チョ・オユー

  【2度目の8000m峰】
   チョ・オユー(中国名は卓奥友峰/8201m)は、世界に14座ある8000m峰のうちの1座で、そのうちの6番目の標高を誇り、中国(チベット)とネパールの国境に聳えている穏やかな山容の山である。 同峰はマナスル(8163m)が商業登山隊によって大衆化される以前は“最も登り易い8000m峰”と言われていた(今も言われている)が、その実質的なB.CとなるA.B.C(アドバンス・ベース・キャンプ)は標高5700mの所にあり、ネパール側のエベレストのB.C(5350m)よりも高く、高所に弱い私が果たしてこの高さに順応出来るかどうかは全く想像も出来なかった。

   今回のチョ・オユー登山は一年前から決めていたが、十数年前に日本の商業登山隊の草分けとも言えるAG社が主催するチョ・オユーの公募登山隊の説明会に故坪山淑子さんと共に足を運び、その帰り道の居酒屋で8000m峰への夢を語り合ったことは今でも記憶に新しい。 そして2003年に淑子さんは見事そのチョ・オユーの頂に立ってその夢を実現され、次の目標へと繋げたが、志半ばで亡くなられてしまった。 2009年には岳友の栗本さんや中村さんも登頂されたが、その後チベットへの外国人の入域が禁止されてしまったため、商業登山隊の殆どがマナスルへ転向していったことにより、私も2011年の初めての8000m峰へのチャレンジがチョ・オユーではなくマナスルになった。 最近になってようやくチベットへの外国人の入域が許可されるようになり、今回ようやく2度目の8000m峰へのチャレンジとなった。

   今回の登山隊のメンバーは、ガイドの平岡さんとマナスルやヒムルン・ヒマールでご一緒した京都の齋藤さん(るみちゃん)、そして初顔合わせの福岡の柴田さんの4人というこぢんまりとした隊だったが、ガイドの倉岡裕之さんの登山隊の4人と行動を共にする形をとったので、結果的には総勢8人ということになった。 現地のエージェントはいつもと同じマウンテン・エクスペリエンス社だ。

   ネパール人のスタッフ達と共にカトマンドゥから中国(チベット)に行くには、陸路でネパール側の国境の町コダリと中国側の国境の町ザンムーを経て行くのが一番早く効率的だが、昨年4月の大地震で峠越えの道路が崩壊し、未だに復旧の目処が立ってないとのことで、今回はこれに代わって利用されるようになったネパール側のシャブルベンシから中国側のケーロンに抜ける国境の峠越えをすることになったが、出発の数日前になって中国政府からそのルートで入国するビザの許可が下りず、一番費用が掛かって遠回りとなるラサ(チベット自治区の首府)経由の空路で行くことになってしまった。

   カトマンドゥ空港での集合・解散のため、航空券はクアラルンプールを経由するマレーシア航空を選んだが、最近ではエコノミーでも預託荷物が30キロまで無料となったため、40キロほどになった荷物のうち10キロ(規約では7キロ)をザックに背負って機内に持ち込むことで、以前のようにEMS(国際郵便)を使わずに済んだ。 この航空券は諸費用込みで約10万円と安かったが、カトマンドゥとラサの往復航空券は諸費用込みで8万円と割高だった。


ネパールと中国(チベット)の国境


A.B.Cから見たチョ・オユー


チョ・オユーの山頂  (背景はエベレストとその周辺の山々)


   2016年9月1日、11時20分発の便で成田空港を発つ。 今回で4回目のネパール行となったが、図らずも成田を一人で発つのは初めてだった。 成田からマレーシアのクアラルンプールまでは所要約7時間、時差は1時間だった。 機材は共同運航となるJALの787型機で、座席背面のモニターが大きくとても快適だった。 クアラルンプール国際空港は以前スイスへ行く時の乗り継ぎで何度か利用したことがあり懐かしかった。 乗り継ぎ時間は2時間半ほどでちょうど良かった。

   カトマンドゥ行きの便の出発ロビーで関空から来たるみちゃんと4年ぶりに再会する。 2か月前にるみちゃんが行かれたペルーの山の土産話などを聞いていると、マレーシア航空の乗務員が来て、私達のザックを預託荷物として機内に搬入したいとお願いされた。 さてはオーバーチャージを請求されるのかと思ったが、どうやら機材が小さいため荷物を入れる棚のスペースが狭いということらしい。 なるほど、先ほどまでの快適な機材とは大違いで、横6人掛けの国内便のような小型機だった。 クアラルンプールからカトマンドゥまでは所要約4時間、時差は2時間15分だった。 

   3年ぶりのカトマンドゥのトリブヴァン空港は地震後に少しリフォームされたような感じで、ビザの自動申請機が数台置かれていたのみならず、係員がいるビザの申請カウンターも新設され、入国手続きとは別になっていた。 今回は3日後にラサに飛ぶので、15日間の観光ビザで25ドルだった。 到着ロビーで出迎えてくれた平岡さんとエージェントの車でホテル『アンナプルナ』に向かう。 ホテルへの到着は予定どおり日付が変わってからになってしまったが、快適なツインルームを一人で使えたのでゆっくり寛げた。


クアラルルンプール国際空港


カトマンドゥのトリブヴァン空港


カトマンドゥのホテル『アンナプルナ』


快適なツインルームを一人で使う


  【カトマンドゥからラサへ】
   9月2日、8時半に起床。 曇天で日本と同じように蒸し暑い。 上質の朝食のバイキングは以前よりもさらに良くなったような気がした。 朝食後に一昨日からカトマンドゥ入りしている柴田さんとロビーで落ち合い、しばらく自己紹介を兼ねて歓談する。 間もなくマウンテン・エクスペリエンス社の社長のタムディンが現れ、中国へのビザの申請に必要なパスポートを預けた。 ラサまでの便は預託荷物が20キロまでで、ラサからの車での移動もなるべく荷物は少ない方が良いので、B.Cまでは使わない登山道具などを陸路で運ぶ青い樽に入れるようにとの指示があった。 

   メンバー全員が揃ったところで平岡さんから現在のチベット情勢について次のとおり説明があった。 ネパール側のコダリと中国側のザンムーを結ぶ国境の峠は急峻で、先の地震ではかなり道路が崩壊したため、道路を再建してもまた同じような結果になることが予想される一方、ネパール側のシャブルベンシから中国側のケーロンを結ぶ国境の峠は平らで標高も低いため、これからはこのルートがメインになるのではないかと思われる。 チベットは中国国内の富裕層の旅行者や登山者が急増したため、道路や鉄道の整備が進み、外国人観光客が来なくても充分経済が成り立つようになり、逆に国内の観光客を保護するためにも外国人が入ってこない方が都合が良く、その点では外国人の観光客を呼び込みたいというネパールとは全く違う。 ネパール人に対する入国費用も昔はタダ同然だったが、今は外国人の7割くらいの費用が掛かるとのことで、今回はキッチンスタッフにチベット人を雇用するとのことだった。

   今日はタメルなどへの散策はせず、昼間はエアコンの効いた快適なホテルの部屋でのんびり過ごす。 昼食はホテルの近くのパン屋でチキンバーガーとアップルパイを買って食べたが、これが両方共とても美味しかった。 ホテルの周辺では地震で倒壊した建物はなかったようで、地震前と何ら変わらない感じがした。 夕食はメンバー全員でホテルのレストランで民族歌謡の演奏を聴きながら、カレーのコース料理を食べた。 食事代は@2200ルピー(邦貨で約2200円)だった。


ホテル『アンナプルナ』


ホテルの朝食のバイキング


マウンテン・エクスペリエンス社の社長のタムディン(左端)


登山道具などを陸路で運ぶための青い樽


ホテルの周辺は地震前と何ら変わらない感じがした


ホテルの近くのパン屋で買ったチキンバーガーとアップルパイはとても美味しかった


ホテルのレストランでの夕食


カレーのコース料理


   9月3日、夜中は雨が降り今朝も曇っている。 昨日エージェントを通じて申請したビザの発給を待つため、今日も一日中カトマンドゥに滞在する。 7時に朝食を食べ、8時前にプジャ(祈祷)を受けるためタクシーでボダナートのゴンパ(チベット仏教の寺院)へ向かう。 途中の道路は地震の前よりも路上にゴミが少なくなり綺麗になったような気がした。 ボダナートのシンボルのストゥーパ(仏塔)の尖塔部は地震で壊れてしまったようで修理中だった。 ボダナートを散策しながら一緒にプジャを受けるシェルパ達を待っていると、今回登山隊をシェアする倉岡さんの隊のメンバーがシェルパ達と一緒に現れたが、意外にもその中に4年前にカトマンドゥで夕食を共にした五味さんの姿があったので驚いた。 倉岡隊の隊員も男性二人と女性一人で私達の隊と同じ男女比率だったが、意外にも8人中56歳の私が一番長老のようで、若返りした昨今の登山界の世相を反映しているかのようだった。 サーダーのペンバ・ギャルツェンは、3シーズン立山の剱御前小屋で働いた経験があるとのことで日本語は堪能だった。

   大勢の修行僧が見られたゴンパ(僧院)でのプジャが終わると、その控室で今回お世話になる6人のシェルパの紹介があった。 一般的にシェルパはサーダーの兄弟や親戚ということが多いが、サーダーのペンバ・ギャルツェンとは初対面だったので、必然的に知っているシェルパはいなかった。 サーダー以外のシェルパの名前は、ペンバ・ヌル、ニマ・カンチャ、ニマ・ヌル、パサン、テンジンとのことだったが、毎度のことながらすぐに名前と顔は覚えられなかった。 陸路でチベットに入るシェルパ達とはここで別れ、サーダーのペンバや倉岡隊のメンバーとボダナートの敷地内の洒落た喫茶店でしばらく歓談した後、タクシーでタメルに行き、韓国料理店で焼肉などの昼食を食べた。 倉岡隊の隊員は長野の五味さんと羽山さん、東京の星野さんという方で、平均年齢は私達の隊より一回りほど若かった。 羽山さんとは2003年のアコンカグア登山の時にB.Cでお会いしていたことが分かり、あらためてこの世界の狭さを知った。

   タメルからは歩いてホテルに戻り、陸路で運ぶ登山用品を青い樽に詰め込んでから、エアコンの効いた快適なホテルの部屋でのんびり過ごした。 夕食は柴田さんがタメルで見つけた日本料理店『一番』に行くつもりだったが、昼過ぎから降り始めた雨が止まなかったので、ホテルの近くの日本料理店『古都』で、定番のすき焼き定食を食べた。


朝食のバイキング


ボダナートのシンボルのストゥーパ(仏塔)の尖塔部は地震で壊れてしまったようで修理中だった


サーダーのペンバ・ギャルツェン(左から2番目)


ボダナートのゴンパには大勢の修行僧が見られた


ボダナートのゴンパでプジャを受ける


今回お世話になる6人のシェルパ


登山隊員とシェルパ達


ボダナートの敷地内にある洒落た喫茶店


昼食はタメルの韓国料理店で食べた


倉岡隊には五味さんの姿があった


日本料理店『古都』のすき焼き定食


   9月4日、昨日からの雨がまだ降り続いていた。 今日はいよいよチベット(中国)のラサに向けて出発する。 隣国の中国へはまだ行ったことがなかったが、図らずも日本からではなくネパールから入国することになった。 これからは高所順応の日々となるので、朝食のバイキングをお腹一杯に食べた。 朝食後に近くのホテル『イエティー』に泊まっていた倉岡隊のメンバーがホテルのロビーに集まり、一緒にエージェントの車でトリブヴァン空港に向かう。 今日は女性だけのお祭りがあるようで、赤いサリーを纏った女性達が途中のパシュパティナートという寺院の前に大勢見られた。

   昨日は悪天候のためラサへの便が飛ばなかったようで、出発時間は1時間近く遅れて正午過ぎになった。 機材は中国国際航空の古いタイプのエアバスで、ヒマラヤの山々眺めるには都合が良い窓側の席に座ることが出来たが、あいにくの曇天のため山は見えず、チベットらしい荒涼とした大地と時折小さな雪山が眼下に望めただけだった。 機内の気圧は低めで、高度計の数字で常に2300mに保たれ(一般的な国際線では1500m程度)、ラサゴンカル国際空港に着く直前には3400mとなった。 飛行時間は意外と短く1時間20分ほどだった。 滑走路の脇には戦闘機が数十機置かれ、いかにも今の中国らしかった。

 

カトマンドゥからラサへ


朝食のバイキング


倉岡隊のメンバーと一緒にエージェントの車でトリブヴァン空港に向かう


赤いサリーを纏った女性達がパシュパティナートという寺院の前に大勢見られた


中国国際航空の古いタイプのエアバス


チベットらしい荒涼とした大地と時折小さな雪山が眼下に望めた


ラサの空港の滑走路の脇には戦闘機が数十機置かれていた


ゴンカル国際空港


   空港の到着ロビーにはリエゾンオフィサー(中国政府の連絡将校)のウドゥが出迎えてくれた。 この後ウドゥとはラサからB.Cの間で行動を共にすることになった。 空港からラサ市内への道路は自動車専用で、北京オリンピックの年に造られたものだという。 新しい高架の鉄道の線路も見られた。 走っている車はみな新しく、ネパールとは全く違う。 チベットというよりも完全に“中国”だ。 道路脇には人家は見られなかったが、牧場や広葉樹の植林が見られ、先ほど機上から見たチベットらしい風景ではなかった。 空港からは1時間ほどでラサ市内に入った。 ラサの新市街には高層ビルも多く見られ、ラサのシンボルとも言えるポタラ宮の周囲も普通の市街地となっていたのが意外だった。 

   リエゾンが指定したホテルはツインの一泊二食付きで一人当たり200ドルという高級宿で、ホテルのフロントの脇には医療用酸素器具が置かれた健康相談所があった。 今日からは柴田さんと一緒の部屋となり、同好の士との色々な話しが出来て良かった。 シャワー室はガラスでトイレと仕切られたタイプで、熱いお湯がいつでも潤沢に出た。 布団は羽毛布団だった。 

   夕食はホテルのレストランで中華料理を食べたが、高所に入ったので腹八分目にセーブしておいた。 味が辛いことを心配していたが、意外にも全く辛くなく、また薄味で良かった。 夕食後のSPO2(血中酸素飽和度)と脈拍は79と71で、さすがに高所に来たという感じがした。 柴田さんのGPSの標高は3650mとのことだった。 疲れていたのですぐに眠れたが、その後は1時間毎に頭痛で目が覚めた。 嫌な偏頭痛ではなかったので、あえて深呼吸はせずにそのまま眠り続けた。


空港からラサ市内への自動車専用道路


ラサ市内の入口の検問所


ラサの新市街の高層ビル


ラサのシンボルとも言えるポタラ宮


ラサで宿泊した高級ホテル


ホテルのロビー


ホテルの室内


夕食はホテルのレストランで中華料理を食べた


   9月5日、7時半に起床。 中国全土が北京時間を使用しているため、日本との時差は僅か1時間でネパールとも2時間15分の時差があるため、まだ周囲は薄暗い。 起床後のSPO2(血中酸素飽和度)と脈拍は86と60で、よくある症状だが目の奥が痛かった。 柴田さんは頭痛は全くないとのことで羨ましかった。 朝食のバイキングは中華料理のみだったが、野菜が中心だったので、私にはありがたかった。 ただ、牛乳やジュースには粉末が使われていたのが不満だった。 頭痛は少しするが、食欲は普通にあり、何でも美味しく食べられた。 朝食後にフロントの脇の土産物店で両替をする。 1元は約15円、1ドルは約6元だった。

   今日はラサでの滞在日だ。 頭痛が治まってきたので、昼前に皆と一緒にリエゾンの車でポタラ宮に行く。 さすがにラサで一番の観光地だけあって、混雑を避けるための入場制限をしていたので、1時間ほど中庭で待たされた。 外側の長い石畳のスロープをしばらく登ってから、一般公開されている宮殿の左側の建物の中に入る。 入場料は200元(邦貨で約3000円)だった。 残念ながら建物の内部は撮影禁止で、しかも照明が暗くしてあるので、目の悪い私には細部まで良く見えなかったが、非常に多くの仏像や経文が安置され、博物館としては一見の価値はあった。 観光というよりは巡礼に来ているという人が多く、そこら中に人民元のお札が喜捨されていた。


