8月29日、am6:30起床。 外はまだ薄暗いが、天気は悪くなさそうだ。 食堂に行くと、青空の下にモン・ブランの白い頂が霧の中からうっすらと見えていた。 この天気なら今日がアタック予定日の能田さん達のパーティーも無事登頂出来るに違いないと、1回のチャンスをものにした彼(女)らを羨ましく思った。 メンバーの人徳だろうか、それとも誰か強力な晴れ男(女)でもいたのだろうか?。 am7:40にダビット氏の車がホテルに到着し、レ・ズーシュに向けて出発した。
前回と同じスケジュールで、am8:15発のロープウェイに乗る予定だったが、何かのアクシデントでロープウェイが到着せず、15分ほど遅れての出発となった。 乗客は全員がモン・ブランへの登山者だった。 すぐに車掌から遅れた理由についての説明があったが、もちろん私達には理解出来なかった。 ロープウェイが終点に到着すると、乗客一同が少し離れた所にある登山電車の駅に急ぎ足で向かったので、電車が待っていると期待したが、am8:40発の電車の姿はすでになく、次のam10:05発の電車まで約1時間半の間、電車の到着を待つことになってしまった。 周りに誰も知り合いがいないのか、ダビット氏は一人静かにロープウェイの駅で買った新聞を読んでいる。 上空には霧がかかり陽射しを遮っているため、気温も10度を下回っていて肌寒い。 駅といっても駅舎がないので、じっとしていると体が冷えてくる。 周囲を散策して体を暖めようとしたが、何故か今朝から体調があまり良くなく、妻に続き私も風邪をひいてしまったようだ。 皮肉にも電車はam10:05より少し遅れ気味に出発し、am10:30に終点駅のニ・デーグル(駅の表示にはグレイシャーと記されていた)に着いた。 途中で能田さんらに出会った時のことを考えて、車中で氏に「今日私達の仲間が、エベレストを2回も登った日本人のガイドと共にアタックしているんですよ」と話題を提供しておいた。
駅から歩き始めるとすぐに山々を覆っていた霧は完全にあがり、周囲の景色もはっきりと見えるようになった。 まだ上空には所々に雲があり、快晴とまではいかないものの、久々に良い天気だ。 3〜4日前に“下見”をしたばかりなので、トレイルの記憶も新しい。 1時間半ほど予定より遅れているためか、体調が悪いせいか、ダビット氏の登るペースは前回よりも速く感じられた。 トレイルの状況や休憩場所が分かっているので気は楽だが、駅から標高差で400mほどの所にある古い避難小屋の先にある平坦地まで、前回と同じ50分ほどで登らされてしまった。 5分ほど休憩してから腰を上げると、氏は私達に「携帯電話をかけてから行きますので、先に行って下さい」と言った。 これでやっとマイペースで登れると思ったが、不思議なことに目に見えない氏の圧力に負け、ついつい先程と変わらないペースで登っている自分に気がついた。 前回とは違い、左手の雲の上にはエギーユ・デュ・ミディとエギーユ・ヴェルトが顔を揃えて歓迎してくれたが、正面に大きく立ちはだかるエギーユ・デュ・グーテの頂上直下に光るグーテ小屋が、なぜか今日は遙か遠くに見えた。
テート・ルース小屋の直前まで妻と二人で先行し、その後はダビット氏が先頭になり雪渓をトラバースしてpm0:15に山小屋に着いた。 山小屋の前で今日アタックしたと思われる日本人の方がいたので、早速“情報収集”すると、何と貫田さんのツアーのメンバーの一人だった。 登頂の成功を祝福し、さらに話を伺うと、「風は多少ありましたが良い天気に恵まれ、私は3時間半ほどで登頂出来ました。 恐らく全員登れたと思いますから、登頂した方から順に下ってきますよ」ということだった。
山小屋の食堂で昼食のオムレツを食べ、出発予定のpm1:00にはハーネスを着け、ヘルメットを被って山小屋の入口でダビット氏を待っていたが、突然氏から出発時間をpm1:30に変更する旨の指示があった。 どうやら氏は山小屋のスタッフに何かの撮影を頼まれたようで、少し大きめのハンディビデオ機の操作方法についての説明を受けていたが、最初からとんでもないものを撮影するハメになるとは知る由もなかった。 氏を待っていると、ちょうど良いタイミングで能田さん夫妻が他のメンバーと共に山小屋へ無事下山してきた。 その明るい表情と軽い身のこなしから、登頂されたことはたやすく想像されたため、「お疲れさまでした〜!、登頂おめでとうございま〜す!」と祝福し、力強く握手を交わして喜びを分かち合うと共に、サミッターの幸運をいただくことが出来た。
