憧れのヨーロッパアルプス 3

  【フレンチアルプス】
   モン・ブラン、その言葉を初めて耳にしたのは小学生の頃だったが、それは他でもなく栗を上に乗せたケーキのことだった。 その語源が山の名前であることを知ったのは山登りを始めてからのことで、またその山がフランスにあり、ヨーロッパアルプスの最高峰であることを知ったのは、数年前に知り合った小松崎さんから同峰の土産話を聞いてからだった。 その後、2000年の夏にスイスのユングフラウの頂から国境を越えて初めてモン・ブランの雄姿を自分の目で見て以来、同山はぐっと身近な存在となったが、海外登山の経験がなかった頃の私にとっては、その頂に立つなどということは全く夢の中の世界であり、ただの憧れにすぎなかった。

   モン・ブラン(4807m、最近では少し背が伸びて4810mになった)は、東西数百キロに拡がるヨーロッパアルプスの西部に聳えていて、アルプスの最高峰であると同時にフランスの最高峰でもある。 米ソの冷戦以後、地理学上ロシア連邦西部がヨーロッパ大陸に含まれるとの見方が支持されるようになり、コーカサス山脈に聳えるエルブルース(5642m)に同大陸の最高峰の地位は譲ったものの、1786年の初登頂が近代アルピニズムの原点となったといわれるモン・ブランの魅力は全く衰えることはなく、毎年数多くの登山者がその頂を目指す名山中の名山だ。 登山家(冒険家)の植村直己氏でさえ、海外で最初に登頂した山がモン・ブランであることからしても、登山を志す者の誰もがこのアルプスの最高峰に憧れを抱くのだろう。 私もいつの日かこの憧れの名山に登ることを夢見て、2000年にはアルプスの初心者としてスイスのメンヒ、ユングフラウ、ブライトホルン、アラリンホルンを、そして2001年には同じくブライトホルン、ドム、マッターホルン、モンテ・ローザという延べ8座の4000m峰(フィアタウゼンダー)を登り、満を持して3回目の“アルプス弥次喜多山行”を計画し、初めてフランスの地を訪れることにした。

   ところで、今回で3回目となったアルプス山行は、昨年の同山行の帰りの飛行機の中で既に計画は出来上がっていた。 それはフランスのシャモニをB.Cとして、第一目標のモン・ブラン、国境線上にない山の中ではイタリアの最高峰であるグラン・パラディゾ(4061 m)、そして“アルプスの3大北壁”の一つとして有名なグランド・ジョラス(4028m)の三つの山をメインに登ろうというもだ。 このうちグランド・ジョラスについては、私の技術と体力ではとても無理だろうと思い、当初は登る山のリストには入れてなかったが、昨年マッターホルンに運良く登れてしまったため、将来アイガーにもアタックすることを夢見ていた私の頭の中に、クライマー達の憧れであるアルプスの3大北壁を擁する山(マッターホルン・アイガー・グランド・ジョラス)の“一般ルート”を登り、その頂に立ってみたいという誠に単純な発想が浮かんできたからだった。 この発想は登山家の田部井淳子さんもその著書の中で記されていることが後で分かり、何か妙に嬉しくなった。 また運良くこれらの三つの山を全て登れた場合には、アルプスの西の端に位置する『エクラン山群』の盟主であるバール・デ・ゼクラン(4101m)という名峰を登ってみたいと密かに願っていた。

   今回のモン・ブランへのアタックに際しては、以前ユングフラウを同じ日に登頂し、またキリマンジャロを1日違いで登頂した奇縁の古林さんから、「モン・ブランに登るためには、まず同峰の麓のアルペン・リゾート地のシャモニ在住の日本人登山家で、現在では『スネルスポーツ』という登山用品店に勤めている神田泰夫さんという方に相談すること」というアドバイスを受けていた。 また小松崎さんからも、「モン・ブランは大変人気がある山なので、“一見さん”ではガイドや山小屋の予約が希望どおりにはいかず、スイスのようにガイドの手配がシステム化されていない」という情報をいただいていた。 当初は、もしガイドが雇えなければ、ガイドレスで登られた知人の例に習い、ガイドレスで臨もうかとも考えていたが、古林さんを始め、小松崎さん、そして所属している山の会の先輩で既にモン・ブランに登られている細井さんからも一様に、「ガイドを雇った方が良いですよ」というアドバイスがあったため、諸先輩方のアドバイスに従って、とりあえず今回の山行計画を詳細に記した手紙を神田さん宛に出して、ガイドの予約方法や料金体系等のアドバイスを乞うことにした。

   数日後、神田さんの奥様で、シャモニで『アルプス・プランニング・ジャポン(A.P.J)』という旅行会社を営まれている神田美智子さんからの便りが届いた。 それによると、やはりシャモニに来てから天気と相談しながらガイドの手配をすることは難しい(確実性がない)ので、日本から事前に予約をしておいた方が良いとのことだった。 また登山口までのアプローチの悪さを懸念していたグラン・パラディゾについては、ガイドが自分の車で登山口まで送迎してくれるとのことで、こちらも当初はガイドレスで登ることを考えていたが、ガイドを雇った方が効率的であることが分かった。 神田さんからいただいたアドバイスを尊重し、“天気が良くても山に登れない”という状況だけは何としても避けたかったので、思いきって登山を予定している8月20日から9月1日までの13日間連続してガイドを雇うことを決め、美智子さん(A.P.J)に国際電話をかけて、ガイドの予約をお願いした。 悪天候のみならず、休養等の私達の都合で登山が出来ない日(4〜5日はあるだろう)のガイドの拘束料は1日230ユーロ(邦貨で約27,600円)であり、“弥次喜多山行”は“大名山行”に大変身を遂げることになった。 また既に旅行会社のH.I.Sを通じて予約していたホテル(クロワブランシュ、三ツ星・ツイン・朝食付き)について美智子さんに訊ねてみたところ、約3分の2(一泊10,300円)の値段で手配出来るとのことだったので、H.I.Sへの予約をキャンセルして、こちらの予約もお願いすることにした。

   尚、今回も前回同様にH.I.Sで航空券(@157,000円)とスイストランスファーチケット(入国した空港から最初の宿泊地まで及び最後の宿泊地から出国する空港までの鉄道・バスの運賃が無料になる鉄道パス/@9,400円)を購入したが、やはり安かったのはアジア系の航空会社の便だった。 ところがアジア系の便は皆一様にスイスのチューリッヒを到着地とし、シャモニに行くには都合が良いフランスとの国境付近に位置するスイスのジュネーヴへの便がないことが分かった。 さらにガイドブックによれば、ジュネーヴからシャモニへはジュネーヴ空港又はジュネーヴ中央駅から直通バスに乗るのが一番良いとされていたが、このバスは朝夕の2便しかなく、飛行機の到着時刻との相性が悪いことが分かった。 他にはジュネーヴから電車でローザンヌ、マルティーニとスイスの国内を移動して、スイスとフランスの国境駅であるル・シャトラール・フロンティエールから登山電車に乗り換えてシャモニに行く方法があり、こちらは所要時間が3時間半ほどだった。 初めてのアルプス山行であれば、迷わずジュネーヴから入国しただろうが、前回までの経験を生かしてシンガポール航空でチューリッヒから入国し、チューリッヒから電車を3回乗り換えて6時間でシャモニに行くことにした。

  【シャモニ】
   8月18日am6:45、私達と夢を乗せた飛行機は成田を前日の正午に発ち、シンガポールで6時間のトランジットの後、約13時間(成田からは26時間45分)を費やしてチューリッヒのクローテン空港に15分遅れで到着した。 入国審査を受け、20kgのスーツケースをピックアップし、一目散に地下の鉄道駅へと向かい、既に入線していたam7:13発のジュネーヴ行きの特急列車に飛び乗った。 こんな芸当が出来るようになったのも3年連続通いつめたお蔭だ。

   最初の乗換駅のローザンヌの手前で、広大なレマン湖越しにアルプスの山並みが車窓から遠望出来るようになった。 いよいよ憧れの山々へのチャレンジが始まるのだ。 期待はいやがおうにも高まってくる。 レマン湖畔に拡がるローザンヌの町の大きさは意外だった。 チューリッヒやベルンより人口は少ないはずだが、今までに車窓から見たスイスの町並みの中では一番立派に感じた。 また、湖畔に沢山のヨットハーバーがあったことも意外だった。 マルティーニに近づくと左右の車窓にアルプス特有の岩峰群が間近に望まれるようになってきた。 一部は山頂付近に雪を戴いている。 車内検札に来た車掌さんの言葉は既にフランス語だった。 チケットの確認をしてもらい、車掌さんに一瞬「サンキュー」と言いかけてから、ワンテンポ遅れて口から出てきた「メルスィー」という言葉がまだまだぎこちない。

   am10:47に2回目の乗換駅のマルティーニに到着。 構内の売店でフランスパン(サーモンのサンドイッチ)を試しに買って食べてみたが、意外と柔らかくて安心した。 am11:35、同駅が始発の赤と白のツートンカラーの車体の2両編成の登山電車に乗り込むと、フランスとの国境駅のル・シャトラール・フロンティエールに向かって急な勾配の山道をジグザグに登り始めた。 乗客は昼間の時間帯のせいか2割程度で、途中の小さな駅では殆ど乗降はなかった。 まるで玩具のような登山電車は、岩をくり抜いた素掘りのトンネルや底が見えないほど深い谷からせり上がっている、いつ崩れてもおかしくないような山腹の急斜面をへつるように走り抜け、pm0:21に国境駅に到着した。 すぐに反対側から峠を登って入線してきた、同じような赤い車体の2両編成の登山電車に乗り換えてフランスに入国したが、パスポートの審査はおろか車内検札もなく、図らずも無賃乗車となってしまった。

   国境の峠の標高は分からないが全く寒くなく、むしろ強烈な陽射しで暑いぐらいだった。 国境を越え、フランス国内を10分程走ると、突然右手の車窓から青空を背景にした大きな雪山が見えた。 モン・ブランだ!。 いきなりの真打ちの登場に、慌ててザックからカメラを取り出して写真を撮った。 そしてシャモニに近づくにつれ、モン・ブランよりも手前に聳えているドリュ(3754m)、ヴェルト針峰(4122m)、グレポン(3482m)、プラン針峰(3673m)等の雄姿が次々と見え始めた。 昨年とは全く違う絶好の天気で迎えられ、心はますます意気揚々としてきたが、この時が正に悪天候の谷間の束の間の好天であったことは知る由もなかった。 今回の山行のB.Cとなるシャモニはフランスの東部の端に位置し、スイスとイタリアとの国境にほど近い小さな町だが、第一回目の冬季オリンピックが開催されたという歴史のあるこの町は、スイスのツェルマットと同様にヨーロッパアルプスを代表するアルペンリゾート地で、夏や冬を中心に多くの観光客で賑わうという。

   pm1:06、シャモニ・モン・ブランの駅に到着。 強烈な陽射しで道路からの照り返しがきつい。 真っ先に神田さんの勤め先のスネルスポーツへと向かう。 メインストリートには良い天気にもかかわらず、町を散策している観光客の姿が目立つ。 登山やハイキング以外の目的で来ている観光客も多いのだろう。 10分程で店の前に着いたが、入口の扉は閉まっていて、pm0:30〜2:30までが昼休み時間となっていた。 しばらく店先で神田さんを待っていたが、現れそうな気配は全く無かった。 pm1:00過ぎに到着し、その足でスネルスポーツへ行きますと電話で美智子さんには伝えておいたのだが、何かの行き違いだろうか?。 仕方がないのでインフォメーションセンターでホテルの場所を訊ね、とりあえずホテルへと向かった。 いよいよ仏語でのやり取りをしなければと身構えたが、意外にもフロントの女性は流暢な英語で話しかけてきたので、逆に面食らってしまった。 「A.P.Jから予約をしてもらった酒井です」と申し出たところ、予約は確認出来たがバウチャーが届いてないので、まだチェックインは出来ないとのことだった。 仕方がないので妻と荷物をホテルのロビーに残し、再度スネルスポーツへ行き、神田さんを待つことにした。 とにかく今回の山行は神田さんと会わないことには始まらないのだ。

   pm2:30に午後の営業が始まったが、神田さんは現れなかった。 意外なことに、この店は非常に繁盛していて、開店直後から訪れるお客さんが多かった。 30分ほど待って、やっと慌ただしく神田さんが店に現れた。 早速挨拶を交わし、とりあえずホテルの件から話し始めると、たった今手続きをしていただいたとの事だった。 今後のスケジュールの確認や、天気、山の状況、ガイドとの接し方、山の難易度など聞きたいことは山ほどある。 天気のことを何よりも心配していた私に、神田さんは「今年の夏は今までになく天候が不順だったけど、ここ2〜3日良い天気が続くようになってきたから、しばらくは天候が安定すると思いますよ」と自信ありげに話された。 神田さんは私と話をしながらも体や目を忙しそうに動かし、お客さんへの対応に追われていて、何度も「体が二つ欲しいよ」と呟いていた。 私が美智子さんに郵送した山行計画表を見せながら、計画の再確認を始めたところ、神田さんの勘違いで明後日(20日)からのガイドの手配が21日からになっていた。 急遽20日からガイドを頼めるか聞いてみましょうということになった。 もう神田さんに任せるしかなかった。 その短いやり取りの間にも、次々に来店するお客さんへの対応と、他の日本人の登山客から矢継ぎ早にモン・ブラン登山や装備等の質問責めにあっていた。 なるほど毎日がこの状況では私達の存在などは大海の一滴にすぎず、先程の日程の件も仕方がないことだと分かった。

   しばらくすると妻が、そして今回の山行の“名脇役”となったガイドのダビット氏が、タイミング良く相次いで来店した。 「ナイス・トゥー・ミーチュウ!」。 いかにも現役のクライマーという風貌のダビット氏は、意外にも先程のホテルのフロントの女性と同様に英語で話しかけてきた。 意表をつかれ、「ボンジュール、ジュ・スィ・コンタント・ドゥ・ヴ・ボワール、ジュ・マペル・・・」と、日本で何度も練習してきた仏語での挨拶と自己紹介をするつもりが、相手につられてこちらも安易に英語で応じてしまった。 これから2週間お世話になる氏と力強く握手を交わしたが、長身で細身の氏の手のひらは、まるでグローブのように大きく、そして分厚かった。 私達よりも若そうに見えた氏の年齢を訊ねたところ、偶然にも私と同じ42歳だった。 早速神田さんは山行計画表を見ながら、ダビット氏に私達の登山計画の説明を始めてくれた。 神田さんの話では、こちらではスイスとは違い、B.Cの山小屋までのアプローチもガイドと一緒に行動するとのことだったので、神田さんを介して氏に「アタック時はそれなりに頑張りますが、私達は足が短いのでB.Cの山小屋までのアプローチはゆっくり登って欲しい」とリクエストしたが、氏は苦笑いしているだけで、明確にOKの返事はしてもらえなかった。 再びこれから山行を共にする氏と固い握手を交わし、神田さんにお礼を言ってホテルに戻った。

   今日から15泊するホテル『クロワブランシュ』は新館と旧館とがあり、私達が泊まる旧館は外見はそこそこ立派だが、エレベーターはなく階段は歩くとギシギシと音がするほど年代を感じさせるものだった。 しかし妻が最も重要視する風呂は大きなバスタブ付きで、冷蔵庫とテレビのある部屋は値段の割には満足のいくものだった。 荷物の整理をした後、町の散策とスーパーへの買い物に出かけた。 海外ではスーパーでどんなものが売られているかを見て回るのは結構楽しく、私達の貧乏旅行では自炊用の食料品の調達には欠かせない。 日本から持参した食料があるため、とりあえずミネラルウォーターとジュースだけを買い、夕食は機内食の余りと持参したアルファー米、梅干し、インスタントのみそ汁等で簡単に済ませた。 神田さんに教えていただいたpm8:00の2チャンネルのテレビのニュースの後の天気予報を見たが、スイスの天気予報とは違ってあまり詳しくなかった。 また週間予報もなく、向こう3日間の天気が表示されるだけだった。 観光の国と普通の国との差だろうか?。 とりあえず明日も天気が良さそうなので一安心した。 明日のハイキングのルートをガイドブックと地図でおさらいし、ひと風呂浴びてから早々に床に就いた。


マルティーニで登山電車に乗り換える


車窓から見たドリュ(中央右)とヴェルト針峰(中央左)


シャモニ・モン・ブラン駅


シャモニの町


ホテル『クロワブランシュ』


神田泰夫さん


  【ラック・ブラン】
   8月19日、時差ボケもそれほどなく、シャモニでの最初の朝を快適に迎えることが出来た。 天気も予報どおり上々だ。 朝食を食べに1階の食堂へ行く。 部屋の窓からは山は見えないが、食堂の窓からは朝陽に輝くモン・ブランの丸い頂と、それとは対照的なエギーユ・デュ・ミディ(3842m)の尖った岩峰が見えた。 ホテルの朝食は想像していたバイキングではなく、テーブルに運ばれてくるパンのうちクロワッサンは美味しかったが、焼きたてではない固いフランスパンにはガッカリした。 今日のハイキングのルートを妻に説明し、憧れのモン・ブランを眺めながら朝食を食べ、am8:30過ぎにホテルを出発した。

   モン・ブランの雄姿を写真に収め、ホテルのすぐ裏手にあるサン・ミシェル教会に立ち寄り、まずは今回の山行の無事と成功を神に祈った。 教会の脇からブレヴァンの展望台に向かうゴンドラの駅へ真っ直ぐに続く急坂を10分ほど登る。 ゴンドラの車窓からは麓のシャモニの町並はみるみる小さくなり、眼前のモン・ブランはその全容を少しずつ変えていく。 モン・ブランの中腹からシャモニの谷に流れ込むボソン氷河の後退が痛々しいほどよく分かる。 ゴンドラは10分ほどで標高差を900mほど稼ぎ、途中駅のプランプラ(1999m)へ。 ここからハイキングを始める人も多いが、私達は更にこの上のブレヴァン(2525m)の展望台までロープウェイで上がった。 ロープウェイを降り、駅舎の裏手をひと登りすると、360度の展望が利く展望台(ブレヴァンという山の山頂)に着いた。 ガイドブックには展望台には売店があり、テーブルやベンチが置かれていると記されていたが、時代が変わったのか、展望台の先端には観光客の代わりに20頭ほどのこげ茶色の山羊の群れが陣取り、周囲には彼らの糞が足の踏み場もないほど散乱し、臭いを漂わせていた。 ほとんどの人達はそちらには近寄らず、手前にある新しい大理石の立派な方位盤を囲んで山座同定をしていたが、私はめげずにシャモニでは三本の指に入ると言われる展望台の先端まで行き、山々を眺めながら写真を撮り、ビデオを回した。 眼前には主役のモン・ブランと、モン・モディ(4465m)、モン・ブラン・デュ・タキュル(4248m)といった衛星峰が、そして左に目を転じると、エギーユ・デュ・ミディ、プラン針峰からグレポンまで鋸の歯のようなギザギザのピークが連続するシャモニ針峰群、さらに左奥には怪峰ドリュを従えたヴェルト針峰の雄姿が連なっている。 展望台は絶好の撮影ポイントだが、残念ながら逆光になってしまい、良い写真を撮ることは出来なかった。 展望台から見たモン・ブランは、標高1000mほどのシャモニの谷から標高3500mほどの雪線の高さまで一気にせり上がり、雪線から上では傾斜を緩めた穏やかな山容で、雪をたっぷりと戴いた独特の丸みを帯びたその頂は、マッターホルンのような尖峰とは正反対の優美さを誇っていて、まさに“アルプスの女王”という称号にふさわしい山だった。 モン・ブランや周囲の針峰群の大パノラマに見とれながらも、目線の先はついついエギーユ・デュ・グーテ(3817m・モン・ブラン登山のB.Cとなるグーテ小屋のある所)から支峰のドーム・デュ・グーテ(4304m)を辿り、山頂に至る登攀ルートにいってしまう。


サン・ミシェル教会で山行の無事と成功を神に祈る


山の家(ガイド組合)


