【初めての7000m峰】
2011年の秋に初めてネパールを訪れ、憧れの8000m峰であるマナスル(8163m)に運良く登ることが出来た。 図らずも当初その使用を危惧していた酸素マスクやボンベに逆に助けられたということが登頂の最大の要因でもあった。 今年はマナスルを優先させたため昨年行かなかったアマ・ダブラム(6856m)かチョ・オユー(8201m)のどちらかに行くことを考えていたが、やはり血管年齢が若いうちにより高い山に行っておいた方が良いと思い、ガイドの倉岡裕之さんが秋に企画していたチョ・オユーのツアーに参加することにした。 ところが出発直前の7月になってゲートウェイとなるチベットが突然外国人入域禁止令を出し、ビザがおりずに入国出来なくなってしまった。 そこで第二候補のアマ・ダブラムに変更することにしたが、今度は直前すぎてか倉岡さんの隊では参加者が集まらない。 昨年お世話になったラッセル・ブライスの率いるHIMEXも秋にアマ・ダブラムのツアーを企画していたが、チーフガイドのエイドリアンとラッセルが仲違いするという珍事があり、今年は登山期間が通常の半月遅れとなるとのことで、このツアーには少々無理があるように思えた。 しばらくの間はアマ・ダブラムに行くか行かないか悩んでいたが、ガイドの平岡さんが同時期に募集しているヒムルン・ヒマール(7126m)のツアーにも触手が伸び始めた。 ヒムルン・ヒマールは昨年マナスルで一緒だったドイツの女性登山家のビリーが絶賛していた山で、今回の平岡さんの企画もこれに端を発したものだった。
ヒムルン・ヒマールはマナスルの北西約25キロほどのチベットとの国境付近に聳える寂峰で、周囲にはネムジュン(7139m)、ヒムジュン(7092m)、ギャジカン(7038m)、ラトナチュリ(7035m)といった7000m峰が同峰を含め5座ある通称ペリ山群に聳える山だ。 意外にもマナスルと同様に初登頂は日本の北海道大学隊で、また登山許可の関係からそれは1992年という最近のことだった。 第2登は2009年の信州大学隊であるが、その他の登頂記録は見つけられなかった。 最近では国の最高峰や世界百名山、その他の名峰ばかりに目が向いていたが、知らない山に対する興味というよりは、このチャンスを逃したら生涯この山を登ることは出来ないという気持ちが芽生えてきて、結局このツアーに参加することに決めた。 平岡さんの話では、サーダー以下今回の登山隊のスタッフの誰もまだ同峰に登った(行った)ことがないとのことで、総合的にも昨年のマナスルより1ランク上の山であることは間違いなさそうだ。 最初は同じような理由から参加者も昨年マナスルでご一緒した齋藤さん(るみちゃん)だけだったが、最終的には私を含めて6人となり、初顔合わせの泉さん以外の隊員は図らずも皆知り合いだった。 6人の隊員のうち、藤田さんと滝口さんとは5年前にチリのオホス・デル・サラードでご一緒し、割石さんとは3年前にペルーのワスカラン・トクヤラフでご一緒し、るみちゃんとは昨年マナスルを登った仲だ。 泉さん以外は全員マナスルの経験者というのも何かの縁だろう。 事前の小淵沢で行われた説明会の夜は泉さんの八ケ岳の別荘に皆で押しかけ、朝まで飲み明かして親睦を深めた。
今回の装備品は基本的に昨年のマナスルと同じ物を使うことにしたので、準備にはそれほど時間が掛からなかった。 逆に食料や前回不要だった嗜好品などはだいぶ削ったので、装備品の総重量は42キロほどで収まり、EMS(国際郵便)で事前にエージェントのマウンテン・エクスペリエンスのカトマンズ事務所に送ったのは16キロ、帰路はEMSを使わず全て飛行機にて持ち帰った。
【カトマンドゥからB.Cへ】
2012年10月4日の夜に羽田空港で泉さんと落ち合い、昨年と同じ深夜のタイ航空の便でバンコクのスワンナプーム空港に向かう。 バンコクまでは所要約6時間で時差は2時間、スワンナプーム空港での乗り継ぎが5時間でバンコクからカトマンドゥまでは所要約3時間、時差は1時間15分である。 スワンナプーム空港の出国ロビーには昨年は無かったリクライニングチェアや無料のネットPCが数台置かれ、快適に過ごすことが出来た。
泉さんは私よりも3つ上で、高校・大学時代にはJCC(ジャパン・クライマーズ・クラブ)という先鋭的な社会人山岳会で谷川・黒部・穂高などの岩場でバリバリに登攀していたという猛者だが、その後は30年ほど山から遠ざかっていたという。 数年前にエベレストに登りたいと急に思い立ち、今回はその準備段階の一つとして高所の経験を積むことが目的のようだ。 機内やスワンナプーム空港での乗り継ぎの時に、泉さんから若い頃の武勇伝を色々と伺うことが出来た。
10月5日の正午にカトマンドゥのトリブヴァン空港に着く。 ネパール観光の目玉のトレッキングシーズンに入ったせいか、入国審査と同時に行う観光ビザの申請に1時間も掛かった。 昨年は90日間で100ドルの観光ビザにしたが、今回は30日間で40ドルのビザにした。 30日を超えた場合は、出国の際にいくらかの追加料金を払えば済むとのこと(結局今回は1日オーバーしたが、出国の際に何も言われなかった)。 私達よりも1時間ほど前に到着した関西空港からの藤田さん、割石さん、滝口さん、るみちゃんと昨日からカトマンドゥ入りしている平岡さんに迎えられ、エージェント(マウンテン・エクスペリエンス)のワゴン車に乗ってホテルに向かう。 カトマンドゥ市内の埃っぽさと独特な匂いは昨年と全く変わりなく、むしろ懐かしさを覚えた。 最近のネパールの好景気を物語るかのように、大規模な道路工事が行われているようで、車の渋滞が一層激しくなった感じだ。 今回泊まったホテル『アンナプルナ』は4ツ星クラスの立派なホテルで、王宮広場やタメルにも近く、買い物や食事には便利な場所にあった。
ホテルでは割石さんと同室になり、EMSで送った荷物が部屋に届けられると、休む間もなくB.Cまでのトレッキングで使う衣類・寝具等と、B.Cまで使わない登山用品等とを2つのダッフルバックに振り分ける。 明日は朝食後にすぐ出発するとのことで、夕方はタメルに両替と土産物の下見に出掛け、最新のアンナプルナ街道の地図と山の写真集・ポスターなどを買い漁った。 両替は昨年と同じ日本語の話せる人が窓口にいる『FUJI』でする。 レートは昨年と全く同じで1万円が9400ルピー(1ルピーで1.05円)だった。
夕食はホテルから道路を渡ってすぐのレストランに入り、『ギャコク』というネパールの郷土料理(鍋)やモモ(餃子)に舌鼓を打つ。 マナスルから下山したばかりの五味さん(泉さんが夏にエルブルースでご一緒した方で、私も最近メールでの情報交換をしていた)が途中から夕食の輪に加わったが、五味さんと滝口さんは数年前マッキンリーを登った時のパートナーだったとのことで、思わぬ場所での再会を喜んでいた。
10月6日、別棟のレストランでバイキングの朝食を食べ、エージェントが用意した2台のランドクルーザーに分乗してホテルを出発する。 今回の登山隊のサーダーのパサン(31歳)とその弟のタシ(25歳)が今日の目的地のシャガットまで道案内役で同乗することになった。 ジャガット(1300m)は、通称『アンナプルナ街道』と呼ばれるアンナプルナ山群を巡るトレッキングルートの入口にある小さな村だ。 二人とも若々しいが、エベレストだけでもすでに5〜6回登っている頼もしい猛者だ。 パサンはオフシーズンである夏の3か月間、日本の山小屋(天狗平山荘)で働いているとのことで、日本語がペラペラだった。
ホテルから車で数10分走ったボダナートの裏の僧院に行き、いかにも偉そうなお坊さん(ラマ僧)にプジャ(祈祷)をしてもらう。 何となく緊張して肩に力が入ってしまうが、ネパールではごく日常的なことらしい。 ラマ僧から首にかける御守りと塩やお香をいただく。 プジャが終わると、昨年泊まったホテル『ハイアット・リージェンシー』の近くの大型スーパーに行き、食糧品や雑貨の買い出しをする。 こんなに立派なスーパーがネパールにもあったのかと驚いた。
喧噪のカトマンドゥ市内を過ぎると道幅の狭い峠道となったが、車の渋滞が市街地よりもひどく、途中から全く動かなくなってしまった。 道路工事が原因かと思ったが、坂道の途中で故障して立往生している車(過積載の古いトラック)が多かったのが原因だった。 峠道を過ぎると道は一転して平らで真っ直ぐとなり、水田の多い田園地帯を順調に進んだ。 昼食は観光客向けのレストランで初めて本場のダルバートを食べた。 ダルは豆、バートは米という意味で、基本的にパサパサしたご飯とレンズ豆を煮込んだスープ、鶏肉やジャガイモを煮込んだカレーの汁、炒めた青菜などが付く。
昼食後も車は順調に進み、大きな川に沿って走るようになった。 意外にも川ではラフティングをしている光景が随所で見られた。 カトマンドゥからシャガットまでは距離も長いのか、舗装された道路の終点のベシサールの町(760m)を経てアンナプルナ街道の起点となるブルブレ(840m)に着いたのは夕方の5時だった。 一般車が入れるのはブルブレまでで、ここからは利権の関係か地元の業者が運転するジープに乗り換える。 コストの都合上ジープは1台だったので、平岡さんと私はコックのドゥルゲと三人で荷台に揺られていく。 道は想像以上に悪路で、車に弱い人には絶対無理だ。 6時半を過ぎると周囲は真っ暗になり、予想外の長旅で気が滅入ってくる。 寒くないことが唯一の救いだ。 8時を過ぎてようやく目的地のジャガット(1300m)に着いた。
今日泊まる宿は『ニューレベルゲストハウス』というこの村では一般的なロッジで、温水のシャワーが使えた。 部屋は6畳ほどの広さで、シーツが敷かれた簡素なベッドが二つ置かれただけのシンプルなものだった。 ロッジの中庭で到着の祝杯を上げ、夕食を食べ終えた11時にようやくシュラフなどが入った荷物が届いた。
10月7日、未明からあちらこちらでニワトリが鳴く声がする。 早朝から慌しくポーター達とスタッフが、ロバとポーターの運ぶ荷物の仕分けをしている。 意外にもポーターは地元の住人ではなく、スタッフが各々の郷里から連れてきているとのことだった。 少年や若い女性も多い。 各国から来た健脚のトレッカー達はもう歩き始めている。
簡素な朝食を食べ、9時にロッジを出発。 ネパール・ヒマラヤでの一般的なトレッキングをするのは今日が初めてだ。 アンナプルナ街道(今回辿るルートは通称『マルシャンディ街道』とも呼ばれている)のトレッキングは、いきなり大自然の中を歩くという感じではなく、古くからある小さな村々を繋ぐ生活道路を辿っていく。 アルプスやカナダのように観光用に新しく作られたトレイルではない。 必然的にロッジも風光明媚な所ではなく、村(集落)の中に建てられている。 今日の目的地(宿泊地)はマナスルへのルートが分岐するダラパニ(1860m)という村だ。 ジャガット(1300m)から単純標高差で560mだが、距離は15キロほどあり、それほど楽な行程ではない。
マルシャンディ川の右岸の幅の広い道を上流に向かって進む。 道端には電柱もあり、最近ジャガットから先へも車が通れるようになったようで、昨日乗ったジープが時々砂埃を巻き上げながら走り抜けていく。 早朝の陽が当たらない時間帯は肌寒かったが、陽が当たるようになると結構暑い。 1時間ほどでチャムチェ(1430m)という村に着く。 ここで道は二つに分かれ、新しい立派な鉄製の吊り橋を渡ってマルシャンディ川の左岸の山道を辿る。 一方の道が最近出来た車道のようで、間もなく対岸から見えるようになった。 帰路はこの新しい道を辿ったが、岩をダイナマイトで爆破して作ったいかにもネパールらしいスリリングな道だった。 村と村の間には所々に茶店のようなものがあり、飲み物や食べ物を注文しながらいつでも休憩出来るのがありがたい。 正に街道という名前が相応しく、登山道とは別の次元で面白い。
突然マルシャンディ川が広い中州になっている所に飛び出すと、その先に中間地点のタール(1700m)の村が見えた。 タールにも何軒か新しい洒落たロッジがあり、そのうちの一軒の中庭で昼食の休憩をする。 この街道にあるロッジはレストランも兼ねている。 大きな魔法瓶に入った濃厚なミルクティーを飲み、ダルバートとサイドメニューにスプリングロール(春巻)をいただく。 アンナプルナ街道のトレッキングではこれが一般的なようだ。
石畳が敷かれた道のある小さな集落を通り、登り下りを繰り返しながらマルシャンディ川の左岸の岩壁の下をへつるように歩いていくと、先ほどと全く同じ規格の新しい鉄製の吊り橋があり、これを渡って右岸の新しい車道に合流する。 学校のあるカテ(1850m)という村を過ぎ、今日の目的地(宿泊地)のダラパニ(1860m)には夕方の4時半前に着いた。 泊まったロッジは『マザ−ランドホテル』という名だった。
夕食は各々が好きなものを注文して食べる。 チキンカレー・炒飯・焼きそば・春巻・フライドポテト・鳥の唐揚などが食卓に並んだ。 まだ標高が低いので、ビールを飲む人もいる。 ロッジの食事は思っていた以上に美味しかったので、ついついお腹一杯に食べてしまった。
10月8日、トレッキング2日目。 今日の目的地(宿泊先)はコト(2600m)という村だ。 今日は少し早出をして午後はロッジでゆっくり寛ごうということになり、6時に起きて7時半前に出発する。 地図を見ると、コトへはダラパニ(1860m)からの単純標高差が800m近くあるのみならず、途中のティマンは標高が2750mあり、昨日以上に登り下りがありそうなので、累積標高差は1000mを超えそうだ。
