クーンブ山群 U

 【アマ・ダブラム再訪】
   退職後初めての海外登山は、5年前に未曾有の大雪のため登ることが叶わなかったネパールの名峰アマ・ダブラム(ネパール語で“母の首飾り”6856m)となった。 エベレストを始めとする8000m峰に登れても、星の数ほどあるネパールの山の中でも抜きん出て印象的な山容のアマ・ダブラムに登らなければ、ネパールの山を登ったことにならないと思うのは私だけではないだろう。 今回は半年後に予定しているエベレストのガイドを依頼した倉岡裕之さんに、同峰の登山ツアーの企画を1年前からお願いした。 倉岡さんとは2003年のアコンカグアのB.Cで初めてお会いし、2年前のチョ・オユーでは同じエージェントの登山隊として行動を共にした。 エベレストの登頂回数は日本人最多の9回、セブンサミッツの唯一のガイドとしての実力を買われ、昨今ではTV番組の『イッテQ』にも出演している。 同じ大学の1期下だ。

   計画は順調に進行し、少し費用は嵩むが時間的にも安全面からも不安定なカトマンドゥからルクラへの飛行機でのフライトに替えてナムチェまでヘリで往復することになっていたが、参加する予定だった他のメンバーのキャンセルが相次ぎ、最終的な参加者が私だけという事態になってしまった。 ツアー代金の20,000ドルにさらに上乗せしないと催行されないと思ったが、ヘリでのフライトをやめるということで催行されることになった。 感動を共有する仲間がいなくて残念だったが、倉岡さんからはマンツーマンになれば確実に登頂率はアップすると言われ、それもまたメリットがありユニークで良いかなと思った。 倉岡さんと登頂のタクティクスについて事前に入念に協議を行い、今回の最終キャンプ地として予定しているC.2.7(C.2とC.3の間で6200m)で睡眠酸素を吸うため、酸素ボンベ1本をエキストラでオーダーした。 酸素ボンベは1本500ドル、マスクとレギュレターの使用料は300ドル、C.2.7への酸素ボンベの運搬費は1,400ドルだった。

   エアーチケットは催行が決った8月中旬に購入したが、インドのデリー経由のジェットエアウェイズのチケットを諸費用込みの112,000円で買うことが出来た。 預託荷物は30キロまで無料ということで、B.CとH.Cで使う寝袋を2個持っていくことにした。 倉岡さんとはカトマンドゥで宿泊するホテルで落ち合うことになり、カトマンドゥの空港には現地のエージェントのヒマラヤン・ビジョンの社長のスバシが迎えにきてくれることになった。


エベレスト街道から見たアマ・ダブラム(2013年10月撮影)


エベレスト街道から見たアマ・ダブラム(2018年10月撮影)


   2018年10月15日、成田空港を夜6時に発つジェットエアウェイズのデリー行きの便に乗る。 機材はANAとの共同運航便だ。 平日の月曜日ということで、機内は半分以上が空席だった。 初めて降り立ったデリーのインディラ・ガンディー空港までの所要時間は9時間、時差は3時間半だった。 国際空港としてはロビーの施設は簡素だったが、リクライニングチェアが沢山あったので長いトランジットの間に体を休めることが出来た。 デリーを朝の7時に発つカトマンドゥ行の便は、小型機ということもあってか超満員だった。 デリーからカトマンドゥまでの所要時間は2時間足らずと近かったが、小型機ならではの騒音と振動で疲れた。 機上からは白いヒマラヤの山々が遠望された。


デリーのインディラ・ガンディー国際空港


   10月16日、9時前に少し垢抜けたカトマンドゥのトリブヴァン空港に着く。 30日間滞在の観光ビザの申請を機械で行い、専用の窓口で40ドルの料金を支払う。 すぐ隣の両替所で100ドルのみルピーに替えると、意外にも全て新券だった。 相変らず入国審査には時間が掛かり、結局トータルで1時間以上待たされた。 ダサインというネパールの秋祭りの期間で、空港の待合室は多くの人でごった返していて、迎えにきてくれたエージェントの『ヒマラヤン・ビジョン』の社長のスバシと落ち合うまでに30分ほど掛かった。 スバシは予想よりも若く、歓迎の意味を込めてダリアの首飾りをかけてくれた。 エージェントの車で宿泊するホテル『シャングリラ』へ向かう。 歴史と伝統を感じさせる落ち着いた雰囲気の大きなホテルでバスタブもあった。

   シャワーを浴び少し昼寝をしてから近所を散策したが、スーパーが近くに無かったので、持参した菓子パンで昼食を済ませた。 街中は震災の爪跡は全く感じられず、道路も拡幅されて綺麗になっていた。 夕方倉岡さんがホテルに着き、夕食は倉岡さんの案内でスバシと共に地元では有名なオーガニックのレストランでステーキを食べた。 偶然にも同じ店にアマ・ダブラムを目指す他隊とそのサーダーのペンバ・ギャルツェン(2年前のチョ・オユーの時のサーダー)が来店し、嬉しい再会となった。 スバシから私達に同行するシェルパはウォンチューとラクパ・ゲルだという説明があった。


カトマンドゥのトリブヴァン空港で30日間滞在の観光ビザの申請を機械で行う


エージェントの『ヒマラヤン・ビジョン』の社長のスバシ


カトマンドゥはダサインというネパールの秋祭りの期間だった


カトマンドゥで宿泊したホテル『シャングリラ』


ホテルの室内


ホテルの中庭


ガイドの倉岡さん


地元では有名なオーガニックのレストラン


夕食のステーキ


デザートのアイスクリーム


   10月17日、ルクラへのフライトの順番待ちがあるため4時半に起床。 5時にロビーに迎えにきたスバシと共にエージェントの車で空港に向かう。 星が見えていたので良い天気だ。 空港にはシェルパのラクパ・ゲルが待っていた。 意外にも空港のロビーは予想よりも空いていた。 今日は30便ほどルクラへ飛ぶらしい。 聡明なスバシの手腕で最近ルクラへの路線に参入したというロイヤルネパール航空の1番機に乗れることになったが、ルクラの天気が悪いとのことで出発する気配はなく、前回以上に長く待たされてしまった。 ホテルが用意した朝食のランチボックスを食べ、コーヒーを2回飲みながら出発のアナウンスを待つ。 ロビーには私と同じように5年ぶりにアマ・ダブラムを目指す石川直樹さんがいて挨拶を交わした。 11時になってようやく出発出来ることになったが、石川さん達は2番機だったのでヘリで飛ぶことに変更したとのことだった。

   正午近くになってようやく同じエージェントを使っているアメリカ隊と共にツインオッター機に乗り込む。 副操縦士は女性で、ロイヤルネパール航空らしく客室乗務員がいた。 少し待たされたが一回で飛べたことを喜び、車窓から雲海越しのガウリシャンカールやメルンツェの展望を楽しんでいたが、ルクラの手前から周囲の雲が厚くなり、倉岡さんからルクラの空港に降りられないのではないかという話しがあった。 その直後に飛行機はゆっくりと旋回し、少し高度を下げて雲の下から着陸するのかと思ったが、意外にも機長から視界不良のためカトマンドゥの空港に引き返す旨のアナウンスがあった。 思わぬ事態に唖然としたが、有視界飛行のため無理して突っ込むと大事故につながるので、機長の判断を称賛することで気持ちの整理もついた。 

   空港からエージェントの車でホテルに戻る。 エージェントとの契約上、明日のフライトの追加料金は発生しないとのことで良かった。 夕食はホテルの近くの倉岡さんの行きつけのワインバーに行き、ハンバーガーなどを食べた。 店の近くの両替屋でドルをルピーに替える。 100ドルで12,300ルピーだった。


スバシと共にエージェントの車で空港に向かう


空港のロビーは予想よりも空いていた


シェルパのラクパ・ゲル


5年ぶりにアマ・ダブラムを目指す石川直樹さん


石川直樹さんの隊のサーダーのペンバ・ギャルツェン


ロイヤルネパール航空のツインオッター機


同じエージェントを使っているアメリカ隊


飛行機の車窓から見たカトマンドゥの市街


飛行機の車窓から見たガウリシャンカール(左)とメルンツェ(右)


視界不良のためカトマンドゥの空港に引き返した


倉岡さんの行きつけのワインバー


夕食のハンバーガー


 【ルクラからB.Cへ】
   10月18日、昨日より少し遅く6時過ぎにロビーに迎えにきたスバシと共にエージェントの車で空港に向かう。 昨日ルクラに入れなかった人達が多いので心配だったが、今日も空港のロビーは予想よりも空いていた。 2番機なので9時台のフライトとなると言われたのでコーヒーを飲んで寛いでいると、ネパール航空のスタッフから予定よりも早く出発することになったと伝えられ慌ただしくロビーを出る。 搭乗するツインオッターは昨日とは違う旧式の機体で少し嫌な感じがしたが、こればかりはどうしようもない。 同乗するアメリカ隊に左側の山々が見える席を譲り、右側の最前列に座る。 カトマンドゥの空港を飛び立つと、昨日よりも明らかに雲が少なかったので、ルクラに行けることを確信した。 40分のフライトで無事ルクラの空港に降り立つと、機内では歓声が上がり拍手喝采となった。 前回と同じように空港は迎えを待つポーターやシェルパ達で鈴なりで、マナスル登山の時にAG隊にいたシェルパのダ・デンディの姿もあった。

