【精霊の王】
中央アジアのカザフスタンの最高峰ハン・テングリは、東西300キロに及ぶ天山山脈の中央に位置し、古代の中国の僧侶が“精霊の王”と名付けたといわれる名峰で、世界百名山にも選ばれている。 標高は7010mとも6995mとも言われているが、7000mという数字にこだわらなければ、どちらでも全く問題ではない。 ヨーロッパ、南米、ヒマラヤ(ネパール)の山々をいくつか登り、次は未知のチベットやカラコルムの山に登ってみたいという思いが強まり、その中で国の最高峰(9番目)という観点から思いついたのが同峰だった。 海外の山にご一緒した方の中にもルートや時期は違うものの同峰に登頂された方がおり、情報は少ないが登れない山ではないことが分かった。 ちょうどその折、NHKの番組『グレート・サミッツ』で同峰が放映され、その出演者で登山家の平出和也さんから運良くICIスポーツで話しを伺うことが出来たことが一番の情報だった。 また、山仲間の飯塚さん夫妻も同じB.Cから登るカーリィー・タウ(5450m)に5年前に行かれていたので、山麓へのアプローチやB.Cの状況などが事前に良く分かった。 カーリィー・タウは標高の割に氷河が大きく、B.Cからではあまり絵にならないハン・テングリを望むには絶好の山だったので、同峰をプレ登山とするハン・テングリの登山ツアーをガイドの平岡さんに企画していただき、チャレンジすることになった。 他の参加メンバーは、以前ペルーのワスカランでご一緒した田路さんと割石さんということに決まった。
7月17日、直前に上陸した大型の台風11号の影響で、徳島の割石さんと福井の田路さんも急遽成田空港から出発することになった。 アシアナ航空の預託荷物は20キロまでで、オーバーチャージは1キロ当たり20ドルということになっていたが、25キロを超えているはずの荷物は何事もなくスルーしてしまった。 危惧していた台風の影響はなく、成田空港を12時半の定刻に出発し、約2時間のフライトで乗継地のソウルのインチョン空港に着いた。 インチョン空港は9年前にNZに行った時に乗り継ぎで訪れて以来だが、空港の施設はリニューアルされ、とても綺麗になっていた。 空港内にはまだ日本語が多い。 1000円を両替すると8600ウォンで、スタバのコーヒーが2000ウォンだった。
夕方の6時過ぎにカザフスタンのアルマトゥイに向けて出発したが、機内では韓国人の乗務員が片言であるが日本語で話しかけてくれた。 インチョンからアルマトゥイは約6時間で、日本との時差は3時間となぜかネパールよりも小さい。 アルマトゥイ空港は小さく、現在では日本人はビザが不要なため、入国審査は拍子抜けするほどスムースだった。 空港には今回のエージェントの『Kan Tengri LTD』の運転手のスルーランが迎えにきてくれた。 意外にも夜の10時を過ぎているのに外は蒸し暑く、日本とあまり変わらなかった。 車はランクル(左ハンドル)で、市内を走る車も日本車が多く(特にトヨタ)、ガソリンが安いためかどれもみな中型以上の大きさだった。 空港は町の中心部に近く、30分足らずで宿泊先のホテル『ASTRA』に着いた。 ホテルはビジネスマンやツーリスト向けのようで、フロントの女性は英語を話せた。 シングルルームにはキングサイズのベッドが置かれ、シャワーも日本と同じように蛇口をひねっただけで、すぐに溢れんばかりの熱いお湯が出てくる。 エアコンもすでに入っていた。 標高は相対値だが高度計で800mだった。
【アルマトゥイからカルカラへ】
7月18日、7時半に起床し1階のレストランに行くと、すでに他のメンバーは朝食を終えたところだった。 朝食のバイキングの内容は3ツ星と4ツ星の中間くらいだが、食材はあまり高級なものを使ってないように思えた。 ウェイトレスから、ロシア語の「ドーブラヤ・ウートラ」(日本語で、おはよう)はカザフスタン語では「カエルタン」、「ドーブラヤ・ビーチェル」(こんばんは)は「カエルキシュ」、「スパスィーバ」(ありがとう)は「セリメスエ」だと教えてもらった。 天気は良く、4階の部屋の窓から4千メートル級の山々の連なりが見えた。
朝食後はホテルの周囲を少し散策する。 昨夜も蒸し暑かったが、今日も日向はすでに暑い。 ホテルからすぐの所に鉄道の駅があった。 大通りは片側4車線と道幅は広いが、それでも交通量は非常に多い。 日本車のみならずベンツやアウディといった高級車も目立つ。 交通渋滞を少しでも解消するためか、各信号機には残り時間を表示する電光掲示板が付いていた。 カザフスタンという国については全く知らなかったが、少なくともアルマトゥイを見る限りでは、ヨーロッパナイズされた先進国であることが分かった。 アルマトゥイとは元々“リンゴの里”という意味らしい。
10時に運転手のスルーランがホテルに迎えにきてくれ、ランクルに荷物を載せて10過ぎにホテルを出発。 大きなスーパーマーケットに寄り、上部キャンプでの食料と行動食の買い出しをする。 店内には両替所があり、米ドルをカザフスタンの通貨のテンゲに両替する。 1ドルが186テンゲだった。 店内の品揃えは多いが、なかなか欲しいものは見つからなかった。
2時間ほどで買い出しを終え、200キロほど離れた今日の目的地のカルカラのキャンプ場に向けて炎天下の道路をひた走る。 道路脇に立つ標識の制限速度は90キロとなっていたが、広い道では100キロを超える猛スピードで飛ばしていく。 途中のガソリンスタンドの温度計は38度を表示していたが、何故かスルーランは窓を開けてエアコンを使おうとはしなかった。 ガソリンは平均リッター108テンゲ(邦貨で約70円)ほどだった。 市街地を抜けると、道路脇にはスイカやメロンを売る露天商が散見されるようになった。 車は平らな草原の中の道を真っ直ぐに走っていく。 街道の途中には小さなレストランのような建物が点在していたが、なぜかスルーランは日陰の草むらに車を停めて、そこで簡素なランチボックスでの昼食となった。 店の衛生状態が悪いのか、時間の節約なのかは分からないが、少なくともエージェントが経費を削っているとは思えなかった。
昼食後に車は山道を走るようになり、『レッドキャニオン』という奇岩の景勝地や峠を越えると道路が分岐する小さな町があり、休憩がてらアイスクリームを買って食べた。 再び草原の中の道となったが、次第に牛や羊の群れが見られる牧草地となった。 道路が未舗装になった所で、同じエージェントのワゴン車に追いついた。 私達と同じように山を登りに来た他の国の隊だとスルーランが教えてくれた。 間もなく道路は轍だけとなり、他隊はそこで待機していた大型のジープ仕様のバスに乗り換えたが、私達はそのままランクルでキャンプ場への山道を先行して進み、小川を渡ったりしながら緩やかに勾配を上げていった。 意外にも勾配が急になってくると、ランクルが時々エンストを起すようになり、とうとうオーバーヒートで動かなくなってしまった。 スルーランがエアコンを使おうとしなかったのは、エンジンが不調だったせいかもしれない。 しばらくすると後続の他隊を乗せたバスが追い付き、そのドライバーさんが慣れた手つきで直してくれた。
間もなくキルギスとの国境地帯となり、道路脇には鉄条網が張り巡らされるようになった。 その先に簡易なゲートがあり、銃を携えたカザフスタンの制服の兵士からパスポートを預けるように指示され、それと引き換えに通行を許可された。 ゲートの先には、白いヘリコプターが置かれ、そのすぐ先が目的地のカルカラのキャンプ場だった。 キャンプ場には食堂となっている平屋建ての建物と沢山の家型のテントが並んでいた。 このキャンプ場はエージェントのハン・テングリ社が経営しているとのことで、社長のカズベックと番犬のカーリーが出迎えてくれた。 カーリーは飯塚さん夫妻がここを訪れた時はまだ子犬だったという。 アルマトゥイで800mを指していた高度計の数字は2160mになっていた。
テントは空きがあるようで、二人用のものを一人で使えた。 テントの周りはフウロが咲乱れるお花畑となっていたが、虫はそれほど多くなかった。 広い食堂で夕食を食べ、8時を過ぎると高原のように涼しくなってきた。 寝る前にSPO2と脈拍を測ると、90と63だった。
7月19日、7時前に起床すると、ヘリが飛んでいく音が聞こえた。 夜中はずっと風が強く、テントがバタついて熟睡出来なかった。 テントの中は16度と少し寒さを感じるくらいだ。 起床後のSPO2と脈拍は94と64で、睡眠不足のためか脈が少し高かった。 朝食のオートミールは麦だけの甘さで珍しく美味しかった。 今日は明日からのB.C入りに備え、キャンプ場の裏山へのハイキングで体を慣らす。 特に目標とするピークはないが、標高3000m位の所まで登るつもりだ。 裏山は山全体がお花畑となっているようで楽しみだ。
9時にメンバー4人でキャンプ場を出発。 明け方は涼しかったが、次第に暑くなってきた。 すでに一面がお花畑となっている平らな草原の中の踏み跡を辿って行く。 周囲に咲乱れる花々は高山植物のように小さいものばかりではなく普通の山野草も多いが、とにかく種類と数がべらぼうに多い。 飯塚さん夫妻からの情報どおり、正に“天国の花園”のようだ。 花が多過ぎるためか、意外にも虫は少ない。 踏み跡は次第にゆるやかな勾配となり、明日一緒にB.C入りするドイツ、イングランド、スペインそしてUSAといった他隊のメンバーが後ろから追いつき、そして足早に追い越していった。 天気が良く風もないので、日本の夏山のように暑く、1時間ほど歩いただけで大汗をかいた。
お花畑は途切れることなく、逆に上に行けば行くほど花の種類と数が増してくるようにさえなった。 これほど素晴らしいお花畑は今まで見たことがなく、ただただ写真を撮り続けるしか術がなかった。 予想外の暑さだけが玉にキズだ。 キャンプ場から1時間40分ほどでオレンジ色のタンポポが群生する峠に着いた。 峠からの展望は良く、僅かに残雪がある3000m級の山々が遠くに見えた。
峠からは左方向への顕著な尾根を進み、40分ほどで最初の小広いピークに着いた。 ピークには涼しい風が吹いていて気持ち良かった。 スイスにも少し似た山の風景が広がり、寝転がったりしながらメンバー一同思い思いに寛ぐ。 しばらく休んでいると汗も引いたので、指呼の間の次のピークまで足を延ばすことにした。 岩が露出した次のピークではそれまで見られなかった花もいくつか見られた。 高度計の数字は2850mとなり、キャンプ場から標高差で700mほど登ったようだ。
ここを今日のゴールと決め、一息入れてからキャンプ場への道を戻る。 下山中に平岡さんから、カーリィー・タウを登らずにハン・テングリのみで順応活動をした方が登頂率の向上につながるため、その方向で行きたいという提案があった。 カ−リィー・タウはプレ登山ではあるものの、是非登りたかったので残念だが、こればかりは仕方がない。 どうやらポーターの手配が上手くいかなかったことも原因のようだ。 3時前にキャンプ場へ戻ったが、午後は曇ってくれたので、暑さに苛まれずテントの中で昼寝が出来た。 夕方のSPO2と脈拍は93と67だった。
【カルカラからB.Cへ】