野菜が中心の朝食のバイキング


郵便局


銀行


ポタラ宮を見学する


外側の長い石畳のスロープをしばらく登る


一般公開されている宮殿の左側の建物


ポタラ宮から見た市街地


ポタラ宮の参道


   1時間ほどでポタラ宮の見学を終え、参道でヨーグルトを買い食いしてから、観光客に人気がある『ラサキッチン』というレストランで昼食を食べた。 高級感はなかったが、料理は速くしかも丁寧に作られていて、味付けも良かった。 昼食後は皆で銀行に両替をしに行ったが、すでに営業時間が終わっていた。 銀行からはリエゾンの車には乗らず、メインストリートを散策しながら、スーパーマーケット(超市)やパン屋で雑貨やお菓子やパンなどを買って夕方にホテルに戻った。 ラサの市街は入国前にイメージしていた風景とは全く違い、カトマンドゥのような埃っぽさなどは一切なく、治安も良さそうに思えた。 

   夕食は今日もホテルのレストランで中華料理を食べたが、基本的にホテルでの朝夕の食事はサービスという感じで、高級ホテルであっても上質なものではないことが分かった。


観光客に人気がある『ラサキッチン』というレストラン


新聞社


公衆トイレ


スーパーマーケット(超市)で雑貨やお菓子を買う


土産物屋の緞通


夕食はホテルのレストランで中華料理を食べた


  【ラサからティンリへ】
   9月6日、7時半に起床。 夜中に雨が降り、昨日以上に曇が多い。 夜中は軽い頭痛で2〜3回目が覚めた。 起床後のSPO2と脈拍は86と54で、頭がすこしぼんやりしている。 まだラサの高度にも順応してないことが分かってガッカリした。 今日は3900mのシガツェに車で移動するが、少し不安を感じる。

   10時にリエゾンの車でホテルを出発し、銀行で両替を済ませてからシガツェに向かう。 意外にも銀行の両替機はATM化されていて、日本語の案内もあった。 ラサからシガツェは260キロほどとのこと。 二日前に通った空港までの自動車専用道路を通り、空港の手前から一般道路(国道318号線)に入ってヤルツァンポ川という大河に沿って西へ向かう。 道路は舗装の状態も良く空いているので、スピードはいくらでも出せるが、リエゾンが運行している外国人旅行者の車は中国政府の管理下に置かれ、GPSと途中の検問所で通行時間を制限されるため、決められた移動時間よりも早く目的地に着くことが出来ない仕組みになっていた。 昼食はリエゾンの指定するドライブインのような店で食べたが、料理が矢継ぎ早に次々と出てきたのが印象的だった。

 

ラサからシガツェへ


簡素なホテルの朝食


銀行の両替機はATM化されていて、日本語の案内もあった


ガソリンスタンド


国道318号線と並走する高架の鉄道の線路


ヤルツァンポ川という大河


昼食はリエゾンの指定するドライブインのような店で食べた


昼食を食べた店内


   道は緩やかな登り下りを繰り返しながら、徐々に高度を上げていくような感じで、夕方の5時前にシガツェの市内に入った。 チベットではラサに次いで2番目に大きいというシガツェは、ラサに比べると少し田舎臭い感じがしたが、それでもまだまだ私がイメージしていたチベットの町よりも垢抜けていた。 ラサで3650mに合わせた高度計の標高は3870mと僅かに220m上がっただけだった。 宿泊したホテルは地元では伝統がある名宿らしいが、内装や外観が少々古びていた。 それでもシャワーからは熱いお湯が潤沢に出るし、ネパールのトレッキングで泊まるロッジに比べたら正に天国だ。

   夕食は今日もホテルで食べることになったが、ホテルが用意した中華のコース料理ではなく、各自がステーキなど好みの料理を注文して食べた。 頭痛もようやく治まり、今晩は熟睡出来そうな気がしたが、残念ながら1回だけ軽い頭痛で目が覚めた。


街道脇のトイレ


トイレの内部


検問所の手前で車を停めて時間調整をする


ラサに比べると少し田舎臭い感じがするシガツェの市街


シガツェで宿泊したホテル


ホテルのロビー


ホテルの室内


夕食は各自が好みの料理を注文して食べた


   9月7日、7時に起床。 今日も夜中に雨が降り、早朝は曇っていた。 室温も22度とそれなりに冷え込んでいた。 起床後のSPO2と脈拍は88と54で、体調はまずまず良いが、少し鼻水が出ていた。 朝食の中華バイキングの主菜は万頭とお粥だった。 今日はシガツェでの滞在日だ。 朝食後に皆と一緒にリエゾンの車でシガツェのシンボルとも言えるタシルンボ寺を見学しに行く。 残念ながらポタラ宮と同じように建物の内部は撮影禁止だったが、チベットで一番大きいという仏像を始め、ポタラ宮よりも沢山の仏像が安置され、ポタラ宮以上に見ごたえがあった。 お寺の内部の構造が複雑なため、順路どおりに進まないと迷子になりそうだった。

 

朝食の中華バイキング


タシルンボ寺の入口


タシルンボ寺を見学する


タシルンボ寺を見学する


タシルンボ寺を見学する


タシルンボ寺を見学する


お寺の内部の構造が複雑なため、順路どおりに進まないと迷子になる


   1時間半ほどでタシルンボ寺の見学を終えると、入口の山門からマニ車が並ぶお寺の外壁に沿って時計回りにしばらく歩き、お寺の背後に聳える小高い裏山に高所順応のために登る。 お寺の裏から無数のタルチョが張り巡らされた岩混じりの踏み跡を20分ほど辿り、高度計の標高でちょうど4000mの顕著なピークまで登った。 このピークからはタシルンボ寺の全容はもちろんシガツェの町が隅々まで良く見渡せて面白かった。 しばらく休憩してからお寺の裏まで踏み跡を下り、さらに時計回りに外壁に沿ってお寺の周りを一周してから、参道の中華料理店で昼食を食べた。 昼食時に倉岡さんが手に入れたヤクのバターを味見させてもらったが、その後これが原因と思われる酷い下痢になってしまった。

   昼食後は市内を散策する人達と別れ、リエゾンの車でホテルに戻った。 夕方前に水などの買い物を兼ねて柴田さんとホテルの近くの問屋街を散歩したが、ホテルに戻ってから急に体調が悪くなってしまい、まるで高熱があるかのように体の節々が痛くなってきた。 夕食は今日もホテルのレストランで食べることになったので助かった。 食欲は普通にあるが、体調が悪いのでいつもよりセーブして食べた。 夕食後のSPO2と脈拍は90と68で順応は進んだが、寝る前にはとうとう体が震え出し、夜中には何度もトイレに足を運ぶことになってしまった。 下痢は高度障害によるものではなく、食あたりによるものだった。


マニ車が並ぶお寺の外壁に沿って時計回りにしばらく歩く


お寺の背後に聳える小高い裏山に登る


無数のタルチョが張り巡らされた岩混じりの踏み跡を20分ほど辿る


高度計の標高でちょうど4000mの顕著なピーク


4000mのピークから見たタシルンボ寺


4000mのピークから見たシガツェの町


昼食は参道の中華料理店で食べた


ヤクのバター


ホテルの近くの問屋街


ホテルのレストランで食べた夕食のピザ


   9月8日、7時に起床。 昨夜は酷い下痢のため七転八倒し、一睡も出来なかった。 朝食はもちろんパスした。 10時にリエゾンの車でホテルを出発し、B.Cまでの最後の町となるティンリに向かう。 しばらくの間標高は変わらず、4000m以下の所を真っ直ぐに進んでいたが、次第に勾配のあるカーブの多い山道となった。 悪いものは全て出し尽くしたようで、途中で困ることはなかったが、中国ではトイレ事情が悪いため冷や汗ものだった。 一昨日と同じように検問所の手前で車を停めて時間調整をしなければならないのがもどかしい。 シガツェから2時間半ほどで『上海から5000キロ』という国道建設の記念碑があり、その後はタルチョが四方に張られた4529mの峠と5248mのラクパ・ラ(ギャツォ・ラ)の二つの峠を越える。 ラクパ・ラにはエベレストが見えるという案内板があったが、今日はあいにくの曇天で見えなかった。 この辺りの道路は2008年の北京オリンピックの前は未舗装だったらしい。 

   峠からしばらく下ると、軍隊が駐屯する大きな検問所があり、車から降りて一人一人パスポートのチェックを受けた。 3時過ぎに国道脇のドライブインでようやく遅い昼食となった。 最近舗装されたというロンブク寺があるエベレストのB.Cへ通じる道を左手に見送り、5時半に目的地のティンリに着いた。 ラサで3650mに合わせた高度計は4300mを指していた。

 

シガツェからティンリへ


リエゾンの車でティンリに向かう


シガツェからしばらくの間標高は変わらず、4000m以下の所を真っ直ぐに進んだ


『上海から5000キロ』という国道建設の記念碑


タルチョが四方に張られた4529mの峠


5248mのラクパ・ラ(ギャツォ・ラ)を車で越える


ラクパ・ラ(ラは峠の意味)の記念碑


チョモランマ国立公園の入口


国道脇のドライブインで遅い昼食を食べる


   都会のラサやシガツェとは全く違う“オールド・ティンリ”とも言われる寒村のホテルは、以前は山小屋のようなものしかなかったらしいが、今回泊まったホテルでは予想に反してトイレは水洗でベッドは新しく、シャワーからも熱いお湯が潤沢に出たので嬉しかった。 到着後のSPO2と脈拍は84と65で、6000m級の山を登る時の4000m台のB.Cでの数値に近かった。 

   夕食のためホテルのレストランに行くと、ケーロン経由の陸路で来たシェルパ達と5日ぶりに再会した。 夕食はバイキング形式で野菜が中心となり、質も量も今までと比べれば雲泥の差だったが、お腹を下した後だったのでちょうど良かった。 夕食後に近くの雑貨屋に水を買いに行くと、1.5リッターのボトルが5元(ラサでは4元・邦貨で60円)で意外と安かった。


ティンリで宿泊したホテル


ホテルの室内


ホテルのレストランでケーロン経由の陸路で来たシェルパ達と5日ぶりに再会した


夕食はバイキング形式で野菜が中心となった


ホテルの近くの雑貨屋


   9月9日、7時に起床。 予想どおり夜中は軽い頭痛で3〜4回目が覚めた。 ラサでの二泊目と同じくらいだ。 室温は19度と日本の晩秋くらいの感じになってきた。 お腹の調子はほぼ回復したが、今度は黄色い淡が出て鼻の調子が少し悪い。 起床後のSPO2と脈拍は83と60。 朝食はとてもシンプルで、万頭と僅かに餡の入ったパンと玉子焼きだった。

   今日はティンリでの滞在日だ。 朝食後に今日からB.C入りするシェルパ達を見送り、9時半に倉岡隊とは別行動で町から少し離れた5000m級の丘のような山を登りに行く。 今日は久々に朝から晴れていて、町外れの川に架かる橋の上から悠然と聳える目標のチョ・オユーが望まれ、その左にはエベレストも肉眼ではっきり見えた。 ホテルからシガツェ方面に3キロほど車道を歩き、青い看板と電柱が立つ草付の斜面を適当に登っていく。 しばらくすると微かな踏み跡やケルンなどが見られるようになり、登り易くなってきた。 こんな地味な山でも登られていることが不思議に思えた。 この夏にペルーの6000m峰を登っている柴田さんやるみちゃんの登高スピードにはついて行けないのでマイペースでゆっくり登る。 右手にシシャパンマ(8013m)と思われる山が見えてきた。 雲が少し出てきたが、風もなくまずまずの登山日和だ。 斜面の傾斜は次第に緩やかになり、取り付きから1時間半ほどでタルチョが張り巡らされた広く平らなピークに着いた。 標高は柴田さんのGPSで4700mだった。


ホテルのレストラン


朝食の万頭と僅かに餡の入ったパンと玉子焼き


今日からB.C入りするシェルパ達を見送る


道路の脇を歩く牛


町から少し離れた5000m級の丘のような山(正面)を登りに行く


町外れの川に架かる橋の上から見たチョ・オユー(右端)とエベレスト(左端)


5000m級の丘のような山へ電柱が立つ草付の斜面を適当に登っていく


柴田さんやるみちゃんの登高スピードにはついて行けないのでマイペースでゆっくり登る


シシャパンマ方面の山々


チョ・オユー


雲が少し出てきたが、風もなくまずまずの登山日和となった


タルチョが張り巡らされた広く平らな4700mのピーク


   今日の順応はここまでの予定だったが、あと二日後には4900mのB.Cまで上がらなければならないので、もうひと頑張りして前方に見える次のピークまで足を延ばすことになった。 一旦コルまで100mほど下って登り返すので予想よりもハードだったが、1時間ほどでケルンが積まれただけの地味なピークに着いた。 標高は4900mほどだった。 あいにく高い山はみな雲に隠れてしまったが、5000m近くまでの順応が出来て良かった。  帰路は最初の4700mのピークには戻らずに、直接眼下に見える車道を目指して踏み跡のない斜面を適当に下り、最後は取り付いた電柱の立つ草付の斜面を下って車道に降り立った。 往きには感じなかったが、3キロほど車道歩きは退屈で足が棒になった。

 

前方に見える次のピークまで足を延ばす


4700mのピークから次のピークへの登り


次のピークへの登りから見た4700mのピーク


ケルンが積まれただけの地味な4900mのピーク


国道から見た4700mのピーク(中央右手前)と4900mのピーク(中央左奥)


   2時半にホテルに戻り、レストランでトゥクパ(うどん)を食べる。 稲庭うどんのような滑らかな舌触りでとても美味しく、つゆの味は意外にも日本のものと全く変わらなかった。 食後に倉岡さんが町で手に入れたという羊の肉を煮込んだスープを少しいただいた。 私達の後から出発した倉岡隊は、最初の4700mのピークまでとしたとのことだった。 夕方のSPO2と脈拍は85と66で、体調もまずまず良かった。 夕食は今日もホテルのレストランで食べたが、昨日よりも中華料理のバイキングの内容が悪くてがっかりした。


オールド・ティンリの町と宿泊したホテル


稲庭うどんのような滑らかな舌触りのトゥクパ(うどん)


倉岡さんが町で手に入れたという羊の肉を煮込んだスープ


夕食はホテルのレストランで質素な中華料理のバイキングを食べた


   9月10日、7時に起床。 昨夜は体調が良かったので熟睡出来ると思ったが、寝た直後にお腹に違和感があり、下痢にはならなかったものの殆ど眠れなかった。 柴田さんも僅かに違和感があったとのこと。 起床後のSPO2と脈拍は88と58ですこぶる良かった。 朝食は昨日と同じで、万頭と僅かに餡の入ったパンと玉子焼きだった。 朝食後に二回軟便がありスッキリしたが、原因は昨日食べた羊の肉だったようで、五味さんも酷い下痢になってしまったようだ。

   今日もティンリでの滞在日だ。 天気は昨日よりも悪く、青空が雲の間から僅かに見える程度だ。 9時半に今日も倉岡隊とは別行動で昨日と同じ山を登りに行く。 るみちゃんは順応よりも休養を優先したいとのことで、柴田さんと平岡さんの三人で登ることになった。 退屈な車道を30分ほど歩き、青い看板と電柱が立つ取り付きから昨日下ったルートを登り、ケルンが積まれた4900mのピークを目指す。 ルートはだいたい記憶しているので、途中から柴田さんと平岡さんには先行してもらい、マイペースでゆっくり登る。 今日は陽射しがあまりないので寒い。 取り付きから2時間ほどで正午に4900mのピークに着くと、一つ先のピークからこちらに向かってくる柴田さんと平岡さんの姿が見えた。

   一つ先のピークまでは起伏も殆ど無く、すぐに着けそうに思えたので私も更に先に進み、二人とすれ違ってからケルンの立つ5000mに少し満たないピークまで登りトンボ返りで引き返した。 4900mのピークからは三人一緒に取り付きまで下り、車道の途中で別の場所に行っていた倉岡隊と合流して2時にホテルに戻った。 

   昼食は宿の食堂で中華料理を食べが、夕食はホテルのレストランが満席だったので、ホテルのすぐ隣の小さな店に入り、とりあえず前菜にとトゥクパ(うどん)と餃子を注文した。 トゥクパは四川風で辛かったが、餃子は醤油ベースのワンタンのような感じで美味しかった。 ホテルのレストランに戻って口直しに中華料理を注文するとトゥクパが出てきたので笑うしかなかった。 夕食後のSPO2と脈拍は86と61でまずまず良かった。