ブレヴァンの展望台へロープウェイで上がる


ブレヴァンの展望台


ブレヴァンの展望台から見たモン・ブラン


ブレヴァンの展望台から見たシャモニ針峰群


   ブレヴァンの展望台からゴンドラの途中駅のプランプラ方面へ、モン・ブラン山群を一周する“ツール・ド・モン・ブラン”のルートにもなっている岩屑のハイキングトレイルを下る。 気温は20度にも達し、風もなくTシャツ一枚になった。 暑さのせいか、トレイルの脇の日陰となっている岩溝に羊たちが群れている。 モン・ブランを始めとする対岸の高峰群にばかり目を奪われていたが、これから向かうエギーユ・ルージュ(赤い針峰群)と名付けられている岩峰や、名前は分からないが、背後に拡がる2500m級の切り立った屏風のような岩山等、氷河が削り取ったアルプス特有の峰々を常に眺めながらの稜線漫歩だ。 トレイルはとても歩き易く、森林限界を越えているため展望も良いので、シャモニ周辺のトレイルの中では人気が高く、大勢のハイカーが前後を歩いている。 “ボンジュール”、“メルスィー”等挨拶の練習には丁度いい。 展望台から40分ほど岩場を下り気味に歩き、ブレヴァンのコルと記されている三叉路を過ぎると、トレイルの脇には色とりどりの高山植物が見られるようになった。 すでに盛夏は過ぎ、アルペンローゼは株だけで花は終わってしまったが、代わりにイワギキョウ、マツムシ草、ヤナギランといった日本の山でもお馴染みの花々も見られた。

   プランプラの駅舎を右手に見ながら、そちらには行かず稜線の中腹につけられたトレイルをそのまま歩き、次の目的地のフレジェール(1877m)の展望台を目指す。 振り返ると、ブレヴァンの展望台もだいぶ遠くなってきた。 近くにパラグライダーの発着場があるようで、カラフルなグライダーがシャモニの谷を何羽も飛んでいるのが見えた。 “山を登り終えたらやってみようか”と海外ではつい気持ちも大きくなる。 モン・ブランはすでに後方に見えるようになり、右手にはシャモニ針峰群が、そして前方には怪峰ドリュを右肩に擁したヴェルト針峰(エギーユ・ヴェルト)が大きくそしてとても立派に望まれるようになった。 登攀の難易度が高かったせいもあり、当初からヴェルト針峰は計画になかったが、その独立度の高い重厚な面持ち、そして複雑だが均整のとれた山容に思わず一目惚れしてしまった。

   プランプラからはヴェルト針峰に目と心を奪われながら、逆光にもめげずに何枚も写真を撮り、思いを募らせながら歩を進めて行くと、トレイルの脇で塵取りのような道具を使ってブルーベリーの実を摘んでいる人達を見かけるようになり、中には小さな子供たちも一緒に手伝っている家族連れの姿も見られた。 40分ほど登り下りのあまりないトレイルを歩き、シャルラノンと地図に記されている大きな石が散在するカールの底のお花畑を過ぎると、グレポンの左肩に待望のグランド・ジョラス(4208m)が突然顔を出した。 フレジェールに近づくにつれ、その北壁が良く見えるようになってきたが、素人の分際でヴェルト針峰に登りたがっている私を、グランド・ジョラスが笑っているように思えた。

   ブレヴァンの展望台と人気を二分するフレジェールの展望台の下のレストランに着くと、狭いテラスは麓のプラの町からロープウェイで上がってくる観光客やハイカーで賑わっていた。 予想外の暑さに途中で水筒の水が空になってしまったので、ミネラルウォーターを買って干上がった喉を潤した。 時間もおしてきたので、休憩もそこそこにエギーユ・ルージュ(赤い針峰群)の荒々しい岩峰の中腹に架けられているペアリフトに乗り、終点のアンデックス(2385m)へ向かう。

   切り立った岩壁で囲まれたアンデックスに着くと、カールの底には残雪が見られ、そこから吹き下ろしてくる冷たい風を一瞬肌で感じて、あらためてアルプスの山中にいるんだということに気付かされた。 今日のハイキングの最終目的地の山上の湖ラック・ブラン(2352m)に向け、岩屑のトレイルをしばらく歩いたところで、周囲の大展望を肴にランチタイムとした。 眼前には憧れのヴェルト針峰が迫り、同峰とシャモニ針峰群の間にはボソン氷河と同じように後退して痩せたメール・ド・グラス(氷河)と、その奥に鎮座している憧れのグランド・ジョラスの北壁が垣間見られ、左手にはスイスとの国境にあるシャルドネ針峰(3824m)とアルジャンチェール針峰(3902m)が頭を揃えて並び、さらにその左奥にはトゥール針峰(3544m)がその頂稜部を覗かせていた。

   しばらく展望を楽しんだ後、下りのロープウェイの運転終了時間も気になってきたので、重い腰を上げて再度ラック・ブランを目指す。 岩だらけのトレイルを緩く登り下りし、大きく張り出している支尾根を回り込むと、先程のフレジェールの展望台からラック・ブランに直接登ってくるトレイルと合流した。 間もなく視界が大きく拡がり、ブレヴァンの展望台から5時間ほどで大勢のハイカーで賑わうラック・ブランの湖畔に着いた。 エメラルドグリーンに輝く湖は、思ったよりも遙かに小さく、歩けば5分もかからずに一周出来そうだったが、雪解け水で出来ているためか、湖の回りにトレイルはなかった。 傍らに建つラック・ブラン小屋のテラスで寛いでいるハイカー達を見送り、湖を上から眺めてみようと更に踏み跡を辿って岩場をひと登りすると、下からは見えなかった2〜3倍の広さの湖があり、下の湖とつながっていることが分かった。 展望の良い大岩の上に陣取り、相変わらず逆光だったが、湖越しにモン・ブラン山群の山々の写真を撮りまくった。 ラック・ブランは、ベルナーアルプスのバッハアルプゼー、ヴァリスアルプスのリッフェルゼー等と並ぶ、まさに“絵になる”山上のオアシスで、明日からの登山予定がなければ、このまま湖畔の山小屋に泊まり、朝夕の絶景を楽しみたいと願わずにはいられない。

   日没はpm8:00過ぎのためまだまだ陽は高いが、ロープウェイの運転終了時間は5時台なので、再訪を誓て湖を後にする。 足を労りながらフレジェールまでの標高差約500mをゆっくりと下る。 pm5:00ちょうどにフレジェールに到着。 直ちにロープウェイに乗り込み、麓のプラの町へと下った。 プラの町でシャモニへのバスを待つ僅かの間に、ガイドブックの写真によく使われている小さな教会に立ち寄り、尖った教会の鐘楼と背後に聳える尖峰のドリュをモチーフにした写真を撮った。

   pm5:40発のバスに乗り、10分ほどでシャモニへ到着。 ザックをホテルに置き、真っ先にガイド組合の入口の壁に貼り出されている天気予報を見に行く。 明日は晴れ時々曇りで、明後日以降も天気は良さそうだ。 意気揚々とスネルスポーツの神田さんのもとに明日の打ち合わせと山岳保険(1シーズン@42ユーロ、邦貨で約5,000円)の申し込みに行く。 相変わらず神田さんは人気者で、次々に来店する日本人客につかまっている。 神田さんに今日の“成果”を聞かれたが、ハイキングの話もそこそこに、開口一番ヴェルト針峰に一目惚れしてしまったことを話した。 大胆にも「ちなみに私のような素人でも登れますか?」と訊ねてみたところ、「(グランド)ジョラスが登れれば、多分登れますよ」と即答されたが、「但し、ジョラスは結構難しいですよ」と念を押されてしまった。 明日の出発時間は後でダビット氏に確認して、ホテルに連絡をしていただけるとのことで、お礼を言って店を後にした。 スーパーの『カジノ』に夕食の食材の買いに行く。 レトルトパックの鶏肉のトマトソース煮込み、ツナや鰯の缶詰、ジャガイモ、玉葱、トマト、ピクルス、牛乳等を買った。


   シャモニの谷を挟んでモン・ブラン山群と対峙する赤い針峰群(エギーユ・ルージュ)


切り立った岩壁で囲まれたリフトの終点のアンデックス


ラック・ブラン(湖)


   ラック・ブランから見たシャルドネ針峰(中)とアルジャンチェール針峰(右)


ラック・ブランから見た怪峰ドリュを右肩に擁したエギーユ・ヴェルト


   ラック・ブランから見たメール・ド・グラス(氷河)とその奥に鎮座するグランド・ジョラス(左)


プラの町の教会から見たドリュ


シャモニから見たシャモニ針峰群


   8月20日、am7:00起床。 予報どおりなのか、陽射しはなく曇りの天気だった。 食堂に朝食を食べに行くと、登山靴を履いた5人の日本人のグループが食事中だった。 挨拶を交わして話を伺うと、先週はスイスに滞在し、今日から一週間こちらに滞在してハイキングを楽しまれるという。 先週のスイスの天気の状況を聞いたところ、先週は好天が続いたが、その前はずっと天気が悪かったようだった。 今日はこれからプラン・ド・レギーユからモンタンヴェールへのハイキングを、明日は昨日私達が歩いたコースを予定されているとのことだった。

   ガイド組合に天気予報の確認に行く。 今日(20日)は曇りで夕方から雨、明日(21日)は曇りで夕方から晴れ、22日は曇り時々晴れ、23日は晴れ時々曇り、24日も同じ、25日は快晴となっていた。 昨日の予報は少し外れていたが、週末にかけて尻上がりに良くなっていくようだった。 神田さんからの連絡を待ちながら、グラン・パラディゾ登山の準備をする。 昼前になっても神田さんから連絡がないため、スネルスポーツへ神田さんに会いに行くと、ダビット氏と未だ連絡が取れないとのことだった。 やはり今日は拘束日とはならなかったようだ。 神田さんから「ダビット氏と連絡がとれ次第、私達のホテルに行くように伝えるが、今日行く(明日アタックする)かどうかは、氏に任せた方が良いですよ」と言われた。

   昼過ぎにようやく神田さんから電話があったが、意外なことにダビット氏から、「明日は天気が悪いので、一日先に延ばしましょう」と言われたとのことだった。 朝方は曇っていた天気も少しずつ良くなっているが、ここは素直に氏の意見に従うしかなかった。 朝一番で中止の決定があれば、昨日に引き続きハイキングに行くことが出来たので悔しさが募ったが、ダビット氏の予報が当たったようで、間もなく先ほどまでの青空は消え、モン・ブランにも霧がかかりはじめた。 のっけから登山予定日が一日先送りになってしまったことで、当初は最初にグラン・パラディゾ、2番目にグランド・ジョラス、3番目にモン・ブランと標高を上げていき、最後に一番アプローチが遠いバール・デ・ゼクランと計画していた登る山の順番を見直そうとも思ったが、他に良い考えは浮かんでこなかった。

   気分転換に町の散策に出掛け、再びスネルスポーツへ“情報収集”に立ち寄る。 神田さんは「天気はしばらく安定するようだから、焦らなくても大丈夫、大丈夫」と繰り返し、私達を元気づけてくれた。 神田さんにA.P.Jの事務所の場所を教えてもらい、“表敬訪問”させてもらうことにした。 神田さんに教えてもらったビルの二階に上がってみると同社の看板はなく、『アトラストレック現地事務所』となっていた。 出迎えてくれた美智子さんに今までのアドバイスに対してのお礼をすると、美智子さんは仕事の手を休めてこちらでの生活等についての話をしてくれた。 神田さんのお宅ではご飯をよく食べるため、近くにある日本料理店の『さつき』からも日本の米を譲ってもらっているという。 お勧めのレストランを訊ねたところ、当地(サヴォワ地方)の料理は基本的にこってりしたものが中心で、レストランでもその傾向が強いという。 仕事の邪魔をしては申し訳ないので、20分ほどで事務所を後にして再び町の散策に出掛けた。 少し足を延ばして運行時間が既に終了しているエギーユ・デュ・ミディへのロープウェイ乗り場まで行ってみたが、その帰りに突然激しい雨に見舞われた。 傘をさしても濡れてしまうほどの豪雨だったので慌てて近くの店の軒先に逃げ込み、雨があがるのを待ってホテルに戻った。


初登頂者のバルマ(左)とソシュール(右)の銅像


シャモニから見たモン・ブラン(中央奥)


  【グラン・パラディゾ】
   8月21日、am6:30起床。 妻の話によると夜中に再び激しい雨が降ったようだ。 モン・ブランにも霧がかかっている。 am7:00前に2チャンネルで放送する天気予報では、午前中は不安定な天気だが午後には回復するとのことだった。 am8:00に神田さんからホテルに連絡が入り、正午にダビット氏がホテルに迎えに行くとのことだった。 また私が日本からA.P.J宛に送った山行計画書を紛失してしまったため、これからこちらに立ち寄るとのことだった。 やはり神田さんは忙しすぎるのだ。 今日(水曜日)は休日とのことで、ホテルのロビーでしばらく神田さんと歓談する。 神田さんは30年ほど前からこちらで暮らし始め、14年前に美智子さんと結婚し、現在は2人のお子さんがいるとのことだった。 スネルスポーツの月給は高くないが、A.P.Jからの収入もあるため、日本と比べて物価の安いこちらでは充分にやっていけるという。 また最近ではほとんど日本に帰られていないとのことだった。

   神田さんを見送り、出発までの間に町に何軒かある登山用品店を見て回った。 店で売られている登山用品は全般的に日本で売られているものよりシンプルで軽く、また必然的にアルプスの山や気候に合うものだった。 例えばオーバーパンツの類は少々高額だが、軽量で伸縮性のある丈夫な素材で作られており、日本でよく見かける薄い雨具の上下セットやカッターシャツ類は殆ど売ってなかった。 たまたま体にジャストフィットした薄手のフリースのジャケットを衝動買いしてしまった。

   正午にダビット氏がホテルに車で迎えに来てくれ、待ちに待ったグラン・パラディゾ登山に向けてシャモニを出発した。 間もなくイタリアとの国境にある全長11kmのモン・ブラン・トンネルの入口に到着したが、交通量は少ないのに何箇所かある料金所のゲートの前には車の列が出来ていた。 20分ほど待たされた後、トンネルに入るとその理由が分かった。 広くて立派なトンネルだが、数年前に大勢の犠牲者を出した事故のせいで制限最高速度は40kmで、車間距離も150mという電光掲示板の表示が繰り返し見られた。 後で神田さんに聞いた話では、トンネル内には監視カメラが設置されていて、1kmの速度オーバーにつき、1ユーロの罰金が課されるという。 渋滞の原因はこの徹底した安全措置のせいだった。 蒸し暑い(車にエアコンがないため)トンネルを抜けてイタリア側に出ると、天気はフランス側よりも良かった。

   意外にも鉄道と同じように国境の検問等は一切なく、車はモン・ブラン山群のイタリア側の麓にあるクールマイユールという小さなアルペンリゾートをかすめ、アオスタというイタリア北部の中堅都市の方向を目指し、殆ど信号機のない道を80〜90kmのペースで走る。 これから長期間お世話になるダビット氏とのコミュニケーションを少しでも図ろうと、片言にも満たない英語で、氏にアプローチをかけた。 まず氏の経歴等を訊ねたところ、山岳ガイドになったのは28歳の時で、それ以前はアルバイトをしながらアルプスの山々を中心とした岩登りに情熱を燃やしていたという。 そして今まで登った山の中での最高峰は、南米のアコンカグア(もちろん南壁)で、ヒマラヤの高峰群には余り興味がないという。 また冬から春にかけては、山スキーのガイドをしているとのことだった。 次に家族のことを訊ねたところ、奥さんと15歳の長男を筆頭に、12歳の次男と6歳の長女がいるとのことだった。 私からの質問が一通り済んだところで、今度はダビット氏から私の職業を聞かれたが、税務署に勤めているということを上手く伝えることが出来ず、氏は理解出来なかったようだが、“大変つまらない仕事”ということだけは分かってもらえたようだった。 ガイドの仕事から将来の夢、日常生活、趣味、食べ物のことに至るまで、氏に訊ねてみたいことは山ほどあるが、いつもどおり言葉の障害で上手く聞くことが出来ないので、話題を変えて明日アタックするグラン・パラディゾについて訊ねたところ、同峰には4回ほどガイド登山で行ったことがあるり、技術的に易しい山ということだった。 また最後にガイドをしたのは4年前で、その時はスキーツアーだったとのこと。 更にバール・デ・ゼクランについて訊ねたところ、意外にも氏は登った(ガイドをした)ことがないという。 逆に「何故バール・デ・ゼクランに登りたいのですか?」と氏に訊ねられたので、「日本の山で最も高い富士山の標高が3776mなので、それ以上に高いアルプスの4000m峰に憧れるんですよ」と答えたが、もちろんこれは100%正しい答ではなく、アルプスの山の写真集に載っていた同峰を見て、その雄姿に一目惚れしたことや、残念ながら4000m以下の山の情報がないことも付け加えたかった。

   しばらくするとダビット氏はガソリンスタンドに車を乗り入れた。 ガソリンを入れるのかと思ったが、そうではなく道を訊ねていた。 私の拙い英語を聞き取るのに気を取られていたのか、どうやら道に迷ってしまったようだ。 20分ほど来た道を引き返し、無事登山口へと向かう山道に入った。 山道を30分ほど辿り、pm2:30にポンという小さな集落の先にある登山口の駐車場(1960m)に着いた。 近くにキャンプ場があるせいか、山道の終点の駐車場には車が100台ほど停まっていて、傍らには立派なレストランもあった。 ダビット氏がレストランで軽く食事をするのをしばらく待ち、今日の宿泊地のヴィットリオ・エマヌエーレII世小屋(2732m)に向けて出発した。

   橋を渡り、15分ほど川に沿って平らな幅の広いハイキングトレイルを歩くと、樹林の中にジグザグにつけられたやや傾斜のきつい登りとなった。 トレイルはよく整備されていて、お年寄りや子供達もハイキングを楽しんでいる。 登攀具を背負って喘ぎながら登っている私達が場違いに感じられる。 30分ほど単調な登りを繰り返したところで樹林が切れ、強烈な午後の陽射しが降り注ぐ展望の良いトレイルとなったが、目的のグラン・パラディゾは懐深く聳えているためか、全くその頂は見えてこない。 駐車場からちょうど1時間登ったところでダビット氏は私達に「何か食べたり飲んだりしますか?」と問いかけてきたが、決して“休憩しましょう”という感じではなく、私達が遠慮すればそのまま休まずに登っていきたいという印象だった。 「イエース、サンキュー」としっかり自己主張し、傍らの小さな岩の上にいかにも“疲れた〜”という(実際もそうであるが)感じで腰を下ろした。 5分ほどの短い休憩の後、再び同様のペースで登り始めた。 相変わらずトレイルには危ない所は全くなく、山小屋までの往復を目的とした日帰りのハイカー達が大勢下ってくる。 前方に雪を戴いた丸い頂のティアフォロン(3640m)と、もう一峰の尖った頂の衛星峰が見え始めると、次第にトレイルの傾斜も緩み、pm4:45にモレーンの上に建つユニークな蒲鉾型をしたヴィットリオ・エマヌエーレII世小屋に着いた。 山小屋の前には雪解け水で出来た大きな池があり、青空を背景にした衛星峰のティアフォロンを映しだしていたが、肝心のグラン・パラディゾの頂は山小屋の背後に立ちはだかる巨大な岩壁に隠されていて、未だに見ることは叶えられなかった。

