マッターホルン(4478m)

   8月23日、am8:00起床。 最近は老化現象で筋肉痛が翌々日に出るため、今日は体が少しだるいだけだ。 嬉しいことに心配していた左膝の痛みは不思議と無かった。 今日は明日マッターホルン(4478m)にアタックするため、先日下見に行ったB.Cのヘルンリヒュッテ(3260m)に再び行く予定だ。 出発は午後からでも良いので、午前中はホテルでゆっくり休養することにして、久々に朝食のバイキングを優雅に堪能した。 妻は私のことが心配で明日ヘルンリヒュッテまで迎えに来たいというので、落ち合う時間の打合せを行なう。 明朝の出発はam4:30頃だろうから、運良く登れたとして山頂まで登りが5時間、下りが4時間とみて、ヒュッテに戻るのはpm1:30頃になるので、その頃にヒュッテに来てもらうことにした。 手袋からアイゼンまで装備を何度も点検した後、昨日のドム登山の経験を生かし、ヒュッテのサービスを期待せず不測の事態に備えて、食料、水、お湯等を充分にザックに入れた。

   正午過ぎに妻に見送られてホテルを出発。 妻は私を見送った後、ゴルナーグラートの展望台に散策に向かうようだ。 これが最後の別れになる可能性もあるので、入念に別れの挨拶?を交わした。 乗り慣れたゴンドラを乗り継ぎ、シュヴァルツゼーへpm1:00に到着。 昨日登ったばかりのドムの頂が遙か高く望まれ、よくもまああそこまで登れたものだと我ながらあらためて感心した。 ここからヘルンリヒュッテまでは標高差約700m、コースタイムは2時間だ。 一週間前に登ったばかりなので、ルートは手に取るように分かる。 しかし今日は左膝を労り、さらに疲れをこれ以上増やさないように、ヒュッテまでの目標時間を3時間とする牛歩を決め込んだ。 後から登ってくるハイカーや登山者の全てに「プリーズ、プリーズ」と道を譲りながら、一歩一歩足を優しく踏み出す。 しかし呼吸だけは全開だ。 酸素を取り入れ、疲れないようにするだけではなく、更に溜まっている疲れも取らなければならないのだ。 こんな発想の登り方は生まれて初めてだ。 追い越していく人達からは、“この人はよほど山登りが苦手なのだろう”と思われたに違いない。 まあ確かにそのとおりかもしれないが。

   途中足取りも軽く下ってくる日本人の登山者とすれ違った。 時間的にみて今日マッターホルンに登った人に違いない。 山下さんというその方にルートの状況を尋ねると、ルート上の雪はまばらで、全く心配は要らないという。 またマッターホルンを登る前に、ツィナールロートホルン(4221m)を登ったというベテランの山下さんは、僅か3時間45分で山頂まで登ったとのことだった。 また、他に何人かの日本人のパーティーを見かけたが、相当苦戦しているように感じたとのことだった。 増井氏らのことだろうか?。 「おめでとうございました!」と祝福して、山下さんを見送った。

   再びヒュッテに向け、ゆっくりと登り始めた。 昨日ほどではないが、今日もほぼ快晴の天気だ。 しばらくすると、トレイルを疾風のように駆け降りてくる強者がいた。 他ならぬスーザン氏だった。 「ハロー!」と声を掛けると氏もすぐに気が付き、ニッコリと手を振って応えてくれたが、よほど急いでいるようでそのまま走りながら下っていった。 明日は何処の山に行くのだろうか?。 結局その後は日本人の登山者とは出会わず、予定どおりpm4:00前に昨年から数えて3度目のヘルンリヒュッテに着いた。 天気が良いことも手伝って、ヒュッテのテラスは大盛況だった。 しかし私の目にすぐ飛び込んできたのは、増井氏や太田さん夫妻の姿ではなく、リッフェルホルンの岩登り講習会のガイドだったヴォルフカンク氏だった。 氏は周囲の山男達と歓談していたが、私が挨拶をすると覚えていてくれたようで、思いがけない再会となった。 明日マッターホルンにアタックする旨を伝えたところ、氏も明日はガイドで登るという返事が返ってきたが、まだ誰をガイドするのか分からないという。 テラスには増井氏らの姿はなかったので、ヒュッテの中に入ると、今度はダニエル氏の姿が目に止まった。 相変わらずニコニコしながら、「オー・ヨシ!(善樹)」と迎えてくれた。 氏も明日マッターホルンをガイドするという。 先程相棒の妻と別れて少し寂しかったが、孤独感もどこかに吹っ飛んでしまった。