谷は昨日よりも深くなり、まだ陽が当たらないので、1時間ほど涼しい空気の中を歩く。 しばらくすると正面に雪を戴いた山が見えた。 タシに山の名前を尋ねると、アンナプルナ山群東端のラムジュン(6983m)ではないかとのことだった。 間もなく着いた比較的大きな集落のバガーチャップ(2160m)には大きなマニ車が納められたゴンパがあり、道端にも100個ほどのマニ車が設置されていた。 次のダナキュー(2300m)の集落を過ぎると急坂が連続するようになり、一転して周囲は山深い景色に変わった。 飛び石伝いに冷たい沢の渡渉があったが、はだしのポーターはそのまま水の中を歩いていった。 彼らのたくましさには敬服するばかりだ。
今日のトレッキングの最高地点のティマン(2750m)の集落に着くと、初めて雲の中に懐かしいマナスル(8163m)の白い頂が見え隠れするようになり嬉しくなる。 ティマンで一服した後、道は緩やかに下りとなり、ラタモロ(2400m)のロッジでマナスルを眺めながら優雅にティータイムとする。 お腹も空いたが、今日の目的地(宿泊先)のコトへはあと1時間で着くとのこと。
休憩後、ラタムロからはさらに少し下って長い吊り橋を渡り、再び長い坂道を登り返す。 石畳の敷かれた古い小さな集落に入るとまた下りとなり、1時間とは言え全く楽ではない。 道がようやく平らになると、右手に明日から歩くナルコーラの深いV字峡の谷が見えた。 12時半にコト(2600m)のロッジ『ニューマウントビューホテル』に着く。 昼食は炒飯とマカロニを炒めたシンプルな料理だったが、味付けが非常に良くお替りをしてお腹一杯に食べた。
午後は昼寝をしたり、集落を散策したりして過ごす。 コトの集落の外れにはチェックポストがあり、アンナプルナ街道は直進、プー村へのルートはチェックポストの手前を右に折れる。 ロッジは新しく清潔感があるが、シャワーのお湯がぬるく、足しか洗うことが出来なかった。 カトマンドゥのスーパーで20ルピー(21円)だった1リッターのミネラルウォーターが、ここでは140ルピー(147円)になり、奥に行けばいくほど値段は上がった。 夕食は舞茸のようなキノコのカレーとフライドチキンを食べた。
10月9日、トレッキング3日目。 今日からはメジャーなアンナプルナ街道を外れ、マイナーなナルコーラ(コーラとは川の意味)の深いV字峡の谷を、秘境と言われるプー村(4080m)に向けて辿っていく。 当初今日の目的地(宿泊先)はシンゲンジェ・ダラムサラ(3230m)というキャンプ地(テント泊)だったが、先行してB.C入りしているスタッフから、その先のメタ(3560m)というキャンプ地に新しくロッジが出来ているとの情報があり、少し大変だがその分明日の行程は短くなるので、メタまで行くことになった。
早朝ロッジの屋上に上がると、生憎マナスルは雲の中だったが、隣のピーク29(7871m)と、それとは反対の方角にアンナプルナU峰(7937m)が大きく望まれ、ここぞとばかりに写真を撮りまくる。 7時にコトのロッジを出発。 集落の外れトレッカーのチェックポストがあり、アンナプルナ街道は直進、プー村へのルートはその手前を右に折れてマルシャンディ川を渡ってナルコーラ沿いのV字峡の谷を進む。 20年前の初登頂の時は、まだこの谷には道や橋が無く、プー村へは他のルート(5306mのカン・ラ峠越え)でアプローチしたとのこと。
絶壁にへばり付くようにして作られた道を、登り下りしながら遡って行くので、労力の割には高度がほとんど稼げない。 複雑な谷の地形に合わせて高巻きをしたり、陽の当たらない薄暗い谷底を歩いたり、新しい同じ規格の吊り橋を4回ほど渡ったりしてナルコーラの右岸と左岸を交互に辿る。 昨日までは茶店やロッジが点在する生活臭のする街道だったが、今日は一転して何もない渓谷の登山道になった。 谷は次第に深くそして険しくなっていくが、日本の山のような雰囲気のする樹林帯もあり、所々で木々の紅葉も見られた。
12時半にようやく当初の目的地だったシンゲンジェ・ダラムサラ(3230m)のキャンプ地に着く。 ただの牧草地だと思っていたが、意外にも古いロッジと炊事小屋があり、10張りほど張れそうなテントスペースはきれいに整地されていた。 ここでランチタイムとなり、スタッフが用意してくれた行動食(チャパティ・チーズ・ゆで卵・チョコバー・ビスケット・りんご)を適当に食べる。
シンゲンジェ・ダラムサラからようやく道は登り一本調子となり、激しい登下降はなくなった。 この渓谷の奥の4000mを超える高所に昔からの集落があるとは思えなかったが、谷底から這い上がり、樹林帯を抜けてジグザグの急坂を登り続けると、カンガル・ヒマール(6981m)の裾野に広がる明るい高台の牧草地に飛び出した。 緩やかな傾斜の牧草地を僅かに登り、2時半前にメタ(3560m)のキャンプ地に建つ真新しいロッジに着いた。 コトからの単純標高差は1000mほどだが、登り下りが頻繁にあったので、累積標高差は1500mくらいに感じられ、予想以上に歩き応えがあった。
今日も昨日に続いて平岡さんと同室になる。 昼過ぎから風が強まり、夕方から小雨がパラついて日没後は冷え込みが厳しくなり、夜中には小雪が舞った。 室内の気温も夕方の5時で10度しかなく寒かった。 スタッフ達がロッジのスワニー(女将さん)が作る料理を手伝っていたが、これはごく当たり前のことのようだった。 夕食はオーソドックスなダルバート。 味付けは日本人向けにあまり辛くないようにしてある。 まだ高度を感じることもなく、お腹が空いていたので、お腹一杯に食べた。 寝る前に初めてSPO2(酸素飽和度)と脈拍をパルスオキシメーターで測る。 84と68で、期待に反してこの高さにしてはあまり数値が良くなかった。
10月10日、トレッキング4日目。 昨日は計画よりも少し多目に歩いたので、今日は半日行程でキャン(3820m)というキャンプ地に行く。 7時半にメタのロッジを出発したが、まだこの時間には周囲の山に遮られて陽が当たらず寒い。 出発して間もなくナル村(4110m)への道とプー村(4080m)への道が分岐していた。 左のナル村へは深い谷を吊り橋で渡る。 ナル村の先のカン・ラ峠(5306m)を越えればアンナプルナ街道に出ることが出来る。 深い谷の対岸にはゴンパ(僧院)とキャンプ地が見えた。 メタのキャンプ地にロッジが出来たのは、昨日辿ったナルコーラ沿いの道と吊り橋が整備されたことで入山者が増えたことに他ならない。 分岐付近から谷底を流れる川はナルコーラからプーコーラに名称が変わる。
プーコーラの渓谷に入ってからは陽の当たらない薄暗い谷底を歩くことは殆どなくなり、専ら展望の良いその左岸の高台を緩やかに登り下りしながら辿っていく。 昨日まで雪が無かった周囲の5000m台の無名峰にもうっすらと昨晩の新雪が付き、右岸に屹立する荒々しい屏風のような岩峰の連なりが威容を誇っている。 間もなく以前から登りたいと思っていたピサンピーク(6019m)が突然その姿を前山の背後から現した。 思いがけない所で不意に雪を戴いた山が見えてくるのが、ネパール・ヒマラヤのトレッキングの面白さだと実感した。 ピサンピークの展望が良いジュナム(3640m)のキャンプ地を通り、メタから2時間半ほどで放牧小屋が建つチヤコ(3735m)という広い牧草地に着く。 定住者がいるかどうかは分からないが、荒々しい岩峰と深い渓谷の間にこのような広い牧草地があることが不思議だ。 私達の荷物を運ぶロバ達が追い着き、一斉に草を食み始めた。
牧草地を過ぎると紅葉した木々が点在する斜面をトラバースし、枝沢を頑丈な鉄の橋で渡り、峠のような所に向かって登り返す。 峠の標高はすでに3900mを超え、目的地のキャンよりも高かった。 すれ違った外国人トレッカーが、キャンはもうすぐそこだと教えてくれたが、平岡さんの提案で高所順応のため、峠からルートを外れて傍らの4000mほどあるピークに登ることになった。 峠からひと頑張りで着いたピークは展望も良く、しばらく順応のため休憩してから眼下のキャン(3820m)のキャンプ地に向けて一気に下る。 12時半に目的地のキャンに着いた。
絶壁に囲まれた広い牧草地のキャンプ場には管理棟もあり、とても良い雰囲気のする所だった。 またロケーションも抜群で、ここがB.Cだったら本当に良かったと思わざるを得なかった。 陽射しが暖かく、スタッフが個人用テントやダイニングテントを設営してくれるのをのんびりと待つ。 テントが建つと早速スタッフがインスタントラーメンを作ってくれた。 3時のティータイムはダイニングテントでおやつを食べながら寛ぐ。
夕食は日本食で、普通のご飯にワカメの味噌汁、オクラの鰹節和え、そしてメインは羊の肉のカツだったが、その後もこちらから希望しない限りは基本的に日本食だった。 まだ高度を感じることもなく、今日もお腹一杯に食べた。 寝る前のSPO2(酸素飽和度)と脈拍は昨日とほぼ同じで85と60だったが、体調はとても良かった。
10月11日、トレッキング5日目。 今日も乾期らしい快晴の天気だ。 明け方のテント内の気温は5度、起床前のSPO2と脈拍は82と59で、まだ睡眠時の頭痛はない。 今日はいよいよ秘境のプー村(4080m)に入る。 プーとはチベット人という意味のようだ。 キャンプ地からは朝陽に輝くアンナプルナU峰の頂稜部とヒマラヤ襞の美しい無名峰が見えた。
8時にキャンのキャンプ地を出発。 プーコーラの狭いV字谷の左岸の絶壁を削って作られた道を進む。 しばらくすると道は暗い谷底に向かって下っていった。 S字状の谷は一旦狭くなり、陽の当たらないプーコーラの河原に沿ってしばらく歩くと、谷は次第に広くなり陽も当たって明るくなった。 草が生えている場所にはヤクが放牧されていた。 再び谷は狭まったが、ピサの斜塔のような大岩を過ぎると、崖を高巻いて峠のような所を目指して登る。 峠には石を積んで作った門があり、重荷を背負ったポーター達が思い思いに休憩していた。 峠からの展望はとても良く、正面には5000m台の無名峰が屹立し、振り返ればカンガル・ヒマール(6981m)が望まれた。
門から先がプー村となるのか、そこから少し下った所に古いチョルテ ン(仏塔)があり、傍らには経文が記された沢山の石盤が石垣の上に並べられていた。 間もなく前方に尖ったペリ山群の純白の6000m峰が見えると周囲が開けて平らになり、その先が広いテントサイトになっていた。 そこから左の吊り橋でプーコーラを渡ると、岩壁にへばり付くように石を積んだ家が密集する要塞のようなプー村の特異な景観が目に飛び込んできた。
正午前にプー村に着いたが、テントを運んでいるロバがまだ着かないので、周囲を散策したりして過ごす。 付近には麦の刈取りが終わったばかりの段々畑があり、女性達が麦を脱穀している姿が見られた。 村の子供達は明るく、最近は外国人トレッカーも多いためか、まったく人見知りもせずに近寄ってくる。 意外にも住居を改造した小さなロッジが2軒あり、外国人の登山グループが泊まっていた。 家々には小さなソーラーパネルが取り付けられていたので、電燈や電気製品があるのだろう。 秘境と言われたプー村もこれからますます変わっていくことだろう。
スタッフに個人用テントとダイニングテントを設営してもらい、昼食は日本式のカレーライスを食べた。 4000mを超えたが、今のところ高度障害はなく体調は良い。 夕方の5時でテント内の気温は10度だった。 夕食はコロッケとインゲンの胡麻和え、野菜スープなど。 コックのドゥルゲはマイラの弟で日本語も片言で話せ、日本食が上手に作れるので、B.Cでの食事は期待出来そうだ。 就寝前のSPO2と脈拍は82と62で、今朝と変わらなかった。
10月12日、トレッキング6日目。 まだ陽が当たらない6時前に村人達の話し声で目が覚める。 テント内の気温は3度で寝袋が結露していた。 昨夜も睡眠時の頭痛はなく、起床前のSPO2と脈拍は84と54で昨日よりも良くなった。 ここがB.Cなら良いのにとつくづく思った。 朝食はダシのきいた関西うどんで体が温まる。 今日は休養を兼ねた順応日で、プー村に滞在して周囲をトレッキングする。 午前中にプーコーラの対岸の高台にあるゴンパ(僧院)へお参りし、その先の適当な場所まで順応に行くことになった。 意外にも狭い村内には橋の流出を考えてのことか、プーコーラに架かる立派な吊り橋がもう一本あった。 吊り橋を渡り良く整備された道を登っていくと、違った角度から要塞のようなプー村の住居群の全容が見渡せ、あらためてまたその奇抜さに驚かされる。 プー村の背後の高台にもゴンパが見られた。 間もなくゴンパの入口の門があり、その先には経文が書かれた青い石がずらりと並べられ、頭上にはいくつかのチョルテン(仏塔)や立派なゴンパが見えた。 ゴンパはそれなりの規模で良く手入れされていたが、ラマ僧は常駐していないとのことだった。 ゴンパの中に入ると大きな黄金の仏像が安置されていた。 各々登山の安全と登頂を祈願する。
