【エクアドル再訪】
エクアドルの国名はスペイン語で赤道を意味する。 面積は日本の約4分の3、人口は約1300万人で、南米の国の中では人口密度が一番高い。 標高4000m〜6000m級の山々を擁するアンデス山脈が国の中央を南北に走る一方、その東側は高温多湿の熱帯のジャングルとなっているため、赤道直下でありながら山々には一年を通して降雪があり氷河も発達している。
6年ぶりのエクアドルの山への再訪はマナスルのB.C滞在中にエクアドル人のガイドのハイメとの会話に端を発したものだった。 ハイメによれば同国の最高峰のチンボラソ(6310m)は年々氷河の状態が悪くなっている西稜ルート(ノーマルルート)に代わり、最近では北面からH.Cを5600m辺りの所に出して(テント泊)登られているとのことで、もし希望すればガイドを買って出るとのことだった。 6年前に未曾有の大雪のため同峰及び二番目に高いコトパクシ(5897m)への登頂が叶わなかった私にとっては願ってもないチャンスが訪れたとその時は思ったが、ネパールからの帰国後にその計画と手配を依頼したガイドの平岡さんから、ハイメの都合がつかなくなったことと、その新しいルートは実際には殆ど登られていないということが伝えられ、計画は暗礁に乗り上げた。 前回エクアドルの山にご一緒してから親しくなった山仲間の哉恵さんとは両峰へのリベンジを固く誓い合っていたので、哉恵さんにもこの計画を強く勧めていたが、登頂の可能性が一段と低くなった現状を冷静に受け止めて計画を見送るか否かを思い悩んだ。 しかしながら一度火がついてしまった山への情熱を冷ますことが出来ず、再度哉恵さんを強引に説き伏せてノーマルルートでの計画の実行を平岡さんに打診した。
当初は年始にチリの最高峰のオホス・デル・サラド(6893m)に登られるという平岡さん夫妻と哉恵さんそして私達夫妻の5人だけの山行にしようという話もあったが、結局手配や予算の都合上他のメンバー2人(OさんとIさん)を加えた公募ツアー形式による18日間の山行となった。 赤道直下にあるエクアドルの山はアマゾン側からの雲の発生により気象が安定しないため、日程にやや余裕を持たせ、国内に8座ある5000m峰のうちの一峰のカヤンベ(5790m)にも高所順応目的で登ることにした。 出発の3週間前の12月初旬には参加メンバーの親睦を図るために平岡さんが阿弥陀岳にメンバー全員を案内してくれ、その前後に哉恵さんと富士山を2回登り、訓練や装備の点検を行った。 尚、OさんとIさんはお友達同士で、Oさんは以前チンボラソの西峰(6267m)まで、Iさんも西峰の直下まで登られたことがあるとのことで、妻と平岡さんの奥さんの朋子さんを除く他のメンバーは全て同峰へのリベンジであることが分かった。
一般的には知られてないが、西稜ルート(ノーマルルート)は5000mの高さに建つ山小屋(ウインパー小屋・・・この名前はマッターホルンの初登頂者でもあるエドワード・ウインパーが1880年にチンボラソを初登頂したことを記念して付けられたものである)からアタックするが、山小屋から山頂までの標高差が1300m以上あることに加え、氷河の状態が悪く気象条件も厳しいため、先に辿り着く西峰で時間切れ、又はガイドの判断により最高点のウインパー峰まで行かれないことが多々ある。 ウインパー峰まで登るためには、天気に恵まれかつ高所に充分順応していなければならない。 今回は“南米五大峰”(アルゼンチンのアコンカグア・チリのオホス・デル・サラド・ボリビアのサハマ・ペルーのワスカラン・エクアドルのチンボラソ)の完登という別の目標もあったので、あくまで最高点のウインパー峰にこだわりたい旨を平岡さんには伝えた。 今回の計画で唯一誤算だったのは、エクアドルでは新年を自宅で迎える習慣があるため、元旦にガイドが山に入らないということだった。 それゆえ二番目に登る予定のコトパクシはアタックの予備日がなくなってしまった。
12月23日、早朝に自宅を出発し成田空港で哉恵さんと落ち合う。 直前に参加が決まったOさんとIさんは飛行機の手配が間に合わず、午後の便で今日の宿泊先であるマイアミの空港内のホテルで合流することになっている。 南米の国へは直行便がないので、必ずアメリカでの乗り継ぎとなる。 2年更新のエスタ(電子渡航認証システム)は今回から有料(14ドル)となり、直前にネットで申込んだ。 今回の乗継地はシカゴで、成田からは11時間半掛かった。 シカゴの上空からはミシガン湖がまるで海のように見えた。 シカゴから国内線に乗り換えて3時間ほどでマイアミへ。 マイアミを夕方発ってキト(エクアドルの首都)に深夜に到着する便もあるが、哉恵さんの希望でマイアミに1泊することになった。
12月24日、ホテルのロビーでOさんとIさんに合流し、マイアミを午後出発するラン航空の飛行機でエクアドルの首都のキトに向かう。 キトのマリスカル・スークレ空港は住宅街の真ん中にあり、マイアミからは時差はなく4時間少々で着いた。 着陸寸前に機内アナウンスがあり、ボリビアのラパスと同様にキトの標高の2850mに機内の気圧が調整された。 クリスマス・イブに帰国する人でごった返す空港にはエージェントの『アンディアンフェイス』のチーフガイドのセバスチャンと平岡さん夫妻が出迎えてくれた。 エージェントが用意した大型バスでホテルに向かったが、意外にも翌日からもずっと同じバスでの移動となった。 夕食はホテルのすぐ近くにあったこじゃれたレストランで食べたが、安くて美味しかったのでのっけから食べ過ぎてしまった。
【セロ・パソチョアとウワウワ・ピチンチャ】
12月25日、時差ボケと前夜の寝過ぎのため殆ど眠れなかったが、起床後のSPO2(血中酸素飽和度)と脈拍は94と50で、2850mの高さにしては少し出来過ぎな感がした。 天気は曇りで、以前滞在した時のままのイメージだ。 4ツ星ホテルの朝食のバイキングはまずまずで、食べ過ぎが続いてしまう。 今日は軽い高所順応でホテルから2時間ほどで登山口にアプローチ出来るセロ・パソチョア(4200m)に登る。 バスの運転手はハビエルで、滞在中は色々な雑用も快くこなしてくれた。 エクアドル国内を南北に縦断している主要幹線道路『パンアメリカン・ハイウェイ』を南に1時間ほど走り、国道を左に折れて登山口へのダートの山道に入る。 山道は道幅が狭く荒れていたので乗り心地が悪く、案の定途中の急カーブでバスはスタックしてしまった。 この大型バスは舗装路では車内も広く快適だが、山道には全く適応出来ず、最後まで私達を悩ませることになった。
バスを降りてセバスチャンが買ってきた食材で昼食用のサンドウィッチを各々作る。 登山口付近には浄水場があり、牛が草を食む牧草地が広がっていた。 富士山よりも標高は高いが、地元では丘のような存在のため、登る人はいない。 生憎の曇天だったが、タソック帯の中の踏み跡を辿り、登山口からゆっくり3時間半ほど歩いて人待ち顔のセロ・パソチョアの山頂に着く。 晴れていれば360度の展望で目標の山々も遠望されたはずだが、今日は残念ながらお預けだ。 車を降りた所から山頂までの標高差は高度計で800mほどだった。 適度な疲労と時差ボケのため、帰りのバスの中では皆で爆睡だ。 ホテルに戻った時のSPO2と脈拍は89と70だった。