今日も倉岡隊とは別行動で昨日と同じ山を登りに行く


4700mのピークを眺めながら直接4900mのピークに登る


4900mのピークで寛ぐ柴田さんと平岡さん


4900mのピークから一つ先のピークへ


ケルンの立つ5000mに少し満たないピーク


4900mのピークから取り付きに下る


国道沿いの新しい公共の水洗トイレ


車道の途中で別の場所に行っていた倉岡隊と合流した


ホテルのすぐ隣の小さな店で食べたトゥクパ(うどん)は四川風で辛かった


  【ティンリからB.Cへ】
   9月11日、7時に起床。 今日も天気はあまり良くなさそうで、室温は18度だった。 昨夜はチベットに来てから初めて夜中に頭痛や下痢で目が覚めることがなかった。 起床後のSPO2と脈拍は91と57で、数値どおり体調も良かった。 今日からいよいよB.C入りとなるが、最低限度の順応が出来て良かった。 

   朝食後にゆっくり荷物をまとめ、11時前にリエゾンの車でホテルを出発。 倉岡さんはB.Cに羊一頭を持っていくようだ。 車内で時計を2時間15分遅らせ、北京時間からネパール時間に合わせる。 ホテルから目と鼻の先の未舗装の道に入ると舗装工事の準備が行われており、道路脇には沢山の作業員の姿が見られた。 道路は未舗装ながらもすでに整地は終わっていたので、60キロくらいのスピードで走っても全く快適だ。 少し蛇行している旧道に沿って舗装工事中の新しい道路が山に向かって真っ直ぐに延びていた。 1〜2年後には舗装工事が終わり、B.Cまで行けるようになるのだろう。 途中にはセメントや骨材を作るプラントも見られた。 車は40分ほど勾配の殆ど無い平原を走ってから、緩やかなカーブを描いて徐々に高度を上げていくと、意外にもティンリから1時間で沢山のテントの花が咲く4900mのB.Cに着いてしまった。 B.Cから先へも同じ状態で道路が続いていた。


B.Cに持っていく羊の肉


リエゾンの車でB.Cに向かう


未舗装の道に入ると舗装工事の準備が行われており、道路脇には沢山の作業員の姿が見られた


B.Cに向かう車の車窓から見た氷河の山々


   道路脇にあるB.Cは、まるで工事現場の資材置場のような感じ(本当にそうかも知れない)で、車はテントのすぐ脇につけられ、一昨日からB.C入りしているスタッフ達が迎えてくれた。 B.Cは風が強くヤクの糞臭かったが、長いトレッキングの末に辿り着き、とても寒かったヒムルン・ヒマールのB.Cと比べたら天国だ。 キャンプ地の一番良い場所には中国人隊用の常設テントが見られた。 今日から利用する個人用テントに陸路で運ばれた荷物を搬入し、快適なダイニングテントで寛ぐ。 キッチンテントに行くと、以前の遠征で何度かお世話になったコックのドゥルゲの姿があり、私のことを良く覚えていてくれたので嬉しかった。 ドゥルゲ以外のキッチンスタッフは、タシとクゥンジョという二人のチベット人だった。 

   今日からは食事は基本的に和食となる。 昼食はオーブンで焼いた鶏肉と肉団子で味噌汁は赤だしだった。 ご飯も4900mの高度にしては良く炊けていて美味しかった。 B.Cまで車で入れるため、地元民が物売りにやってくるのが煩わしい。 乾燥がティンリよりも一段と進み、アレルギー反応で鼻水が出たり、鼻が詰まったりして不快だ。 サーダーのペンバとの協議でB.Cには今日から5泊することに決まった。

   夕食はマッシュルームのスープ、豚肉のすき焼き、茎野菜のゴマ和えに酢飯の混ぜご飯だった。 腹八分目にするつもりだったが、和食の懐かしさに負けてお腹一杯に食べてしまった。 夜になっても工事用の大型車両がテント場の脇を走っているので、B.Cにいるという感じが全くしない。 就寝前のSPO2と脈拍は84と67だった。 チャックが壊れた愛用のモンベルのシュラフに代えて、今回は新品のヴァランドレのシュラフを初めて使うことになった。


工事現場の資材置場のようなB.C


チベット人のキッチンスタッフのタシとクゥンジョ


以前の遠征で何度かお世話になったコックのドゥルゲと再会する


個人用テント


ダイニングテント


B.Cの脇の道路を通る工事用の大型車両


キャンプ地の一番良い場所には中国人隊用の常設テントが見られた


快適なダイニングテントで寛ぐ


夕食の豚肉のすき焼き


   9月12日、周囲が明るくなった6時半に起床。 昨日までの北京時間なら8時45分だ。 起床後のSPO2と脈拍は88と66で脈が高かった。 夜中は野犬が付近を吠えながら歩き回っていたので怖かった。 頭痛ではなく鼻詰まりで熟睡出来なかったが、この高度での初日の夜にしてはまずまずだった。 天気もまずまずで、純白のチョ・オユーの山頂が良く見えた。 朝食のパンケーキはふんわりしていて美味しかった。 スタッフ達は今日からA.B.Cへの荷上げ、倉岡隊はレスト、私達の隊は順応のためB.Cの背後の小高い山に登ることになった。 

   B.Cから所々に微かな踏み跡のようなものが見られる草付の斜面を1時間ほど登ると、スキー場のスロープのような広い砂礫の斜面となった。 どこまで登ってもピークが見えてこない単調な斜面を各々のペースで直登していく。 変化に乏しい山だったが、唯一野生の鹿の群れが見られた。 B.Cから3時間ほどでようやくケルンが積まれた平らなピークに着いた。 GPSでの標高は5650mで、A.B.Cの標高とほぼ同じだったため、ここで終了することになった。 残念ながら雲が湧いてしまい、チョ・オユーの山頂は見えなくなってしまった。 天気が冴えないのでケルンを積み増して早々に下山する。 下りのスピードは速く、1時間ほどでB.Cに着いた。


朝食のパンケーキ


B.Cからは純白のチョ・オユーの山頂が良く見えた


順応のためB.Cの背後の小高い山に登る


所々に微かな踏み跡のようなものが見られる草付の斜面を登る


スキー場のスロープのような広い砂礫の斜面を登る


野生の鹿の群れ


ケルンが積まれた平らな5650mのピーク


B.Cの全景


   明日はB.Cに滞在することになっていたが、昼食後に平岡さんから、メンバー全員の順応状態が良いので、明日から1泊2日でA.B.C(アドバンス・ベース・キャンプ)に泊まりに行きたいという提案があった。 途中のパルンという放牧小屋のある所までは、有料(100ドル)だが車で行けるとのことだった。 

   夕方の5時のSPO2と脈拍は76と76で、今までで一番悪かった。 この数値で頭痛とかがないのが不思議だ。 夕食はトンカツに切干大根とゴーヤの和え物だったが、昼食の鶏の唐揚げを食べ過ぎたようで、半分しか食べられなかった。 夕食後のSPO2と脈拍は80と67と悪くなり、軽い風邪のような症状で鼻も詰まっていた。


昼食の鶏の唐揚げ


夕食のトンカツ


   9月13日、6時半に起床。 前日の山登りで疲れていたので最初のうちは良く眠れたが、その後は鼻詰まりと頭痛で1時間毎に目が覚め、昨日よりも熟睡出来なかった。 それでも起床後のSPO2と脈拍は85と67で、数値的にはそれほど悪くはなかった。 朝食はトゥクパ(うどん)とパンケーキだったが、少し控え目に食べた。 柴田さんやるみちゃんは全く元気そうで羨ましい。 今日から1泊2日でA.B.C(5700m)に泊まりに出掛ける。

   B.Cに滞在する倉岡隊のメンバーに見送られ、案内役のサーダーのペンバと共にティンリから呼んだ車で8時にB.Cを出発。 舗装工事中の道路の状態はB.Cまでと変わらず、将来的にはこの先のナンパ・ラを越えてネパールまで道が通じてしまうのではないかとさえ思えた。 途中にあったセメントのプラントを過ぎると九十九折の道となったが、道路の状態はとても良く車は順調に坂道を登っていく。 喜んでいたのも束の間、B.Cから車で30分、標高差で300mほど上がった所で工事用の重機が道を塞ぎ、先に進めなくなってしまった。 仕方なく車を降りて工事中の道路を歩き始める。 勾配は緩いが、先が見えない道を延々と歩くのは辛い。

   歩き始めてからしばらくの間は水を飲んでも喉が貼り付くように乾いていたが、ゆっくり歩いていると血の巡りが良くなり、喉の違和感も薄れてきたので安堵した。 30分ほど歩くと車で行けるはずだったパルンの放牧小屋を過ぎ、さらに30分ほど歩くと、古い建物とソーラー畑のあるギャブルンと地図に記された昔のB.Cの跡地(5450m)に着いた。

 

B.Cからパルン・ギャブルンを経てA.B.Cへ


ティンリから呼んだ車でB.Cを出発する


セメントのプラント


車を降りて工事中の道路を歩き始める


パルンの放牧小屋


ギャブルンと地図に記された昔のB.Cの跡地


   ギャブルンは峠のような所で、舗装工事はそこで終わっていたが、その先にもダートの車道が続いていた。 ギャブルンから先はモレーンの末端となっていて、それまで見えなかった氷河の山々が見えるようになり、ようやく山の中に入ったような風景になってきた。 ダートの車道は所々で地震や落石による崖崩れの跡が見られた。 A.B.C(5700m)までの標高差はすでに300mを切っていたが、ギャブルンからA.B.Cまでの間は地図に記されていない緩やかなアップダウンが延々と続き、天気が悪いことも手伝って気が滅入ってくる。

   2時間ほどダートの車道を歩いていくと道幅は次第に狭くなり、いつの間にかナンパ・ラ方面への道から外れた。 天気はますます悪くなり小雪が舞い始めたので、休む間もなく歩き続ける。 両脇を抱えられ酸素を吸って下りてくる登山者とすれ違った。 寒々しい顕著なサイドモレーンの背に取り付き、1時間ほど踏み跡を登っていくと、ようやくA.B.Cのテント村が見えてきたが、その後も各隊のテントが所々に点在し、一番奥の方に建設中の私達の隊のテントサイトまではそこから更に30分ほど掛かった。


ギャブルンは峠のような所で、舗装工事はそこで終わっていた


ギャブルンから先のダートの車道は所々で地震や落石による崖崩れの跡が見られた


氷河の山々が見えるようになり、ようやく山の中に入ったような風景になってきた


ギャブルンからA.B.Cまでの間は地図に記されていない緩やかなアップダウンが延々と続く


寒々しい顕著なサイドモレーンの背を登る


A.B.Cには各隊のテントが所々に点在していた


   車を降りた所から5時間半近くを要し、2時前にメンバーの最後尾で待望のA.B.Cに着いた。 私達の隊のテントサイトは広場のような所ではなかったが、個々のテントの下の地面は平らに整地されていて快適そうだった。 温かいラーメンを食べて英気を養う。 高度計の数字は5622mだったが、GPSでの標高は5702mだった。 天気が良ければここからチュ・オユーが良く見えるらしいが、今日はあいにくの天気で望むべくもなかった。 A.B.Cで使うテントはまだB.Cで使っているので、ここにあるテントは上部キャンプ用のものだ。 テントサイトは風の強いB.Cと違い、地形的な理由からか風が全く当たらず、B.Cよりも暖かくさえ感じた。 夕方のSPO2と脈拍は81と70で、数値的には非常に良く、体調も朝より良い感じがした。

   夕食はゴーヤ入りのダルバートで美味しく食べられた。 就寝前のSPO2と脈拍は74と74で予想どおり徐々に悪くなり、喉も少し痛さがぶり返してきた。 喉の痛みはどうやら風邪のようで、三日後にここに戻ってくる時には治って欲しいと願うばかりだった。


メンバーの最後尾で待望のA.B.Cに着いた


温かいラーメンを食べて英気を養う


A.B.Cの建設を準備しているスタッフ達


仮設のダイニングテントでの夕食


デザートの梨


   9月14日、6時に起床。 チベットに来てから一番の良い天気だ。 夜中は残念ながら予想どおり頭痛で1時間毎に目が覚め、SPO2は一時60台まで下がった。 起床後のSPO2と脈拍は82と69だったが、これは熟睡していないからだろう。 体調はベストではないが、お腹の調子は良く快便だった。 初めて5700mの高所に泊まった割にはまずまずだろう。 夜中の降雪でテントサイトの周囲は薄っすらと雪化粧していた。 A.B.Cは予想以上に周囲の山々の景観が素晴らしく、逆光ながら待望のチョ・オユーの頂が神々しく望まれた。 朝食はカップそばだったが、美味しく食べられた。 

   朝食後は少しでも順応の足しにしようと、C.1へ向かうモレーンの中の踏み跡を30分ほど歩いた。 犬も歩けば何とやらで、C.1から下ってきたパサン・カミ(2013年のアマ・ダブラム登山のシェルパ)とすれ違ったり、無酸素で挑みに来ていたビリー(2011年のマナスル登山の登山隊のメンバー)と再会したりしてとても嬉しかった。


A.B.Cから見たチョ・オユー


A.B.Cから見た氷河の山


A.B.Cから見た氷河の山


A.B.Cから見た氷河の山


A.B.Cから見た氷河の山


C.1へ向かうモレーンの中の踏み跡を30分ほど歩く


C.1から下ってきたパサン・カミとすれ違う


無酸素で挑みに来ていたビリーと再会した


   ダイニングテントでのティータイムの後、10時にB.Cに向かって歩き始める。 それまでは順調だったが、しばらくすると頭痛がしてきたので、皆よりもだいぶ遅れて殿を務めるペンバと一緒にゆっくり下る。 サイドモレーンの背を下ってからのダートの車道は、昨日登ってきた時以上に長く感じ、歩いても歩いても標高が下がらないばかりか、登り返しの方が多いような錯覚すら覚えた。 悪いことに喉の痛みもぶり返してきた。 

   A.B.Cから3時間半ほどゆっくりだが殆ど休まずに歩き続けると、工事中の車道の終点のギャブルンに着いた。 付近には1台のランクルが停まっていたが、意外にもペンバから、これが帰りのタクシーだと言われて嬉しかった。 先行して車道を歩いて下っていたるみちゃんとその先で休憩していた柴田さんと平岡さんをピックアップしてB.Cに戻った。 B.Cでは倉岡隊のメンバーに労われたが、体はヘトヘトに疲れていて、土産話をする気力もなかった。 B.Cは相変わらず風が強く、喉が痛い私には辛かった。

   昼食後は昼寝をして体力や風邪の回復に努めたが、夕食前のSPO2と脈拍は82と70で、A.B.Cとあまり変わらなかった。 夕食は標高が下がったので美味しく食べられたが、腹八分目にしておいた。 疲れと睡眠不足で今夜は熟睡出来ると思ったが、咳や淡が止まらず、昨日に続いて殆ど眠れなかった。 それでも5700mのA.B.Cに泊まったことで、高度に対する不安が払拭されたことは間違いなかった。


B.Cに向かって歩き始める


サイドモレーンの背の末端から見たダートの車道


ダートの車道は昨日登ってきた時以上に長く感じた


ギャブルンからランクルのタクシーに乗れた


昼食の焼きそば


夕食の酢豚


   9月15日、6時半に起床。 今朝も雲一つない快晴で、B.Cからチョ・オユーの頂が良く見えた。 今日は車での移動を含め、初めて一日中何もしなくて良い休養日だ。 午前中はダイニングテントで皆と歓談しながら過ごす。 SPO2と脈拍は84と60で、数値・体調共に可もなく不可もないが、時々重い咳が出るので風邪はまだ治っていないようだ。 一方、お腹の調子は良く、朝食に続き昼食も美味しく食べられた。

   昼食後に今後のスケジュールについて平岡さんから説明があった。 明日からA.B.Cに入るが、A.B.Cでのプジャ(祈祷)の日が19日に決まったので、明後日はレスト(休養日)、18日にC.1タッチ(6400mに建設予定のC.1への往復)、20日以降にC.1に泊まってC.2(7000m)タッチするとのこと。 実質的なB.CとなるA.B.Cの標高(5700m)がマナスルの時のB.Cの標高(4750m)よりも1000mほど高いので、順応登山の回数や上部キャンプでの宿泊日数が少ないのが今回の特徴だ。