ゴンパの先の整備された道をさらに登っていくとタルチョ(五色の旗)が建つ展望所に着いた。 展望所からは眼下のプー村と、明日辿るB.C方面のパングリグレーシャー末端の広大なモレーンが見渡せた。 ペリ山群の山々も徐々に見え始めたが、肝心のヒムルン・ヒマールは奥深くてまだここからは見えなかった。 展望所から一旦少し下り、地図には載ってないB.C方面とは違う方向の明瞭な踏み跡を辿っていく。 放牧されたヤクが散見された。 間もなくペリ山群の7000m峰の一峰であるラトナチュリ(7035m)が見え、その直後に本命のヒムルン・ヒマールが6000m台の前衛峰を従えながらようやくその姿を現した。 地図を広げ、資料の写真と見比べながら山座同定する。 間違いなくヒムルン・ヒマールだった。 荒々しい5000m台の無名峰を望みながらさらに奥に進む。 天気も良く風もない絶好の登山日和だ。 懐の深いヒムルン・ヒマールはすぐに見えなくなってしまった。 ゴンパの上の展望所から1時間半ほど良く踏まれた道を歩くと、視界が一気に開けて広い牧草地に着いた。 標高はプー村から300m以上高い4400mほどだった。 正面にはペリ山群西端の山並みが望まれ、ラトナチュリが良く見えた。
30分ほど順応のためそこで休憩し、各々のペースで往路を戻る。 正午過ぎにプー村のテントサイトに戻り、ランチのオムライスを食べ、午後は昼寝をしたりお茶を飲んだりしてのんびり過ごした。 夕食前のSPO2と脈拍は93と58と非常に良かった。 夜は結構冷え込むので、夕飯はついつい日常よりも多目に食べてしまう。 今晩のメインディシュは春巻(日本のものより皮が厚い)で、前菜は甘辛く炒めた羊の肉と切干大根だった。
10月13日、トレッキング7日目。 今日はいよいよB.C入りだ。 起床前のSPO2と脈拍は87と56で昨日よりもほんの少しだけ良い。 朝食はスープ代わりのインスタントラーメンにチーズオムレツと揚げパン。 8時前にプー村を出発する。
プーコーラを渡り、パングリ氷河の後退した広いサイドモレーンの緩やかな斜面を登る。 間もなく左手に昨日見たラトナチュリ(7035m)が見えるようになった。 同峰も日本隊が最初に登った山だ。 最初はサイドモレーンの左岸を登っていたが、後から来るスタッフ達がモレーンの中ほどを登っているのが見えたので、途中から軌道修正して登る。 プー村を出発してから2時間ほどで、ようやく懐の深いヒムルン・ヒマール(7126m)やその右隣りにヒムジュン(7092m)の頂稜部が見え始め、さらにペリ山群の5つの7000m峰のうち残りの2峰のネムジュン(7139m)とギャジカン(7038m)の頂稜部も相次いで見えるようになった。 頭を揃えたペリ山群の山並みを正面に見ながらモレーンを登る。 さすがに7000m峰だけあってどの山も険しく、そしてスケールが大きい。 途中からモレーンの傾斜が緩み、1時間ほどほぼ水平に歩く。 B.Cから下ってきた男女3人のパーティーとすれ違ったので、登頂の成否やルートの状態を尋ねると、彼らはイギリス人で、C.3(6400m)付近まで登ったが、トレースも無く雪が深くて敗退したとのことだった。 先行してB.C入りしているスタッフから、すでに何隊か入山しているとの情報があったが、まだ今シーズンはどの隊も登っていないようだ。
ヒムルン・ヒマールの頂は再び見えなくなり、正午に地図には載っていない広い平坦地に着いた。 標高は4600mほどで、いくつかの石造りのカルカが見られた。 ここは以前のB.Cの跡なのだろうか、しばらく整地したような平坦地を歩き、モレーンから外れて緩やかな登りに入る。 さすがに5000m近くになってきたので、普通に歩くと息が切れるようになり、初めて体が高度を感じるようになった。 プー村を出発してから5時間ほどで、ようやく前方に待望のB.Cが見えてきた。 B.Cは想像していたよりもずっと広く、相当数のテントが張れそうだったが、手前の方に3〜4隊のテントがあるだけだった。
1時半に広いB.Cの一番上のテントサイトに着く。 プー村から歩いた時間と距離はさほどでもないが、高度の影響で今までのトレッキング中で今日が一番疲れた。 すでにキッチンテントとダイニングテントは設営されており、2週間前から偵察やルート工作をしていたというスタッフのアンドゥーが出迎えてくれた。 アンドゥーは日本人に似た顔立ちの21歳の好青年だ。 アンドゥーの話では、最初にいた2隊はすでに下山し、今日C.3からアタックしている隊があるとのことで、現在B.Cにテントがあるのは、ドイツ・スイス・イタリアの隊とのことだった。
間もなくB.Cに着いたスタッフ達が素早く個人用テントを建ててくれ、休む間もなくスコップとつるはしでトイレとシャワーテントの基礎を作り始めた。 個人用テントに荷物を搬入し、室内をカスタマイズしたり、色々な荷物の整理をする。 到着後のSPO2と脈拍は86と80で脈が高かったが、水分補給に努めたので夜には脈が62まで下がった。 B.Cでは7人でちょうど良いスペースのダイニングテントで食事をする。 夕食のおかずは野菜入りのマカロニ、羊肉の甘辛煮、ピーマンのおかか和えとワカメの味噌汁。 コックのドゥルゲの料理のバリエーションは多彩で、毎度の食事の献立が楽しみだ。 今日からは少し食べる量を控えようと思っていたが、ありがたいことにまだ体調が良かったので、またお腹一杯に食べてしまったた。 夕食後にサーダーのパサンから正式にアンドゥの紹介があった。 個人用テントに戻ると、少し降雪があったようで、テントが白くなっていた。
【順応ステージ】
10月14日、B.C滞在1日目。 今日から予備日の5日間を入れて21日間の登山活動に入る。 明け方のテント内の気温は0度と寒い。 起床前のSPO2と脈拍は82と68で初日にしては悪くなかったが、夜中は1時間半おき位に軽い頭痛で目が覚めた。 昨年のマナスルのB.C(4750m)と標高は同じくらいだが、季節が1か月以上遅いためかとても寒く感じる。 キッチンスタッフが個人用テントにモーニングティーと洗面器にお湯を入れて届けてくれたので、久々に足を洗えた。 快晴の天気だがB.Cは山の西側にあるため、7時を過ぎても陽が当たらない。 B.Cからはポカラカング(6372m)や遠くアンナプルナ山群の一部が見えるが、肝心のヒムルン・ヒマールの頂は前山に隠され見えなかった。
朝食はスープ代わりのインスタントラーメンにグレープ味のパンケーキとゆで卵。 食べ終わった後でようやくダイニングテントに陽が当たり、リラックス出来るようになる。 今日はスタッフ達は休養日で、私達は順応と偵察を兼ねて午前中にA.B.Cの建設予定地(5200m)周辺までの散歩に行く。 朝食後のSPO2と脈拍は84と92になり、脈が異常に高くなってしまった。
9時前にB.Cを出発する。 るみちゃんは体調があまり良くないとのことで散歩には行かず、B.Cで休養することになった。 B.Cからしばらく登ると足元の雑草はなくなり、痩せたモレーンの背に上がる。 道は予想していた以上に良く踏まれていた。 陽射しは強いが気温が低いのであまり暖かさは感じない。 藤田さんと割石さんはB.Cまでのトレッキングと全く変わらない身のこなしで登って行く。 泉さん、滝口さん、そしていつも順応が人一倍遅い私の順に続く。 1時間ほど登ると、指先や首筋に寒気を感じるようになった。 どうやら寒さは気温の低さだけではなく、酸欠の症状のようだった。 右手にギャジカン(7038m)が見えるようになり、少し足取りが軽くなったが、それも長続きはしなかった。 モレーンの背を登り詰めた所には大きなケルンがあり、B.Cから1時間少々で着いた。 B.Cからの標高差は250mほどだったが、B.Cは遥か眼下に見えた。 モレーンの背の頭からはようやく大きな図体のヒムルン・ヒマールの前衛峰(6416m)が見えた。 本峰はあの前衛峰を越えなければ見えないだろう。
モレーンの背の頭からは一旦少し下り、小さなケルンに導かれて踏み跡を辿る。 すぐにA.B.Cの建設予定地(5200m)の平坦地に着いたが、個人用とダイニングテントを張るスペースとしては狭く、炊事等で使える雪も無かったので、A.B.Cを出す計画は白紙になりそうだった。 再び登りになると、軽い頭痛がして指先もさらに冷たくなり、足も上がらなくなってきた。 間もなく滝口さんがリタイアしたので、男性軍だけでさらに先に進む。 道は次第に勾配がきつくなり、ギャジカンが眼前に大きく迫る5400mくらいの所までだましだまし登る。 あと100mも登ればC.1の建設予定地(5500m)の氷河にタッチ出来そうだが、無理はせず今日はこれまでとする。 平岡さんはC.1の状況を自分の目で確かめたいとのことで、ここで別れて私達は一息入れてからB.Cへ下った。
正午過ぎにB.Cに戻る。 昼食を食べ、午後はダイニングテントや個人用テントで寛ぐ。 SPO2は80台の前半だが、脈が70台の前半を切らず、夕食時まで軽い頭痛が続き、マナスルでも経験した左目の奥が痛くなる風邪のような症状が出た。 また、下痢にはならなかったが、入山以来初めて便も緩くなった。 夕食は玉子とじ丼とツナのピザだったが、今晩からは腹八分目にすることを心掛ける。 バッテリーが充分チャージ出来たので、夕食後に平岡さんが自身のブログに届いたメッセージを読み上げてくれた。 就寝前のSPO2と脈拍は80と64になった。
10月15日、B.C滞在2日目。 昨夜にも増して夜中はずっと頭痛が続き、何度も目が覚めて深呼吸をした。 SPO2と脈拍はずっと76と68くらいだった。 明け方のテント内の気温は昨日と同じで0度。 日本では滅多に風邪などひかないが、酸欠と低温のB.Cでは簡単に風邪をひくし、一度体調を崩すと治りが悪いので細心の注意が必要だ。
私達は休養日だが、B.Cに陽が当たり始めた8時にパサン以下6人のスタッフ達(タシ・プルテンバ・フィンジョ・カルディン・アンドゥー)がC.1の建設のために出発して行った。 午前中は上部キャンプから使うアイゼンや高所靴などの登山用具のチェックと、スタッフに荷上げしてもらう羽毛服などの仕分けをする。 上部キャンプでは自分の寝袋を使いたいので、B.Cでは今晩からレンタルの寝袋で寝ることになった。
しばらくすると頭痛は無くなったが、依然として目の奥の僅かな痛みが治らず、脈も70台後半と高い。 天気が良いので頭や体をシャワーで洗いたいが、風邪に似た症状があるので、今日は我慢することにした。 間もなく昨日順応に行かなかったるみちゃんが1人で散歩に出掛けていった。
正午過ぎには早くもC.1の建設を終えたスタッフ達がB.Cに戻ってきた。 昼食は日本風のカレーライスを食べ、食後に明日からの上部キャンプで自炊するフリーズドライの食糧を各自で選んだ。 午後は個人用テントで選んだ食糧の整理をしてから昼寝をする。 気温が低いためテントの中が暑くならないので助かる。 顔(頭)が少しむくんでいるような感じがするので、水分補給をこまめに行う。 夕方のSPO2と脈拍は88と60になったが、数値ほど体調は良くなかった。 夕食はやきそばと手巻き寿司。 不思議と食欲は全く落ちないので、お腹一杯に食べないようにするのが難しい。
10月16日、B.C滞在3日目。 鼻が詰まって良く眠れなかったが、不思議と頭痛は無くなった。 レンタルの寝袋は昨年マナスルの上部キャンプで使ったものと同じ物だったが、幅が狭く窮屈に感じた。 起床前のSPO2と脈拍は86と56、起床後は91と63でまずまずだった。 風も無く今日も快晴の天気だ。 朝食はスープ代わりの味噌ラーメンと揚げパンにゆで玉子。 昨日よりも早く7時にはスタッフ達がC.1への荷上げとC.2の偵察に出掛けていった。
私達は順応を兼ねて明後日からの3泊4日の順応ステージで食べる食糧とテントマット・ウレタンマットなどを背負ってC.1へ荷上げに行く。 相変らず藤田さんと割石さんは好調だが、るみちゃんは順応が少し遅れているようで、マイペースで後ろから登ってくる。 一昨日は空身だったが今日は荷物があるので、ケルンが積まれたモレーンの背の頭まで前回とほぼ同じ時間を要した。 モレーンの背の頭で一休みしてからC.1への明瞭な踏み跡を辿る。 前回ほど悪くはないが体は重く、まだとてもC.1に泊まる自信は無い。 C.1までは雪が無く、トレッキングシューズで登れることがありがたい。 B.Cから3時間ほどで氷河の手前に設営されたC.1(5500m)に着く。 B.Cの個人用テントより少しだけ大きい新しい中国製のテントが3張あり、眼前には6416mの前衛峰が圧倒的な大きさで立ちはだかっていた。 ルートとなる前衛峰の左の斜面にはC.2への偵察に登っていく頼もしいスタッフ達の姿が見えた。 一休みしてから先行したスタッフ達に荷上げしてもらった高所靴や登攀具、寝袋などをテントに搬入する。 テントは割石さんと一緒になった。
キッチンスタッフに作ってもらった梅干しのおにぎりを食べ、少し上の氷河の取り付きまで登ることになった。 氷河の取り付きから先にも明瞭なトレースがあり、他のパーティーが登って行く姿も見られた。 ギャジカン(7038m)が間近に迫るが、ここからはヒムルンの山頂は全く見えない。 取り付きでは順応のために留まることなくC.1に戻り、その足でB.Cへ下った。 今日は順応でC.1に泊まるのだろうか、モレーンの背の頭を過ぎるとB.Cから登ってくる他のパーティーとすれ違った。 B.Cのテントの数は日々増えていて、パサンの話では現在8隊ほどいるとのことだった。