夕食はホテルから10分ほど歩いた所にある朋子さんが調べておいてくれたクレープ料理の店で、美味しいものをお腹一杯に食べてしまった。
12月26日、時差ボケは治らず(時差はマイナス14時間)、3時頃から目が覚めて眠れなかったが、心配していた頭痛が全くなかったので嬉しい。 起床後のSPO2と脈拍は92と58で、まずまずの順応が出来ていた。 今日は順応活動の第二段階としてホテルから1時間半ほどで登山口にアプローチ出来るウアウア・ピチンチャ(4780m)に登る。 天気は晴れで車窓からはコトパクシが見えた。 キト市内を走る車は前回の滞在時に比べて明らかに新車の比率が高まり、国力が上がったことを物語っていた。 キトから近いウアウア・ピチンチャ周辺の山域は昨日登った牧歌的なセロ・パソチョアとは違って観光化されており、オフロード車であれば山頂近くまで登れ、また一部にはゴンドラも架かっている。 セバスチャンの話によると、前回の滞在時に登ったルコ・ピチンチャ(4698m)の『ルコ』は“お爺さん”または“古い”という意味(死火山)で、『ウアウア』は“赤ん坊”または“新しい”という意味(活火山)らしい。
昨日の経験を活かし、今日は途中からセバスチャンのオフロード車に乗り換えてダートの山道を辿る。 平岡さんと哉恵さんは志願して荷台に乗る。 順応が目的なので4130mの案内板がある所で車を降り、そこから車道を登ったりショートカットしたりして山小屋の建つ車道の終点までゆっくり2時間ほど歩く。 途中で前回の滞在時にお世話になったガイドのマルシアーノに再会する。 車道の終点からは火山特有の砂礫の道となり、風の強い尾根を1時間ほど登って溶岩が固まって出来た山頂に着く。 すでに正午を過ぎて周囲から雲が湧いているため遠くの山は望めないが、隣のルコ・ピチンチャが良く見えた。 下りは車道の終点までセバスチャンに車を上げてもらい、体力の温存を図る。
下山後はキトには戻らず、明後日からのカヤンベ登山に備えてその麓のグアチャラ村の宿に向かう。 途中車窓からカヤンベ(5790m)が見えた。 その昔ウインパーも投宿したという歴史を持つ宿のオーナーはカヤンベ市の元市長とのことだった。 宿の標高は2900mでキトのホテルとほぼ同じ高さだった。 夕食にはセバスチャンの奥さんのアリ(コロンビア人)も同席し、エクアドルの自然に関する色々な話を聞いた。
12月27日、夜中じゅう手のひらほどの大きな蛾が天井をバタバタと叩き、安眠を妨げていた。 天気は晴れで、山の麓らしく朝霧が立ち込めていた。 起床後のSPO2と脈拍は93と70で、脈が少し高かった。 今日は休養日で午前中は赤道記念碑の建つ公園に立ち寄ってから土曜市で有名なオタバロの町の市場を散策する。 赤道記念碑では赤道の研究者で関係する財団も主宰しているという宿のオーナーの息子さんが赤道についての様々な解説をしてくれた。 この公園からカヤンベが見えるはずだったが、今日は雲で山は見えない。
オタバロの市場はエクアドルではそこそこ知られた観光地らしいが、平日なので観光客や買い物客は少なかった。 帽子、セーター、手袋、織物、タペストリー、バック、その他の雑貨や民芸品、絵画などが所狭しと並び、初めは見ているだけだったが、次第に財布の紐が緩みだし、気が付くと皆それぞれ色々な物を買い込んでいた。 エクアドルの通貨はインフレにより10年前から米ドルとなり、物価は日本の4分の1くらいの感じだ。 昼食はセバスチャンの提案で山の上のクイ・コーチャという湖の畔のレストランまで行く。 クイ・コーチャは火山の火口に水が溜まって出来た湖とのこと。 湖を見下ろすレストランでトゥルーチャ(鱒)の塩焼きを食べたが、ペルーなどで食べた物に比べて大きかった。
昼過ぎにグアチャラ村の宿に戻り、明日からのカヤンベ登山に向けての準備と荷物の仕分けをする。 明日からドメニカという女性のガイドが合流するとのこと。 夕食時に同宿のイギリス人パーティーから、今朝カヤンベにアタックしたが、風が強くまた山頂付近のラッセルが厳しく5500m付近で敗退したとの話があり、登頂について少し心配になった。
【カヤンベ】
12月28日、天気は昨日より少し悪く薄曇りだ。 起床後のSPO2と脈拍は93と63で、脈は下がった。 食欲も相変わらず旺盛だが、今日から高い所に行くので朝食は控えめにする。 今日は明日のカヤンベ登山の起点となるカヤンベ小屋(4600m)まで車で行き、そこに泊まる予定だ。 朝食後にガイドのドメニカがセバスチャンと一緒に宿に来た。 意外にも童顔のドメニカはまだ20代の若さで、ガイド歴は4年とのことだった。 カヤンベ小屋までは車道が通じているため車で上がれると思ったが、セバスチャンの話では路面の状態が悪いので山小屋の手前から1時間ほど歩かなければならないらしい。 バスでは到底上がれないので、セバスチャンの車に先発隊の哉恵さん、Iさん、朋子さんが乗り、全員の荷物を積み込んで私達はバスで行ける所まで上る。
『カヤンベ小屋まで36キロ』という標識から国道を右に折れて石畳の道へ入る。 日本の梅雨空のようなどんよりとした鉛色の空でカヤンベは今日も見えない。 山麓では農業や酪農が盛んで、ビニールハウスや大型のトラクターで開墾している風景が見られた。 最後の集落でバスを停め、セバスチャンの車が戻ってくるのを待つ。 1時間足らずでセバスチャンの車が戻ってきたので私達も車で山小屋に向かう。 予定どおり荷物だけ車で山小屋まで運び、山小屋の数キロ手前から車を降りて歩く。 途中から雨が降り出し、明日の登頂のことがとても気になった。
車道を1時間少々歩き、標高4600mのカヤンベ小屋に着く。 3階建ての石造りの立派な山小屋で、宿泊客は私達を含め30人くらいと意外に多かった。 濡れた衣類を乾かしながら広い食堂で寛いでいると、急速に青空が広がり、カヤンベの頂上方面が見えた。 やはりエクアドルの山は気象の変化が激しい。 夕方のSPO2と脈拍は82と72で、この標高にしてはまずまずの数値だった。 明日の出発は零時半と決まったので、ガイド達が作ってくれた夕食を早めに食べて7時半に寝た。
12月29日、決められた11時半に一斉に起床し、パンやチーズを食べ持参したスープを飲んで零時半に出発。 疲れが溜まっていたのか熟睡してしまったが、不思議と頭痛は全く無かった。 満天の星空で気温も低くないが、山小屋の前でも風が吹いていたので、オーバーパンツの下に薄いダウンパンツを履く。 山小屋から山頂までの標高差は1200mほどあり、順応途上の体には結構きつい。 氷河の取り付きまで1時間ほどで着くと思われたが、順応不足や風が強かったことでペースが上がらず1時間半を要し、そこからアイゼンを着けアンザイレンして出発するまで2時間以上掛かってしまった。