   宿泊の手続きはダビット氏がやってくれたが、支払いは明日下山する時で良いとのことだった。 寝室は二段ベットが左右にある4人部屋の個室となっていて、外から鍵が掛かるようになっていた。 アルプスの山小屋には乾燥室がないので、着替えをした後に山小屋の周りで汗で濡れた衣服を乾かす。 意外なことに氏は寝室で昼寝を決め込んでいた。 食堂で宿帳を見つけ、暇つぶしにいつものように日本人の名前を探してみたが、残念ながら予想どおり誰の名前もコメントも記されていなかった。 またいつものように自分達の足跡を宿帳に残した。

   pm7:00の夕食の時間になると、山小屋の中と外から100人ほどの宿泊客が集まり、食堂は一気に満員に膨れ上がった。 夕食は前菜として塩味の濃い野菜スープか、マカロニの盛り合わせを選択し、メインディッシュはシンプルな羊の肉の煮込み料理だった。 そしてデザートはプリンかチーズの選択だったが、意外にもチーズを選ぶ人が多かった。 夕食後にダビット氏と明日の出発時間等の打ち合わせをする。 氏から「明朝はam4:00に起きて(am4:00に食堂が開く)朝食後に出発します」という指示があっただけで、出発時間は明確に指示されなかった。 恐らく登攀時間も短い(ガイドブックでは4〜5時間)し、技術的に易しい山なのでそれほど厳密に出発時間を決めなくても良いのだろう。 氏は昨年のツェルマットのガイド氏のように、私達の登攀具や装備の点検をすることもなかった。 山小屋にデポする荷物をまとめ、pm8:30に就寝した。


グラン・パラディゾの登山口


硬派なガイドのダビット氏


   山小屋の背後に立ちはだかる巨大な岩壁でグラン・パラディゾの頂は見えなかった


ユニークな蒲鉾型をしたヴィットリオ・エマヌエーレII世小屋


山小屋の前から見た衛星峰のティアフォロン


   8月22日、am4:00起床。 窓から外を見ると満天の星空で、風もなさそうだった。 ダビット氏は既に起床して食堂に行ったようだ。 食堂に行くと氏はカウンターから私達の分のパンとジャムと紅茶をテーブルに運び、先に食べ始めていた。 朝食後に昨夜頼んでおいたテルモスの紅茶をカウンターで受け取り、飲み物からもカロリーが補給できるように砂糖を多めに入れた。

  am4:45、ハーネスだけを着けアンザイレンはせずに山小屋を出発。 いよいよ待望の今シーズンの初登攀が始まった。 風はないが、まだ低血圧の体が目覚めていないのか少し寒く感じる。 ダビット氏から易しい山だと言われていたので気持ちは楽だ。 山小屋の裏手の大きな岩壁を右手に仰ぎ見ながら、大小の岩が一面に堆積している所にさしかかる。 岩と岩の隙間に足を落とさないように注意しながら、所々に積まれた小さなケルンとヘッドランプの灯、そして真上にある大きな満月の明かりを頼りに進んで行くが、苦労の割に標高が殆ど稼げないので嫌になる。 20分程でそこを通過すると明瞭なトレイルが現れて登り易くなったが、途中に一か所だけ岩を巻いたり登ったりしながら氷河から流れ出す沢を渡渉する所があり、付近の岩や足場にする沢の中の石が全てツルツルに凍っていて冷や汗をかいた。 昨日とは違い、氏は傾斜の緩い所は普通に登るが、少し急な所にさしかかると突然ペースを速めたりするため、心拍数は全く安定しない。 また、氏の性格かどうかは分からないが、トレイルが不明瞭な所で後続の私達を待っていたガイドレスのパーティーが後ろにつこうとすると、わざと足早に登って引き離そうとしているのが良く分かった。 マッターホルンを除けば今までのガイド氏の中では一番ペースが速い。 今日の登山は楽勝だと思っていたのは甘かった。

   トレイルは氷河の舌端にさしかかり、傾斜の緩い雪面をしばらくはアイゼンを着けずに登った後、am6:00ちょうどに雪の上に露出した最後の平らな岩の上でアイゼンを着けるための休憩となった。 高度計はないが、標高は3200m位だろうか。 朝食をいつもよりしっかり食べたが、速いペースでシャリバテが予想されたので、行動食を口に入れる。 砂糖をタップリ入れたテルモスの熱いレモンティーが旨い。 燃料の補給で体が暖まってきたので、ジャケットを着込まずそのままam6:15にアンザイレンして再スタートする。 手前の急な斜面は直登せず、右へ大きく回り込んでからジグザグの明瞭なトレイルをストックを突きながら登っていく。 まだ周囲は薄暗いがクレバスもなく、トレイルもしっかりしているのでヘッドランプの灯を消す。 しばらく緩斜面を登っていくと夜が明けてきたので、ダビット氏を呼び止めて朝焼けの写真を1枚撮らせてもらった。 爽やかな薄い水色の空の下、遠方にモン・ブランやグランド・ジョラスなどのフレンチアルプスの山並みが、シャモニから見た時と反対の並びにくっきりと見える。 今日は快晴の一日となるに違いない!。

   先ほどと同様に、ダビット氏は緩斜面は普通に登るが、なぜか急斜面になると意識的にペースを速める。 急斜面につけられた直登気味のトレイルは立派だが、“下り専用”のようで傾斜が急すぎるため、氏はトレイル上を登らずにクラストした斜面をアイゼンの爪を立てながら斜めに登っていく。 昨年のマッターホルン登山で使用した軽量の少しタイトな登山靴を履いてきたせいか、両足の親指が痺れるように痛くなってきた。 凍傷になっては困るので、靴の中で指先を絶えず動かし続ける。 右手に見える衛星峰のティアフォロンの頂が次第に目線の高さになっていくことを励みに登り続けていくが、思うように足が上がらず、昨年はドムやモンテ・ローザといった今日より遙かに行動時間の長い登高によく耐えられたものだとつくづく思った。

   am7:00ちょうど、ダビット氏は昨日と同じように私達に「何か食べたり飲んだりしますか?」と問いかけてきた。 待ってましたと3分間ほどの休憩をもらい、慌ただしくレモンティーを飲み、写真を1枚撮った後、ジャケットを着込んですぐにまた登り始めた。 間もなく右前方の稜線上に、“鬼の角”のように突き出ているユニークな形をした尖った岩塔が幾つも見え始めた。 今度は次々に出現する岩塔を目標に黙々と高度を稼いでいくが、未だにグラン・パラディゾの頂を拝むことは叶えられない。 先行している何組かのパーティーが豆粒ほどの大きさに見え、ゴールはまだまだ遠いようだ。 氏は時間で区切ったのか、図らずもam8:00ちょうどに急な斜面の手前で3回目の“休憩”となった。

   休憩後、息を切らして急斜面をひと登りすると視界が拡がり、左前方に雪の禿げた大きな黒い岩肌が見えた。 ガイドブックの記述を思い出し、「あそこの岩場を登り詰めた所が山頂だと思うよ」と後ろから妻に声を掛ける。 しばらく登ると岩場を登っているパーティーの姿が見え、登攀ルートがはっきりと分かった。 右手の岩塔群を全てやり過ごし、山頂の岩場に向けて明瞭なトレイルが雪面を斜めにトラバースして一直線に続くようになると、ようやくダビット氏も少しペースを落とした。 いよいよ最後の岩場の登攀となったが、意外にも20mほど登っただけで360度の展望が拡がり、すでにそこは山頂の手前の小ピークだった。 先に登頂したパーティーが下りてくるのを待って、稜線上の狭い岩の上を氏が前で確保しながら慎重に渡り、マリア様の像が立っていた山頂直下の所に辿り着いた。 氏は上へは上がらず、「山頂は狭いので私達だけで山頂に立ちなさい」と指示した。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!」。 妻と代わる代わる氏にお礼を言いながら握手を交わし、2mほどの岩塔を回り込むようにして登り、am8:40に憧れのグラン・パラディゾの頂に辿り着いた。 山小屋から3時間55分の道のりだった。

   ペースは速かったものの二人とも最後までバテずに、また快晴無風の天気にも恵まれ、実に爽やかな気分だった。 「やったね〜!、お疲れ様でした!」。 ダビット氏の速いペースによく耐えた妻を労い、マリア様の像に交互に抱きついて喜びを分かち合った。 憧れの頂に仁王立ちし、感激に浸りながら周囲の写真を撮りまくる。 アルプスの山の頂は一つ一つが変化に富んでいて本当に印象深い。 グラン・パラディゾ(イタリア語で“大きな楽園”)と名付けられた懐の深いこの独立峰の頂からは、麓の町や人工的な物は一切目に入らず、周囲を取り巻く山並の向こうには、フランスとの国境に聳えているモン・ブラン山群の山々のみならず、昨年登ったマッターホルンやモンテ・ローザといったスイスとの国境に聳えているヴァリス山群の山々が良く見渡せた。 一通り周囲の写真を撮り終えたので岩の下にいる氏に声を掛け、狭い山頂に招いて記念撮影をお願いした。 写真を撮り終えたところで、後続のパーティーが稜線のピークに現れたため山頂を譲らなければならず、氏に促されて僅か15分ほどでイタリアの最高峰の頂を後にすることとなった。


早朝のモン・ブラン山群


稜線には“鬼の角”のように突き出ている尖った岩塔が幾つも見えた


グラン・パラディゾの頂稜部(下山時の撮影)


   グラン・パラディゾの山頂    背後はモン・ブラン(中央)とグランド・ジョラス(右)


山頂のマリア様の像


山頂から見たマッターホルン(中央)とモンテ・ローザ(右)


山頂から見た稜線の岩塔群


山頂から見た東側の眺望


山頂から見た西側の眺望


   下りはいつものように私が先頭となったが、トレイルは安定し全く危ないところはなく、モン・ブランを正面に見据えながら、登りと同様にピッケルは使用せずに、ストックだけで快調に下る。 途中で登りの時には撮れなかった稜線上の岩塔群の写真を撮ろうとしたが、フィルムの交換直後に電池が切れたのか突然シャッターが切れなくなってしまい、ナイスショットを逃してしまった。 しばらく下った所で氏は“お前さんでは遅すぎる”と言わんばかりに先頭を代わりスピーディーに飛ばしたため、忘れていた両足の親指の痛みが蘇ってきた。 山頂から1時間半足らずで氷河の取り付きまで下りきり、アイゼンはそのままにザイルだけが解かれた。

   気温もあっという間に上昇し暑くなってきたので、長袖のシャツ一枚になり最後の雪の緩斜面を下る。 右手の岩の上にアイベックスがいるのをダビット氏が見つけ、ストックで指し私達に教えてくれた。 再び先程の凍てついた沢の渡渉となったが、結局今日一番の“難所”はこの沢だった。 沢を無事渡り終えると、氏は私達にアイゼンを外すように指示し、“もうあとは勝手にどうぞ”と言わんばかりに先に下っていった。 私達もその雰囲気を感じ取って、あえて氏の後を追おうとはせず、私達のペースで下っていくことにした。

   am10:55、出発してから僅か6時間10分で無事山小屋に戻った。 一足先に着いていたダビット氏に再びお礼を言い、とりあえず飲み物を注文して、山小屋の前のテラスで祝杯を上げた。 予定より一日遅れてヤキモキしていたが、快晴の天気の下、今年も新たな憧れのアルプスの頂を一つ踏むことが出来てとても幸せな気分だ。 まずまずの滑り出しに心も弾んだが、次の山の頂を踏むのに8日間も費やすことになるとは知る由もなかった。 痛めた足の親指が心配だったので、靴と靴下を脱いでみると、血行不良か凍傷か分からないが、すでに両足の爪は真っ黒になっていた。 しばらくマッサージすると少し痛みは和らいだみたいだが、明日以降の山行は大丈夫だろうか?。 昼食を山小屋で食べていきたかったが、氏が下山後に食べましょうと提案したため、仕方なく3人分の山小屋の宿泊代80ユーロ(邦貨で約9,600円)を支払い、am11:30に慌ただしく山小屋を出発し、約700m下の登山口へとハイキングトレイルを下った。

   最初のうちは傾斜も緩いのでダビット氏の後をついて行ったが、右足の親指の痛みが明日以降の山行に支障をきたしては困るので、一人でゆっくりと(普通のペースで)下っていった。 途中私が余りにも遅いので心配して待っていた妻と合流し、pm0:45に登山口に着いた。 多分氏は1時間ほどで下ってしまったのだろう。 登山口のレストランで昼食を食べると思っていたが、氏はモン・ブラン・トンネルが渋滞するからという理由で昼食は食べないというので、仕方なく再びジュースでだけで祝杯を上げ、pm1:00過ぎに氏の車に乗って登山口を後にした。

   乗車後すぐに山行のメモを書き始めたせいか、それともダビット氏のハードな運転のせいか、急カーブの多い山道の下りで気分が悪くなってきてしまった。 しばらく我慢していたが、手が痺れるほど悪化してしまったので、途中何度か車を路肩に停めてもらい、“特急ダビット号”は各駅停車になってしまった。 pm3:00過ぎにシャモニに着き、ホテルの前まで送ってくれた氏に再度今日のお礼を言い、20ユーロのチップを手渡した。 明日から予定しているグランド・ジョラス登山については、今夜の天気予報を見てから後で神田さんに連絡してくれるとのことだった。

   ホテルで昼食を自炊してひと風呂浴びた後、モン・ブラン登山に必要だといわれた妻のヘルメットをスネルスポーツに買いに行き、神田さんに今日の山行報告と足の指を痛めてしまった話をしたところ、意外にも登山靴のつま先の幅を拡げる修理が出来るとのことでお願いすることにした。 夕食はジャガイモ、人参、玉葱等をたっぷり使った野菜スープと生ハム、そして妻が腕をふるって作ってくれたチーズオムレツを食べた。 pm9:00過ぎに神田さんから連絡が入り、ダビット氏から「明日は天気が悪そうなので、明朝一番で山に行くかどうかを決めます」という指示があったとのことだった。 今日の山行で体は疲れていたが、明日以降の計画が気になって良く眠れなかった。


山頂直下を下る


山頂直下から見た衛星峰のティアフォロン


  【ロッククライミング】
   8月23日、am7:00の起床と同時に神田さんから連絡が入った。 残念ながらダビット氏から「やはり今日は天気が悪いので、登山は中止して近くの岩場で遊びましょう」との提案があり、am9:30にホテルに迎えに来てくれるとのことだった。 朝食後、小雨の中を念のためガイド組合へ天気予報の確認に行く。 意外なことに予報は明日・明後日とも曇り時々雨で、その後も曇りがちなはっきりしない天気が続くようで、今週初めの予報とは全く違うものとなっていた。 長年こちらに住んでいる神田さんの勘も、今シーズンの異常気象には勝てなかったようだ。

  am9:30にダビット氏がホテルに迎えに来てくれたが、小雨が降りやまず岩が濡れているので、とりあえず午前中のクライミングは中止し、午後になって雨がやんだら近くのガイアンという岩のゲレンデに行くことになった。 その足でスネルスポーツに行き、神田さんの勧める大きな安全環付きのカラビナとATC(確保器)とビレイ用のロープスリングを買い、クライミングシューズを借りた。 意外にもこちらでは下降にもエイト環(下降器)を使わずATCを使うのが一般的とのことだった。 クライミングシューズはつま先の幅が狭く、ただでさえ親指を痛めているのに明日以降の登山に影響が出ないか少し気掛かりだ。 妻は初日のハイキングで痛めたらしい膝の痛みを和らげるためのサポーターを買いに行き、私はホテルのラウンジで隣室の日本人客と歓談して時間をつぶした。

   pm2:00、ダビット氏が再びホテルに迎えに来てくれた。 車に乗り込むと後部座席に小さな女の子が乗っていた。 先日氏から家族のことを聞いていたので、末っ子のジャンヌであるということがすぐに分かった。 車中で「クライミングの経験はありますか?」と氏に聞かれ、「私は1回だけ、妻は初めてです」と答えた。 車は5分ほどで町外れにあるガイアンのゲレンデに着いた。 高さ50m、幅200mほどのコンパクトな切り立った岩壁の前には広い駐車場があり、小さな子供から大人までクライミングを楽しんでいた。 氏はジャンヌには全くかまわず、早速かなり年季の入った2本の50mのザイルを車からおろすと、私達の経験を試したかったのか、「自分でハーネスに結んで下さい」と指示した。 私はエイトノットだけは得意なのですぐに出来たが、妻はなかなか出来ずに手間取っている。 氏は妻に結び方を伝授しただけで、他に何の技術的な説明もせず、すぐに“岩遊び”は始まった。

   私と妻が別々のザイルでダビット氏と繋がり、ゲレンデの中央左の3級程度の岩場を氏が2本のザイルを垂らしてトップで登り始めたが、ビレイは全く取っていなかった。 氏は30mほど真っ直ぐに登った所で、私達にも登ってくるように指示した。 初めて履いたクライミングシューズの感触を確かめながら、切り立ってはいるが手掛かりの豊富な岩壁を楽しんで登った。 登り終えると氏は「クラッシック・ラッペル(一般的な方法ではないですが)」と前置きをした後、「私から先に下りなさい」と指示した。 マッターホルン登山で多用した、ザイルを握らずに氏が上で確保するだけの、いわゆる“ロアーダウン”方式の懸垂下降のことだ。 易しいルートなので、両手両足を岩に突いて鼻歌交じりに一気に下まで遊びながら下りる。 ザイルを解き、上から下ってくる妻を写真に撮る。 妻は昨年のドム登山の時に1回だけしか経験がないので、へっぴり腰の各駅停車だ。

   2回目はゲレンデの中央右の3〜4級程度の岩場を、再びダビット氏がトップで登っていったが、今度はさすがにビレイを取っていて、私達にヌンチャクを回収してくるように指示があった。 上まで登りきった氏からの指示に従って、私と妻が同時に登ることとなったが、斜度も垂直に近くなり、確保なしでは危険な箇所も現れ少し緊張した。 またザイルがピンと張られているため、手掛かりの乏しい所でも左右に巻かずに直登しなければならず、思ったよりも大変な登攀だった。 先行して登っている妻もだいぶ苦労しているが、持ち前の運動神経の良さで意外と上手く難所を切り抜けている。 登り終えると今度は2本のザイルを使った一般的な懸垂下降となったが、私達には初めての経験だ。 氏は私達のATCにザイルを通し、ロープスリングでバックアップを取るという基本的なセッティングの手順を一通り説明すると、何度か私達に実践させてから先頭で一気に下って行ってしまった。 私達からは見えない30mほど下の着地点から氏の声が掛かり、妻が続くことになったが、コツが上手く呑み込めていないことに加え、経験不足でザイルがATCを上手く流れないため、体が全く下へ下がっていかずに悩んでいる。 「怖がらずに思いっきり体重をかけて、背中から飛ぶようにやってごらん!」とアドバイスする。 何度か試行錯誤して苦労の末、妻はようやく各駅停車で下っていった。 私も一般的な懸垂下降は初めてだったが、相変わらず鼻歌交じりにスパイダーマン気取りのオーバーアクションで下ると、ザイルの摩擦による熱で手のひらが火傷寸前になってしまった。

   3回目はゲレンデの左端にルートを求め、先程よりやや困難な岩場を2回目と同じように2本のザイルを垂らしてダビット氏がトップで登っていく。 今度は一気に上まで登らず、途中で2度ほどピッチを刻んだ。 登攀中にモン・ブランを隠していた雲がとれ、純白の頂がはっきりと見えた。 急速に青空が拡がり始め、強烈な陽射しがゲレンデに照りつける。 「何でこんな所で必死になって岩にしがみつかなきゃならないんだ!」と妻と二人でボヤく。 下を見ると氏の妻のマリーが、私達に相手にされず退屈していたジャンヌを連れて帰るところだった。 手掛かりを模索しながら何とか最後の1ピッチを登りきると、氏は先程伝授した懸垂下降のセッティングを私達にやらせた。 まごつきながらも準備を完了し、先程と同じ順番で次々に下りる。 私達が下っていく傍らを小学生位の子供たちが涼しい顔で登ってくる。 妻は少し上達したが、まだまだ免許皆伝には至っていないようだ。