 

エージェントの車で空港に向かう


国内線の搭乗カウンター


搭乗するツインオッターは昨日とは違う旧式の機体だった


飛行機の車窓から見たヒマラヤの山々


ルクラの空港


ルクラの村


シェルパのダ・デンディと再会する


   前回泊まったナマステロッジでアメリカ隊とティータイムを楽しんだ後、いよいよエベレスト街道を歩き始める。 同行するシェルパのゲルはアメリカ隊の荷物のトラブルでルクラを発てず、倉岡さんと二人で先行することになった。 予想よりも肌寒く歩くにはちょうど良い。 今日は基本的に下り基調なので楽チンだ。 歩きながら5年前の記憶が徐々に蘇ってくる。 エベレスト街道もカトマンドゥの市街と同じように震災の爪跡は全く見られず、新しく建てられたロッジが随所に見られ、道の状態も以前より良くなっていた。 街道を歩くトレッカーの数は明らかに前回よりも多い。 昼食はパグディンのロッジでダルバートを食べた。 間もなくゲルが追い付いてきた。 ルクラでは晴れていたがその後は終始曇がちで、周囲の山々は殆ど見えなかった。 パグディンの先に新しいベーカリーがあったのでコーヒーブレイクとした。 

   エージェントとの契約上、宿泊するロッジや食事のメニューは私達が決めて良いので、今日は倉岡さんの提案でパグディンとナムチェの間では比較的静かなベンカールのロッジに泊まることになった。 ここからはタムセルクの眺めが良いらしい。 予想どおりロッジは空いていたので二人部屋を一人で使えた。 昔ながらのロッジだが、部屋の床にはウレタンマットが張られていてベッドの布団も新しかった。 宿泊者は私達の他はインド人の親子だけだった。 夕食の揚げ餃子(フライド・モモ)は美味しかった。 ベンカールの標高は2630mとまだ低いので頭痛とかは全くなかった。


ルクラからベンカールへ


ナマステロッジでアメリカ隊とティータイムを楽しむ


エベレスト街道を歩き始める


街道を歩くトレッカーの数は前回よりも明らかに多かった


昼食のダルバート


新しく建てられたロッジが随所に見られた


パグディンの集落


新しいベーカリーでコーヒーブレイクとした


ベンカールで宿泊したロッジ


ロッジの部屋


ロッジの厨房


夕食の揚げ餃子(フライド・モモ)


   10月19日、昨夜は熟睡出来たので体調はとても良い。 6時前に起床すると部屋の窓からタムセルクが良く見えた。 今日は乾期らしい良い天気になりそうだ。 朝食を食べていると、先にネパールに入られていた知人の稲村さんがアマ・ダブラムに登頂したという吉報が同行しているガイドの中島健郎さんから入った。 数日後にはどこかでお二人とすれ違うことになるだろう。

   8時にゲルと共に今日の宿泊地のナムチェ(3440m)に向けて出発。 まだ陽の当たらない谷筋の道は手袋をするほど寒かった。 前方にホーリー・マウンテン(聖なる山)のクーンビラが見え始め、新たに設置されたチェックポストを過ぎると、1時間ほどで前回泊まったモンジョ(2840m)に着いた。 モンジョを過ぎると街道を歩く人が多くなり、二つ目のチェックポストを過ぎた所で早くもコーヒーブレイクとした。 雨に苛まれた前回と比べ、今回は本当に優雅なトレッキングだ。


ベンカールからナムチェへ


ロッジから見たタムセルク


ゲルと共にナムチェに向けて出発する


ホーリー・マウンテン(聖なる山)のクーンビラ


新たに設置されたチェックポスト


前回泊まったモンジョのロッジ


私達の荷物を運ぶポーター


二つ目のチェックポスト


   ドゥードゥ・コシ(川)の河原に下り、新旧二段の大吊橋が見えてくると、いよいよナムチェへの長い登りに入る。 大吊橋からは不意にタウツェが大きく望まれた。 大吊橋を渡って尾根筋の急坂をジグザグに登っていくと、エベレスト街道から初めてエベレストが見える『ファースト・ビュー・ポイント・オブ・マウント・エベレスト』という名称の広場の樹間から、雪煙が舞うエベレストの山頂が見えた。 大勢のトレッカー達で賑わう広場で一息入れ、展望のない地味な樹林帯の坂道を登り続けて峠のチェックポストに着く。 ここからナムチェはもう目と鼻の先だ。 間もなく視界が開け、予定よりも少し早く正午過ぎにナムチェの町に着いた。 予想どおりナムチェもここまでの他の集落と同じように小奇麗になっていた。


ドゥードゥ・コシ(川)の河原から見た新旧二段の大吊橋


ドゥード・コシ(川)に架かる大吊橋


大吊橋からはタウツェが見えた


大吊橋を渡ってからは尾根筋の急坂をジグザグに登る


『ファースト・ビュー・ポイント・オブ・マウント・エベレスト』という名称の広場


広場から見た雪煙が舞うエベレストの山頂


峠のチェックポスト


ナムチェの町の入口


ナムチェの町


   今日と明日はエージェントが契約しているロッジに泊まことになったが、ロッジの部屋にはシャワーと水洗トイレがあって驚いた。 今日も空きがあったので二人部屋を一人で使えた。 昼食はラム肉のステーキを食べたが、肉は柔らかくとても美味しかった。 昼食後にシャワーを浴びると瞬時に熱いお湯が潤沢に出て、カトマンドゥのホテルよりも快適だった。 明日も順応のため同じロッジ連泊するが、ここで根が生えてしまいそうだ。 この高度では食事も美味しく食べられるのが嬉しい。


ロッジの食堂


ロッジの部屋


シャワーと水洗トイレ


昼食のラム肉のステーキ


夕食のカルボナーラ


   10月20日、夜中はトイレに起きた時に軽い頭痛がしただけで殆ど熟睡出来た。 起床前に初めてSPO2を測ると85%で、ほぼ予想どおりだった。 室温は10℃だったので外の気温は零度近いだろう。 天気は昨日の朝と同じように快晴で、窓からコンデ・リとヌプラが良く見えた。 体調も良かったので、朝食前にタムセルクの写真を撮りに出掛けた。 

   ロッジでの朝食は前日の夕食後にオーダーするのがこちらの流儀で、今朝はフレンチトーストとオムレツにした。 食後のカフェオレは専用のマシンによるものだった。 午前中は町の散策を行い、倉岡さんの馴染みの登山用品店でブランド品のフリースとダウンベストをディスカウントしてもらって買った。 雑貨屋などの店は前回とあまり変わっていないように思えたが、物価は明らかに上がっている感じがした。 昼食はフライドライスにしたが、お米が予想以上に美味しかった。


ナムチェのロッジから見たコンデ・リ(右)とヌプラ(左)


ナムチェの町から見たタムセルク


朝食後のカフェオレ


倉岡さんの馴染みの登山用品店


雑貨屋


宿泊したロッジ


昼食のフライドライス


   午後も少しだけ町の散策をしたが、さすがにまだ順応途上なので急な階段を上ると息が切れる。 前回行った洒落たベーカリーでアップルスチュードルを食べるつもりだったが、毎食美味しいものをお腹一杯食べてしまうので、明日の行動食としてテイクアウトした。 今日も温かいシャワーを浴び、まだカトマンドゥにいるような感じだ。 夕食前のSPO2は88、脈拍は66だった。


ナムチェの町の散策をする


絵画を売る店


洒落たベーカリー


アップルスチュードルを明日の行動食としてテイクアウトする


夕食のフライドチキン


夕食後に明日の朝食をオーダーする


ナムチェの夜景


   10月21日、今日も朝から快晴の良い天気となり放射冷却で寒い。 昨夜は頭痛もなく、夜中にトイレに起きた時に僅かに違和感がある程度だった。 起床前のSPO2は86、脈拍は55、起床後は89と60だった。 