   ヒュッテで宿泊の手続きをする。 ガイドと私の二人分の宿代は144フラン(邦貨で約12,000円)だった。 受付の女性からガイドとのミーティングをpm6:30から食堂で行なう旨の説明があった。 食堂には日本人の登山者が数名見受けられたので、情報収集にと話に加わらせてもらうと、昨日ガイドレスで登ったパーティーの一部の人達が、昨日のうちに下山出来ず、途中のソルベイヒュッテ(避難小屋/一般の宿泊は不可、遭難者と北壁登攀者のみ使用出来る)でビバークを余儀なくされ、まだ帰ってこないので一同皆で心配しているとのことだった。 先程の山下さんの話はこの一件かもしれない。 幸いにも、間もなくそのパーティーは疲労困憊しながらも無事下山してきた。 そして相次いで増井氏も慌ただしくヒュッテに入ってきた。 氏の話では、太田さん夫妻は無事登頂されたとのことだったが、最終のゴンドラに間に合うように、すでに先行して下っていったとのこと。 「お疲れ様でした!」と一言だけ労い、急ぐ氏を見送った。 それにしても地元の優秀なガイドですら1対2のガイドをしないのに、二人を連れて登頂された増井氏の技術、体力、精神力には本当に頭が下がる。 その後、私に続いて関さんという若い人がシュヴァルツゼーから登ってきた。 明日は私と同様にガイド付き登山だが、ガイドはアルパインセンターで依頼した人ではなく、知り合いのプライベートガイドだという。 どうやら明日マッターホルンにアタックする日本人は私達二人だけのようで、お互いの登頂の成功を祈念し合った。

   ようやく一段落したので、指定された部屋に行って荷物を整理してから明日に備えて1時間程昼寝をした。 とにかく少しでも休むことだ。 筋肉疲労で足が熱くなっているのが良く分かる。 ヒュッテには個室もあるという話だったが、寝室は普通の雑魚寝式の二段ベッドの相部屋だった。 pm6:00過ぎにベッドから起きて食堂に下りていくと、すでに食堂のテーブルは宿泊客で溢れ返っていた。 間もなく食堂の一角で予定どおりガイドとのミーティングが始まり、登山客とガイドが二つのテーブルに分かれて座った。 雪で登れなかった日が続いたことによるしわ寄せか、各々20人程の大人数だ。 若い女性も一人いたが、予想どおり日本人は私一人だった。 隣に座ったのは、偶然にも岩登り講習会の集合場所で最初に声を掛けてきたイギリス人の青年だった。 早速ガイドのチーフと思われる人が挨拶と何やら説明をした後、メモを片手に登山客の名前とそれに付くガイドの名前を次々と読み上げた。 客とガイドはその場でお互いを確認し合い、立ち上がって挨拶を交わしていく。 一人目、二人目、三人目・・・「サカイ」と呼ばれる。 「イエス」と手を挙げて答えると、何と次に呼ばれたガイドはヴォルフカンク氏だった。 何という偶然だろうか!。 それとも何か裏があったのだろうか?。 驚きが先行し英語での言い方が思い浮かばなかったので、「よろしくお願いします!」と3日前とは別人のように日本語で力強く挨拶をした。 にわかに私の心は軽くなった。

   ミーティングはガイドとの“お見合い”だけで終了し、そのままの席で夕食に移行した。 隣のイギリス人青年はベジタリアンということで、メインディシュのステーキの代わりに用意された草鞋のような大きなチーズを食べていた。 彼は写真家ということで、日本にも何度か来たことがあるらしく、富士山や日本のアルプスには登ったことはないが、麓から眺めたことはあるという。 夕食はpm8:00過ぎに終わり、ガイドのいるテーブルに赴いて、あらためてヴォルフカンク氏と固い握手を交わした。 氏が装備の点検をしたいということで部屋に行き、靴やアイゼン等の点検を受けた。 アルパインセンターで言われたとおり、ピッケルは不要だという。 どうやらガイドが装備の点検をすることは、ツェルマットでは当たり前のことのようだった。 点検が終わると明日の打ち合せに入った。 意外にもドム登山の時と同様に、氏から「明朝は暖かいので、出発時にはジャケット等の暖かい衣類は着用しないように」という指示と、「朝食はam4:30から始まり、am4:45に出発します」という指示があった。 要するにam4:45には必ず出発出来るように、am4:30までに身支度を整えた後、15分間で食事を済ませるようにということだ。 この辺りの微妙な言葉の意味が分からず、英語が堪能な関さんを呼んで通訳をお願いした。


シュヴァルツゼー付近から見たマッターホルン


シュヴァルツゼー付近から見たドム(中央)とツェルマットの町


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たオーバーガーベルホルン


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たダン・ブランシュ


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たマッターホルン


   pm9:00頃にベッドに横になった。 先程少し休んだので眠くはないが、とにかく体を休めることを心掛ける。 最初の1〜2時間は熟睡できたが、その後は寒くて何度も目が覚めた。 どうもお腹が少しゆるいようだ。 一つしかない男女兼用のトイレに行くと必ず誰かが入っていて、入口で待たされた。 夜中に気がつくと、何と部屋の窓が全部開いていた(欧州人は暑がりなので、山小屋の窓を開けて寝る習性があることが後で分かった)。 お腹は相変わらずゆるく、am3:00頃に再び目が覚めた。 すでに出発したパーティーの声が外でする。 再びトイレに行ってからしばらくベッドで横になり、am4:00前に起床して暗い廊下で持参したアルファー米の赤飯を食べ、念のため正露丸を飲んだ。 しばらくすると暗闇の中、皆も起きだしてゴソゴソと準備をしはじめた。