取り付きからのパーティー編成はセバスチャンに私と妻、ドメニカに哉恵さんとOさん、平岡さんに朋子さんとIさんとなった。 氷河は風で硬く締まり登り易かったが、斜度がそこそこあったので息が切れる。 前を登る妻は順応が上手くいっているようで、私が必死に登らないとついていけないほどペースが速かった。 後続の哉恵さんと及川さんのパーティーとの間隔が開いてしまうほどだったので、時々ロープを引っ張ってペースを落とすように促す。 暗闇の中、風はますます強くなり不安が募るが、上方に揺れている先行パーティーのヘッドランプの微かな灯りに勇気づけられる。
取り付きからほぼ1時間半毎に休憩し、6時前にようやく周囲が明るくなった。 頭上には頂稜部の巨大なセラックが威圧的に立ちはだかり、山頂はまだ遠そうに思えたが、風はどうにか収まり青空も広がってきたので、登頂の可能性は高まった。 セラックの真下まで来た時、セバスチャンからあと1時間ほどで山頂に着くが、上空の風が非常に強いので到着後は後続を待たずに引き返すとの指示があった。 最後の力を振り絞って急斜面を駆け登りセラックの中に入ると、上からロープをフィックスしてクライムダウンしてくるパーティーを待つことになった。 セラックの状態が悪いのか、長い間待たされた。 この核心部をクリアーして上に抜ければ待望の山頂が待っていると思ったのも束の間、下りてきた知り合いのガイド二人から上の状況を聞いたセバスチャンから「山頂直下のクレバスが5mほど開いて渡ることが出来ないため、ここで引き返します」と、突然の下山指示があった。 想定外の衝撃的な出来事に気持ちが萎えてしまい、上に登ってクレバスを見ることなく下山指示を受け入れてしまったことが今となっては悔やまれる。 少し離れた所で待機していた哉恵さんとOさんに身振りで合図し、断腸の思いで下山を始める。 強い風と順応不足の体にムチ打ってここまで登ってきたことに加え、深みを増した空の青さが悔しさに拍車をかける。 セラックの入口で平岡さんと登ってきた朋子さんとIさんのパーティーを待って造り笑顔で記念写真を撮った。
登りでは暗くて分からなかったが、氷河は広く凹凸も少なかったので、スキーをするには絶好の斜面だった。 雪はまだ締まったままだったので下山のスピードは速い。 取り付きには10時に着き、1時間後の11時に山小屋に戻る。 車は1台しかないので先発隊の女性陣を見送り、しばらく食堂で寛いでから平岡さんご夫妻とドメニカと一緒に車道を歩いて下る。 運良く途中で他の車の荷台に乗せてもらい、下からUターンしてきたセバスチャンの車に拾われる。 途中で乗り換えたバスの中では今日も皆爆睡だ。 今日の宿泊先のパパジャクタ温泉に向かう途中、デポした荷物をピックアップするためにグアチャラの宿に立ち寄ったが、私達の落胆度合いがとても大きかったため、宿のテラスでセバスチャンがわざわざ山に登れなかった理由について、「山頂直下のクレバスには以前から丈夫なスノーブリッジが架かり、一番信頼している先輩のガイドから3週間前には問題なく渡れたという話を聞いていたが、今日上で会った知り合いのガイド二人からスノーブリッジが崩壊し、渡ることが出来なかったという話を聞いて安全性を第一に考え下山を決めた」と丁寧に説明してくれた。
キトの東30キロ位に位置するパパジャクタ温泉には夕方になって到着した。 山の中の湯治場くらいに考えていたパパジャクタ温泉の施設は予想以上に素晴らしく、まるで4ツ星級のホテルのようだった。 小雨が降ってきたので中庭の温水プールには入らずに室内の内湯で済ませる。 夕食は周囲にレストランがないのでホテルのレストランを利用したが、メニューが豊富で非の打ちどころがない。 注文した料理はどれもみな美味しかった。 館内は年末年始ということもあり大勢の宿泊客で賑わっていた。
12月30日、天気は曇りで霧がかかっていた。 起床後のSPO2と脈拍は91と57で、3400mの高度は感じない。 食欲は相変わらず旺盛で朝食のバイキングも充分楽しめた。 午前中は水着に着替えて部屋の前の温水プールに皆で入る。 本館内には大小8つほど温水プールがあった。 お湯の温度はちょうど良く、長く浸かっていられる。 毎日プールの掃除とお湯の入れ替えをしているためとても清潔だ。 南国の木々や花がプールの周りに植えられているため、時々ハチ鳥が飛んでくる。
昼食も施設内のレストランで美味しい料理に舌鼓を打ち、午後は周囲の散策を行う。 本館とは別に敷地内には日帰り客専用の温水プールやプライベートの温水プールがある独立したコテージもあった。 哉恵さんや平岡さん夫妻は有料のマッサージを受けていた。 カヤンベの悔しさは残るが、次のコトパクシに向けて良い気分転換になった。 意外にも隣室には日本人の若い女性二人が泊まっていたので挨拶を交わすと、青年海外協力隊として当地で農業関係の仕事に従事しているとのことだった。 ツインの部屋の宿泊料は1泊135ドルで、エクアドルの物価水準では1泊3〜4万円という高価なものだった。 夕方のSPO2と脈拍は90と55で、まずまずの順応ペースだった。 ホテルの周囲にはレストランがなく、夕食も施設内のレストランで食べることになったが、メニューが多すぎてまたどれも美味しいので選ぶのに苦労した。
【コトパクシ】
12月31日、この地域特有の気象なのか今日も天気は良くない。 起床後のSPO2と脈拍は92と58で昨日とほぼ同じだ。 迎えに来てもらったエージェントのバスに乗ってコトパクシ国立公園の中にあるタンボパクシ小屋(3800m)に向かう。 エクアドルでは大晦日から元旦にかけて厄払いのため人形を燃やす慣習があり、家の門や車に人形を括り付けている光景が見られた。 パンアメリカン・ハイウェイを南下し、コトパクシ国立公園の標識を左折してダートの道に入る。 その直後に仮装した地元の子供達の集団にバスを止められ“通行料”をねだられる。 セバスチャンも子供の頃やっていたとのことで笑えた。 ダートの道を15分ほど走ると公園のゲートに着いたが、前回の滞在時と同様にここから正面に見えるはずのコトパクシは全く見えなかった。 入園料@10ドルをセバスチャンがレンジャーにまとめて支払い、名前を記帳したりして入園の手続きをする。 しばらくするとようやく車窓から雲で見え隠れしているコトパクシの雄姿が望まれるようになった。
明日向かうホセ・リバス小屋への道を右に分け、昼過ぎにタンボパクシ小屋に着き、皆で遅い昼食を食べる。 昼食が済むと新年を自宅で迎えるためセバスチャンは運転手のハビエルと共にバスで帰って行った。 タンボパクシ小屋は30人ほど泊れるシャワーのあるロッジで、コトパクシの登山に向けての理想的な順応場所となる。 料理はメニューこそ少ないが、味は町のレストランと同じレベルだ。 前回ここに泊まった時は順応が不十分で気分も悪かったが、今回はリラックスしていられることが嬉しい。 小屋の1階の食堂からは居ながらにしてコトパクシが見える。 前回の滞在時には本当に何も見えなかったので、眼前に鎮座するコトパクシの写真を哉恵さんと一緒に何枚も撮る。 寝室は2段ベッドで8人泊まれる部屋をキープ出来た。
