グラン・パラディゾ(4061m)

  8月22日、am4:00起床。 窓から外を見ると星空であり、風もなさそうであった。 ダビット氏は既に起床して食堂に行ったようだ。 食堂に行くと氏はカウンターから私達の分のパンとジャムと紅茶をテーブルに運び、先に食べ始めていた。 朝食後、昨日の夕食後に頼んでおいたテルモスの紅茶をカウンターで受け取り、飲み物からもカロリーが補給できるように砂糖を多めに入れた。

  am4:45、ハーネスだけを着けアンザイレンはせずに山小屋を出発。 いよいよ待望の今シーズンの初登攀が始まった。 空は満天の星空で風もないが、まだ低血圧の体が目覚めていないのか少し寒く感じる。 しかし昨日からダビット氏に易しい山だと言われていたので気持ちは楽だ。 山小屋の裏手の岩壁を右手に仰ぎ見ながら、トレイルはすぐに大小の岩が辺り一面に堆積している所にさしかかり、岩と岩のすき間に足を落とさないように注意しながら、所々に積まれた小さなケルンとヘッドランプの灯、そして真上にある大きな満月の明かりを頼りに進んで行くが、苦労の割に標高が殆ど稼げないので嫌になる。 20分程でそこを通過すると、しばらくは明瞭なトレイルが現れ登り易くなったが、途中に一か所だけ岩を巻いたり登ったりしながら氷河から流れ出す沢を渡渉する所があり、付近の岩や足場にする沢の中の石が全てツルツルに凍っていて冷や汗をかいた。 昨日とは違い、氏は傾斜の緩い所は普通に登るが、少し急な所にさしかかると突然ペースを速めたりするため、心拍数は全く安定しない。 また氏の性格かどうかは分からないが、辺りが暗いためトレイルが不明瞭な所で後続の私達を待っていたガイドレスのパーティーが後ろにつこうとすると、わざと足早に登って引き離そうとしているのが良く分かった。 マッターホルンを除けば今までのガイド氏の中では一番ペースが速い。 今日の登山は楽勝だと思っていたのは甘かった。

  トレイルは氷河の舌端にさしかかり、傾斜の緩い雪面をしばらくはアイゼンを着けずに登った後、am6:00ちょうどに雪の上に露出した最後の平らな岩の上でアイゼンを着けるための休憩となった。 高度計はないが、標高は3200m位であろうか。 先程朝食をいつもよりしっかり食べたが、速いペースでシャリバテが予想されたので、行動食を口に入れる。 砂糖をタップリ入れたテルモスの熱いレモンティーが旨い。 燃料の補給で体が暖まってきたので、ジャケットを着込まずそのままam6:15にアンザイレンして再スタートする。 手前の急な斜面は直登せず、右へ大きく回り込んでからジグザグの明瞭なトレイルをストックを突きながら登っていく。 まだ周囲は薄暗いがクレバスもなく、トレイルもしっかりしているのでヘッドランプの灯を消す。 しばらく緩斜面を登っていくと夜が明けてきたので、ダビット氏を呼び止めて朝焼けの写真を1枚撮らせてもらった。 爽やかな薄い水色の空の下、遠方にモン・ブランやグランド・ジョラス等フレンチアルプスの山並みが、シャモニの町から見た時と反対の並びにくっきりと見える。 今日は快晴の一日となるに違いない!。

  先ほどと同様に、ダビット氏は緩斜面は普通に登るが、なぜか急斜面になると意識的にペースを速める。 急斜面につけられた直登気味のトレイルは立派だが、“下り専用”のようで傾斜が急すぎるため、氏はトレイル上を登らずにクラストした斜面をアイゼンの爪を立てながら斜めに登っていく。 昨年マッターホルン登山に使用した軽量の少しタイトな登山靴を履いてきたせいか、両足の親指が痺れるように痛くなってきた。 凍傷になっては困るので、靴の中で指先を絶えず動かし続ける。 右手に見える衛星峰のティアフォロンの頂が次第に目線の高さになっていくことを励みに登り続けていくが、思うように足が上がらず、昨年はドムやモンテ・ローザといった今日より遙かに行動時間の長い登高によく耐えられたものだとつくづく思った。