   am4:30にヒュッテの照明が一斉に灯り、食堂に下りていくと既にテーブルの上にはパンや飲み物等が用意され、沢山の山男達が食事を始めたところだった。 私はそれらには全く口をつけず、決められたam4:45の5分前にはハーネスを着け、ヘルメットを被り、ヒュッテの入口付近で待機していた。 すぐにヴォルフカンク氏がやって来た。 「グッ・モーニング、オッキー?」。 「グッ・モーニング、イエス」。 氏と出発の確認をした後、ヒュッテの入口でザイルを結び、am4:45ちょうどに出発した。 全て決められたとおりだった。 唯一私が犯した過ちは、氏の忠告に反してフリースのセーターを着たことだった。 お腹にだけは自信が持てなかったからだ。

   外はまだ真っ暗闇だ。 私達に前後してガイドパーティーがam4:45出発のルールに従って次々とヒュッテを出ていく。 既に上方では先行しているガイドレスのパーティーのヘッドランプの灯がいくつか揺れている。 筋肉疲労と寝不足で体調はあまり良くないが、私の耳にはまさに今こうして私とアンザイレンしているヴォルフカンク氏が4日前に言った、「ノー・プロブレム、エイト・アワー」の一言が鮮明に残っていた。 さ〜て、予定どおり今日は楽しむぞ!。 山頂でガッツポーズを決める姿を想像しながら、いよいよ夢に向けての第一歩を踏み出した。

   ところがヒュッテを出たとたん、思いがけない“レース”が始まった。 ヒュッテの裏手を20m程登った先に、垂直の岩壁に固定ロープが下がっているヘルンリ稜の取り付きがあるが、ヴォルフカンク氏はいきなり脱兎のごとく早足で私を引っ張り始めた。 確か取り付きまでは明瞭なトレイルがついていたはずだが、何故かガイド達は皆違う所を登っているようだった。 結局取り付きで私達は20人中唯一の女性客の後につくことになった。 私は内心ホッとした。 これで少しはゆっくり登れそうだからだ。 先程のようなハイペースで登っていったら、最後にバテてしまうだろう。

   取り付きからはヘッドランプの灯だけなので良く分からなかったが、確保されるようなことはない軽快な岩登りが続いた。 ガイドブック等に記されているように、一応ルートは決まっているようだ。 途中何か所か溶けた雪が凍っている所もあったが、ヴォルフカンク氏がその都度「アイス!」と注意するだけで、何事もなく登り続けた。 氏が言ったとおり風もなく暖かい。 ペースも先行する女性パーティーのお蔭でちょうど良い。 しかし取り付きから15分程登った時、突然氏はルートを外れた。 何と先行する女性パーティーを追い越しにかかったのだ。 雪山ではトレイルを外して追い越す(追い越される)ことは他の山で経験したが、まさかこの岩山でしかも暗闇の中それを実行するとは思わなかった。 前のパーティーより急な岩場を攀じ登って追い越しをかけるが、不思議と岩は脆くなかった。 氏は強引に追い越しをかけた訳ではなく、ちゃんと“プライベート・ルート”を持っているかのようだった。 ここまで楽をしたのだから仕方がないと思ったのは甘かった。 女性パーティーを追い越したのも束の間、今度は前を行く三人のガイドレスのパーティーを追い越し、更にその後もう一組のガイドパーティーを追い越した。 私は気が気ではなかった。 体は今のところ何とかついていけるが、急峻な岩場をスピーディーに登るため、痛めている(痛くはなかったが)左膝をかばうために、使ってはいけない腕の力を使わざるを得ないのだ。

   そんなレースのような登り方を30分程続けたため、体から汗が吹き出してきた。 ヘルメットを被っている額から汗がしたたり落ち、目にしみてくる。 日本の夏山でもこんなことは経験がない。 「ジャスト・ア・モーメント!」と喉から手が出るほど言いたかったが、せっかく追い越したのにすぐに追い越されてはヴォルフカンク氏にも後続パーティーにも悪いし、忠告を守らなかった私に非があるため、しばらく後続パーティーを引き離してから氏に声を掛けた。 氏も何となく気付いていたようで、私がフリースのセーターを脱いでいる間に私のザックを開け、私がヘルメットを被り直している間にセーターをザックの中に入れてくれた。 その間おそらく30秒程の早業だった。 二人の息も合ってきたようだ。 「ソーリー、ソーリー」と丁重に謝り、再び暗闇の中を登り始めた。 その後、ルートを外し正しいルートに戻ろうと横からトラバースしてきたガイドレスのパーティーを戻りかける直前に猛チャージでかわし、更にその前にいたもう一組のガイドレスのパーティーに道を譲られた後、まるで“ポールポジション”を取ったかのように氏は意識的にスピードを緩めた。 全く予想していなかった先陣争いだった。