夕食は大晦日ということで特別にローストチキンをメインとするバイキングとなった。 明日からの登山がなければカウントダウンで大いにはしゃぎたいところだが、アルコールも口にせず、料理も適量で済ませる。 夕食後は小屋の外で人形を燃やす厄除けの“儀式”が行われた。 燃え盛る人形の傍らでは小屋のスタッフ達がギターを鳴らして歌を歌う。 儀式が終わると今度は食堂で南米らしい乗りのダンスが始まり、居合わせた宿泊客は大いに盛り上がった。
1月1日、起床後のSPO2と脈拍は92と68で、食欲も普通にあり体調はとても良い。 外は寒いが部屋の中は息苦しいほど暑かった。 雲は多目ながらも天気は良く、雨期とは思えないような青空が背後に見える。 食堂に備え付けられた望遠鏡を覗くと、氷河を登っているパーティーがいくつか見える。 トレースも明瞭で明日のアタックに期待が持てた。 朝食後に平岡さんからパーティー編成を変えるとの提案があり、私達が平岡さんと、哉恵さんとОさんがセバスチャンと、ドメニカと朋子さんとIさんがそれぞれ組むことになった。 11時に迎えに来るはずのセバスチャン達は正午を過ぎても現れなかった。 ホセ・リバス小屋へ着くのが大幅に遅れてしまうため、昼食もこの小屋で食べることになった。 ようやく1時間半遅れでバスが迎えにきたが、遅れた理由はどうやらドメニカが寝坊したことによるものだった。
これから向かうホセ・リバス小屋(4800m)直下の車道の終点までは車で上がれるが、上部ではカヤンベ同様に道が荒れているため、また余計に車道を歩かなければならないと覚悟していたが、運良く途中で他のパーティーのマイクロバスに乗せてもらうことが出来た。 前回の滞在時は一面が雪景色だったので気が付かなかったが、車道の終点は広い駐車場となっていた。 駐車場からホセ・リバス小屋までは標高差で200mほどだ。 富士山の砂走りのような埃っぽい道を登る。 元旦ということもあり、観光客の姿が多い。 四季の無いエクアドルでは都市部には雪が降らないので、町の人は雪を見ることが珍しく、また楽しいのかもしれない。 彼らにとっては駐車場からホセ・リバス小屋まで登ることが、“コトパクシに登る”ということなのだろう。
セバスチャンが言うとおり、コトパクシはエクアドルで一番人気のある山で、海外からの登山者も少しハードルの高いチンボラソに比べて遥かに多い。 山小屋は1階の食堂が改装され以前より広くなっていた。 隣のテーブルにはマルシアーノの姿も見られた。 各々のパーティーが炊事をするとキッチンが混乱するため、繁忙期は管理人がスープなどの軽い食事を作ってくれるようになったとのこと。 到着が遅くなったので50人ほど泊れる2階の寝室の二段ベッドは、すでにほぼ一杯となっていた。 登山者が予想以上に多かったので、混雑を避けるためセバスチャンの提案で出発時間は少し早まり夜の11時になった。 夕方の5時にスープとパンだけの軽めの夕食を食べ、他の宿泊客よりも一足早く寝た。
1月2日、決められた10時に一斉に起床し、階下の食堂へ静かに下りる。 カヤンベに続き不覚にも熟睡してしまった。 出発の準備をしているパーティーはまだ少ない。 キッチンの入口のカウンターには大きなジャーが置かれ、管理人が沸かしてくれたお湯を自由に使うことが出来た。 セバスチャンの予想では山頂まで8時間は掛かるだろうとのことで、予定どおり山小屋を11時に出発した。 霧が発生しているようで星や月は見えない。
6年前のアタックの時は山小屋から右の方に回り込みながら深雪をラッセルして登った記憶があったが、今日はそのまま山頂の方角に向けて赤茶けた砂礫の道を直登していく。 30分足らずで雪が現れたが、氷河ではなくただの残雪のようで、昨日のトレースを利用しアイゼンも着けずに登る。 間もなく傾斜が増してきたのでアイゼンを着ける。 先行しているパーティーはいないようだが、後方にはヘッドランプの灯りが沢山見えた。 30分ほど登った所でロープを結ぶ。 セバスチャンと哉恵さんとOさんのパーティーが先頭になり、平岡さんと私達のパーティーが続く。 しんがりはドメニカと朋子さんとIさんだ。
大晦日・元旦と少なくとも2日間天気が良く、大勢のパーティーが登っているためトレースは明瞭で、一部は登山道のようにさえなっていた。 カヤンベと比べると風も殆どなく、順応も確実に進んでいるので登高スピードは予想よりも速い感じだ。 このまま順調に進めばセバスチャンの予想よりも早く山頂に届きそうな感じがした。 間もなく後続のパーティーに道を譲る。 マルシアーノ達のパーティーだった。 振り返ると眼下の町の夜景が奇麗だ。 途中のクレバス帯では1か所だけスタカットで進んだが、それ以外では全く難しい所はなく、空には月も見え始めたので早くも登頂の手応えを感じた。 氷河はカヤンベのように緩急はなく、一定の斜度を保ちながら登り一本調子だ。 途中の休憩で後続のドメニカと朋子さんとIさんのパーティーを30分近く待ったので体が冷えてしまい、薄手のダウンジャケットを着込む。 先行しているセバスチャンと哉恵さんとOさんのパーティーのヘッドランプもすでに見えなくなった。 5500m付近からは風も少し出てきて寒さが厳しくなったが、前を登る妻の足取りは相変わらず力強く安堵する。
前の日からの長い夜が終わり、5時半過ぎにようやく空が白み始めた。 すでに下りてくるパーティーがあり、登頂の成否を尋ねると、「あと山頂まで20分で着きますよ」という嬉しい答えが返ってきた。 間もなく前方に山頂と思われるドーム状のシルエットが見えた。 先行しているセバスチャンと哉恵さんとOさんのパーティーはもう山頂に着いているだろう。
6時過ぎに待望のコトパクシの山頂に辿り着く。 登る前には想像すら出来なかったが、まだ日の出前だ。 今日も良く頑張った妻を抱擁し、登頂請負人の平岡さんと固い握手を交わす。 先に登頂した哉恵さんやOさんとも肩を叩き合って登頂を喜び合う。 リベンジが叶ったことに加え、カヤンベの件があったので喜びも一段と大きかった。 哉恵さんを無理やりエクアドルに誘ったが、とりあえず最低限の目標を達成出来て少し肩の荷が下りた。 眼下にはこの山のトレードマークになっているすり鉢状の巨大な噴火口が見え、そのユニークな景観に心を奪われる。 周囲を見渡すと、アンティサナ(5753m)と双耳峰のイリニサ(5248m)、そして遥か雲海の向こうに頭を出しているチンボラソが見えた。 間もなく図らずも山頂からご来光を拝むことになり、感動を新たにする。 興奮が覚めやらず、皆で何度も写真を撮り合う。 風がないのもラッキーだった。 山頂には登山者が次第に増え、私達を含めて20人以上になった。 さすがにエクアドルで一番人気のある山だ。 6時40分にドメニカと朋子さんとIさんのパーティーが山頂に着き、めでたく全員の登頂が叶った。 もう何も言うことはない。
下りは平岡さんとドメニカが交代し、ドメニカと私達でロープを結ぶ。 7時過ぎに山頂を辞したので、結果的に1時間以上も山頂にいたことになる。 ずっと暗闇の中を登ってきたので、見える景色は新鮮だった。 山頂直下の『ヤナサチャウォール』と呼ばれる雪の付かない絶壁や、芸術的なセラック・クレバスなどが意外と多く、あらためてこのエクアドル一の名山に登れて本当に良かったと思った。