   昼過ぎにはSPO2と脈拍は88と58になり、体調も良くなってきたので初めて間食をした。 夕食は炒飯・肉団子・いんげんの味噌和え・茄子の煮付けで、A.B.Cに上がる前の“最後の幸せな夜”だったので、お腹一杯に食べた。


B.Cから見たチョ・オユー


朝食のパンケーキ


今日は車での移動を含め、初めて一日中何もしなくて良い休養日となった


体調はまずまずだったが、時々重い咳が出た


夕食の炒飯・いんげんの味噌和え・茄子の煮付け


  【B.CからA.B.Cへ】
    9月16日、今朝もB.Cからチョ・オユーの頂が良く見えた。 今日は5日間のB.Cでの滞在を終え、いよいよ実質的なB.CとなるA.B.C(5700m)に上がる。 一昨日A.B.Cに泊まっているので不安感は全くないが、風邪が完治していないことが気掛かりだ。 

   朝食後、倉岡隊と共にティンリから呼んだ車で7時半にB.Cを出発。 早朝にも関わらず危惧していた舗装工事はすでに始まっていて、前回より更に手前で工事用の重機が道を塞ぎ、先に進めなくなってしまった。 車の運転手にお金を渡して重機のオペレーターと交渉してもらったが駄目で、仕方なくそこから車を降りて工事中の道路を歩き始める。 高度計の標高はまだ5170mだった。 退屈な車道を延々と歩くのは辛いが、次第に雲が湧き始めたチョ・オユーの雄姿が正面に望めるのが救いだ。 A.B.Cの場所は分っているので、倉岡隊とは別に最初から各々のペースで歩く。 30分ほどゆっくり歩くと、先行する平岡さんや柴田さんの姿は遥か前方となる一方、後方の倉岡隊のメンバーの姿は全く見えなくなり、順応の違いが明らかだった。 車を降りた所から1時間以上歩き続け、ようやく舗装工事の終了点となるギャブルン(5450m)に着いた。 ギャブルンの峠の先からダートの車道をしばらく歩くと、先行していた柴田さん達が休憩していたが、その後はA.B.Cまで皆に追いつくことはなかった。 

   ギャブルンから先の長くて遠い道の記憶は新しく、前回は殆ど休まずに歩き続けた道をこまめに休憩を取りながら進む。 行き交う人もなく、時折前を行くるみちゃんの姿が見える。 順応が進んだ今日はもう少し楽に歩けるかと思ったが前回とあまり変わらず、それどころかサイドモレーンの背を登り始めると頭痛が始まった。 ドゥルゲに作ってもらった梅干しのおにぎりを食べて英気を養う。 歩き始めて6時間後の2時にようやくA.B.Cに着いた。 

   途中で追い抜いていったヤクの集団は私達の隊荷ではなかったようで、キッチンテントの中で荷物の到着を待つ。 1時間後にようやく荷物を満載したヤクが到着し、スタッフに個人用テントを設営してもらった。 夕食はダル(豆)スープと日本のルゥーを使ったカレーライスで美味しく食べられた。 夕食後のSPO2と脈拍は74と72で、時々軽い頭痛がした。 十五夜の月で空は明るいが、チョ・オユーの頂は雲の中だった。


5日間滞在したB.Cを撤収する


倉岡隊と共にティンリから呼んだ車でB.Cを出発する


前回より更に手前で工事用の重機が道を塞ぎ、先に進めなくなってしまった


次第に雲が湧き始めたチョ・オユーの雄姿を望みながら退屈な車道を延々と歩く


ギャブルンの峠の先のダートの車道で先行していた柴田さん達が休憩していた


こまめに休憩を取りながらマイペースで進むと、時折前を行くるみちゃんの姿が見えた


サイドモレーンの背への取り付き


キッチンテントの中で荷物の到着を待つ


荷物を満載したヤク


A.B.Cから見たチョ・オユー


A.B.Cの個人用テント


夕食のカレーライス


   9月17日、テントの中の気温は2度と予想以上に暖かかったが、夜中に雪が降り周囲は一面の銀世界となっていた。 昨夜は予想どおり頭痛で何度か目が覚めたが、風邪の症状が良くなったようで、起床後のSPO2と脈拍は78と58で体調も悪くない。 今日から3週間ほどこのA.B.Cか、それ以上の高所での滞在となるが、出発前に危惧していたA.B.Cでの滞在が何とか出来そうに思えて安堵した。  

   今日は予定どおり完全休養日で、A.B.Cでは朝食は7時、昼食は12時、夕食は6時半とすることに決まった。 るみちゃんは体調が良さそうだったが、柴田さんは少し疲れているようだった。 朝食後は雪が降ったり止んだりしていたが、風がないので少しでも陽が射せば個人用テントの中は暖かくなった。 午前中のSPO2と脈拍は79と59でまずまずだったが、目の奥が少し痛かった。 

   昼食はカツ丼と炒めたキノコ、毎食出される倉岡さんがティンリで買った羊肉のスープは薄味で、水分補給にはちょうど良かった。 午後は天気が少し回復してきたので、ダイニングテントで読書をしながら過ごす。 昼過ぎのSPO2と脈拍は77と67で頭痛の症状はなくなったが、テントの周りを歩きまわるとすぐに息が切れる。 夕食はチキンカツとインゲンのゴマ和えで元気が出た。 夕食後のSPO2と脈拍は74と72で少し悪くなったが、体調は数値どおりには悪くなかった。


夜中に雪が降り周囲は一面の銀世界となっていた


A.B.Cのダイニングデント


A.B.Cのトイレ


A.B.Cのシャワー室


昼食のカツ丼


出発前に危惧していたA.B.Cでの滞在が何とか出来そうに思えて安堵した


夕食のチキンカツ


   9月18日、昨夜は軽い頭痛で何度か目が覚めたが、起床前のSPO2と脈拍は71と58で体調は悪くない。 夜中にまた雪が降ったが次第に晴れてきた。 今日は順応登山で6400mのC.1まで往復する。 6時前にC.1の建設場所を確保するためにシェルパ達がC.1に向かった。 私達も後から出発する倉岡隊に見送られて7時過ぎにA.B.Cを出発する。 前方にはA.B.Cの一番C.1寄りに居を構えていた中国隊の団体がC.1に向かっていく姿が見えた。 モレーンの中の踏み跡はあまり明瞭ではなく、ケルンや所々に立てられた赤旗を目印に進む。 見た目どおり踏み跡は小さなアップダウンの繰り返しで標高が稼げず、1時間ほど歩いた丘の上でA.B.Cからの標高差が僅か50mだった。 

   天気はまずまずで風も弱いが、喉が貼りつくような症状が再発して辛い。 A.B.Cから2時間半ほどでC.1から戻ってきたシェルパ達とすれ違い、大きな氷河湖の脇を過ぎると、ようやく前方にC.1へ突き上げるガレ場の急斜面が見えた。 勾配が次第に増してくると踏み跡は明瞭になり、A.B.Cから3時間40分でガレ場の取り付きに着いた。 A.B.Cとの標高差は320mで、ようやく6000mを超えた。 取り付きで休憩していると、C.1から下ってきたビリーとすれ違った。 ここまで予想以上に時間が掛かったためか、平岡さんからC.1まで行くかは各人の選択で良いという指示があった。 柴田さんとるみちゃんはここで終了することにしたが、私は少しでも順応したかったことと、ガレ場の状態が知りたかったので、高度計の数字が6200mになるまでガレ場を登ることにした。

 

夜中に雪が降ったが次第に晴れてきた


朝食の羊肉のスープとペンネ


後から出発する倉岡隊に見送られて7時にA.B.Cを出発する


前方には中国隊の団体がC.1に向かっていく姿が見えた


踏み跡は小さなアップダウンの繰り返しで標高が稼げなかった


大きな氷河湖の脇を通る


勾配が次第に増してくると踏み跡は明瞭になった


6000mを超えたガレ場の取り付き


ガレ場の取り付きでC.1から下ってきたビリーとすれ違った


   ガレ場の取り付き付近は浮石が多くて歩きにくく、下山してくる人が落とす落石もあったが、徐々に踏み跡の状態は良くなり、短時間で標高が稼げるジグザグの道となった。 頭上には氷河が見え、あと1時間足らずでC.1に着きそうだったが、予定どおり高度計の数字が6200mとなった所でC.1の建設場所を見に行くという平岡さんと別れて引き返すことにした。 ガレ場の取り付きを過ぎると、後からA.B.Cを出発した倉岡隊とすれ違った。 昼過ぎから天気は下り坂となり小雪が舞ってきた。 氷河湖を過ぎると霧で周囲が見辛くなり、ケルンや赤旗に助けられながら休まずに進む。 ようやく後ろから追いついてきた平岡さんと一緒に3時にA.B.Cに戻り、ドゥルゲに作ってもらった暖かいラーメンを食べて生き返った。 

   夜食は野菜のてんぷらと手巻き寿司で、思わずお腹一杯に食べてしまった。 夕食後のSPO2と脈拍は74と72で、昨日と全く同じだった。


ガレ場の取り付き付近は浮石が多くて歩きにくかった


C.1まで登らず高度計の数字が6200mとなった所で引き返した


後からA.B.Cを出発した倉岡隊とすれ違う


平岡さんと一緒に3時にA.B.Cに戻った


夕食の野菜のてんぷら


夕食の手巻き寿司


   9月19日、天気予報では悪天候のはずだったが、朝起きてみたらとても良い天気だった。 昨日の6000mオーバーの順応登山が功を奏したのか、嬉しいことに夜中に頭痛で目が覚めることはなかった。 起床前のSPO2と脈拍は75と60で体調は数値以上に良く、鼻の具合も良く咳も出なくなった。 放射冷却でテント内の気温はマイナス2℃だった。 今日は午前中にプジャ(祈祷)をするため、 早朝からスタッフ達がその準備で忙しく動き回っていた。 朝食は昨日の夕食で残ったてんぷらをトゥクパ(うどん)に入れ、“てんぷらうどん” にして食べたが、とても美味しく食べられたことが嬉しく、そして当たり前のことが不思議に思えた。

   スタッフ達の手慣れた段取りで祭壇が完成し、9時から登山の安全を願うプジャが始まった。 ラマ僧はA.B.Cには呼べないので、少年時代に僧侶として修業したことがあるいうニマ・ヌルが経文を唱え、いつもと変わらないプジャが始まった。 1時間ほど経文が唱えられた後、祭壇を中心にタルチョが四方に張り巡らされ、お米を空に向かって放り投げ、ツァンパ(小麦粉)を顔に塗り合ってプジャはクライマックスを迎えた。 お神酒やお供えのお菓子を頂いた後はいつもなら余興のシェルパダンスという流れになるが、あいにく踊るだけのスペースがないのでシェルパダンスは披露されず、代わりに星野さんが持参したコスプレの道具で大いに盛り上がった。


天気予報では悪天候のはずだったが、朝起きてみたらとても良い天気だった


早朝からスタッフ達がプジャの準備で忙しく動き回っていた


祭壇へのお供え


祈祷してもらう登山用品


いつもと変わらないプジャが始まる


少年時代に僧侶として修業したことがあるいうニマ・ヌルが経文を唱えた


祭壇を中心にタルチョが四方に張り巡らされた


お米を空に向かって放り投げる


ツァンパ(小麦粉)を顔に塗り合う


星野さんが持参したコスプレの道具で大いに盛り上がった


プジャが無事に終わる


   昼食後も引き続き体調が良かったので、スタッフにお湯を沸かしてもらい、シャワーで洗髪をした。 風邪をひくのが嫌なので体は洗わなかったが、頭を洗っただけでもとてもリフレッシュすることが出来た。 SPO2と脈拍は80と64で体調も数値もこの高度ではまずまずだ。 夕方にまた雪が少し降ったが夜には晴れて金星が見えた。 夕食も美味しく食べられ、まるで一つ前のB.C(4900m)にいるような感じで、出発前に危惧していたA.B.Cでの滞在が問題なく出来ていることを実感した。 夕食後はサーダーのペンバと協議し、明日は一日レスト(休養日)で明後日からC.2タッチに行くことになった。


昼食のカレー


夕方にまた雪が少し降ったが夜には晴れた


夕食のイワシのフライ


食事の出来栄えを聞きに来たドゥルゲ


   9月20日、昨夜は体調がとても良かったので熟睡出来ると思ったが、夜中に寒気がしてきたのでジャージや靴下を履いた(それまでは寝袋が暖かいのでアンダーのみで靴下は履いていなかった)が、結局熟睡は出来なかった。 夜中に雪が少し降ったようだが今日も朝は快晴の天気となり、7時前にチョ・オユーの左肩からのご来光となった。 今日はレスト(休養日)だが、一日中陽が射して風の当たらないこのA.B.Cは本当に快適だ。 

   朝食は椎茸などの野菜が入ったラーメンと玉子焼きで、食欲は相変わらず旺盛だった。 朝食後のSPO2と脈拍は80と61で、昨日より僅かに良くなったが、胃腸の調子が良いためか、水分補給が足りないのか便は硬かった。 朝食後は明日からの2泊3日の順応登山で食べるフリーズドライの食料を選ぶ。 食料は全て個人装備として荷上げしなければならない。 朝はカップ麺、行動食は日本から持参した煎餅やチョコレート、夜はカレーと白米を基本として選んだ。 

   午前中の良い天気が嘘のように午後は雪となり、個人用テントの中で上部キャンプに荷上げする物、シェルパ達に荷上げしてもらう物のリストアップをした。 1LのテルモスなどA.B.Cでは無くてもそれほど困らない物や、アタック時に使う予備のヘッドランプや電池などを今回C.1にデポしてくることにした。 夕食はすき焼きだったが、明日からの上部キャンプではフリーズドライ食品の自炊となるので、お腹一杯になるまで食べた。


今日も朝は快晴の天気となった


朝食の椎茸などの野菜が入ったラーメン


2泊3日の順応登山で食べるフリーズドライの食料を選ぶ


今回選んだ食料


行動食として日本から持参した煎餅やチョコレート


午前中の良い天気が嘘のように午後は雪となった


夕食のすき焼き


   9月21日、夜中はほぼ熟睡出来たが、夜が白み始めた5時過ぎに隣のテントの柴田さんから、今日は雪のためC.1に行かなくなったという伝言があった。 少し明るくなってからテントから外を見ると、テントの周りにはすでに数センチの雪が積もっていて小雪が舞っていた。 起床前のSPO2と脈拍は73と58で、後頭部にほんの僅かに痛みがあった。 山なので仕方がないが、山頂付近は相当積もったことだろう。 予備日は一週間あるので、ここは焦らずに我慢するしかない。 

   午前中は雪が降り続いていたので個人用テントの中で過ごしたが、退屈なのか高度障害なのか頭がスッキリせず、いわゆる“倦怠感”のようなものを感じた。 今日も便が硬かったが、脱水なのか胃腸の機能が弱っているのか未だに分からなかった。 やはり順応しているようにみえても、5700mの高度は体に相当ダメージを与えているのだろうとつくづく感じた。

   昼食は焼き鳥とタケノコの炊き込みご飯で美味しかった。 天気は回復しないが気温は上昇し、雪は雨に近くなったため地面の雪はどんどん溶けていく。 昼食後のSPO2と脈拍は76と73だったが、なぜか眠くて眠くて仕方がない。 皆も同じような症状らしい。

   夕方から再び雪が降り始め、明日の出発も微妙になってきた。 夕食は豚肉の煮込みと切干大根で今までになくヘルシーな献立だったので寝る前にはお腹が空いてしまい、日本から持参したアンドーナツを食べた。 食欲が落ちないのが本当に不思議だ。


テントの周りには数センチの雪が積もっていて小雪が舞っていた


朝食のパンケーキ


雪のためC.1に出発しなくなった


午前中は雪が降り続いていた


個人用テントの内部


夕食の豚肉の煮込み


倉岡さんと明日以降の行動予定について協議する


  【A.B.CからC.2へ】
   9月22日、昨夜はほぼ熟睡出来た感じで体調は良い。 雪は止んでまずまずの天気になったので、予定どおり7時過ぎにA.B.Cを出発。 順応がだいぶ進んだようで、ゆっくり歩けば息は切れない。 4日前の前回とは違い、前後には他の隊の姿は全く見られなかった。 モレーンの中の踏み跡はあまり明瞭ではないが、ルートの記憶は新しいので気は楽だ。 天気は朝方よりも良くなり、周囲の山々の景色を眺めながらそれほど退屈せずに歩けた。 順応が進んだため前回よりも今日の方が速いペースで歩けていると思ったが、荷物が前回よりも重たかったせいか、ガレ場の取り付きまでは前回と全く同じ3時間40分を要した。 ガレ場の取り付きでおにぎりを食べて休憩していると、後からA.B.Cを出発した倉岡隊が涼しい顔で追い付いてきた。 