   am6:00前、夜が明けてきた。 ゴルナー氷河の向こうが茜色に染まり始めている。 一昨日のドム登山の時に見た、ヴァイスホルンを背景にしたあの幻想的な夜明けのシーンが、更に広大なスケールで展開していく。 今日も快晴の天気に間違いない。 快適な岩登りが続く。 ましてや初めてのマンツーマンガイド、しかもタイトロープのため、私はまるで荷物のようにどんどん上へ上へと引っ張られていく。 ヒュッテから1時間以上も休まずに岩場を登っているので、かなりの標高差を稼いだに違いない。 このままいけば本当に夢は叶うかもしれない。 しかしいつまた氏の“ターボチャージャー”が回りだすか分からないので、常に100%の腹式呼吸を心掛けた。 間もなく頭上の岩肌が黄金色に染まってきた。 いよいよ待望の朝陽が昇ってくる。 しかしながら不思議と後ろを振り返り、日の出の瞬間を見たいとか、写真を撮りたいという願望は全く湧いてこなかった。 とにかく頂に立つことだけを目指し、生まれて初めて“山登り”に集中していた。 いや、集中せざるを得なかったのかもしれない。

   am6:50、ヘルンリヒュッテを出発してから2時間5分で、無事第一関門のソルベイヒュッテ(4003m)に着いた。 岩棚にへばりつくように建てられたヒュッテは、物置のような小さな避難小屋だった。 8時間のコースタイムで登るためには、ここまでが2時間で、上りの中間点になるとガイドブックには記されている。 更にガイドブックによると、ここまで3時間以上かかった場合には、ここで引き返すことになっているらしく、もしここで休憩するようなことがあれば、それは下山を意味するとも記されていた。 コースタイムより5分程遅れたが“合格”したようで、ヒュッテの前の狭いテラスを休まずに通過した。 私はここまで2時間30分はかかると予想していたので少し気持ちが軽くなり、また絶好の天気も手伝って登頂への手応えを充分に感じたが、いつもとは別人のように謙虚で、決して気持ちを緩めることはなかった。

   ソルベイヒュッテからは傾斜が一段と急になり、ルート上の要所要所に“豚のしっぽ”のような確保用の鉄の杭が出現した。 ザイルを伸ばし、ヴォルフカンク氏が10m程登ったところで私が足元の杭に絡めたザイルをはずし、上から確保されながら急な岩場を攀じっていく。 鉄の杭は正しいルート上にしかないため、先程のような追い越しにはかなりの困難が予想される。 ここに遅く到着すればするほど、待ち時間が多くなるだけではなく、落石(落人?)等の危険な要素も生まれてくる。 ポールポジションの必要性はここにあったのだ。 ヒュッテを通過してから15分、何度か確保されながら急な岩場を攀じった後に突然休憩となった。 後続パーティーとの間隔が開いたからのようだ。 朝食をあまり食べてなかったので、行動食をどんどん食べ、更にあらゆるポケットにねじ込んだ。 3分程ですぐに出発となり、間もなく“肩の雪田”に辿り着いた。 ツェルマットからマッターホルンを仰ぎ見た時に、中央の稜線(ヘルンリ稜)が山頂の下で“く”の字の逆に左に折れ曲がっている所だ。

   ヴォルフカンク氏からアイゼンを着けるように指示されたが、斜面が急でなかなか思うようにいかず、5分以上もかかってしまった。 雪は締まっていて先行者のトレイルもあるため登りやすかったが、ピッケルがないので下りは少し怖いかもしれない。 雪の斜面はすぐに終わり、今度は痩せ尾根の急な登りとなった。 ルートは基本的に稜線の左側(東面)にとられているが、時たま右側(北面)を巻くこともある。 北面(北壁)には風が少し吹いていて、陽も当たらず寒かった。 そして間もなく最も困難だといわれる、8本の懸垂固定ロープを使う岩場に着いた。

   先行するパーティーが一組いたため、初めてここで順番待ちとなった。 上を見上げると、岩壁の角度は驚くほどではないが、前のパーティーは手掛かりを見つけるのに苦労しているようだった。 また固定ロープは、ガイドブックに記されていたとおり直径が4〜5cmもあり、指の短い私には掴みにくかった。 しかし思ったよりロープは滑り易くはなく、薄手のアクリルの手袋のままで登ることにした。 ヴォルフカンク氏が「登り方をよく見ていなさい!」と指示をして、思ったより強引に登っていった。 しかし私は最初の1本目をロープを片手に、腕の力をあまり使わずに登ったため、氏から「もっとロープを使って登りなさい!」との指示が飛んだ。 言われたとおり2本目からはロープを両手で掴みながら勢い良く登ったが、速くは登れるものの体力(腕力)の消耗は顕著に現れ、4本目位ですでに腕がパンパンになってしまった。 幸いにもその後は手掛かりも多くなり事なきを得た。 無我夢中で8本目の懸垂固定ロープを登りきると、休む間もなく再び雪の斜面の登りにかかった。