B.Cに戻って一休みしていると、間もなくC.2への偵察に行っていたスタッフ達も戻ってきた。 スタッフ達からの報告によると、当初C.3を建設しようと思っていた6000m付近にC.2を建設することが出来そうで、C.3が最終キャンプになりそうだった。 上部のキャンプの数は少ない方が良いので、これは朗報だった。
夕食は私達のリクエストが叶って野菜のてんぷらとなったが、高所とは思えない見事な出来栄えでとても美味しく、さらにヤクの肉のカツも出されたので、昨日の誓いも忘れてお腹一杯に食べてしまった。 就寝前のSPO2と脈拍は88と60だった。
10月17日、B.C滞在4日目。 昨日に続き鼻詰まりと喉の痛みで良く眠れなかった。 あごにも鈍痛を感じるのは風邪で熱があるためか。 まだ順応よりも消耗の方が勝っているようで、体調は今までで一番悪く、今日が休養日で助かった。 夜中に少し雪が降り、B.Cはうっすらと白くなっていた。 起床前のSPO2と脈拍は88と56、起床後は91と60で昨日と殆ど変らなかった。 天気は少し不安定で風が冷たい。 朝食は関西うどんに昨夜の残りのてんぷらを入れて食べる。
今日は登山の安全を祈るプジャをする日で、早朝からスタッフ達は準備で忙しい。 B.Cでのプジャは厳粛な祈祷というよりもお祭りといった感じだ。 いつの間にか若いラマ僧がやってきて祭壇に飾るお供えを作っていた。 朝食後はSPO2が84にまで下がり、個人用テントに引きこもる。 10時頃にプジャが始まったのでその輪に加わる。 祭壇に供えて祈祷するピッケルなどの登攀具はC.1に上げてしまったので、ストックやザックなどを供える。 香草が焚かれ、若いラマ僧のヌヴゥーさんが読経を始める。 スタッフからミルクティーやお菓子が配られ、皆それぞれ祭壇の前に座って祈ったり、眺めたり、写真を撮ったりする。 プジャの最中は特に何かをしなければならないという決まりはないそうだ。 しばらくすると、タルチョ(経文が刷り込まれた五色の旗)が三方に張られ、祭壇が華やかになる。 スタッフからツァンパ(小麦粉)を顔(女性は肩)に塗られ、お供えのお米を何度か上に放り投げたりして、次第にプジャは盛り上がる。 お供えのお菓子、ビール、チャン(どぶろく)、ロキシー(焼酎)がスタッフから次々に振る舞われ、プジャは終わりに近づいてくる。 プジャの最後に一人一人がラマ僧のヌヴゥーさんから経典を頭の上に載せてもらう。 お決まりのシェルパダンスが始まり、私達もその輪に加わる。 赤ペラの節に合わせた足の独特なステップを上手く真似ることは出来ないが、それはあまり問題ではない。 私達が抜けた後もスタッフ達は延々と踊り続けていた。 踊りの後は祭壇の周りで酒盛りとなり、昼過ぎにお開きとなった。
昼食はヤクの肉の入ったタルカリダルバート。 日本人好みの味付けで美味しい。 昼食後はほろ酔い気分で居眠りする始末だ。 午後は天気が再び悪くなり、個人用テントで昼寝を決め込んだ。 夕方になって少し体調が良くなったので、B.Cの周りを少し散歩する。 夕食はまたまた私達のリクエストどおりのすきやきになり、食欲をセーブするのに苦労する。 食べ過ぎが原因か、就寝前のSPO2と脈拍は今までで一番悪い82と62となってしまった。 スタッフ達は明日は休養日なので、深夜まで酒盛りをして騒いでいた。
10月18日、今日は朝から快晴の天気だ。 風邪は完治せず、頭も重く喉も痛い。 夜中に頭痛や尿意とは関係なく4回も目が覚めた。 鼻をかむと鮮血でハンカチが真っ赤に染まる。 レンタルの寝袋は相変わらず窮屈だった。 起床前のSPO2と脈拍は82と60、起床後は88と62で、B.C入りした時と殆ど変らなかった。 順応不足で体調は明らかに悪いので、まだ上部キャンプには上がりたくないが、今日から3泊4日の順応ステージということで、C.1(5500m)に1泊とC.2(6100m)に2泊する。 最後のアタックステージはB.Cからなるべく身軽で行きたいので、上部キャンプに上げられるものは全て今回ボッカしてしまおうと考えていたが、逆に今回は必要最低限のものだけに絞ることにした。
パンケーキとインスタントラーメンの朝食を食べ、スタッフが用意したチョコレートやチーズなどの行動食をチョイスして9時過ぎにB.Cを出発。 前回の下見でC.1の場所や泊まるテントは分かっているので、各々のペースで登る。 るみちゃんは皆よりも少し早く出発し、割石さん、泉さん、滝口さんも足取りは軽くどんどん先に登って行く。 最後に出発した平岡さんと藤田さんにもすぐに追いつかれ道を譲る。 B.Cでもギリギリの体調なので、皆と同じペースで登ることなく、極力体に負荷をかけないようゆっくり登る。 B.Cからケルンが積まれたモレーンの背の頭までの標高差250mを、前回の下見の時とほぼ同じ1時間15分で登れたが、順応していなかった前回よりも明らかに消耗していることが分かる。 すでに誰もいなくなったモレーンの背の頭で一息入れ、先行している皆の小さな後ろ姿を追いながら義務的にC.1への踏み跡を辿る。 途中2度も休憩したので、皆の姿も視界から消え、B.Cから3時間以上を要して12時半前にC.1に着いた。 眼前に鎮座する6416mの前衛峰は相変わらず威圧的だ。 今日から一緒のテントになる割石さんがテントの中から遅い到着を労ってくれた。 SPO2と脈拍は86と100で、脈が予想以上に高かった。
水作りを楽にするため、少し登った先にある氷河の末端から溶け出している水を取りに行ったが、黒く濁っていて使えなかった。 C.1付近の雪は硬く、また汚れているので水作りも時間が掛かった。 コーヒーや紅茶を頻繁に飲みながら深呼吸を何度も行い、脈を下げる努力をする。 昼寝をしている割石さんや隣のテントで賑やかに談笑している泉さんと平岡さんが羨ましい。 夕方の5時頃にようやく脈が80を切り、何とか今晩ここで泊れそうな状態になったが、同室の割石さんと話をする元気もなく、必要なこと以外は殆ど喋らずに過ごした。
夕食はフリーズドライのカレーと白米を自炊したが、昨夜までのB.Cでの楽しい宴とは全く違い、味わいながら美味しく食べることが全く出来ず、ただ義務的にお腹に押し込んでいるという感じだった。 C.2ではさらに食欲が落ちることが予見されたので、今回ボッカするはずだった食糧をいくつか減らし、C.1にデポしていくことにした。
10月19日、6時前に起床し、少し凍った水からお湯を沸かす。 昨夜は予想どおり頭痛で何度も目が覚めた。 今日は6416mの前衛峰の途中にあるC.2(6100m)まで登って泊まる。 体調は昨日と同じように悪いが、悪いことに体と気持ちが慣れてきたことが唯一の救いだ。 朝食はお茶碗一杯くらいの量のフリーズドライのピラフを時間をかけてゆっくり食べた。 8時にサーダーのパサン以下6人のスタッフ達がB.Cから上がってきた。 パサン以外のスタッフ達が先行し、私達とパサンが8時過ぎにC.1を出発する。 氷河の末端でアイゼンを着け、いよいよここからヒムルン・ヒマールの懐に入る。 快晴無風の天気がありがたい。 陽射しと照り返しが強く、昨日までよりも暖かく(暑く)感じる。
氷河上からはガイドの平岡さんが先頭になり、パサンが殿(しんがり)に付く。 その間を私達6人の隊員が個々のペースで登って行く。 C.1へデポした食糧などが無くなった分、荷物は昨日よりも少し減ったが、1年ぶりに高所靴で登るのは疲れる。 るみちゃんも体調があまり良くないみたいだ。 私達の隊以外は氷河上にC.1を建設しており、そのテントの脇を通って登って行く。 C.1のすぐ上のセラック帯は左から迂回し、所々で雪の無いモレーンの上を通りながら登る。 セラック帯を抜けると、これから辿る荒々しい氷河のルートの全容が見渡せ、そのスケールの大きさに思わず息を呑む。 そのほぼ真ん中をC.2方面へ明瞭なトレースが続いていた。 緩やかに少し下った広い鞍部で長めの休憩をとる。 ここから先には大きなクレヴァス帯があるので、C.2までゆっくり休めそうな場所は無さそうだ。
鞍部からの登り始めは緩やかだったが、見た目どおり次第に傾斜が増してくる。 間もなくスタッフ達が張ってくれたフィックスロープが現れ、ユマールをセットして登る。 急斜面の登りではゆっくり登っても負荷が掛かり、体内の酸素が一気に奪われる。 クレヴァス帯に入ると、地形に合わせて巧みにフィックスロープが張られ、ここしばらく大雪が降っていないため足元の雪も安定していたので、見た目よりも登るのは楽だった。 労せずして30分ほどでクレヴァス帯の核心部を抜けると、今度は風が少し出てきた。 しばらくは緩やかだった斜面の傾斜が再び急になり、ユマーリングで登る皆のペースも徐々に上がらなくなってきた。
C.1から6時間を要し、6416mの前衛峰の途中の僅かな平坦地に建設されたC.2(6100m)に2時過ぎに着いた。 体内の酸素を使い果たし、足はもう言うことを聞かないが、体調が悪い中でC.2まで来れたことが嬉しい。 先に着いたスタッフからジュースをもらい、一気に飲み干した。 C.2からはラトナチュリ(7035m)が再び見えるようになり、ロケーションは抜群だが、背後には急斜面の雪壁が立ちはだかり、C.3や山頂方面は全く見えなかった。
割石さんと一緒にテントに入ったが、テントの下の凸凹が予想以上に酷かった。 テントの下に雪を入れて均せば少しは快適に過ごせるだろうが、今日はそれをする元気は全く無い。 それどころか到着して間もなく頭痛が始まった。 SPO2と脈拍は73と100でそれほど悪くないが、数値以上に消耗が激しい感じだ。 スタッフが水を作るための雪を集めてきてくれたので助かった。 水を作りながらコーヒーなどをどんどん飲むが、頭痛は治まらず、首もだるくなり、とうとう気分も悪くなってきた。 割石さんと話をする元気もなく、終始無言のまま過ごした。 夕方になってもSPO2と脈拍は68と94で、殆ど良くなっていなかった。 夕食はカップ麺だけしか体が受け付けず、地獄の夜が始まろうとしていた。
10月20日、テント内の気温はマイナス8度。 単純に標高に比例して気温は下っていく。 水筒の水はカチカチに凍っていた。 予想どおり長く苦しい夜だった。 夜中のSPO2は59から65の間しかなく、昨年マナスルのアタックステージで泊ったC.3(6700m)と同じくらいの辛さだった。 この原因はC.1へ1泊するだけの順応を省略したためだけなのだろうか。 起床前のSPO2と脈拍は72と78だった。 気分が悪く、朝食はポタージュスープだけにしたが、コップ一杯の量を飲むのに30分もかかった。 今日はアタックステージでの練習も兼ね、アタック用の羽毛服の上下を着て登る。
今日も快晴無風の天気で、ラトナチュリが朝日に照らされて輝いている。 7時半にようやくC.2のテントサイトに陽が当たり始めて暖かくなる。 今日は6416mの前衛峰を越えた先にある最終キャンプ地のC.3(6400m)にタッチしてC.2に戻り、順応のためC.2にもう1泊することになっている。 8時前にスタッフ達が私達よりも一足早くC.3の建設に出発していった。 私達も8時に出発したが、意外にも一番高所経験が豊富な滝口さんは体調不良でC.3には行かず、今日中にB.Cへ下るとのことだった。 今日も昨日と同じようにガイドの平岡さんが先頭になり、パサンが殿(しんがり)に付く。 その間を私達5人の隊員が個々のペースで登って行く。 C.2の背後の高度差50mほどの急な雪壁をスタッフ達が張ってくれたフィックスロープを頼りに登りきると、そこから先は終始緩やかな登りとなった。 アンナプルナ山群の山々のみならず、ダウラギリ(8167m)やマチャプチャレ(6997m)といった垂涎の山々が見え、体調の悪さも忘れて夢中で写真を撮る。
平岡さんに泉さん、割石さん、藤田さん、そして少し遅れて私の4人の男性陣が続き、紅一点となったるみちゃんがパサンと一緒にしんがりを務めている。 風も無く穏やかな天気が本当にありがたい。 先行したスタッフの明瞭なトレースやワンドがあるので、体調に相応しいペースで登る。 ギャジカン(7038m)のみならず、隣のヒムジュン(7092m)の頂も指呼の間に見えてきたが、肝心のヒムルン・ヒマールの頂は未だ見えてこない。 途中から先頭の泉さんのペースが捗らなくなったが、誰一人追い越すことなく、そのままのペースで進む。 高度障害なのか、昨晩良く眠れなかったせいか、それとも羽毛服が暖か過ぎるのか、眠くて眠くて仕方がない。 C.2から2時間半登ってようやく6416mの前衛峰の頂が見えたが、このペースではまだ1時間以上掛かりそうだった。
11時半になって平岡さんが足を止め、そこで休憩することになった。 あと30分ほどあれば前衛峰の頂に着きそうだったが、時間切れでC.3まで行くことを止めたとのことだった。 後続のパサンとるみちゃんが到着するのを待ち、そこからトレースを外れて左手の稜線の方に向かって数10m上がる。 今日の最終到達地点となった稜線上には意外にも平らなスペースがあり、前衛峰の頂の左手に待望のヒムルン・ヒマールの頂が神々しく望まれた。 プー村からB.Cに上がる途中で見て以来一週間ぶりの対面に、それまでの辛さや苦しさも忘れて夢中で写真を撮る。 ヒムルン・ヒマールの頂はなかなか拝むことが出来ないので、仁王立ちしながらその雄姿を目に焼き付ける。 ここまで登ってきても、なおその頂は遠くに感じられた。 標高は6400m弱で、前衛峰を越えた先の広いコルに最終キャンプ地となるC.3のテントが小さく見えた。