   ガレ場の取り付きからC.1までは標高差で400mほどあるが、落石の危険があるのでC.1まで休まず登るよう平岡さんから指示があった。 取り付きから先は何故か前回よりもさらに遅いペースでしか登れなくなり、途中の傾斜が緩んだ所で休憩出来たので助かった。 C.1の直下からは傾斜が一段と急になり、要所要所にロープが張られていた。 C.1が近づくにつれて足が全く上がらなくなってしまい、A.B.Cでの順応が嘘だったのかとさえ思えた。 天気がだんだんと悪くなり、気持ちもそれに比例して沈みがちとなる。

 

A.B.C ⇒ C.1


雪は止んでまずまずの天気になった


7時過ぎにA.B.Cを出発する


モレーンの中の踏み跡はあまり明瞭ではないが、ルートの記憶は新しい


氷河湖


ガレ場の取り付きで休憩する


後からA.B.Cを出発した倉岡隊が涼しい顔で追い付いてきた


標高差で400mほどのガレ場を登る


ガレ場の途中の傾斜が緩んだ所で休憩する


C.1の直下からは傾斜が一段と急になり、要所要所にロープが張られていた


   1時半にようやくテントの花が咲く氷河の末端のC.1(6400m)に着いた。 A.B.Cで5900mに合わせた高度計の数字は6387mになっていた。 C.1は予想よりも狭く、中国隊の大きなダイニングテントが近くにあるため、なおさら窮屈に感じた。 テントの周りでるみちゃんの到着を待っていると、C.2からの順応から戻ってきたビリーと再会した。 テントは柴田さんと一緒になったが、率先的に水作りをやってくれたので助かった。 SPO2と脈拍は71と100で、初めて脈が100台になった。 水が出来ると紅茶やコーヒーを飲み続けて脈を下げる。 テントに入ってからは軽い頭痛があったが、脈が下がるにつれてなくなった。

   夕方になると天気は回復し、チョ・オユーの山頂方面やパサンラモ(チョ・アウイ)が良く見えるようになった。 夕食前のSPO2と脈拍は共に66となり、脈はかなり下がったが、SPO2が予想以上に下がってしまった。 夕食はフリーズドライの味噌汁にカレーと白米で、意外と美味しく食べられた。


1時半にテントの花が咲く氷河の末端のC.1に着いた


C.1のテントサイト


C.1は予想よりも狭く感じた


C.2からの順応から戻ってきたビリーと再会する


テントは柴田さんと一緒になった


柴田さんが率先的に水作りをやってくれた


テントサイトから見た山頂方面


テントサイトから見たパサンラモ(チョ・アウイ)7350m


夕食はフリーズドライの味噌汁にカレーと白米で、意外と美味しく食べられた


   9月23日、夜中は強い風が吹き荒れテントを叩き続けた。 テント内もマイナス4度と寒く、鼻が詰まってしまった。 柴田さんは5時半前に起きて水を作っていた。 起床前のSPO2と脈拍は60と67だったが、なぜか頭痛はなく体調も悪くなかった。 朝食はカップ麺を二つを用意したが、食欲はあまりなく一つで足りてしまった。 

   雪は降っていないが天気は悪く、朝方一旦吹き止んだ風が再び吹き始めた。 今日は順応のためC.2(7000m)付近まで往復することになっているが、距離が長いため途中で引き返すことも視野に入れながら各自のペースで登ることになった。 7時半に平岡さんを先頭に出発していった柴田さんやるみちゃんに少し遅れてC.1を出発。 私達のテントサイトのもう一段上の僅かな平坦地にもテントが20張ほどあった。 その先から傾斜が急になるとフィックスロープがあり、ユマール(登高器)を掛けて登る。 前方にはすでに多くの人達が登っている姿が見えた。 ルート上には踏み固められたトレースがあり登り易かったが、二重靴とアイゼンでの登高は昨日までと全く違うので、意識的にペースを落として登る。 亀のようなゆっくりとした歩みで1時間半ほどやや急な斜面を登ると傾斜が緩み、その先の広い斜面にはフィックスロープが無かった。 天気は回復せず、山頂やC.2方面は良く見えないが、この先にもまだ平坦地があるようで、たおやかなこの山のルートの特徴が実感出来た。 すでに柴田さんやるみちゃんの姿は見えなくなっていた。 

   頭上の平坦地に向けて緩やかな斜面を登っていくと、平坦地の先にあるセラック帯とそこを左から迂回して登っている人達の列が見えた。 意外にもその直後に上から下ってきたるみちゃんとすれ違った。 いつもどおり順応よりも体力の温存を優先しているのだろう。 高度計の標高は6650mほどだった。 しばらくそこで休憩しているとペンバと倉岡隊のメンバーが追い付いてきたが、彼らもここで引き返すとのことだった。 天気は一向に回復する兆しはなく、雪も降ってきそうな状況で私も気持ちが揺らいだが、順応登山は今回が最初で最後なので先に進むことにした。 再び亀のようなゆっくりとした歩みで二つめの平坦地まで登ると、個人隊のテントが一張あった。 高度計の標高は6700mほどだったので、この辺りがC.1とC.2の中間点ということになるのだろう。 平坦地からは目の前のセラック帯や迂回するルートの状況が良く見えたが、ルートはかなりの急斜面で、登っている人達の渋滞の列が続いていた。 平岡さんと柴田さんもあの列の中にいるのだろう。 セラック帯を抜けた所で引き返すのが順応的にはベストのように思えたが、C.1からここまで3時間ほど掛かり、渋滞しているセラック帯を抜けると正午を過ぎてしまうので、天気が悪い今の状況を考え、セラック帯の直下まで行って引き返すことにした。


朝食はカップ麺を二つを用意したが、食欲はあまりなく一つで足りてしまった


雪は降っていないが天気は悪く、朝方一旦吹き止んだ風が再び吹き始めた


いつも元気な倉岡隊の五味さん


私達のテントサイトのもう一段上の僅かな平坦地にもテントが20張ほどあった


亀のようなゆっくりとした歩みで1時間半ほどやや急な斜面を登る


C.1方面を振り返る


傾斜が緩むとその先の広い斜面にはフィックスロープが無かった


平坦地に向けて緩やかな斜面を登っていくと、上から下ってきたるみちゃんとすれ違った


休憩していると倉岡隊のメンバーが追い付いてきた


二つめの平坦地には個人隊のテントが一張あり、セラック帯や迂回するルートの状況が良く見えた


セラック帯の直下で引き返した


   セラック帯の直下は風が弱かったので順応目的に1時間近く滞在したが、残念ながら天気は一向に回復せず、カメラを向ける被写体に恵まれなかった。 正午にC.1に下り始めると間もなく、セラック帯の上まで登ったという平岡さんと柴田さんが足早に追い越していった。 下りは休憩することもなかったので、1時半に最後尾でC.1に戻った。 予定よりもだいぶ手前で引き返し、行動時間も短かったが、疲労感は予想以上に大きく、次回のアタックに向けて不安が募った。 屈強な柴田さんも今日はさすがに少し疲れた様子だった。 

   夕方のSPO2と脈拍は68と70で、疲れている割には脈がそれほど高くなかった。 夕食は昨日と同じフリーズドライのカレーと味噌汁だったが、何とか一人前食べることが出来た。


二つめの平坦地から見たC.1方面


C.1に下り始めると間もなく平岡さんと柴田さんが足早に追い越していった


C.1手前のやや急な斜面を下る


C.1全景


1時半に最後尾でC.1に戻った


   9月24日、夜中は昨日よりも更に強い風が吹き続け、酸欠により体調があまり良くなったので殆ど眠れなかった。 小雪が舞っていたが、6時にペンバから起きるように指示があった。 冷え込みが厳しくお湯がなかなか沸かない。 食欲はあまりなかったが、カップ麺は何とか一つ食べられた。 私達のテントサイトは風の通り道になっているので、私達が下山した後にスタッフ達が違う場所にテントを張り直すとのことだった。 

   テルモス・ヘッドランプ・手袋類・行動食など次回のアタック時に使う物をデポし、7時半過ぎにペンバに見送られてA.B.Cに下る。 新雪が積もったガレ場をアイゼン無しで下るが、まだトレースがないのでとても下りにくい。 ガレ場の取り付きまで下ると、意外にもそこから先のモレーン帯の方が積雪が多かったが、後続の隊が先行してくれたので助かった。 標高が下がったのでここから先はもう楽に歩けると思ったが、昨日の疲れが残っているようで足がとても重たかった。 1時間ほど歩くとようやく足が軽くなり、明らかに歩くスピードが速くなったので安堵した。 天気が悪いためC.1に向かう他のパーティーとすれ違うことなく、C.1から3時間半ほどで留守番のキッチンスタッフ達が待つA.B.Cに着いた。


C.1では酸欠により体調があまり良くなった


7時半過ぎにペンバに見送られてA.B.Cに下る


新雪が積もったガレ場をアイゼン無しで下る


新雪が積もったガレ場はトレースがないのでとても下りにくかった


ガレ場の取り付きから先のモレーン帯の方が積雪が多かった


C.1から3時間半ほどで留守番のキッチンスタッフ達が待つA.B.Cに着いた


   正午を待たずに昼食となり、揚げたてのコロッケとチキンカツを頬張ったが、C.1とはまるで違い、美味しくお腹一杯に食べられた。 C.1とは700mの標高差しかないが、A.B.Cでは何をするにもストレスはなく、この高さが人間(自分)の限界なのだろうとあらためて思った。 倉岡隊は私達よりも1時間以上遅くにA.B.Cに着いた。 午後も雪は降り止まず、専ら個人用テントで昼寝をして過ごした。

   夕食はトンカツと春巻で、昼食にも増してお腹一杯に食べた。 夕食後に平岡さんから、C.1に酸素ボンベの予備が数本あるので、450ドル(邦貨で約5万円)を支払えば次回のアタックの時にC.1から酸素を吸って登れますという意外な提案があった。 C.1から酸素を吸った場合のデメリットは特にないとのことで、滅多に試せない高所登山の経験として、C.1から酸素を吸って登ってみることにした。 もちろん屈強な柴田さんとるみちゃんはノーサンキューとのことだった。 夕食後のSPO2と脈拍は75と70で、疲労感は残っているが体調は悪くなかった。 夜になっても雪は降り続いていた。


昼食の揚げたてのコロッケ


A.B.Cでは何をするにもストレスはない


A.B.Cに到着した倉岡隊


夕食のトンカツと春巻


夜になっても雪は降り続いていた


   9月25日、夜中は尿意で起きただけで頭痛はなかったが、何となく眠りが浅かった。 昨日からの雪は降りやまず、テントの周りには10センチほど積もっていた。 気温は低くないので湿った雪だ。 起床後のSPO2と脈拍は84と65だったが、まだ疲れが抜けてない感じだ。 朝食後の便は硬く便秘気味になっていた。 午前中は倉岡隊の星野さんや五味さんとダイニングテントで談笑したりして過ごしたが、やはり疲れが抜けてないせいか、倦怠感のようなものが感じられた。 

   昼食時に平岡さんからアタック日が9月30日になったため、明後日A.B.Cを出発するという説明があった。 今シーズンはモンスーンがなかなか明けず、翌日の10月1日は雪の予報となっているとのことで、登頂は予断を許さないギリギリの状況になってきた。 昼食後は昨日と同じように昼寝をして過ごし、夕方から酸素マスク・酸素ボンベ・レギュレターの取り扱いについて平岡さんから講習を受けた。 酸素マスクはサミット・オキシゲン社の物で、5年前のマナスル登山の時に使った混合器(酸素と空気を混ぜる装置)が酸素マスクと一体化していたのはとても画期的だった。 また、ホースの途中には酸素の流量計が付けられ、安全性もアップしていた。 支給されたМサイズのマスクが顔の小さい私には少し大きかったのが唯一玉にキズだ。 酸素ボンベは若干大きくまた重たくなったらしいが、酸素の充填量は以前のものに比べて格段に増えたようで、4リッター吸った場合でも5時間使えるとのことだった。 レギュレターは残量計の目盛が見易くなり、流量を調整するダイヤルが0.5リットル刻みに正確に作動するよう改良され、最大6リッターまで出るようになっていた。 今回の一番の関心事だった酸素マスク・酸素ボンベ・レギュレターの全てについて、5年前より性能が格段に良くなっていたことがとても嬉しかった。

   夕食前にダイニングテントにガスストーブが入ったが、火力の調整が出来ないため、暖か過ぎて気持ちが悪いくらいだった。 今日も夕食のボロネーゼをお腹一杯に食べた。 夕食後のデザートには前祝のアップルケーキが出たので、隣のテントの倉岡隊と共に大いに盛り上がった。 食べ過ぎたせいか、夕食後のSPO2と脈拍は77と70で数値はあまり良くなかった。


昨日からの雪は降りやまず、テントの周りには10センチほど積もっていた


朝食のトゥクパ・煮豆・玉子焼き


倉岡隊の星野さん


昼食のランチョンミートとインゲンのゴマ和え


酸素マスクや酸素ボンベの装着訓練をする


酸素マスクや酸素ボンベの装着訓練をする


酸素マスクや酸素ボンベの装着訓練をする


ダイニングテントに入ったガスストーブ


夕食のボロネーゼ


前祝のアップルケーキ


隣のテントの倉岡隊と共に大いに盛り上がる


   9月26日、ようやく熟睡出来るかと思ったが、風邪のような症状で少し悪寒や動悸がして鼻も詰まっていた。 起床後のSPO2と脈拍は87と67でやはり脈が高かった。 今朝も少し便秘気味で、脱水というよりは腸の機能が低下しているように思えた。 テントから出ると久々の強い陽射しで、チョ・オユーの山頂が4日ぶりに見えた。 ようやく良い天気となり、皆はシャワーを浴びたり洗濯をしたりしていたが、私は個人用テントの中で酸素マスクを装着する訓練と、酸素ボンベにレギュレターを取り付けるイメージトレーニングを何度も繰り返し練習していた。 モンスーン明けはまだ先のようで、正午前からいつものように雲が湧き始めた。


久々の強い陽射しで、チョ・オユーの山頂が4日ぶりに見えた


ようやく良い天気となった


洗濯をする柴田さん


酸素マスクとレギュレター(左端の透明部分が混合器)


5年前に使った酸素マスク(左下の容器が混合器)


酸素マスクの装着を何度も繰り返し練習した


   昼食は日本のルゥーを使った和風のカレーライスで、とても美味しかった。 午後はC.1にデポしてきた物のリストを再確認し、明日からの4泊5日のアタックに向けての装備や用具の点検とフリーズドライの食料の選別を入念に行った。 夕方のSPO2と脈拍は82と70で、順応は申し分ないが脈が依然として高かった。 食欲だけは相変わらず旺盛で、“最後の晩餐”となる夕食のトンカツをお腹一杯に食べた。


昼食のカレーライス


上部キャンプ用のフリーズドライの食料


夕食のトンカツ


  【A.B.Cから山頂へ】
   9月27日、ようやく熟睡出来るようになったが、まだ鼻が少し詰まっていた。 起床前のSPO2と脈拍は77と57でようやく脈が下がった。 天気は予報どおり良く、チョ・オユーの山頂が良く見えた。 強い陽射しでテントの周りの雪が溶け始めると、テントの脇にネズミのような小動物が動いた。 良く見ると何とそれは私の大好きなナキウサギだったので驚いた。 しばらく愛くるしく動き回る姿を観察していたが、なぜ全く鳴かないのか不思議だった。 また、この高度と環境の下で動物がいたということがそれ以上に不思議だった。

   今回のアタックステージではC.3(7400m)を建設せずC.2(7000m)から一気に山頂を目指すという倉岡隊のメンバーとキッチンスタッフ達に見送られ、8時半にA.B.Cを出発する。 モンスーン明けが近いのか、空の青さが今までになく濃くなってきた。 C.1からA.B.Cに戻ってきてから全く歩いていなかったので、体が動くかどうか心配だったが、出発してから2時間ほどは足取りも軽く絶好調だった。 ガレ場の取り付きが近づくにつれて足が次第に重くなったが、今までで一番早い3時間半足らずで取り付きに着いた。 ガレ場の斜面の雪はすっかり溶けていた。 天気が安定していたので、取り付きでおにぎりを食べながらゆっくり寛ぐ。