pm1:30、ダビット氏にザイルで繋がれ、能田さん夫妻らに見送られてテート・ルース小屋を出発。 出発間際に能田さんから、グーテ小屋に忘れてきてしまったという彼女のヘルメットの回収を依頼された。 ここからグーテ小屋までは標高差で約600mあるが、前回同様に氏は休憩なしで一気に登ってしまうつもりだろう。 高所にはだいぶ順応しているはずだが、先ほどから少し寒けを感じ始め、体調は午前中よりもさらに悪くなっているようで足の運びが全く鈍い。 前を登っている妻に後ろから声を掛けてみたが、妻は逆に2日間静養して体調が戻ったのか、前回よりも楽だという。
テート・ルース小屋から30分ほどの所にある落石の危険地帯(グラン・クーロワール)にさしかかると、全く平穏だった前回とは違い、幾つかの小石がガレた急斜面を飛び跳ねるように落ちてきているのが見えたが、今回も落石に遭うこともなく無事通過することが出来た。 しかし何とその数分後に、大きな岩が一つ上から転がってきて、私達がたった今登ってきたばかりのトレイルを横切った。 登るペースが少し遅かったら危ない目に遭ったかも知れず、岩が転がっていった斜面を皆で見つめながら、「ダビット氏の速いペースもたまには役に立つね」と妻に言った。 その直後、今度は黄色いザックのようなものが、大きなバウンドを繰り返しながら先ほどの岩の後を追うように転がってくるのが見えた。 幸い途中でそれは止まり、私達の所まで落ちてくることはなかったが、ダビット氏の表情は一瞬こわばった。 私は“落石のみならず、物を落とす人もいて困ったものだ”と内心思ったが、登山者がザックが吹っ飛ぶほど激しく滑落したとは考えもしなかった。 しばらく登っていくと、氏は下ってきたパーティーから情報を入手し、私達に事故があったことを説明してくれた。 すでに救助の要請はされたようで、すぐ先で数組のパーティーが、登山者が落ちた所を心配そうに見つめていた。 小さな黒い影は全く動く気配はなく、氏は「多分彼は死んでしまっただろう」と呟いた。
間もなくレスキューのヘリコプターが上空に姿を現すと、氏は私達に「救助の様子を撮影したいのですが構いませんか?」とお願いしてきたが、この状況では「ノー・プロブレム」と答えざるを得なかった。 ヘリの操縦士は豆粒ほどの遭難者の位置がすぐに分かったようで、迷わず救助体制に入った。 ザイルで吊るされた救助隊員は遭難者の近くに降り立ち、その状況を確認すると、意外にも先にザックを回収してヘリに戻った。 再び救助隊員は遭難者のもとへ行ったが、遭難者を抱えてヘリに収容することなく、遭難者をまるで荷物のように宙吊りにしたまま飛び立って行った。 その状況から見て、遭難者がすでに死亡していることを疑う余地はなかった。 昨年のマッターホルンに続き、自分が登っている日に事故が起きるのは、単に偶然ということではなく、両峰とも人気のある名山であるがゆえの悲劇なのだろう。 私達には運ばれていく“遺体”に合掌して、亡くなった方のご冥福をお祈りするしかなかった。
図らずも20分ほどの大休止となったが、逆に体が冷えてしまい、足の運びはさらに鈍くなってしまった。 数分後に貫田さんと稲村さんのパーティーが上から下ってきたが、登頂の祝福や再会の挨拶もそこそこに、たった今目の当たりにした事故の驚きを話し合った。 貫田さん達は上から事故を目撃したとのことだった。 岩場のトレイルは上に登るほど険しさを増し急勾配となっていくが、予定よりだいぶ遅れたためか、ダビット氏はグイグイと私達を引っ張り上げる。 体調の悪さで時々意識が薄れるような妙な感覚に襲われるが、先ほどの遭難者の無念を思えばそんな弱音を吐くわけにもいかず、必死に前を登る妻の背中だけを追い続けた。