   3回目の登攀が終わると、ダビット氏は「次は短いながらも、少し難しい所を登りますよ」と言い、再びゲレンデの中央に移動し、私にザイルを下から送り出すように指示すると、ルートを模索しながら慎重に20mほど登って行ったが、ザイルを支点に取り付けただけで、間もなくまた一人で下ってきた。 氏は上の支点から下がっているザイルの一端を私に繋ぐように指示し、もう一方の端を妻のATCに通した。 そして妻にはこれから登る私の動きに合わせてザイルを引き寄せて私を下から確保し、私には上まで登って下りてきなさいと指示した(帰国してからこれがトップロープによる登り方であることを知った)。 言われるままに登攀を開始したが、登り始めの所が意外と易しかったので、ヒョイヒョイと登っていったところ、ザイルの操作に手間取った妻が下から「もっとゆっくり登って!」と叫ぶ。 その先は手掛かりが殆どない所となり、最後はどうしても自力では登ることが出来なくなってきた。 ギブアップしそうになったが、潔く自力での登攀を諦め、ピンと張られたザイルに体を預けて、指の第一関節がやっと掛かる位の岩の割れ目に飛びついて、無理やり上へ攀じ登った。 下りはロアーダウンで降りたが、かわいそうに体重の軽い妻は慣れないザイルの操作で腕がパンパンになってしまったようだ。

   妻と入れ替わり、今度は私が妻を下から確保することとなったが、ザイルの操作は慣れるまでに意外と時間が掛かり、妻の苦労が理解出来た。 先程の私と同様に、妻も最後の難所を突破出来なくて悩んでいる。 下から「岩を掴む動作に合わせてザイルを引っ張るから、それに頼れば大丈夫だよ!」と何度も繰り返し叫んだが、なかなか要領を得ずにもどかしい。 10分ほど試行錯誤した末、妻も何とか上へ登ることが出来た。 無事下りてきた妻も、確保していた私も両腕がもうパンパンだった。 pm5:30にザイルを解いて本日の岩遊びは終了した。

   スネルスポーツにクライミングシューズを返しに行き、神田さんを交えて明日の打合せを行う。 昨日同様に明朝am7:00前の天気予報を見てから、神田さんがダビット氏と打合せ、ホテルに連絡を入れてくれることになった。 店内で昨日神田さんに修理をお願いした登山靴を履いてみたが、思ったよりも拡がっていなかった。 それどころか右足は以前より痛くなっていたので足を見ると、幅の狭いクライミングシューズを履いたせいで、薬指の爪が中指に刺さって皮がむけていた。

   マーケットで夕食の材料と果物を買ってホテルに戻った。 夕食後に見た天気予報では、向こう3日間は一日中雨という日はないものの、すっきり晴れる日もなさそうだった。 この先しばらく山に登れない日が続いてしまうのだろうか?。 自分で計画したこととはいえ、一日当たり3万円近く掛かるガイドの拘束料が、貧乏人の私に重くのしかかる。


ガイアンの岩のゲレンデ


懸垂下降の練習


   8月24日、am6:30起床。 生憎の曇天だが、モン・ブランの支峰のドーム・デュ・グーテの頂までは辛うじて見える。 予定どおりam7:30に神田さんから電話があったが、「明日も天気がはっきりしないので、登山は明後日以降に延期し、今日も岩遊びをやりましょう」とダビット氏から提案があったとのことだった。 予想どおりとはいえなかなか気持ちの切替えが出来ず、少し時間をもらうことにした。 朝食を上の空で食べ、念のためガイド組合の掲示板の天気予報を確認し、やっと諦めがついて氏の意見に従うことにした。

   am9:20にダビット氏がホテルに迎えに来てくれ、スネルスポーツでクライミングシューズを借りると、車はシャモニから10分ほどの所にあるプラの町へと向かった。 プラからはロープウェイで5日前にハイキングで訪れたフレジェールの展望台に上がり、さらにリフトでアンデックス(2386m)へ。 まさか今回の山行でここを再訪するとは思わなかった。 しかしもっと意外なことがその後に起きた。 リフトの降車場の前に立ちはだかる岩峰に向かって雪渓と岩屑の上の踏み跡を10分ほど登ったが、周り中が岩壁なのでどこに今日の遊び場(登攀ルート)があるのか全く分からない。 昨日のように大勢のクライマーで賑わっているコンパクトなゲレンデとは違い、周囲に人影は見えない。 突然どこかでクライマー達の掛け声が響いたが、私の目の悪さと岩肌を覆っている霧のためその姿を見ることは出来なかった。 am10:30過ぎに何の目印もない寒々しい取り付き点に到着し、氏から靴を履き替え不要な荷物をデポするように指示があった。

   ダビット氏は私達にザイルの送り出しとヌンチャクの回収だけを指示して、ほぼ垂直な壁を登り始めたが、どう見ても私達がここを登れるとは思えない。 何か特別な登攀方法でもあるに違いない。 しばらくすると20mほど登ったと思われる氏からの声が掛かったが、どうやら特別な指示はなさそうだった。 「どうやってここを登るんだ!?」。 妻と顔を見合わせ、仕方なく目の前の岩壁に取り付いてみたが、案の定全く歯が立たない。 何度も試行錯誤してもがいてみたが、1mすら登ることが出来なかった。 上にいる氏は“いったい二人は何をしているんだ!”と気をもんでいるに違いない。 「どうしても登れません!」と言いたくても、すでにサイは投げられているので、私達のザイルを解かない限り、氏も下りることが出来ない。 仕方なく“禁じ手”を使い、ザイルを掴んで最初の難関を切り抜けることとなったが、5mほど登ったところで両腕がすでにパンパンになってしまった。

   最初の1ピッチをなんとかごまかしながら登りきり、「ベリー・ディフィカルト!」と苦笑いしながらダビット氏に訴えたが、何故か氏は“岩遊びは楽しいでしょ!”と言わんばかりにニヤニヤと笑いながら、2ピッチ目の登攀の準備に余念がない。 氏は私達の訓練というよりも、まるで自分自身が楽しんでいるように思えてならない。 仕方がないので氏が2ピッチ目を登り始めると、氏が日本語を知らないことをいいことに、「ソンナニムズカシイトコロヲノボラナクテモイイデスヨ〜、モットヤサシイトコロデジュウブンデスヨ〜」とまるで世間話をしているような口調で氏に注文をつける。 日本語も使いようだ。

   予想どおり2ピッチ目以降の登攀も相変わらず困難を極めた。 切り立った岩壁には手掛かりと言えるものは殆どなく、手掛かりにはなっても斜めに裂けた岩の割れ目のように足場には使えないものが大半で、ハーケンが一番いい足場になってしまう。 私が先に登ると妻が心細いと思い妻を先行させたが、私自身が自力での登攀が出来ずにザイルに頼ってしまうことが多く、3ピッチ目は先行する妻からの指南を受けて登ることもしばしばであり、妻の方が登りに関しては私よりも才能があるように思えた。 3ピッチ目を登り終えると、とうとう小雨がパラついてきた。 意外にもダビット氏はすぐにジャケットを着込み、私達にも着ることを勧めた。 残念ながら?雨はすぐにあがったため、引き続き4ピッチ目の登攀となった。 妻はジャケットを着ても寒がっていたが、私は全身の筋肉が発熱しているせいか、寒さはあまり感じなかった。 氏の“しごき”に耐え、4ピッチ目をなんとか登り終えると、さらに上に向かって続く比較的傾斜の緩い岩壁となりホッとしたが、あとはクライミングの練習には無駄ということなのだろうか、氏は「山頂まで登ることも出来ますが、今日はこれで終わりにします」と言い、すぐに下降の準備を始めた。

   昨日教えられたとおりにザイルをATCにセットしてダビット氏の確認を受けた後、氏を先頭に次々と4ピッチで登ったルートを3ピッチで下りたが、途中何箇所かオーバーハングしている岩の下では、必然的に宙吊り状態になるため、慣れない妻は体がクルクル回ってしまうようでかわいそうだった。 私は相変わらず鼻歌交じりで得意気に下ったが、後に経験することになった“本番”の下降では、この訓練も全く役に立たない程の恐怖を味わうこととなった。

   pm1:00過ぎに取り付き点に戻り、本日の岩遊び(新人強化訓練?)は終了した。 登山靴に履き替え、念のためダビット氏に「このルートのグレードはどの位になるんですか?」と訊ねてみたところ、すぐに氏から「アジオ・ルート、サンク」という答えが返ってきた。 サンクとは仏語で5を意味し、ルートに名称があったということもさることながら、5級のルートであったことを知って驚いた。 天気は少し回復し、午前中は霧の中だった岩山の稜線の輪郭もだいぶ見えるようになってきた。 アジオ・ルートを背景にダビット氏と記念写真を撮り、リフトでフレジェールの展望台へと下った。

   15分間隔で運行しているロープウェイを待つ間、展望台からメール・ド・グラス(氷河)の奥の霧の中から顔を覗かせているグランド・ジョラスの北壁を眺めながら、ダビット氏に「北壁は何回位登られましたか?」と社交辞令に訊ねてみたところ、大きな手のひらを北壁に見立てて登攀ルートを指でなぞりながら、「違うルートで3回登攀しましたが、いずれも取り付き付近にあるレショーの小屋をam2:00に出発し、1日で山頂を越えてイタリア側に下ったんですよ」と少し得意気な答えが返ってきた。 やはり氏はバリバリのクライマーだった。 しばらくして到着したロープウェイに乗り込むと、どこかで見覚えのある顔が目に飛び込んできた。 何と2年前に初めてスイスを訪れた時に、電車の車中で素人の私達にアルプス登山についていろいろなアドバイスをしてくれた田村さんだった。 隣にいる方は奥様であることもすぐに分かった。 2年振りの偶然の再会を喜び近況を伺ったところ、逆に「最近大分活躍されているようですね〜」と田村さんに冷やかされてしまった。 田村さんは7月上旬から1か月間こちらで日本人客のガイドをされ、8月中旬からは奥様とプライベートで山や岩登りを楽しまれているとのことで、今日は偶然にも私達のすぐ近くの岩壁で友人のガイド氏と遊ばれていたとのことだった。 今回の私達の登山スケジュールを話したところ、意外にもつい先日バール・デ・ゼクランに奥様と二人で登ってこられたと言うので、度重なる偶然に驚かされた。 アルプスの山を知り尽くしている田村さんに同峰の印象について伺うと、眺望が大変素晴らしい山だったという。 但しシャモニからはアプローチに時間を取られたため、1日目は麓の町に泊まり、そこから1泊2日で登られたということだったので、隣にいた田村さんの友人のガイド氏を介して同峰に行ったことのないダビット氏にその状況を説明していただけるように頼んでもらった。 田村さんご夫妻は明後日アイガーを登るため、これからスイスのグリンデルワルトに向かわれるとのことだった。 山の話に花が咲いていると、いつの間にかロープウェイは麓のプラの町に着いた。 これから友人との約束があるとのことで、駐車場で記念写真を撮っただけで田村さんとお別れすることとなったが、山に登れず腐っていた私にとって、この偶然の再会はとても嬉しい出来事だった。

   ホテルの手前でダビット氏の車を降ろしてもらい、ガイドブックにも載っている日本料理店の『さつき』に遅い昼食を食べに行く。 こちらに来てから初めての外食だ。 30席ほどのこぢんまりとした店内は庶民的な雰囲気で、メニューは天ぷら・とんかつ・生姜焼き・焼き鳥等の定食類と、寿司やコース料理(夜のみ)等があり、嬉しいことにご飯はお代わりが自由だった。 暇つぶしに店の女将さんと雑談を交わすと、14年ほど前にこちらで店を構えたが、お客さんは8割以上が日本人とのことだった。

   昼食後にホテルに戻って着替えをした後、スネルスポーツへクライミングシューズを返しに行く。 天気は午後に入ってから尻上がりに良くなり、強烈な陽射しを避けるため日陰を選んで歩く。 「何でこんな所をウロウロしてなきゃならないんだ!」と嘆きたくなる。 スネルスポーツでは、明日からモン・ブランに登られるという年配の日本人の方が旅行会社のツアーコンダクターと一緒に神田さんと雑談中だった。 会話に割り込み、「今日はダビット氏にアジオ・ルートという所に連れていかれ、大変な目に遭いましたよ〜」という話を神田さんにしたところ、意外にもこの辺りでは結構有名なルートらしく、「楽しかったでしょ〜、奥さんも結構いけると氏が言ってましたよ」と逆に切り返されてしまった。 予定では次の目標はグランド・ジョラスだったが、このままはっきりしない天気が続いてしまうと、いつまでたっても山に登ることが出来ないので、多少天気は悪くても登攀時間がグランド・ジョラスに比べて短く、難易度も低いモン・ブランなら何とか登れるのではと思い、予定を変更して明日(25日)・明後日(26日)でモン・ブランに是非登りたいという希望を神田さんに伝えたところ、神田さんも私の心情を察してくれたようで、ダビット氏に電話で連絡をとり、グーテ小屋にも予約の電話を入れてくれた。 運良くグーテ小屋の予約がとれ、神田さんからA.P.Jの名称の入った山小屋と登山電車のバウチャーとロープウェイの割引チケットを手渡された。 急遽憧れのモン・ブラン登山の準備が整い、隣の“同志”の方に「お互いに頑張りましょう!」と声を掛け、意気揚々とホテルに戻った。 残念ながら、夜の天気予報ではやはり明日・明後日とも曇天のようだったが、とにかく登頂することだけを夢見て床に就いた。


アンデックスのアジオ・ルートの登攀を終えて


フレジェールへ下るロープウェイで田村さんご夫妻と再会する


  【グーテ小屋】
   8月25日、予定より少し遅れてam7:50にダビット氏の車でホテルを出発。 夜中に雨が降ったようで道路が濡れている。 先日通ったモン・ブラン・トンネルへの道を左に分けると、氏はハイウェイのような2車線の道を100km近いスピードで飛ばし、15分ほどでロープウェイの発着駅のあるレ・ズーシュの町に着いた。 車から降りると、意外にも氏はトランクの奥に入れてあったゴルファーが使うような大きな傘をザックにねじ込んだ。 まさか山頂まで持っていくことはないだろうから、初めから氏は登頂を諦めているように思えてならない。

   am8:15発のロープウェイに乗り込み、終点のベルヴュー(1790m)へ。 ロープウェイを降り、3分ほど坂道を下ると、小豆色をした2両編成の登山電車がすでに停まっていたが、出発はam8:40だった。 車内には昨日スネルスポーツでお会いした方がツアーコンダクターと一緒に乗っているのが外から見えたので会釈を交わしたが、意外にも他に日本人の姿は見られなかった。 登山電車の車窓からの景色を楽しみにしていたが、モン・ブランは霧に包まれ、かろうじてエギーユ・デュ・ミディの頂だけが厚い雲の上から時々顔を覗かせてくれるだけで、あとは辺り一面寒々しいモノトーンの世界だった。 また右手に見えるビオナッセイ氷河は、先日ブレヴァンの展望台から見たボソン氷河と同様に後退が著しく、その末端はまるで砂場のようで、地球の温暖化が進んでいることがあらためて良く分かった。

   am9:00、終点駅のニ・デーグル(2372m)に到着。 ここから今日の宿泊先のグーテ小屋(3782m)までは標高差で約1400m、ガイドブックによるコースタイムは4〜5時間となっている。 駅前から始まるトレイルは、ガレ場をジグザグに登り標高を無駄なく稼ぐものの、周囲には鮮やかな色の高山植物等は殆ど見られず、モノトーンの世界に拍車をかけていた。 天気が良くないせいか、ダビット氏のペースは前回の登山のアプローチの時よりも速く、登り始めてからすぐに体が温まり、上着を一枚脱いだ。 しばらく登っていくと、先に出発していた日本人パーティーに追いついた。 「ソノママウシロニツイテノボリマショウ。 オネガイダカラヌカサナイデネ〜」と、妻に話しかけるような口調で後ろから囁く。 しかし案の定願いは叶えられず、すぐに氏は追い越しをかけた。 「私達のガイドは体育会系で参りますよ!」と愚痴をこぼしながら、追い越し際に挨拶を交わす。 氏が日本語を知らないことをいいことに、「アプローチデヌカスカネ〜」と再び語尾を上げずに囁く。

   駅から休まずに50分ほど登り、古い避難小屋への道を左に分けた先の岩のゴロゴロした平坦な場所で5分ほど休憩した後、先ほどの日本人のパーティーと入れ替わりに、遙か頭上に小さく見える途中の山小屋(テート・ルース小屋/3167m)に向けてすぐにまた登り始めた。 岩尾根につけられたつづら折りの単調なトレイルは先程よりさらに急勾配となったが、ダビット氏のペースは変わらず、喘ぐほどではないが決して楽じゃない。 途中何人かの日本人が下ってきたので、登頂の成否を訊ねたところ、皆一様に天気には恵まれなかったが登頂出来たとのことだった。 “今日の天気で登頂出来たなら、明日も登頂だけは出来そうだ”と思うとにわかに嬉しくなった。

   岩尾根を登りきると、眼前に黒々とした岩肌のエギーユ・デュ・グーテ(3817m)が大きく立ちはだかり、その山頂付近にグーテ小屋が光って見えた。 雪渓をトラバースし、駅からの約800mの標高差を2時間足らずで登らされ、am10:50にテート・ルース小屋に着いた。 昨シーズンは改築中で使用出来ないと聞いていたが、山小屋の改築は未だ終わっていないようだった。 山小屋の看板メニューであるオムレツを氏にお願いして注文してもらう。 ガラスのボウルに入った温かい紅茶に砂糖をたっぷり入れて飲んでいると、大きな皿に盛られた巨大なオムレツが運ばれてきた。 ジャガイモ入りのオムレツの味は驚くほどではなかったが、日本人好みの味付けで美味しかった。

   昼食を済ませると、何故かダビット氏はすぐに出発しようとはせず、山小屋のスタッフとしばらく歓談していた。 「ココデユックリスルナラ、モットユックリノボレバイイノニネ!」と妻が愚痴をこぼす。 山小屋の入口で待機していると、意外にも氏からここでハーネスを着け、ヘルメットを被るようにとの指示があり、アンザイレンしてから正午ちょうどに出発した。 氏のザックから大きな傘は消えていた。 しばらく緩やかな雪渓の斜面を登った後、トレイルは岩場のアルペンルートとなり、落石が多い場所として悪名高い“グラン・クーロワール”と呼ばれる危険地帯に近づいた。 50mほどのザレ場をトラバースするのだが、雪がなかったせいか全く危険な感じはしなかった。 ガイドブックによれば、落石を避けるために一人ずつ走るように通過するとも記されていたが、ダビット氏はザイルを解かず、終始上を見上げながら2〜3分で無事通過した。 結局落石もなく、意識しなければ全く気付かずに通り過ぎてしまうような所だった。 しかしとんでもない出来事がその後に起ころうとは知る由もなかった。

   岩稜のトレイルは登るにつれて険しさを増し、随所にワイヤーロープが出現するようになったが、ダビット氏は相変わらず全く休憩する気配もなく、先行するペースの遅い(普通のペースの)パーティーを次々に追い越していく。 グーテ小屋は指呼の間に見えるので、高度はすでに3500mを超えていると思われ、ここで頑張り過ぎると後で高山病になる心配がある。 たまらず妻が「モア・スローリー!」と氏にリクエストしたが、氏は「すでにグラン・パラディゾで高度順応しているから大丈夫ですよ」とつれない。 しばらくしてやっと5分ほどの休憩をもらい、水を飲んでカラカラに乾いた喉を潤した。

   pm1:50、ダビット氏に引っ張られ、テート・ルース小屋から2時間弱でグーテ小屋に到着した。 ジュラルミン製の板で外壁を保護している山小屋は、まだ時間が早かったせいかそれほどの混雑はなかった。 氏は山小屋のスタッフとは旧知の仲らしく、受付けをしながら話に花が咲いている。 スタッフの一人は大変ひょうきんな人で、まるで芸人のように女装や物真似をしてドタバタと食堂を歩き回り、宿泊客の笑いを取っていた。 氏に2階の寝室に案内されたが、室内は意外と暖かく、指定された寝場所も一人一畳位のスペースがあった。 また屋外にあるトイレの横にも別棟があり、山小屋全体で100人位は泊まれそうだった(定員は80人だが、多いときは200人まで泊めるとガイドブックに記されている)。