あまり休憩せずに下ったので、山頂から2時間ほどで取り付きに着いた。ドメニカには先に行ってもらい、登頂の余韻に浸りながらのんびりと装備を解く。 誇らしげにホセ・リバス小屋に着き、荷物の整理をしてから食堂でゆっくりお茶を飲もうと思っていたが、今すぐならバスが上がってこられる所まで他のエージェントの車を借りて下りることが出来るとのことで、急いでもう訪れることはないホセ・リバス小屋を後にする。 図らずも正午にはタンボパクシ小屋に着き、美味しいランチを食べることが出来た。 食事をしていると、今回の“火付け役”となったガイドのハイメが小屋に現れ、嬉しい再会となった。 昼食後は今日の宿泊先のホテル『クエロ・デ・ルナ』に向かう。 バスに乗ってからホテルに着くまで爆睡したことは言うまでもない。 ホテルはパンアメリカン・ハイウェイからコトパクシ国立公園に入る地点にほど近い田園地帯にあり、歴史を感じさせる宿だった。 暖炉のあるラウンジで寛いでいると、平岡さんから現時点での天気予報では、チンボラソはしばらく天気が悪く、まとまった雪が降るという話を聞いた。
【チンボラソ】
1月3日、今日も雲は多目ながらも天気はまずまずで、宿の敷地からコトパクシが見えた。 この宿の標高は3250mだが、起床後のSPO2と脈拍は94と62で、かなり順応が進んできた。 昨日は良く眠れたので疲労感はあまりない。 むしろコトパクシに登れたことで気持ちが軽くなり活き活きとしている。 今日は移動を兼ねた休養日で、アンバトの町でお土産品などの買い物をしてから昼食を食べた後、チンボラソの入山拠点となるウルビナ村の宿に向かう。
パンアメリカン・ハイウェイを南下しアンバトへ。 アンバトは人口が16万人ほどのエクアドルでは中堅の都市だ。 大型のショッピングセンターに隣接したスーパーマーケットで買い物をする。 日本ではあまり積極的には行かないが、海外ではどこの国に行っても市場やスーパーマーケットは面白い。 日本ではあまり知られてないが、エクアドルのコーヒーやチョコレートは美味しいとのこと。 品揃えは日本のスーパーマーケットと遜色ないか、あるいはそれ以上だが、やはり魚介類は少なめだった。
買い物を終えてからセバスチャンに案内されたレストランで昼食を食べる。 この辺りでは評判の店らしく、日本では少し高級なレストランの部類に入る店だった。 アンバトの町の標高は2600m近くまで下がったので食欲も旺盛になり、迷わずTボーンステーキを食べる。 300グラムほどの肉だが僅か12.5ドルの安さだった。 エクアドルもアルゼンチンと同じくらい牛肉が美味しい。 この店のメニューはとても多く、また注文した料理はどれも皆美味しそうで、チンボラソの打ち上げに是非再訪したいと思った。 ウルビナ村に向かうバスの中では一同束の間の“シエスタ”を楽しむことになった。
寝ている間にアンバトの町から1時間ほどでウルビナ村に着いた。 標高は3700mとタンボパクシ小屋よりも僅かに低かった。 宿の前にはどこか見覚えのある赤い屋根の建物があり、それが前回の滞在時に買った絵ハガキの写真だということにしばらくしてから気が付いた。 セバスチャンの話しでは以前鉄道がこの村まで通じていて、赤い屋根の建物はその時の駅舎で、廃線となってからはそれを改装して宿にしていたが、最近観光用にその鉄道を再開するための工事が始まり、その宿をこちらに移したとのことだった。
宿の前からはカリワイラソ(5020m)が朧げに見えたが、真打のチンボラソは厚い雲に閉ざされて裾野しか見えなかった。 どうやら天気は予報どおりこれから下り坂に向いそうだ。 コトパクシには登れたが、また新たな不安が脳裏をかすめる。 宿は共同のシャワー室のあるツインベッドの個室のロッジで、チンボラソやコトパクシなどのエクアドルの主要な山々を次々と初登頂したウインパーとカレルの肖像画やウインパーが描いたスケッチなどが随所に飾られ、宿を切り盛りする主の思い入れが強く感じられた。 俳優の向井理さんのサインがある色紙があったので宿の主に理由を尋ねると、最近テレビ番組の撮影でチンボラソに来たと嬉しそうに日本のテレビ局からもらったDVDを見せてくれた。
夕方になってようやく少し雲が切れてチンボラソが辛うじて見えるようになった。 しかしながらこれが今回の滞在中に麓から見えた同峰の最初で最後の雄姿となるとは知る由もなかった。 宿の周りは牧草地となっていて、牛はもちろんのことアルパカやリャマも飼育されていた。 ロッジの裏手に古い藁葺き屋根の家があり、そこにはエクアドルではそれほど珍しくない食用となるモルモットの“クイ”が飼育されていた。
1月4日、今朝も残念ながらチンボラソは寒々しい雲や霧で覆われている。 天気予報は変わらず、しばらく天気はぐずつくようだ。 当初の予定では今日からチンボラソに向けてベースとなるウインパー小屋(5000m)に行き、夜中からアタックすることになっていたが、 予備日が1日あるので、朝食後にセバスチャンと今日山に入るか、明日山に入るかを協議する。 セバスチャンは天気予報では明日も同じような天気なので、今日から入山した方が良い(山小屋からのアタックも予定どおり今日の夜中からということ)と提案したが、平岡さんは昨夜から今朝までの降雪で今日アタックしているパーティーは無いだろうし、仮にアタックしていても登頂している可能性は少なく、同じ予報なら私達の昨日のコトパクシの疲れもあるので、1日遅らせて入山した方が良い(予備日となる明日の夜中にアタックする)のではないかと私達にも意見を求めてきた。 私達には天気予報が詳細に分からないし、新雪がどの程度積もったのかも分からないので、正しい判断をすることは出来ないが、少なくとも今日アタックしているパーティーがいないとしたら、明日のアタックではラッセルが必至で、少しでもトレースに期待が持てる明後日の方が得策ではないかと思った。 結局最後は平岡さんの判断で明日から入山することになった。 ベストなアタック日が明日か明後日かは神のみぞ知るところだが、恐らく今の天気と山の状況では良くても西峰までしか登れないだろう。 チンボラソに登れることを最後まで期待しているとショックが大きいので、今回は登れなかったとこの時点で早くも気持ちを切り替え、繰り返し自己暗示をかけた。 これもコトパクシに登れたから出来ることで、もし登れていなかったら心中穏やかではいられないだろう。
今日一日暇が出来たので、セバスチャンの提案で昔ながらのクラフト工房があるグアノという町を散策し、アンバトに次ぐ人口を擁するリオバンバで昼食を食べることにした。 グアノの町は斜陽化が進んでいて、正月明けということもあり観光客は殆どいなかった。 売られている手芸品は先日行ったオタバロの市場より安かったが、その分品質は劣っているようだった。 皮細工の雑貨を売っている店で、小物入れなどをお土産に買った。 リオバンバではチンボラソの氷河を人力で採取してジュースにしている店に寄り、青果市場などを見学してから、一風変わったレストランでランチを楽しむ。 天気が良ければ町からチンボラソが美しく望めるが、今日はまるで山がないかのようだ。