pm3:30、やっとのことでグーテ小屋に着いた。 先ほどの大休止を差し引けばテート・ルース小屋から1時間半ほどで登ったことになり、やはり前回より速いペースだった。 食堂のカウンターで紅茶を注文すると、奥から“ひょうきん氏”が現れ「アイ・ノウ・ユー!」と言って歓迎してくれたので、私もつられて「アイ・ノウ・ユー・トゥー、カム・バック・アゲイン」と変な英語で切り返してしまった。 到着時間が遅かったせいか、指定された寝場所は別棟の入口の扉の一番手前で、小屋中で一番悪い場所のように思えた。 早速能田さんのヘルメットの捜索をしたところ、運良く入口の下駄箱で見つけることが出来た。 荷物を整理して食堂へ行くと、ダビット氏が調理場や受付で働く山小屋のスタッフの仕事ぶりをビデオに収めていた。 前回と違い食堂は大変混み合っていて、寛ぐことが出来なかったので、再び別棟の寒い部屋に戻り夕食の時間までひと眠りすることにした。
pm6:00の夕食の時間に合わせて食堂へ行ったが、相変わらず混み合っていてテーブルにつくことが出来ず、1時間ほど待ってからようやく夕食にありつくことが出来た。 高所にある山小屋なので全く期待していなかったが、今晩のスープや牛肉の煮込み料理もなかなか美味しく、意外とこの山小屋は料理が旨いことで有名なのかもしれない。 風邪気味だが有り難いことに食欲はある。 夕食後にダビット氏と簡単に明日の打ち合わせを行う。 前回同様am2:00から朝食が始まるので、それまでに支度を整えて食堂に来るようにとだけ指示があった。
pm8:00には就寝したものの、予想どおり入口の扉を開け閉めする音がうるさく、また扉が開く度に冷たい空気が外から吹き込んできて寒かった。 何か体温がどんどん奪われていくような気がして寝つけず、そのうちとうとうお腹の調子が悪くなってきた。 症状は高度障害による下痢ではなく、明らかに風邪によるものだった。 仕方なく恐ろしく寒い外のトイレに何度となく通ったが、寒いトイレに通うほど症状は悪化するような気がした。 “何で自分だけこんなことで苦労しなければならないのか”とイラつく気持ちと、何とか出発までには治したいという焦りも加わり、一晩中全く眠ることが出来なかった。
8月30日、am1:45に起床し、身支度を整えて食堂へ行く。 体調の悪さとは反対に、外は風もなく満天の星空だった。 出発する時間帯に合わせて朝食を出しているためか、食堂は昨晩のような混雑は見られなかった。 パンを食べ始めようとすると、再びトイレに行きたくなってきた。 前回はam3:00に出発という予定だったので、今日もそのつもりでいたが、登山者が多いためか氏は少しでも早く出発したいという様子だった。 氏の思惑に反することは分かっていたが、背に腹は代えられないので、氏に今の自分の体調のことを説明して、しばらく様子を見させて欲しいと申し出た。 私は迷っていた。 果してこの体で山頂まで辿り着くことが出来るのだろうか?。 今の状況ではすぐに下痢は治りそうもないし、もし途中で私が潰れたらザイルで繋がれている妻も一緒に下りなければならない。 妻に氏とマンツーマンで登ることを提案してみたが、案の定妻は一人では登りたくないという。 しばらく悩んだ末、祈るような気持ちで征露丸を飲み、イチかバチかam2:50にアルプスの最高峰の頂を目指して出発することにした。
山小屋の裏手を20mほど登ると、意外にもエギーユ・デュ・グーテの山頂は広く平らだった。 ここからモン・ブランの山頂まではずっと尾根上を登ることになるので、登頂の成否は風の有無に大きく左右されるが、有り難いことに風は今のところ全く無かった。 どうやらまだ運があるようだ。 しかしお腹に大きな爆弾を抱えているため油断は禁物だ。 しばらくは稜線を緩やかに登り下りするだけの全く楽な登高だったが、体に思うように力が入らず、前を歩く妻と私を繋ぐザイルは弛むことがない。 登る前から予想されてはいたものの、憧れの山を目の前にして本当に情けない限りだ。 妻にも迷惑をかけるが、夢の実現に免じて許してもらおう。 そんな状況は全くお構いなしに、いつものようにダビット氏は私達をグイグイと引っ張って行く。 出発が少し遅れたため、すぐ前方にヘッドランプの灯はないが、山頂方面に向かってかなりの数の灯火が一列につながっているのが良く見える。 しばらく“稜線漫歩”した後、まるでスキー場のような幅の広い尾根を支峰のドーム・デュ・グーテに向かって直登するトレイルとなった。 お腹のことだけを気にしながら、弱々しい足取りで登っていくと、すでに登頂を諦めたのか、私達の傍らを単独者がポツリポツリと下ってくる。 一瞬彼らの姿に自分をダブらせる。 半月が頭上でこうこうと輝き、満天の星空の下、正面には不気味なほど大きく威圧的な山塊のシルエットが私達の挑戦を拒むかのように立ちはだかっている。 それとは対照的に左手の遙か足下には、シャモニの町の明かりがキラキラと輝いていた。