   しかし私のペースは明らかに落ち、ヴォルフカンク氏はそれを感じてか5分程登った所で2回目の休憩となった。 すかさず水を飲み、ポケットの行動食を食べる。 だが何故か氏は出発してからまだ何も飲み食いしていない。 マッターホルン程度は朝の散歩位に思っているのだろうか?。 すると突然氏は笑みを浮かべながら私に語りかけた。 「サカイさん、あそこに見えているのが頂上で、あと20分位で着きますよ」。 サケーイはサカイに変わっていた。 氏の指さす方向には、抜けるような青空と次第に痩せていく純白の雪の壁しか見えていない。 どうやらもう岩場はなく、この雪の斜面を真っ直ぐに登り詰めた所が山頂のようだ。 「イエス、イエス」と相槌を打ち、目だけが登頂を確信したが、ここでも決して気持ちを緩めることはなかった。

   ヴォルフカンク氏に励まされ、最後の登りにかかる。 時計を見ると何とまだam8:00を少し過ぎたところだった。 もう何の心配もなく山頂まで行けると思われたが、氏は一向にペースを落とそうとはしない。 まるでラストスパートを楽しむかのように、グイグイと私を引っ張っていく。 私も無我夢中でついていくが、顔は上がらず全く余裕がない。 トレイルから少し離れた所に、銅像のようなものが立っていた。 私にはそれが丸い顔をしたマリア様のように見えたが、はたしてただの岩が光っていたのだろうか?。 氏に尋ねることもなく登りに集中した。 足は思うように上がらないが、今は登ることが楽しくて楽しくて仕方がない。 あとほんの僅かの辛抱で夢が叶うのだから・・・。

   am8:25、ついにその時はやって来た。 ヴォルフカンク氏は歩みを止め、後ろを振り返ると何も言わず満面の笑顔で私に手を差しのべてきた。 麓から見上げたとおりの狭く尖った山頂は、意外にも岩ではなく固い雪に覆われていた。 これ以上何も望むことがない快晴無風の天気の中、夢にまで見た憧れのマッターホルンの頂に辿り着いたのだ!。 ヘルンリヒュッテを出発してから、僅か3時間40分の登攀だった。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!、ユー・アー・グッド・ガイド!、マッターホルン・イズ・マイ・ドリーム!」と興奮しながら氏と握手を交わすと、こらえきれずに拳をふり上げ、雪崩が起きる程の大きな声で「やったぜー!!」と青空に向かって一声叫んだ。 これには氏も驚いたに違いない。 少し下った50m程先に人影がかたまって見えた。 あそこがイタリア側のピークだろう。 ピークにあるはずの十字架は人影で見えなかった。 登る前、山頂に着いてから余裕があったらイタリア側のピークにも行き、キリスト様を拝んでこようと考えていたが、感動しすぎて忘れてしまった。 しばらく山頂で登頂の余韻に浸りたかったが、氏は「後続パーティーに山頂を譲らなければならないので、写真を撮ってから少し下った所で休憩しましょう」と言った。 氏に記念写真を撮ってもらい、僅か5分程で感激の山頂を辞した。

   続いて到着したパーティーに「コングラチュレーション!」と声をかけ、山頂直下の雪のはげた岩の狭いテラスで休憩した。 既に何人かの先客がいたが、皆が次々に「コングラチュレーション!」と祝福の握手を求めにきてくれた。 ヴォルフカンク氏はザックから携帯電話を取り出し、何処かに連絡をしている。 電話が終わると、氏はペットボトルのコーラを一気に飲み干した。 私は仁王立ちしてあらためて憧れの山からの展望を楽しみ、ここに辿り着くまでのさまざまな道のりを振り返りながら一人感激に浸っていた。 山が急峻であるため、今までに経験したことがない高度感が実に爽快だったが、意外にも周囲に山々が接していない独立峰なので、景色はあまりパッとしなかった。 こんな贅沢な悩みも初めてだ。 足下のツェルマットの町は豆粒のように小さく見えるが、なぜか50kmも離れたモン・ブランがかなり近くに見える。 パノラマの写真を撮り、足元の小石を三つポケットにねじ込んだ。 未だにここにいることが信じられないという気持ちと、良い天気と良いガイド、そして良い体調?の三拍子が揃えば、素人でも楽しく登れるんだという自分の考えが正しかったという気持ちとが交錯して、全く興奮が覚めやらない。 山登りを始めてから10年余、数知れぬ程の思い出があるが、これほど自分自身に感動したことは記憶にない。 また一年間思い焦がれていた憧れの山の頂に、この天気であれば世界中に登れない山がないのではと思えるほどの最高の条件の下、たった一回のアタックで登れたことは本当にラッキーだった。