7月20日、番犬のカーリーの鳴き声に合わせて6時に起床。 今日もまずまずの天気で安堵する。 起床後のSPO2と脈拍は93と53だった。 今日はここから国境を越えてキルギスに入国し、キルギス空軍のヘリでB.Cまで飛ぶことになっているため、朝食前にB.Cへ持っていく荷物と体重を測った。 朝食後は食堂で一昨日パスポートを預けたカザフスタンの兵士による出国手続が行われ、9時前にエージェントの車に乗ってキャンプ場を出発した。 車で数分の所に国境となっているカルカラ川に架かる古い橋があり、その手前で車から降りる。 橋の中ほどにはキルギス側の古いトラックが停まり、先に出発した他隊のパーティーの荷物を手渡しで積み込んでいた。 トラックは1台しかないようで、橋の手前で30分ほど待たされた。
トラックがヘリポートを往復して戻ってきたので、荷物を積み込んでから歩いて橋を渡る。 橋の先にはジープに乗ったキルギスの制服の兵士がいて、今度はここで入国手続がありパスポートに検印された。 ここからは荷物と共にトラックの荷台に乗って数分先のヘリポートに向かう。 黄色いカマボコ型のテントが並ぶキルギス側のキャンプ場の先にあるヘリポートでは、大型の軍用ヘリへ前のパーティーの荷物が積み込まれていたが、荷物を積み込む前に再度計量が行われていた。
10時にヘリに乗り込み、横向きのベンチシートに座ったが、10人ほどの乗客と荷物を満載したヘリの機内は足の踏み場もないほどだった。 ヘリはローターをしばらく回し続け、間もなくゆるりとヘリポートを飛び立った。 このヘリは週1〜2回の定期便で、毎日飛んでいる訳ではないらしい。 昨日遠くに眺めた3000m級の山々を越え、氷河から流れ出す川を横切ると、氷河の山々が眼下に望まれるようになった。 天山山脈のパノラマ・フライトに興奮しながら、小さな丸い窓から見える山々の写真を撮りまくったが、窓が汚れていたので上手くは撮れなかった。 飯塚さん夫妻も5年前に同じ風景を見たのだと思うと、感激もひとしおだった。 高度が5000m近くまで上がると、山々にかなり接近して飛ぶ所もあった。 ヘリは途中で進路を左に変え、幅の広い大きな北イニルチェク氷河を遡上しながら次第に高度を下げていった。 あいにくハン・テングリは反対側だったので機内からは見えなかった。 カマボコ型のテントが点在するキルギス側のB.Cが眼下に見えると、そこから1キロくらい先に私達が滞在するB.Cが見え、離陸してから40分ほどでB.C付近の平らな氷河の上にヘリは着陸した。
ヘリを降りると、雲は多めながら初めて眼前にハン・テングリが見えた。 高度計の数字は3800mほどしかなく、氷河の上もカルカラと同様に予想以上に暖かかった。 ここから山頂までの標高差は3000mほどだが、最初の印象ではそれほど威圧感を感じなかった。 重い荷物を少し離れたモレーンの上に張られたテントに運ぶ。 色あせた家型のテントは木のスノコの上に置かれ、スノコの下に石を積み重ねて土台にしていた。 テントは二人用のため、私は平岡さんと一緒のテントになった。 テントが少し傾いていたので、平らな石を土台に積み増してスノコを水平にする工事を始めると、B.Cのスタッフ(後でガイドと分かった)達が手伝ってくれた。
B.Cでの昼食は2時と決まっているようで、鐘の音を合図に大きな食堂テントに行く。 詰めれば5人位が座れる細長いイスとテーブルが10組ほどある食堂には、登山客とスタッフが30人ほど集まってきた。 B.Cのマネージャーはルダという若い女性で、ロシア語や英語以外の言語も話せるようで通訳も兼ねていた。 また、管理人は通称ムハという年配で貫録のある人だったが、その言動がとても個性的なので、他のスタッフが一目置いている感じだった。
昼食後は今日入山した私達のために、ルダからB.Cのスタッフやガイドの紹介、そして現在の山の状況などについての説明があった。 私達もフルネームを聞かれ、ルダはそれをノートに記入していた。 ルダから、現在20人位が上のキャンプ地にいるが、雪が多いので順応にはカーリィー・タウの方が良いというアドバイスがあり、急遽明日から当初の計画どおりカーリィー・タウに行くことになった。
テントに戻り、明日からのカーリィー・タウ登山のための準備をする。 当初は3泊4日で4800mのC.2に順応のために2泊することになっていたが、少しでも早くハン・テングリに取り付きたいということで、C.2での宿泊を1日減らして2泊3日で登ることになった。 B.Cには、いわゆるポーターという職種の人はおらず、ガイドがポーターの仕事をしていることが分かった。 ただ、ガイドはもともとポーターの仕事をしたことがないため、歩荷能力は予想以上に低く、特別に頼まなければネパールやペルーのように個人装備の荷上まではしてくれないようだった。 とりあえずカーリィー・タウには寝袋などの個人装備は全て自分で持っていくことになったが、35リッターのアタックザックへのパッキングには苦労した。 午後のSPO2と脈拍は87と72、8時からとなる夕食の後は83と76で、予想よりも少し良かった。
【カーリィー・タウ】
7月21日、6時に起床。 5時には明るくなったが、テントに陽が当たるのは6時半だった。 夜中に何度か目が覚めたものの、意外にも頭痛や動悸はなかった。 起床後のSPO2と脈拍は90と56で数値も驚くほど良かった。 テント内の気温は7℃だったが、数値以上に暖かく感じる。 外も4000mの高度にしては暖かい。 高度計の数字は相変わらず3800mのままだが、平岡さんのGPSでは4050mほどあるとのことだった。 B.Cには家型のテントが30張ほどあった。 私達のテントはトイレから一番遠いようで、50mほど離れていた。 朝食は8時からだったが、残念ながらカルカラのキャンプ場と同じオートミールだった。
朝食後にルダから、ハン・テングリのルートの状態が悪いので、今日はこれからB.Cに下りてくるパーティーが多いという情報が伝えられた。 ガイドやパーティーの責任者が毎日定時に無線でB.Cと連絡を取っているようで、山の状況が良く分かるのがありがたい。 今日からのカーリィー・タウ登山の打ち合わせをガイドのワディム、セルゲイ、イゴールとボスのムハを交えて行った。 出発前にB.Cに常駐している女医さんからの問診と血圧測定があった。 血圧は110と70だったので、女医さんから20歳台ですねと褒められた。
10時半前にB.Cを出発し、幅の広い北イニルチェク氷河を上流に向けて遡上する。 道案内(ガイド)は一番年配のワディムで、若いセルゲイとイゴールは後から荷物を担ぐポーター役として来ることになった。 氷河は単調で勾配が殆どなく歩き易いが、クレヴァスを流れる小沢が多いため、なかなか真っ直ぐに進めず、迂回したりロープを使ったりスノーブリッジを探したりしながら進む。 間もなくB.Cからは見えないバヤンコール(5841m)などの山が左手に見えてきた。 1時間歩いても標高は50mほどしか上がらなかったが、左前方には目的のカーリィー・タウ(5450m)とその隣のMt.カザフスタン(5761m)が望まれるようになった。
1時間毎に適当な場所で休憩しながら、2時前に北イニルチェク氷河の源頭部に着くと、ワディムが明日の下見を兼ねて今日泊まる場所を探しに行ってくれた。 高度計の標高は4020m(GPSでは4270m)と、B.Cから220mしか上がってなかった。 ワディムのロケハンの結果、ここをC.1とすることになり、少し遅れて到着したセルゲイ達が担いできてくれたテントを設営する。 平岡さんが日本から持ってきた新しいニーモ社製のテントはとても機能的だが、初めてということもあり設営に時間が掛かった。 今日は田路さんと一緒のテントとなる。
夕方5時のSPO2と脈拍は83と66と数値はあまり良くなかったが、体調は良く食欲もあった。 夕食はアルマトゥイで買った馬肉と麦を混ぜたような料理の缶詰を食べたが、脂が多く順応途上のお腹に悪そうだった。 案の定、消化不良のため夕食後は脈が80台になってしまった。 ここからC.2までは半日行程だが、ワディムから気温が高くて雪の状態が悪いため、明日は5時に出発するとの指示があった。
7月22日、3時に起床。 昨日とは一変して夜中は動悸と頭痛で殆ど眠れなかった。 起床前のSPO2と脈拍は86と58で数値だけは良い。 テントの中は暖かいが手先は冷たい。 カップ麺を食べ、テントを撤収してから予定どおり5時にC.1を出発する。 すでに周囲は薄明るく、ハン・テングリの頂稜部も見えた。 氷河を10分ほど歩いてから大小の岩が堆積したモレーンのガラ場を登り始める。 昨日はとてもゆっくりだったワディムのペースが急に速くなった。 足元には浮石が多かったので、おそらくここは落石の危険があるのだろう。 田路さんと割石さんの70台コンビはワディムのスピードに合わせて登っていくが、私は息を切らしながらついていくのがやっとだ。 ガラ場を1時間ほど登った所に下からも良く見えた大きな岩があり、ようやくそこで一休みすることが出来た。 朝陽に輝くハン・テングリの頂稜部が神々しい。
大岩から先では足元の岩が次第に小さくなり傾斜も少し緩んだ。 大岩から小1時間で足元の岩を雪が覆うようになりアイゼンを着ける。 ここまでC.1から標高差で300mほどだった。 間もなく氷河の取り付きとなり、私と田路さんがワディムと、割石さんは平岡さんとロープを結んで登った。 懸念していた雪の状態は悪くなく、ロープを結んでからはペースも落ちたので安堵した。 それほど勾配のない斜面を30分ほど快適に登っていくと、ちょっとした凹地にテントが見られた。 少し違和感を感じたが、その理由はすぐに分かった。 そこから目と鼻の先のセラックの基部が深いギャップとなっていて、ルートを遮断していたのだった。 ワディムがギャップに下りてその先のルートを偵察してから、フィックスロープを固定するのに1時間近く掛かった。 ワディムが気にしていたのは、このギャップのことだったのかもしれない。
短いフィックスロープを懸垂で下ってギャップを通過すると、その先は純白の広い雪原になっていた。 眼前にはボリューム感たっぷりのカーリィー・タウと、5000m峰とは思えない重厚な面持ちのMt.カザフスタンが鎮座して威容を誇っていた。 振り返るとハン・テングリもさらに凄みを増して望まれるようになり、そのロケーションの素晴らしさに思わず歓声を上げた。 目標のカーリィー・タウのみならず、Mt.カザフスタンも本当に魅力的な山で、近くにハン・テングリがなければ、もっと登山者が増えるのではないかとさえ思えた。 もっともハン・テングリがなければ、B.Cまでヘリが飛ばないだろう。
まだ時間は早いが、陽光に暖められた雪原の雪は柔らかく、またヒドゥンクレヴァスもあるようで、ワディムはロープを長く伸ばして慎重に前へ進んだ。 すぐに広い平坦地となったが、まだC.2には早過ぎると思ったのでワディムに尋ねると、さらに1ピッチ登った先にも同じような平坦地があり、どちらを今日のキャンプ地にしても良いとのことだった。 まだ時間も早いし、もともと順応のために来ているので、少しでも標高が高い上のキャンプ地まで行くことに異論はなかった。