正午に最終到達地点を後にしてC.2に下る。 カラ元気もすでに無くなったが、さすがに下りは楽だ。 C.2を見下ろす最後の雪壁の懸垂下降では、ATCにロープを正しくセット出来ないほど脳ミソが酸欠状態になっていたが、何とかごまかして2時前にC.2に戻った。 行動食もろくに食べてないが、テントに戻ってからも食欲は無く、そのうち頭も痛くなった。 3時のSPO2と脈拍は72と86だった。 今日も2人分の水作りに追われるが、明日は天国のようなB.Cに下れるので気は楽だ。 夕食はフリーズドライのスパゲティのみ。 昨夜と同じよう長く辛い夜になりそうだ。
10月21日、昨夜は予想どおり頭痛が続き熟睡出来なかった。 夜中は1時間おきに目が覚め、SPO2は常に50台しかなく、一時は46という今までで一番悪い数値が出た。 40台だと殆ど危篤状態だ。 起き上がると寒いので寝たまま深呼吸するが、どんなに頑張っても90台までいかなかった。 次回のアタックステージでこの状態だとC.3まで登るのがやっとで、とてもサミットは無理だ。 7時の起床直前にパチンコ玉ほどの血の塊(鼻糞)が偶然鼻から取れ、一気に呼吸が楽になった。 相変わらず食欲は無く、朝食はコーンスープ一杯のみ。
9時にC.2を出発。 昨日の午後着いた他の隊のテントが数張り増えていた。 昨日まで気が付かなかったが、C.2からもダウラギリやマチャプチャレが見えていた。 上空には筋雲が少し出ているが、今日も穏やかな天気で風もなかった。 今日はスタッフ全員と一緒に下山する。 一昨日登ったばかりなので、C.1までのルートの記憶は鮮明だった。 登る時に荷上げした食糧などもないので、下りは全く楽だった。 フィックスロープを頼り、労せずして2時間足らずでC.1に着く。 食糧や装備などのデポ品をチェックし、高所靴からトレッキングシューズに履き替えて各々のペースでB.Cに下る。
正午過ぎにB.Cに戻ると、テントの数はさらに増え、12隊ほどになっていた。 パサンの話では、チベットへの入国が禁止になっている影響ではないかとのことだった。 昨日下山した滝口さんも元気な様子で安堵した。 キッチンスタッフが昼食に五目炊き込みご飯を用意して待っていてくれた。 今朝までの食欲不振が嘘のようにお替りをして食べた。
昼食を食べ終わってダイニングテントで寛いでいると、藤田さんの指の異常が目に留まった。 殆どの指に大きな水泡が出来ていて、明らかに凍傷の症状だった。 個人用テントに戻っていた平岡さんを呼び、藤田さんの指を診てもらう。 まだ初期症状で水泡も潰れてなかったので事なきを得たが、出来るだけ早期に病院での治療が必要ということになり、登頂を目前にして急遽下山されることになった。 藤田さんは最高齢にも係らず今まで一番元気に活動されていたので、この決定は本当に残念でならなかった。 本人も断腸の思いだったことだろう。 パサンがヘリ会社に連絡を入れると、邦貨で約200万円という高額の費用を提示されたが、その後の交渉で50万円ほどになったようだ。 凍傷は早期の治療がダメージを抑える最良の方法らしいが、それにしてもあまりにも高い出費だ。
個人用テントに戻って着替えをし、少し昼寝をするともう夕飯の時間となった。 夕食はソースやきそばとヤク肉のカツ丼、インゲンの胡麻和えだった。 食欲は完全に戻り、昼食に続きお腹一杯に食べた。 デザートには“GOOD LUCK”と描かれたチョコレートケーキも出て、久々に楽しい夕食となった。 就寝前のSPO2と脈拍は80と68で数値はそれほど良くなかったが、久々に頭痛に悩まされず朝までぐっすり眠れた。
10月22日、起床後のSPO2と脈拍は86と58で、まずまずの数値だった。 藤田さんは今朝も一番元気で、何故凍傷になってしまったのかその原因は分からない。 唯一の客観的な理由は、74歳という年齢の高さだ。 包帯の上からオーバー手袋で保護した指が痛々しいが、それ以上にアタックを目前にして下山しなければならない藤田さんの気持ちの方が痛々しい。 朝食は日本から持参したインスタントのとんこつラーメンをキッチンスタッフに作ってもらう。 コックのドゥルゲは私達が順応活動に行っている間に風邪をひいたのか、喉をやられて声がかすれていた。
救援のヘリがカトマンドゥを7時に発つということで、7時半前からまだ陽の当たらない寒々しいB.Cの下段の臨時のヘリポートで首を長くして待つ。 8時半にようやく小型のヘリが到着すると、あっという間に藤田さんを収容していった。 B.Cに居合わせた他の隊の人達は突然のヘリの飛来に、何事が起ったのかと驚いただろう。 機上の藤田さんを皆複雑な気持ちで見送ったが、カトマンドゥからは何と鶏肉と新鮮な野菜が運ばれてきた。 この辺りのフレキシブルな“システム”は日本では考えられない。 皮肉にも藤田さんのお蔭で夕食には美味しいレバ付きの焼き鳥を堪能することとなった。
体は楽だが朝食後のSPO2と脈拍は84と62で、まだB.Cの高度に完全には順応していないようだ。 今日は風も無く穏やかな快晴の天気で、午前中はダイニングテントで海外の山の話で盛り上がる。 日本の山の話が一切出ないところが面白い。 昼食に豚肉の入ったタルカリダルバートを食べ、午後は意識的に何もせず個人用テントで昼寝をして過ごした。
休養が功を奏したのか、夕食前にSPO2と脈拍は90と55になり、これなら明日以降はもう大丈夫だろうと思ったのも束の間、夜シュラフに入る直前に突然軽い悪寒がして、夜中には喉も痛くなってきた。
10月23日、頭痛はなかったが、夜中は軽い風邪の症状で熟睡出来なかった。 起床前のSPO2と脈拍は83と56で、残念ながら昨日よりも少し悪くなっていた。 日照時間が短くなり、順応ステージの前と比べてB.Cが寒くなってきたことも原因だろう。 持病の鼻の調子もあまり良くない。 朝食後のSPO2と脈拍は88と73になり、脈がいつもに比べて高かった。
昨日の午後に平岡さんから打診があったアタック日については、予定よりも1日早い4日後の27日になることが正式に決まった。 それに合わせて明日から4泊5日のアタックステージに入ることになった。 昨日ドイツ隊がC.1へ上がって行ったので、彼らが私達よりも1日早く今季初登頂することになるだろう。 ダイニングテントの傍らでサーダーのパサンと談笑し、来年アマ・ダブラムに来てくれるようお願いした。 風邪気味で体調はあまり良くないが、頭がかゆくて仕方がなく、ポータブルの手動シャワーにお湯を入れて2週間ぶりに頭を洗う。 今日も風も無く穏やかな快晴の天気で助かる。
昼食は親子丼、わかめの味噌汁、大豆のトマト煮、コールスローと、引き続き昨日入った臨時の食材の恩恵を受ける。 昼食後に明日からの上部キャンプで自炊するフリーズドライの食糧を各自で選ぶ。 高所では体調や食欲が不安定なので、4泊5日分を的確にチョイスするのは一苦労だ。 昨夜熟睡出来なかったせいか眠くて仕方がなく、昨日に引き続き今日も午後は個人用テントで昼寝をして過ごした。
夕食前にSPO2と脈拍は90と60になったが、数値ほど順応していないことは明らかだった。 それでも食欲だけは何故か普通にあり、アタックステージ前の最後の晩餐に出た野菜炒飯と鶏肉の唐揚をお腹一杯に食べた。
【アタックステージ】
10月24日、意外にも昨夜は熟睡出来たので、起床前のSPO2と脈拍は81と51だった。 起床後は理想的とも言える90と62になり、数値だけはB.Cの高所に順応していた。 夜中に僅かに雪が降ったようで、テント内の気温は0度だった。 空には一週間前にプジャをした日以来久々に雲が見られたが、雲があるということは上空にジェットストリームと呼ばれる強い風がないということで、アタック日としてはその方が良いらしい。 いよいよ今日から4日後の登頂に向けて4泊5日のアタックステージに入る。 今の自分の体調を考えると、もう一日B.Cで休養したいが、このタイミングではアタック日の天気予報に合わせて行動するしかない。 朝食はいつものパンケーキと関西うどんだ。
朝食後は身の回りの準備を整え、前回の順応ステージと同じように各々のペースでC.1(5500m)に登る。 体調が私以上に良くなさそうなるみちゃんが9時半過ぎに真っ先に登り始めた。 10時前に滝口さんと割石さん、そして私の順に相次いでB.Cを出発する。 泉さんはまだこれからのようだ。 今日は食糧以外の荷上げはないので前回の順応ステージの時より荷物は軽いが、あいにく今までで一番風が強かった。 この風は上空のジェットストリームと関係があるのだろうか。 吹きさらしのモレーンの痩せ尾根は風を避ける場所もなく、体感気温はマイナス10度くらいにも感じたが、焦らず自分のペースで登り続ける。 ケルンが積まれたモレーンの背の頭まで、前回、前々回とほぼ同じ時間で登れたが、逆にこれは5000m以上での順応が進んでいないことを物語っているようだった。
モレーンの背の頭の風の当たらない場所で一息入れ、今日も皆より遅れてC.1への踏み跡を辿る。 風は幾分弱くなってきたので安堵する。 途中アンドゥー、タシ、そしてカルディンの三人があっという間に追い越して行った。 C.2までのフィックスロープの安全確認にでも行くのだろうか。 天気は今までの中で一番悪く、振り返るとアンナプルナ方面の山々は鉛色の雲に覆われていた。 皆は休まず登り続けていくが、私は風のない所を選んで何度か休憩したので、前回と同じようにB.Cから3時間以上を要して一番最後にC.1に着いた。
意外にもC.1は風が弱く、ようやく落ち着くことが出来た。 前回の順応ステージでは到着後に少し気分が悪くなったが、今日は今のところ大丈夫だ。 余ったテルモスのお湯でカップうどんを流し込み、休む間もなく水作りを始める。 ここしばらく降雪がないので、テントサイト周辺の雪は硬く、しかもかなり汚れていた。 風邪がまだ完治していないのか、それとも脱水によるためか、少し喉が痛い。
昼過ぎのSPO2と脈拍は80と103で、前回と同じくらい脈が高かったので、スティックコーヒーなどで頻尿になるほど水分を摂る。 夕食は白米とフリーズドライのカレーを義務的に食べたが、B.Cと僅か600mの標高差でこれほどまで食欲が違うのは本当に不思議だ。 夕食後しばらく経ってからのSPO2と脈拍は87と80で、ようやく体も楽になってきた。 曇りがちのためか、B.Cよりも暖かな夜だった。
10月25日、6時に起床。 風も無く静かだったので前回よりは良く眠れた。 起床後のSPO2と脈拍は79と63で、体調も思ったより良くて安堵する。 いつものような快晴の天気になりそうで、アンナプルナ山群も良く見えた。 食欲はあまりなく、昨夜食べ残したご飯とカップラーメンを食べる。 身支度を整え、早朝B.Cから上がってきたサーダーのパサン、プルテンバ、そしてフィジョンの三人と共に8時過ぎにC.1を出発。 ガレ場を少し登り氷河の末端でアイゼンを着ける。 昨日とは違い快晴無風の天気で暖かい。 るみちゃんは相変わらず体調があまり良くないようだ。
前回同様ガイドの平岡さんが先頭になり、パサンが殿(しんがり)に付く。 その間を私達5人の隊員がプルテンバとフィジョンと共に各々のペースで登る。 C.1のテントの数は前回よりも少し増えていた。 C.1のすぐ上のセラック帯を左から迂回し、所々で雪の無いモレーンの上を通りながら登る。 セラック帯を抜けると、氷河に印されたトレースは前回よりも一層明瞭に見えた。 泉さんと割石さんは共に元気で頼もしい。 C.2までは数日前に往復したばかりなのでルートの記憶は新しく、芸術的な中間部のクレヴァス帯の景観もやや新鮮味が薄れていた。 前回はクレヴァス帯を過ぎたC.2直下の急斜面でバテてしまったので、今回はそれを念頭に後半部分のペースを意識的に抑えるつもりでいたが、あいにくクレヴァス帯を過ぎると風が吹き始め、空にも雲が少し湧き始めた。 6000m付近の風は微風でも冷たく感じるので、いきおいペースが上がってしまう。 体感気温以上に寒いのか、鼻水が垂れ流し状態になっていた。
結局前回よりも30分ほど早く、C.1から5時間半でC.2(6100m)に着いた。 気楽な順応ステージの時とは違い、少しでも体力の消耗を防ぎたかったので、すぐにテントの中に転がり込む。 テントの下の凸凹は前回にも増して酷くなっていたが、もう靴を履いて外に出る気力はなく、スタッフが用意してくれた雪で水作りに専念する。 今朝はまずまずだった体調はいつの間にか悪くなり、風邪のように鼻詰まりが酷く頭皮が異常に熱いが、全て高度障害と割り切って我慢するしかない。 同室の割石さんは相変わらず体調が良さそうで羨ましい。 C.2に着いてから3時間後のSPO2と脈拍は79と75で、経験上この高度では奇跡的としか言いようがなかった。 夕方になって豆粒台の血の塊(鼻糞)が取れると、ありがたいことに脈拍が65まで下がった。 夕食は食欲がない時にでも食べられる好物のカルボナーラにした。
B.Cを出発した時点での予想どおり、今回もC.2では平穏に過ごせなかったが、最悪の状態だった前回と比べれば、体調は悪いながらも前回よりは良いので、プラス思考で辛い夜をやり過ごすことにした。
10月26日、今日がアタック日なら良かったと思うほどの快晴の天気だ。 先行しているドイツ隊は今日がアタック日となっている筈なので羨ましい。 予想どおり軽い頭痛と鼻詰まりで昨夜も殆ど眠れなかった。 朝から水作りに追われ、食欲も相変わらずあまりないので、義務的にカップラーメンを食べる。 昨日からこまめにSPO2と脈拍はチェックしていたが、期待以上の良い数値にはならず、メモに記録することが煩わしくなってきた。