マッターホルンの山頂


山頂から見たイタリア側の景色


山頂から見たダン・ブランシュ


山頂から見たヴァイスホルン


山頂から見たドム(中央)とミシャベルの山々


山頂から見たモンテ・ローザ(左奥)


   am8:45、空はますます青みを増し、まだ下山するには早すぎる時間だが、ヴォルフカンク氏に促され、感動と興奮が覚めないまま憧れの山の頂に別れを告げることとなった。 しかし今までの山とは違い、これからが本番だ。 初登頂に成功したエドワード・ウインパーらの7人のパーティー中の4人の悲劇を最初に、過去に数百人もこの下りで命を落としているからだ。 “ヘルンリヒュッテに無事到着して初めて登頂したことになる”と気を引き締める。 先程より少し柔らかくなった雪の斜面を、私が先頭になり忠実にトレイルを拾って下る。 後ろから確保されているため、思ったほど怖くはなかったが、ピッケルがないためアイゼンの爪を一歩一歩雪に打ち込む感じで確実に下った。 しばらく下ると、「右足と左足の間隔をもっと開けなさい!」と後ろの氏から声が飛んだ。 再び足元だけに集中して下ったため、関さんの姿と先程の銅像?は確認することが出来なかった。

   間もなく先程の懸垂固定ロープのある所に着いた。 一組のパーティーが前で下りの順番待ちをしていた。 下を覗くと、さながら盛夏の日本の山の稜線の鎖場のように、登りのパーティーが数珠つなぎになっている。 少し風が出てきたので、待たされている間に素早くジャケットを着込む。 ヴォルフカンク氏は前のパーティーのガイドが下り始めたとたん、足元の杭に素早くザイルを絡めた。 見ると今度は登ってくるパーティーのトップの人が、固定ロープを掴みながら足元に顔を出した。 氏はその人がまだ完全に登り切らないうちに、そして僅か2〜3秒の時間も惜しむかのように、そのすぐ横から私に懸垂下降をするように指示した。 日本の山では“登り優先”という暗黙のルールがあるが、“スピード=安全”の哲学か、登山のルールが違うのか、それとも民族的な思想の違いかは分からないが、ここでは“早いもの勝ち”だった。 氏に言われるままに下降を始めると、登りのパーティーのセカンドの人がすぐ脇の固定ロープ掴みながら、必死の形相で登ってくる。 その人の体をかすめるように、制動もままならないアイゼンを着けた素人の私が飛び下りているのだ。 危ない!。 下っている私の方が腰が引けてしまう。 もし私がバランスを崩したらぶつかる可能性もあるし、登ってくる人をかわしても、着地点付近では次の登りのパーティーが順番待ちをしている。 “左膝の秘密”は氏には伝えていない。 思わず飛ぶ方向をルートから少しでもそれるように軌道修正したところ、上から氏が大きな声で「そっちに行っては駄目だ、真下に下りなさい!」と叫ぶ。 仕方なく再び人がいる所を目指して飛び下りた。 登りのパーティーはそんな状況を考える余裕もなく、特にガイドレス隊はトップがセカンド以下の人達に怒鳴るように指示を与えている。 ザイルを杭に絡め、下で氏を待っていると、他のパーティーのザイルがムチのように体に当たってくる。 一週間前に観光案内所で藤山さんが、“さながら戦争のような状況だった”と言っていた意味が良く理解できた。 私はもう登頂して気持ちに余裕があるが、登っている人達にとってはあまり良い気持ちではないはずだ。 “スピード=安全”とは“スピード=自分の安全”を意味しているようにすら思え、あらためて氏がポールポジションにこだわった理由に納得した。 登る人がいなければ、固定ロープを使って下りるのだろうが、結局固定ロープには一回も触れることなく全て懸垂下降で下りることとなった。

   “戦場”を過ぎると登りのパーティーもまばらになり、気楽になったが油断は禁物だ。 一歩一歩に再び「集中!、集中!」と自分に言い聞かせながら下る。 肩の雪田を下りきった所でアイゼンを外し、少し下った先で休憩となった。 戦場の通過は大変だったが、懸垂下降を多用したため、時間はさほどかからなかった。 体が欧州人に比べて小さい私は懸垂下降で下ろした方が楽なのだろうか、ヴォルフカンク氏はソルベイヒュッテまでのさほど傾斜のきつくない所も、さながら荷物のように懸垂下降で私を下ろした。 

   am10:25、ソルベイヒュッテの前の狭いテラスを通過した。 先程とは違い、北壁の登攀者なのか、それとも登ることを諦めたパーティーか分からないが、ヒュッテの周囲には何人かの山男達が寛いでいた。 登りの状況から考えて、もう特に危険な所は無いはずだ。 しかしヴォルフカンク氏は全く休もうとはせず淡々と下っていく。 その後私が用足しのための休憩をリクエストして、ようやく2回目の休憩となった。 先ほどまで足元だけに集中していたので気が付かなかったが、下を見渡すとかなり遠くではあるが、ヘルンリヒュッテの屋根がはっきり見えた。 一瞬緊張感が緩んだその時、不意に目の周りの筋肉が緩み、目から涙が溢れ出てきた。 こんな事が今までの人生の中であっただろうか。 登る前から下る方が大変だと自分に言い聞かせていたため、山頂ではまだ緊張感があったのだろう。 ゴールが見えたことにより、無意識に緊張感から解放されたのだった。