雪原の勾配はかなり緩やかだが、トレースが無いためペースはさらに遅くなった。 最初の平坦地から小1時間を要し、10時半にワディムが言った次の平坦地に着いた。 高度計の標高は4520mだったので、C.1からちょうど500m登ったことになる。 山頂方面から二人組のパーティー(先ほどのテントの主)が下ってきたので、ワディムがすかさずその二人に走り寄り、上のルートの状況について情報収集をしていたが、二人は順応不足でカーリィー・タウとMt.カザフスタンの間のコルで引き返してきたとのことだった。
傍らに純白のカーリィー・タウが屹立するC.2は、ハン・テングリを眺めるのにも格好の場所で、まさに“百聞は一見にしかず”の諺どおり、飯塚さん夫妻がこの素晴らしいロケーションに大いに感動されたということが、ここに来てあらためて良く分かった。 一息入れてから足で雪を均してテントの整地をしたが、これがけっこうくたびれる。 テントを担いで登ってくるセルゲイ達の姿は全く見えず、暖かく風のないC.2で居眠り大会となってしまった。 C.2に着いてから2時間以上経った12時半過ぎに、ようやくセルゲイ達がC.2に着いた。 さっそくテントを設営して水作りを始め、一刻も早く脈を下げるために水分の補給に努める。 2時半頃にB.Cから登ってきたスペイン隊の男女二人のパーティーがC.2に着いた。 正午のSPO2と脈拍は80と80だったが、4時過ぎには85と68になり、気持ちよく昼寝が出来るほどになった。
夕方になると空が曇り始めたので、明日の天気が心配になった。 夕食は魚肉ソーセージとインスタントラーメンをケチャップでスパゲテイ風にして食べた。 夕食後にワディムから、明日は3時に出発するとの指示があった。 昨夜のように夕食後は消化不良で脈拍が上がり、SPO2と脈拍は78と78になってしまった。
7月23日、1時半に起床。 今日は妻の誕生日だ。 昨夜は予想どおり動悸と頭痛、そしてまるで心臓病のように胸の奥が締め付けられるような不快感で殆ど眠れなかった。 起床後のSPO2と脈拍は76と63で意外と脈は低かった。 残念ながら空には星が見えず曇っている。 食欲はないのでチキンラーメンだけをお腹に流し込む。 3時に出発の予定だったが、ワディムがカーリィー・タウとMt.カザフスタンの間のコルまではロープを結ばずに行くということに平岡さんが猛反対し、しばらく二人で議論を交わしていたが、結果的に効率面より安全面を優先するということで、昨日と同じように私と田路さんがワディムと、割石さんが平岡さんとロープを結んで登ることになった。
セルゲイとイゴールに見送られ、3時過ぎにC.2を出発。 相変らず風も無く暖かい。 まるで夏のヨーロッパアルプスの山を登るような感じだ。 昨日C.2から見えていた峠のような所までは勾配の緩やかな登りが延々と続く。 昨日の二人組のパーティーの薄いトレースはあるが、先頭のワディムが柔らかい雪をラッセルしながら進むためペースは遅い。 体調の悪い私には真に好都合だ。 40分ほどで峠のような所に着き一息入れるが、C.2からまだ標高差で60mほどしか登っていなかった。 天気は良くならず、時折小雪が舞ってくるようになった。
峠からは一旦僅かに下り、カーリィー・タウとMt.カザフスタンの間のコルまで再び緩やかで単調な登りとなる。 相変らずペースは遅くてありがたい。 突然、後ろから単独者が勢いよく傍らを追い越して行った。 良く見るとそれはイゴールだった。 今回イゴールはポーター役なので、C.2で留守番をするとばかり思っていたが、どうやら先行してトレースをつけてくれるようだ。 あるいは単にカーリィー・タウに登りたかったのかもしれない。 いずれにしても、あっという間にその姿は見えなくなった。 間もなく周囲が薄明るくなり、前方に顕著なコルが見え始めると、今度はセルゲイが追い付き、ワディムに一声掛けると足早に追い越して行った。
峠から1時間半ほど登り、5時半前にカーリィー・タウとMt.カザフスタンの間のコルに着いた。 コルの右手にはカーリィー・タウの山頂方面に伸びる長い雪稜が見え、目を凝らすと雪稜を登るイゴールとセルゲイの姿も見えた。 高度計の標高は4730mで、C.2からの標高差は200mほどだった。 雪は止んだが天気はあまり良くなく、残念ながらここから見えるはずのハン・テングリは全く見えない。 一方、ここから見た雪稜を登るルートは易しそうで、先行しているイゴールとセルゲイの新しいトレースもあるので、あと3時間もあれば山頂に届きそうに思えた。
峠でしばらく休憩し、5時半過ぎにやや急な広い雪稜を登り始める。 ありがたいことに稜上も風が全くなかった。 体調も少しずつ回復してきたので、何とか山頂まで登れそうな感じがした。 すぐに小さな岩場があり、短いフィックスロープをユマールで登る所があったが、そこを過ぎるとコルから見たとおりの易しい雪稜歩きとなった。 天気も徐々にではあるが回復し、上空には青空も僅かに見えるようになった。 ワディムのペースも相変わらずゆっくりなのが嬉しい。 いつの間にか体調も良くなり、間もなく先行していたイゴールが下ってきたので登頂を確信した。
頭上に山頂らしき所が見えた所で最後の休憩となった。 高度計の標高はようやく5000mになった。 ちょうど後ろからスペイン隊の二人が追い付いてきた。 彼らはC.2を4時半に出たとのことだったが、先ほどから高度の影響で登るペースが急に落ちたという。 しばらく彼らと雑談を交わすと、休憩後は私達の隊と一緒に登るような感じになった。 もちろん、今日カーリィー・タウに登るのは、今ここにいるメンバーだけだ。 間もなく今度はセルゲイが下ってきた。 セルゲイもワディムに一声掛けただけで、足早に下って行った。
ここからは平岡さんと割石さんのパーティーが先行し、スペイン隊のパーティーを間に挟んで私達のパーティーが最後尾となった。 右に見えるMt.カザフスタンの山頂がいつの間にか目線の高さとなり、山頂直下では雪稜も痩せてきたが全く難しい所はなく、8時過ぎに山頂のような雰囲気の広いピークに着いた。 指呼の間にここよりも少し高い巨大な雪庇のドームが見えたが、ここから先は氷河の状態が非常に悪いため、一般的にはこの広いピークをカーリィー・タウの山頂としているようで、ワディムはあえて雪庇の方に近づこうとはしなかった。 高度計の標高は5108mとなっていたので、実際のこの広いピークの標高は5350mくらいだろう。 休憩もそこそこに、寸暇を惜しんで周囲の山々の写真を撮りまくった。
未明から早朝に比べると天気は少し良くなり、雲は多いながらも東の方角には端正なムラモルナヤステナ(6400m)が大きく望まれ、西には手が届きそうな近さにMt.カザフスタンの頂が迫っている。 あいにく一番楽しみにしていたハン・テングリには雲が取り付き、すっきりとその姿を見ることは出来なかった。 スペイン隊の二人は、人の多いハン・テングリには登らず、静かな山を求めてこの山を登りにきたとのことだった。 目的は違うがお互いの登頂を祝福して写真を撮り合った。 順応が目的ではあるものの、なかなか簡単に来れる場所ではないので、今回カーリィー・タウに登れて本当に良かった。
山頂での至福の時間はあっという間に過ぎ、8時半過ぎにスペイン隊のパーティーに続いて山頂を後にする。 登りとは反対に下りは私が先頭になった。 ゆっくり下ったつもりだが、まだ雪の状態が良くトレースも充分あったので、山頂から1時間足らずでコルに着いた。 予想よりも早くコルに着いたので、コルで少し休憩してからC.2への緩やかな斜面をワディムを先頭に下る。 天気は下の方ほど良く、気温の上昇による暑さと雪面からの照り返しが苦痛になってくる。
コルからはちょうど1時間、山頂からは2時間少々でC.2に着いた。 喉がだいぶ渇いていたので、出迎えてくれたセルゲイから差し出された温かい紅茶をガブ飲みする。 二日続けての睡眠不足と行動食をあまり食べていないことによるシャリバテ、そして一番の原因は高度障害のため、C.2に着いたとたん気分が悪くなってしまったが、正午にC.2を発つことを目標に、休む間もなく荷物のパッキングとテントの撤収を始める。 当初の計画ではC.2で順応のため連泊することになっていたことを思うと余計辛い。
正午ちょうどにC.2を発つ。 スペイン隊の二人は、明日はMt.カザフスタンを登るとのことで、B.Cに下る私達を見送ってくれた。 午後に入ると気温はさらに上昇し、時々雲間から陽が射すと雪原の上は地獄のような暑さとなったが、幸か不幸か午後も曇りがちの天気だったので助かった。 昨日越えたセラックの基部のギャップはユマールを使って登った。 氷河の取り付きでロープを解き、浮石の多いガラ場の下りでは、あともう少しで北イニルチェク氷河に下れるという所で、傍らの直径1mほどの大きな岩が突然動き出し、割石さんと田路さんを後ろから襲ったが、幸いにも割石さんが足首を打撲しただけで済んだ(帰国後に骨折していたことが判明した)が、一歩間違えれば二人とも大けがをするところだった。 落石騒ぎでC.1への到着は少し遅くなったが、C.1からB.Cへの北イニルチェク氷河の下りは、先行したセルゲイとイゴールの後を追って登りよりも効率的なルートを辿れたので、予想よりも早く5時半にB.Cに着いた。 未明からの長時間の歩行で、足はすでに棒のようになっていた。
7月24日、7時に起床。 B.Cは予想以上に暖かく、初秋の北アルプスの稜線と同じくらいだ。 テントの中の温度は10℃もあった。 3年前のヒムルン・ヒマールの寒かったB.C(4920m)とは大違いだ。 今日も朝から曇りがちでハン・テングリの山頂はすっきりと見えない。 起床前のSPO2と脈拍は82と59、起床後は86と66だったが、昨夜は久しぶりに熟睡出来たので数値以上に体は楽だった。 朝食のオートミールはもらわずにパスし、サイドメニューのパンを食べた。
明日も一日休養日となるため、今日の午前中は完全にレストするつもりだったが、朝食後に天気が少し良くなってきたので、昨日までの登山で使った用具の整理と、明後日からの順応ステージに向けての準備とエアーマットなどザックに入らないものを外に付ける工夫に精を出した。 アルマトゥイを出発してからもう一週間が過ぎたが、不思議とシャワーや風呂に入りたいという欲求はあまり湧いてこなかった。 昨日落石で痛めた割石さんの足首はやはり赤く腫れていたが、女医さんの診察では骨には異常がないとのことだった。
昼食は前菜の塩ラーメン(スープパスタ)に、メインディシュはハンバーグだったが、ハンバーグの味は下界並みでとても美味しかった。 昼食後のSPO2と脈拍は88と62で、昨日の疲れで顔はまだむくんでいるが体調はまずまずだ。 午後は再び曇天となったので、平岡さんの若い頃の山の想い出話を聞いたりしながら、テントの中でのんびり過ごした。
夕方になってセルゲイが順応ステージで歩荷する朝夕の食料・テント・燃料のガスボンベとコンロの重さを量りに来た。 これをきっかけに、平岡さんがセルゲイを通じてボスのムハと個人装備の歩荷について交渉したところ、上部キャンプへの個人装備の歩荷は1キロ当たりB.CからC.1までが9ドル、C.1からC.2までが16ドル、C.2からC.3までが24ドルということで話しがついた。
