降り止まず、ナーでは今までで一番多い積雪となった。 今日からテシ・ラプツァ峠に向けてのトレッキングが始まるが、朝食後にポーター達が集まらず、9時半にロッジを出発する。 平岡さんのGPSで受信している簡易な天気予報では、ナーは明日から5日間晴れの天気が続くようだ。 ヤルン・リとの分岐を過ぎてからも平坦な道が続いたが、雪のため落ち着いて休めないのが辛い。 ツォー・ロルパ(氷河湖)が近づいてくると傾斜が急になり、積雪量も一段と増えてきた。 ツォー・ロルパは今回のトレッキングで一番楽しみにしていた場所だが、雪でホワイトアウトした状況ではなす術がなかった。 湖尻に建つ新しい山小屋でララ・ヌードル(インスタントラーメン)を食べて一息ついた。
山小屋から少し下ってから、広いモレーンの谷を緩やかに登っていく。 山小屋から1時間ほどで着いたチュキマのキャンプ地には新しい避難小屋が建っていた。 GPSでの標高は4584mだった。 高度障害なのか、到着直後から強烈な睡魔が襲ってきた。 SPO2は83、脈拍は69だったが、体調はヤルン・リのB.Cよりも悪い感じがした。 夕食はシャム・ダイが調理したダルバートと卵焼きにレトルトの穴子の蒲焼きを加えてテントの中で食べた。
5月5日、深い眠りで目覚めると、昨日までとはまるで違う青い空と白い山が見えた。 放射冷却で冷え込んだテントの内側の霜が酷く、寝袋もびっしょり濡れていた。 朝食はラクパが届けてくれたララ・ヌードルをテントの中で食べた。
沢沿いのトレッキングルートをアタック用の二重靴を履いて歩く。 出発するとすぐに暑くなり、陽射しも強烈になったが、昨日までの天気とあまりにも違うため、暑さに対して全く対応出来ない。 水は2L近く用意したが、所々で雪を口に含みながら歩く。 夜中との温度差は体感気温で50度くらいありそうだ。 モレーンの沢を登っていくので標高はほとんど稼げないが、焦らずゆっくり登る。 ツォー・ロルパ(氷河湖)の全容が見える所まで来ると少し疲れも取れた。
ヤルン・リを一緒に登ったベディンの案内人が、ナーのロッジに食堂テント(夜はポーター達の寝場所となる)を放置したままベディンに帰ってしまうという事件があり、ラクパが食堂テントをナーまで取りに戻ったため、隊のペースは遅々として捗らなかった。 積雪も次第に増え、ラクパの代わりに田口さんとシャム・ダイが交代で先頭をラッセルする展開となった。 最初の峠のような所で一息入れると、そこから先は登山道が露出していたが、標高差で150mほど下ったため、出発地点と標高が変わらなくなってしまった。 落石が多い危険地帯をさらに下ると、意外にも前方に地図に記されていない山小屋が見えてきた。
天気は安定し日はまだ高いが、今日のトレッキングはこの山小屋までとなった。 GPSでの山小屋の標高は4662mで、チュキマより100mほどしか上がっていなかった。 新しい山小屋は密閉性が高く快適だったが、テントサイトの立地はあまり良くなかった。 SPO2は85、脈拍は70で、体調は昨日よりも良かった。 夕方になってラクパがようやく山小屋に着いたが、疲労の色が濃いことが見て取れた。 夕食は小屋の中で、ダルバートと卵焼きにレトルトの鰯の生姜煮を食べた。 今日は入山以来初めて一日中天気が良く、夜も星空が素晴しかった。
5月6日、昨日と同じような快晴無風の良い天気となった。 起床時のSPO2は84、脈拍は62だったが眠りが浅く、体調は万全だった昨日ほど良くなかった。 朝食はゆで卵とジャガイモにパンケーキで美味しく食べられた。