   再び“こういう時が一番危ないのだ、ヘルンリヒュッテに無事到着して初めて登頂したことになる”と暗示をかけ、最後の下りにかかった。 登りは暗闇の中だったので、こんな所を登っていたのかと、あらためてルート上の岩の感触を確かめ、思い出に浸りながら下った。 しかしルートは4日前にアヘイムさんが言っていたように特に難しい所はなく、むしろ一度切れた緊張感を取り戻す方が難しかった。 少し楽な下りが続くと、二度三度とまた涙が溢れ出てくる。 “本当に私は単純だな〜”とつくづく思った。


ヘルンリヒュッテへの下りから見た山頂方面


ソルベイヒュッテからヘルンリヒュッテへ下る


   am11:50、山頂から約3時間で無事取り付きに着いた。 これで本当に夢は現実となったのだ!。 20m程の雪渓を渡り切った所で、ヴォルフカンク氏は私を早く解放させたかったのか、目と鼻の先にあるヒュッテへの到着を待たずに、ニコニコしながらザイルを解き始めた。 天気が良いため、今日もヒュッテの周辺やテラスは大勢の登山客やハイカー達で賑わっている。 私達の前後には他のパーティーが全くいなかったので、皆の視線が私達に向けられているような“錯覚”を感じて何かとても誇らしい気分になった。 しかしザイルが解かれたとたん本当に気が抜け、足が急にふらふらとしてきた。 一刻も早く妻に登頂報告をしたかったが、どうやら妻はまだヒュッテに到着していないようだった。 ヒュッテに着き、あらためて氏に感謝の気持ちを伝えた。 私が今日憧れのマッターホルンに登り、今ここに無事立っていられるのも氏のお蔭に他ならなかったからだ。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、本当にありがとうございました!。 お蔭様で登れました!。 ユー・アー・グッド・ティーチャー!、ソーリー、アイ・アム・バッド・スチューデント(先生の言うことを聞かない悪い生徒でした)」。 いつものように拙い英語だが、力強くそして気持ちを込めて体全身で表現した。 すると氏からは意外な言葉が返ってきた。 「サカイさん、そんなことは全くありませんよ。 貴方は素晴らしかった。 貴方の時計を見てごらんなさい。 出発してからまだ7時間すらたっていないのですから!」。 時計を見るとam11:55だった。 出発したのがam4:45だから、すでに7時間10分が経過している。 だが山頂で20分程休憩をしているから、差し引きするとまさに氏が言ったとおりだった。 すかさず、「それは貴方が優れたガイドだったから!」と切り返した直後、ハッと気が付いた。 もしかすると氏も、4日前に私に言った「貴方なら8時間で登れますよ」という“社交辞令”を覚えていたのではないだろうか?。 遠方からやって来た珍客の期待を裏切らないよう演出された氏の責任感の強さに、あらためて敬意を表さずにはいられなかった。

   テラスにいた人に頼んで、ヴォルフカンク氏と並んで憧れの(現実となった!)マッターホルンを背景に写真を撮ってもらい、ヒュッテの中に入った。 テラスの盛況ぶりとは反対に、ヒュッテの食堂はガランとしていた。 何とダニエル氏がいた。 「コングラチュレーション!」。 「サンキュー・ベリー・マッチ!」。 氏と握手を交わし、近くにいた氏のお客さんとも登頂の握手を交わした。 氏は今日一番の到着は自分の客だが、二番目は私だと言って褒めてくれた。 氏に一杯差し上げようと、お酒の注文を聞いたところ、なぜかソフトドリンクで良いという。 明日の仕事に差し支えるからだろうか?。 二人仲良く炭酸飲料で乾杯した後、ガイド料の730フラン(邦貨で約56,000円)を支払い、50フランのチップを手渡した。 相変わらずの拙い英語で氏の登山経歴を尋ねてみると、アルプスの山々が中心で、ヒマラヤ周辺の高峰にはまだ登ったことがないという。 また以前から岩登りに特別の興味があり、今はヨセミテを中心に活躍されているとのことだった。 またマッターホルンのガイドは意外にも今日でまだ40回位であるという事と、今日使用したザイルは9mm/30mであることを教えてもらった。