 

天気は予報どおり良かった


テントの脇にナキウサギがいた


8時半にA.B.Cを出発する


倉岡隊はC.3を建設せずC.2から一気に山頂を目指すため、明日A.B.Cを出発することになった


モレーン帯から見たチョ・オユー


モレーン帯から見たチョ・アウイ


ガレ場の取り付きでゆっくり寛ぐ


ガレ場の斜面の雪はすっかり溶けていた


   正午過ぎにガレ場の急斜面を登り始める。 今日は今までで一番天気が良く、三度目にして初めて登りながらヒマラヤンブルーの空を背景にチョ・オユーの山頂が見えた。 中間点で一休みしてからC.1直下のフィックスロープに取り付くと、上から団体のパーティーが下ってきた。 意外にもそのパーティーのメンバーは日本人で、私達よりも1週間ほど遅くチベット入りしたAG隊だった。 AG隊の情報は入っていたものの、広いA.B.Cのどこに居を構えているのかも分からずにいたが、図らずもこのタイミングで出会うことになった。 AG隊のメンバーの中には9年前にデナリを一緒に登った徳田さんがいたので嬉しい再会となった。 徳田さんとしばらく雑談を交わしてから、アタック後にA.B.Cでの再会を誓って見送った。 間もなくC.1を見下ろすガレ場の終了点で、AG隊のガイドでデナリを一緒に登った梶山さんともマナスルのB.C以来5年ぶりに再会した。 

   C.1のテントサイトは前回と殆ど同じ場所だったが、中国隊の大きなダイニングテントが無くなったので、とてもすっきりしていた。 今回のアタックステージでもテントは柴田さんと一緒になった。 テントは張り替えられ、前回のように斜めに傾いていることもなく快適だった。 風も今日は殆どなくて良かった。 テントに入るとすぐにスタッフから酸素ボンベが届けられた。 水作りは今日も柴田さんが積極的にやってくれたので助かった。 一休みしてから練習も兼ねて酸素を吸ってみると、すぐにSPO2は95まで上がり、酸素の絶大な効果を実感した。 この酸素ボンベ1本は毎分1リッター吸っても20時間使えるため、明日のC.2までの行動用のみならず、今日の睡眠用からも吸うことが出来る。 450ドルの出費はこの土壇場の状況下においてはむしろ安いくらいだと思えた。 夕食はフリーズドライの味噌汁に親子丼と白米で、一人前を美味しく食べられた。 夕食後のSPO2と脈拍は78と86で脈が予想以上に高かった。


ガレ場の急斜面を登りながらヒマラヤンブルーの空を背景にチョ・オユーの山頂が見えた


C.1直下のフィックスロープに取り付く


デナリを一緒に登った徳田さんと9年前ぶりに再会した


AG隊のガイドの梶山さんと5年ぶりに再会した


C.1のテントサイトは前回と殆ど同じ場所だった


アタックでコンビを組むシェルパ    私とペンバ・ヌル(左) ・ 柴田さんとテンジン(右)


練習も兼ねて酸素ボンベの酸素を吸う


夕食のフリーズドライの親子丼と白米


C.1でも食欲旺盛な柴田さん


   9月28日、5時半に起床。 起床前のSPO2と脈拍は67と67だった。 昨夜は2時間毎に尿意で目が覚めたものの、眠りが浅かったせいか不思議と頭痛はなかった。 晴れてはいるが天気は昨日よりも少し悪く、風も少し吹いていた。 朝食のカップ麺を食べ、8時の出発予定よりも少し遅くC.1を出発。 今日は明後日の山頂アタックに向けてC.2(7000m)に向かう。 

   慣れない酸素ボンベとマスクの装着には時間が掛かるため、平岡さんを先頭に柴田さんとるみちゃんは少し前に出発していった。 C.1の各隊もほぼ同じ時間帯に出発していく。 C.2までの所要時間を6時間と予想し、酸素の流量を3リッターに設定する。 他の荷物もそれなりに重いので、酸素ボンベの重さはそれほど気にならなかった。 C.1から酸素を吸って登っている私の姿は、各隊のメンバーからは奇異に見られたに違いない。 度重なる降雪にもかかわらず、トレースの状態は前回と変わらなかった。 

   出発してすぐには酸素の効果は実感出来なかったが、普通のスピードで歩いてさえいれば息が切れるということはなく、何よりも絶大な安心感があった。 出発して間もなくるみちゃんと一緒に行動していた平岡さんに追いついたので、自分では気が付かないが、いつもより速いペースで登っていることが分かった。 るみちゃん達を追い越すと、今度は柴田さんの後ろ姿も視野に入ってきた。 最初の平坦地で休憩していた柴田さんに追いついたが、風が少し強くなってきたので休まず先へ進んだ。 快速の柴田さんを追い越したことで登高ペースが客観的にも速いことが分かり、酸素の効果をさらに実感したが、一方で天気が悪いとザックを下ろすことはもちろん、酸素マスクを外して飲んだり食べたりすることが煩わしく、ついつい我慢してしまうという欠点も見えてきた。 前回はC.1から3時間近くを要した6700m弱の二つ目の平坦地に2時間足らずで着いた。 

   平坦地でザックを下ろして少し休憩し、眼前のセラック帯を左から迂回しながら登る。 ルートは急斜面のみならず、フィックスロープの張り方が悪く非常に登りにくい。 あともう少しでセラック帯の上に出られそうになった所で、下降用の別のフィックスロープをくぐったところ、レギュレターがロープと奇妙に絡んでしまい、自力でロープを外すことが出来なくなってしまった。 仕方がないので後ろから登ってくる人を待ってロープを外してもらったが、この時のトラウマが山頂アタックの時に影響することになった。 トラブルがあったこともあり、セラック帯の通過には1時間近くを要した。 セラック帯の先は予想どおり緩やかで広い斜面となっていたが、天気は上の方ほど悪くなり、C.2付近はホアイトアウトしていた。


C.1 ⇒ C.2


C.1から酸素を吸ってC.2へ登る


C.1の各隊もほぼ同じ時間帯に出発していった


C.1の上から見たC.1


出発して間もなくるみちゃんと一緒に行動していた平岡さんに追いつく


先行する柴田さん(中央)


最初の平坦地から見た山頂(右上)とC.2(中央上)


最初の平坦地で休憩していた柴田さんに追いつく


6700m弱の二つ目の平坦地


セラック帯を左から迂回しながら登る


セラック帯の上に出た所


セラック帯の先は予想どおり緩やかで広い斜面となっていた


   核心部のセラック帯を登り終えたので少し休もうと思ったが、相変らず風が収まらないので休まずに歩き続けた。 しばらく緩やかな斜面を登っていくと、キャンプ地として相応しいかなり広い平坦地があり、テントが3張あった。 もしかしたらここがC.2なのかと思ったが、高度計の数字はまだ6800mを少し超えたばかりだった。 平坦地の周辺にはフィックスロープがなく、赤い小さな旗が所々に立てられているだけだった。 風が運んでくる雪が先行者のトレースを消してしまうため思わぬラッセルを強いられ、あらためて酸素のありがたみを痛感した。 遥か前方に点々と見える先行者の姿と微かに雪面に残る足跡だけを頼りに黙々と登り続ける。 ルートのすぐ脇にはクレバスがあるが、フィックスロープは所々で途切れていたので怖かった。 後ろから登ってくる人影も見えなくなり、今後の天気次第では無事C.2に辿り着けるのか心配になってきたので、酸素の流量を3リッターから2リッターに減らす。 予想どおり上に行けば行くほど視界が悪くなり、とうとう完全にホワイトアウトしてしまった。 高度計の数字がすでに7000mを超えていたのが唯一の救いだ。 しばらくすると、雲の切れ目からC.2と思われる平坦地が見え、C.1から5時間半を要して1時半過ぎに待望のC.2に着いた。 天気が悪いので留守番のスタッフもテントの中にいた。

   C.2のテントの数はC.1の半分ほどしかなく、まだこれから建設する隊が多いようだ。 途中で殆ど休憩せずに登り続けてきたので、テントの中で行動食を頬張りながらゆっくり寛ぐ。 C.2に着いてから酸素を吸わないでいると、SPO2と脈拍は68と76になった。 柴田さんは私より1時間半ほど遅い3時に、平岡さんに続いてるみちゃんも3時半に無時C.2に着いた。 高度計の数字は7060m、柴田さんのGPSでは7130mだった。 水作りを始めると今日の睡眠用の酸素がスタッフから届けられた。 風は一向に収まらず、テントがバタついて落ち着かない。

   夕方になって平岡さんから、明日の天気も今日と同じようなので、明日はC.2に滞在し、明後日ここから一気に山頂を目指すという説明があった。 C.2からC.3の間で吸う酸素の量は当初3リッターだったが、スケジュールの変更に伴い、明後日のアタック日はC.2からC.3の間もC.3から山頂までの間と同じ4リッターの酸素を吸えることになったが、逆に今日と明日の睡眠用として吸う酸素の量を予定していた1リッターから0.5リッターに減らすことになった。 夕食はフリーズドライの味噌汁にカレーと白米だったが、残念ながら一人前を完食することが出来なかった。


6800mを少し超えた所にキャンプ地として相応しい広い平坦地があり、テントが3張あった


平坦地の周辺にはフィックスロープがなく、赤い小さな旗が所々に立てられているだけだった


遥か前方に点々と見える先行者の姿と微かに雪面に残る足跡だけを頼りに登る


上に行けば行くほど視界が悪くなった


C.2直下では完全にホワイトアウトしてしまった


C.1から5時間半を要して1時半過ぎに待望のC.2に着いた


C.2のテントの数はC.1の半分ほどしかなかった


C.2のテントサイト


C.2から見た山頂方面


C.2に着いたるみちゃん


睡眠用の酸素を吸う柴田さん


夕食のフリーズドライの味噌汁とカレーと白米


   9月29日、6時半に起床。 睡眠用の酸素は0.5リッターでも全く問題なく良く眠れた。 起床前に昨日から吸っていたオプションの酸素が無くなったので新しい酸素ボンベと交換する。  テント内の気温はマイナス6度とさすがに寒いが、一晩中酸素を吸い続けていたので起床後のSPO2と脈拍は80と60でA.B.Cと変わらなかった。 酸素の効果はやはり絶大だ。 今日も柴田さんが率先して水を作ってくれたので助かった。 朝食のカップラーメンは昨日のC.1以上に美味しく食べられた。 平岡さんと一緒のテントのるみちゃんも元気そうだ。 晴れてはいるが風はやや強く、山頂方面には雪煙が舞っていた。 今日は昨日の指示どおりC.2での待機となった。 C.2は北側斜面なので、8時半にようやくご来光となった。 

   朝食後は酸素を吸わずに過ごすが、じっとしていれば頭痛はなかった。 周囲の山々の景色は素晴らしいが、靴を濡らしたくないので写真を撮るのは我慢してテントから出ないようにした。 明日はここから8201mの山頂まで標高差で1000m以上という予定外の長いアタックとなり、好天の予報はここ数日の天気からすれば全くあてにならない。 数日前から調子が悪かったカメラは、レンズの開閉時に一旦止まるような動作が頻繁に見られるようになり、また昨日から右手の人差し指が少し痛く、凍傷の恐れも出てきたので、思いきってカメラをザックの胸元から外し、行動中は写真を撮らないことにした。 併せてザックの胸元に付けているテルモスも、酸素ボンベとの干渉を避けるために外して、登頂に専念することにした。

   昼前になってもSPO2と脈拍は72と80で、C.1と変わらなかった。 風は収まってきたが、天気は昨日と同じように悪くなり、山頂方面はホワイトアウトして見えなくなった。 それでも隣の中国隊はC.3に向けて出発していった。 曇っているがテントの中は暖かく、柴田さんと歓談しながら予想以上にリラックスして過ごせた。

   昼食は明日のアタックが確実となったので、予備のカップそばを食べた。 平岡さんから明日の出発は零時で、私がペンバ・ヌルと、柴田さんはテンジンと組んで登るよう指示があった。 午後は色々な場面を想定しながら酸素マスクの脱着などを繰り返し行う。 3時半過ぎに当初からC.2からのアタックを計画していた倉岡隊が到着したが、意外にも私と同じようにメンバー全員がC.1から酸素を吸って登ってきた。 

   早めの夕食はカップラーメンだけで済ませ、5時半にシュラフに入って横になったが、雪が降ってきたのでガッカリした。 睡眠用の酸素は少し余裕があったので、1リッターを吸って寝た。


平岡さんと一緒のテントのるみちゃん


C.2から見た周囲の山々の景色は素晴らしい


C.2は北側斜面なので、8時半にようやくご来光となった


昼前から風は収まってきたが、天気は昨日と同じように悪くなった


柴田さんと歓談しながら予想以上にリラックスして過ごせた


他隊の動向をうかがうスタッフ達


昼食のカップそば


色々な場面を想定しながら酸素マスクの脱着などを繰り返し行う


倉岡隊は私と同じようにメンバー全員がC.1から酸素を吸って登ってきた


   9月30日、10時前に起床。 酸素を潤沢に吸っていたので体調はとても良い。 唯一心配なのは右手の人差し指で、まだ少し指先が冷たく感じる。 雪はやんで星が見えていた。 ありがたいことに風もなく暖かい。 5日前の天気予報は果たして当たるのだろうか。 お湯を沸かしてカップそばを食べ、900CCの大きなテルモスにほうじ茶、250CCの小さなテルモスにコーヒーを作って入れる。 柴田さんも元気で頼もしい。 11時半過ぎにテントから這い出し、出発の準備を整える。 気温はマイナス10度くらいだろうが、風がないので羽毛ミトンではなく、5本指のオーバー手袋でいくことにした。 最後に酸素ボンベの流量を4リッターに上げ、念のためペンバ・ヌルにレギュレターの目盛をチェックしてもらう。 出発前のテントサイトの写真を撮り、カメラをザックにしまった。

   予定よりも少し遅れて12時15分にC.2を出発する。 倉岡隊は今日も私達の後から出発するようだ。 昨夜の新雪が少し積もっている。 フィックスロープがないので、登攀隊長のペンバ・ヌルが先導し、ペンバ・ヌルと組む私がその後に続く。 私の後ろは柴田さん、テンジン、るみちゃん、ニマ・ヌル、そして殿に平岡さんという形になるのだろう。 すでにヘッドランプの灯りが上方に数珠のように連なっている。 人気のある山では良く見られる光景だ。 昨日C.3へ登っていった中国隊のトレースは新雪で消えてしまったため、私達よりも少し早くC.2を出発したヒマラヤン・ガイズ社が率いるイギリス隊のシェルパ二人が先頭をラッセルしながら進み、そのすぐ後ろからそのトレースを利用して他隊や私達の隊が登ることになった。 マナスルのアタックの時と同じ毎分4リッターの酸素の効果は絶大で、普通に歩いてさえいれば、息切れすることは全くない。 右手の人差し指の感覚をこまめにチェックしながら登った。

   1時間近く単調な斜面を直登気味に登るとようやくフィックスロープがあり、そこから先は傾斜がやや急になった。 フィックスロープのある所ではシェルパはクライアントの後ろから登るが、フィックスロープが渋滞していたのでペンバ・ヌルがそのまま先頭で私達の隊を先導する形になった。 先行パーティーのペースは非常にゆっくりで、始めは心地良かったが、しばらくすると酸素を潤沢に吸っている私達にとっては少し遅く感じられるようになった。 このペースがこのままが続くと、時間的にかなりのロスとなってしまうが、トレースの脇の雪は深いので追い抜くことは容易ではない。 前方の状況を把握しようと、平岡さんが何度かフィックスロープから外れて偵察をしていた。 足が完全に止まるほどの渋滞になると、ペンバ・ヌルがこまめに私の酸素の流量を減らしていた。 それでも2時前に高度計の標高は7250mとなり、C.2を出発してから1時間半で200mほど登っていたので、このペースでも9時頃には登頂出来るのではないかと思えた。 