ちょうど1時間ほど登った時、右手の暗闇の中にぼんやりと山小屋のようなものが見えた。 中間地点にあるヴァロの避難小屋だろうか?。 いや、いくらなんでも早すぎる(後で妻に聞いてみたが、妻には全く見えなかったという)。 頭に酸素が回らず、幻覚でも見ていたのだろうか?。 トレイルは少し傾斜を増し、単調なジグザグの登高を繰り返すようになり、am4:20に最初の小広いピークで休憩となった。 ここがドーム・デュ・グーテ(4304m)の山頂だろうか?。 先行していた何組かのパーティーもここで休憩していた。 足を止めてもすぐに荒い呼吸は収まらず、しばらく顔を下に向けてストックにもたれかかるような姿勢で呼吸を整える。 朝食を殆ど食べていなかったので、行動食をテルモスの熱い紅茶で流し込んだ。
5分ほどの短い休憩の後、しばらく緩やかにだらだらと下り、左斜め上に露岩を仰ぎ見ながら幅の広い尾根を20分ほど登り返して平らな広場のような所に着いた。 私のことを気遣ってくれたのか、先ほど休憩したばかりなのに、ダビット氏はまたここで「何か食べたり飲んだりしますか?」と私達に聞いてきた。 もちろん二つ返事で賛成し、再び束の間の休憩となった。 気が付くとすぐ左の脇に“本物の”ヴァロの避難小屋が建っていた。 am4:55、グーテ小屋を出発して約2時間が経っていた。 ガイドブックによれば、この辺りが中間地点だと記されている。 征露丸のゲップが続き不快感この上ないが、どうやら下痢は収まってきたみたいだった。 しかし体に力が入らない状態は相変わらず続いている。 気温はマイナス10度だった。 休憩が終わると氏は私達に「ピッケルを手に持ちなさい」と意外なことを指示した。 確か昨日登頂された方の話では、山頂までピッケルを使わなかったと聞いていたし、目の前の斜面を見る限りピッケルは必要ないと思われたからだ。
ヴァロの避難小屋の前を出発すると、ダビット氏は正面に見える緩斜面を登らずに、すぐに左の方へ回り込んで行った。 そのとたんトレイルは急に細くなり、氏のつけた足跡がトレイルとなった。 間もなく急な斜面に取りつくと、氏は今までとは明らかに違う速さで駆け上がって行った。 すでにバテ気味だった私の体は悲鳴をあげた。 荒かった息はますます荒くなり、氏のペースに全く足がついていかない。 しかし氏は全くお構いなしに、もの凄い馬力でグイグイとザイルを弛ませることなく私達を引っ張り上げる。 左手でストック、右手でピッケルを交互に雪面に突きながら、お腹のことを心配する余裕もなく、無我夢中で脆い深雪の急斜面を直登気味に登った。 20分ほど喘ぎ喘ぎ登ると、また平らな広場のような所に出たが、右手の方にヘッドランプの灯がいくつか見えた。 暗いので正確なことはことは分からないが、どうやら氏は独自のルートでショートカットしたようだった。
am5:30、メインルートと合流した所で3回目の休憩となった。 先程と同じ5分ほどの短い休憩だったが、疲労困憊している体に腹式呼吸で酸素を送り込む。 すでに標高は4500m位になっているはずだが、幸い高度障害は全くなく、妻は羨ましいほど元気だった。 再び僅かに下ってからなだらかなピークを一つ越えた先のコルで、すぐにまた4回目の休憩となった。 やはりダビット氏は私の体調を気にしてくれているのだろうか?。
長かった夜に終止符が打たれ、辺りがようやく白み始めてきた。 相変わらず風もなく、どうやらアルプスの山の神に歓迎されたようだ。 雪が禿げて黒い肌をさらしている岩壁の左奥に、今度こそモン・ブランの頂と思われる輪郭がうっすらと見えた。 黒い岩壁がすぐ右手に見えるようになると尾根は痩せ、次第にナイフリッジとなった。 時計を見るとちょうどam6:00だった。 「あと1時間で着くよ!」。 今日私が相棒の妻に言った最初で最後の励ましの言葉(励ます必要はなかったが)だった。
