憧れのヨーロッパアルプス 2

  【高嶺の花】
  昨年(2000年)の夏、私は初めてスイスのアルペンリゾート地であるツェルマットを訪れた。 そして4日間のツェルマット滞在中、同行した妻とブライトホルン(4165m)に登ったり、ヘルンリヒュッテ、オーバーロートホルン、リッフェルゼー等へのハイキングを楽しんだが、中でも特に印象的だったのは、天に向かって槍の矛先を突き立てているようなマッターホルン(4478m)の際立ったその存在感であった。 私のみならず、ツェルマットを訪れる観光客の誰もがそのお目当てにしているのは、マッターホルンの雄姿であるに違いない。 特に山の心得がある者であれば、叶うことなら自分の足でその頂に立ってみたいと思うことであろう。 かくいう私もそのうちの一人に他ならなかった。

  マッターホルン(ドイツ語で“草地の角”という意味)はその名のとおり、緑のアルプ(牧草地)の上に突き出した尖峰である。 その圧倒的な山容から、1865年にエドワード・ウインパーらが山頂を極めるまで、何人の挑戦をも拒み続けてきたのはうなずける。 しかし現在では、マッターホルンは日本人を含め数多くの登山者に登られ、一般ルートの“ヘルンリ稜”は旅行会社のパッケージツアーの対象にもなっている。 昨年以来私の愛読書となっている『4000m峰登山ガイド』でも中上級のグレードとして位置づけられているが、問題は果して素人の私が楽しみながら登れる山なのかどうかである。

  スイスから帰国した日から、いやマッターホルンを初めて見た時から、私の頭の中はマッターホルンで支配されるようになった。 再び75歳でマッターホルンを11回登られた脇坂順一氏の著書を読み返し、昨年収集した種々のマッターホルンに関する資料(特に詳しく書かれていたのは、既に廃刊となっている『アルプスハイキング案内』)にあらためて目を通してみたが、いま一つ釈然としなかった。 なぜなら私は英語(スイスの公用語はドイツ語)が殆ど理解出来ないので、雪山とは違い技術的な要素が強い岩登りでガイドとのコミニュケーションが上手く図れるかどうか、全く想像がつかなかったからである。 年末にツアー登山でキリマンジャロに行った時に、隊長の貫田宗男さんにマッターホルンについて尋ねたところ、「とにかく下りるのが大変な山だから、懸垂下降の練習を充分にしておいた方がいいですよ」というアドバイスを受けた。 これは近所にある登山用品店の店主で、以前マッターホルンに登ったことのある方の意見と同じであった。 はたしてマッターホルンとは登る山ではなく下る山なのであろうか?。

  ちょうどそんな折り、書店で『五十七歳の頂上』というタイトルの本が目に止まった。 内容は著者の高橋銑十郎さんが、4年がかりでマッターホルンに登られたという感動的な自伝であった。 早速買い求め何度も読み返した後、思いきって高橋さんに私の拙い登山経験や、登山の訓練のためにマラソンをしていること、英語が苦手なこと等を書いた手紙を出して、アドバイスをしていただけるようお願いした。 有り難いことに、しばらくして高橋さんから返事をいただくことが出来た。 内容は「貴方ならきっと登れますよ」という嬉しいものであった。 但しそこには一言重要なことが書き添えられていた。 「貴方には必要ないかもしれないが、現地(ツェルマット)で一度リッフェルホルン(2996m)の岩登りの講習を受けることをお勧めします」。 それが最善の方法であることは、高橋さんの著書を読んだ私も賛成だった。 勤務先の名刺が添えられていたので、お礼の電話を入れたところ再び激励された。 また高橋さんはその後モンテ・ローザ(4634m)にも登られたが、こちらも大変素晴らしい山であったとのことであった。 モンテ・ローザといえばスイス及びイタリア両国の最高峰であり、マッターホルン同様挑戦するには申し分ない秀峰である。 しかし昨夏ゴルナーグラートの展望台から仰ぎ見たモンテ・ローザ(イタリア語で“バラ色の山”、ロマンシュ語では“氷の山”)の頂は遙か遠くに望まれ、私にとってはまさに“高嶺の花”という印象を受けた。 またガイドブックでは中級のグレードになっているものの、B.Cの山小屋からの累積標高差が1880mもあるため、マッターホルンと同様に登攀は天候にも大きく左右されそうであった。