ウルビナ村の一軒宿に戻ると、暖炉の熱で部屋がポカポカに暖まって無性に眠くなり、暗くなるまでシエスタを堪能することになってしまった。 印象深いこの宿の唯一の不満は、夕食の料理が他のロッジや宿に比べて見劣りすることだ。 昨日はピラフ、そして今日はスパゲティーというシンプルなものだった。 逆に今までのロッジや宿が良すぎたのかもしれない。
1月5日、上空には青空が僅かに覗いていたが、今朝も宿からチンボラソは見えない。 無用な期待はしていなかった(しないように努めていた)ので、気持ちの落胆は少ない。 いずれにしても今日はスケジュールどおり最終目標のチンボラソに向けてベースとなるウインパー小屋(5000m)に行き、夜中からアタックを開始する。 起床後のSPO2と脈拍は93と76で脈が少し高いが体調は相変わらず良い。
9時過ぎに宿を発ち、今日から合流する3人目のガイドのマウリシオをウルビナ村の入口でピ ックアップする。 マウリシオは地元在住のチンボラソに精通しているガイドとのことだった。 バスは宿からチンボラソの裾野を時計回りに進んで緩やかに高度を上げていく。 車道の終点にあるカレル小屋(4800m)までの道路は最後の一部を除いて舗装されているので、今までと違いバスでも快適だった。 車道の両側は牧草地となっていてリャマやアルパカが放牧されている。 国立公園内にあるコトパクシとは違い所々に人家があり、山裾には生活感がある。 標高が上がるにつれて天気は悪くなり、皆の表情も一様に冴えない。 カレル小屋から8キロ手前のゲートは工事中で、前回のように入山手続きはしなかった。 カレル小屋から車で下りてきたガイドにマウリシオがすかさず山の情報を聞いたところ、意外にも今日登頂したパーティーがいることが分かり、一同にわかに活気づいたが、一方で後悔の念に苛まれることにもなった。
間もなく周囲はモノトーンの雪景色となり、野生のビクーニャの姿も見られた。 道路も一部が雪に覆われていたが、ウルビナ村から2時間ほどで車道の終点に建つカレル小屋に無事着いた。 人気のコトパクシとは比べようがないが、車が4〜5台停まっていた。 カレル小屋で先日タンボパクシ小屋で談笑したオーストラリア人ガイドと偶然再会し、彼のパーティーも今日登頂したことが分かった。 11時にここまで下りてきたということは、相当早い時間帯に山頂に着けたということだ。 意外にもルートの状態は良かったとのことだった。 西峰までだったのかもしれないが。 カレル小屋で昼食のサンドイッチを作って食べ、出発の準備をしていると、それまでの悪天が嘘のように急速に青空が広がり、眼前にチンボラソの西峰が姿を現した。 昨日からの沈滞ムードも一気に吹き飛び、皆で大はしゃぎだ。 すでに心の中では諦めていた(諦めようとしていた)山頂への期待感がむくむくと頭を持ち上げてきた。
雪混じりの登山道を標高差で200mほど上にあるウインパー小屋へゆっくりと1時間近くかけて登る。 コトパクシほどではないが、一般の観光客の姿も散見された。 運転手のハビエルもドメニカの荷物を担いで登っていた。 次第に霧が濃くなり、ウインパー小屋に着く頃には再び山は見えなくなってしまった。 前回の滞在時の最終到達地点となった想い出深い山小屋に、リベンジを誓った哉恵さんと一緒に帰ってきた。 今日登ったパーティーは全て皆下山してしまったのか、山小屋の食堂は閑散としていた。 2階の二段ベッドの寝室も余裕があり、16人が泊まれる部屋の下の段のベッドを私達7人で独占した。 単に天気が悪いという理由だけなのか、コトパクシのホセ・リバス小屋の喧噪が嘘のように、その後も登山者は殆ど来なかった。
コトパクシと同じように夜の10時に起床して11時に出発することとなり、夕方の4時にドメニカが作ってくれた具沢山のスープとパンを食べて5時にベッドに入った。 明日のアタックは2〜3パーティーだけかと思ったが、間もなく次々と登山者が山小屋にやってきた。
1月6日、順応している証か、起床時間の10時少し前まで熟睡してしまった。 屋外にあるトイレに行くと、あいにく雪がしんしんと降っていた。 今日は厳しい登山を強いられそうだ。 昨日は一瞬山頂への期待が持てたが、この現実は受け止めなければならない。 山頂まで届くかどうかは神のみぞ知るところだ。 慌しく準備をしながら朝食を食べている傍らで、セバスチャンやマウリシオが他のパーティーのガイド達と話し合っている光景に違和感を覚えたが、間もなく平岡さんから「天気が悪いのでしばらく出発を見合わせます」との指示があったので、セバスチャン達の行動が理解出来た。 時間に余裕があるわけではないので、待つ時間はせいぜい30分から1時間ぐらいと思っていたが、1時間を過ぎても出発する気配は全くなかった。 どうやら他のパーティーも一緒に行動するようで、出発するパーティーは無かった。 平岡さんから「2時くらいまでに出発出来れば、ぎりぎりですが登れる可能性はあります」という説明があったが、昨日からすでに心の準備は出来ていたので、この時点でもう山頂は諦めることにした。 仮に何とか西峰まで登れたとしても、私の心の中ではチンボラソに登ったことにならないからだ。 外に出てみると、雪はまだ降り続いているが月は見えていた。
意外にもリミットとして考えていた2時を待たずにセバスチャンはアタックの中止を決めた。 例え駄目でも行ける所まで行きたかったが、セバスチャンや他の地元のガイド達が合議して下した決断を覆すことは出来ない。 私達が想像しているよりも上の状況は厳しいということだろう。 アタックの中止が決まったので、しばらくすると皆三々五々2階の寝室に上がって行ったが、私は未練がましく妻と2時頃まで食堂に居残っていた。 もうチンボラソには当分の間訪れることはないだろうし、目標にしていた南米五大峰の完登の夢もついえた。 平岡さんも私達以上に悔しがっていて、すぐには寝ないで私達と傷を舐め合うことになった。 数日前、平岡さんに「チンボラソにアタックした翌日の帰国日にカヤンベにリベンジすることは可能ですか?」と聞いたところ、「カヤンベなら空港のあるキトにも近いので時間的には可能だと思います」という話だったので、再度その話を切り出したところ、2階の寝室から哉恵さんが下りてきて話の輪に加わった。 意外にも平岡さんから「現時点ではまだ何も決まってませんが、ガイドの延長や車の手配が出来れば、下山後に空港に直行することを前提に明日もう一度チンボラソにアタックすることは可能だと思います」との願ってもない話があった。 但しガイドは平岡さんを含めて2人となってしまうので、アタック出来るのは4人までという条件付きだった。 さらに帰国の飛行機の時間に間に合うよう、遅くとも11時にはウインパー小屋に下山する必要があるとのことだった。 エアチケットがオープン(変更可能なもの)なら帰国を一日遅らせるということも選択肢としてあるので、明朝の天気の様子を見てからエージェントに相談した上で、皆さんにあらためて相談しますということになった。 登頂請負人の平岡さんからの甘い囁きに、地獄の底から呼び戻されたような感じで気持ちが落ち着かず、朝までなかなか寝付けなかった。