   間もなく先程の日本人のパーティーが到着し、食堂であらためて自己紹介をして雑談を始めたが、意外にも明日アタックする日本人のパーティーは我々2組だけのようだった。 鈴木さんというベテラン氏は、60歳を超えているという年齢もさることながら、6年前に患ったという癌で胃や食道の大半を切除したにもかかわらず、果敢にもアルプスの最高峰を目指してやって来られたということで、その意気込みには脱帽するばかりだった。 鈴木さんはガイドと同行した旅行会社のツアーコンダクターでモン・ブランにも何回か登頂経験のある浅井さんと一緒にアタックされるとのことだった。 ダビット氏から夕食は6時からですと伝えられ、寝室のベッドで体を休めようとしたが、今日の疲れというよりは昨日の腕の疲れが全くとれていなかった。 周りを見渡すと、明朝の出発が早いためか、高山病で具合が悪いのか、屈強な外国人も静かに寝ているのに気が付いた。

   夕食の時間となり食堂に行くと、別棟の方からも沢山の宿泊客が押し寄せ、食堂はすぐに満席となった。 “ひょうきん氏”が相変わらず多様なパフォーマンスを披露し、高所の山小屋らしからぬとても楽しい雰囲気だった。 食事が配膳されるまでの間、日本で覚えてきた仏語の日常会話や単語をダビット氏に披露したり、簡単な日本語の単語を英訳したりして親交を深めようとしたが、氏はいかにもフランス人らしく、日本語の独特の響きを楽しんではいたものの、それを積極的に覚えようとはしていなかった。 メインディシュのビーフシチューはとても柔らかくて美味しかったが、高所で満腹に食べると体に悪いので腹八分目にしておいた。 夕食後、氏から「明日の朝食はam2:00からで、am3:00に出発します」との指示があった。 朝食から出発までに時間があるのは、用足しのこともあり非常に助かる。 念のため、最初の打ち合わせの時に希望しておいた、エギーユ・デュ・ミディへの縦走の件について氏に再確認したところ、「最近悪天候が続いているため、トレイルが荒れているので駄目です」とあっさり却下されてしまった。

   pm7:30、明日の準備をした後、早々にベッドに潜り込む。 気持ちの昂りと高度のせいで脈拍が少し速いのが分かる。 夜中に外のトイレに行くために山小屋を出ると、山には霧がかかり星も全く見えなかったが、3000m近く下の麓の町の夜景が驚くほど綺麗だった。


登山電車の終点駅のニ・デーグル


ニ・デーグル付近から見たエギーユ・ド・ビオナセイ


山頂付近にグーテ小屋が建つエギーユ・デュ・グーテ


グーテ小屋直下の岩稜のトレイル


   8月26日、am1:50起床。 殆ど眠れないと思っていたが2〜3時間は熟睡出来たので、眠さはそれほど感じなかった。 頭痛も全くなく、高所順応はOKだ。 腕の筋肉痛を除けば体調はすこぶる良い。 食堂に行くと、朝食(出発)の時間帯がそれぞれ違うためか、席は空いていた。 ダビット氏は私の顔を見るなり冴えない表情で「バッド・ウエザー」と低い口調で言った。 ガッカリする間もなく、氏はさらに「これから嵐が通過するので、am5:00の時点で再度出発するかどうかを決めます」と付け加えると、朝食も食べずにスタッフ用の寝室に消えていってしまった。 心の準備は多少出来てはいたものの、氏の言動を見るかぎり今日のアタックはダメかもしれず、何ともやりきれない気持ちで一杯だ。 しばらく鈴木さん達と雑談をした後、私達も寝室に戻って再び眠ることにした。 氏の予言どおり、しばらくすると大砲のような音をたてて突風が山小屋を揺らし始めたが、悪天候にもかかわらず何人もの猛者達が出発して行った。

   am5:00前に起きて食堂に行くと、ダビット氏が朝食を食べ始めるところだった。 氏は「まだ天気が悪いので出発は出来ません。 すでに出発した他のパーティーも登頂を諦めて順次戻ってくるでしょう」と言った。 外のトイレに用足しに行くと、氏が言ったとおり、吹雪の中をいくつものヘッドランプの灯が山小屋からすぐ上の所を下ってくるのが分かった。 そして間もなく疲労困憊し濡れ鼠になった猛者達が次々と食堂に入ってきた。 朝食を食べながら氏は「最終的にはam8:00に山小屋に入る天気予報により、出発するか停滞するか、あるいは下山するかを決めます」と言った。 氏は朝食を食べ終えると、すでにアタックを諦めたかのように再び寝室に消えていってしまった。 私達の他、4〜5組の地元のガイドのパーティーも全て同じ行動をとるようだった。 私達も朝食を食べた後に再び寝室にて待機したが、気持ちの切り替えが出来ず、アタックする前から疲れてしまった。

   am7:30に再び食堂に行ってみると、窓の外にはまだ小雪が舞っていた。 決行か、それともやはり中止になってしまうのだろうか?。 am8:00前に山小屋のスタッフが何処かと電話で連絡をとったが、その内容を聞いてダビット氏ら地元のガイド達が下した決断は“今日は天候の回復が見込まれないため登山は中止します”という冷酷なものだった。 さらに氏は「明日以降も天候の回復が見込まれないため、山小屋で停滞せずにこれから下山しましょう」と私達に提案した。 鈴木さん達は滞在日があと2日しかないため、明日の天候の回復を祈って山小屋で停滞されるという。 氏は再び下山することを私達に強く促し、私達も決断を迫られたため、神田さんの意見を聞こうとしたが、生憎神田さんの携帯は何度かけても通話中だった。 多分この時間帯は、モン・ブラン登山の手配にでも追われているのだろう。 妻と二人で悩んだ末、不安定な天候の中を無理して登るよりは、快晴の頂を夢見て再びチャレンジすることを心に決め、氏の意見に従って下山することにした。

   am8:00、小雪が舞う山小屋の前でアイゼンを着けてアンザイレンした後、新雪の積もった滑りやすい岩場を下る。 後ろ髪を引かれる思いで山小屋を後にしたが、感傷に浸っている暇もなくダビット氏は先を急ぎ、登りと同じようにペースの遅いパーティーは追い越すように、後ろから先頭の私にハッパをかけてくる。 下りながら、ホテルで悠然と気長に天候の回復を待つことが出来なかった自分に腹が立ってきた。 グラン・クーロワールの手前でアイゼンをはずし、氏が先頭になって上を見上げながら小走りで駆け抜け、グーテ小屋から小1時間でテート・ルース小屋に着いた。 ザイルが解かれ、山小屋で紅茶を飲みながらゆっくり休憩してニ・デーグルの駅に下った。

   次の下りの登山電車の発車時間がam11:50ということだったので、「ここから先はマイペースで下ってもいいですか?」とダビット氏に提案したところ、珍しく快諾された。 氏は糸が切れた凧のように、どんどん先に下っていく。 下るにつれ雪は雨に変わり、次第に本降りとなった。 昨日とは違いガイドレスの日本人登山者が次々と下から登ってくる。 挨拶を交わしたり、エールを送ったりしながら何人かの人達に明日の天気の情報を聞いてみたが、皆一様に天気はあまり良くないという。 最後は傘をさしながら重たい足取りでam11:45に氏の待つニ・デーグルの駅に着いた。 雨にもかかわらず、駅から歩いてビオナッセイ氷河を見物に行ってきた観光客で登山電車は満員だった。 途中駅のベルヴューで下車し、下りのロープウェイに乗り込むと、濡れ鼠になっている私達を気遣って声をかけてくれた日本人の方がいた。 ドイツに在住されているというその方も、「例年ドイツやスイスでは、8月の下旬から9月の上旬にかけてが一年で一番天候が安定する時期なんですが、今年は本当に異常ですね〜」と首をひねっていた。

   pm1:00、ダビット氏の運転する車でホテルに到着。 身も心もボロボロだったが、造り笑顔で氏にお礼を言い、20ユーロのチップを手渡して車を降りた。 着替えをしてから『さつき』に昼食を食べに行く。 「破天荒のため残念ながら今日モン・ブランにアタック出来なかったんですよ」と女将さんに愚痴をこぼしたところ、彼女からも「今年の夏の天気はここに店を出してから最も悪く、自分の知り合いの人を含め、モン・ブランに登れなかった人が大勢いるみたいですよ」と慰められた。 日本人客の出入りが多い『さつき』はスネルスポーツ同様、情報収集にはもってこいの所のようだ。

   昼食を食べた後、ガイド組合の天気予報を見に行くと、今日と明日の天気予報は同じで、朝方は陽が射すが、その後は曇って午後は雨となっていた。 それでは万が一に賭けてグーテ小屋で停滞していた方が良かったのではないだろうか?。 深い霧の中に包まれたモン・ブランの方角を見て悔しがったが、もうあとの祭りだ。 ホテルに戻り、残り6日となってしまった今後の登山計画について再考した結果、今回計画していた山のうち最も難易度が高いグランド・ジョラスは潔く諦め、バール・デ・ゼクランとモン・ブランの再アタックに的を絞ることにした。 また、登る順番は最初にバール・デ・ゼクラン、次にモン・ブランということも心に決めたが、あとは何といっても天気次第だ。

   夕方、スネルスポーツへ山行の打ち合わせに行くと、神田さんも「今年の天気には全くお手上げだよ」と私を慰めてくれた。 先ほど決めた今後の計画について神田さんに説明を始めたところ、偶然にもタイミング良くダビット氏が来店したので、3人で打ち合わせをすることが出来た。 神田さんを通じて氏に「滞在日があと6日しかないので、明日からバール・デ・ゼクランを登りに行きたい。 明後日の天気が悪く、アタック出来なかった場合には、山小屋に連泊して翌日に再度アタックしたい。 モン・ブランについても同じ方法でいきたい」という希望を伝えたところ、氏は「明日のみならず、明後日も天気がはっきりしないので、明日から山に行かない方が良いと思いますよ」と少々熱くなりかけている私をなだめるように提案した。 今回の失敗のこともあったので、仕方なく氏の意見に従って明日の出発はとりあえず見合わせることにし、明日のam8:00に神田さんから最終確認の連絡をもらうということになった。

   ホテルに戻り、夕食前にpm8:45のテレビの天気予報を見ると、何と明日のシャモニ周辺の予報は晴れに変わっていた。 余りの悔しさに1時間ほど放心状態となってしまった。 妻はそれとは全く関係なしに珍しく風邪をひいてしまったようで元気がなかった。 しばらくしてやっと我に返ったが、二人とも自炊する気力も失せてしまい、インスタントラーメンを流し込んで寝てしまった。


グーテ小屋で同宿した鈴木さん


テート・ルース小屋


  【停滞】
   8月27日、am7:00前に起床して窓を開けると、小雨がパラついていた。 道路にできた水たまりの大きさを見るかぎり、どうやら雨は一晩中降り続いたようだった。 天気予報を見ると、今日の天気は曇りとなっていた。 いったいこの国の天気予報はどうなっているのか?。 ホテルから外に出て空を眺めたが、青空が針の先ほど見えたのみで町全体が霧の中だ。 しかし、もしかしたら4000m近く上のモン・ブランの頂上付近は晴れているかもしれない。 今日のモン・ブランの天気は後で鈴木さんに聞いてみるしかない。 それにしてもここ数日は天気のことで一喜一憂し、精神的に大変疲れてしまった。 喘ぎながらでも山を登っている時の方がよっぽど楽だ。 また天気のことばかり気にしている自分自身も、つくづく嫌になってしまう。

   約束したam8:00を過ぎても神田さんからの電話はなかった。 多分また登山の手配などに追われているのだろう。 朝食後、念のためガイド組合の天気予報を見に行き、その足でシャモニ・モン・ブランの駅前にあるホテル『グスタビア』に向かい、数日前から旅行会社のWECトレックが主催するモン・ブランの登山ツアーでシャモニを訪れている貫田さん、能田さん夫妻、田中さんらの知人を訪ねてみることにした。 フロントの女性に「ヌキタ・ステイ・ヒア?」と訊ねたところ、まるで私の訪問を待っていたかのように「イヨッ!」と背後から本人の声が掛かった。 ロビーから外に出て、霧のまとわりついている山々を見上げながら、貫田さんと最近の天気についての話をする。 貫田さんは仕事でスイスのツェルマットに滞在されていたが、今夏の天気は全般的に不順だったという。 またその影響もあって、マッターホルンでは事故が多発し、ガイドが山に入らなかった日も多かったとのこと。 ロビーに戻り、貫田さんに能田さんらを召集していただき、1年半ぶりの再会を喜び合った。 お互いの近況報告、天気、物価の話から田中さんの中国の未踏峰(ダンチェツエンラ)登山の土産話に至るまで話の花が咲き、沈みがちだった気分も少し和らいだ。 話が一段落したところで能田さんを我が家(ホテル)に招き、風邪のためベッドで寝ていた妻を驚かせた。 再び能田さんと『グスタビア』に戻り、これからモン・ブラン登山に出発する貫田隊にエールを送ってホテルを後にした。 その直後に青空が急速に拡がり、何とモン・ブランの白い頂も一瞬だけチラッと見えた。 やはり昨日ダビット氏を説き伏せて山小屋で停滞すれば良かったと悔しさが募ったが、もし鈴木さんが登頂することが出来たのであれば嬉しいし、心からお祝いしたいという気持ちになった。

   正午にスネルスポーツに行き、神田さんと店の外に出て雑談をする。 モン・ブランの山頂は再び霧のベールに包まれていたが、青空の下のドーム・デュ・グーテ(モン・ブランの一般ルート上にある支峰)を指して神田さんに「この天気なら山頂に行けたのでは?」と訊ねてみると、「昨日は雪が相当降ったので、トレイルがなくなりラッセルが大変ですよ。 もし登れてもヴァロ小屋(中間地点にある避難小屋)あたりでバテてしまうので、山頂までは相当時間がかかると思いますよ。 アトラスのお客さん(鈴木さん)も駄目だったらしいという連絡も入っているので、多分他のパーティーも登れていないと思いますよ」という答えが返ってきた。 ダビット氏の判断は正しかったのかとその時は感心した。

   たまたま店内にいた澤田さんという年配の日本人夫妻と雑談を交わしたところ、運が悪いことにガイドの手配が出来なかったり、ロープウェイの故障で上に行けなかったりで、まだ目標のピークを踏めていないとのことだった。 お互いの傷を舐め合うことで意気投合し、昼食を誘い『さつき』へ行った。 食事をしながら話を伺うと、ご主人が定年になったので、シャモニだけで3週間の長期のバカンスを楽しまれているとのことだった。 また、ご主人はベテランの“山ヤさん”だそうで、シャモニでもロッククライミングを主体とした登攀を計画されているとのことで、航空券の手配からホテルやアパートの予約方法、さらには食料の調達や自炊されている献立に至るまで“格安旅行術”の伝授をしていただき、楽しいランチタイムとなった。 昼食後はわざわざ滞在されている駅前のアパートに招いていただいたが、キッチン付きの明るく綺麗な部屋はお風呂も立派で、1日当たり約40ユーロ(邦貨で約4,800円)という値段には驚いた。 日本茶をご馳走になり、明日からのお互いの幸運を祈念し合ってホテルに戻った。

   ホテルに戻ると妻は相変わらず具合悪そうにベッドで寝ていた。 膝の痛みもまだ治らないらしく、まさに満身創痍という感じだった。 結果的に今日山に行けなかったことが正解だったが、明日以降の妻の体調が心配だ。 夕食の買い出しに行く途中で観光案内所に立ち寄り、ボランティアで日本人観光客の面倒をみている案内嬢のベルナデッドさんという方にお会いし、明日以降の天気の傾向を伺ってみると、意外にも「この先そんなに悪くはならないはずですよ」と自信ありげに教えてくれた。 単に日本語が上手だということだけではなく、彼女の親切でユーモアたっぷりの話し方には本当に頭が下がった。 帰国後に聞いた話では、山小屋(グーテ小屋)の予約をしてもらった人もいたとのことだった。

   夕方、ダビット氏からホテルに電話があった。 氏は私が英語を理解出来ると思ったのか、神田さんを介さずに明日の予定を私に説明し始めた。 “明日も山へは行かない”という内容であることは分かったが、その前後の細かな話までは理解出来なかったので、「良く分からないので、神田さんに電話してみます」と言って電話を切った。 神田さんに電話をかけると、やはり氏は明日の天気が悪いことを理由に、出発を見合わせたいということだった。 私が気を悪くしたと思ったのか、夕食後に氏がわざわざホテルに出向いて来て、明日出発しない理由と明後日のバール・デ・ゼクランの登山スケジュールについて、私が充分理解出来るまでかみ砕くように説明してくれた。 妻の体調も悪かったので、氏の提案を快く受け入れることにした。

   8月28日、am7:00起床。 天気予報は今日も当たらず、カーテンを開けると青空が見えた。 慌てて外に出てみると、何と純白のモン・ブランの頂が青空の下に見えていたが、良く見るとすでに西の空から黒い雲が迫っていた。 未明に出発していれば、ちょうど今頃が山頂に着く時間帯だろうから、悪天候が続く中でこのチャンスをものに出来た登山者は本当に幸運だ。 晴れているうちにモン・ブランの雄姿を写真に収めようと早朝のシャモニの町を散歩していると、メインストリートで澤田さんの奥さんと再会した。 これからガイド氏とロッククライミングのトレーニングに行かれるとのことだった。 ゆっくりと朝食を食べ、ガイド組合の天気予報を見に行く。 明日の29日は曇り時々晴れ、明後日は晴れ、その後もおおむね良い天気だった。 今まで何度も騙されたので心の底から喜べないが、ようやく気持ちが落ち着いた。 これでもう今後のスケジュールを考える必要はない。 明日から残り4日間の滞在日のうち、29日〜30日でバール・デ・ゼクラン、31日〜翌1日でモン・ブランだ。 あとは運を天に任せ、ラストチャンスに賭けよう!。 

   明日からの連チャンに備えて今日も休養日とし、午前中はシャモニの風景の写真を撮りに行くことにしたが、天気は尻上がりに良くなり、ベルナデッドさんの予報は的中した。 もしかすると、天気のことは彼女に聞くのが一番良かったのかもしれない。 スケジュールが決まったので、やっと気持ちに余裕が出てきた。 いつものことだが、このくらい気持ちに余裕がある旅をしてみたいと思う。 スネルスポーツにグーテ小屋や登山電車のバウチャーを受け取りに行くと、生憎神田さんは休暇のため不在だった。 神田さんの携帯電話に連絡を入れると、ジュネーブに買い物に来ているとのことで、夕方にスネルスポーツで落ち合うことにしたが、グーテ小屋の予約はまだしていないとのことだった。 散歩中に偶然NHKの取材を受けていた美智子さんに再会した。 念のため、鈴木さんの登頂の成否を訊ねてみると、無事登頂されたということが分かり、自分が登れなかったという悔しさよりも、鈴木さんが登れて本当に良かったと自分のことのように嬉しくなった。 帰国後に鈴木さんから届いた便りによれば、悪天候の中、一瞬のチャンスをついて頂を踏むことが出来たが、大変厳しい登山だったとのことだった。 結局、午前中モン・ブランはその山腹に黒い雲をはべらせながら、見え隠れを繰り返していた。

   午後に入るとやっと妻も体調が良くなってきたようで、ベッドの上で手紙を書いていた。 私はお土産や雑貨の買い物をしたり、スネルスポーツ以外の登山用品店を何軒か見て回ったりして時間をつぶした。 夕方にスネルスポーツ行き、その場で神田さんから電話でグーテ小屋に宿泊の予約を入れてもらうと、「31日は土曜日のため予約が一杯で泊まれません」という予想外の答えが返ってきた。 「貴方達ならエギーユ・デュ・ミディからコスミック小屋を経由して登るルートでも大丈夫ですよ」と神田さんからアドバイスがあったが、せっかくグーテ小屋の“下見”に行ってきたので、出来ればノーマルルートで万全を期したいと希望し、仕方なく登る山の順番を変更して29日の予約をお願いしたところ、こちらは無事予約がとれたので安堵した。 ガイドの予約と山小屋の予約がスイスのようにイコールではないことを、ここに来てあらためて思い知った。