  ところで当初私が考えていた2回目のアルプス弥次喜多山行計画は、フランスのシャモニをBCとして憧れのモン・ブラン(4807m)とイタリアの名峰グラン・パラディゾ(4061m)を登り、更に天気が許せばツール・ド・モン・ブラン(モン・ブラン山群一周のハイキング)をするというものであった。 しかし、3月の下旬にモン・ブランの一般ルート上にある山小屋(テート・ルース小屋)が改築中で使用出来ないという情報を入手したことと、既にモン・ブランに登られている山の会の細井さんから、「将来マッターホルンを登る予定があるのなら、若いうちに(先に)登った良いですよ」という助言があったため、経験不足を若さ?でカバーすることにして、思いきって今回マッターホルンに臨むことを一人心に決めた。

  そんな軽率な私と違い危ないことが嫌いな妻に、あらためてマッターホルンに登りたい気持ちがあるかと聞いてみたが、予想どおりその気は全くないと言う。 それどころか、私にも無理だからやめたほうが良いと、全く取り合ってくれなかった。 すでに雲行きが怪しくなってきた。 仕方がないので、とりあえずマッターホルンは“下見”ということにして、モンテ・ローザを第一目標にツェルマット周辺の山々を登るという計画に変更し、昨年同様旅行会社のH.I.Sに航空券(324000円)、ホテル(180000円)、スイスカード(27800円)の手配を依頼した。 そして昨夏の経験をもとに、ブライトホルンを含め何とか私達の登れそうな?山をガイドブック等で探してみた。 カストール(4228m)、ポリュックス(4092m)、ドム(4545m)、リムプフィッシュホルン(4199m)、アルプフーベル(4206m)、メッテルホルン(3406m)、そして昨夏悪天候で断念したヴァイスミース(4023m)とラッギンホルン(4010m)等が候補に上がった。 後は現地で最新の情報を入手し、天気や体調と相談しながら、ブライトホルンとメッテルホルン以外はその都度ガイドを雇って登るという至ってシンプルな計画である。 またB.Cをツェルマット一か所としたため、移動や生活の心配もなく全く気楽なものだ。

  しかし6月に入ると、それまで“下見”ということになっていたマッターホルンに、何とか確実に登りたいという願望が芽生え始めてきた。 ふと日本でも岩登りの練習をしておいた方が良いのではないかと思い立ち、岩登りの講習会の申込みをしようとしたが、プライベートの講習会でもないかぎり、重登山靴で登る等マッターホルンを意識した講習会はなかった。 そこで少しでも岩に慣れておこうと表妙義の縦走を行い、途中にあった一番傾斜のきつい20m程の長い鎖をマッターホルンの山頂付近にある懸垂固定ロープに見立て、休まずに猛然と何度も登り下りしてみたりして、自己流の岩登りの訓練を行った。 妻はそんな私の姿を一瞥もせず、岩場の下であくびをしていた。 マッターホルンの“下見”用のヘルメットとワンタッチアイゼンが付けられる軽量の登山靴を新調し、下準備はすっかり出来た。

  ところが7月下旬の海の日の連休に、菅野さん夫妻と北アルプスの最北端の縦走路である『栂海新道』を歩いていた時、不覚にもよそ見をして痩せ尾根から転落してしまい、左膝の内側の靱帯を伸ばしてしまった。 8月中旬の出発に向け、これから富士山へのトレーニング登山や、走り込みをしようと思った矢先のケガであった。 二週間程、歩けるが走ることが痛くて出来ない状態が続いた。 出発直前には何とか短い距離であれば走っても痛くない程に回復したが、今度はトレーニングのしすぎで風邪をひいてしまった。 本当に自己管理が出来ていない自分に腹が立った。 結局その後は山にも登れず、出発の日を迎えることとなってしまい、高嶺の花はますます遠ざかっていった。