   C.3に着く手前で私達よりも15分ほど遅い12時半にC.2を出発したという倉岡隊が追いついてきた。 暗闇で酸素マスクをしているものの、メンバー全員元気そうであることが良く分かる。 間もなく傾斜が緩み始めると、前方で他隊のパーティーが休憩しているように見えたが、図らずもそこが中国隊などのテントがあるC.3だった。 テントはフィックスロープのすぐ脇に張られていたが、横になって痙攣しているような女性の姿も見られて驚いた。 C.3のすぐ先でようやくペースの遅い前のパーティーを追い抜き、そこからは徐々に登高スピードが速くなったが、後ろを歩いていた柴田さんから私のレギュレターから異音がするという指摘があり、ペンバ・ヌルが確認すると目盛が0に近くなっていたので、予定よりも少し早いが皆も一斉に酸素ボンベを交換することにとなった。 出発してから水を一口も飲んでなかったので、交換が終わった後にペンバ・ヌルに休憩をリクエストすると、意外にも「ノー・ノー、ゴー・ゴー!」と全く取り付く島がなく、マッターホルンを登った時のことが思い出された。 

   間もなくルート上で一番の難所と言われるロックバンド(岩稜帯)の通過となったが、ルンゼ状の岩の部分は短く予想より難しくなかった。 片手で凍った岩を掴みながらユマールのみで登れそうだったが、手袋を雪に触れさせたくなかったので、補助的にピッケルを使って登った。 ロックバンドの先にも岩とのミックスとなっている急な雪壁があったが、ここも全く問題なく短時間で通過することが出来た。 シェルパ達が先を急いでいたのは、ロックバンドでの渋滞を危惧していたからだろう。


C.2 ⇒ C.3 ⇒ 山頂


出発の準備をする柴田さんとるみちやん


C.2から山頂にアタックする


   ロックバンドを通過すると夜が白み始め、一生のうちに数えるほどしか見ることが出来ない神々しい朝焼けの風景が背後に見られた。 昨日まで目線の高さにあった周囲の7000m峰が眼下となり、 雲海の上に浮かぶシシャパンマの頂もはっきり見えた。 残念ながら今日は手元にカメラはないが、何度も何度も“心のシャッター”を切り続けた。 人差し指の違和感は取り越し苦労だったのか次第に薄らいできた。 相変わらず風もなく、登頂の可能性と期待はますます大きくなった。  

   ロックバンドから先は山頂に向けて傾斜がだんだんと緩くなっていくのがこの山の特徴で、“最も登り易い8000m峰”と言われるゆえんだ。 先頭でラッセルしながらフィックスロープを伸ばしている二人は依然としてイギリス隊のシェルパなのか、その後ろには登山者が数珠繋ぎになっている。 もう先を急ぐ必要はなくなったようで、C.2を出発してから7時間近く経った7時にようやく休憩となった。 酸素マスクを初めて外して小さなテルモスに入れたコーヒーを一気に飲み干し、煎餅とチョコレートを夢中で頬張った。 食べ終わるとすぐにその場で小用を済ませ、人差し指の状態を目で確認したが、全く問題ないことが分かって安堵した。 柴田さんやるみちゃんは私以上に元気そうで、全員一緒に登頂出来ることを確信した。

   休憩後は倉岡隊のメンバーと相前後しながら、集団となって登っている先行パーティーの後に続き、張られたばかりのフィックスロープを登る。 昨日までの不安定な天気が嘘のように安定した快晴の天気となり、8000m付近を登っているとは思えないほど足取りは軽い。 所々で渋滞もするが、もう急ぐ必要は全くない。 傾斜が一段と緩むと、夢にまで見た広大な頂上雪田の末端となり、眩しいばかりの太陽の光が全身に降り注いだ。 予想していた風は全く吹いていない。 フィックスロープは無くなり、足元のモナカ雪を割りながらの爽快な歩みとなった。 頂上稜線は果てしなく長いと聞いていたが、どこまでも歩いて行けそうな感じがした。 登頂はもう時間の問題となり、不意に目頭が熱くなってきた。 傾斜が殆ど無くなり、先頭を引っ張っていたシェルパとの間隔が詰まってくると、左前方にエベレストの頂が目線の高さに見えた。 そしてその僅か数分後の9時ちょうどに各隊のサミッター達で賑わう憧れのチョ・オユー(8201m)の山頂に両隊のメンバーが全員一緒に辿り着いた。

 

ロックバンドを通過すると夜が白み始めた


周囲に見えた7000m峰


周囲に見えた7000m峰


雲海の上に浮かぶシシャパンマ(右)


先頭の二人のシェルパの後ろには登山者が数珠繋ぎになっていた


山頂直下を登る平岡隊(左端)と倉岡隊(右端)


山頂から見た広大な頂上雪田


   すぐ後ろを歩いていたるみちゃん、柴田さん、平岡さん、五味さん、星野さん、羽山さん、倉岡さん、ペンバ・ヌル、ニマ・ヌル、テンジン、パサン、ニマ・カンチャ、そしてサーダーのペンバ・ギャルツェンと次々に握手を交わし、肩を叩き合って登頂を喜ぶ。 誰彼となく写真を撮り合い、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。 だだっ広い山頂には今シーズン初登頂したシェルパによってタルチョが張られ、眼前にはエベレストが見慣れない角度で神々しく望まれた。 エベレストのすぐ隣にはローツェ(8516m)とヌプツェ(7855m)が、180度反対の方向にはシシャパンマ(8027m)が見えたが、雲海に浮かぶネパール側の6000m峰や7000m峰はなかなか同定することが出来なかった。 山頂には30分以上滞在していたが、興奮していると酸欠になって危ないので、酸素マスクは外さずに(ザックを背負ったまま)周囲の山々の写真を撮り続けた。 下山直前になって少しだけ酸素マスクを外し、煎餅とチョコレートをほうじ茶で流し込んだ。


快晴無風のチョ・オユーの山頂


チョ・オユーの山頂(柴田さんと私)


チョ・オユーの山頂(柴田さん ・ 私 ・ るみちゃん)


チョ・オユーの山頂(テンジン ・ 柴田さん ・ 私 ・ るみちゃん ・ ペンバ・ヌル ・ ニマ・ヌル)


チョ・オユーの山頂


各隊のサミッター達で賑わうチョ・オユーの山頂


チョ・オユーの山頂(五味さん ・ 羽山さん ・ 倉岡さん)


山頂から見たエベレスト


山頂から見たギャチュンカン


山頂から見た雲海に浮かぶネパール側の山々


山頂から見た雲海に浮かぶシシャパンマ(中央奥)


   下りも登りと同じようにペンバ・ヌルが先導し私がその後に続いた。 急ぐ必要は全くないので、カメラをポケットに入れ、所々で足を止めて写真を撮りながら下った。 登りでは暗くて分からなかったルートの状況などが良く分って面白い。 酸素は相変わらず4リッター出ているので普通のスピードで下れる。 ロックバンドは懸垂ではなくロープを掴んで下った。 ロックバンドの通過で少し渋滞したものの、山頂から僅か1時間半ほどでC.3に着いた。

   当初の計画では最終キャンプ地としていたC.3は傾斜は緩いが決して平らではなく、あまり快適なキャンプ地ではないように思われ、天気が良ければ今回のようにC.2からアタックした方がメリットが大きいと思えた。 C.3でしばらく休憩してから意気揚々とC.2に下る。 C.2の直前で無酸素でC.3に登っていくビリーとすれ違ったので登頂の報告をすると、まるで自分のことのように喜んでくれた。 明日無酸素で山頂にアタックするビリーにエールを送り、周囲の景色の写真を撮り続けながら正午にC.2に着いた。 下りも酸素を潤沢に吸っていたことと、登頂出来た昂揚感で疲れはそれほど感じなかった。 陽射しに恵まれたキャンプサイトは日溜りのように暖かく、山頂に導いてくれたペンバ・ヌルにお礼を言ってから順次到着するメンバーやシェルパ達を迎えた。

 

山頂からは所々で足を止めて写真を撮りながら下った


山頂からC.3へ


ロックバンドの通過


ロックバンドの直下


C.3


C.3付近から見たロックバンド


C.3からC.2へ


C.3からC.2へ


C.3からC.2へ


C.3からC.2へ


C.2の直前で無酸素でC.3に登っていくビリーとすれ違う


C.2


C.2から見たロックバンドと山頂方面


C.2で五味さんと


C.2で寛ぐるみちやん


C.2で寛ぐ柴田さん


   予定では今日はC.2に泊まることになっていたので、テントの中で柴田さんと今日の思い出を語り合いながらのんびり寛いでいると、仕事を終えたシェルパ達が早く下りたがっている様子を感じ取った平岡さんの提案で、急遽C.1まで下ることになり、荷物を整理して3時にC.2を出発した。 今日の睡眠用の酸素が要らなくなったのでメンバー全員酸素を吸いながら下る。 ヒマラヤンブルーの空の色は全く変わらず、登りでは見られなかった山頂方面が良く見えた。 途中、今度はスキーを背負ったエイドリアン(マナスル登山の時のラッセルブライス隊のチーフガイド)とすれ違った。 一昨日登ってくる時は風で寒かったが、今日は強烈な陽射しと照り返しで暑く、途中でジャケットを脱いだ。

   登りでレギュレターがロープに絡んでしまい苦労したセラック帯にはC.2から1時間足らずで着いたが、ここだけは懸垂で下るため先行パーティーで渋滞していた。 懸垂の順番待ちをしていると、私達のシェルパが重荷を背負って下ってきたので先を譲ったため、殿の私は1時間半ほどそこで待たされることになってしまった。 更に途中で付け変わるロープを上手く乗り換えられず、下降に30分ほど要したので、セラック帯の下で首を長くして待っていた平岡さんと一緒にヘッドランプを灯し、6時半過ぎにようやくC.1(6400m)に着いた。 C.1にはAG隊が順応で泊まりに来ていて、皆から登頂の祝福を受けた。

   酸素の必要がないC.1は体が楽だが、柴田さんは初の8000m峰の登頂でかなり疲れている様子だったので、私のボンベに残っている酸素を吸って寝るよう勧めた。 私も未明からの長時間行動で疲れてはいたものの、登頂の喜びと安堵感はそれを遥かに上回っていた。 登頂の余韻に浸りながら夕食を自炊し、今までにないような深い眠りに落ちた。


スキーを背負ったエイドリアンとすれ違う


セラック帯の上で懸垂の順番待ちをする


セラック帯の上から見た山頂方面


セラック帯を懸垂で下る


薄暮のセラック帯


平岡さんと一緒にヘッドランプを灯してC.1に着く


   10月1日、緊張感から解放された清々しい朝を迎えた。 昨日ほどの快晴ではないが、チョ・オユーの山頂方面が良く見える。 今日はA.B.Cへ下るだけなので、朝食は行動食の余り物などで簡単に済ませた。 チョ・オユーの山頂からのご来光を拝み、出発の準備をしていると、意外にもC.2に順応に向かうAG隊のメンバーの中に、2003年に故坪山淑子さんと共にチョ・オユーに登られた高田さんの姿があった。 

   沢山の荷物で膨れ上がった荷物を担いで8時半過ぎにC.1を出発する。 順応はしているが、重荷と全身の疲労で足が重い。 ガレ場の急斜面をおぼつかない足取りで下り、取り付きからもう3度目となるA.B.Cへの登り下りが繰り返し続くモレーンの道を歩く。 目標を失った身には堪えるが、それも今日で終わりだ。 昨日の今シーズン初登頂の報を受けてか、今日はA.B.CからC.1に向かう人や隊が今までになく多い。 朝方良かった天気は昼前から早くも下り坂となり、昨日のうちにC.1に下りてきて良かった。


A.B.Cから見た山頂方面


A.B.Cからの風景


A.B.Cからの風景


AG隊の高田さん


AG隊の徳田さん


A.B.Cを出発する


ガレ場の急斜面をおぼつかない足取りで下る


登り下りが繰り返し続くモレーンの道


待望のA.B.C


キッチンスタッフのタシ・ドゥルゲ・クインジョに迎えられる


   一足先にA.B.Cに着いていた五味さんやキッチンスタッフのドゥルゲ・タシ・クインジョに迎えられ、正午に待望のA.B.C(5700m)に着き、間もなく到着した柴田さんやるみちゃんと早速ビールやスプライトで祝杯を上げた。 昼食は鶏丼にツナサラダ、ランチョンミート、いんげんのゴマ和えなどの付け合せで、ここ数日ろくなものを食べてなかったのでお腹一杯に食べた。 もうこれからは一切制約なく飲み食い出来るのが嬉しい。 倉岡隊のメンバーや重荷を背負ったシェルパ達も順次A.B.Cに下りてきた。 昨日の安定した好天が嘘のように再び不安定な天気に逆戻りしたのか、夕方前から雪が降ってきた。 夕食後は登頂ケーキが振る舞われ、メンバー一同大いに盛り上がった。


ビールやスプライトで祝杯を上げる


昼食の鶏丼


登頂ケーキ


登頂ケーキに入刀する


夕方前から雪となった


  【A.B.Cからカトマンドゥへ】

   10月2日、昨夜は最高の安眠が得られるはずだったが、昨日までの疲れと食べ過ぎで夜中にお腹の調子が悪くなり、とうとう未明には入山以来初めての下痢でトイレに駆け込むハメになった。 これも緊張感が無くなった証で、ある意味心地良かった。 朝食をまったり食べた後、B.Cへの荷下げに使うヤクの手配の都合で、B.Cに下るのは明後日となることに決まった。 当初の計画と予算ではA.B.CからB.Cまでは歩いて下り、B.Cのテントに泊まることになっていたが、追加料金を払えば前回と同じようにB.Cの手前のギャブルンから車に乗り、ティンリのホテルに泊まることも出来るため、メンバー一同迷わずその方向で行くことになった。 昨日からの降雪でテントサイトは一面の銀世界となっていたが、強烈な陽射しでどんどん雪が溶け出したので、シュラフや羽毛服や登山靴などを干した。 順応を終えてA.B.Cから下山してきたAG隊の徳田さんが私達のテントを訪ねてくれ、逆に午後は五味さんとAG隊のテントを訪問し、同隊のメンバーと歓談しながら楽しい時を過ごした。 夕食は炒飯と好物のモモ(蒸し餃子)で、昨日と同じようにお腹一杯になるまで食べた。


A.B.Cから見た朝のチョ・オユー


昨日からの降雪でテントサイトは一面の銀世界となっていた


朝食をまったり食べる


強烈な陽射しでテントサイトの雪はどんどん溶けた


シュラフや羽毛服や登山靴などを干す


AG隊の徳田さんが私達のテントを訪ねてくれた


昼食のタケノコご飯


AG隊のテントサイト


五味さんとAG隊のテントを訪問した


夕食のモモ(蒸し餃子)


   10月3日、昨夜からの降雪で今朝も昨日の朝と同じようにテントサイトは一面の銀世界となっていたが、早朝から登頂日と同じような安定した快晴の天気となった。 疲れも殆どなくなり、体調はとても良い。 朝食は久々のトゥクパ(うどん)で懐かしかった。 空気は今までになくひんやりし、ここに来た2週間前とは違う季節になったような感じだ。 昼食のダルバートは下界で食べても美味しいくらいの良い味で、おかわりして食べた。 食欲はすでに旺盛になり、帰国前にはすでに体重が元に戻っているのではないかとさえ思えた。 午後に入っても天気は崩れず、小高い丘の上から順光となったチョ・オユーの写真を何枚も撮り続けた。 A.B.Cでの最後の夕食は倉岡隊と一緒に食べ、昨日にも増して楽しい晩餐となった。


昨夜からの降雪で今朝も昨日の朝と同じようにテントサイトは一面の銀世界となっていた


朝のチョ・オユー


朝食のトゥクパ(うどん)


昼食のダルバート


空気は今までになくひんやりし、ここに来た2週間前とは違う季節になったような感じだ


午後のチョ・オユー


薄暮のチョ・オユー


夕食の鶏の唐揚げ


A.B.Cでの最後の夕は倉岡隊と一緒に食べた


   10月4日、今日はいよいよA.B.Cを発ち、B.Cから陸路で帰国するスタッフ達と別れ、下界のティンリのホテルに泊まる。 倉岡隊よりも少し早くA.B.Cを発ってAG隊のテントに寄り、本隊よりも一日遅れで今日からC.1に上がる徳田さんに会う。 午後から出発する予定の徳田さんとの歓談中にC.1の梶山さんから無線が入り、登頂日が一日早まったので、これからC.2まで登ってくるようにとの指令があり、慌ただしく見送ることになった。 