山小屋から雪のない登山道を下り、昨日と同じようにモレーンの沢を延々と登っていくが、トータルでは下りの方が多く、歩けば歩くほど出発地点より標高が下がっていく。 周囲の山々の景観が素晴しいのが救いだ。 その後も何度か登り下りを繰り返し、ようやくモレーンから離れる場所にある目印の大岩が眼下に見えた。 大岩の右側を下り、左手のルンゼを少し登って右岸の岩場に取り付く。 意外にも岩場のルートは良く整備されていて、新しい金属製のワイヤーやステップが取り付けられていた。 岩場を登りきると間もなく、アルプスにあるような斬新な金属製のシェルターが目に飛び込んできた。 シェルターにはオーストリア人の登山家のデビッド・ラマの名前と標高が記されていたが、地図には記されていなかった。 今日のキャンプ地はここに決まり、明日のテシ・ラプツァ峠越えの可否を見極めるため、ダワとラクパが偵察とトレースを付けに出掛けていった。
5月7日、今回の遠征の目的のテシ・ラプツァ峠(5755m)を是が非でも越えるため、未明にビバークシェルターを出発する。 氷河の峠越えは登山と変わらないので、スタートからアイゼンを着けていく。 昨日までのような快晴の天気ではないが、まずまずの良い天気になりそうで安堵した。
最初の急な岩棚を登ると、その後はしばらく緩やかな登りが続いた。 新雪はそれなりに積もっていたが、先行するシェルパと田口さんやポーター達のトレースに助けられる。 周囲の山々の景観は昨日にも増して素晴しいが、陽射しが当たるようになると暑くなり、日影で風に吹かれると寒くなるのが玉にキズだ。 パルチャモの北壁は見えてきたが、テシ・ラプツァ峠はなかなか見えない。 一箇所だけあった急な雪壁を慎重に登ると、ようやくテシ・ラプツァ峠方面の展望が開けた。
峠の手前からは時々雪が舞い、風が吹き抜ける峠は雪が氷化していた。 シェルパがフィックスロープを張ってくれたので、これを掴んで登る。 待望のテシ・ラプツァ峠には雪に埋もれたタルチョがあっただけだったが、憧れのパルチャモが指呼の間に神々しく望まれ、クーンブの山々の一部も遠望された。 予想どおり峠の反対側からのトレースはなく、しばらく誰も峠を訪れていないことが分った。
峠から少し下り、ビバークシェルターから10時間ほどを要してパルチャモのH.Cに着いた。 H.Cも深い雪で覆われ、最近利用されたような形跡はなかった。 設営してもらったテントに入ると間もなく雪が降ってきたので、明日のパルチャモの登頂に一層不安が募った。 夕食はフリーズドライの白米とビーフシチューにカップうどんで、高所ながらそれなりに美味しく食べられた。 夕食後に平岡さんから明日の行動予定についての説明があったが、かなり大変な登山になるとのことで身が引き締まる。 夜中は頭痛は無かったが、持病の鼻詰まりで殆ど眠れなかった。
5月8日、3時過ぎに起床してアタックの準備にかかる。 雪は止んでいたが、風が当たらないキャンプ地に風が吹いていたので、テシ・ラプツァ峠から先では強風が予想された。 キッチンスタッフからお湯を貰い、カップうどんと羊羹を食べる。 5時過ぎに平岡さんを先頭に田口さん、石塚さん、私の順でロープを結んで出発する。 木賊さんは残念ながらメンバーに加わらなかった。 テシ・ラプツァ峠まではトレースがあるためか、ダワとラクパは後から追いかけてくるようだ。
テシ・ラプツァ峠までは昨日の下りのトレースを登り返す。 平岡さんのスピードは早くはないが決して遅くはない。 予想どおり峠に着くと風が強まり、前方のいたる所で雪煙が舞っていた。 気温も低いがむしろ酸欠で指先が冷たいため、オーバー手袋を羽毛のミトンに替える。 峠からは正面に見える山頂方面に向かってほぼ真っ直ぐに登っていく。 間もなくロープを結んだダワとラクパが追いついてきたが、何故か先頭に立ってラッセルすることなく、私達を後方や側面から支援するという形になった。 風は吹き止むことはなかったが、陽光で暖かくなってきたので助かった。