   7時に朝食を食べ8時に出発。 今日はタンボチェとパンボチェの間にあるデボチェという比較的静かな村まで行く予定だ。 稲村さん達の隊はシェルパが凍傷を負ったため、ヘリでB.Cからカトマンドゥに下りてしまったとのこと。 他のトレッカー達とほぼ同じ時間に出発したため、前後にはトレッカーの長い列が出来ている。 これならネパールの復興もどんどん進むはずだ。 タムセルクを右手に仰ぎ見て緩やかな登り下りを繰り返しながら展望の良いトレイルを歩いていくと、30分ほどで憧れのアマ・ダブラムが見え始めた。 大雪の後だった5年前と比べて明らかに雪が少なく黒々としている。 少しずつ近づいてくるアマ・ダブラムの雄姿に興奮しつつ写真を撮りながら歩いていったが、新しいカメラに不慣れのため測光方式の選択を誤ってしまい、写真が殆どピンボケ状態になっていたことが帰国後に分かった。 間もなくタウツェやローツェも見え始め足取りは益々軽くなる。 タウツェもクーンビラと同じように今シーズンからホーリー・マウンテン(聖なる山)として登山が禁止になったとのこと。 そのクーンビラを頭上に仰ぐキャンギュマで早くも1回目のコーヒーブレイクとした。


ナムチェからデボチェへ


朝食のフレンチトースト


コンデ・リとナムチェの町


トレッカーの長い列


ナムチェから30分ほど歩いたところで憧れのアマ・ダブラムが見え始めた


ホーリー・マウンテン(聖なる山)として登山が禁止になったタウツェ


キャンギュマから見たアマ・ダブラム


   キャンギュマから中間点のプンキ・タンガまでは標高差300mほどの一気の下りだ。 キャンギュマから先でクムジュンやゴーキョに行くルートが分岐するが、トレッカーの殆どは私達と同じようにタンボチェ方面へのエベレスト街道を進んだ。 プンキ・タンガにも新しいチェックポストがあった。 プンキ・タンガからタンボチェまでは標高差600mほどの登りとなるため、迷わず2回目のコーヒーブレイクとした。

   タンボチェへの登りは予想よりも緩やかで登り易く、直前の休憩が功を奏したのか、途中何箇所かあった休憩ポイントで休むことなく、1時間半ほどで一気に登り切ってしまった。 高原台地のようなタンボチェには大きなゴンパ(寺院)が建っていた。 今年は乾期に入るのが遅いようで、アマ・ダブラムには雲が湧き始め、エベレストは見えなかった。 タンボチェで昼食にダルバートを食べ、シャクナゲのトンネルを下って30分ほどで今日の宿泊地のデボチェ(3820m)に着いた。

 

キャンギュマから中間点のプンキ・タンガまでは標高差300mほどを一気に下る


プンキ・タンガにも新しいチェックポストがあった


プンキ・タンガで2回目のコーヒーブレイクとした


ナムチェで買ったアップルスチュードル


プンキ・タンガからタンボチェへの登りは予想よりも緩やかで登り易かった


タンボチェには大きなゴンパ(寺院)が建っていた


タンボチェから見たアマ・ダブラム(右)とローツェ(左)


昼食のダルバート


タンボチェからシャクナゲのトンネルを下ってデボチェへ


   デボチェはこぢんまりとした小さな集落だが、意外にも新しい大きなロッジが次々と建設中で、図らずも私達もまだ正式にオープンする前の真新しいロッジに泊まることになった。 ロッジの部屋には絨毯が敷かれ、ナムチェのロッジと同じように室内にシャワーと水洗トイレがあった。 今日も空きがあったので二人部屋を一人で使えた。 午後から曇ってしまったので室内は寒かったが、ベッドの布団は羽毛でマットレスには電気ヒーターが付いていたので、炬燵のように使うと温かかった。 もちろんプロパンガスによるシャワーは瞬時に熱いお湯が潤沢に出てとても快適だった。  夕方のSPO2は89、脈拍は61で体調も良かった。

   夕食は薪ストーブで暖かい食堂で鶏肉のステーキを食べたが、予想どおり町レストランと変わらないくらい美味しかった。 夜は過去の滞在も含めてネパールで初めて寝袋ではなく備え付けの寝具で快適に眠れた。 このロッジのツインルームの料金は素泊まりで3,000ルピー(邦貨で約2,800円)だった。 あと数年後にはエベレスト街道の殆どのロッジがこのようなスタイルに移行していくのではないかと思えた。


デボチェでは新しい大きなロッジが次々と建設中だった


正式にオープンする前の真新しいロッジに泊まる


ロッジの部屋には絨毯が敷かれていた


室内にシャワーと水洗トイレがあった


薪ストーブで暖かい食堂


夕食の鶏肉のステーキは町レストランと変わらないくらい美味しかった


   10月22日、放射冷却で部屋の気温は4℃まで下がっていた。 起床前のSPO2は85、脈拍は52で起床後も87と59で数値は申し分なく頭痛も全くなかったが、寒さで指先だけは冷たかった。 朝食はシェルパシチューで体が温まった。

   今日は目と鼻の先のパンボチェまでの半日行程なので、ゆっくりと10時に出発する。 朝の天気は今日も快晴で、アマ・ダブラムのみならず雪煙の舞うエベレストの山頂も見えた。 今日は他のトレッカー達と行動時間が違うため、街道を歩く人影は昨日とは段違いに少なかった。  デボチェから30分ほど僅かに登り下りしながら長い吊り橋を渡ると、アマ・ダブラムが常に前方に見えるようになり、予想よりも早く1時間ほどでパンボチェの村も見えるようになった。 パンボチェの村は広いが、より高い所での順応が目的なので一番奥のロッジを選んだ。 今日と明日の二日間連泊するロッジは昔ながらのタイプで昨日までのように室内にシャワーや水洗トイレはないが、共用のシャワールームが建物の中にあるので全く問題なかった。


朝食の前菜のサラダ


デボチェのロッジから見たアマ・ダブラム(右)と雪煙の舞うエベレストの山頂(左)


デボチェからパンボチェへ


アマ・ダブラムが常に前方に見えるようになる


パンボチェから見たアマ・ダブラム


パンボチェ


パンボチェの雑貨店


パンボチェで宿泊したロッジ


ロッジの部屋


ロッジの部屋から見たアマ・ダブラム


   朝食に続いて昼食でも食べたシェルパシチューは素朴な田舎風の味付けで美味しかった。 部屋の窓からはアマ・ダブラムが良く見えたが、今日も昼過ぎからアマ・ダブラムに雲が湧き始めてしまったので、夕方まで読書と昼寝をして過ごした。 夕食前のSPO2は86、脈拍は58で相変らず数値も体調も良かった。 夕食の料理は昨日のロッジのような豪華さはないが、どの料理もいわゆる“おふくろの味”で愛情が感じられた。 夜中にトイレに起きると、窓から星空の下に神々しいアマ・ダブラムが見えた。


ロッジの食堂


料理のメニュー表


昼食のシェルパシチュー


昼食の揚げ餃子(フライド・モモ)


ロッジのトイレ


夕食の野菜炒め


ロッジの部屋から見た真夜中のアマ・ダブラム


   10月23日、今朝も快晴の天気で放射冷却となり寒い。 夜中はベッドが狭くて床に落ちてしまい、昨日までが恵まれ過ぎていたことに笑えた。 標高は4000m近くになったが、起床前のSPO2は84、脈拍は54で起床後も90と56で体調は万全だ。 7時半に陽が当たり始めると劇的に暖かくなった。 朝食はシェルパシチューで体が温まった。 今日は順応のためここに滞在し、午前中にロッジの裏山をB.Cと同じ標高(4600m)まで登る予定だ。 朝食の後、パンボチェの隣のショマレに住んでいるもう一人のシェルパのウォンチューがロッジに現れた。 年齢は40歳くらいで、実質的なサーダーだ。 今日はこの辺りの地理に詳しいウォンチューが飛び入りで道案内をするとのことだった。


パンボチェのロッジから見たカンテガ(左)とタムセルク(右)


パンボチェのロッジから見たタウツェ


パンボチェのロッジから見たローツェ(右)とヌプツェ(中央)


シェルパのウォンチュー


   9時過ぎに4人でロッジを出発。 今日は風が強いとのことで、ケルンが立つ尾根上の踏み跡は辿らず、風の弱いやや急な草付の斜面をジグザグに登る。 順応目的なので登るペースはゆっくりだ。 眼前にはアマ・ダブラムがすっきりと望まれ、B.CはもちろんC.1・C.2・C.3などの上部キャンプの位置が良く分った。 5年前に登ったアイランド・ピークも見えて懐かしかった。 途中何度も休憩しながら2時間半ほどでB.Cと同じ標高まで登ると、天気はここ数日と同じように早くも下り坂となり、エベレストも見えなくなってしまった。 ウォンチューと行動するのはB.C以降からなので、今日はお役御免ということで、再会を約して登ってきたルートを颯爽と下って行った。 陽射しも弱くなってしまったので、私達もあまり長居せずに下山する。 下山はゲルの先導でケルンが立つ尾根上の踏み跡を下った。 昼食は体が暖まるララ・ヌードル(インスタントラーメン)をスープ代わりに食べ、午後はシャワーを浴びてから夕方まで読書と昼寝をして過ごした。 