  am7:00ちょうど、ダビット氏は昨日同様私達に「何か食べたり飲んだりしますか?」と問いかけてきた。 待ってましたと3分間ほどの休憩をもらい、慌ただしくレモンティーを飲み、写真を1枚撮った後、ジャケットを着込んですぐににまた登り始めた。 間もなく右前方の稜線上に、“鬼の角”のように突き出ているユニークな形をした尖った岩塔が幾つも見え始めた。 今度は次々に出現する岩塔を目標に黙々と高度を稼いでいくが、未だにグラン・パラディゾの頂を拝むことは叶えられない。 先行している何組かのパーティーも豆粒ほどの大きさに見え、ゴールはまだまだ遠いようだ。 氏は時間で区切ったのか、図らずもam8:00ちょうどに急な斜面の手前で3回目の“休憩”となった。

  休憩後、息を切らして急斜面をひと登りすると視界が拡がり、左前方に雪の禿げた大きな黒い岩肌が見えた。 ガイドブックの記述を思い出し、「あそこの岩場を登り詰めた所が山頂だと思うよ」と後ろから妻に声を掛ける。 しばらく登った所で、岩場を登っているパーティーの姿が見え、登攀ルートがはっきりと分かった。 右手の岩塔群を全てやり過ごし、山頂の岩場に向けて明瞭なトレイルが雪面を斜めにトラバースして一直線に続くようになると、ようやくダビット氏も少しペースを落とした。 いよいよ最後の岩場の登攀となったが、意外にも20mほど登っただけで360度の展望が拡がり、すでにそこは山頂の手前の小ピークであった。 先に登頂したパーティーが下りてくるのを待って、稜線上の狭い岩の上を氏が前で確保しながら慎重に渡り切り、マリア様の像が立っていた山頂直下の所に辿り着いた。 氏は上へは上がらず、「山頂は狭いので私達だけで山頂に立ちなさい」と指示した。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!」。 妻と代わる代わる氏にお礼を言いながら握手を交わし、2mほどの岩塔を回り込むようにして登り、am8:40に憧れのグラン・パラディゾの頂に辿り着いた。 山小屋から3時間55分の道のりであった。

  ペースは速かったものの二人とも最後までバテずに、また快晴無風の天気にも恵まれ、実に爽やかな気分であった。 「やったね〜!、お疲れ様でした!」。 ダビット氏の速いペースによく耐えた妻を労い、マリア様の像に交互に抱きついて喜びを分かち合った。 憧れの頂に仁王立ちし、感激に浸りながら周囲の写真を撮りまくる。 アルプスの山の頂は一つ一つが変化に富んでいて、本当に印象深いものである。 グラン・パラディゾ(イタリア語で“大きな楽園”)と名付けられた懐の深いこの独立峰の頂からは、麓の町や人工的な物は一切目に入らず、周囲を取り巻く山並の向こうには、フランスとの国境に聳えているモン・ブラン山群の山々のみならず、昨年登ったマッターホルンやモンテ・ローザといったスイスとの国境に聳えているヴァリス山群の山々が良く見渡せる。 一通り周囲の写真を撮り終えたので岩の下にいる氏に声を掛け、狭い山頂に招いて記念撮影をお願いした。 写真を撮り終えたところで、後続のパーティーが稜線のピークに現れたため山頂を譲らなければならず、氏に促されて僅か15分ほどでイタリアの最高峰の頂を後にすることとなった。 

  下りはいつものように私が先頭となったが、トレイルは安定し全く危ないところはなく、モン・ブランを正面に見据えながら、登りと同様にピッケルは使用せずに、ストックだけで快調に下る。 途中で登りの時には撮れなかった稜線上の岩塔群の写真を撮ろうとしたが、フィルムの交換直後に電池切れのためか突然シャッターが切れなくなってしまい、ナイスショットを逃してしまった。 しばらく下った所で氏は“お前さんでは遅すぎる”と言わんばかりに先頭を代わりスピーディーに飛ばしたため、忘れていた両足の親指の痛みが蘇ってきた。 山頂から1時間半足らずで氷河の取り付きまで下りきり、アイゼンはそのままにザイルだけが解かれた。