7時過ぎに起きて外に出てみると、雪は止んでチンボラソが見えていた。 天気が悪ければ諦めもつくが、私達の感情を逆なでするかのように青空も覗いていた。 朝食後に平岡さんから、明日もう一度チンボラソにアタックするかどうかについての相談があり、すでに諸々の手配をするため下山せざるを得ない朋子さんを除くメンバー5人に先ほどの条件を提示して意見を求めた。 私と哉恵さんはもちろん二つ返事でアタックを希望したが、妻は時間的な制約(特に下りでのスピードが要求されること)があることと、平岡さんも登ることをあまり勧めなかったので、アタックを辞退した。 以前西峰に登頂しているOさんはしばらく悩んでいたが、山に取り付かずに下山するのも嫌だということでアタックを希望した。 Iさんは妻と同様に時間的な制約があるのでアタックを辞退した。 妻は私よりも順応が出来ているので全く問題なく登れると思い、再度登ることを勧めたが、本人の意思は固くやむなく下山することになった。 結局アタックを希望したのは私と哉恵さんとOさん、下山するのは妻と朋子さんとIさんということになった。
ウインパー小屋から携帯電話がつながらずエージェントと連絡が取れないため、諸々の手配の都合上チーフガイドのセバスチャンが下山し、“助っ人”のマウリシオが残ることになった。 最後はそれまで苦楽を共にしてきたメンバー全員でアタックすることが出来なくなり、本当に残念な形になってしまったが、この土壇場の状況では仕方がないと割り切らざるを得なかった。 特に私達3人のアタック組をサポートするために下山される朋子さんには申し訳ない気持ちで一杯だった。 もっとも明日は天気が良くなり、アタック出来るという保証は全くなく、もしアタック出来なければ精神的なダメージはさらに大きくなるだろう。
明日の行動予定が決まったので、荷物を整理して下のカレル小屋に向けて下る。 20分足らずでハビエルが運転してきたバスの待つカレル小屋に着き、下山する妻と朋子さんとIさんの3人とセバスチャン達を断腸の思いで見送った。 カレル小屋で気分転換に日本から持参したカップラーメンを食べて再度ウインパー小屋に登る。 先ほどまでの青空はいつのまにか消え、再びチンボラソは深い霧に包まれてしまった。
正午前にウインパー小屋に着くと、2階の寝室のベッドの上に置いてあった哉恵さんのダウンジャケットが無くなっていて大騒ぎとなったが、マウリシオの機転で一階にいた観光客を装った泥棒から無事ダウンジャケットを回収することが出来た。 ベッドで少し横になってから食堂でコーヒーを飲みながら皆でお喋りをしたりして時間をつぶす。 すっかり高所に順応したようで、5000mの山小屋でも普通にいられることがありがたい。 今日も食堂は私達だけで閑散としていた。 ガイドのマウリシオはどちらかというと口数の少ないタイプだと思っていたが、話しかけてみると全くの思い違いで、ウィットに富んだ話を連発するとても面白い人だった。 年齢は39歳で、家族は奥さんとお嬢さんが3人とのこと。 チンボラソには何と100回ほど登ったことがあるという。 エクアドルの山のシーズンは今の時期と6月〜8月なので、春と秋には自動車の教習所で教官として働いているらしい。 大柄な平岡さんのことを終始“ビッグ・ボス”と呼んでいた。
明日は11時までにウインパー小屋に戻ってこなければならないので、夜の9時に起床し10時に出発することになった。 パーティーの編成は予想どおりマウリシオに哉恵さんと私、及川さんは平岡さんとマンツーマンとなった。 夕方の3時にマウリシオが作ってくれたラビオリを食べ、4時過ぎにベッドに入った。 寝る直前に外に出てみると、再び青空の下にチンボラソが見えていた。
1月7日、興奮していて殆ど眠れなかったが、起床時間の9時直前に熟睡してしまい、哉恵さんに起こされる。 外に出てみると、星空に満月に近い月がこうこうと輝き、チンボラソのシルエットが見えていた。 嬉しいことに風もなく穏やかで、ここ数日では一番の天気になった。 再び山頂への淡い期待が芽生えてくる。 他のパーティーよりも一足早く予定どおり10時にウインパー小屋を出発する。 氷河の取り付き付近は融雪による落石が頻繁にあるとのことで、ヘルメットを被っていく。 足元の雪は10センチほどだ。 昨日誰かが下見に行ったようで新しいトレースがあったが、この山の主とも言えるマウリシオにはそれは無用のようで、所々にケルンが積まれた正しいルートを無駄なく辿って行く。 体を温めるためだろうか、最初のペースはかなり速かったが、次第にそれも落ち着いてきた。 振り返ると、下から次々と登ってくる後続のパーティーのヘッドランプの灯りが見えた。
ウインパー小屋から1時間ほど登った所でアイゼンを着ける。 マウリシオから、ここから先は落石地帯となるので、スピーディーに行動することを優先してロープは結ばないという説明があった。 30分ほど岩の混じった雪の斜面を前の人との間隔を空けずに登る。 落石地帯を脱したと思われる所でロープを結ぶ。 先程の打ち合わせどおり、マウリシオに哉恵さんと私、Oさんは平岡さんとマンツーマンだ。 哉恵さんと二人揃って登頂しなければリベンジしたことにならないとエクアドルに誘った時から心に決めていたので、図らずもそれに相応しいペアとなった。
さすがにチンボラソを狙う外国人のパーティーは健脚揃いで、いつの間にか数パーティーが追い着き、追い越して行った。 平岡さんから、朧げに頭上に見える“カスティージョ”(スペイン語で城という意味)と呼ばれる岩塔の基部まであと1時間くらいですよと励まされる。 先行パーティーのトレースのみならず、古いトレースも残っている感じで、昨日までの降雪量は思ったより少なく、また元旦前後の入山者が多かったことが分かった。
予想よりも早く零時半前に西稜のコル(5400m)に着き、そこから90度右に折れて西峰(6267m)に突き上げている長大な西稜をひたすら登る。 尾根は顕著でルートとしては分かりやすい。 ありがたいことに風は殆ど感じなかったが、いつの間にか小雪が舞い始めた。 本当にこの山の天気は安定しない。 先ほどまでの淡い期待に少し翳りが見えた。 間もなく何ら特徴のない場所で休憩となったが、意外にもマウリシオはピッケルで哉恵さんのみならず私の分まで足場を作ってくれ、テルモスの温かい紅茶とチョコレートを勧めてくれた。 また、頼んでもいないのにわざわざ私の写真まで撮ってくれた。 予期せぬマウリシオのサービスに好感が持てたが、一方で今日は西峰までしか行けないことが予見されたためではないかとさえ思えた。
西稜の勾配はウインパー小屋から見たよりも急で、もし降雪直後でトレースがなければラッセルは相当厳しいものとなるに違いない。 少なくとも大晦日から2日までの3日間は天気が良かったので、足元の立派なトレースが出来たのだろう。 クレバスは殆ど見られず、トレースはひたすら真っ直ぐ上に向かっていて無駄がなかった。 上方で揺れている先行パーティーのヘッドランプの灯がどんどん先へ行ってくれることを願い続けた。