   先ほどウォンチューから聞いた話では、すでにC.2には同じエージェントの他隊とシェアするテントが設営してあり、そこからアタックするのが今シーズンはベストであるということだったが、私達は最終キャンプ地をC.2.7に予定していたので、今後はその辺りのタクティクスをウォンチューと協議しながら酸素の本数を含め再検討する必要があると思われた。


ロッジの裏山をウォンチューの案内で登る


パンボチェの裏山から見たアマ・ダブラム


順応目的なので途中で何度も休憩する


ロッジから2時間半ほどでB.Cと同じ標高の4600mまで登った


昼食のララ・ヌードル


ロッジのシャワールーム


夕食の揚げ餃子(フライド・モモ)


 【アマ・ダブラム】
   10月24日、今日も午後から天気が下り坂という予報が嘘のような快晴の天気だ。 起床前のSPO2は86、脈拍は56で体調は相変わらず良かったが、寒さのせいか鼻が少し詰まっていた。 今日はいよいよアマ・ダブラムのB.Cへ入る。 

   朝食を食べて8時過ぎにロッジを出発。 エベレスト街道から標識のない分岐を右に曲り、イムジャ・コーラ(川)沿いの道を緩やかに河原まで下って古い鉄製の橋で川を渡る。 対岸の道はB.Cの近くに新しいロッジが出来たためか、道幅が拡幅されて歩き易くなっていた。 B.Cへの道の記憶は新しく、5年間の歳月を全く感じない。 パンボチェの村を背後に見ながら急斜面をひと登りすると、アマ・ダブラムの裾野の広い草原に出た。 草原からはこれから辿る前方の広い尾根の途中に団体のトレッカーの姿が見えた。 アマ・ダブラムのB.Cを訪ね、今日は新しいロッジに泊まるのだろうか。 沢山の踏み跡が交錯する広い尾根の末端まで登ると、眼前にアマ・ダブラムが遮るものなく望まれるようになり一息入れる。 団体のトレッカーの後に続き勾配の緩い尾根を登っていくと再び広い草原に出た。 草原からはプモ・リが見えるようになり、エベレストの山頂も近くなった。 残念ながら初めて訪れた前回のような感動は得られなかったが、次第に近づいてくる神々しいアマ・ダブラムの写真を何枚も撮り続けた。


パンボチェからアマ・ダブラムへ


パンボチェからアマ・ダブラムのB.Cへ


イムジャ・コーラ(川)沿いの道を緩やかに河原まで下る


対岸の道は道幅が拡幅されて歩き易くなっていた


広い尾根の末端から見たアマ・ダブラム


草原から見たエベレストの山頂(中央奥)とローツェ(右)


草原から見たプモ・リ


草原から見たアマ・ダブラム


草原から見たタウツェ


   昨日の順応の効果があったのか、予定よりも早く11時過ぎに待望のB.Cに着いた。 前回はB.Cにかなり残雪があったが、今回は一片の雪もなくC.1へのルートも黒々としていた。 各隊のテントの数は前回と比べて明らかに少なく、各隊が順調にスケジュールをこなしていることが分かった。 私達のエージェントのテントサイトはB.Cの中ほどの小沢を渡った先ですぐに分かった。 今回は小型のダイニングテントを同じエージェントのスイス隊の4人とシェアすることになっていたが、スイス隊は昨日からアタックに入ったということで、彼らがB.Cに戻ってくるまでは私達だけで使うことになった。 こういうシステムが確立され、またそれを倉岡さんやエージェントが巧みにアレンジしているため、今回のようなマンツーマンの登山が可能になったということだ。 ちなみにキッチンはさらにアメリカ隊ともシェアしているとのこと。 ダイニングテントは年々豪華になり、床にはウレタンマットのみならず絨毯も敷かれ、前室の入口には洗面台があった。 コックはアンプルバという名前で、日本食がとても上手いとのことだった。 お楽しみの昼食は椎茸が入った蕎麦、インゲンとカリフラワーの胡麻和え、フライドポテト、生ハム、缶詰の鰯でどれもとても美味しかった。

   昼食後は個人用テントにカトマンドゥから直送された荷物を合わせて搬入し、荷物の整理とレイアウトをする。 SPO2は84、脈拍は67で、初めて軽い頭痛がした。 少し昼寝をしてからダイニングテントに行くと、ガスストーブで暖かいテントの中に私と同じ年代の女性が読書をしていた。 挨拶を交わすと彼女はイングリッドという名前のドイツ人で、スイス隊のメンバーの一人であることが分かった。 間もなく倉岡さんがテントに入ってくると、意外にも二人は顔見知りのようだった。 倉岡さんから、イングリッドは外科医で、今年のエベレストで同じエージェントの隊員としてセブンサミッツを達成されたという紹介があった。 倉岡さんがイングリッドに話を聞くと、スイス隊はB.Cに来る前にゴーキョのトレッキングやロブチェへの登山を比較的短期間で行ったため、メンバーの中で一番年上の彼女は消耗してしまい、今回のアタックではC.2への途中でギブアップを余儀なくされたということだった。 昼過ぎにルクラで別れた同じエージェントのアメリカ隊が到着した。

   夕食はトンカツに豆腐とほうれん草のおひたし、生野菜、そしてワカメの味噌汁で、デザートは缶詰の桃という豪華なものだった。 ご飯は日本の米ではないが、とても丁寧に炊きあげられていて、コックのアンプルバの腕前と料理に対する愛情が分かった。 もちろん、スイス隊にも専属のコックがいるためイングリッドは洋食だ。 トンカツを勧めると、美味しいと言いながら食べていた。 順応がほぼ出来ていたので、抑え気味にすることなくお腹一杯になるまで食べた。 夕食後のSPO2は78、脈拍は64だった。


B.Cから見たアマ・ダブラム


私達のエージェントのテントサイトはB.Cの中ほどの小沢を渡った先にあった


ダイニングテント


個人用テント


個人用テントの内部


同じエージェントのアメリカ隊


昼食の椎茸が入った蕎麦


ダイニングテントの内部


夕食のトンカツ


   10月25日、夜中はトイレで3回起きたが意外にも頭痛は全くなく、軽い動悸がしただけだった。 過去の高所登山ではB.C入りした初日の夜に頭痛が全くなかったことはなく、今回のようにスローペースでの順応方法が正しいことがあらためて証明された。 起床前のSPO2は79、脈拍は61、起床後は82と62で数値はそれほど良くないが、体感的な高度障害は一切なかった。 7時半にテントサイトに朝陽が当たるようになると、キッチンボーイのラクパが洗面器に入ったお湯をテントに届けてくれた。 顔ではなく足をお湯に浸すと体がポカポカ暖まってきた。 朝食は意外にもご飯の代わりに磯部巻き餅が出てきたので驚いた。 退屈なB.C生活だが、これからは毎回の食事が楽しみだ。 今日は予定どおり休養日ということで、午前中はB.C内の散歩や読書をして過ごす。 意外にもB.Cには携帯の電波が届かず、倉岡さんから衛星電話を借りて妻に電話を入れた。 昼食はスープ代わりのララ・ヌードル、鶏肉と筍の煮物、野菜炒めで、スイス隊のほうれん草のパスタも味見した。


7時半にテントサイトに朝陽が当たる


朝食の磯部巻き餅


スイス隊のイングリッド


昼食のララ・ヌードル


   昼食後に倉岡さんからアタックステージでのタクティクスについて、今シーズンは前回とは全く正反対に雪が少なく、C.1での宿泊及びC.1からC.2.7の間の行動で使う水をB.Cからシェルパがボッカしなければならないため、順応でC.1に泊まることをやめ、その代りにC.1の睡眠から酸素を吸い、C.1から先は酸素を吸ってC.3まで行き、C.3からアタックすることを検討しているという話があった。 酸素ボンベはC.2.7での睡眠用に1本しか用意していないので、新たに2本のボンベを1,000ドルで購入しなければならないが、ボンベはB.Cに予備が5本あるとのことだった。 午後は小雪が舞っていたが、気密性の高いダイニングテントの中はガスストーブで暖かかったので、読書をしたり来年以降の山の計画をしたりして過ごした。

   夕食は蒸した餃子(モモ)と野菜炒め、フライドポテトなど。 もちろんデザートもあった。 夕食後は倉岡さんが先ほどのタクティクスをウォンチュー達に伝えたところ、アメリカ隊との合同のプジャの日程があるので、登頂日は早くて11月4日になるのではないかとのことだった。 ウォンチューから、劣悪なC.2の環境は今シーズンはとても良く、すでに8〜9張のテントが設置され、うち2張は同じエージェントのアメリカ隊とシェア出来るという話しがあった。 体調はとても良く食欲が旺盛で、夕食後も備え付けのビスケットを食べてしまった。


ダイニングテントのガスストーブ


夕食の前菜のえびせん


夕食のモモ(蒸し餃子)