  【ツェルマット再訪】
  8月16日、いよいよ昨夏に続き2回目のスイスへの旅立ちである。 本来夏のアルプスで最も天候が安定するのは、7月下旬から8月中旬にかけてであるといわれている。 ところがこの時期にはマッターホルンの登山者が最も多く、ガイドの手配も難しいと脇坂氏や高橋氏の著書には書かれていたため、敢えて8月下旬にアタックすることにして、今回の妻との弥次喜多山行は8月17日から9月1日(現地日付)の二週間の日程で臨むこととした。 また前回はチューリッヒへJALの直行便で行ったが、今回は予算の都合で(ガイド料が高いため)シンガポール航空を利用して、約2倍の時間をかけて(機中泊)入国することにした。 この時期で@約16万円は貧乏人の私達にとっては非常に魅力的であるが、この便は成田を正午に出発し翌日のam6:30(現地時間)にチューリッヒに着く鈍行で、搭乗時間は約20時間である。

  8月17日am6:30、飛行機は定刻どおりチューリッヒのクローテン空港に着いた。 昨夏も来ているので、空港の到着ロビーから地下の鉄道駅への順路は、全く迷うことはない。 am7:43発のブリーク行きの直通列車に乗り、ブリークから登山電車に乗り換えて、pm0:43に一年ぶりに懐かしいツェルマットの町に着いた。 昨年と同様雨が私達を出迎えてくれたが、気を取り直して重たい荷物を引きずりながら冷たい雨の中を15分程歩き、今日から15泊するB.Cのホテル『アルペンブリック』(三ツ星・ツイン・朝食付きで一泊12000円)へチェックインした。 鍵を受け取り部屋に入ると、シャワールームは大きなバスタブ付きで、値段の割には快適そうであった。 またベランダがマッターホルンの方角に向いているため、天気が回復すれば部屋から見えるかもしれない。

  荷物の整理をした後、昨年もお世話になった日本語観光案内所へと向かった。 案内所で対応してくれた若い男性は昨年と同じ方だった。 彼も昨年情報収集に来た私達のことを覚えているとのことであった。 早速天気の状況を尋ねると、今月の7日・8日と続けて雨が降ったが、その後はずっと良い天気が続き、今日が久々の雨であるという。 “ツキにも見放されてしまったか!”とその時は思った。 雑談で「今年はマッターホルンにアタックしにきたんですよ」という話を彼にしはじめたところ、突然近くにいた藤山さんという方が「実は私、つい先日マッターホルンに登ってきたんですよ」と話しかけてこられた。 思いがけない“情報”に驚き、今度は藤山さんをつかまえてその時の体験談を伺ったところ、「7日・8日の雨(山は雪)で7日から11日まで地元のガイドが山に入らず、12日からガイドが入ったため、マッターホルンは大盛況でさながら戦争のような恐ろしい状況でしたよ!」という意外な感想を述べられた。 当初この意味は私にはピンとこなかったが、後日充分理解することとなった。 一番懸念していたガイドのことについて伺ったところ、藤山さんは地元のガイドとではなく、日本人のガイドと先週こちらに来て無事山行を終え、これからガイドと別れて日本に帰られるところだという。 またマッターホルンを登られた後の予備日にモンテ・ローザにも登られたが、こちらも山頂部分の岩場の登攀が相当大変だったとのことであった。 やはり私達にとっては高嶺の花なのであろうか?。 しかしこんなタイムリーな話を、到着後直ぐに聞くことが出来たことは本当にラッキーであった。