山頂の向こう側が茜色に染まり始め、すでに眼下となった周囲の針峰群越しに遠くスイスの山々のシルエットが浮かんできた。 その左端に見えた特徴のある山影は、紛れもなくヴァイスホルンだった。 昨年のドム登山の時に見た感動的な朝焼けのシーンの記憶が鮮明に蘇ってきた。 そんな気持ちの高揚とは反対に、体はますます言うことをきかなくなり、顔を下に向けてストックとピッケルに体を預けたままの惨めな格好でダビット氏と妻にザイルで引っ張られて行く。 山頂直下のコルから先は更に尾根が痩せて一方通行となり、先行している沢山のパーティーで渋滞していたため、所々で休むことが出来て助かった。 ここではさすがに氏も前のパーティーを追い越そうとはしなかった。 傾斜が緩むと、前方にサミッター達の姿が次々に見え始めた。
am6:45、グーテ小屋から約4時間の“苦行”の末、ほうほうの体で憧れのアルプスの最高峰の頂に辿り着いた。 達成感や満足感といった爽やかな気持ちに浸る余裕は全くなく、ただひたすら何とか潰れずに辿り着けたという安堵感だけが頭の中を支配していた。 「ありがとう!、ありがとう!」。 声をふり絞り、お世話になった相棒の妻に感謝の気持ちを込めてお礼を言い、立っているのもやっとだったが、造り笑顔でダビット氏ともお礼の握手を交わした。 歩き回れば数分で大勢のサミッター達で賑わう山頂を一周し、アルプスの最高峰からの大展望を堪能することも出来たが、すでに登りで体力を使い果たしてしまった私は、麓まで自力で下れるかどうか自信が持てなかったので、本能的に急いでザックからカメラを取り出し、一歩も動き回ることなく眼下に見えている針峰群の写真を撮った。 シャッターは切れたが、なぜかフィルムが巻き上がらなかった。 電池はもちろん新品だったが、寒さで性能が低下してしまったようだ。 温度計を見るとマイナス11度だった。 妻がすぐに懐中で電池を暖めたため、数分後には撮影可能となった。 その直後に周囲から歓声が上がった。 皆が向いている方向に目をやると、遙か遠くに見えるマッターホルンの真上から小さな太陽がふわりと上がった。 ちょうど御来光の瞬間だったことにあらためて気が付いたが、そんなドラマチックな出来事も心から味わう余裕は今の私にはなかった。 氏に二人の記念写真を撮ってもらい、敬意を表して真のサミッターである妻の写真を撮った。 私一人だけの写真はあえて撮らなかった。 今日の私にはその資格がないと思ったからだ。 夢にまで見た憧れのアルプスの最高峰からの景色を愛でることも出来ず、その頂にほろ苦い思い出を残し、am7:00ちょうどにダビット氏に促されて下山にかかった。
ダビット氏は“後は自分に任せなさい”と言わんばかりに私からカメラを取り上げると、私に先頭を行くように指示した。 その直後に氏は、登り下りのパーティーで渋滞している頂上直下のナイフリッジで、トレイルから左に一歩下がった切り立った急斜面にピッケルを突き刺して、先行するパーティーを追い越すように指示した。 氏の性格も充分に分かっていたので、特に驚くこともなかったが、今日ばかりは他のパーティーに足並みを揃えて下りたいと願った。 ナイフリッジを過ぎてしばらく下ると、背中に暖かい陽射しを感じるようになった。 突然目の前にピラミッドのような均整のとれた山が見えた。 何と雲海のスクリーンにモン・ブランが影になって映っていたのだ。 氏は早速私のカメラで“影モン・ブラン”の写真を撮ってくれた。
水色だった空の色は刻々と青くなり、シャモニに来てから一番の快晴の天気になった。 山頂から40分ほどでヴァロの避難小屋まで下りてくると気温も上昇し、ジャケットを脱いだ。 お腹のこともやっと心配する必要がなくなった。 避難小屋の前にはまだこれから登るパーティーの姿が何組も見られたが、時計を見るとまだam8:00前だったので、逆に彼らからは私達が早すぎると思われたかもしれない。 振り返ると爽やかな青空の下、アルプスの女王は白く輝き、登りの時に感じた凄味は全く感じられず、逆に敗北感に打ちひしがれていた私を優しく見送ってくれた。