シェルパのウォンチュー(右)とゲル(左)


   10月26日、昨日は一時的に天気が崩れたが、今日は朝から快晴の天気だ。 放射冷却でテント内の室温は1℃しかなかった。 夜中はトイレで2回起きたが頭痛は全くなく、起床前のSPO2は83、脈拍は51で脈拍は平脈となった。 鼻水が少し出るが体調はすこぶる良い。 朝食は日本にいる時よりも明らかに多く食べている感じだ。 

   午前中は順応のため、倉岡さんとC.1方面に散歩に出掛ける。 風が殆どない絶好の登山日和だ。 5年前は雪の中のトレースをダブルの高所靴を履いて登ったが、今日はシングルブーツなので比べものにならないほど楽だ。 当時と雰囲気は全く違うがルートの記憶は新しく、30分ほどでB.Cを見下ろす勾配の緩い支尾根に上がると、カンテガの眺めが一層良くなった。 背後にタウツェ、そして左手にアマ・ダブラムを仰ぎ見ながらスローペースで登っていくと、他隊のシェルパのタシとすれ違った。 5年前にアマ・ダブラムで一緒だったタシも私のことを覚えていてくれた。 その直後にスイス隊の3人が意気揚々と下ってきたので、登頂のお祝いの言葉を掛けた。 スイス隊のガイドはアンドレアスという名前で倉岡さんの友人ということだった。 

   支尾根の勾配は眼前のアマ・ダブラムとは対照的に終始とても緩やかで、順応のための散歩には最適だ。 後方のタウツェの右奥にチョ・オユーやギャチュンカンが見えるようになった。 前方に幾つかのケルンが並んで見えるようになると間もなくタルチョが張られた5000m地点に着いた。 体調はとても良く、このままC.1まで行けそうな感じがした。 ここから先は一旦緩やかに下り、右にトラバースしながらC.1に突き上げる尾根に上がるルートが良く見えた。 相変らず快晴無風の天気は続き、帰路もスローペースで正午にB.Cに戻った。

 

朝食の梅干しと野菜炒め


コックのアンプルバ


C.1方面に散歩に出掛ける


5年前は雪の中のトレースをダブルの高所靴を履いて登った  (2013年10月撮影)


支尾根から見たカンテガ(中央)


支尾根から見たアマ・ダブラム


5年前にアマ・ダブラムで一緒だったタシと出会う


登頂したスイス隊の3人と出会う


支尾根の勾配は終始とても緩やかだった


5000m地点の手前から見たチョ・オユー(左) ・ ギャチュンカン(中央) ・ プモ・リ(右)


5000m地点から見たアマ・ダブラム


5000m地点から見たタウツェ


5000m地点から先のルートが良く見えた


   昼食は手巻き寿司と鶏肉の唐揚げなどで、スイス隊と一緒の賑やかな食事となった。 登頂した男女のメンバーはいずれもスイス人で、男性がマルクス、女性はマルティーナという名前だった。 マルクスは自動車関連のエンジニアでマルティーナは整体師とのこと。 ガイドのアンドレアスの話では、昨日のアタックは零時にC.2を出発して登頂は8時、風が強く山頂には数分しかいられず、下山はC.2まで4時間掛かったとのことだった。 また、前日のC.1からC.2へは4時間で、フィックスロープが新しく信頼できるとのことだった。 マルクスの話では、アタック日は急斜面が延々と続き、山頂までとても長く感じたとのことだった。

   昼食後にウォンチューから、プジャ(祈祷)をアメリカ隊と合同で明後日行うと伝えられたので、倉岡さんが日本にいる貫田さんを介して天気予報を確認すると、11月1日以降はしばらく風が強い状況が続くということで、とりあえず明日は予定どおりC.1手前のヤクキャンプ(5400m)までの順応を行い、予報が変わらなければ明後日のプジャの翌日からアタックを開始し、最短で10月31日の登頂を目指すことになった。 夕食は揚げ出し豆腐や野菜炒めなどだったが、スイス隊のパスタなどとシェアしながら食べた。 食後のデザートはもちろんスイス隊の登頂ケーキだ。


昼食はスイス隊と一緒の賑やかな食事となった


昼食の鶏肉の唐揚げ


スイス隊の夕食のパスタ


夕食はスイス隊とシェアしながら食べた


スイス隊の登頂ケーキ


   10月27日、夜中に僅かな降雪があったが、今日も朝から快晴の天気だ。 テント内の室温はマイナス1℃となり、ボトルの水が凍っていた。 体調は引き続き良かったが、夜中に寝袋のファスナーが少し開いてしまったためか、鼻が少し詰まっていた。 起床前のSPO2は86、脈拍は53で順応は確実に進んでいるように思えた。 

   朝食後はアタックに向けての最後の順応に、倉岡さんとC.1の手前のヤクキャンプ(5400m)まで登りにいく。 今日も昨日と同じように風が殆どない絶好の登山日和だ。 B.Cを見下ろす勾配の緩い支尾根へ昨日と同じようにスローペースで登る。 順応が多少進んでいるため、昨日よりも少し楽に登れた。 今日は順応やアタックのためC.1方面に向かう人が多い。 支尾根に上がってから歩くスピードを上げてみると、順応はまだまだ途上のようで、5000m地点の手前から次第に足が上がらなくなってしまった。 

   5000m地点(GPSでは5001m)から少し下り、大小の岩が堆積しているサイドモレーンをトラバースしながら進む。 トラバースを終えて急坂をジグザグに少し登ると、C.1に突き上げる幅の広い尾根に乗り、目標のヤクキャンプのテントが小さく見えた。 ヤクキャンプの名前どおり、荷上げをするヤクが登ってきた。 途中で2回ほど休憩し、予想よりも早くB.Cから3時間半ほどでヤクキャンプ(GPSでは5022m)に着いた。

 

B.Cから見たヌンブール(中央奥)


エージェント(K&P)の社長でもあるアンドレアスが個人用テントにモーニングティーを届けてくれた


B.Cを見下ろす勾配の緩い支尾根へ昨日と同じようにスローペースで登る


支尾根の末端から見たアマ・ダブラム


5000m地点


5000m地点から少し下り、大小の岩が堆積しているサイドモレーンをトラバースしながら進む


C.1に突き上げる幅の広い尾根に乗る


ヤクキャンプへ荷上げをするヤク


   堆積した岩の隙間に整地された場所が点在するキャンプ地には10張以上のテントの花が咲いていた。 アマ・ダブラムの容姿もだいぶ変わり、目を凝らすとC.2のテントサイトが見えた。 ここからC.1へは標高差で400mほどなので、2時間くらいで着くだろう。 ゆで卵を2つ食べ、30分ほどゆっくり休憩してからB.Cへ戻る。 天気は昼過ぎから下り坂になってしまったので、途中1回休憩しただけで2時間ちょうどでB.Cに着いた。 アンプルバにララ・ヌードルをお願いし、個人用テントで昼寝を決め込んだ。

   夕食は炊き込みご飯とモモ(蒸し餃子)で、スイス隊はヤク肉のステーキと専用の鍋を使ったチーズフォンデュだった。 もちろん今夜も和気あいあいにシェアしながら食べたが、少し調子に乗って食べ過ぎたようで、食後にトイレに行くハメになった。


ヤクキャンプから見たアマ・ダブラム


ヤクキャンプの手前から見たマランプラン(右)


ヤクキャンプから見たカンテガ(中央)とタムセルク(右奥)


夕食の炊き込みご飯


スイス隊の夕食のヤク肉のステーキ


スイス隊の夕食のチーズフォンデュ


   10月28日、ここ数日朝の気温が低くなってきたため、キッチンボーイが個人用テントに届けてくれるお湯のサービスがありがたい。 起床後のSPO2は89、脈拍は59で、昨夜のお腹の不調もだいぶ良くなった。 今日は同じエージェントのアメリカ隊との合同のプジャ(祈祷)だ。

   朝食後に下山するスイス隊がスタッフ達にチップを手渡すセレモニーに立ち会う。 スイス隊が出発していくのを見送ってから、ウォンチューと明日以降の日程などについて打ち合わせをする。 昨夜の天気予報では11月2日は降雪の可能性があるため、ルートがベストな状態に保たれている前日の1日までに登頂することが決まった。 プジャの前にカメラのバッテリーを交換すると、感度の設定がオートではなく、一番高い数値になっていたことに気が付いて愕然とした。 新しいカメラは液晶の輝度が高いため今まで気が付かなかった。 これまでに撮った写真は大半が駄目になっているだろうが、アタックに向けて間に合ったことが幸いだ。        