  気温もあっという間に上昇し暑くなってきたので、長袖のシャツ一枚になり最後の雪の緩斜面を下り始めた。 右手の岩の上に子供のアイベックスがいるのをダビット氏が見つけ、ストックで指し私達に教えてくれた。 再び先程の凍てついた沢の渡渉となったが、結局今日一番の“難所”はこの沢であった。 沢を無事渡り終えると、氏は私達にアイゼンを外すように指示し、“もうあとは勝手にどうぞ”と言わんばかりに先に下っていった。 私達もその雰囲気を感じ取って、あえて氏の後を追おうとはせず、私達のペースで下っていくことにした。

  am10:55、出発してから僅か6時間10分で無事山小屋に戻った。 一足先に着いていたダビット氏に再びお礼を言い、とりあえず飲み物を注文して、山小屋の前のテラスで祝杯を上げた。 予定より一日遅れてヤキモキしていたが、快晴の天気の下、今年も新たな憧れのアルプスの頂を一つ踏むことが出来てとても幸せな気分だ。 まずまずの滑り出しに心も弾んだが、次の山の頂を踏むのに8日間も費やすことになろうとは知る由もなかった。 痛めた足の親指が心配だったので、靴と靴下を脱いでみると、血行不良か凍傷か分からないが、すでに両足の爪は真っ黒になっていた。 しばらくマッサージすると少し痛みは和らいだみたいだが、明日以降の山行は大丈夫だろうか?。 昼食を山小屋で食べていきたかったが、氏が下山後に食べましょうと提案したため、仕方なく3人分の山小屋の宿泊代80ユーロ(邦貨で約9600円)を支払い、am11:30に慌ただしく山小屋を出発し、約700m下の登山口へとハイキングトレイルを下った。

  最初のうちは傾斜も緩いのでダビット氏の後をついて行ったが、右足の親指の痛みが明日以降の山行に支障をきたしては困るので、一人でゆっくりと(普通のペースで)下っていった。 途中私が余りにも遅いので心配して待っていた妻と合流し、pm0:45に登山口に着いた。 多分氏は1時間ほどで下ってしまったのであろう。 てっきり登山口のレストランで昼食を食べると思っていたところ、氏は今度はモン・ブラン・トンネルが渋滞するからという理由で昼食を食べないというので、仕方なく再びジュースでだけで祝杯を上げ、pm1:00過ぎに氏の車に乗り登山口を後にした。

  乗車後すぐに山行のメモを書き始めたせいか、空腹のせいか、それともダビット氏のハードな運転のせいか、急カーブの多い山道の下りで気分が悪くなってきてしまった。 しばらく我慢していたが、手が痺れるほど悪化してしまったので、途中何度か車を路肩に停めてもらい、“特急ダビット号”は各駅停車になってしまった。 pm3:00過ぎにシャモニの町に着き、ホテルの前まで送ってくれた氏に再度今日のお礼を言い、20ユーロのチップを手渡した。 明日から予定しているグランド・ジョラス登山については、今夜の天気予報を見てから後で神田さんに連絡してくれるとのことであった。

  ホテルで簡単に昼食を自炊してひと風呂浴びた後、モン・ブラン登山に必要だといわれた妻のヘルメットをスネルスポーツに買いに行き、神田さんに今日の山行報告と足の指を痛めてしまった話をしたところ、意外にも登山靴のつま先の幅を拡げる修理が出来るとのことで、藁をも掴むつもりでお願いすることにした。 夕食はジャガイモ、人参、玉葱等をたっぷり使った野菜スープと生ハム、そして妻が腕をふるって作ってくれたチーズオムレツを食べた。 pm9:00過ぎに神田さんから連絡が入り、ダビット氏から「明日は天気が悪そうなので、明朝一番で山に行くかどうかを決めます」という指示があったとのことであった。 今日の山行で体は疲れていたが、明日以降の計画が気になり良く眠れなかった。


早朝のモン・ブラン山群


稜線には“鬼の角”のように突き出ている尖った岩塔が幾つも見えた


グラン・パラディゾの頂稜部(下山時の撮影)


グラン・パラディゾの山頂    背後はモン・ブラン(中)とグランド・ジョラス(右)


山頂のマリア様の像


山頂から見たマッターホルン(中)とモンテ・ローザ(右)


山頂から見た稜線の岩塔群


山頂から見た東側の眺望


山頂から見た西側の眺望


山頂直下を下る


山頂直下から見た衛星峰のティアフォロン


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