   雑談を続けていると、突然ヘリコプターのけたたましい爆音が聞こえてきた。 先月は日本人が二人死亡し、今月も地元のガイドが一人亡くなったという話を聞いていたので、“遭難だ!”と直観的に思い急いで外に飛び出した。 テラスにいた人々も何事かとヘリの行方を見守っている。 ヘリはヒュッテの裏のヘリポートに一旦着地した後、乗ってきたレスキュー隊員1名を20m程のワイヤーで宙吊りにしたかと思うと、とてもヘリとは思えない猛スピードで山に向かって再び飛び立っていった。 まるで何かのショーを見ているような光景だった。 多分、ツェルマットから私を迎えに来てくれる妻も、私が遭難したのではないかと心配しているに違いない。 早くこの晴れがましいサミッターの顔を見せて安心させたい。 間もなくもう一台のヘリが飛んできた。 また遭難かと思い息を呑んだ。 しかし乗ってきたのは医者と報道関係者だった。 救助に向かったヘリは、20分程で遭難者を運んでヘリポートに戻ってきた。 点滴を受けながら治療を受けているところを見ると、どうやら一命は取り留めたようだ。 その様子をカメラマンが撮影している。 ヘリの周りは野次馬客で鈴なりとなり、皆固唾を呑んで見守っている。 応急処置をして、ヘリは再び遭難者を運んで飛び立って行った。 救助には天気の良さが幸いしたが、遭難の原因はあの“戦争”ではないかと思わずにはいられなかった。


ヘルンリヒュッテのテラスでヴォルフカンク氏と


遭難者の救助に向かうヘリコプター


   間もなく関さんも無事登頂を果たし、晴れがましい顔でヒュッテに帰ってきた。 「お疲れさまでした!、おめでとうございました!」とお互いの登頂を讃え合い握手を交わした。 ガイドさんとも気が合うらしく、本当に羨ましい限りだ。 pm2:00前、ヴォルフカンク氏が下山の準備を始めた時、ようやく妻がヒュッテに到着した。 自分だけ楽しませてもらったので、「お迎えご苦労様、無事登れたよ!」と一言控え目な登頂報告をした。 妻はやはり先程のヘリ事件を案じていたようだった。 別れ際に妻を氏に紹介した。 妻は周到にも内助の功を発揮し、日本からのお土産を氏に手渡していた。 明日のガイドで登る山を氏に尋ねると、意外にも明日はガイドの仕事はないという。 何か特別な用事でもあるのだろう。 最後に再び丁重にお礼を言い、決して社交辞令ではなく「スィー・ユー・アゲイン!」と再び固い握手を交わして氏を見送った。

   ヒュッテで遅い昼食をとりながら、妻に昨日から現在までの一連の出来事を、一つ一つ思い出しながら話し始めた。 中でも一番強調したのは、恩師であるヴォルフカンク氏との偶然の再会のことだった。 話の途中で明日アタックするという日本人のパーティーに山の状況等を聞かれたので、“戦争”の体験談や昨日の“ビバーク事件”を含め、雪やルートの状況等知ってる限りのアドバイスを行い激励した。 下山後にアルパインセンターで登頂証明書を10フランで買う予定でいたところ、ヒュッテにも用紙があるということで、関さんのガイド氏が無料で私の分まで代筆して書いてくれた。 そろそろゴンドラの最終時間が気になってきたので、妻とシュヴァルツゼーに向けて下ることにしたが、関さんはガイド氏とお酒を飲みながらもう少し余韻を楽しみたいとのことで、再会を約し連絡先の交換をして別れた。 午後になっても青空は続き、今回を含めて3回通ったシュヴァルツゼーまでのトレイルを、話の続きを妻にしながら一歩一歩噛みしめるように下った。 途中で何度も振り返り、思い出の山を眺めたが、また無意識に涙腺が緩んでくる。 本当に今までにない不思議な体験だった。

   pm5:00過ぎにホテルに着き、荷物を置いてすぐにお世話になった増井氏のホテルへ“登頂報告”に向かった。 生憎氏は不在だったが、留守番の奥様に居所を教えてもらい、メインストリートのレストランのテラスで知人と歓談していた氏に、「お蔭様で登ることが出来ました!」と一言だけお礼を言ったところ、氏も大変喜んでくれた。 天気とガイドに恵まれたことを強調したところ、このところのツェルマットの異常な暖かさには氏も驚いているという。 今晩もまた“市”が立つということを氏から教えてもらったので、「後でまた太田さん夫妻ともゆっくりお会いしましょう」と約束し、氏と別れてホテルに戻った。 屋台が出るまでにはまだ時間があったので、シャワーを浴びてからスーパーで買った韓国製の即席ラーメンを食べた後にベッドに横になったが、疲れと緊張感から解放されたことにより、不覚にも夜中までそのまま眠ってしまったため、楽しみにしていた増井氏や奥様、そして太田さん夫妻との再会の約束を果たすことが出来なかった。


   ヘルンリヒュッテから見たモンテ・ローザ・リスカム・ブライトホルン(左から)


ヘルンリヒュッテ直下から見たマッターホルン


シュヴァルツゼーへのトレイルから見たマッターホルン


山 日 記    ・    T O P