   間もなくパンボチェから来たラマ僧によるプジャが始まり、テントサイトの傍らに石を積み上げて造った祭壇の周りにピッケルやアイゼンなどの登攀具を置き、一緒にラマ僧に祈祷してもらう。 座っていると体が冷えてくるので、時々動き回りながら写真を撮る。 プジャが終盤を迎えると、スタッフ達がいつものように祭壇の四方にタルチョを張り巡らし、掛け声に合わせて皆で一斉にお米を空に向けて放り投げる。 お供えのお菓子やお酒がふるまわれ、御守りの赤い紐を一人一人ラマ僧に首に結んでもらう。 最後はツァンパ(小麦粉)を顔に塗り合ってプジャは終わった。


スイス隊がスタッフ達にチップを手渡すセレモニーに立ち会う


下山するスイス隊を見送る


同じエージェントのアメリカ隊と合同でプジャを行う


スタッフ達が祭壇の四方にタルチョを張り巡らす


御守りの赤い紐を一人一人ラマ僧に首に結んでもらう


ツァンパ(小麦粉)を顔に塗り合ってプジャが終わる


アメリカ隊


   昼食は野菜の天ぷらうどんとフライドチキンで、冷えた体がすぐに暖まった。 昼食後に倉岡さんが最新の天気予報を確認すると、登頂日(サミット・ディ)として理想的な11月1日は天気は良いが風が強いという予報は変わらなかったので、天気が良くて風が弱い10月31日を登頂日とすることに決め、明日B.Cを発つことになった。 

   午後は装備品の最終チェックを行い、アタック時の服装と装備でテントの周りを歩いたり、日本から持参した行動食のパッキングなどをした。 上部キャンプでの朝食と夕食については、意外にも全てフリーズドライの白米とレトルトのカレーということだった。 

   夕食前に倉岡さんから衛星電話を借りて妻に電話を入れ、明日からのスケジュールを伝えたが、喉に僅かな違和感があった。 夕食は焼き鳥と和風のカレーなどだった。 夕食後にウォンチューから、私達と同じ31日を登頂日としている隊が多く、各隊とのスケジュールの調整上C.2のテントの確保が難しいため、最終キャンプ地をC.3にしたいという提案があった。 ウォンチューにC.1から先のルートの難易度を聞くと、C.1からC.2の間は雪が全くないため、テクニカルだが2時間ほどで、C.2からC.3の間はC.1からC.2の間よりも易しく4時間ほどで、C.3から山頂の間が一番易しく4時間ほどで着くとのことだった。 早めに就寝して寝袋に入ると、喉の違和感は痛みにも似た渇きに変わってしまった。


昼食の野菜の天ぷらうどん


上部キャンプで食べるレトルトのカレー


夕食の焼き鳥


夕食の和風のカレー


 【憧れの頂を目指して】
   10月29日、昨夜からの突然の喉の不調は残念ながら解消せず、夜中には発熱で汗をかいたりして全く熟睡することが出来なかった。 風邪のひき始めのような症状だが順応は問題ないようで、起床前のSPO2は86、脈拍は57と数値はとても良かった。 体がだるいのでもう少し寝ていたかったが、今日の朝食はいつもよりも早い7時からなので、仕方なく早めに起きてダイニングテントに行く。 間もなく現れた倉岡さんに急変した体の状態を伝え、善後策について話し合う。 アタック日として最も天気やルートの状態が良いのは今回のタイミングだが、まだ日程的にはかなり余裕があるので、次の良い機会を捉えてアタックすることも全く問題なかった。 話し合いの結果、とりあえず5000m地点まで登ってみてその時の体調の状態で判断することになった。 

   キッチンスタッフの勘違いで朝食は8時からとなってしまったので、予定より1時間遅れて9時ちょうどに倉岡さんと二人でB.Cを出発。 “通い慣れた” C.1への道を今回で最後になることを祈りながら歩き始める。 前回の順応時よりも荷物は重いが、今日もシングルブーツで登れることがありがたい。 天気は快晴ではないがまずまずだ。 喉が貼り付くように痛いため終始無言で登る。 ペースは今までの中で一番遅かったが、B.Cからゆっくり休まずに登り続け、1時間半ほどで5000m地点に着いた。 体が温まったせいか喉の痛みが少し薄らいできたので、一休みしてからとりあえずC.1を目指すことにした。 C.1で容体が悪化した場合は、今回は順応と諦めてB.Cに戻ろうと思った。 5000m地点を過ぎると上空に雲が広がり始め少し寒くなってきた。 5400mのヤクキャンプの手前で正午になったので、アンプルバが握ってくれた梅干しのおにぎりを食べてゆっくり休憩する。 食欲があるのが救いだ。


朝食の玉子焼き


9時ちょうどに倉岡さんと二人でB.Cを出発する


B.Cと5000m地点の間から見たアマ・ダブラム


5000m地点


5000m地点から見たカンテガ(中央)とタムセルク(右)


5000m地点からヤクキャンプへ


昼食の梅干しのおにぎり


   昼食後はさらに天気が悪くなり、小雪が舞うようになってきたが、焦らずマイペースを保ったまま進む。 風が殆どないのがありがたい。 ヤクキャンプを過ぎると私達の荷物を背負ったウォンチューとゲル達が追い付き、そして追い越していった。 もうすでに行程の3分の2以上は過ぎているはずだが、なぜかここからが長く感じる。 アマ・ダブラムの頂稜部は雲に覆われ見えなくなった。 大小の岩の間を縫うようにして途切れ途切れとなった踏み跡を登り続けていくと、ようやく頭上に懐かしいC.1のテント村が見えてきた。 足元の岩場は次第に登り辛くなった。 C.1の直下では傾斜が急になり、フィックスロープが張られていたが、ユマールはシェルパ達に預けてしまったので手で掴んで登る。 予想よりも少し早く、4時ちょうどに雪の全くないC.1(5800m)に着いた。 

   C.1のテントサイトは5年前に来た時よりも石積みの状態が良くなり、テントも新しく大きなサイズだったので、テントの中は予想以上に快適だった。 シェルパ達に上げてもらった荷物をテントに搬入して落ち着くと、意外にも倉岡さんから今夜の睡眠用の酸素を毎分1L吸うように指示があった。 疲れた時にすぐに酸素を吸うことにより、リカバリーの効果が増すとのことで、すぐに横になっても大丈夫だという。 倉岡さんは本人が言うとおり高所に強い体質のようで、今回初めて経験するこの高度でも全然平気なようだった。 酸素を吸い始めると体が暖まり、1時間ほどすると脈が下がってきた。 酸素を吸ってリラックスしていると倉岡さんがお湯を沸かしてくれたので助かった。 

   昨夜の打ち合わせでは明日はC.3まで行くことになっていたが、ウォンチューの判断で急遽C.2までとなった。 C.2までなら半日行程なので、体のみならず気も楽だ。 夕食前のSPO2は84で脈拍は66となり、夕食のレトルトカレーと白米が美味しく食べられた。 これも全て酸素のお蔭だ。 喉の痛みはやや治まり、もしかしたら明日の朝は今朝よりも体調が良くなるのではないかと期待が持てた。 睡眠時には酸素を0.5L吸って寝たが、時々熟睡することができ、この高度にしてはまずまずの良い睡眠だった。


昼食後はさらに天気が悪くなり、小雪が舞うようになってきた


ヤクキャンプを過ぎると私達の荷物を背負ったウォンチューとゲル達が追い付いた


ヤクキャンプからC.1へ


ヤクキャンプからC.1へ


C.1直下の岩場


C.1のテントサイト


テントに着いてからすぐに今夜の睡眠用の酸素を毎分1L吸う


夕食は倉岡さんが作ってくれた


酸素のお蔭で夕食前のSPO2は84で脈拍は66となった


   10月30日、ありがたいことに風のない静かな夜だった。 B.Cよりも1時間早く6時半からテントに陽が当たり始めて暖かい。 喉の痛みは残念ながら治っていなかったが、悪くもなっていなかった。 酸素のおかげで頭痛は全く無く、起床後のSPO2は85、脈拍は61で申し分ない。 朝食のレトルトカレーと白米も一人前美味しく食べられた。 倉岡さんが衛星通信で貫田さんに天気予報を確認すると、予報は変わらずサミット・ディの明日は快晴無風で、今日もほぼ同じような良い天気とのことだった。 これから登るC.1からC.2までの間の岩稜の登攀はアマ・ダブラムの一般ルートで一番難しい区間だが、今シーズンはC.2までルート上に雪が全くないので、シェルパ達に高所靴を担いでもらい昨日と同じようにシングルブーツで登ることになった。 ここまでくると“大名登山”を通り越した“宮様登山”だ。 