夕食前にようやくハン・テングリを覆う雲が取れたが、今シーズンの天気はあまり良くないのだろうか。 夕食は鶏肉入りの野菜炒めだったが、食器を洗う手間を省くためか大皿に盛られてきた。 食欲は普通にあったので、あまりセーブせずに食べた。 今日はB.Cに滞在してから初めて朝・昼・晩の三食を食堂テントで食べたが、昼食が一番ボリュームがあることが分かった。 夕食後のSPO2と脈拍は87と62で、予想以上に良かった。
7月25日、今日はゆっくり朝寝坊して7時半に起床。 日常生活では考えられないほどリラックスした朝を迎えた。 昨夜は特に暖かく、下着だけで寝れた。 天気は昨日と同じで今日も朝から曇っている。 起床前のSPO2と脈拍は88と53で、SPO2はまだ90台にはならないが、B.Cの標高が低いので体は楽だ。 カラスでもいるのか、鳥の鳴き声がした。
午前中は明日からの3泊4日の順応ステージ(チャパエフ・ノースの登頂)に向けての細かい準備をする。 4回分の行動食のセットがメインだ。 昼前から雪ではなく雨が降り始め、午後も引き続き雨となった。 今日の雨や雪でルートの状態が悪くなっていることが想定されるため、明日は5時に出発することになった。 但し、朝から雨なら出発を明後日に延期するとのこと。 また、残念ながらチャパエフ・ノースの登頂日となる三日後の28日は雨(雪)の予報が出ているとのことだった。
夕食前にようやく雨が止み、ハン・テングリの山頂が見えるようになった。 夕食は揚げ餅とピーマンの肉詰めで今日もまずまず美味しかった。 夕食後に大勢のメンバーで来ているイラン隊の一人が、C.1までのルートの概要や状態について親切に教えてくれた。 南米やネパールの山では、今までイラン人を見かけたことはなかったが、カザフスタンとイランは道路のみならず鉄道も通じているので、この山域では日本人よりも登山者の数は多いのだろう。
【順応ステージ 】
7月26日、4時に起床。 昨夜は寝袋のファスナーが壊れ、寝ている間に開いてしまったので寒かった。 食堂に用意されていたゆで卵とインスタントのうどんを食べ、5時過ぎにB.Cを出発。 残念ながら今朝もあまり良い天気ではない。 ガイドはカーリィー・タウの後、ワディムからセルゲイに変わったようで、セルゲイに先導されて北イニルチェク氷河を横断する。 B.Cから対岸のハン・テングリの取り付きまでは40分ほどだった。
取り付きでアイゼンやハーネスを着け、ハン・テングリのC.1に向けてチャパエフ・ノース(6120m)を登り始める。 急斜面やクレヴァスがある所にはフィックスロープがあるため、基本的にロープは結ばないようだ。 当初予想していた岩と雪がミックスした左側のリッジではなく、正面の雪のフェースを登る。 単独者が先行していったので、ルートのイメージが少し分かった。 斜面の傾斜はそこそこあるが、トレースがジグザグにつけられているので登り易い。 最初のうちは昨夜のイラン人のアドバイスどおりだったが、斜面の傾斜は次第に急になり、トレースもそれに比例して薄くなった。 雨で溶けた雪が凍っている所もしばしばで、下りではロープが欲しくなるような(必要な)登りが続き、のっけから緊張を強いられる。 途中、セルゲイが滑落した時のピッケルでの制動方法を動作を交えて説明してくれたが、ここならその可能性も充分あり得そうに思えた。 間もなく今回からポーター役となるアンドリューが追い付いてきた。
取り付きから1時間ほど登った所で最初の休憩となり、その少し先からフィックスロープが見られるようになった。 フィックスロープは傾斜が緩い所では安物の白いナイロンのロープが、急な所では登攀用のロープが使われていた。 セルゲイから、明らかに傾斜が緩い所を除いては、基本的に1本のフィックスロープにつき1人が登るようにとの指示があった。 C.1直下の所では傾斜が急だったのみならず、足元の雪が脆かったので苦労した。 ユマールを使うのが初めてだと登るのが厳しいだろう。 二本の長いフィックスロープを喘ぎながら登り終えると、その終了点が待望のC.1だった。 予想よりも早く、取り付きから3時間足らずでC.1に着くことが出来たが、最後尾の平岡さんが到着するまでにはさらに30分ほどを要した。
C.1はチャパエフ・ノースの山頂へ突き上げる急峻な尾根の末端のような所で、尾根の隅の雪のない岩場を均した所がテントサイトになっていた。 少し傾斜のあるC.1は予想していたよりも快適な場所ではなく、100mほど上にも数張のテントが見えた。 エージェントのガイド達が前もって設営したテントも上のキャンプ地にあるとのことで、今日は平岡さん・割石さん・田路さんの三人はここに、私はセルゲイ達と一緒に上のキャンプ地のテントに泊まることになった。
下のC.1でテントを設営し、一息入れてから上のC.1に向かう。 フィックスロープを30分ほど登り、11時半に上のC.1に着くと、エージェントのテントは一番立地条件の悪い岩場の末端にあった。 テントを設営しなくて済むのはありがたいが、二人用の古くて小さなテントは、ルートを整備するための荷物置場として使われていたので、その空いているスペースに一人で入った。 岩場の末端にある上のC.1では、テントのすぐ近くでしか用を足せないため、テントの周りはとても臭かった。
到着後のSPO2と脈拍は89と74で数値だけは良いが、カーリィー・タウでの順応の効果は見られず、頭が少し痛く気分も少し悪かった。 上のC.1の標高は、高度計の数字が4433mだったので、実際には4700mほどだろう。 天気は次第に良くなり、北イニルチェク氷河を挟んで眼前にセメヨノーブ(5816m)とバヤンコール(5841m)が大きく迫り、右奥にはMt.カザフスタン(5761m)とカーリィー・タウ(5350m)、そしてムラモルナヤステナ(6400m)が並んで見え、氷河の下流となる左方向には5000m級の山々の連なりが一望出来た。
私のテントにはコンロがないので、隣のテントのアンドリューにお湯を沸かしてもらい、チキンラーメンを食べる。 食後はSPO2が80前後に下がり、脈拍も80以上になったので、水分補給により脈を下げることに努める。 気分の悪さはなくなったが、顔がむくんでいる感じで、頭痛はまだ治らなかった。 いつものように天気は変わり易く、先ほどまでの晴天が嘘のようにしばらくすると雨が降り始めた。 3時になると上の一番良いテントサイトが空いたので、急遽下のC.1にいた三人が登ってきて、そこにテントを設営することになった。 夕方から雨は雪に変わって寒くなった。 SPO2は80後半まで上がり、脈拍も60前半まで下がったが、軽い頭痛がなおも続いて不快だった。 夕食はフリーズドライのピラフとシーチキンの缶詰だった。 体調が万全ではないので食べるのが怖かったが、意外にも美味しく完食することが出来た。 セルゲイから、明日は4時に起床し、その時点で雪が止んでいれば5時に出発するとの指示があった。
7月27日、4時に起床。 意外にも夜中に頭痛はなく、何とか安眠することが出来た。 起床後のSPO2と脈拍は80と62で、数値もそれなりだった。 昨日からの雪は朝には止んでいたので、5時半前にC.1を出発した。 朝焼けの山々が綺麗だが、上空には寒々しい雲が見られ、今日も良い天気になりそうな気配はない。 C.1からすぐにフィックスロープの登りとなったが、意外にもC.2まで全てフィックスロープを登ることになった。
先導する平岡さんの後に続いて私から登り始めるが、順応していない割には足が動いてくれたので助かった。 一方、昨夜の降雪でトレースは無くなり、フィックスロープは凍りついているか、その反対に濡れているかで、フィックスロープを登るには最悪の状況だった。 風も少しあり、順応とはいえ嫌な感じだ。 昨日のセルゲイからの指示どおり、傾斜が緩い所を除いては基本的に1本のフィックスロープにつき1人が登るようにしたため、まるで岩場での順番待ちのようになり、途中から登高は遅々として捗らなくなった。 C.2へのルートとなる顕著な尾根は終始急斜面だったのみならず、足元の雪が凍っていたり、逆にぐずぐずで脆かったりで、階段上のトレースが付いているような所は全く無かった。 休むこともままならず、ひたすら目の前のフィックスロープにしがみつく。 オーバー手袋をしていてもインナー手袋が濡れてしまうのが辛い。 最初のうちはまずまずのペースで登れたが、負荷が掛かる登りの連続で次第に足が重くなってきた。
悪天の予報が出ている明日に向けて天気は下り坂のようで、上に行けば行くほど天気は悪くなり、風も強くなった。 先行する平岡さんのトレースは、風で運ばれた雪でかき消され、先頭を登るのと同じような状態になってしまう。 間もなく後から出発したセルゲイが追い越していった。 下のC.1から出発した他隊のパーティーが田路さんと割石さんを追い抜いて私の後を登るようになり、二人との間隔が開いてしまったので、C.1から3時間ほど登った中間点辺りで平岡さんが二人を待つことになり、セルゲイと二人で先行する。 下からも良く見えた顕著な岩場の通過は、天気が悪いことも手伝って緊張を強いられた。
岩場を通過してC.2が頭上に見えてきた所でセルゲイも後続のメンバーを待つことになったので、ここからは私が先頭で登ることになった。 急いで登る必要は全くないので、ゆっくり登って体力の消耗を防ごうとするが、急斜面のフィックスロープはそれを許してくれなかった。 C.1からC.2までは5時間くらいを目安にしていたが、結局7時間近くを要して正午に待望のC.2に着いた。 予想外の厳しい登りの連続で、もう足が前に進まなかった。 C.2はC.1とは全く違い、居心地が良さそうな広くて平らな場所だった。 すでに10張以上のテントが見られ、一番奥にエージェントのテントが2張あった。 天気は冴えないが、ハン・テングリの山頂が間近に迫り、C.3のあるウエストサドル(5850m)のコルも良く見えるようになった。 C.2の標高は、高度計の数字が5210mだったので、実際には5450mほどだろう。
30分ほど後に到着した平岡さんとテントを設営し、田路さんと割石さんの到着を待たずにエージェントのテントに入った。 今日はポーター役のアンドリューと一緒だ。 行動食を殆ど食べることが出来なかったので、ボロボロに砕けたポテトチップを夢中で食べた。 アンドリューにお湯を沸かしてもらい、水分補給により脈を下げることに努める。 アンドリューとお互いに片言の英語で色々な話しをした。 意外にも彼はベジタリアンとのことだった。 昼過ぎのSPO2と脈拍は78と67で、昨日のような頭痛や気分が悪いということはなかった。
2時くらいに田路さんがテントに着いたようで声が聞こえてきた。 割石さんはカーリィー・タウで痛めた足の状態が良くないのか、まだ着いてないようだ。 5時過ぎから雪が降り始め、一時的に激しく降ることもあった。 明日は下山するにしても厳しい状況になってしまうだろう。 セルゲイから、明日は4時に起床し、その時点で雪が止んでいれば5時に出発するという指示があった。 チャパエフ・ノースに登るのか、C.1に下るのかは判然としなかったが、いずれにしてもC.2に留まることはないようだった。 C.2に一泊しただけで順応が終わりでは7000mの山は登れない。 どうやら登る山の選択を誤ったようだ。 夕食のフリーズドライの赤飯と魚肉ソーセージをだましだまし食べた。 夕食後のSPO2と脈拍は81と71で、標高の割には良かった。