   バウチャーを受け取ってホテルに戻り、『さつき』に夕食を食べに行く。 メインテーブルには日本人の団体が10数名ほど陣取り、日本酒等を飲んで盛り上がっていた。 果して4日後に私達も楽しい打ち上げが出来るのだろうか?。 ホテルに戻ると神田さんから電話があった。 明日ダビット氏がam7:30頃ホテルに迎えに行くとのことで、幸運を祈りますとエールを送られた。


   シャモニから見たモン・ブラン(中央奥)とエギーユ・デュ・ミディ(左)


  【モン・ブラン】
   8月29日、am6:30起床。 外はまだ薄暗いが、天気は悪くなさそうだ。 食堂に行くと、青空の下にモン・ブランの白い頂が霧の中からうっすらと見えていた。 この天気なら今日がアタック予定日の能田さん達のパーティーも無事登頂出来るに違いないと、1回のチャンスをものにした彼(女)らを羨ましく思った。 メンバーの人徳だろうか、それとも誰か強力な晴れ男(女)でもいたのだろうか?。 am7:40にダビット氏の車がホテルに到着し、レ・ズーシュに向けて出発した。

   前回と同じスケジュールで、am8:15発のロープウェイに乗る予定だったが、何かのアクシデントでロープウェイが到着せず、15分ほど遅れての出発となった。 乗客は全員がモン・ブランへの登山者だった。 すぐに車掌から遅れた理由についての説明があったが、もちろん私達には理解出来なかった。 ロープウェイが終点に到着すると、乗客一同が少し離れた所にある登山電車の駅に急ぎ足で向かったので、電車が待っていると期待したが、am8:40発の電車の姿はすでになく、次のam10:05発の電車まで約1時間半の間、電車の到着を待つことになってしまった。 周りに誰も知り合いがいないのか、ダビット氏は一人静かにロープウェイの駅で買った新聞を読んでいる。 上空には霧がかかり陽射しを遮っているため、気温も10度を下回っていて肌寒い。 駅といっても駅舎がないので、じっとしていると体が冷えてくる。 周囲を散策して体を暖めようとしたが、何故か今朝から体調があまり良くなく、妻に続き私も風邪をひいてしまったようだ。 皮肉にも電車はam10:05より少し遅れ気味に出発し、am10:30に終点駅のニ・デーグル(駅の表示にはグレイシャーと記されていた)に着いた。 途中で能田さんらに出会った時のことを考えて、車中で氏に「今日私達の仲間が、エベレストを2回も登った日本人のガイドと共にアタックしているんですよ」と話題を提供しておいた。

   駅から歩き始めるとすぐに山々を覆っていた霧は完全にあがり、周囲の景色もはっきりと見えるようになった。 まだ上空には所々に雲があり、快晴とまではいかないものの、久々に良い天気だ。 3〜4日前に“下見”をしたばかりなので、トレイルの記憶も新しい。 1時間半ほど予定より遅れているためか、体調が悪いせいか、ダビット氏の登るペースは前回よりも速く感じられた。 トレイルの状況や休憩場所が分かっているので気は楽だが、駅から標高差で400mほどの所にある古い避難小屋の先にある平坦地まで、前回と同じ50分ほどで登らされてしまった。 5分ほど休憩してから腰を上げると、氏は私達に「携帯電話をかけてから行きますので、先に行って下さい」と言った。 これでやっとマイペースで登れると思ったが、不思議なことに目に見えない氏の圧力に負け、ついつい先程と変わらないペースで登っている自分に気がついた。 前回とは違い、左手の雲の上にはエギーユ・デュ・ミディとエギーユ・ヴェルトが顔を揃えて歓迎してくれたが、正面に大きく立ちはだかるエギーユ・デュ・グーテの頂上直下に光るグーテ小屋が、なぜか今日は遙か遠くに見えた。

   テート・ルース小屋の直前まで妻と二人で先行し、その後はダビット氏が先頭になり雪渓をトラバースしてpm0:15に山小屋に着いた。 山小屋の前で今日アタックしたと思われる日本人の方がいたので、早速“情報収集”すると、何と貫田さんのツアーのメンバーの一人だった。 登頂の成功を祝福し、さらに話を伺うと、「風は多少ありましたが良い天気に恵まれ、私は3時間半ほどで登頂出来ました。 恐らく全員登れたと思いますから、登頂した方から順に下ってきますよ」ということだった。

   山小屋の食堂で昼食のオムレツを食べ、出発予定のpm1:00にはハーネスを着け、ヘルメットを被って山小屋の入口でダビット氏を待っていたが、突然氏から出発時間をpm1:30に変更する旨の指示があった。 どうやら氏は山小屋のスタッフに何かの撮影を頼まれたようで、少し大きめのハンディビデオ機の操作方法についての説明を受けていたが、最初からとんでもないものを撮影するハメになるとは知る由もなかった。 氏を待っていると、ちょうど良いタイミングで能田さん夫妻が他のメンバーと共に山小屋へ無事下山してきた。 その明るい表情と軽い身のこなしから、登頂されたことはたやすく想像されたため、「お疲れさまでした〜!、登頂おめでとうございま〜す!」と祝福し、力強く握手を交わして喜びを分かち合うと共に、サミッターの幸運をいただくことが出来た。

   pm1:30、ダビット氏にザイルで繋がれ、能田さん夫妻らに見送られてテート・ルース小屋を出発。 出発間際に能田さんから、グーテ小屋に忘れてきてしまったという彼女のヘルメットの回収を依頼された。 ここからグーテ小屋までは標高差で約600mあるが、前回同様に氏は休憩なしで一気に登ってしまうつもりだろう。 高所にはだいぶ順応しているはずだが、先ほどから少し寒けを感じ始め、体調は午前中よりもさらに悪くなっているようで足の運びが全く鈍い。 前を登っている妻に後ろから声を掛けてみたが、妻は逆に2日間静養して体調が戻ったのか、前回よりも楽だという。

   テート・ルース小屋から30分ほどの所にある落石の危険地帯(グラン・クーロワール)にさしかかると、全く平穏だった前回とは違い、幾つかの小石がガレた急斜面を飛び跳ねるように落ちてきているのが見えたが、今回も落石に遭うこともなく無事通過することが出来た。 しかし何とその数分後に、大きな岩が一つ上から転がってきて、私達がたった今登ってきたばかりのトレイルを横切った。 登るペースが少し遅かったら危ない目に遭ったかも知れず、岩が転がっていった斜面を皆で見つめながら、「ダビット氏の速いペースもたまには役に立つね」と妻に言った。 その直後、今度は黄色いザックのようなものが、大きなバウンドを繰り返しながら先ほどの岩の後を追うように転がってくるのが見えた。 幸い途中でそれは止まり、私達の所まで落ちてくることはなかったが、ダビット氏の表情は一瞬こわばった。 私は“落石のみならず、物を落とす人もいて困ったものだ”と内心思ったが、登山者がザックが吹っ飛ぶほど激しく滑落したとは考えもしなかった。 しばらく登っていくと、氏は下ってきたパーティーから情報を入手し、私達に事故があったことを説明してくれた。 すでに救助の要請はされたようで、すぐ先で数組のパーティーが、登山者が落ちた所を心配そうに見つめていた。 小さな黒い影は全く動く気配はなく、氏は「多分彼は死んでしまっただろう」と呟いた。

   間もなくレスキューのヘリコプターが上空に姿を現すと、氏は私達に「救助の様子を撮影したいのですが構いませんか?」とお願いしてきたが、この状況では「ノー・プロブレム」と答えざるを得なかった。 ヘリの操縦士は豆粒ほどの遭難者の位置がすぐに分かったようで、迷わず救助体制に入った。 ザイルで吊るされた救助隊員は遭難者の近くに降り立ち、その状況を確認すると、意外にも先にザックを回収してヘリに戻った。 再び救助隊員は遭難者のもとへ行ったが、遭難者を抱えてヘリに収容することなく、遭難者をまるで荷物のように宙吊りにしたまま飛び立って行った。 その状況から見て、遭難者がすでに死亡していることを疑う余地はなかった。 昨年のマッターホルンに続き、自分が登っている日に事故が起きるのは、単に偶然ということではなく、両峰とも人気のある名山であるがゆえの悲劇なのだろう。 私達には運ばれていく“遺体”に合掌して、亡くなった方のご冥福をお祈りするしかなかった。

   図らずも20分ほどの大休止となったが、逆に体が冷えてしまい、足の運びはさらに鈍くなってしまった。 数分後に貫田さんと稲村さんのパーティーが上から下ってきたが、登頂の祝福や再会の挨拶もそこそこに、たった今目の当たりにした事故の驚きを話し合った。 貫田さん達は上から事故を目撃したとのことだった。 岩場のトレイルは上に登るほど険しさを増し急勾配となっていくが、予定よりだいぶ遅れたためか、ダビット氏はグイグイと私達を引っ張り上げる。 体調の悪さで時々意識が薄れるような妙な感覚に襲われるが、先ほどの遭難者の無念を思えばそんな弱音を吐くわけにもいかず、必死に前を登る妻の背中だけを追い続けた。

   pm3:30、やっとのことでグーテ小屋に着いた。 先ほどの大休止を差し引けばテート・ルース小屋から1時間半ほどで登ったことになり、やはり前回より速いペースだった。 食堂のカウンターで紅茶を注文すると、奥から“ひょうきん氏”が現れ「アイ・ノウ・ユー!」と言って歓迎してくれたので、私もつられて「アイ・ノウ・ユー・トゥー、カム・バック・アゲイン」と変な英語で切り返してしまった。 到着時間が遅かったせいか、指定された寝場所は別棟の入口の扉の一番手前で、小屋中で一番悪い場所のように思えた。 早速能田さんのヘルメットの捜索をしたところ、運良く入口の下駄箱で見つけることが出来た。 荷物を整理して食堂へ行くと、ダビット氏が調理場や受付で働く山小屋のスタッフの仕事ぶりをビデオに収めていた。 前回と違い食堂は大変混み合っていて、寛ぐことが出来なかったので、再び別棟の寒い部屋に戻り夕食の時間までひと眠りすることにした。

   pm6:00の夕食の時間に合わせて食堂へ行ったが、相変わらず混み合っていてテーブルにつくことが出来ず、1時間ほど待ってからようやく夕食にありつくことが出来た。 高所にある山小屋なので全く期待していなかったが、今晩のスープや牛肉の煮込み料理もなかなか美味しく、意外とこの山小屋は料理が旨いことで有名なのかもしれない。 風邪気味だが有り難いことに食欲はある。 夕食後にダビット氏と簡単に明日の打ち合わせを行う。 前回同様am2:00から朝食が始まるので、それまでに支度を整えて食堂に来るようにとだけ指示があった。

   pm8:00には就寝したものの、予想どおり入口の扉を開け閉めする音がうるさく、また扉が開く度に冷たい空気が外から吹き込んできて寒かった。 何か体温がどんどん奪われていくような気がして寝つけず、そのうちとうとうお腹の調子が悪くなってきた。 症状は高度障害による下痢ではなく、明らかに風邪によるものだった。 仕方なく恐ろしく寒い外のトイレに何度となく通ったが、寒いトイレに通うほど症状は悪化するような気がした。 “何で自分だけこんなことで苦労しなければならないのか”とイラつく気持ちと、何とか出発までには治したいという焦りも加わり、一晩中全く眠ることが出来なかった。


テート・ルース小屋付近から見たエギーユ・デュ・グーテ


テート・ルース小屋で能田さん夫妻と再会する


レスキューのヘリコプター


   8月30日、am1:45に起床し、身支度を整えて食堂へ行く。 体調の悪さとは反対に、外は風もなく満天の星空だった。 出発する時間帯に合わせて朝食を出しているためか、食堂は昨晩のような混雑は見られなかった。 パンを食べ始めようとすると、再びトイレに行きたくなってきた。 前回はam3:00に出発という予定だったので、今日もそのつもりでいたが、登山者が多いためか氏は少しでも早く出発したいという様子だった。 氏の思惑に反することは分かっていたが、背に腹は代えられないので、氏に今の自分の体調のことを説明して、しばらく様子を見させて欲しいと申し出た。 私は迷っていた。 果してこの体で山頂まで辿り着くことが出来るのだろうか?。 今の状況ではすぐに下痢は治りそうもないし、もし途中で私が潰れたらザイルで繋がれている妻も一緒に下りなければならない。 妻に氏とマンツーマンで登ることを提案してみたが、案の定妻は一人では登りたくないという。 しばらく悩んだ末、祈るような気持ちで征露丸を飲み、イチかバチかam2:50にアルプスの最高峰の頂を目指して出発することにした。

   山小屋の裏手を20mほど登ると、意外にもエギーユ・デュ・グーテの山頂は広く平らだった。 ここからモン・ブランの山頂まではずっと尾根上を登ることになるので、登頂の成否は風の有無に大きく左右されるが、有り難いことに風は今のところ全く無かった。 どうやらまだ運があるようだ。 しかしお腹に大きな爆弾を抱えているため油断は禁物だ。 しばらくは稜線を緩やかに登り下りするだけの全く楽な登高だったが、体に思うように力が入らず、前を歩く妻と私を繋ぐザイルは弛むことがない。 登る前から予想されてはいたものの、憧れの山を目の前にして本当に情けない限りだ。 妻にも迷惑をかけるが、夢の実現に免じて許してもらおう。 そんな状況は全くお構いなしに、いつものようにダビット氏は私達をグイグイと引っ張って行く。 出発が少し遅れたため、すぐ前方にヘッドランプの灯はないが、山頂方面に向かってかなりの数の灯火が一列につながっているのが良く見える。 しばらく“稜線漫歩”した後、まるでスキー場のような幅の広い尾根を支峰のドーム・デュ・グーテに向かって直登するトレイルとなった。 お腹のことだけを気にしながら、弱々しい足取りで登っていくと、すでに登頂を諦めたのか、私達の傍らを単独者がポツリポツリと下ってくる。 一瞬彼らの姿に自分をダブらせる。 半月が頭上でこうこうと輝き、満天の星空の下、正面には不気味なほど大きく威圧的な山塊のシルエットが私達の挑戦を拒むかのように立ちはだかっている。 それとは対照的に左手の遙か足下には、シャモニの町の明かりがキラキラと輝いていた。

   ちょうど1時間ほど登った時、右手の暗闇の中にぼんやりと山小屋のようなものが見えた。 中間地点にあるヴァロの避難小屋だろうか?。 いや、いくらなんでも早すぎる(後で妻に聞いてみたが、妻には全く見えなかったという)。 頭に酸素が回らず、幻覚でも見ていたのだろうか?。 トレイルは少し傾斜を増し、単調なジグザグの登高を繰り返すようになり、am4:20に最初の小広いピークで休憩となった。 ここがドーム・デュ・グーテ(4304m)の山頂だろうか?。 先行していた何組かのパーティーもここで休憩していた。 足を止めてもすぐに荒い呼吸は収まらず、しばらく顔を下に向けてストックにもたれかかるような姿勢で呼吸を整える。 朝食を殆ど食べていなかったので、行動食をテルモスの熱い紅茶で流し込んだ。

   5分ほどの短い休憩の後、しばらく緩やかにだらだらと下り、左斜め上に露岩を仰ぎ見ながら幅の広い尾根を20分ほど登り返して平らな広場のような所に着いた。 私のことを気遣ってくれたのか、先ほど休憩したばかりなのに、ダビット氏はまたここで「何か食べたり飲んだりしますか?」と私達に聞いてきた。 もちろん二つ返事で賛成し、再び束の間の休憩となった。 気が付くとすぐ左の脇に“本物の”ヴァロの避難小屋が建っていた。 am4:55、グーテ小屋を出発して約2時間が経っていた。 ガイドブックによれば、この辺りが中間地点だと記されている。 征露丸のゲップが続き不快感この上ないが、どうやら下痢は収まってきたみたいだった。 しかし体に力が入らない状態は相変わらず続いている。 気温はマイナス10度だった。 休憩が終わると氏は私達に「ピッケルを手に持ちなさい」と意外なことを指示した。 確か昨日登頂された方の話では、山頂までピッケルを使わなかったと聞いていたし、目の前の斜面を見る限りピッケルは必要ないと思われたからだ。

   ヴァロの避難小屋の前を出発すると、ダビット氏は正面に見える緩斜面を登らずに、すぐに左の方へ回り込んで行った。 そのとたんトレイルは急に細くなり、氏のつけた足跡がトレイルとなった。 間もなく急な斜面に取りつくと、氏は今までとは明らかに違う速さで駆け上がって行った。 すでにバテ気味だった私の体は悲鳴をあげた。 荒かった息はますます荒くなり、氏のペースに全く足がついていかない。 しかし氏は全くお構いなしに、もの凄い馬力でグイグイとザイルを弛ませることなく私達を引っ張り上げる。 左手でストック、右手でピッケルを交互に雪面に突きながら、お腹のことを心配する余裕もなく、無我夢中で脆い深雪の急斜面を直登気味に登った。 20分ほど喘ぎ喘ぎ登ると、また平らな広場のような所に出たが、右手の方にヘッドランプの灯がいくつか見えた。 暗いので正確なことはことは分からないが、どうやら氏は独自のルートでショートカットしたようだった。

   am5:30、メインルートと合流した所で3回目の休憩となった。 先程と同じ5分ほどの短い休憩だったが、疲労困憊している体に腹式呼吸で酸素を送り込む。 すでに標高は4500m位になっているはずだが、幸い高度障害は全くなく、妻は羨ましいほど元気だった。 再び僅かに下ってからなだらかなピークを一つ越えた先のコルで、すぐにまた4回目の休憩となった。 やはりダビット氏は私の体調を気にしてくれているのだろうか?。

  長かった夜に終止符が打たれ、辺りがようやく白み始めてきた。 相変わらず風もなく、どうやらアルプスの山の神に歓迎されたようだ。 雪が禿げて黒い肌をさらしている岩壁の左奥に、今度こそモン・ブランの頂と思われる輪郭がうっすらと見えた。 黒い岩壁がすぐ右手に見えるようになると尾根は痩せ、次第にナイフリッジとなった。 時計を見るとちょうどam6:00だった。 「あと1時間で着くよ!」。 今日私が相棒の妻に言った最初で最後の励ましの言葉(励ます必要はなかったが)だった。

   山頂の向こう側が茜色に染まり始め、すでに眼下となった周囲の針峰群越しに遠くスイスの山々のシルエットが浮かんできた。 その左端に見えた特徴のある山影は、紛れもなくヴァイスホルンだった。 昨年のドム登山の時に見た感動的な朝焼けのシーンの記憶が鮮明に蘇ってきた。 そんな気持ちの高揚とは反対に、体はますます言うことをきかなくなり、顔を下に向けてストックとピッケルに体を預けたままの惨めな格好でダビット氏と妻にザイルで引っ張られて行く。 山頂直下のコルから先は更に尾根が痩せて一方通行となり、先行している沢山のパーティーで渋滞していたため、所々で休むことが出来て助かった。 ここではさすがに氏も前のパーティーを追い越そうとはしなかった。 傾斜が緩むと、前方にサミッター達の姿が次々に見え始めた。

   am6:45、グーテ小屋から約4時間の“苦行”の末、ほうほうの体で憧れのアルプスの最高峰の頂に辿り着いた。 達成感や満足感といった爽やかな気持ちに浸る余裕は全くなく、ただひたすら何とか潰れずに辿り着けたという安堵感だけが頭の中を支配していた。 「ありがとう!、ありがとう!」。 声をふり絞り、お世話になった相棒の妻に感謝の気持ちを込めてお礼を言い、立っているのもやっとだったが、造り笑顔でダビット氏ともお礼の握手を交わした。 歩き回れば数分で大勢のサミッター達で賑わう山頂を一周し、アルプスの最高峰からの大展望を堪能することも出来たが、すでに登りで体力を使い果たしてしまった私は、麓まで自力で下れるかどうか自信が持てなかったので、本能的に急いでザックからカメラを取り出し、一歩も動き回ることなく眼下に見えている針峰群の写真を撮った。 シャッターは切れたが、なぜかフィルムが巻き上がらなかった。 電池はもちろん新品だったが、寒さで性能が低下してしまったようだ。 温度計を見るとマイナス11度だった。 妻がすぐに懐中で電池を暖めたため、数分後には撮影可能となった。 その直後に周囲から歓声が上がった。 皆が向いている方向に目をやると、遙か遠くに見えるマッターホルンの真上から小さな太陽がふわりと上がった。 ちょうど御来光の瞬間だったことにあらためて気が付いたが、そんなドラマチックな出来事も心から味わう余裕は今の私にはなかった。 氏に二人の記念写真を撮ってもらい、敬意を表して真のサミッターである妻の写真を撮った。 私一人だけの写真はあえて撮らなかった。 今日の私にはその資格がないと思ったからだ。 夢にまで見た憧れのアルプスの最高峰からの景色を愛でることも出来ず、その頂にほろ苦い思い出を残し、am7:00ちょうどにダビット氏に促されて下山にかかった。