登頂の目処が立ったのか、マウリシオは1時間おき位に休憩を取るようになり、平岡さんとOさんのパーティーが途中から先行することになった。 風はまだ弱く寒くはなかったが、ここから先のことを考えて薄手のダウンジャケットを着込む。 その後も先行パーティーのヘッドランプの灯との間隔が縮まることはなかったので、このまま西峰までトレースが続いているという期待が持てた。 あとは西峰から山頂までのトレースがあるかどうかだ。 ひたすら変化のない真っ直ぐなトレースを辿って行くと、次第に傾斜が緩み始め、西峰の頂が近づいてきたことが分かった。 すでに下ってくるパーティーがあった。 私達よりも厳しいタイムリミットがあるのだろうか。 いずれにしても時間から推して西峰までで、山頂まで行ってないことは確かだ。 それまで殆ど感じなかった風が次第に強まり、また刺すように冷たかった。
地面が広場のように平らになった所でマウリシオが足を止めた。 まだ夜明けは遠く周囲は暗くて何も見えないが、ここが西峰の頂ということだろう。 すでに山頂に向かっていることを期待していた先行パーティーの姿が傍らに見られた。 とりあえず西峰まで登れてホッとしたが、風雪が強過ぎて休憩することもままならない。 時計を見るとまだ5時前だったが、ウインパー小屋を出発してからすでに7時間近くが経っていた。 この強風の中を山頂まで往復するのは辛いが、そんな弱音は吐いてられない。 それ以前にマウリシオが山頂まで行く判断をするかどうかが心配だ。 とりあえず防寒のため羽毛のミトンをザックから出そうとした時、目が急に見えなくなった。 視野狭窄にでもなったかと思いヒヤリとしたが、刺すような冷たい風でメガネのレンズが結露して凍ってしまったことが分かった。 メガネのスペアもあるが、この状況下で取り替えるのは難しい。 オーバー手袋の滑り止めの突起でレンズに付いた氷をこすり落としながらあれこれ悩んでいると、山頂に向けて出発することになった。 皆を待たせるわけにはいかないので、その状況を哉恵さんだけに伝えた。
足の疲れや呼吸の苦しさは無いが、目が急に不自由になってしまったことで、気持ちがブルーになる。 足元にトレースがあるかどうかも分からず、何度も足が雪に取られ転びそうになるが、その理由すら分からない状況だった。 横殴りの風が断続的に吹いているので、目を開くのもままならない。 自力ではまともに歩くことが出来ず、ロープを掴んで哉恵さんに引っ張っていってもらうようになる。 申し訳ないやら情けないやらの気持ちで一杯だが、あと僅かで待望の山頂に立てるという希望に救われる。 先頭のマウリシオがラッセルしているのか、ペースは遅くて助かった。 西峰から山頂へは一旦少し下ってから登り返すはずだが、なかなか登りに入らない。 30分近く歩いた所からようやく最後の登りに入った。 登る方が足元が安定しているので楽だ。 ようやく周囲が白み始め、風も山頂の陰に入ったので収まった。 不思議とメガネの結露もなくなり、足元が見えるようになってきた。 空がモルゲンロートに染まり、高い山ならではの荘厳な景色が見られた。 登頂を確信し、目頭が熱くなってくる。
両手を振り上げ歓喜の声を上げながら、6時過ぎに誰もいないチンボラソのたおやかな広い山頂(ウインパー峰)に辿り着く。 図らずもコトパクシの山頂に着いた時刻と全く同じで、まさに大海原のような雲海から太陽が上がってくる寸前だった。 すぐ後ろから平岡さんとOさんも心を弾ませながら山頂を踏んだ。 土壇場での登頂、そしてリベンジが叶った哉恵さんと抱き合うようにしてお互いの登頂を称え合い、夢を叶えてくれた百戦錬磨のマウリシオ、登頂請負人の平岡さん、そして私達と同様リベンジを果たしたOさんとも肩を叩き合って登頂を喜び合う。 何度も諦めた頂だっただけに、喜びはその何倍も大きかった。 その反面、妻や朋子さん、そしてIさんがいないことが本当に悔やまれる。 皆で写真を撮り合っていると、私達を祝福するかのように大きな太陽が力強く雲海から姿を現した。 身に着けているものは全て風雪でバリバリに凍り、ヘッドランプのスイッチも凍って消せないほど気温は低かったが、太陽の光に照らされて身も心も暖まった。 コトパクシとチンボラソの両方の頂でご来光を拝むことになるとは、全く想像もしてなかった。 おびただしい雲海が周囲を埋め尽くし、山頂からは唯一辿ってきた西峰が見えるだけだったが、エクアドルの最高峰に相応しいスケールの大きな山だった。
予定より1時間ほど早く山頂に着いたが、今日は時間制限があるので早々に山頂を辞する。 興奮のあまり山頂でストックを足で踏んで折ってしまったので、下りもバランスが悪く苦労する。 西峰までのトレースは薄く、雪の締まった早い時間帯に登っておいて正解だった。 全てはマウリシオの計算どおりなのだろう。 西峰まで30分ほどで戻れたが、相変わらず風が強かったので、休むことなく西稜を下る。 時間が早かったので西稜にはまだ陽が当たらず、雪が腐ってなかったので、ストックなしでも何とか転ばずに下れた。 西稜のコルの手前まで1時間足らずで一気に駆け下り、ようやく行動食を口にして一服する。 西稜のコルから少し下った所から氷河の取り付きまでの間は、気温がまだ低かったので落石の兆候は全くなかった。
予想よりも早く西峰から1時間半ほどで氷河の取り付きまで下り、ロープを解いてアイゼンも外す。 もうあとはウインパー小屋まで30分とかからないだろう。 ジャケットに付いた雪はまだ凍ったままで、カメラのレンズも結露により曇ってしまったが、それも忘れられない想い出となるだろう。 マウリシオには先に行ってもらい、登頂の余韻に浸りながら最後はのんびりと三々五々ウインパー小屋に下る。 西峰の頂には相変わらず雪煙が舞っていた。 タイムリミットとしていた11時よりもだいぶ早い9時半前にウインパー小屋に着いたので、荷物の整理をしてから食堂で軽めのランチを食べる。
10時過ぎに想い出深いウインパー小屋を後にする。 チンボラソはもう深い霧に包まれ見えなくなってしまった。 カレル小屋に下り、エージェントが手配したアメ車のロングバンに乗って一路キトに向かう。 途中のアンバトで再会を誓ってマウリシオを見送る。 彼の存在なしではチンボラソには登れなかっただろう。 週末だったが車は渋滞にも遭わず順調に移動出来たので、空港に直行することなく滞在先のキトのホテルで皆と合流することになった。
カレル小屋から4時間足らずでキトのホテルに着くと、ランチに出掛けていた妻達も帰ってきたので、控えめながら登頂報告をする。 特にアタックした私達のサポートをするために下山しなければならなかった朋子さんには感謝の気持ちで一杯だった。 ホテルで着替えをしていると、ハビエルの運転するバスでセバスチャン夫妻が現れ、チリの最高峰のオホス・デル・サラド(6893m)に登るため帰国しない平岡さんと朋子さんと一緒に空港で私達を見送ってくれた。
6年ぶりのエクアドルの山への再訪は、目標にしていたカヤンベ・コトパクシ・チンボラソの三山について、それぞれ全く違った形での結果を残すこととなり、チンボラソに登れたことで達成出来た南米五大峰の完登も霞んでしまうほど想い出深い山行となった。