8時に最終キャンプ地のC.3(6400m)に向けて出発する予定だったが、アタック用の羽毛服の上下を着て高所靴を履いても足のつま先が冷たく感じたので、皆には先に行ってもらい、しばらくつま先を揉んだりして様子を見ることにした。 幸い10分ほどで症状が緩和したので、C.2の背後の急な雪壁をフィックスロープにユマールをセットして登り始める。 前回の記憶ではこの最初の雪壁が今日の核心部で、ここを登り切ればその後は終始緩やかな登行となるので、一歩一歩呼吸を整えながら意識的にゆっくり登る。 雪壁を登り切った所で一息入れていた皆が歩き始めるのを見送ってから最後尾で登り始める。
今日も元気な割石さんと泉さんの男性陣が平岡さんと先行し、滝口さんとるみちゃんの女性陣がフィジョンと共にその後に続いている。 サーダーのパサンとプルテンバはC.2の撤収の準備をしているので、まだ後ろから登ってこない。 酸欠のため思うように足は上がらないが、足先の血行も良くなり、気分の悪さも無くなった。 天気は安定していて、C.3までは明瞭なトレースやワンドがあるので、写真を撮りながら今の体調に相応しいペースで登る。 眼前のラトナチュリ(7035m)はもちろんのこと、ダウラギリやマチャプチャレが良く見える。 指呼の間のギャジカン(7038m)とネムジュン(7139m)の眺めも圧巻だ。 6416mの前衛峰の頂が見え始めた所で皆が一息入れていた。 C.2からここまで約2時間半で、前回の順応時とほぼ同じペースだった。
ここからは男性陣のしんがりで登る。 1時間ほどで6416mの前衛峰の山頂直下を右から巻くと、ようやく眼前に神々しいヒムルン・ヒマール(7126m)の頂稜部が望まれ、そのスケールの大きさと懐の深さに思わず息を呑んだ。 目を凝らすと登っているドイツ隊の人影が点々と見えたが、ルートの状態が悪いのかまだ山頂の肩にも達していなかった。 前衛峰から標高差で50mほど下った雪庇の上に最終キャンプ地のC.3が見え、その方向に尾根を緩やかに下る。 明日のアタックではC.3からさらに最低コルに向けて下らないと、頂稜部への登りには入れないことが分かり愕然とした。 ドイツ隊のサミットが遅れているのはこのためなのだろうか。
12時半に最終キャンプ地のC.3(6400m)に到着。 私達の隊のテント5張りと、ドイツ隊のテント5張りが寄り添うように設営されていた。 C.1から先行しているアンドゥー、タシ、そしてカルディンの三人はルート工作に行っているようで不在だった。 今日も少しでも体力の消耗を防ぎたかったので、すぐにテントの中に転がり込み、スタッフが用意してくれた雪で水作りに専念する。 SPO2と脈拍は76と100で、この高度ならそれほど悪くない。 さすがに少し気分が悪いが、今のところ頭痛がないので嬉しい。
ルート工作に行ったスタッフ達はまだ帰ってこないが、平岡さんから明日は3時半に出発するとの指示があった。 明日はスタッフとマンツーマンで行動するが、藤田さんがいないのでサーダーのパサンがフリーとなり、割石さんとタシ、泉さんとカルディン、滝口さんとアンドゥー、るみちゃんとプルテンバ、そして私は予想どおり控え目な性格のフィンジョと組むことになった。 早めの夕食にカップうどんを食べて横になる。 隣のテントからは相変わらず元気な泉さんの笑い声が聞こえてくる。 同室の割石さんも相変わらず体調は悪くないとのことで羨ましい。 昨年のマナスルのC.3(6700m)では、呼吸を意識的にするため敢えて寝ようとせず、なるべく起きていることを心掛けたが、今日はそれより300m低いので横になって寝ることにした。 案の定、脈が高くて熟睡出来ず、寝ている間は常にSPO2が60台だった。 鼻は完全に壊れ、鼻をかむと鼻血か血の塊しか出なくなった。
【山頂アタック】
10月27日、夜中じゅう風が断続的にテントを叩き、予定どおりアタック出来るのか不安が募る。 天候待ちでここに連泊するのだけは御免だ。 半信半疑で1時半過ぎに起きてお湯を沸かし始めるが、前室に吹き込むすきま風と低温でコンロの火が弱く、朝食用のお湯を沸かすのに1時間も掛かってしまった。 前日まで毎日欠かさず朝食の前後にしていた用便は、時間が早いためか全くもよおしてこなかった。 起きていてもSPO2は60台前半と悪く体もだるいが、強い頭痛や吐き気はないので、何とかアタックすることは出来そうだ。 相変らず食欲は無いので、朝食はポタージュスープ一杯のみとなった。
行動用のお湯もなかなか沸かず、出発の準備が少し遅れてしまったが、高所靴を履きハーネスを着けてテントから出る。 風がだいぶ収まってきたので安堵した。 アイゼンを着けている間に、泉さんに続いて割石さんも出発していった。 テントを出た時はそれほど寒さを感じなかったので、5本指のオーバー手袋で出発しようとしたが、最初のコルまでの下りではフィックスロープは無いとのことで、急遽羽毛のミトンに取り替えた。 結局予定よりも30分遅れ、メンバーの最後尾で4時の出発となってしまい、周囲の写真を撮る暇もなかった。
意外にもフィンジョは自分のピッケルやストックを持たず、5mほどの補助ロープで私とアンザイレンすると、私のピッケルを預かってしまった。 出発が遅れていたので、フィンジョにその理由を聞くことも無く歩き始める。 C.3の傍らを僅かに登っただけで、すぐにコルへの長い下りとなった。 間もなく滝口さんとるみちゃんに道を譲られ、前方に揺れているヘッドランプを目標にして進む。 緩やかな下りだが、トラバース気味に右側に傾いていたり、時々小さな登り返しがあったりしてなかなかコルに着かない。 下りでもこの高さでは消耗が激しいので、なるべくすり足で歩くようにするが、トレースが凸凹していたので歩きにくかった。 コルまでは1時間足らずで下れると思っていたが、意外にもC.3から2時間を要してコルに着き、夜が白み始めた6時頃になってようやく山頂への登りに転じた。 下山後にパサンに聞くと、コルまでは単純標高差で150mくらいだったとのこと。 コルで休憩していた泉さんとカルディンのペアに道を譲られると、その先にはフリーで先導するパサンの明るいヘッドランプの灯りと割石さんとタシのペアのシルエットが見えた。 コルから仰ぎ見たヒムルンの頂は遥かに高く、そしてまだまだ遠く感じられた。
意外にもフィンジョからコルにストックをデポするよう指示があった。 先ほどのピッケルの件といい不可思議なことを言うなと思ったが、酸欠で思考が全く働いていなかったので、言われるままストックをフィンジョに渡してしまったが、これは後々大失敗だった。 斜面の傾斜が次第に増し、最初のフィックスロープが現れた。 すかさずフィンジョがユマールをセットしてくれたが、補助ロープは結んだままだったので、山頂までの登りではフィックスロープの有無に関係なくフィンジョが補助ロープで前から確保してくれるのだろうと思った。 そうであればストックは不要で、必要な都度預けたピッケルを使えば良いと思った。 今日は最終のアタック日なので、明日以降のことは考えずにマラソン大会と同じように口で息を吸って登る。
コルからしばらく登ると休憩していた割石さんとタシのペアに追いついた。 C.3からずっとフィンジョとアンザイレンしているため、殆ど写真を撮ることが出来なかったので、足を止めて周囲の写真を何枚か撮らせてもらう。 ようやく周囲が明るくなってきたが、昨日と同じような絶好の登山日和となりそうで嬉しい。 C.3もすでにだいぶ遠くなった。 ここからはパサンに先導されながら先頭で登ることになった。 フィックスロープの無い斜面ではアンザイレンされていてもストックがあった方が登り易いし、体力の消耗が少ないのだが、若いフィンジョにはそれが分からなかったのだろうか、いずれにしても後の祭りだ。 それでも今朝までずっと続いていた悪い体調でここまで来れたのみならず、このままのペースで登れれば登頂の可能性は高いので、とにかく登ることだけに集中しようと思った。
斜面の傾斜は徐々に増し、フィックスロープが連続するようになった。 隊列が長くなったためか、先導していたパサンが足を止めたので、追い越して先に進む。 酸欠により記憶も定かではないが、フィンジョから両手で拝むようにユマールを使って登るように指示があり、預けたピッケルは使わずにユマーリングだけで登ることになった。 理由は分からないが、それと同時にフィンジョは補助ロープを外して私のすぐ後ろに付き、フィックスロープ間のカラビナの掛け替えとユマールのセットをしてくれた。 低温のため雪面は全般的に硬く、凍っている部分もあり、トレースも無いので登りにくい。 確かにフィックスロープは先頭で登った方が楽だが、フィンジョがこのタイミングで敢えて後ろに付いたのは何か理由があるのだろうか。 前回のマナスルの時もスタッフは常に後ろに付いていたので、これがネパールでの登山スタイルなのかもしれない。
割石さんとタシのペアがすぐ後ろから登ってきた。 一番元気な割石さんの前をスローペースで登っては申し訳ないと思ったが、最初の下りでのボディーブローが効いてきたのか、シャリバテか、足が言うことを聞かなくなり、気持ちとは裏腹にペースは落ちる一方だった。 フィックスロープの途中では先に行ってもらうこともままならないので休むに休めず、写真も撮らずに登ることに集中する。 そのうちユマールを握る手の握力も無くなってきたので、フィックスロープの境目でフィンジョに休憩を申し出る。 割石さんも少し下で休憩していたので肩の荷が下りた。 コルからほぼ一直線にフィックスロープが張られていたので、下から登ってくるメンバー全員の姿は見えたが、この時割石さんの身にアクシデントがあったとは全く知る由もなかった。
行動食のチョコレートを食べ、ザックのショルダーベルトに付けた小さなテルモスにお湯を補充したりしながら一息入れ、再び目の前のフィックスロープにしがみつく。 休憩しても酸欠は解消されず、ペースは全く上がらない。 しびれを切らしたフィンジョが前に出て、フィックスロープを雪面から持ち上げて登り易くしてくれた。 それでも足は言うことを聞かず、ペースが上がることは無かった。 フィンジョが先頭になってしばらく登ると、ようやく右の頭上に山頂の突起が僅かに見えるようになった。 時計を見るとちょうど10時だった。 昨日まで仰ぎ見ていた6416mの前衛峰やC.3もだいぶ低く、そして遠くなった。 上空には少し雲が湧いてきたが、今のところ心配していた風は全くなく、まずまずのアタック日和だ。 ペースがかなり落ちたにも関わらず、後続のメンバーとの差が開いていたのが意外だった。 7038mのギャジカンの頂が目線の高さになり、山頂まであと標高差で200mほどに見えたので、フィンジョに「なかなか良いペースでしょ!」と投げかけると、フィンジョも笑って頷いていた。 ペースはとてもゆっくりだが、天候が急変しない限りあと2時間後の正午までには山頂に届きそうな気がした。
斜面の雪はさらに硬くなり、凍っている部分の方が多くなってきた。 前を登るフィンジョが足を雪面に叩きつけるようにして僅かばかりのトレースを付けてくれるが、それでも酸欠のため当たり前のように登ることが出来ない。 フィンジョからピッケルを返してもらい、正に杖代わりにして登る。 フィックスロープが一旦途切れた所でフィンジョから休憩を促されたので、一息入れる。 時間の感覚が鈍くなってしまったのか、いつの間にか目安としていた正午近くになっていた。 フィンジョが無線でパサンと何やら話をしている。 現在地点と私の体調やペースを伝えているのだろうが、もしかしたらサミットの制限時間を相談しているのかも知れない。 相当疲れてはいたが、作り笑顔でまだまだ元気なふりをする。 とりあえずフィンジョからサミットの制限時間についての話は一切なかったので安堵した。
フィックスロープがない区間となったので、フィンジョが再びピッケルを預かり、補助ロープを結んで登ったが、ストックがないので登りにくい。 次のフィックスロープの所からようやく山頂直下の肩の部分に入ったようで傾斜が緩んだ。 下からは米粒のように小さく見えた山頂の突起が大きなドームとなって正面に見えるようになり、明瞭なトレースが山頂まで続いていた。 見た目にはあと1時間足らずで山頂に着きそうだったが、すでにサミットの目安としていた正午は過ぎていた。 フィンジョが再び無線でパサンと話を始めた。 正午は過ぎたが、一人でも登頂すれば隊としての登頂は成功したことになるので、このまま続行するようにと指示があったのか、逆に登頂の有無に関係なくサミットの制限時間を決めたのかは定かでない。 フィンジョに交信内容を聞くのが怖いので、「山頂まであと1時間くらいかな〜?」と投げかけてみると、そうだと言わんばかりに頷いていたので助かった。
気温の上昇で霧が湧き、山頂をうっすらと覆い始めた。 私達のいる肩の部分からは本隊は全く見えない。 傾斜は明らかに緩んだが、7000mを超える高さゆえ、危惧していたとおり三歩進んでは一休みするような状況に追い込まれてしまった。 フィンジョが補助ロープで前から引っ張ってくれるが、それでもなかなか足が前に出ない。 そういう経験をしたことがない若いフィンジョは、相当苛立っているに違いない。 再び無線が入ったが、もうここまで来たら拝み倒してでも山頂に行くしかない。 フィンジョの顔はまともに見られず、写真も撮らずに登る事に集中する。