7月28日、4時に起床。 雪は弱いながらも降り続き、昨日までC.2では無かった風も出てきた。 アンドリューは全く起きる素振りもない。 夜中は暖かかったが、鼻づまりと軽い頭痛が続いて殆ど眠れなかった。 SPO2と脈拍は81と61で、なぜか数値は意外と良かった。 この状況では上に行くことはないだろう。 チャパエフ・ノースに登って順応はしておきたいが、この体調では天気が悪い中を登る自信はない。 セルゲイから、5時に再度起きて天気をチェックするという指示があった。
5時になっても状況は変わらず、6時にC.1に下ることが決定した。 チャパエフ・ノースに登れなくても、最低限の順応でここにもう一泊していきたいが、天気がこれ以上悪くなるとC.1にも下れなくなってしまうので仕方がない。 起床後のSPO2と脈拍は68と68でさらに悪くなった。 食欲はなく、朝食用のカップラーメンは食べずに昨日の行動食の余りを食べる。 天気が悪いのでチャパエフ・ノースへ登る人の姿は見えなかった。
雪が止んだ8時過ぎにC.1に向けて下る。 登りでは急斜面や悪雪に苦しめられた所も、全て懸垂で下るので気分的には楽だ。 但し、フィックスロープが濡れて水分を含んでいるため、ATCにロープを通すために持ち上げるのに苦労する。 一方、天気が悪いのでC.1から登ってくる人は殆どおらず、交差する時の煩わしさがなくて助かった。 先行していた平岡さんと割石さんを途中で追い越す。 C.1との標高差は750mほどなので、フィックスロープの総延長は1000m以上あることになり、標高差以上の長さを感じた。
正午にようやくC.1に着き、行動食を食べながら最後尾の割石さんが下ってくるのを1時間ほど待つ。 ベジタリアンのアンドリューが大きなチーズの塊をザックから取り出し、ナイフで切って分けてくれた。 相変らずの曇天だが、C.1付近では予報より良い天気だった。 C.1に泊まることも出来たが、テントの居住性が悪いC.1で滞在することのデメリットを理由に平岡さんの判断でB.Cまで下ることになった。
C.1を1時過ぎに出発。 長い二本のフィックスロープを下り、短いフィックスロープを何本か下った所から、凍った急斜面をロープを結ばずに取り付きへ下る。 先頭のアンドリューは糸の切れた凧のようにどんどん下っていってしまった。 頼みのトレースは部分的に消えており、ここが今日一番の核心となった。 滑ったら絶対に止まらないので、アイゼン・ピッケル・ストックを駆使しながら後ろ向きで下ることもしばしばあった。
3時前に無事取り付きに降り立つ。 取り付きでアイゼンやハーネスを外して一息入れる。 氷河を流れる川を迂回しながら、B.Cに向けて北イニルチェク氷河を横断する。 足が疲れていたので登りよりも時間が掛かった。 4時前にB.Cに着くと、スタッフ達が遅い昼食を用意してくれた。 結局今日は予報よりは良かったものの、一日中曇天が続いた。
7月29日、7時に起床。 一晩中テントが飛ばされそうな強風が吹き睡眠を妨げられた。 意外にも雨ではなく雪で、B.Cは一面銀世界となっていた。 朝食は味の薄いお粥だったので、塩昆布を入れて食べた。 昨日の夕食時に同席したドイツ隊は今日C.2まで登ると言っていたが、さすがにこの天気では出発しなかった。
B.Cの家型のテントは一見快適そうに見えるが、布製のテントは外張りのほころびたビニールシートから雨を吸収し、床に敷いてあるスポンジのマットまでびっしょり濡れてしまった。 テントの中に置いてあった衣類やポーチに入れておいた書類や雑貨なども水を吸ってしまい、一日中それらを乾かすことに奔走したため、ゆっくり休むことが出来なかった。
雪は午前中しんしんと降り続き、テントの外張りに積もった湿った雪を時々内側から叩いて落とす。 正午のSPO2と脈拍は89と53で、数値も体調も良かった。 昼食時の食堂は今までになく満席となり、スタッフ達を除いて50人以上もいる。 キッチンは女医さんも含め少人数で対応しているため、料理の質や量が明らかに落ちた。 最初は美味しいと思ったB.Cの料理もだんだん不満を感じるようになったが、それでもB.Cにいれば体調は良いし、何をやっても不安を感じることはないので文句は言えない。 湯ざましのお湯もすぐに底をついてしまうため、何事も早め早めの行動を強いられる。 トイレは個人用テントから遠いので、時間帯を見計らって行かなければならない。 案の定、密閉性のないトイレは、雨漏りでトイレットペーパーが使い物にならなくなっていた。
3時過ぎにようやく雪が降りやみ、夕方にはハン・テングリが見えるようになった。 夕食時の食堂はさらに多くの人達で膨れ上がり、夕食の開始時間も30分ほど遅れた。 B.Cの高度(4050m)にはほぼ順応出来たようで、食欲は順応に行く前よりも明らかに旺盛となった。 夕食後のSPO2と脈拍は87と67で、相変らず数値も体調も良いが、ふくらはぎの筋肉痛は治らなかった。
7月30日、7時に起床。 今までで一番良く眠れるはずの夜だったが、なぜか軽い動悸で良く眠れなかった。 昨日でB.Cの高度には順応出来たと思っていたのでがっかりした。 指先がしもやけのように赤くなっていたので、何か因果関係があるのかもしれない。 起床前のSPO2と脈拍は90と50、起床後は92と52で、数値だけは良かった。 黒かった北イニルチェク氷河は降雪で真っ白になり綺麗だ。
朝食の後、カーリィー・タウで足を痛めた割石さんが、アタックステージには行かないことを決断された。 とても残念だが、さらに悪化するとこの山では下山することもままならなくなってしまうので、良い判断をされたと思わざるを得なかった。 朝方は曇っていたが、その後は久々に良い天気となり、先頭をきってイラン隊が出発していった。 その後も数隊が順応やアタックに出発していったので、B.Cは再び静かになった。
午前中は物干し大会となり、濡れたマットや寝袋などあらゆるものを外で干したが、正午には早くもハン・テングリに白い雲が取り付き、山頂を隠してしまった。 この山域の天気の特徴なのか、朝から一日中晴れている日もなければ、一日中曇っている日もない。 天気が読みにくく、また予報も当たらない感じがした。
午後は明日以降のアタックステージに向けての準備をする。 今回は順応ステージでの経験を基に荷物の軽量化を図り、ヘッドランプ・カメラ・羽毛ミトンの予備は持っていかないことにした。 夕方になってセルゲイから、8月3日と4日の天気予報が悪いので、明日・明後日は出発しないという打診があった。 B.Cでの休養日がもう一日欲しかったので、ちょうど良かった。 その直後に雨が降り始めた。 夕食後のSPO2と脈拍は88と68でまずまずだった。 B.Cマネージャーのルダから、明日は日本人の団体客が20人ほどB.Cに来るという話しがあった。
7月31日、7時に起床。 B.Cの周りの雪はすっかり溶けていた。 天気はまずまずだが雲が多く、相変らずすっきりしない天気だ。 昨夜は9時間以上寝てしまったせいか、起床後のSPO2と脈拍は91と68で脈が少し高かった。 B.C入りしてから10日も経つのに、まだ順応してないのが嫌になる。 体調は良く食欲は充分あるのが救いだ。
9時前に久々にヘリが飛来し、氷河ハイキングツアーの日本人の団体客13人がAツアー社の添乗員と通訳を兼ねた現地のガイドと共にB.Cに着いた。 添乗員の久保さんは平岡さんが以前Aツアー社に勤めていた時の同僚とのことだった。 ツアーに参加されている方々の年齢層は高く、大半は辺境地を行き尽くされたような方々だった。
アタックステージの準備も終わり、午前中はすることもなくなったので、近くのモレーンの上を1時間ほど散策する。 ハン・テングリ以外の山々は時々背景が天山ブルーになるが、ハン・テングリだけは終始すっきりとした青空は見られなかった。 昼食時には食堂テントに日本語が飛び交い、Aツアー社の久保さんから、カザフスタン周辺の国々の色々な情勢や情報を伺うことが出来て有意義だった。
昼過ぎになっても脈が66と高かったので、個人用テントで昼寝をしていると、セルゲイから8月3日と4日の天気が悪いという予報は変わらないが、5日と6日に天気が良くなるという予報が出たので、明日から7泊8日の日程で山に入り、天気の様子を窺いながら登頂を狙うという打診があった。 高所に弱い私にとって、今回のアタックステージはますますハードルが高くなってしまった。
夕食はAツアー社がヘリで来たお蔭で、スイカやメロンなどのデザートが奢られ、昨日まで貧祖だった料理の食材も一気に豪華になった。 夕食後はセブンサミッターの田路さんがツアーの団体客から矢継ぎ早に質問をされていた。 個人用テントに戻ると、何かのアクシデントか、C.1とC.2の間で沢山のヘッドランプの灯りが揺れているのが見えた。 寝る前のSPO2と脈拍は90と60で、ようやく脈が下がった。
【アタックステージ 】
8月1日、7時に起床。 夜中から降り始めた小雨が降り続き、山は全く見えない。 起床前のSPO2と脈拍は90と51、起床後は90と62でまずまずだった。 いよいよ今日から7泊8日の長い山頂アタックに向けてC.1に上がる。 今のところ体調は良いので、後は天気と順応の結果次第だ。
朝食はいつものように食堂で食べ、長期間B.Cで留守番をしなければならない割石さんに見送られて9時半に出発。 曇天で陽射しは全くないが、雨はようやく上がった。 氷河上のヘリポートで南イニルチェク氷河への出発の準備をされていたAツアー社の久保さんにもエールを送られた。 平岡さんに先導されて北イニルチェク氷河を横断する。 今回もB.Cから対岸のハン・テングリの取り付きまでは40分ほどだった。 取り付きでアイゼンやハーネスを着け、後ろから追いついてきたセルゲイを先頭に10時半にC.1に向けてチャパエフ・ノース(6120m)を登り始める。 雨で溶けた雪が氷化してトレースが薄くなり、前回よりも登りにくい。 8日分の行動食で荷物も重たくなっていたので、途中で田路さんに前を譲りマイペースで登る。 天気は依然として悪く、周囲の山々の展望も冴えない。 C.1直下の二本の長いフィックスロープでは、下りてくるパーティーとの交差で渋滞し、下のC.1には1時に着いた。
天気が悪いので休む間もなくテントのある上のC.1に向かい、1時半に寒々しい上のC.1に着いた。 テントを張らなくて済むのは嬉しいが、3人用のテントに3人入ると予想以上に窮屈だった。 テントは岩の上に張ってあるので、靴はビニール袋に入れて外に置いた。 テントに入ってすぐに雨が降り始めたので運が良かった。 5000m近い高度で雪にならないのが今年の悪天候の特徴だ。 今年の夏は高気圧が緯度の高い所に居座り、偏西風が蛇行しているのがその原因らしい。 ラッセル・ブライスが初めて公募隊で臨んだK2は悪天のため早々に撤退し、近隣のレーニン峰も今シーズンはまだ登頂者が出てないという。 モン・ブランは猛暑でクレヴァスが大きく開いてしまい、全ルートがクローズしているとのこと。 雨は次第に強くなり、雨漏りで寝袋が濡れてくる。 私のみならず皆で連日の天気の悪さに憂鬱になる。