   気温が上がって暖かくなった8時半過ぎにC.2を出発。 酸素は毎分2Lだ。 順応は少し不足しているが、5年前は高所靴で登った岩場をシングルブーツで酸素を吸って登ることになるとは想定もしていなかった。 今年はC.1に雪が全くないためか、5年前に比べてC.2方面に設営されたテントが多い。 フィックスロープはスイス隊の情報どおり新しい11mmのナイロンロープが使われていて頼もしい。 長いC.1のテント村をトラバース気味に斜上しながら抜けると、標高差ではC.1から僅か200mほどしかないC.2のある岩棚や、ダブラムと呼ばれる山頂直下の雪の瘤とその下のC.3、そして垂涎の山頂が間近に迫るようになった。 ルート上で一番の核心となるレッド・タワーと呼ばれる尖った岩塔が頭上に見え始めると岩壁の斜度が急になり、ユマールで強引に攀じ登る箇所が多くなったが、シングルブーツと背中の酸素がありがたい。 高度感とロケーションは抜群で、順番待ちの間に周囲の山々の写真を撮る。 レッド・タワーの直下では複数のパーティーの下りで少し渋滞した。 意外にも昨日は山頂付近の風が強かったようで、登頂出来なかったという声がすれ違った人達から聞こえてきた。 切り立ったレッド・タワーの登りは予想以上に厳しかったので酸素の量を3Lに増やし、先に登ったウォンチューに“お助け紐”を出してもらった。 レッド・タワーを登り終えると、目と鼻の先にC.2のテントサイトが見え、山頂はいよいよ手の届く所に見えてきた。 レッド・タワー以外での長い順番待ちがなかったので、予想よりも早く正午前に待望のC.2(6000m)に着いた。 テントサイトに偶然居合わせたシェルパのダ・デンディが温かい紅茶を差し入れてくれた。


C.1から見たC.2


朝食のレトルトカレーと白米


倉岡さんが衛星通信で天気予報を確認する


気温が上がって暖かくなった8時半過ぎにC.2を出発する


C.1に雪が全くないためか、5年前に比べてC.2方面に設営されたテントが多い


フィックスロープはスイス隊の情報どおり新しい11mmのナイロンロープが使われていて頼もしい


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1とC.2の間から見たC.1


C.1とC.2の間から見たタウツェ(中央)とチョ・オユー(右)


C.1とC.2の間から見たカンテガとタムセルク(右)


C.1とC.2の間から見たマランプラン


ルート上で一番の核心となるレッド・タワーと呼ばれる尖った岩塔


核心部のレッド・タワーの登攀


レッド・タワーの登りは予想以上に厳しかったので、ウォンチューに“お助け紐”を出してもらった


予想よりも早く正午前に待望のC.2に着いた


シェルパのダ・デンディと再会する


   猫の額ほどの狭い岩棚の上のC.2は例年であればテントが数張しか設営できず、多い時は1つのテントに4人が入ることもあるという劣悪なキャンプ地らしいが、今年はC.1と同じように新しいテントがいくつか設営されたようで、その数は10張ほどあった。 私達の入るテントはルート工作のために最初に設営されたものらしく、その中でも一番良いテントだった。 キャンプ地としては劣悪だが展望はとても素晴らしく刺激的で、他の山だったら山頂に匹敵するか、あるいはそれ以上だった。 眼下に見えるC.1は近いが、B.Cは遥かに遠くなっていた。 明日は好天が約束されているが、予想よりも登るパーティーが多くないようだ。

   行動時間が予想より短かく、昨日から吸っている1本目の酸素がまだ残っていたので、昨日と同じようにテントに入ってからしばらくの間は1Lの酸素を吸う。 1時間ほどするとSPO2は86、脈拍は73となり、GPSで6022mという高度は全く感じない。 陽射しに恵まれたテントの中では下着だけでもいられるくらい暖かかった。  明日の山頂アタックは零時半の出発と決まり、4時半に夕食のレトルトカレーと白米を食べた。 もちろん酸素のお蔭で完食出来た。 喉の痛みはなくなったが、今度は鼻が詰まったりして風邪の症状に変化が出てきたが、土壇場にきた今となってはもう全て受け容れるしかなく、また何があってもあと1日のことなので乗り切れる。 むしろ一番の悩みは、昨日の朝からトイレに行ってないことだった。


C.2から見た山頂


C.2から見たB.C


劣悪な環境のC.2にはテントが10張ほどあった


私達の入るテントはC.2の中でも一番良いテントだった


C.2からの風景


テントに入ってからしばらくの間は1Lの酸素を吸う


 【思いがけない出来事】
   10月31日、テントを叩く風の音は全くなかったが、鼻詰まりと気持ちの昂りで、酸素を吸っているにも関わらず殆ど眠れなかった。 1本目の酸素ボンベの酸素の残量がギリギリだったことが気になっていたことも原因かもしれない。 零時半の出発に合わせ、2時間前の10時半に起床することにしていたが、倉岡さんは10時から起きてお湯を沸かしていた。 起床後のSPO2は82、脈拍は68で相変らず酸素の効用は申し分ない。 ゆっくり準備を始めると体調は次第に良くなり、予想に反して朝食のカレーとアルファー米を完食出来た。 懸案だったトイレも同じ境遇だった倉岡さんに続いて食後に済ませることが出来た。 登頂後はC.1まで下りることになり、シュラフやマットなどの個人装備をパッキングしてからテントの外に出る。 天気は予報どおりの快晴で満天の星空だ。 風も全くないため、体感気温はマイナス5度くらいと予想以上に暖かい。 

   予定どおり零時半にC.2を出発。 ウォンチューの意見で倉岡さんが先行し、その後にウォンチューと私が続く。 まだ足元には雪が殆どないのでアイゼンは着けずにいく。 当初は登りが毎分2L、下りは1Lの酸素を吸うことになっていたが、最初の岩場の区間のスピードを上げるため2.5Lになった。 ゲルは留守番かと思ったが、彼も登頂したいのか私の後をついてきたので、結果的に私一人に3人のサポートが付くことになった。 ウォンチューの話どおり、C.2からの岩場の登りは昨日のC.1からC.2の間ほど難しくなく、今日から履いた高所靴でも問題なく登ることが出来た。 まだスタートしたばかりだが不安材料は全くなく、登頂の可能性がにわかに高まり嬉しくなる。 

   しばらく登っていくと酸素の濃さのせいか暑くなってきたので、思い切ってアウターのダウンジャケットを脱ぎ、三重にしていた手袋のうち中間のウールの手袋も外した。 少し身軽になって登り始めると、地形はクーロワール状となった。 その直後、不意に右手の甲に強い衝撃を受けた。 周囲が暗いので一瞬何が起きたのか分からなかったが、数秒後に落石が当たったのだと思った。 手の甲は痛いというよりも痺れている感じだったが、それとは別に人差し指が痛くなってきた。 先行している倉岡さんやウォンチューはまだ私が落石に当たったことに気が付いていないようだ。 オーバー手袋を外すと、インナー手袋の人差し指の部分に血が滲み、指は痛くて全く曲らなかった。 直感的に“ああこれで終わったな”と悲しみにも似た悔しさがこみ上げてきた。 直前にウールの手袋を外してしまったことが悔やまれた。 恐る恐るインナー手袋を外すと、人差し指の第一関節付近の皮がペロンと剥けて血が滲み出ていた。 凍傷を併発すると怖いのですぐにインナー手袋をはめ、酸素マスクを外して倉岡さんとウォンチューを呼ぶ。 倉岡さんは落石に当たっても程度によっては続行可能だと思っていたようだったが、私の血の滲んだインナー手袋を見るなりすぐに登山の中止を決めた。 もちろん私もこの状態で続行したいとは微塵も思わなかった。 ウォンチューは自分の責任ではないのに、何度も何度も私に謝っている。 倉岡さんがウォンチューにヘリでのレスキューを確認すると、C.2にはヘリは来られないということで、B.Cまで自力で下山することになった。 寒くはないが凍傷の防止と傷の保護のため再びウールの手袋をはめて直ちに下山体勢に入った。 思いがけない出来事に、“好事魔多し”という諺しか頭に浮かんでこなかった。


零時半にC.2を出発する


   再び倉岡さんが先行し、ウォンチューに全てを委ねながら岩場を下る。 C.2までは特に難しい所はなかったので、30分ほどで戻ることが出来た。 テントに置いた個人装備の回収はせず、また休むこともなくそのまま下り続ける。 核心部となるC.1までの道程はとても険しいが、まだ登ってくる人がいないのが救いだ。 ウォンチューはテクニックというよりは力任せに私を導いていくが、そのスピードはかなり遅く、下降は遅々として捗らない。 業を煮やした倉岡さんがウォンチューに代って私を同時懸垂で下すことになり、ウォンチューとゲルは再びC.2に戻って個人装備の回収をすることになった。 私は下降でもそのまま2.5Lの酸素を吸い続けたので全く疲れることはなかったが、腰痛持ちの倉岡さんは相当大変な作業を強いられることになってしまった。 静寂の暗闇の岩稜で黙々と二人の逃避行が続いた。