気が付くと眼前にはもう頂上ドームしか見えなくなっていた。 ドームの傾斜は急で、最後のフィックスロープが張られていた。 山頂までの標高差はもう30mほどしかなく、日本の山なら5分で登れるだろう。 意外にもフィンジョはロープを外すと、私のピッケルを突きながら先に登っていってしまった。 昨日登ったドイツ隊のものか、つぼ足のトレースがあって助かったが、何故フィンジョがそのような行動を取ったのか理解出来なかった。 登ることに集中していたので全く気が付かなかったが、いつの間にかプルテンバが私のすぐ後ろにいたことが後で分かった。 山登りを始めて以来こんなに苦しい登高があっただろうか、渾身の力を振り絞ってユマールにしがみつく。
肩で息をしながら喘ぎ喘ぎ登っていくと、雪庇を削った隙間から笑顔で仁王立ちしているフィンジョの姿が見え、精根尽き果てながらも2時半にヒムルン・ヒマールの山頂に辿り着いた。 生憎の霧で展望は全くないが、それを遥かに凌駕する達成感と安堵感で胸が一杯だった。 「ダン・ネバ!、ありがとう!」。 フィンジョに抱きついて登頂の喜びを体全身で伝えた。 振り返るとネパールの国旗を携えたプルテンバがいつの間にか後ろ立っていたので驚いた。 プルテンバも自身の初登頂を喜んでいた。 小雪の舞う山頂で、ネパールの国旗を掲げながら写真を撮り合う。 麓のプー村からも、最終キャンプ地のC.3からも本当に遠い遠い頂だった。
日没までにはC.3に戻らなければならないので、山頂には15分ほど滞在しただけですぐに下山を開始する。 まだ登ってくるパーティーの姿が霧の中に朧げに見えたが、すでに酸欠で頭がおかしくなっていたのか、それが後続の本隊だという認識は全くなかった。 体の中の酸素を全て登りで使い切ってしまったため、足はさらに言うことを聞かなくなり、普通に歩くことさえもままならなかった。 ストックがないことがさらにそれを助長していた。
山頂からしばらく下った所で、登ってくるパーティーにフィックスロープを譲ると、先頭から二番目に滝口さんに似た女性の姿が見えた。 本隊はもう時間的に無理なので引き返したと思っていたのと、滝口さんも私に声を掛けてこなかったので、すれ違うまで滝口さんだということが分からなかった。 本能的に写真を撮ったが、なぜ滝口さんが他のパーティーと一緒に登っているのか分からなかった。 その後ろからカルディンと泉さんのペアが登ってきたので、ようやくこのパーティーが本隊だということが分かった。 C.3には昨日登ったドイツ隊しかいなかったので、他のパーティーが登ってくるはずがなかった。 しんがりの平岡さんから「登頂おめでとうございます!」と声を掛けられたが、これから山頂に向かう皆の身を案じて、近くに見えてもここから2時間ほど掛かったことを伝えた。 割石さんの姿が見えなかったが、先頭を登っていたのが割石さんだったのだろうと、ぼんやりとした頭の中で思った。 るみちゃんは体調が悪く、途中で引き返したのだろうか。 プルテンバがフリーになっているのはそれゆえだったのか。
山頂に向かう皆を見送ってからC.3への下山を続ける。 ありがたいことに今日は未明以外は風に吹かれることはなかったが、霧は次第に濃くなり、緩やかな肩の部分の下りから急なコルへの下りに入っても状況は変わらなかった。 登りの時と同じようにフィンジョとの二人旅が延々と続く。 フィックスロープがあっても足の踏ん張りが全く利かないので、休み休みでしか下れず、フィックスロープがない所では、ストックがないのでバランスを保つのに苦労する。 足はもうガタガタだが、本隊はまだ山頂に向かっているし、C.3へのタイムリミットはないので気は楽だ。
本隊とすれ違ってから初めて無線が耳に入り、フィンジョが「本隊が下山を始めた」と一言だけ呟いたので、やはり時間切れで登頂出来なかったのだろうと思った。 広いコルの手前の最後のフィックスロープの末端まで下った時、後ろからプルテンバが追いついてきて、しばらくそこで待つようにと指示された。 待っている間にフィンジョが手が冷たくなってきたと言うので、スペアの羽毛のミトンとフリースの手袋を貸した。 プルテンバはタバコを吸って時間を潰していた。 久々に行動食を口にしながら30分ほど待っていると無線が入り、本隊を待たずにプルテンバを残してフィンジョと二人で下山を再開することになった。
しばらく緩やかに下って広いコルに着くと、そこにデポしたストックが置いてあった。 あとはC.3へ緩やかに登り返すだけとなったが、周囲はすでに薄暗くなり、ヘッドランプを点けて歩く。 未明に何人も歩いた割にはトレースが薄く、ヘッドランプの灯りでは分かりづらい。 目の良いフィンジョですら、所々で迷いながら進んでいた。 ストックが手元に戻ったので少しは歩みも捗るかと思ったが、標高がだいぶ下がったにも関わらず体の酸欠状態は解消されず、それどころかますますペースは遅くなった。 平坦に近い所でも休まずに歩き続けることが出来なくなり、所々で立ち止まって息を整える。 登りの傾斜が少し急になると、山頂直下での登りと同じように三歩進んでは一休みするような状態となり先が思いやられる。 フィンジョもこの超スローペースにはお手上げだろう。 おぼつかない足取りで1時間ほど登り返し、フィンジョに「C.3まであとどのくらい?」と投げかけると、意外にも1時間ほどで着くという返事が返ってきた。 周囲を覆っていた霧が徐々に晴れ、空には星が見えるようになった。 うっすらと見える周囲の山々のシルエットが幻想的だ。 相変らず風が全くないので助かるが、この状態で風に吹かれたら命の危険を感じるだろう。
C.3とコルの間は登りも下りも真っ暗で、ルートのイメージが全く湧いてこない。 歩いても歩いてもC.3のテントの灯りが見えずにヤキモキする。 足元のトレースは相変わらず薄く、もしかしたらフィンジョがルートを間違えているのではないかと疑心暗鬼になり、何度かフィンジョに訊ねる始末だ。 再びフィンジョにあとどのくらいでC.3に着くか聞いたところ、先ほどと全く同じように1時間ほどで着くという。 1時間はあくまでも自分(フィンジョ)ならということだった。 雪原の末端のような所に着くと、フィンジョは糸の切れた凧のようにどんどん先に進んでいってしまった。 おそらくC.3が近いということだろう。
月明りに照らされた雪原を休み休み歩いていくと、不意に目線の下に静まりかえったC.3のテントが見えた。 すでに10時近くになり、出発してから18時間を要してようやくC.3に帰り着いた。 長時間辛抱強く付き合ってくれたフィンジョに感謝の気持ちを伝え、力強く拝むように両手で握手を交わす。 テントの外からサーダーのパサンにも声を掛けた。 まだここは吹けば飛ぶようなC.3だが、まるでB.Cに着いたような安堵感がした。
アイゼンを外し、雪が少し積もったテントのファスナーを開けて中に転がり込もうとすると、シュラフにくるまって寝ている人がいたので、テントを間違えてしまったと思ったが、その直後に割石さんの声がしたので驚いた。 意外にも割石さんはコルからしばらく登った所で手の指が凍傷になってしまい、登頂を断念して引き返したとのことだった。 なぜ一番元気だった割石さんが突然凍傷になってしまったのか知る由もないが、慰めや励ましの言葉も見つからなかった。 すでに指は包帯で巻かれ応急処置は済んでいたが、藤田さん同様一刻も早く病院での治療が必要だろう。 本隊もまだ帰ってきてない状況で、明日中にカトマンドゥに下ることは出来るのだろうか。 気持ちの整理もつかぬまま装備を解き、脱水状態となっている体をケアするため、お湯を沸かして水分を充分に取った。 やるべきことを終え、ようやくシュラフに潜り込むと、テントの外が賑わしくなり、11時半過ぎに本隊が全員一緒に帰ってきた。 テントから顔を出すと、皆疲れ果てているものの、無事のようで安堵した。 本当に長い一日だった。
10月28日、極度の疲労と酸欠状態が6400mの高度でどのような症状を引き起こすのか不安だったが、疲れが優先していたのか、サミットが良い順応となったのか、図らずもここ数日で一番良く眠れた。 風もなく晴天の朝で安堵する。 テントに陽が当たるようになってから指の不自由な割石さんの下山の準備を手伝い、パサンと一緒にB.Cに下る割石さんを見送ってから、ゆっくりと下山の準備をして11時過ぎに全員一緒にC.3を出発する。 すでに雲が湧き始め、昨日よりも少し天気が悪い。
C.3から指呼の間の6416mの前衛峰へ登り返す。 泉さんの足取りが捗らず、平岡さんと雑談を交わしていると、時間切れで引き返したとばかり思っていた本隊も夕方の5時に登頂したということが分かり驚いた。 前衛峰で最後のヒムルン・ヒマールの雄姿を目に焼き付け、C.3の撤収を終えたスタッフ達に道を譲る。 前衛峰からは要所要所にフィックスロープがあるので、私とるみちゃんと滝口さんは各々のペースで下ることになった。 今日は一番元気なるみちゃんが終始先頭となる。 アタック日が一日遅れの今日だったら登頂出来たのではないかと思うと残念だ。 後ろから下ってくる滝口さんも相当疲れているようで、なかなか追いついてこない。 最後尾の泉さんは平岡さんと一緒に休み休み下ってくるが、いつの間にか二人の姿は見えなくなった。 昨日の長時間行動での消耗が激しく、C.3からC.2への下りは予想をだいぶ上回り、3時間ほど掛かってしまった。 C.2では先行していたスタッフ達により撤収作業が行われていた。
C.2にデポしたジャケットやオーバーパンツなどを回収し、滝口さんが懸垂でC.2へ下ってくるのを待ってからるみちゃんとC.1へ下る。 相変らず足の踏ん張りが利かないため、急斜面のフィックスロープの下りに時間が掛かる。 明後日以降は天気が崩れるのか、C.2からC.1への下りでは登ってくる隊の姿は見られなかった。 高度が下がっても体の酸欠状態は全く解消されず、C.1手前のちょっとした登り返しでもすぐに息が上がってしまう。 結局C.2からC.1への下りも2時間以上掛かった。 C.1にはB.Cからキッチンスタッフのマニが上がってきてくれ、お茶とおにぎりの差し入れをしてくれたが、これがどんな御馳走よりも美味しく感じた。 C.1にデポしたものは全て明日スタッフ達がB.Cに下してくれるとのことで、その好意にも甘えることにした。 高所靴を脱いでハイキングシューズに履き替えると、身も心も急に軽くなった。
秋が深まってきたのか、日が暮れるのも早くなり、夕陽に照らされた6416mの前衛峰が淡く染まり始めた。 滝口さんの到着を待って、るみちゃんとB.Cへ下る。 間もなく日没となったが、ヘッドランプの電池が殆どなかったので、るみちゃんに先導してもらう。 眼下にB.Cの灯りが微かに見えてくると、それが街の明かりのようにさえ思えた。
6時半に待望のB.Cへ到着。 ヒムルン・ヒマールへのアタックは終わった。 先に到着していた割石さんに声を掛けると、指の凍傷以外は相変わらずとても元気だったので安堵する。 疲れと脱力感で何もする気がおこらず、テントの傍らの岩の上に座って皆が下りてくるのを待つ。 登頂と下山の余韻に浸りながら後続隊の到着を1時間ほど待ち、着替えをしてから夕食を食べにダイニングテントに集まる。 疲労によりメンバー全員の顔が揃わず、打ち上げの宴は明日の晩に持ち越しとなった。
10月29日、アタックの疲れとB.Cの安堵感、そして何よりも酸素の濃さでぐっすり眠れた。 朝7時にキッチンスタッフが洗面用のお湯を届けてくれたが、秋の深まったキャンプ地にはなかなか陽が射し込まずに寒い。 今日は休養日だが、割石さんをカトマンドゥに搬送するヘリが朝一番で飛んでくるので、のんびりはしていられない。 藤田さんの時と同じように皆でヘリポートに割石さんを見送りにいく。 割石さんは指の水泡の一部がすでに潰れてしまい、藤田さんよりも明らかに症状が重いが、本人は至って明るく元気で、その精神力の強さには本当に頭が下がる。 天気が良かったので8時にヘリが到着し、あっという間に割石さんを乗せてカトマンドゥに向けて飛び去って行った。 一番元気だったお二人が相次いで凍傷になったことは、装備や水分が不足していたことも理由にあるが、高所での年齢的な限界を示唆しているのではないかと思わざるを得なかった。 B.Cからお二人を相次いで見送ることになるとは、誰が想像しただろうか。
朝食はパンケーキとオムレツにスープ代わりのインスタントラーメンと、いつもと変わりはないが、もう何も心配することなく食べたいだけ食べられるのが嬉しい。 泉さんはアタックのダメージが大きいようで、以前の食欲にはまだ戻っていない。 水泡こそ出来てないが、指先がずっと冷く痺れているとのことで、厚い手袋をしたままだった。
明後日B.Cを発つことになったので、今日は帰りの支度をしなくても良くなり、個人用テントやダイニングテントでのんびりと寛ぐ。 疲労感よりも脱力感の方が強く、本当に何もする気が起らない。 日記を記すこともなく、シャワーも浴びずに一日中だらだらと時を過ごした。
夕食のメインディッシュは好物のモモ(蒸し餃子)で、付け合せの胡麻ダレが絶品だった。 食後にはお決まりの“登頂ケーキ”が振る舞われ、久々にメンバー全員が揃って楽しい登頂祝いの宴となった。 るみちゃんが登頂出来なかったことが本当に悔やまれる。