3時のSPO2と脈拍は85と85で脈が高かった。 炊事用の雪は平岡さんが取りにいってくれたので助かった。 夕食はフリーズドライの赤飯とランチョンミートの缶詰、そしてインスタントのとん汁だった。 前回よりも体調は良く、美味しく食べることが出来て嬉しかった。 セルゲイから明日は4時に起床し、その時点で雨が止んでいれば5時に出発するとの指示があった。 雨は夜半からみぞれ、そして雪になって降り続いた。 順応はまずまずOKで眠ることは出来たが、テントが傾いているため頭が下がってしまい熟睡は出来なかった。
8月2日、4時に起床。 雪は弱いながらも降り続き、セルゲイから5時に再度起きて天気をチェックするという指示があった。 5時になっても雪は降りやまず、セルゲイから7時に再度起きて天気をチェックするという指示があった。 7時になっても雪は降りやまなかったが、セルゲイからは何も指示がなかった。 この天気では今日はもう出発しないということだろうか。 朝食のカップラーメンと昨日の行動食の余りを食べていると、セルゲイからC.2付近でワディムの隊の女性が足を骨折したため、これからそのレスキューに行かなければならず、一緒にC.2に上がることが出来なくなったという話しがあった。 もちろん私達が寝袋や共同装備の食料などを担げばC.2に上がることは可能だが、天気も悪いので無理をせず今日はC.1に停滞することにした。 今までのペルーやネパールでの登山の成功は、スタッフ達の手厚いサポートのお蔭であったことが今更ながらに良く分かった。
10時になるとようやく雪から変わった雨が止み、セルゲイとアンドリューがレスキューに出掛けていった。 SPO2と脈拍は88と70で、体調は良いが脈が高い。 曇天で陽射しがないので、テントの中にいることが苦痛にならないのが救いだ。 昼前にはびっしょり濡れていた寝袋も乾いたが、正午を過ぎると再び小雨が降ってきた。 昼食はラーメンと温めた馬肉の缶詰だったが、カザフスタンでは馬肉が一般的なようで、これがとても美味しかった。 午後からは三人の話題も尽き、退屈な時間を過ごす。 2時頃に一瞬の雲の切れ目をついてヘリが飛んできた。 昨日出発出来なかったAツアー社のメンバーもようやくB.Cを脱出出来たことだろう。 夕方になって久しぶりに上空に青空が見えるようになり、周囲の山々やハン・テングリの神々しい頂が見えた。 失いつつあった登頂へのモチベーションも一気に高まった。 SPO2と脈拍は90と59になり、体調も数値どおりに良いのが嬉しい。 5時半にようやく足を骨折した女性がワディムとセルゲイ、そしてアンドリューに付き添われてC.1に下ってきた。 女性の顏には笑顔も見えたので安堵した。
平岡さんの話では天気予報は少し変わったようで、6日の好天の予報は不明だが、当初危惧していた明日からの天気の大きな崩れはなくなったとのこと。 夕食はフリーズドライの白米にいわしと馬肉の缶詰だったが、体調は良く美味しく完食することが出来た。 大食漢の平岡さんは別として、田路さんは相変わらず食欲が旺盛で、常に私の1.5倍以上を食べている。 食欲は全ての力の源だからこの差は大きい。 私と反対に高所に強い体質だということがあらためて分かり、さすがセブンサミッターは凄いと羨ましく思った。 7時に下のC.1まで骨折した女性を下ろしたセルゲイとアンドリューが帰ってきた。 さすがに彼らも相当疲れたようで、明日は7時に起床して8時に出発するとの指示があった。
8月3日、皆よりも少し早く6時に起床。 B.Cを出発する前は悪天候という予報だったが、珍しく早朝から青空を背景にハン・テングリの頂が見え、今のところ雨や雪の心配はなさそうだ。 カップ蕎麦を食べ、ゆっくり準備を整えて8時過ぎにC.1を出発する。 疲れもなく体調は良いはずだったが、何となく足が重たい感じがしたので、田路さんに先行してもらう。 しばらくすると体が温まって血行も良くなり、足が上がるようになってきたので安堵した。
前回の順応ステージでのルートの記憶は新しく、いくつかの難所を通過するコツも学習出来ているので精神的な不安はないが、C.2までは殆どが急斜面で足場の悪いフィックスロープの登攀なので、ゆっくり登っても手足の疲れと体力の消耗を強いられる。 また、一昨日からの雨や雪で濡れたフィックスロープを掴むので、一組しかない予備のオーバー手袋とその下のインナー手袋まで濡れてしまう。 唯一好天が予想されている6日にアタック日の照準を合わせているためか、私達以外にC.1からC.2に登る人影は全くなかった。 次第に先行する田路さんとのペースが合わなくなってきたので、途中にある唯一の休憩ポイントで田路さんと入れ替わって先行する。
最後の岩場を登り、2時前に待望のC.2に這い上がる。 前回はまるでアタック日のように疲れ果ててしまったが、順応が進んだことで今日はそれなりの労力で登れた。 また、前回は7時間近くを要したC.1からC.2の間を、今日は6時間以内で登ることが出来た。 20センチほど積雪が増したC.2には前回よりも多くのテントの花が咲いていたが、各隊ともここを一番の拠点としている(中間点なので)ため、半分以上は無人で、最終キャンプ地のC.3に上がって停滞しているか、B.Cで静養しているようだった。 平岡さんが数えたテントの数は23張だったとのこと。 C.2から見たチャパエフ・ノースへのトレースは相変わらず薄かった。 C.1と同様にテントが設営してあるので楽だったが、テントの真ん中が凹んでいたので、生地の上から足で踏んだり手で叩いたりして整地するのに苦労した。 意外にも田路さんは私よりも1時間ほど後にテントに着いた。 4時になるとまたいつものように小雪が舞ってきた。
平岡さんにお湯を作ってもらい、水分の補給に努めていると、到着後は80台だった脈拍もようやく下がり、夕方にはSPO2と脈拍は91と65で数値だけ異常に良くなったが、これが後で仇になるとは知る由もなかった。 夕食はフリーズドライの白米と鯖の水煮の缶詰だったが、味もさることながら美味しく食べれたことが嬉しかった。 順応は前回よりも着実に進んでいることを実感し、後は明日からの天気次第だと思えた。
夕食後はようやくハン・テングリの頂が間近に見えるようになり、ここぞとばかり何枚も写真を撮った。 セルゲイから、明日は6時に起床して7時に出発するとの指示があった。 また、C.2の私達のテントをC.3に上げるため、明日は私達の寝袋を担げないという話しがあり、C.3用に用意したテントをC.2に持ってこなかったことがこの時点で判明した。 今回は7泊8日と異例の長丁場となってしまった(当初の計画では5泊6日)ことがその要因かもしれない。
就寝前のSPO2は80台半ばで嬉しかったが、就寝後にふくらはぎと足先が冷たくなり、寝袋のファスナーがまた壊れたのかと疑いたくなった。 いつものようにいびきをかいて寝ている田路さんが羨ましい。 高所ではありがちな体調の急変だが、まさかこのタイミングでくるとは思わなかった。 やはり順応ステージを計画どおりこなしてなかった(チャパエフ・ノースに登っていない)ツケが回ってきてしまった。 脈も上がったのか、結局朝まで全く眠ることが出来なかった。 一方、雪は弱いが降り続いていたので、明日の出発が中止になることを寝袋の中で祈り続けた。
8月4日、6時のアラームが鳴るまで登山の継続か中止かを逡巡していたが、今回は順応が不十分なため、少しでも不安を感じたら下山しようとB.Cを発つ時から心に誓っていたので、今日C.2で停滞せずC.3に行くようであれば、中止する方向で行こうと決めた。 このまま雪が降り続くことを祈り続けたが、何故か今日に限って朝になって降りやんでしまった。 起床前のSPO2は60台後半で軽い頭痛がした。 曇天だが時々青空が覗くいつもの不安定な天気だったが、予定どおり出発するようだった。 今日ここに連泊して順応が上手くいけばC.3入りすることも出来ただろうが、これも運命なのかもしれない。 セブンサミッターの田路さんは順応に関しては全く問題なさそうで、高所での行動を共にすること自体無理があるように思えた。
朝食のカップラーメンは普通に食べれたが、指先がなかなか温まらず、テントの撤収も上の空だ。 今日が安定した良い天気だったら、また違った展開になっていたのかもしれないが、登山にレバタラはない。 断腸の思いで平岡さんに、順応が不十分なので下山したいと伝えると、突然の申し出に平岡さんも驚いていたが、私の意思を尊重し慰留されることはなかった。 スタッフが余分にいないので、一人でB.Cに下りるつもりでいたが、たまたま無線を持っているイラン人の男女2名のパーティーがこれからB.Cに下るとのことで、セルゲイと平岡さんが話をつけてくれ、一緒に下山することになった。
8時に田路さんと平岡さんに登頂の夢を託し、未練を残しながらもう来ることは叶わないC.2を後にした。 今まで経験したことのない自己都合での敗退の屈辱と、濡れた寝袋を無理やり押し込んだアタックザックが重いが、気持ちを切り替えてイラン人の男女パーティーの輪の中に入る。 30歳台と思われるイラン人の男性の名前はムハム、女性はレイラとのことだった。 レイラによるとムハムはガイドの資格はないがとても強く、見た目にも頼もしそうだった。
ムハムが先頭になり、レイラ、私の順で後に続く。 ムハムはどのロープが一番良いかを私達に下からアドバイスしてくれた。 我が隊のガイド達よりも懇切丁寧だ。 昨夜からの降雪直後なので足場が悪く、前回よりも下りにくい。 水を吸った長いロープが重くて女性の力では持ち上がらず、レイラの懸垂を助けることもあった。 天気は終始曇りがちで、雨や雪にはならなかったが、陽も射すことはなかった。 眼下にC.1が見え始めた所で、今朝B.Cを出発したドイツ隊のパーティーとすれ違った。 彼らは今日一気にC.2に入り、明日はC.3に泊まって好天が予想されている明後日に登頂し、翌日にはB.Cまで下ってくるという3泊4日の速攻登山だ。 天気の状況に合わせてこのような登り方が出来る体力と能力が羨ましい。
11時半に下のC.1に着く。 ここまで下ってくるとようやく暖かさを感じるようになった。 C.1直下の長いフィックスロープを登ってくるパーティーを待つため、1時間ほど休憩も兼ねて他のパーティーと談笑しながらのんびり過ごす。 今までアラブ系の人達と交流したことがなかったので、図らずも貴重な経験となった。 ムハムはとても陽気で、B.Cに聞えるくらいの大きな声で歌を歌っていた。 あらためてお二人に登頂の有無や上の状況を伺うと、C.3は風が強くテントの数もC.2より多かったので、C.3からさらに標高で200mほど登った所にテントを張り、昨日の朝2時に出発して10時間掛かって登頂し、下りもテントまで5時間掛かったとのことだった。 驚くことに、その足でチャパエフ・ノースを越えて昨夜C.2まで下ったとのことだった。 C.3から山頂の間も技術的に難しい所が多かったとのことで、やはり体調と天気の両方に恵まれないとこの山の登頂は難しいと思えた。