  藤山さんと案内所の方にお礼を言い、私は時差ボケと風邪で相変わらず体調が悪かったので、ホテルに戻りベッドで横になっていたが、妻は元気なものですぐにウインドショッピングにと出掛けて行った。 妻はホテルに戻ってくるなり、再び藤山さんと土産物店で出会ったらしく、「これからレストランでガイドの増井行照氏と落ち合うので、何か聞きたいことがあればどうぞお越しください」と誘われたという。 体は重たかったが少しでも情報の収集をしようと思い、レストランへと足を運んだ。 増井氏は想像とは違い、いわゆる“山ヤ”の風貌ではなく、知的でどこか温かみのある雰囲気をもった方だった。 早速増井氏に、「私は本格的な岩登りの経験は有りませんが、山登りは大好きで週末は殆ど山へ通っています。 岩に対する恐怖心がないため度胸だけでマッターホルンを登りにきたのですが、その程度の実力で大丈夫でしょうか?」と切り出すと、「マッターホルンは普段から岩登りをやっている人達がその延長線上で登る山ですから、岩登りの経験がないと難しいかもしれませんね」と一人で熱くなっている素人の私を気遣いながら、優しい口調で諭すようにアドバイスをして下さった。 隣に座っていた藤山さんも一年間増井氏と岩や雪山の訓練をした後、合格点を与えられ今回やっと登るに至ったという。 “大丈夫ですよ”とか、“頑張ってください”という甘い言葉を期待していたが、逆にお二人の口調からは“貴方にはちょっと無理ですね”という印象を受けた。 妻もそれを察してか、「やっぱり無理だからやめた方が良いわよ」と私に迫ってきた。 何だか今日のツェルマットの空以上に雲行きが怪しくなってきた。 しかし私は逆にファイトが湧いてきた。 万が一登れた時は自分を信じて良かったと思えるからだ。 引き続き登られた時のルートの状況や印象等をお二人に尋ねたところ、心配された雪には悩まされることはなかったが、岩は全般的に日本の岩と比べて滑らかで掴みにくいこと、山頂付近の懸垂固定ロープを使う登りでは腕が相当疲れること、アイゼンをつけたままで岩場を登り下りすることが大変なこと、常に全身を動かしているので寒さはあまり感じなかったとのことであった。

  短い時間ではあったが、わざわざ他人のために貴重な時間をさいて情報を提供して下さったお二人に感謝してホテルに戻った。 pm8:00前のテレビの天気予報を見ると、明日と明後日の天気はまだ不安定であったが、その後の天気は安定するようであった。

  【ヘルンリヒュッテ】
  8月18日、青空は少し見えたがホテルの部屋からはまだマッターホルンは見えなかった。 朝食(バイキング)を食べに食堂へ行く。 昨年泊まったホテルと同様に、並べてあるパンやジャム、チーズ、ハム、ヨーグルト、フルーツ、ジュース類の種類は豊富で、また味も充分満足するものであった。 今回はなるべく“テイクアウト”はしないつもりでいたが、結局誘惑には勝てなかった。 人間(私達)の欲は深いものである。もっとも外国人は私達の2倍の量を食べているであろうし、順調にいけばホテルに泊まらない日も3〜4日あるから、許してもらえるであろう。

  今日は計画どおりマッターホルン登山のB.Cとなるヘルンリヒュッテ(3260m)に“下見”に行くことに決め、am9:30過ぎにホテルを出発した。 昨年も一度行っているため、ゴンドラの切符の買い方や乗車もスムーズで、何だか懐かしい気持ちだ。 乗換え駅のフルグで一年振りに憧れのマッターホルンが霧の中から大きな顔を一瞬覗かせてくれたが、やはり昨日の雪で山肌が真っ白になっていた。 写真の被写体としては最高だが今回は別だ。 早く溶けてくれるようにと祈るしかない。 土曜日ということも手伝って、ゴンドラの終点のシュヴァルツゼー(2583m)には結構人出があった。 運が良いことに、シュヴァルツゼーに着いたとたん、先程まで山々を隠していた霧があがり始め、青空が急速に広がってきた。 一年振りの懐かしい山々との対面に、沈みがちだった気分も和らぎ、仁王立ちしてアルプスの山々の展望を楽しんだ。