モン・ブランの山頂での御来光


モン・ブランの山頂


モン・ブランの山頂


   山頂から見たエギーユ・ヴェルト(中央左)とグランド・ジョラス(右端)


山頂から遠望したグラン・パラディゾ(中央奥)


   ダビット氏は“後は自分に任せなさい”と言わんばかりに私からカメラを取り上げると、私に先頭を行くように指示した。 その直後に氏は、登り下りのパーティーで渋滞している頂上直下のナイフリッジで、トレイルから左に一歩下がった切り立った急斜面にピッケルを突き刺して、先行するパーティーを追い越すように指示した。 氏の性格も充分に分かっていたので、特に驚くこともなかったが、今日ばかりは他のパーティーに足並みを揃えて下りたいと願った。 ナイフリッジを過ぎてしばらく下ると、背中に暖かい陽射しを感じるようになった。 突然目の前にピラミッドのような均整のとれた山が見えた。 何と雲海のスクリーンにモン・ブランが影になって映っていたのだ。 氏は早速私のカメラで“影モン・ブラン”の写真を撮ってくれた。

   水色だった空の色は刻々と青くなり、シャモニに来てから一番の快晴の天気になった。 山頂から40分ほどでヴァロの避難小屋まで下りてくると気温も上昇し、ジャケットを脱いだ。 お腹のこともやっと心配する必要がなくなった。 避難小屋の前にはまだこれから登るパーティーの姿が何組も見られたが、時計を見るとまだam8:00前だったので、逆に彼らからは私達が早すぎると思われたかもしれない。 振り返ると爽やかな青空の下、アルプスの女王は白く輝き、登りの時に感じた凄味は全く感じられず、逆に敗北感に打ちひしがれていた私を優しく見送ってくれた。

   避難小屋からはダビット氏が先頭を代わり、再びペースは上がった。 下りはなんとかついていけるが、所々にある登り返しでは、とたんに足取りが重たくなる。 エギーユ・デュ・グーテの手前の最後の稜線漫歩を終えると、往きには全く気が付かなかったが、平らな山頂付近には20張りほどの“テント村”があり、モン・ブランの人気の高さを再認識した。 テント村のすぐ脇を通り、すでに支峰に遮られて見えなくなった山頂方面を振り返り、いつの日かまたチャンスがあれば再訪してみたいという思いを馳せながら、グーテ小屋への雪の階段を下り、am8:50に無事グーテ小屋に戻った。 未明に出発してからちょうど6時間が経っていた。

   絶壁にへばりつくように建っている山小屋の周囲にはテラスがないので、アイゼンを外して靴も脱ぎ、食堂で熱い紅茶を注文して、殆ど食べれなかった行動食を食べた。 周りのテーブルではサミッター達が賑やかに祝杯をあげていたが、疲労困憊していた私は静かに目を閉じて頬杖をつきながら、ため息をついているばかりだった。 妻もさすがに疲れたようで、ぐったりとしている。 ダビット氏は相変わらず山小屋のスタッフ達と仲良く歓談していた。

   「スィー・ユー・アゲイン!」。 ひょうきん氏に別れを告げ、am9:45にグーテ小屋を出発した。 再度アンザイレンして私が先頭になり、急な岩場のトレイルを下る。 昨日の事故のことを肝に命じ、一旦緩んだ気持ちを再び引き締めて一歩一歩確実に下る。 先行しているパーティーが多く、トレイルが渋滞していたため、何組かのペースの遅いパーティーを氏の指示で無理やり追い越したものの、所々で休むことが出来て良かった。 幸いにも今日のグラン・クーロワールは機嫌が良く、落石の音は全く聞こえなかった。

   am11:15にテート・ルース小屋に着いてザイルが解かれ、カメラも解禁されて手元に戻ってきた。 昼食はもちろん看板料理のオムレツだ。 次の下りの登山電車の発車時間がpm1:25ということだったので、ニ・デーグルの駅で氏と待ち合わせることにして、私達は一足早く正午ちょうどに山小屋を出発した。 体調不良のまま、山頂から標高差で1600m以上も下り、体はすでにボロボロだったが、まだ標高差で800mほど下の駅まで下らなければならない。 今日は天気にも助けられ何とか登れたものの、こんな体で再び明日から山に登ることが出来るのだろうか?。 すでに私の頭の中では、明日からのバール・デ・ゼクラン登山に対する不安な気持ちがチラつき始めていた。 30分ほど下った所で後ろからダビット氏が追いつき、あっという間に追い越していったが、私には4日前に雨の中を惨めな思いでトボトボ下ったトレイルを、今日もまた意気揚々と下ることは叶えられなかった。

   最後は小走りで登山電車にぎりぎり飛び乗ると、今日も車内は氷河見物の観光客で混み合っていた。 意外にもダビット氏は車内の僅かなスペースを見つけると、何のためらいもなくどっかりと床に座り込んだ。 さすがに今日は私をずっと引っ張り上げていたので、屈強な氏も疲れたのだろう。 私達もそれを見て、扉の近くに崩れるように座り込んだ。 妻も相当疲れているようだ。 20分ほど頭を垂れたまま目を閉じてベルヴューの駅まで揺られた後、運良く下りのロープウェイにも待ち時間なく乗れ、レ・ズーシュから氏の車に乗り込みpm2:15にホテルに着いた。 シャモニの町にも久しぶりに盛夏の陽射しが降り注いでいた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!」。 氏に2日間のお礼をあらためて言い、20ユーロのチップを手渡した。 明日は予定どおりam7:30にホテルに迎えに来てくれるとのことだった。

   部屋に戻るや着替えもせず、そのままベッドに潜り込んだ。 妻はしばらく休養した後、『グスタビア』に能田さんを訪ね、彼女のヘルメットを届けに行ったようだ。 能田さん達も今朝テート・ルース小屋を発ち、今晩はシャモニで盛大な打ち上げをする予定だろう。 私もその輪の中に乱入しようと密かに企てていたが、明日までに何とか体調を整えて、バール・デ・ゼクランという最後の憧れの頂に立つことだけを願い、心を鬼にしてベッドの中で静養することにした。 その甲斐あってか、夜になると体が少し軽くなってきた。 食欲も出てきたので、『さつき』で夕食を食べ、天気予報を見ることもなく早々に就寝した。


雲海のスクリーンに映るモン・ブラン


中間点のドーム・デュ・グーテを見下ろす


プティト・ボス付近から見た山頂方面


ヴァロの避難小屋


ヴァロの避難小屋から見たプティト・ボス(手前)と山頂(左奥)


コル・デュ・ドームから見た山頂


   グーテ小屋付近から見たエギーユ・デュ・ミディ(中央手前)とエギーユ・ヴェルト(中央奥)


グーテ小屋から見たエギーユ・ド・ビオナセイ


テート・ルース小屋の下の雪渓から見たエギーユ・デュ・グーテ


  【バール・デ・ゼクラン】
   8月31日、am6:30起床。 体調は最悪だった昨日よりはだいぶ良くなり、どうやら風邪の峠は越えたようだ。 しかし好天は最後まで続かず、夜中にまた雨が降ったようで、シャモニの空は灰色だった。 am7:40に迎えに来てくれたダビット氏の車でホテルを出発。 再び小雨がパラつき始めたが、早朝の空いたハイウェイを“特急ダビット号”は150km位の猛スピードで飛ばし、山と同じように前を走る車を次々に追い越してゆく。 しばらくすると周囲にはフレンチアルプスの秀麗な岩峰群が姿を見せ始めたが、2つ目の料金所を過ぎると周囲の山々は穏やかな山容となり、次第に田園地帯へと移っていった。 『グルノーブルまで200km』という標識が目に入った。 りんごやトウモロコシといった畑が点在しているが、農業国のわりには荒れ地が多い。 途中にあるアンシー、シャンベリーという地方都市を経由しながら、グルノーブルのガソリンスタンドで給油と休憩をする。 ブリアンソンという山間の町に向けハイウェイから一般道に入ると、天気は少し回復し雲の合間から陽射しがこぼれてきた。

   一般道に入ってもダビット号は前を走行する車を全て追い越し、80km近いスピードを維持している。 道は川を逆上り、次第に九十九折りの山道になった。 再び秀麗な岩峰群が左右に見えるようになり、間もなく氷河を身に纏った大きな山が見えてきた。 念のため氏に「あれがバール・デ・ゼクランですか?」と訊ねてみたところ、「あれはラ・メイジュ(3983m)という山で、私も一度その北壁を登ったことがあります」と教えてくれた。 その堂々たる山容から見て、恐らくスイスのアイガー(3970m)と同様に4000mには僅かに届かないが、フランスの岳人の間では人気のある山に違いない。 峠越えをするこの道路は、周囲の高い山々の展望に加え、美しい湖などもある景勝地で、土曜日ということもあってか、サイクリングを楽しんでいる人達も多く見られた。

  ブリアンソンを通過してしばらくすると車は幹線道路を外れ、バール・デ・ゼクランの登山口のあるエールフロワドの村への山道に入った。 すでにダビット号はシャモニから400km近くも走っていた。 エールフロワドのドライブインで昼食をとり、九十九折の急坂をしばらく登った後、pm1:00ちょうどに登山口に建つセザンヌ小屋(1874m)の駐車場に着いた。 晴れ時々小雨というはっきりしない天気の中、今日の宿泊地のエクラン小屋(3170m)に向けて出発した。

   10分ほど灌木の中の平坦な小径を歩き、小さな沢を渡ると遮るものがなくなり、幅が1〜2mもある良く整備された登りやすいジグザグのハイキングトレイルとなった。 相変わらずダビット氏のペースは生かさず殺さずだが、エクラン小屋までガイドブックのコースタイムでは5時間となっており、また今日の天気とエクラン小屋までの標高差約1300mを考えると、あまりノンビリとはしていられない。 曇天にもかかわらず、軽装のハイカーや、頂を目指した登山者が何人も下ってくる。 意外にも駐車場から1時間ほど登ったブラン氷河の舌端が間近に迫る所で休憩となった。 残念ながら周囲の山々の頂を霧が隠しているが、晴れていれば素晴らしい景観であるに違いない。

   氷河から流れ出す川に架かる木の橋を渡ると、トレイルは一変して荒々しい岩場のアルペンルートとなった。 ブラン氷河の左岸を高巻くようにつけられたトレイルをしばらく登ると、軍隊の訓練なのか、揃いの迷彩服を着て大きなザックを背負った若者達が20人ほど賑やかに下ってきた。 果して彼らも山頂を踏んできたのだろうか?。 壊れた山小屋の跡を右手に見送り、雪解けで出来た池の脇を通ると間もなく、右手の岩壁の上に中間地点となるグラシエ・ブラン小屋(2524m)が見えた。 石造りの立派な山小屋は、周囲を荒々しい針峰群に囲まれた絶好のロケーションに恵まれ、山小屋のテラスは盛況だった。 意外にも氏はここで20分ほどの長いティータイムをとった。 

   左の足下にブラン氷河を見下ろしながら、赤茶けた岩肌のアルペンルートを登っていくと、天気はまた崩れ始め、グラシエ・ブラン小屋から30分ほど登った所でとうとう雨が降りだし、その直後に雹に変わった。 幸い風がなかったので傘をさして登ることにした。 雹はすぐにまた冷たい雨に変わり、エクラン小屋まで降り続いた。 ダビット氏はよほど雨が嫌いとみえ、私達が遅れていることを承知でどんどん先へ行ってしまった。 しばらく登った先でアルペンルートは終わり、氷河上の踏み跡のトレイルとなった。 その取り付きで氏は私達を待っていたが、最後尾を歩いていた私の姿を確認すると、また一人でさっさと傾斜の殆どない氷河の右端の踏み固められたトレイルを登って行ってしまった。 氏も3回の山行で私達の技量が分かったのだろう。 氏が先に行ってしまったので、今回こそはマイペースで登ることにしたが、雨や霧で閉ざされた視界の中を進んで行くと、“今日もこんな天気では明日のアタックも駄目かな〜”とつい憂鬱な気持ちになり、足取りはさらに重たくなった。 取り付きから約30分、距離にして1.5kmほど氷河の上を歩いた所で右に折れる踏み跡があった。 標識はなかったが、すぐにそれがエクラン小屋への分岐であることが分かった。 氷河から再びアルペンルートへと戻り、標高差で100mほどの急坂を最後の力を振り絞って登る。

   pm5:00、駐車場から約4時間で堅固な石造りのエクラン小屋に着いた。 悔しいことに山小屋に着いた途端、雨がやんで薄日が射してきた。 霧の中にガイドブックの写真で見たバール・デ・ゼクランらしき山の雄姿が微かに見えたが、すぐにまた霧の中に消えてしまった。 この山小屋の独特のルールなのだろうか、荷物は食堂の入口の棚に置き、部屋の中に持ち込んではいけないという。 乾燥室がないので一服する間もなく濡れた衣類を乾かす手だてを探したところ、先客たちが階段の壁に張りめぐらされていた暖房用の細いパイプに、濡れた衣類を工夫を凝らして干していたので、私達もその残った僅かなスペースを借りてズボンやヤッケ、スパッツ、手袋等の衣類を乾かすことにした。

   1時間ほど濡れた物の後始末に追われた後、ようやく食堂で一息つくことが出来た。 私達同様に初めてこの山に登るダビット氏は食堂の片隅の壁に貼ってある山の地図と睨めっこをしていた。 テーブルの上に置かれていた雑記帳に、田村さんや他の日本人の名前を探してみたが、残念ながら日本語の文字を見つけることは出来なかった。 いつものように私達の足跡を雑記帳に残した。 先ほど一瞬だけ陽が射したものの、窓の外は再びモノトーンの世界になってしまった。 明日のアタックのことを考えると心まで曇りがちになってしまうが、“最高峰のモン・ブランを登り、イタリアまで足を延ばしてグラン・パラディゾにも登れたのだから、今回のアルプス山行は大成功だ。 また、バール・デ・ゼクランもB.Cの山小屋まで来れたじゃないか”と気持ちを切り替える。 

   pm7:00の夕食の時間となり、70人ほどの宿泊客で食堂は満席になったが、予想どおり日本人は私達以外にはいなかった。 野菜スープの次に配られたメインディシュは、汁の多いチキンカレーのようなものだったが、お腹の調子が良くなってきたようで、結構美味しく食べられた。 デザートはリンゴかオレンジのいずれかだったが、まず山小屋の若いスタッフが、その果物で“お手玉”の芸を披露して場を盛り上げ、果物が入った籠を片手にお客さんの注文を聞くと、籠の中からリンゴやオレンジを取り出して高く放り投げ、注文したお客さんが上手にキャッチすると、周囲から再び拍手や歓声があがり、外の天気とは反対に食堂は大変楽しい雰囲気に包まれていた。

   夕食が終わると、ダビット氏が「駐車場からここまでどの位かかりましたか?」と意外なことを聞いてきたので、「4時間くらいで登りましたが・・・」と答えた後に、すかさず「ガイドブックでは5時間となっています」と付け加えておいた。 私も何かインスピレーションを感じてか、唐突に「宿泊客の中に誰か知っている人はいますか?」と氏に訊ねてみると、後ろを振り返って「あの背の高い人はスイス人のガイドで、私が知っている唯一の人です」と、指をさしながら教えてくれた。 また明日はam3:00から朝食が始まり、am4:00頃に出発するとのことだった。 pm9:00前に就寝したが、疲れが溜まっていたのか、明日の心配をする間もなくすぐに深い眠りに落ちた。

 

ブラン氷河の舌端


ブラン氷河の左岸につけられたトレイルを登る


石造りの立派なグラシエ・ブラン小屋


グラシエ・ブラン小屋の周囲に聳える荒々しい針峰群


堅固な石造りのエクラン小屋


エクラン小屋から見たブラン氷河


エクラン小屋の食堂


   9月1日am3:00、すでに起床してベッドの上で身支度を整えていたが、軽やかな音色の音楽が寝室に流れると同時に山小屋のスタッフがわざわざ起こしに来てくれた。 窓から外を見ると星が瞬いていた。 “これなら今日は行けるぞ!”と思いながら足取りも軽く食堂に行くと、すでにダビット氏は朝食を食べ始めていた。 前回のモン・ブラン登山の汚名返上にと、まだ自信はなかったが、“今日は調子がいいですよ”と親指を立てて氏にアピールした。 山小屋の宿泊代等の支払いは氏がやってくれたが、フランス山岳会に所属している氏の分が割引になっているため、3人で92ユーロ(邦貨で約11,000円)だった。

   am3:40にアンザイレンしてエクラン小屋を出発。 山小屋の入口での気温はなんと10度もあった。 憧れの山に登れる幸福感と緊張感で胸が一杯だ。 星空だが気温が高いせいか空気が重たく感じる。 このところの不順な天候を考えると、今日は御来光や快晴の天気といった贅沢な願いは叶えられそうもない。 昨日登った山小屋への岩場を100mほど下り、ブラン氷河への取り付きへと降り立つ。 帰路は山小屋には寄らないので、傘や着替え等の荷物を岩の隙間にデポし、am3:55に取り付きを出発した。 ブラン氷河の突き当たりに目指すバール・デ・ゼクランのシルエットがはっきり見えたが、その神々しい頂はまだ遙か遠くに感じた。 氷河上のトレイルは殆ど傾斜がなく、ダビット氏は普通に歩くようなペースでどんどん飛ばす。 前方にはヘッドランプの灯は殆ど見られず、先行しているパーティーは少ないようだ。 コースタイムは4時間なので、たぶん氏はそれよりも早く登ってしまおうと目論んでいるに違いない。 氷河上にはクレバスが多いものの、氏は何故かザイルを伸ばさなかった。 お腹が冷えないようにと、万全を期してアンダータイツを履き、さらに雨具のズボンまで履いてきたが、風が全くないためとても暑く感じる。 歩くペースが速いため、すぐに汗をかき始めてしまった。 途中、妻のヘッドランプの灯が電池の消耗で消えてしまったが、ペースを維持するために月明かりを頼りに電池を交換せずに進んだ。

   am5:00、歩いても歩いても永久に近づかないと思えたバール・デ・ゼクランの純白の北壁もようやく眼前に迫るようになり、1時間ほどのブラン氷河の単調な登高も終わりを告げ、氷河からせり上がっている北壁の急斜面への取り付きでアイゼンを着けるための休憩となった。 ここから見上げたバール・デ・ゼクランの北壁はとても素人が登れるようには思えないほど急峻だった。 念のため征露丸を2錠飲んで10分ほどで出発した。 ストックをピッケルに持ち替え、北壁の左の端から取り付いて急な斜面をジグザグに登り始める。 いよいよバール・デ・ゼクランの懐に飛び込んでいく感じだ。 最悪だった一昨日に比べて体は全く軽く、一歩一歩の登りが楽しく感じられる。 下からはずっと急に見えていた斜面も所々で傾斜を緩め、いつものようにダビット氏のペースもその都度遅くなった。 昨日食堂で見た大柄なスイス人のガイドと男性客1人のマンツーマンのパーティーが、私達の脇を追い越して行った。 30分ほど登ると北壁全体が視界に入らないほど大きくなり、トレイルは右に反転して少しトラバースした後、再び小刻みにジグザグの登りを繰り返していった。 足下のブラン氷河には、後続のパーティーのヘッドランプの灯が点々と見える。 