1時前に下のC.1を出発。 C.1直下の長いフィックスロープの下りで、傷んだロープがATCから抜けなくなってしまい、その間に先行しているムハム達との間が開いてしまった。 さらに間が悪いことに、その先のトラバース地点で小さな雪崩が発生し、トレースが消えてしまったので、遠回りしながら少しでも斜面の傾斜が緩いところを選んで慎重に下ったので、30分ほど取り付きで二人を待たせてしまった。
取り付きで休むことなく登攀具を着けたまま北イニルチェク氷河を横断し2時半にB.Cに着くと、ムハムとレイラはイラン隊の他のメンバー達に出迎えられ、登頂を祝福されていた。 意外にも割石さんの姿は見えず、割石さんの代わりにボスのムハが出迎えてくれ、昼食の用意がしてあるのですぐに食堂に来るように勧められた。 もう何も心配することはないので、暖かいスープを飲み干し、羊の肉入りのピラフをお腹一杯に食べた。 昼食後にルダから、割石さんがA社のメンバーと一緒にヘリでカルカラに下ったということを知らされた。 ルダから、なぜ元気そうなのに登れなかったのかと聞かれたので、高所に体が順応出来なかったと笑って答えた。
夕方になってようやくハン・テングリの山頂が見えるようになったが、7時を過ぎると雨が降り始め、珍しく風も強まってきた。 早ければ明日の未明から山頂へアタックすることになっているが、果たしてどうなるのだろうか。 夕食時に今シーズンの初登頂となったムハム達4人をボスのムハが紹介して褒め称え、食堂に居合わせたメンバーも拍手で登頂を祝福した。 当初は自分も拍手される側にいることを思い描いていたが、そんなにこの山は甘くはなかった。 ムハがハン・テングリの歌を声高らかに歌い、ちょっとしたお祭り騒ぎで盛り上がった。 キッチンスタッフからお祝いのケーキとウオッカが振る舞われ、皆で喜びを分かち合いながらお裾分けしていただいた。
8月5日、まだうす暗い5時に起きて山を見ると、僅かに山頂付近に青空が覗いていた。 この天気で我が隊は今朝アタックしたのだろうか。 間もなく短い時間だが雨が降った。 テントから出たり入ったりしながら天気の様子をうかがう。 7時を過ぎるとB.Cに陽が射すようになったので、山の上も雪は降っていないだろう。 明日からの好天に合わせて山に人が入っているので、朝の食堂は人影がまばらだった。 今日B.Cにいるのは私と同じような境遇の人達だろう。 祖母が沖縄の人だというガイドのナカムラから、ジャパニーズ・チームは天気が悪いので今日はアタックしていないと知らされた。 現在C.3には天候待ちのパーティーが30人くらいいるそうだ。 また、明日は長期予報どおり天気が良くなるとのことで、ナカムラも明日からフランス人とロシア人の混成パーティーとC.1入りするとのことだった。 C.3からの山頂アタックは通常朝の4時くらいに出発し、山頂まで9時間から10時間を要するとのこと。 天気が良ければ明日の未明にはC.3を出発する人達のヘッドランプの灯りが見えると教えてくれた。
8時になると上空には再び青空が見え始め、明日に向けて良い天気になるという予報は当たっているように思えたが、9時過ぎには再び分厚い雲が上空を覆い始め、B.Cでは霧雨を感じるようになり、間もなく30分ほど冷たい雨が降った。 本当にこの悪天候が明日になると急に変わるものかと思えたが、雨が止むと上空には再び青空が見えた。 今日は今まで以上に本当に変わりやすい天気だ。 午後は時々小雨が降るいつものぐずついた天気となったが、夜の7時を過ぎると天気は急変し、明日の好天を告げるかのように空の青さが増し、面白いように雲がみるみる小さくなっていった。 天気が良くなったため放射冷却で気温が下がり、B.Cが今までになく寒くなってきた。
ルダから、夕食はガイド達と同席するように促され、B.Cに残留していたワディムとナカムラ、そしてボスのムハと一緒に夕食を食べた。 お互いに片言の英語で雑談するのも意外と面白かった。 セルゲイは強いガイドなので、ジャパニーズ・チームは登頂出来るだろうとムハが太鼓判を押してくれた。 夕食後は夜空に輝く白いハン・テングリの山頂が見え、B.Cに来てから初めて満天の星空が見えた。 C.3にいるアタックメンバーも、待望の好天の到来を喜んでいるに違いない。
8月6日、4時に起きてテントの外に出る。 昨日というよりもたった数時間前までの変わり易い天気が全く嘘のように、というか全く別の場所にいるかのように上空には半月が煌々と輝き、月明りで黒いハン・テングリと白いチャパエフ・ノースがはっきり見えた。 風も全くの無風で、この天気が一週間前から予測出来たことに驚いた。 ハン・テングリのみならず、周囲の山々にも雲は一片も見られず、正に最高の登山日和、サミット・デイとなった。 田路さん達も体調さえ悪くなければ、登頂は間違いないだろう。 月明りだけで足元が見えることもアタックメンバーにとってはありがたいはずだ。 私も仮に今C.3にいれば、登頂への期待が膨らんだに違いない。 放射冷却でB.Cはいつもよりひんやりしている。 B.Cの気温がマイナス3度なので、単純計算でC.3はマイナス15度くらいだろうか。
ヘッドランプの灯りがC.3付近で時折見えるが、山頂へのルートはここから見える稜線の少し裏側なので、登っているパーティーのものは見えない。 自分が登っていることをイメージしながら、テントの傍らでずっとハン・テングリと対峙する。 こんな経験をすることになるとは、出発前には全く想像もしていなかった。 山頂アタック、そして憧れの山への登頂は夢に終わったが、その無念もしばし忘れて山に見入っている自分がいた。 こういう楽しみ方もあるのだと自分に言い聞かせ、刻々と微妙に変化するハン・テングリの写真を何枚、そして何十枚と撮り続けた。
5時半になるとハン・テングリの山頂待望の朝陽が当たった。 今頃アタックメンバーはどの辺りを登っているのだろうか。 これ以上望めないほどの絶好の天気に、重い足取りもいくらか軽くなっていることだろう。 6時半過ぎにはB.Cにも陽が射すようになり、一気に暖かくなった。 双眼鏡で覗いてもアタックしている人影は見えなかったが、C.2からC.3に向かってチャパエフ・ノースを登っているパーティーの姿がはっきり見えた。 結局、4時から朝食に呼ばれる8時前までずっとテントの傍らでハン・テングリを見上げていた。
朝食後にガイドのワディム・ナカムラの二人とフランス・ロシアの混成チームがC.1に向けて出発していった。 B.Cにはもうスタッフを含めても10名ほどとなり、まるでシーズンが終わったかのように閑散としていた。 9時を過ぎると少し風を感じるようになったが、暖かい風だ。 体感気温もぐんぐん上昇し、薄着でいられるようになった。 北面となる山頂へのルートにももうじき陽が当たるようになるだろう。 空の色もますます蒼くなり、ガイドブックの写真で見たような色合いとなった。 幸か不幸か、図らずも今回の遠征中で最も素晴らしいハン・テングリの雄姿をB.Cから拝むことが出来た。 午前中は定期的に同じ場所から写真を撮り、シュラフを干したり荷物の整理をしたりして過ごす。 空しい気持ちにも苛まれたが、これも運命だと受け容れるしかない。
昼食はガランとした食堂で、イギリスから来たという若いカップルと同席した。 私と同じように順応不足でC.2までしか上がれず、今日は仲間が山頂アタックしているとのことで、敗残兵同士で傷を舐めあった。 今頃アタックメンバーは山頂で登頂を喜び合っているに違いない。 私もその場に居合わせたかったが、今は下から神々しいハン・テングリの写真を撮り続けるしか術がなかった。 3時を過ぎると気温の上昇による雲が少し湧き始めたが、それも一時的で、夕方に向けて再び雲がなくなり、その後も夜遅くまで快晴の天気が続いた。
6時になると「ジャパニーズ・チーム・トウジ」という声が食堂の方から微かに聞こえた。 無線の定時交信でC.3に戻ったガイドのセルゲイからから登頂の一報が入ったのだろう。 さすがに田路さんは凄いなと、あらためてセブンサミッターの強さを知った。 神々しい残照のハン・テングリの雄姿を撮り終えてから食堂に行く。 夕食前にルダから今日の登頂者は10人で、ジャパニーズ・チームは5人が全員登頂したという報告があった。 他にはドイツ隊から2人、ルーマニア隊から3人が登頂したとのことだった。
8月7日、陽が昇り周囲が明るくなった7時に起きる。 夜中に少し雨が降り、風も吹いているので寒い。 太陽は出ているが、薄雲が広がり昨日のような良い天気ではない。 昨日は本当に年に何日しかないサミット・デイだったとあらためて思った。
朝食後にヘリの音が聞こえてきたのでテントの外に出てみると、スタッフを含めた5〜6人が荷物を持って氷河上のヘリポートに向かっていた。 10分ほどヘリの爆音が氷河上に響き渡っていたが、間もなく消えてしまい、それに合わせて皆も引き返してきた。 この程度の天気でヘリが着陸出来ずに引き返してしまったことに驚き、3日後のフライト予定日にヘリが飛んでくれるかどうか心配になった。
今日は昨日のような好天が続けば、北イニルチェク氷河を少し下ってB.Cからは見えない山の写真を撮りに行こうと考えていたが、天気は徐々に下り坂となり、いつもの変わり易い天気に戻ってしまった。 昼前に再びヘリの音が聞こえてきたのでテントの外に出てみると、空模様は先ほど以上に悪いが、軍用の小型のヘリが氷河の上を舐めるように低空で飛んできた。 それに合わせて3人が小走りにヘリポートに向かい、あっという間に荷物と共にヘリにピックアップされていった。
下山してから今日で3日目となった。 当初は退屈だろうと思っていたが、今回のアタックの失敗に対する気持の整理と切り替えをするにはちょうど良かった。 正午からはとうとう雨が降り始めた。 昼食後にボスのムハから、ジャパニーズ・チームはC.2に泊まり、明日B.Cに下ってくると伝えられた。 C.3から一気に下山することは可能だろうが、この天気では必然的にそうなるだろう。 午後は今までの日記の整理をしたり、帰国後の山行の計画をしたりしながら過ごす。 時折ハン・テングリの山頂が見えることもあったが、相変らず雨が降ったり止んだりしていた。
夕食のテーブルには昨日登頂したドイツ隊とルーマニア隊のメンバーの姿があり、また何故か我が隊のサブガイドのイゴールも戻ってきていた。 無口なイゴールからではなくルダから、田路さんがとても疲れているため今日はC.2に泊まることになったが、心配は全く要らないという説明があった。 夕食後にはようやく天気が回復して星空が素晴らしく、流れ星も見られた。
8月8日、今日も陽が昇り周囲が明るくなった7時に起きる。 風が少し吹いているが、まずまずの良い天気だ。 ハン・テングリの山頂には雪煙が舞っている。 SPO2は93もあり、ようやくここにきて高所に順応したようだ。 体調も良いのでもう一度アタックしたいが、それはもう叶わない。 朝の食堂で隣に座った同じ境遇のフランス人からリンゴをいただき、しばし片言の英語で雑談を交わした。