   今日は車道の終点のギャブルン(5450m)までタクシーが来ることが確実なので気は楽だが、歩いても歩いても標高が下がらない登り返しの多い道は、3度目となる今回も同じように楽ではなく、今日もA.B.Cから3時間半掛かってようやくギャブルンに着いた。 ギャブルンでタクシーを待っているとナキウサギが現れ、間もなく到着した倉岡隊と共にタクシーに乗ってB.Cに下った。


朝のチョ・オユー


A.B.Cを撤収するスタッフ達


倉岡隊よりも少し早くA.B.Cを発つ


AG隊のテントに寄り、今日からC.1に上がる徳田さんに会う


モレーンの背を歩く


途中の小さな氷河湖の傍らで休憩する


歩いても歩いても標高が下がらない登り返しの多い道


歩いても歩いても標高が下がらない登り返しの多い道


ギャブルン付近から見たチョ・オユー


車道の終点のギャブルン


ナキウサギ


ギャブルンからタクシーに乗ってB.Cに下る


   工事現場の資材置場のような埃っぽいB.C(4900m)にはすでにどの隊のテントもなかったが、中国登山協会の常設テントに立ち寄って登山終了の手続きを行うと、意外にも予期していなかった登頂証明書を頂くことになった。 間もなくA.B.Cからヤクで運ばれた私達の荷物が、ギャブルンからは工事用のダンプカーで運ばれてきた。 陸路でネパールに帰国するスタッフ達は荷物を整理するため、今日はこのB.Cに泊まるとのことで、平岡さんの音頭でお世話になったスタッフ達にチップ(登頂ボーナス)を手渡すセレモニーを行った。 もちろん私はペンバ・ヌルだ。 最近はシェルパへの登頂ボーナスの額について、エージェント側から隊員一人当たり500ドルくらい出して欲しいという要望があるようだ。 それとは別に、いつも美味しい料理を作ってくれたドゥルゲらのキッチンスタッフにも100ドルのチップを手渡した。 ボーナスを貰うスタッフ達はもちろん、手渡す私達も本当に嬉しい瞬間だ。 やはり大きな山は全員が登頂しなければ駄目だとつくづく思った。

   スタッフ達とは数日後にカトマンドゥで再会することを約し、私達は更にタクシーで快適なティンリ(4320m)に下った。 B.Cからは1時間足らずでティンリ着くと、ホテルは前回と同じだったが、1階の古いタイプの部屋だった。 今日の宿代はエキストラなので1泊100ドルと高いが、これはホテルではなく手配したリエゾンに支払うため、そのお金の行方については想像に容易い。 何はともあれ、1か月ぶりに潤沢なお湯の出るシャワーを浴びることが出来て嬉しかった。


B.Cから見たチョ・オユー


登頂証明書


A.B.Cからヤクで運んだ私達の荷物が、ギャブルンからは工事用のダンプカーで運ばれてきた


平岡さんの音頭でお世話になったスタッフ達にチップ(登頂ボーナス)を手渡すセレモニーを行う


ペンバ・ヌルへチップを手渡す


数日後にカトマンドゥで再会することを約し、B.Cでスタッフ達と別れる


B.Cから1時間足らずでティンリのホテルに着いた


1階の古いタイプの部屋


   10月5日、今日から北京時間となるため、時計を2時間15分戻す。 まだ薄暗い8時に朝食を食べ、9時にリエゾンのワゴン車でホテルを出発しシガツェへ向かう。 行きと同じように当局に時間や行程をコントロールされているため、帰りもラサまでは一気に行けない。 町外れの橋の上から最後のチョ・オユーの雄姿を見ることが出来た。 沿道から見える緑濃かった田畑は収穫の時期を迎え、秋色に変わっていた。 人と荷物を満載したリエゾンのワゴン車は座席が狭く、長時間乗るには快適でない。 行きは緊張感があったのであまり感じなかったが、目標を失った帰りはとても苦痛に感じた。 行きと同じように軍隊が駐屯する大きな検問所で車から降りて一人一人パスポートのチェックを受け、5248mのラクパ・ラ(峠)を越える。 昼食は途中のラツェ(拉孜)という町の新市街に寄り、新しい立派なレストランで中華のコース料理をお腹一杯に食べた。 食後の車中では私も含めて皆爆睡したようで、気が付くとシガツェのすぐ手前まで来ていた。


リエゾンのワゴン車


ティンリの町外れの橋の上から見たチョ・オユー


沿道から見える田畑は収穫の時期を迎え秋色に変わっていた


5248mのラクパ・ラ(峠)


ラツェ(拉孜)の新市街の新しい立派なレストラン


中華のコース料理


   行きに宿泊したホテルは伝統がある名宿とのことだったが、内装や外観が古びていたので、倉岡さんがリエゾンにホテルの変更をリクエストすると、こちらから宿の指定は出来ないが、変更は問題ないとのことで、前回と違うホテルに泊まることなった。 ホテルに着くと、以前ここに泊まったことがあるという倉岡さんが、ホテルの食事の内容が良くないので、再度リエゾンに夕食の場所の変更をリクエストすると、それもこちらから店の指定は出来ないが、変更は問題ないとのことで、外のレストランで食べることになった。 昼食に続いて中華のコース料理を食べたが、高所登山の後遺症で満腹中枢が完全に麻痺しているため、普段の二倍以上の量をペロリと食べてしまった。


シガツェのホテル


ホテルの部屋


ホテルのバスルーム


夕食は外のレストランで食べる


中華のコース料理


   10月6日、標高が4000mを切ったことで昨夜は前夜に増して良く眠れ、10時間近く熟睡した。 やはり高所では脈が常に高いため睡眠が浅く、目に見えない疲労が溜まっていたのだろう。 本当に高所登山は体に悪いとつくづく思った。 ホテルの中庭のレストランでの朝食のバイキングは、倉岡さんの記憶どおり高級ホテルとは思えないほど質素だった。 朝食後にAG隊がC.2から全員登頂したという情報が入った。 今後チョ・オユーでは、私達のように酸素ボンベ5本を使ってC.1から酸素を吸い、C.2からアタックするのがスタンダードになるのではないだろうか。 

   今日はシガツェから240キロほど離れたラサまでの移動だが、昨日と同じように当局に時間や行程をコントロールされているため、チェックポストの手前で何度か時間調整の休憩をしなければならずもどかしい。 休憩していると、どこからともなく物売りがやってくる。 昼食時はレストランの中まで入ってくるほど商魂はたくましかった。 ネックレスがメインのようだったが、同じようなものは明日以降にラサで買えるため、見ているだけで買うことはなかった。

   半日行程のラサまで7時間ほどかけて移動し、夕方に行きと同じホテルに着いた。 このホテルは旧市街では一番高級なホテルだろう。 当初の計画よりも1日早くラサに着いたため、ラサには二泊することになったが、今日の宿代はエキストラなので1泊200ドルと高く、リエゾンの懐はどんどん肥えていく。 夕食はホテルのレストランで美味しいものをたらふく食べた。


ホテルの中庭のレストラン


質素な朝食のバイキング


シガツェの税務署


時間調整の休憩中にやってきた物売り


ラサの入口の検問所にある看板


ラサの新市街


ラサのポタラ宮


宿泊したホテル


ホテルの室内


ホテルのレストラン


   10月7日、明日のカトマンドゥへのフライトが変更出来ないため、今日はラサでの滞在日となった。 ラサから成都経由で日本へ帰る星野さんを見送ってからゆっくり朝食のバイキングを食べる。 もうお腹もだいぶ落ち着き、食欲も普通になってきた。 朝食後は久々にSPO2と脈拍を測ってみると、93と58だった。

   今日は各々が自由に行動することになり、とりあえず皆でラサでは有名な大昭寺(ジョカン)の周囲を一周する参道を見て歩いた。 以前はラサの市内観光はリエゾンと同行することを義務付けられていたようだが、今はそのような制約はなくなったようだ。 参道は土産物屋がぎっしりと軒を連ね、都市部からの観光客や外国人が多い一方、五体投地しながらお寺の周囲を回っている若者の姿も見られた。 本堂の中には入らずにポタラ宮の方向に進み、新しい大きなデパートに入った。 デパートは参道の店とは一線を画し、高級感に溢れたブランド物しか置いてなく、地元の富裕層を相手にしているようだった。

 

ラサから成都経由で日本へ帰る星野さんを見送る


朝食のバイキング


有志で市内観光に向かう


大昭寺(ジョカン)の周囲を一周する参道


五体投地しながらお寺の周囲を回っている若者


参道から見た大昭寺


大勢の人で賑わう大昭寺の入口付近


大昭寺からポタラ宮の方向に進む


迎賓館


新しい大きなデパート


   デパートの中の落ち着いた雰囲気のレストランに入って一杯55元(800円)のコーヒーを飲み、韓国焼肉を食べに行くというメンバーと別れ、一人で旧市街を目的もなく歩き回った。 小腹が空いてきたので、新しい洒落たパン屋で菓子パンを買い食いしてみると、意外にも日本のパンと変わらないほど美味しかった。 庶民的なスーパーマーケット(超市)や雑貨店などを見ながら人通りの多い所を歩いていると、偶然にも小昭寺(ラモチェ)の前を通ったので、拝観してみることにした。 入口の脇に入場券を買う所があったようだが、気が付かずにそのまま中に入ってしまった。 本堂には所狭しと色鮮やかな仏像が並べられ、一見の価値があった。 高所登山の後遺症で明らかに筋力が落ちていることが分かったので、昼過ぎにはホテルに戻ってゆっくり寛いだ。

 

一杯55元(800円)のコーヒー


菓子パンは日本のパンと変わらないほど美味しかった


飲料水の自動販売機


ポタラ宮


ファーストフード店


無料の公衆トイレ


小昭寺(ラモチェ)の参道


小昭寺の本堂


小昭寺の本堂には所狭しと色鮮やかな仏像が並べられていた


庶民的な雑貨店


   ラサでの最後の晩餐はリエゾンの案内で、ホテルの近くにあるチベット料理店で本場の『ギャコク』を食べた。 ギャコクはカトマンドゥで何度か食べたことはあったが、昔ながらの土鍋を使うこの店のギャコクの味は一枚も二枚も上だった。 サイドメニューの蒸した鶏肉やヤクのタンはとろけるほど柔らかく、これだけでも充分美味しかった。 当初はラサに二泊することが嫌だったが、このギャコクの味は記憶に残るものとなった。


ラサでの最後の晩餐はチベット料理店で本場のギャコクを食べた


昔ながらの土鍋を使ったギャコク


蒸した鶏肉


ヤクのタン


   10月8日、9時にホテルを出発し、ラサゴンカル空港に向かう。 通勤時間帯で市内は少し渋滞していた。 空港の出発ロビーでリエゾンのウドゥに見送られ、正午過ぎの便でカトマンドゥへ向かう。 大きなエアバスの機内は行きと同じように満席だった。 1時間半ほどでカトマンドゥのトリブヴァン空港に着き、時計を1時間15分遅らせる。 ネパールへの再入国となるため、入国審査に25ドルの観光ビザの申請が必要だった。 カトマンドゥは乾燥したラサの気候とは違い、空気が重くて蒸し暑かった。 空港ではエージェントのマウンテン・エクスペリエンス社の社長のタムディンに迎えられ、車で倉岡隊のメンバーが泊まるホテル『イエティー』に向かう。 タムディンからダサインの祭りが始まったと伝えられ、市内を走る車はとても少なかった。 『イエティー』で倉岡隊のメンバーを降ろし、私達が泊まるホテル『アンナプルナ』に着いた。

 

ラサゴンカル空港


空港の出発ロビーでリエゾンのウドゥに見送られる


カトマンドゥは空気が重くて蒸し暑かった


倉岡隊のメンバーが泊まるホテル『イエティー』


   遅い昼食は日本料理店の『古都』で、いつものすき焼き定食を食べた。 スタッフ達と共に陸路で運ばれてきた荷物をホテルのロビーで受け取り、ダッフルバック2つで30キロ以下となるように調整しながらパッキングする。 シャワーを浴びてさっぱりしてから、一足先にカトマンドゥに着いたスタッフのうち、まだカトマンドゥに残っていたメンバーに声を掛け、韓国焼肉の店で打ち上げをして大いに盛り上がった。


『古都』のすき焼き定食


韓国焼肉店での打ち上げ


韓国焼肉店での打ち上げ


韓国焼肉店での打ち上げ


   10月9日、今日は夜中の便で日本へ帰る。 ゆっくり寝坊して朝食のバイキングを堪能し、タメルへ土産物を買いに行く。 昨日に続き、街中はダサインの期間で車が少ない。 いつも利用するタメルの入口の両替屋『FUJI』でのレートは、5年前とあまり変わらず1ドルが104ルピーだった。 タメルでは先の大地震で全壊したような建物は見られず、商店街の雰囲気は以前と何ら変わっていなかった。

   最後の夕食もタメルに行き、柴田さんお勧めの日本料理店『一番』で、トンカツ定食と餃子を食べた。 タメルではいつも『桃太郎』で日本食を食べていたが、この店も同じように料理の種類が多く、安くて美味しかった。

   夜9時にホテルをチェックアウトし、明日帰国する柴田さんと平岡さんに見送られ、タムディンが運転する車でるみちゃんと一緒に空港へ向かう。 タムディンと再会を約し、11時半発のクアラルンプール行きのマレーシア航空で帰国の途についた。


宿泊したホテル『アンナプルナ』


朝食のバイキング


街中はダサインの期間で車が少なかった


日本料理店『一番』


トンカツ定食


餃子


明日帰国する柴田さんと平岡さんに見送られ帰国の途につく


成田空港でるみちゃんと別れる


  【チョ・オユー登山を終えて】
   2度目の8000m峰へのチャレンジとなったチョ・オユー登山は、幸運にも登頂日が滞在期間中一番の好天となり、素晴らしいメンバー・スタッフ・ガイドの全てに恵まれ、ある程度余裕をもって登頂することが出来た。 酸素の使用については5年前のマナスル登山の時の経験が大いに役立ち、酸素マスク・混合器・レギュレター・ボンベの全てが改良されていたこともラッキーだった。 また、高所に弱い私が一番危惧していたA.B.C(5700m)での滞在は、B.C(4900m)の先まで車で入れたことで体力が温存され、予想よりも順調に過ごすことが出来た。 図らずもA.B.Cは地形的に風が全く当たらず、陽当りも良かったので、寒さに苛まれることはなかった。 C.1(6400m)とC.2(7130m)は上部キャンプとしての環境はまずまずだったが、今回泊まらなかった最終キャンプのC.3(7400m)は快適そうに思えなかったので、天気が良ければ今回のようにC.2からアタックする方が断然良いと思えた。 実質的な登山のスタート地点となるC.1からは“最も登り易い8000m峰”と言われるとおり全般的に傾斜が緩く、フィックスロープが無い区間も多かったので、マナスルと比べて明らかに登り易かった。 但し、今シーズンはモンスーンがなかなか明けず、アタック日を除いては天候が不順で、降雪が多かったのでヤキモキさせられた。 C.1からC.2へ(6000m台から)酸素を吸って登ることによるデメリットは一切なく、むしろ体力の温存が図れるメリットがあることが分かり良い経験になった。


チョ・オユーの山頂


   今回は先の大地震の影響でネパール(カトマンドゥ)から中国(チベット)へ陸路で行けず、ラサ経由の空路で行くことになってしまい、費用もトータルで50万円ほど多く掛かってしまったが、初めての中国、初めてのチベットで、様々な文化や歴史、そして生活の一端にも触れ、ポタラ宮やタシルンボ寺などの名所の観光も出来て良かった。 後日談だが、平岡隊でご一緒した柴田さん、倉岡隊の星野さんと羽山さんは半年後の2017年の春にチベット側から、倉岡隊の五味さんはネパール側からエベレストに見事登頂された。 一方でその後は中国政府が外国人のチベットへの入域を禁止してしまったので、チョ・オユーへの道は再び閉ざされることになった。 ティンリでの滞在中に初めて見たシシャパンマの雄姿に一目惚れし、エベレストよりもむしろシシャパンマを登りたくなったが、これもまたどうなるのか現時点では全く分からない。 政治情勢の悪化やテロの脅威で近づけないカラコルム周辺の山域と同じように、チベットでも自由に山に登ることが出来ないことが残念だ。


報告会でハイジさん&ちー隊長から頂いた登頂祝いのケーキ


山 日 記    ・    T O P