出発してから1時間半ほど登った所で、平岡さんがラクパとルートの偵察に向かったため、図らずも最初の休憩となった。 風も少し弱まり、周囲の山々の写真を撮る。 意外にも間もなく戻ってきた平岡さんから、ノーマルルートに合流するために通る区間の雪の状態が悪く、現状の装備では安全な登山が出来ないため、登山を中止せざるを得ないという説明があった。 何故こんなに早く登頂を諦めるのかと一瞬耳を疑ったが、これまでの天気の経緯や状況を鑑みて、登頂は紙一重だと思っていたので、この決定にはメンバー一同何ら異論はなかった。 高度計の標高は5840mと6000mにも達しておらず、H.Cからも200mほどしか登っていなかったが、最高到達地点での記念写真を撮り合って下山することになった。
H.Cで1時間ほど撤収作業を行ない、メンバー全員の記念写真を撮ってナムチェ方面へ下る。 ここからはクーンブ山群の領域となるがトレースはなく、登攀具などの装備がないポーター達にとっては昨日以上に過酷なものとなった。 案の定、出発して間もなくポーターの一人が滑落し、運良く10mほどで止まったものの、荷物やテントがさらに下まで落ちてしまい、平岡さんとラクパが救助と荷物の回収に向かった。 その後もワイヤーロープやハシゴのあるミックスの急な岩場があり、ポーター達が安全に下れるように荷物をロープで下ろしたり、私達も懸垂下降で下る場面もあった。 昨日と同じように多くの時間を要したが、山頂アタックの時間が短かったことが幸いし、ナムチェ側からの最終集落となるテンボーのロッジに明るいうちに着いた。 農家が片手間にやっているような簡素なロッジだが、野菜などの食材が豊富なことも手伝って料理が丁寧で美味しかった。
【テンボーからルクラへ】
5月9日、快晴の天気でロッジからテンカンポチェ(6500m)やその左右に連なる山々が眼前に大きく望また。 タムセルク(6608m)とカンテガ(6685m)を正面に望みながら、久々に雪のないトレッキングルートを歩く。 しばらくすると女性のハイカーと数日ぶりにすれ違い、ロールワリン山群のトレッキングが終ったことを実感した。 ターメ(3820m)に入ると二週間ぶりに電波が届き、ようやく妻への電話が通じた。 昼食はターメの先のターモのロッジで食べたが、もうすでにナムチェの匂いが漂っていた。
ナムチェの宿は以前泊まった記憶のある『さくらロッジ』だったが、宿泊客は予想以上に少なかった。 二週間ぶりにシャワーを浴びてから、夕暮れの町の散策に出掛ける。 喧噪のナムチェも観光客は少なく、まだコロナ禍前の状況には戻っていないようだった。 ホテルの空き部屋が多いためか、夜景も心なしか寂しかった。
5月10日、ナムチェからルクラへは通常一日行程だが、ルクラへの最後の登り返しがきついため、今回は途中のパクディンで一泊する。 ナムチェからの最初の下りは、歳をとったせいか記憶よりも長く急に感じた。 ナムチェではトレッカーや観光客の姿はそれほど多く見られなかったが、エベレスト街道にはそれなりに人々の往来があり、静寂のロールワリンとは全く違う喧噪の世界だった。 チェックポストでパスポートを提示して2,000ルピーを支払い、ルクラで見せる通行許可書のカードを貰う。 ヤクやゾッキョによる荷物の運搬を禁止するためのコンクリートブロックが設置され、それに代わる馬やロバの姿が多く見られた。 道の傍らを流れる氷河を源とする川(ドウドウコシ)はミルクの川の意味だとダワが教えてくれた。 タムセルクを望むモンジョのロッジでティータイム。 パクディンでは新しいロッジや建設中のロッジが多く見られた。