   どのくらいの時間が経過したのだろうか、ようやくC.1に近づきトラバース地帯に入った。 ここまで下れれば後は自力でも下れるため気は楽だ。 C.1から少し離れた岩棚にテントが2張あり、その直下の僅かな平坦地で一息入れる。 アマ・ダブラムのシルエットがとても神秘的だ。 何事もなければもうアイゼンを着けてC.3付近の雪壁を登っていたことだろう。 少し落ち着いたせいか、行き場のない悔しさが再びこみ上げてきた。 異変を察知したのか、近くのテントからヘッドランプの灯りが一つこちらに向かってきた。 ヘッドランプの主はペンバ・ギャルツェンで、テントには明日の登頂を目指す石川さん達がいることが分かった。 ペンバにお見舞いの言葉をかけられてC.1へ向かう。 まだ暗いC.1はひっそりと静まりかえっていた。 C.1でウォンチュー達と合流し、靴をシングルブーツに履き替えようと思ったが、まだ二人のヘッドランプが遠かったので高所靴のままB.Cへ下る。 緊張感から少し解放されると指の痛みだけではなく、脱力感からか足が重たく感じられるようになった。

   ウォンチュー達がC.1に着いたことを見計らってヤクキャンプの手前で休憩し、ハーネスを外して二人が下りてくるのを待つ。 周囲が白み始めアマ・ダブラムが良く見えるようになると、また悔しさがこみ上げてきた。 間もなく休憩場所に下りてきたウォンチュー達から靴を受け取り、ダウンパンツなども脱いで身軽になる。 C.2にデポしたオキシフルを傷口につけようとしたが、凍っていて駄目だった。 ここからはウォンチュー達が先行して下る。 二人共相当な荷物を背負っているが、しばらくすると視界から見えなくなってしまった。 私も酸素の力を借りて休まずに可能な限りの速さでB.Cへ下った。 間もなくご来光となり、アマ・ダブラムが美しく輝き始めた。 山を見るのは辛いが、もう二度とここに来ることはないだろうと思い、何枚も写真を撮った。 B.Cを眼下に望む5000m地点に着くと、後ろを歩いていた倉岡さんがしばらくしてから追いついてきたが、途中のサイドモレーンのトラバース区間で転んだらしく、全身に擦り傷を負い左手の薬指が曲がっていた。 先ほどの想定外のハードなレスキュー作業で相当疲れたのだろう。 B.Cを目がけて下っていくと、ようやくC.1方面に向かう登山者とすれ違うようになった。 予想どおり、間もなくキッチンボーイのパサンがティーポットを携えて迎えにきてくれた。 暖かいオレンジジュースをがぶ飲みして生き返る。 予想よりもだいぶ早く、9時ちょうどにB.Cに着いた。


C.1から少し離れた岩棚の直下の僅かな平坦地で一息入れる


まだ暗いC.1はひっそりと静まりかえっていた


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


C.1とB.Cの間から見たヌンブール(奥)とコンデ・リ(手前)


C.1とB.Cの間から見たカンテガ(中央)とタムセルク(左)


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


C.1とB.Cの間から見たタウツェ


C.1とB.Cの間から見たチョ・オユー(左)とギャチュン・カン(右)


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


予想よりもだいぶ早く、9時ちょうどにB.Cに着いた


   すぐに朝食が用意され、凍ったオキシフルをお湯で溶かして傷口につけた。 幸い外傷は骨には達していないように見えて安堵した。 食事の途中でヘリの到着まであと30分だと聞かされ、急いで個人用テントの中の荷物をダッフルバックに詰め込む。 幸か不幸かヘリは予定よりも10分ほど早くB.Cの上空に現れたので、ここで別れるウォンチューやキッチンスタッフに慌ただしくアンサミットボーナスとチップを手渡し、倉岡さんとゲルと3人でヘリに飛び乗った。 ヘリはカトマンドゥに直行するとばかり思っていたが、僅か10分足らずのフライトでルクラの空港に降り立った。 今日は天気が良いので、空港では飛行機・ヘリともフル稼働で5分から10分おきに離発着していたが、私達のヘリは臨時便なので2時間ほど待たされることになった。

   ルクラを飛び立ったヘリは幾重にも重なる山並を舐めるように低空で飛び、飛行機とほぼ同じ所要時間の40分でカトマンドゥの空港のヘリポートに降り立った。 意外にもヘリポートには救急車が待機しており、サイレンを鳴らしながら20分ほど走って病院に着いた。 後で分かったが、この病院は外国人の旅行者専用で、地元の人は利用していないということだった。 問診の後のレントゲン撮影で、右手の人差し指の真ん中の骨が粉砕骨折していることが分かった。 C.1からの下りで転んで左手の薬指が曲がっていた倉岡さんもレントゲン撮影を受けたところ、意外にも剥離骨折していることが分かった。 整形外科の専門医が夜に来るということで、治療費の支払いを兼ねてまた夜に病院に行くことになった。


B.Cから倉岡さんとゲルと3人でヘリに飛び乗る


ヘリはカトマンドゥではなく、僅か10分足らずのフライトでルクラの空港に降り立った


ルクラの空港のヘリポート


ルクラの空港からカトマンドゥの空港ヘ


ヘリの機上から見たカトマンドゥ


カトマンドゥの空港のヘリポートには救急車が待機していた


カトマンドゥの外国人の旅行者専用の病院


レントゲン撮影で右手の人差し指の真ん中の骨が粉砕骨折していることが分かった


私の右手と倉岡さんの左手


   タクシーでホテル『シャングリラ』に戻り、片手で久々にシャワーを浴びて一息つく。 エージェントの社長のスバシに航空券の変更の手続きを依頼し、ホテルの斜向かいのベトナム料理店で倉岡さんと傷を舐め合いながらささやかな打ち上げを行う。 夕食後に倉岡さんとタクシーで病院に向かい、整形外科の専門医から骨折の状態について詳細な説明を受けたところ、二人とも帰国後すぐに手術をした方が良いということだった。 治療費は総額で354ドル(邦貨で約40,000円)と予想以上に高額だった。


   11月1日、悔しさや悲しさ、そして指の痛さで眠れないかと思ったが、痛み止めの薬と濃い酸素のおかげでそれなりに眠ることが出来た。 何事もなければ今日は登頂の余韻に浸りながらC.1から意気揚々とB.Cに戻る予定だったので、カトマンドゥのホテルのベッドで朝を迎えたことに違和感を覚える。 朝食のバイキングにレストランに行くと、中庭には先に下山したスイス隊のメンバーがいて思いがけない再会となった。 包帯の巻かれた指を見せながら手短にここに至った経緯をメンバーに話すと皆も驚いていた。 間もなくレストランに現れた倉岡さんから、スバシの手腕で変更出来ない格安航空券が470ドル(邦貨で約53,000円)で今日の午後の便に変更出来たことを聞いて驚いた。 また、倉岡さんの知り合いの国際山岳医の大城和恵さんの紹介で、帰国後の11月6日に千葉西総合病院で倉岡さんと共に手指の専門医による指の手術を受けられることになったので安堵した。

   朝食後は部屋に戻って荷物のパッキングを済ませてから、出発までの僅かな時間を割いてホテルの斜向かいのコスモトレックの事務所を訪ね、併設されているモンベルの店にも行ってみたが、店の品揃えは他の店とは比べものにならないほど少なかった。 昼過ぎに諸々の精算と空港への送迎のためホテルに来たスバシと共に、明日の便で帰国する倉岡さんに見送られてホテルを後にした。 サミット・ディの翌日にネパールを発つという離れ業は、エージェントのヒマラヤン・ビジョンの優秀なスタッフのお蔭だ。


ホテルの中庭でスイス隊のメンバーと再会した


ホテルのレストラン


朝食のバイキング


コスモトレックの事務所


モンベルの店内


明日の便で帰国する倉岡さんに見送られてホテルを後にした


   帰路もインドのデリー経由で成田には翌日の午前中に着いたので、午後はとりあえず自宅近くの病院に行って外傷の消毒をお願いしてからレントゲンを撮ってもらい、整形外科の医師から骨折の状態についての説明を受けた。 医師の診断はネパールの病院での診断と同じで、右手の甲はかなり腫れていて痛かったが、骨折しているのは人差し指の真ん中の骨だけということだった。


カトマンドゥのトリブヴァン空港


デリーのインディラ・ガンディー空港


   今回のアマ・ダブラムは、5年前に最初にチャレンジした時の経験と、その後の高所登山での経験を最大限に生かし、またガイドの倉岡さんとのマンツーマンというこれ以上ない好条件で臨んだが、運悪くサミット・ディに落石に遭ってしまい、結果的には登頂を目前にして涙を飲んだ。 また、落石による右手の人差し指の骨折の手術は成功したものの、受傷してから2か月を経過した時点でも未だに指が思うように曲がらず、登山活動はもちろん日常生活でも支障をきたしている。 今でもネパールで一番登りたい山はアマ・ダブラムに変わりはないが、今後この山にもう一度チャレンジすることは難しいかもしれない。


山 日 記    ・    T O P