朝食後は陽射しに恵まれたテントの傍らに座り、C.2からC.1の間を双眼鏡でつぶさに観察してみたが、我が隊の姿は見えず、8時半過ぎになってようやく田路さんと平岡さんらしき人影がC.2を出発するのが見えた。 午前中はモレーンの上を歩き回り、周囲の山々の写真を撮ったり双眼鏡で二人が下りてくる様子を覗いたりしながら過ごした。 意外にも昼前に一昨日ナカムラと共にC.1に向かったガイドのワディムが戻ってきた。 肺水腫になってしまったのか、酷く咳き込んでいていかにも具合が悪そうだった。 田路さん達は10時半前にはC.1に着いたが、テントの撤収に時間が掛かっているのか、C.1を発ったのは正午になっていた。 その後も再びゆっくり1時間半ほどを要して北イニルチェク氷河の取り付きに降り立ったが、この間ずっとその様子を双眼鏡で覗いていたので首が痛くなった。 正午過ぎに臨時便のへりが飛んできたが、もう入山者はいなかった。 明日も臨時便が出るらしく、運が良ければ明日にでもカルカラに帰れそうだった。
昼食を終えて食堂から出ると、ちょうど田路さんと平岡さん、そしてセルゲイとアンドリューの4人が無事帰ってきたところだった。 7泊8日となった長いアタックステージで疲れているだろうが、サミッター達の顏は皆キラキラと輝いていた。 メンバー全員が初登頂となったのでなおさらだろう。 田路さんも思っていたより元気そうで安堵した。 出迎えたボスのムハらと皆の登頂を祝福し、食堂で皆が遅い昼食を食べるのを見守りながら、さっそくアタック日の状況について話を伺う。 お二人の話によると、当日は今までになく冷え込みが厳しかったが、C.3でも未明から無風だったとのことだった。 私の予想よりも早く、2時に各隊のトップで登り始めたが、山頂に着いたのは12時間後の昼の2時、下りも登りと同じ時間を要したので、C.3に戻ったのは出発から24時間後の翌日の2時だったとのことで驚いた。 広い山頂は風が少し強かったが、それ以外は終始無風で天気は本当に良かったという。 2時に出発した直後に、上から下りてくるパーティーとすれ違ったとのことで、状況に応じてそのくらい無理をしないとこの山は登れないことがあらためて分かった。 一方、登頂後にC.3のテントに戻ると、何者かによって食糧が持ち去られ、C.2でも同じようにデポした食糧が無くなっており、セルゲイが各隊のテントを回って食べ物を調達してくれたとのことだった。 昨日イゴールが先に下山してきたのは、そのせいだったのかもしれない。 まだまだ聞きたいことは山ほどあったが、テントに戻り明日のフライトに備えて荷物のパッキングをした。
夕食時にはボスのムハがあらためて我が隊の登頂を、いつものように声高らかに褒め称えながら披露してくれた。 登頂祝いのケーキとウォッカが振る舞われ、食堂に居合わせたメンバー全員で田路さん達の登頂を祝った。 隣に座ったイラン隊の隊長から、来年はイランの最高峰のダマバントに登りに来ないかと誘われ、一同大いに盛り上がった。
【B.Cからカルカラを経てアルマトゥイへ】
8月9日、6時半に目を覚ますと、夜中に少し雪が降ったようで、テントの周りが白くなっていた。 朝食後のフライトに備え、そろそろ起きて準備を始めようとした時、微かにヘリの音が聞こえてきた。 ヘリの音がテントの中からもはっきり聞こえるようになると、ボスのムハが「ヘリが来た!、ヘリが来た!」と大声で叫ぶ声が聞こえてきた。 何事かと慌てて飛び起きると、今度はセルゲイが血相を変えてテントに入ってきて、まだ鍵も掛けていない私のダッフルバックを勝手に持っていってしまった。 隣の平岡さんはまだ寝ていて、ヘリが来たことに気が付いていないようだった。 訳が分からないが、とにかく急いでこのヘリに乗らないと、カルカラに戻れなくなりそうだったので、ザックに寝袋や身の回りにあるものを詰め込んでテントの外に出た。 ヘリは氷河に着陸する寸前で、他隊のメンバーも急いでヘリに向かっていた。 4000mの高所にいることも忘れ、走ってヘリに転がり込んだ。 最後の一人となった平岡さんがヘリに乗り込んだのが7時で、扉を閉めた瞬間にヘリは氷河を飛び立った。 この間僅か15分という思いがけない逃避行のハプニングに、メンバー一同興奮が覚めやらなかった。
図らずも早朝の時間帯にヘリが飛んだお蔭で、快晴ではないものの機上からは素晴らしい北イニルチェク氷河周辺の山々の景色を堪能することが出来た。 寒さや高度は全く気にせず、窓を開けてもう二度と来ることは叶わない山々の写真を撮りまくった。 ヘリは順調にフライトを続け、予定どおり30分ほどでカルカラのヘリポートに着陸し、無事ハン・テングリへの登山は終了した。 最後は本当にドタバタだったが、結果的にはワンチャンスで予定より1日早くカルカラに戻れてラッキーだった。 国境では相変らず軍人による面倒な入出国の手続きがあり閉口した。
キャンプ場で首を長くして待っていた割石さんに出迎えられ、9時過ぎにようやく朝食にありつく。 朝食後にエージェントの社長のカズベクから、近隣のポベータ(7439m)で事故があり、そのレスキューに使うヘリとのやり繰りのため、フライト時間が急遽変更になったという説明があった。 今日中にアルマトゥイに帰れるかカズベクに聞くと、今日は車の手配が出来ないので明日以降になるとのことだった。 あれほど日本からの出国を楽しみにしていたのに、山が終わってしまえば早く日本に帰りたいという気持ちになるから不思議だ。
今日のカルカラは雲が多く、3週間前に滞在した時と比べてかなり涼しい。 周囲の花々も盛りは過ぎたような感じで、代わりに秋の到来を告げるかのように、虫の音がうるさいくらいだった。 昨日の便でカルカラに戻り、昼前にアルマトゥイに出発するイラン隊のムハムからメールアドレスを聞かれ、そのフレンドリーさがとても嬉しかった。 お世話になったセルゲイ、イゴール、そしてアンドリューへチップを手渡すセレモニーを行う。 セルゲイとアンドリューはそれぞれ今日帰国の途に、イゴールは残って明日からポベータのガイドをするとのことだった。 C.2からの下山後にB.Cで4日も休養していたが、さらに高度が2000mほど下がったことで体が酸素をどんどん吸収し、眠くなってくる。 食事もB.Cより断然美味しく感じた。
午後はキャンプ場から少し離れた所にあるシャワー棟に行く。 棟内に入ると、シャワーではなくお湯と水が別々の蛇口から出るようになっていたが、お湯の量がとても豊富で驚いた。 奥にはサウナ室もあった。 3週間ぶりの入浴がとても気持ち良く、夕食に呼ばれるまで個人用テントで昼寝を決め込んだ。
夕食後は同じテーブルのフランス人からビールを奢られ、同じ日にアタックしたブルガリア隊やスイス隊のメンバーと一緒に夜遅くまで談笑し、最後は母国対抗の歌合戦となり大いに盛り上がった。 山に登れなかった悔しさもしばし忘れ、異国の同志達と一期一会の想い出に浸った。
8月10日、今朝も曇りで涼しく、暑いカルカラのイメージではなかった。 カルカラとB.Cではそれほど天気が違う訳ではないだろうから、今年は本当に天候不順な年だったようだ。 朝食後にキャンプ場にいたメンバー全員で記念写真を撮り、それぞれエージェントの車に分乗してアルマトゥイに向かった。 私達は昼食後に往きと同じようにスルーランの運転するランクルに乗り、一番最後の2時にカルカラのキャンプ場を後にした。 乗り心地の悪い山道から舗装された幹線道路に入ると、間もなくメンバー全員が睡魔に襲われた。 今日は平地でも曇りがちな天気で、エアコンが無い車内でも暑さには苛まれずに済んだ。
6時半にアルマトゥイの市内に入ると、市内からの下り車線が延々と渋滞していたので驚いた。 道路は6車線または8車線だが、それでも収まりきれないほど車の数が多く、いったいこの渋滞はいつ終わるのだろうと思った。 一方、市内に向かう上り方面には激しい渋滞はなく、7時過ぎにホテルに着いた。 シャワーを浴びてから夕食を食べに出掛け、ホテルの近くにあった中華料理店に落ち着く。 牛肉・羊肉・鶏肉・魚・野菜の料理を一品ずつ注文したが、どれも量が多く物価もそれほど高くないので、一人2000円くらいでお腹が一杯になった。 ホテルではエアコンの調子が悪く、窓を開けて寝たら4階なのに蚊に刺された。
8月11日、ゆっくり朝寝坊して食堂に行くと、皆はすでに食べ終わっていた。 今日は夜遅くの便での帰国となるため、午前中は一人でホテル周辺の散策と土産物を買いに出掛けた。 ホテルから5分ほどの所にある鉄道の駅(アルマトゥイU駅)の構内を見学し、駅前のショッピングモールの一角にあるスーパーに入る。 このスーパーはそれほど大きな店舗ではないものの品揃えは豊富で、食料品はもちろん日用品でないものはなかった。 日本を出発する前は全く想像もしていなかったが、スーパーに置かれている商品を見る限り、生活水準は日本と変わらない感じだ。 初めてカザフスタンを訪れたので仕方がないが、今までカザフスタンのことをあまりにも知らなさすぎた。 昼食はファーストフードを試したかったが、昨日エージェントから配られたランチBOXがあるので、仕方なくホテルに戻って食べた。
午後はメインストリートに沿って少し遠くまで歩いた。 町の景観はヨーロッパナイズされているが、歩いている人達はアジア系の顔立ちで背もそれほど高くないので、ツーリストとしてあまり目立たずに歩けた。 年配の女性に道を尋ねられたりもした。 気温は34度まで上がり、日本と変わりなかったが、湿度が低いので助かった。 ソフトクリームを売る露天商も多く、試しに食べてみると、意外にあっさりしていた。 大きな交差点では渋滞を避けるため、歩行者専用の広い地下道が整備され、構内には所々に商店や事務所があった。 地下鉄の路線図があり、地下鉄が通っていることが分かった。 地下道は駅への連絡通路も兼ねていた。 大型の家電製品の店は人気があり、日本と同じようにスマホの売り場が一番賑わっていた。 スポーツ用品店も多かったので、スポーツも盛んなのかも知れない。 これも国力が豊かな証だ。 最後の夕食は外食にしたかったが、荷物の重量を少しでも減らすため、日本から持参した食料の余りをホテルで食べた。
8時半にホテルをチェックアウトし、ランクルで迎えに来てくれたスルーランに空港まで送ってもらう。 預託荷物は2個で25キロあったので、アシアナ航空のカウンターの係員から5キロオーバーしているという指摘があったが、今回は特別にサービスしてくれるとのことで超過料金を払わずに済んだ。 乗継地のソウルのインチョン空港までは5時間半のフライトで、インチョンで関空に向かう田路さんや割石さんと別れ、さらに2時間弱のフライトで成田に着いた。 成田は曇り空だったが、昨日まで日本は稀にみる猛暑だったと帰宅後に妻から聞かされた。
今回はカザフスタンの最高峰でもあるハン・テングリの頂を踏めずとても残念だったが、今後の高所登山に役立つ知識や経験も増え、この山域でのガイドの資質や登山スタイルも少し分かった。 また、中央アジアの国に初めて足を踏み入れ、カザフスタンの国情やキルギス、ウズベキスタン、タジキスタンそしてイランなど近隣の国々との位置関係も分かった。
この山域には登山家の田部井淳子さんが完登した、いわゆる『旧ソビエト連邦の7000m峰5座』として、ポベータ(キルギス/7439m)・レーニン(キルギス/7134m)・イスモイル・ソモニ(タジキスタン/7495m)・コルジェネフスカヤ(タジキスタン/7105m)・ハン・テングリ(カザフスタン/7010m)があり、次回はこのうち一番易しいレーニンに登ってみたいと思った。