   しばらく登った所にあった僅かな平らなスペースで5分ほどの短い休憩をした後、再び急斜面となったトレイルをひと登りすると、頭上にある不気味なほど長いベルクシュルント(大きなクレバス)を避けるため、北壁の右端にある支峰のドーム・ド・ネージュ(4015m)とのコルに向けての長いトラバースに入った。 先ほどまでの急峻な斜面からは想像出来ないような、平らなテラスのような所につけられたトレイルは、部分的には緩く下っていて、まるで天国への道のように思えた。 私達もゆっくり歩いていたが、先ほどのスイス隊はさらにゆっくり歩いていたので、再び私達が先行することになった。 足元の雪の色は純白からほんの少しだけピンク色に染まり始めた。 時計を見るとam6:30だった。 間もなく夜は明けるが、運が良いことに今のところ風はなく、天気の急変もなさそうだったので、今日も憧れの頂に立つことが出来るのではないかと思うと、にわかに心は軽くなった。

   15分ほどで幸せな長いトラバースは終わり、左に大きく反転して少し登った所で支峰のドーム・ド・ネージュとの分岐に着いた。 前方にはナイフエッジの稜線が続いているが、意外にも明瞭なトレイルが右手のドーム・ド・ネージュの方に見られ、その頂にはすでに数名の登山者の姿が見えた。 ダビット氏はそちらには目もくれず、トレイルの無いナイフエッジの稜線の先へと進んだ。 いったんコルまで下って少し登り返すと、前方には垂直に近い雪と岩のミックスになっている岩塔がまるで仁王のように立ちはだかり、行く手を塞いでいた。 氏は私達に「ここから先のルートはとても困難で、山頂まで休憩することが出来ないので、ここで充分に準備しなさい」と指示すると、ザイルを長く伸ばして岩塔のルート工作に向かった。

   am6:50、ダビット氏が岩塔への取り付き方を模索している間、思いがけずイタリアの方角からの素晴らしい御来光を拝むことが出来た。 周囲を見渡すと、標高3000m位の所には分厚い雲の絨毯が隙間なく敷かれ、私達のいるエクラン山群の峰々の頂稜部だけが雲の絨毯を突き破って顔を出していた。 遙か北東の方角に唯一悠然と雲海に浮かんでる山のシルエットがはっきりと見えたが、それは紛れもなくモン・ブランの雄姿だった。 全く期待していなかった御来光や、眼前の素晴らしい風景が今までの不運を全て忘れさせてくれた。 行動食を頬張りながら写真を撮り、図らずもとても贅沢な休憩時間となった。 一方、10分が過ぎても未だ氏はルートを見い出すことが出来ずに思案している。 相棒の妻は行く先を心配し、「ここまで来れただけで充分だから、山頂は諦めて下山しましょう」と私に訴えたが、私は頑としてそれを撥ねつけ、「クライマーとしての氏の腕前を見ようじゃないか、こうなったら高見の見物だ!」と言い放って妻の提案を受け流した。 本当は私も妻と同様に眼前の絶景を見て充分に満足していたので、ここから下山することになっても不満はなかった。 その時、どこで休憩していたのか、先ほど追い越したスイス隊が後ろから追いついてきた。

   スイス隊のガイド氏は何回かこの山を経験しているのか、ダビット氏に声を掛け、自分の客を私達の傍らに残すと岩塔の方には行かず、躊躇なく確保もしないまま岩塔の基部を左から回り込み、新雪の脆い切り立った急斜面を絶妙なピッケルさばきとアイゼンワークで斜めに登って行った。 すぐ下には先ほど見たベルクシュルントが大きな口を開けているので滑落は絶対に許されないが、その足の運びはまさに芸術的であり、あらためてアルプスのガイドの技術の高さに感心させられた。 男性客と私達二人が固唾を飲んで見守るなか、ダビット氏もそれに続き急斜面を登り始め、二人のガイド氏により即席のトレイルが作られていった。 スイス隊のガイド氏は20mほど先の僅かに雪の中から露出していた岩の所まで登ると後ろを振り返り、自分の客に向かって登ってくるように指示した。 ダビット氏に続き男性客が二人のガイド氏がいる所まで登ると、今度は私達が登る番となった。 氏に確保されているとは言え、余りの危なさに妻も尻込みし、「もう止めて帰ろうよ」と再度私に迫ったが、私は再び軽く受け流し、登攀ルートも知らないくせに「ここだけクリアー出来ればあとは問題ないと思うよ」とそそのかして嫌がる妻を駆り立てた。 氏らが作ってくれたトレイルを辿るが、60度位ある急な斜度と新雪の脆さに思わず腰が引ける。 帰り(下り)はどうするのかと、先のことまで心配せずにはいられなかった。 冷や汗をかきながら氏のいる所まで登ると、雪で覆われていた岩の基部に確保用の小さな支点が一つ設けられていた。 通常ここには雪がつかないところなのだろうが、昨日降った雪がトレイルをすっかり消してしまったようだった。

   山頂までは標高差であと100mほどだ。 ナイフエッジの雪稜の左側の新雪の急斜面に先行しているスイス隊がトレイルをつけ、私達もそれに追従して登る。 所々でミックスの岩場に取り付くが、こちらも手掛かりが少なく非常に登りにくい。 岩に付いている雪を手で払って手掛かりを作る。 先日のロッククライミングの経験が少しは役立ちそうな気がする。 1ピッチずつ氏が先行して確保するまでの間が、ささやかな休憩時間となった。 高度感溢れるナイフエッジの雪稜に爽やかな朝日が正面から当たり始め、また不思議と風は全く感じられなかった。 指呼の間に見える頂は雲海に“影ゼクラン”となってそのシルエットを投影し、いたる所で虹ともブロッケンとも言えない不思議な7色の模様が雲海に描かれている。 こんな自然と偶然が創り出したこの世のものとは思えない芸術的な風景は、二度と見ることは出来ないだろう。 妻と二人で眼前の絶景に心を奪われ、最後に素晴らしいプレゼントを私達に用意してくれたアルプスの山の神に感謝した。

   アルプスの山らしい刺激的な登攀を何ピッチか繰り返し、ようやく憧れの頂が目線の高さになってきた。 足下を見ると次々とガイドレスのパーティーが登ってくるが、皆一様に支峰のドーム・ド・ネージュに登ってこちらを眺めているのが良く分かる。 意外にも山頂直前では稜線漫歩となり、すでに山頂に到達しているスイス隊の二人の姿と十字架が見えてくると、不意に目頭が熱くなってきた。 最後の一歩まで足元に集中し、am8:10に万感の思いを込めてアルプスでの10座目の頂となるバール・デ・ゼクランの頂を踏んだ。 「お疲れさま〜!、やったね〜!、おめでとう!」。 私のわがままに最後まで付き合ってくれた妻を後ろから抱擁し、労いの言葉をかけた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!、ありがとうございました!」。 ダビット氏と両手で力強く握手を交わし、猫の額ほどの狭い山頂に一番乗りした“恩人”のスイス隊のガイド氏と男性客の二人とも相次いで握手を交わした。 エクラン小屋からは4時間30分の登攀だったが、ここに辿り着くまでの道のりの長さを思うと、感激はひとしおだった。 爽やかな快晴の絶頂からの視界は360度に拡がったが、見渡す限りの雲海で下界は全く見えず、周囲を取り巻く尖峰群だけが自己の存在を誇示するかのように雲海を突き破り、天に向けてその矛先を突き立てている。 筆舌に尽くし難いほどの素晴らしい景観に、ただ圧倒されるばかりだった。 仏語で“宝石箱の閂(かんぬき)”を意味するユニークな山名の由来も分かるような気がした。 氏に二人の記念写真を撮ってもらい、急いで周囲の絶景をカメラに収めた。 氏に促されるまでもなく、下山のことを考えるとこの頂に長居は出来ないことは素人の私にも分かっていたので、心の準備はすでに出来ていた。 私達と入れ替わりに下山していったスイス隊のガイド氏もよほど慌てていたのだろう、ピッケルを山頂に忘れていったので、ダビット氏が稜線を走って恩人の元に届けた。 氏の合図と共に、私達も僅か5分ほどで思い出深い頂を後にして下山にかかった。


イタリアの方角からの素晴らしい御来光


山頂手前の岩塔の基部からスイス隊が先行する


支峰のドーム・ド・ネージュへ登るガイドレスのパーティー


山頂直下の刺激的な登攀(下山時の撮影)


バール・デ・ゼクランの山頂


山頂から見たラ・メイジュ(中央奥)


山頂から見たエールフロワド


雲海に浮かぶバール・デ・ゼクランの周囲を取り巻く尖峰群


辿ってきたブラン氷河


   僅かの間だったが、さんさんと降り注ぐ陽光に暖められた新雪はさらに脆くなり、予想どおりナイフエッジの雪稜の下降は困難さを極めた。 3ピッチ目からは私が先頭になり、ダビット氏に後方で確保されながら下る。 微かに露出した岩を手で掴みながら、足場を一歩一歩確かめ、後ろに続く妻のために足場を踏み固めながら下るため時間がかかる。 万が一私が滑落しても氏は止められるだろうが、精神的ショックと下から這い上がってくる余力がないことは目に見えているので、この上なく慎重に下った。 意外にも途中で3組のパーティーが登ってきたが、いずれもガイド氏とのマンツーマンだった。 最後のパーティーとすれ違ってからは、もう支峰のドーム・ド・ネージュの山頂には誰もいなくなっていた。

   登りと同様に山頂から1時間以上を要して、先ほどの確保支点の所に着いた。 予想どおりここからはコルに下らず(下れず)、懸垂下降で先の見えないオーバーハングとなっている急斜面を下ることになった。 ダビット氏は「ザイルを両手で掴んだまま、決して離さないように下りなさい」とだけ私に指示した。 懸垂下降は私の得意科目だったが、行く先の分からない恐怖と、すでに使い切っていた腕力に自信が持てなかったので、思わず口から「ノー」という言葉が出てしまった。 すかさず氏が「アーレー(早く行け)!」とハッパをかけてくる。 時間がないのだ。 私もここで悩めば悩むほど恐怖が倍増してくると思い、心の中で「バカ野郎!」と叫び、脇を締めて必死にロープにしがみつきながら垂直に近い急斜面を下っていった。 ATC(確保器)を使わない、いわゆるロアーダウンのため、自分で制動を調整することは出来ない。 10mほど下った先のオーバーハングしている雪庇の縁から、ヤケクソ気味に空中に飛んだ。 体重が一気にザイルにかかり、勢い良く崖の下に落ちて宙吊りとなった。 頭上に雪煙が舞い、氷の破片がパラパラと背中を通過して行く。 振られた勢いで目の前の岩に右肘をおもいっきりぶつけたが、氏に言われたとおり絶対にザイルだけは離さないようにした。 落下の衝撃でメガネが落ちなかったことが幸いだった。 気を取り直して下を見ると、何と5mほど下にはベルクシュルント(大きなクレバス)が大きな口を開いて私の体を飲み込もうとしていた。 先行したスイス隊のものと思れる踏み跡がクレバスの縁から雪面に印されているのが見えた。 すでに視界から消えた氏にはこの状況が分かっているのだろうか?。 宙吊りになっている体を上手く振りながら、何が何でも雪面の縁に着地しなければならないと思い、ザイルに少しだけ体重を預けた瞬間、ザイルはいきなりスーッと伸びてあっという間に雪面の縁を通過し、そのままクレバスの中に突入してしまった。 外の明るさや暖かさとは無縁に、クレバスの中は真っ暗で恐ろしいほど寒かった。 ダビット氏がこの状況を分からず、更にクレバスの奥に入り込んではたまらないので、大声で「UP!、UP!」と狂ったように何度も叫んだが、上からの応答は無かった。 氏がザイルを引き上げることは出来ないので、ザイルを掴んで無我夢中で上へ攀じ登り、崩れそうな雪面の縁にしがみついて必死に這い上がり、10mほど四つん這いになって進んだ所でようやく恐怖から解放され、そのまま座り込んでしまった。 一服する間もなく、上からダビット氏が「(早く)ザイルを解きなさい!」と叫ぶ。 火事場の馬鹿力を出し切ったばかりなので、手先がもつれてなかなか解くことが出来ない。 氏がザイルを回収すると今度は妻の番となったが、妻も私同様下りることをためらっている。 「大丈夫だから、頑張って!」と妻に向かってエールを送ったが、クレバスには近づけないので、固唾を飲んでただ見守るしかなかった。 妻もやはりオーバーハングの下降で相当な衝撃を受けたようで、「キャ〜!」という叫び声と共に、妻の身代わりに愛用の高所帽がクレバスに吸い込まれていった。 そして妻も私同様にクレバスの中に落とされたが、幸いにも雪面に手が届く所だったので、何とか自力で這い出すことが出来た。 短い時間だったが、素人の私達にとって決して忘れることの出来ない恐怖の体験だった。 その後氏がどのようにして下りて来たのかを見守る余裕もなく、自分達の無事を妻と喜び合った。

   しばらくしてダビット氏が何事もなかったように私達の所に現れ、再びアンザイレンした後、氏を先頭に緩斜面をゆっくりと下り始めた。 氏は長いトラバースの途中でトレイルを外すと、再び私に先頭に行くように指示した。 氏の指示に従って足下のブラン氷河に向かって新雪の急斜面を膝までもぐりながらどんどん下り、40分ほどで平らなブラン氷河の源頭部に降り立った。 後ろを振り返り、バール・デ・ゼクランの純白の北壁とそこに描かれたベルクシュルントの姿を写真に収めたが、あの巨大なクレバスの中に落ちたことが未だに信じられず、素人がよくこんな凄い山の頂を踏めたものだと我ながら感心した。 強烈な陽射しにより氷河上の雪が腐って歩きにくいが、もうこれから先は何の心配も要らないので、今日の登頂の成功と今回の山行の余韻に浸りながら至福の時を過ごす。 トレイルの脇には所々に山頂を踏ま(め)なかった登山者達が日向ぼっこをして山を眺めていたが、その前を通る毎に何か誇らしい気持ちで一杯だった。

   am11:00、エクラン小屋への分岐に着くと、すでにバール・デ・ゼクランの頂は白い雲のベールに隠されて見えなくなっていた。 ザイルが解かれ、アイゼンを外す。 デポした荷物を回収して15分後に出発した。 水筒の水も無くなり、足元の雪を摘んで口に入れる。 ブラン氷河をさらに下ると空模様は急に怪しくなり、その後太陽を拝むことはなかった。 1時間後に到着したグラシエ・ブラン小屋で注文したコーラを一気に飲み干した。

   駐車場のあるセザンヌ小屋まではダビット氏と別行動とし、今回のアルプス山行の思い出に浸りながらハイキングトレイルをゆっくり下った。 昨日ここを登っていた時は登頂は半信半疑だったので、今日の結果は本当に出来過ぎだった。 そして度重なる登山の延期や中止で頂を踏めない日々が続く中、結果的には目標にしていた4座のうち3座に登れたことで、大名山行の興行主の私の心も救われた。 pm1:50に登山口のセザンヌ小屋に着き、今回のアルプス山行の全てが終わった。

   九十九折りの山道を30分ほど特急ダビット号に揺られた後、麓の町のレストランでささやかな打ち上げを行い、地元産のワインで祝杯をあげた。 レストランに着いたとたんに雨が降り出したが、恐らく今日の特異な気象状況から推して、麓の町では一日中陽が射さなかったのではないだろうか。 pm3:00過ぎにダビット号はシャモニに向けて出発した。 氏には申し訳なかったが、後部座席の妻はもちろんのこと、助手席の私も疲れと満足感から何度となくウトウトと眠ってしまった。 一時は雨も本降りとなったが、ダビット号はひるむことなくノンストップで激走し、まだ明るさの残るシャモニにpm6:45に着いた。

   その足で今回の山行の精算をするためスネルスポーツに行ったが、神田さんは不在だったのでダビット氏にホテルに送ってもらう。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、メルスィー・ボクー!、スィー・ユー・アゲイン!」。 山のガイドのみならず、山に登れない日にもクライミングの手ほどきをしてくれたり、長距離の運転も快く引き受けてくれたダビット氏にあらためて感謝の気持ちを伝えて50ユーロのチップを手渡した。 ホテルの前で別れを惜しみながら再会を誓って力強く握手を交わし合ったが、過去に2週間も連続してガイドを依頼した変な客(特に東洋人)はいないだろうから、氏も私達のことを決して忘れることはないだろう。 妥協を許さない厳しいガイドだったが、あらためて私にアルプスの山の様々な楽しみ方を教えてくれたような気がした。 また、数少ない好天を見事に拾い当て、山頂に導いてくれた氏の眼力には敬意を表さずにはいられなかった。

   ホテルから神田さんに電話を入れると、今日は家の用事で忙しくまだ請求書が出来ていないので、明朝私達が出発する前にホテルを訪ねてくれるとのことだった。 帰りの荷物を少しでも軽くするため、最後の晩餐は持参した食料の余りを自炊したが、憧れの山々に登れたことで心は充分に満たされていた。 明日は出発が早いのでフロントでチェックアウトを済ませ、土産物で膨らんだ荷物の整理をしていると、もう日付が変わりそうな時刻になっていた。


先行して下るスイス隊のパーティー


稜線から見た支峰のドーム・ド・ネージュ


ブラン氷河の源頭部に向けて下る


   ブラン氷河の源頭部から見たバール・デ・ゼクランとドーム・ド・ネージュ(右)


ブラン氷河から見たバール・デ・ゼクラン


氷河の後退により崖の上に取り残されたエクラン小屋


   9月2日、また夜中に雨が降ったようで、今日も天気は悪そうだ。 am6:30に神田さんが多忙な時間を割いてホテルに来てくれ、ラウンジで今回の山行の精算を行った。 ガイド料は当初の取り決めどおり2,409ユーロ(邦貨で約289,000円)、内訳はグラン・パラディゾ463ユーロ(邦貨で約55,500円)、モン・ブラン1,240ユーロ(邦貨で約148,800円/2回分)、バール・デ・ゼクラン706ユーロ(邦貨で約84,700円)、ガイド拘束料920ユーロ(邦貨で約110,000円/4日分)、交通費430ユーロ(邦貨で約51,600円)、ホテル宿泊代1,290ユーロ(邦貨で約154,800円/15泊分)、山小屋宿泊代300ユーロ(邦貨で約36,000円/グーテ小屋3人の2泊分)の合計で5,349ユーロ(邦貨で約641,800円)だった。 今回のアルプス山行の全般を取り仕切ってくれたのみならず、素人の私達にいろいろなアドバイスや指導をしてくれた神田さんにあらためて感謝の気持ちを伝え、100ユーロのチップを手渡した。

   出発までの短い間、ホテルで神田さんと朝食を共にした後、車でシャモニ・モン・ブランの駅まで送っていただき、殆ど乗客のいないam7:41発の始発の登山電車に乗って帰国の途についた。 良い天気で迎えられた2週間前とは反対に天気は悪く、最後に車窓からフレンチアルプスの山々の雄姿を見ることは叶えられなかったが、神田さんご夫妻やダビット氏を始めとする多くの方々に支えられながら、運良く憧れの山々の頂に立つことが出来たことで心は晴々としていた。 爽やかな快晴の天気に恵まれたグラン・パラディゾの頂、2回目のアタックでようやく辿り着けたモン・ブランの頂、そして思わぬ絶景に遭遇したバール・デ・ゼクランの頂、それぞれの頂に忘れることの出来ない感動の足跡を残し、またシャモニでお会いした貫田さん、能田さんご夫妻、田中さん、澤田さんご夫妻、田村さんご夫妻、鈴木さん、そして『さつき』の女将さんとの思い出を心に刻み、今回のアルプス弥次喜多山行も終わろうとしている。 次にこの地を訪れる時は、憧れのグランド・ジョラスやエギーユ・ヴェルトの登山にチャレンジしたり、ツール・ド・モン・ブラン(モン・ブラン山群一周のハイキング)をやってみようと心に誓った。 登山電車は国境の峠を越えてスイスに入った。 憧れはますます募るばかりだ。


山 日 記    ・    T O P