5月11日、ルクラへの最後の登り返しは記憶ほど苦にならず、僅か3時間足らずで午前中にルクラに着いた。 ルクラに新しいヘリポートができたようで、資材の運搬やナムチェまでのフライトで早朝からヘリがひっきりなしに飛んでいた。 パクディンとルクラの間も真新しいロッジが散見され、新しい水洗の公衆トイレもあった。 今日は入山してから初めて日本人とすれ違った。 宿は過去に泊まったことのある『ナマステロッジ』だった。 昼食後はシャワーを浴びてから近くの喫茶店で寛いだ。
明日はカトマンドゥへのフライトを予約していたが、カトマンドゥ空港上空の視界不良のため、ここ数日カトマンドゥへの便は飛んでいないということで、途中のラマチャップへの便に変更することになってしまった。
夜はお世話になったスタッフ達との夕食会で、感謝の気持ちを伝えながらチップ(サミットボーナス)を手渡すセレモニーを行なった。 セレモニーの前に、テシ・ラプツァ峠を越えることに成功したことを祝って、スタッフ達からサプライズのサミットケーキを頂いて感無量だった。
【ルクラからカトマンドゥへ】
5月12日、昨日から酷くなった咳や鼻水が止まらずもどかしい。 ルクラ空港を7時半に出発する便でラムチャップの空港へ向かう。 意外にも出発カウンターの混雑はなく、スムースにツインオッターに乗り込む。 朝から気温や湿度が高く、機上からは白い山々が殆ど見えなかった。 僅か20分ほどでヘリポートのような簡素なラムチャップの空港に到着。 高度差で着陸前に耳管が強烈に痛くなり七転八倒しながら耐えた。
空港を出るとすぐにタクシーの待機所があり、空港のロビーで知り合った女性と共にワゴンタクシーでカトマンドゥへ向かう。 中国製と思われる車は意外にもEVだったが冷房の利きが悪く、結果的に窓を開けて走ることが多かった。 日本の出資で作られたという道路は所々で壊れ、カーブや坂道が多くてスピードが出せない。 道路の開通に伴って建てられたような新しいドライブインが随所にあり、昼食は運転手が選んだ店でダルバートを食べた。 午後からは暑さも増し、窮屈な車内での姿勢が体調の悪さに拍車を掛ける。 途中何か所もチェックポストがあったり、運転手の休憩やEVの充電で、空港からカトマンドゥのホテルまで6時間以上も掛った。
ホテルでは待望の風呂で溜りに溜まった垢を落とせたが、入浴後は38度の発熱があり、楽しみにしていた打ち上げに参加することを自重せざるを得なかった。 夕食はホテルのすぐ近くのKFCでチキンバーガーのセットメニューで済ませた。 食後に熱は39.5度まで上がってしまい、コロナを疑ってSPO2を測ると95だったので安堵したが、解熱剤を飲んでも熱はそれほど下がらず、高所の山中よりも苦しい夜を過ごした。
5月13日、高熱のため帰国も危ぶまれたが、朝方にはようやく熱が38度を切り、朝食も普通に食べられた。 エージェントの社長のタムディンがホテルに迎えにきてくれ、祝福を意味する白いカタを掛けてくれた。 田口さんに会いに来たシェルパのティリンも居合わせ、懐かしい再会となった。 明日の便で帰国する平岡さんと田口さんに見送られトリブヴァン空港へ向かう。 マレーシア航空のクアラルンプール行きは定刻どおりにカトマンドゥを発ち、同じ便で帰国する石塚さん、木賊さん共々無事機上の人となった。
今回の遠征で目標としたラムドゥンとパルチャモの登頂、そしてその過程でのテシ・ラプツァの峠越えについては、連日の降雪によるルート状況の悪化に加え、ローカルガイドの逃走事件などで隊の食糧と燃料不足が加わり、テシ・ラプツァ峠を越えることが精一杯だった。 一方、当初の目論見どおり殆ど人と出会わない静かなロールワリンのトレッキングで未知の山々を数多く望めたことはとても印象深く、コロナ禍明けで何もかも手探りの状況での遠征として記憶に残った。