避難小屋からはダビット氏が先頭を代わり、再びペースは上がった。 下りはなんとかついていけるが、所々にある登り返しでは、とたんに足取りが重たくなる。 エギーユ・デュ・グーテの手前の最後の稜線漫歩を終えると、往きには全く気が付かなかったが、平らな山頂付近には20張りほどの“テント村”があり、モン・ブランの人気の高さを再認識した。 テント村のすぐ脇を通り、すでに支峰に遮られて見えなくなった山頂方面を振り返り、いつの日かまたチャンスがあれば再訪してみたいという思いを馳せながら、グーテ小屋への雪の階段を下り、am8:50に無事グーテ小屋に戻った。 未明に出発してからちょうど6時間が経っていた。
絶壁にへばりつくように建っている山小屋の周囲にはテラスがないので、アイゼンを外して靴も脱ぎ、食堂で熱い紅茶を注文して、殆ど食べれなかった行動食を食べた。 周りのテーブルではサミッター達が賑やかに祝杯をあげていたが、疲労困憊していた私は静かに目を閉じて頬杖をつきながら、ため息をついているばかりだった。 妻もさすがに疲れたようで、ぐったりとしている。 ダビット氏は相変わらず山小屋のスタッフ達と仲良く歓談していた。
「スィー・ユー・アゲイン!」。 ひょうきん氏に別れを告げ、am9:45にグーテ小屋を出発した。 再度アンザイレンして私が先頭になり、急な岩場のトレイルを下る。 昨日の事故のことを肝に命じ、一旦緩んだ気持ちを再び引き締めて一歩一歩確実に下る。 先行しているパーティーが多く、トレイルが渋滞していたため、何組かのペースの遅いパーティーを氏の指示で無理やり追い越したものの、所々で休むことが出来て良かった。 幸いにも今日のグラン・クーロワールは機嫌が良く、落石の音は全く聞こえなかった。
am11:15にテート・ルース小屋に着いてザイルが解かれ、カメラも解禁されて手元に戻ってきた。 昼食はもちろん看板料理のオムレツだ。 次の下りの登山電車の発車時間がpm1:25ということだったので、ニ・デーグルの駅で氏と待ち合わせることにして、私達は一足早く正午ちょうどに山小屋を出発した。 体調不良のまま、山頂から標高差で1600m以上も下り、体はすでにボロボロだったが、まだ標高差で800mほど下の駅まで下らなければならない。 今日は天気にも助けられ何とか登れたものの、こんな体で再び明日から山に登ることが出来るのだろうか?。 すでに私の頭の中では、明日からのバール・デ・ゼクラン登山に対する不安な気持ちがチラつき始めていた。 30分ほど下った所で後ろからダビット氏が追いつき、あっという間に追い越していったが、私には4日前に雨の中を惨めな思いでトボトボ下ったトレイルを、今日もまた意気揚々と下ることは叶えられなかった。
最後は小走りで登山電車にぎりぎり飛び乗ると、今日も車内は氷河見物の観光客で混み合っていた。 意外にもダビット氏は車内の僅かなスペースを見つけると、何のためらいもなくどっかりと床に座り込んだ。 さすがに今日は私をずっと引っ張り上げていたので、屈強な氏も疲れたのだろう。 私達もそれを見て、扉の近くに崩れるように座り込んだ。 妻も相当疲れているようだ。 20分ほど頭を垂れたまま目を閉じてベルヴューの駅まで揺られた後、運良く下りのロープウェイにも待ち時間なく乗れ、レ・ズーシュから氏の車に乗り込みpm2:15にホテルに着いた。 シャモニの町にも久しぶりに盛夏の陽射しが降り注いでいた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!」。 氏に2日間のお礼をあらためて言い、20ユーロのチップを手渡した。 明日は予定どおりam7:30にホテルに迎えに来てくれるとのことだった。
部屋に戻るや着替えもせず、そのままベッドに潜り込んだ。 妻はしばらく休養した後、『グスタビア』に能田さんを訪ね、彼女のヘルメットを届けに行ったようだ。 能田さん達も今朝テート・ルース小屋を発ち、今晩はシャモニで盛大な打ち上げをする予定だろう。 私もその輪の中に乱入しようと密かに企てていたが、明日までに何とか体調を整えて、バール・デ・ゼクランという最後の憧れの頂に立つことだけを願い、心を鬼にしてベッドの中で静養することにした。 その甲斐あってか、夜になると体が少し軽くなってきた。 食欲も出てきたので、『さつき』で夕食を食べ、天気予報を見ることもなく早々に就寝した。