10月30日、今日も快晴の乾燥した天気だ。 ダイニングテントの近くにあった水場がとうとう涸れてしまい、キッチンスタッフがB.Cのだいぶ下まで水を汲みにいってくれた。 明日はB.Cを発ってプーガオンまで半日行程で下るとのこと。 アタックに使った羽毛のジャケットやパンツ・手袋・寝袋・高所靴などを天日干しにしながら、衣類や生活用品の整理を入念に行う。 水が不足しているので今日もシャワーは浴びなかった。 夕食の食材も少なくなり、B.C最後の夕食は大根の煮物と春巻だった。 ここではゴミは持ち帰らずに燃やしていた。
【B.Cからカトマンドゥへ】
10月31日、B.Cからプー村までは半日行程なので、朝食を食べてから荷物をパッキングし、個人用テントの撤収をスタッフにお任せして、10時半過ぎにB.Cを出発する。 泉さんはギックリ腰になってしまったようで、荷物を道案内役のカルディンに背負ってもらっていた。 滝口さんも相変わらず咳が酷く、マスクが手放せない。 お蔭様で私は五体満足だが、高所で壊れた頭はますますおかしくなり、さらに高所登山の世界にのめり込んでいきそうだ。 今日も天気は快晴だが、風が終始正面から吹いてくるのが煩わしい。 中間点のカルカ(放牧小屋)を過ぎ、B.Cからは見えないヒムルン・ヒマールの山頂が見えるモレーンに帯に入る。 登った(登れた)山の写真を麓から撮るのは、何とも言えない嬉しい気分だ。 青空で山が良く見えるが、今日の山頂は風が強そうだ。
モレーン帯をさらに下ると、岩壁にへばり付くように石を積んだ家が密集する要塞のようなプー村の特異な景観が眼下に見えはじめた。 村外れのチョルテン(仏塔)の傍らを通り、吊り橋でプーコーラを渡って、まだ陽の高い3時前に20日ぶりとなるプー村に着いた。 前回はテントに泊まったが、民家を改造した小さなロッジが空いていたので、今回はロッジに泊まることになった。 ロッジの寝室には窓がなく、トタンで区切った3畳のスペースに簡易ベッドが二つと至ってシンプルだ。 夕食は半地下の食堂でダルバートを食べたが、食堂にはロッジの家主の家族や子供の顔も見られた。 私は登山中にはアルコールはやらないと決めているが、大きなポリバケツの中にはロキシー(地酒)がなみなみと入っていて、飲めるメンバーは嬉しそうに飲んでいた。
11月1日、もう二度と訪れることはない辺境のプー村(4080m)を発ち、往路でテント泊したキャン(3820m)のキャンプ地を経て、新しいロッジの建つメタ(3560m)へ下る。 腰痛の泉さんのペースが相変わらず上がらず、平岡さんが付き添ってしんがりを歩く。 滝口さんとるみちゃんもマイペースで歩いているため、終始皆よりも先行することとなった。 トレッキングにはベストシーズンとなったようで、プー村を目指す外国人のトレッカーと所々ですれ違うが、もちろん日本人は誰もいない。 マイナーなこのルートを歩くのは、エベレスト街道、アンナプルナ、ランタン谷などをすでに踏破したトレッカーだろう。 標高は下ったが体内の酸欠は解消されてないようで、下り基調だが歩くスピードは往路と変わらなかった。
往路でテント泊したキャン(3820m)を過ぎて峠を越えると、眼下にチヤコ(3735m)の牧草地が見えた。 静かなチヤコの牧草地を通過し、ジュナム(3640m)のキャンプ地の先で右手のナルコーラの深い谷の対岸にゴンパ(僧院)が見えてきたが、なかなかメタのロッジに着かない。 それどころか、ロッジの手前でゴンパのあるナル村方面の踏み跡に引き込まれてしまった。 正しいルートに戻った所で後から来たメンバーと合流し、夕方前に全員一緒にメタのロッジに着いた。 暖かいミルクティーと茹でたてのジャガイモがとても美味しい。
11月2日、7時半にまだ陽の当たらない寒々しいメタのロッジを出発。 ナルコーラの深いV字峡の谷に向けて急坂を下る。 1時間ほどでシンゲンジェ・ダラムサラのキャンプ地を通過し、ナルコーラの左岸に降り立つ。 吊り橋を4回渡り、往路と同じようにナルコーラの左岸と右岸を交互に高巻きを繰り返しながら延々と歩く。 下り基調とは言え激しい登下降の繰り返しの連続で足が棒になる。 メタを出発してから6時間後の1時半に、ようやく待望のアンナプルナ街道のコト(2600m)に到着。 往路で泊ったロッジで昼食を食べる。
昼食を食べ終わると、意外にも先行しているスタッフから、車が手配出来たのでロッジで待つようにとの連絡があった。 半信半疑でロッジで車を待っていると、本当に新しいインド製のジープが迎えに来た。 こちらからオーダーした訳ではないので、何かエージェントの方に事情があったのだろう。 5人乗りのジープに運転手を含めて12人が乗ってコトを出発。 アンナプルナ街道の標高の低い所では、人馬が通る道のみならず、物流のための車道があることが分かった。 車の揺れは激しく車内も狭くて快適ではないが、もう歩かなくて済むのが本当に嬉しい。 車窓からマナスルが見えるようになり思わず歓声を上げる。 悪路を上下左右に30分ほど揺られ、今日の宿泊地のティマン(2750m)のロッジに着いた。 マナスルの眺めの良いロッジのテラスでレモンティーを飲みながら寛ぐ。 残照のマナスルが神々しい。 暖房のないロッジの食堂は寒いので、料理を手伝っているスタッフと一緒に暖かい厨房で話の花を咲かせる。 夕食は久々にモモ(蒸した餃子)をお腹一杯になるまで食べた。
11月3日、今日も逆光ながらマナスル山群の展望が良い。 朝食をゆっくり食べ、陽が当たり始めた8時にティマンのロッジを出発。 今日はアンナプルナ街道の入口の町のベシ・サハール(760m)まで一気に下る。 もちろんここから車の手配が出来れば歩かなくて済む。 次のダナキュー(2300m)の集落までは急坂が連続する山深い区間だが、山道を迂回しながら走るジープが何台も見られた。
ティマンから2時間ほどでダラパニ(1860m)の集落に着くと、送迎用のジープが数台停まっていた。 予定ではこの先のチャムチェ(1430m)の村からエージェントが手配したジープに乗ることになっていたが、出来ればもう歩きたくないので、運転手と料金の交渉をする。 意外にも行き先はベシ・サハールの町のみということで料金が高く断念した。 ダラパニから先は往路で通った吊り橋を左岸に渡らず、マルシャンディ川右岸の新しい車道を歩く。 岩をダイナマイトで爆破して作ったいかにもネパールらしいスリリングな道だ。 左岸に渡る吊り橋が途中に何本かあった。 新しい車道には人家やロッジは全くないので、掘立小屋の茶店で休憩し、玉子入りのラーメン(ララヌードル)を食べる。
往路ではそれほど感じなかったが、単調な車道歩きがとても長く感じられ、また工事中の区間では迂回を強いられたので、いい加減嫌になってくる。 新しく作られた車道が終わると、人家が点々と見られるようになり、2時に待望のチャムチェ(1430m)の村に着いた。 足はすでに棒になり、もうこれで歩かなくて済むと心底嬉しかった。 ロッジで食べた昼食のダルバートは下界の味と変わらず、とても美味しかった。
遅い昼食の後、エージェントが手配したジープに乗り、チャムチェの村を3時半に出発。 足は楽だが、揺れは上下左右に激しく、長い時間揺られていると気が狂いそうになる。 往路で車を降りて泊まったシャガットを過ぎ、アンナプルナ街道の起点となるブルブレ(840m)で日没となり、ゴールのベシ・サハール(760m)の町にようやく夜の7時に着いた。 舗装された道路の終点にあるベシ・サハールの町は、トレッカー向けのホテルや商店が所狭しと軒を並べていた。
久々にホテルでシャワーを浴びる。 打ち上げの宴はカトマンドゥですることになっていたが、スタッフの都合で今晩このホテルで行うことになった。 スタッフ全員とビールで乾杯し、鶏肉のステーキとダルバートを食べる。 ディナーの後はお世話になったスタッフ達一人一人に感謝の気持ちを伝えながらチップを手渡した。 1か月ぶりに飲むビールの回りは早い。 今日までの疲れも手伝っていつの間にか眠りに落ちていた。
11月4日、今朝も昨日と同じ定番のフライドライスを注文して食べる。 8時にベシ・サハールのホテルを出発し、エージェントのワゴン車でカトマンドゥへ向かう。 昨日までの悪路とは全く違う舗装道路の快適さがありがたい。 車窓からの田園風景を写真に収めるはずが、襲ってくる睡魔には勝てなかった。 途中の観光客向けのレストランで早めの昼食となり、今日もダルバートを食べる。 カトマンドゥ近郊の峠道の渋滞を危惧していたが、意外にも帰路はスムースに峠を越え、予定よりもだいぶ早く1時半過ぎにはカトマンドゥのホテル『アンナプルナ』に無事着いた。
当初の予定より3日も早くカトマンドゥに戻れたので、明日以降は休養日となるが、有給休暇の節約のため、ホテルに隣接するタイ航空のオフィスに出向いてフライトの変更を申し出ると、運良く明日の便に乗れることになった。 明日のホテル代は戻ってこないし、カトマンドゥの観光も出来ないが、現役サラリーマンの宿命なので仕方がない。
ホテルに戻り、寛ぐ間もなく荷物の整理を始める。 EMS(国際郵便)で送った荷物や土産物も全て飛行機で持ち帰ることにしたため、荷物の総重量は40キロを超えてしまった。 夕食はエージェントのマウンテン・エクスペリエンスの社長のタムディンがホテルから歩いて数分の所にある『古都』という日本食の店に招待してくれ、すきやき、焼き鳥、串揚げ、天ぷら蕎麦などをお腹一杯に食べた。 ご飯やみそ汁、漬物にいたるまで日本の味と遜色がなく、とても美味しかった。
11月5日、別棟のレストランでバイキングの朝食を食べる。 昨日から満腹中枢が麻痺しているので充分元が取れる。 朝食後は出発時間まで寸暇を惜しんでタメルに土産物を買いにいき、るみちゃんのお勧めの店で紅茶のティーバックを大量に買い占めた。
10時過ぎにタムディンがホテルに車で迎えに来てくれ、一緒の便で帰国することになった泉さんとトリブヴァン空港に向かう。 30日間の観光ビザで入国したため、滞在日が1日オーバーしていたが、出国審査では何も言われなかった。 機内に預ける手荷物はダッフルバック2個で35キロだったので、さすがにタイ航空のカウンターのスタッフから重量制限オーバーを指摘されたが、知らぬふりをしていたら、運良くオーバーチャージは請求されなかった。
出国ロビーに行くと、偶然にもWECの貫田宗男さんと冒険家の三浦雄一郎さんに出会った。 貫田さんや三浦さんとはたまに意外な所で再会する。 さっそく貫田さんと雑談を交わすと、来年予定している三浦さんの80歳のエベレスト登頂プロジェクトに向けての高所トレーニングのため、ロブチェ・イースト(6119m)を登りに行ったとのことだった。 貫田さんは最近テレビで話題になっているイモトの登頂プロジェクトの企画制作も請負っている(出演もしている)ので、色々な撮影の裏話などを伺えて面白かった。
今回のヒムルン・ヒマール(7126m)の登山は、自らその頂に憧れ、目標とし、計画した山ではなかったが、結果的に天候に恵まれ、無酸素で7000mをオーバーし、登頂することが出来た。 登った時の年齢や経験にも左右されるため一概には言えないが、過去に登った二つの7000mに迫る山のアコンカグア(6959m)とオホス・デル・サラド(6893m)は、いずれも山頂直下での登りが苦しく、ヒムルン・ヒマールでも同様の状況になることを危惧していた。 今回は順応があまり上手くいかず、体調も決して万全ではなかったこともあるが、予想以上に山頂直下での登りが苦しかった。 先天的に高所に強い人と弱い人がいることが経験上分かってきたが、私は残念ながらやや弱い人の部類に入ることが、今回のヒムルン・ヒマールで証明された。 高所に強くなるようなトレーニング方法はないので、後はいかに高所へ行く機会を増やし、その経験値を積み上げていくしかないだろう。 そういう意味でも今回7000mオーバーのヒムルン・ヒマールに行けて良かった。 また、エベレストを何度も経験している現地のスタッフでさえ誰も登ったことがなかった寂峰に登れたことも、今振り返ると本当に良かったと思う。 一方、参加したメンバーに知り合いが多く、滞在期間中は楽しく過ごすことが出来たが、一番元気だった藤田さんと割石さんが相次いで手の指に凍傷を負ってしまい、最後までご一緒出来なかったことが本当に残念だった。
今回は昨年に続いて二度目のネパールでの登山だったが、昨年のマナスル(8163m)ではヘリでB.C手前のサマ村(3530m)まで飛んでしまったので、B.Cへアプローチするネパールでの一般的なトレッキングルートの様子や途中の村々の雰囲気が全く分からなかったが、今回はカトマンドゥよりも標高の低いジャガット(1300m)から歩き始めたので、それらのことも良く分かるようになり、ようやくネパールの山を登ったという実感が湧いた。 ヒムルン・ヒマールは登山口から山頂までの単純標高差が6000m近くあり、これはエベレストとほぼ同じだ。 また、マナスルは酸素を使ったことでアタック日の苦しさは皆無だったのに対し、ヒムルン・ヒマールでは、山登りを始めて以来一番の苦しさと長時間行動(約20時間)を経験したことにより、図らずもマナスル以上に記憶に残るサミットとなった。 B.Cの手前にあったプー村(プーガオン)というチベット民族が暮らす秘境の村を訪れることが出来たことも大変想い出に残った。