  ヘルンリヒュッテまでのトレイルは、よほど印象的だったのか良く覚えていた。 眼前には昨年同様雪化粧したマッターホルンが、圧倒的な大きさと高さで聳え立っている。 そういえば“山”に登るのは1か月ぶりだ。マッターホルンのために新調した登山靴も、今日が“筆下ろし”となってしまった。 早く足に馴染んでくれると良いが。 まだ時差ボケと風邪で体が重いが、トレーニングや高所順応もしなければならないので、ゆっくりではあるがなるべく休憩をしないように、ヘルンリヒュッテまでの標高差約700mを1時間40分で登った。

  シュヴァルツゼー(湖)周辺の人出とは反対に、今日も明日もマッターホルンにガイドが入らないため、ヒュッテのテラスは空いていた。 早速ヒュッテの裏手のヘルンリ稜の取り付きまで一登りすると、そこから先には新雪がだいぶ積もっていた。 雪が山を覆っているせいか、吹いてくる風はとても冷たく、ヤッケを着込んでも震えが止まらなかったが、これも訓練のうちと強がってヒュッテの中に入らずにいたので、妻に呆れられた。 寒さに震えながらテラスで昼食をとり、一年ぶりに憧れの山を真下から見上げたが、気のせいかその頂は昨年の記憶よりもさらに高くそして遠くに見え、“本当にこの山の頂に素人が立つことなんて出来るのだろうか?”という不安が一瞬脳裏をかすめた。 またそれ以前に、果してこの岩肌を覆っている雪は溶けるものなのか、もし溶けなければ計画どおり今年も“下見”になってしまうだろう。 “この状況もおり込み済みだ、そのつもりで2週間も滞在するんじゃないか”と自分に言い聞かせ、再訪を誓ってヒュッテを後にした。

  何度も後ろを振り返りながらトレイルを下り、pm3:00過ぎにシュヴァルツゼーに戻った。 今朝の天気予報では明日は不安定な天気であるということだったので、明日に予定していたブライトホルンへの登山は無理だろうと考え、登山靴を足に馴染ませるため少し無理をして、ツェルマットまで標高差約900mを歩いて下ることにした。 湖畔の小さな白い礼拝堂の中に入ってみると、意外にも祭壇にはローソクの火が灯り、管理も行き届いていて非常に清潔であった。 今回の山行の成功と安全を神に祈った。

  アイガー(3970m)、グランド・ジョラス(4208m)と並んでアルプスの三大北壁と称される、マッターホルンの威圧的な北壁を左手に見上げながら1時間ほど下ると、スタッフェルと地図に記された所にある小さなレストランに着いた。 レストランのオーナーの娘と思われる5歳位の幼女が寄ってきて、パチパチとおもちゃのカメラで私達を撮り歓迎してくれた。 ここでは遊び相手もいないのであろう、来店するハイカーをつかまえては、カメラマン気取りで遊んでいる姿がとても愛らしかった。 レストランで一休みした後、“ガラ〜ン、ゴロ〜ン”と大きなカウベルの音を響かせて迫ってくる牛の群れと牛飼いに追われるように更にトレイルを下った。 途中のツムットの集落でも小さな礼拝堂があり、中に入ってみるとやはり祭壇にはローソクの火が灯り、室内は清潔に保たれていた。住人の信仰心の厚さがうかがえた。

  pm6:30にホテルに戻り、シャワーを浴びてから夕食を食べに町のメインストリートに向かうと、お祭りのようなものをやっていて、屋台とテーブルやイスで道は埋まり、狭い通りは観光客でごった返していた。 目ざとい妻が、増井氏と数名の日本人が座っていた席を見つけ、再び同席させてもらうことにした。 増井氏によると夏のシーズン中、何度かこのような“市”がたつということであった。 昨日お会いした藤山さんの他に、増井氏の友人と、藤山さんと入れ替わって日本から来た“門下生”の太田さん夫妻とも交流することができた。 太田さん夫妻も昨年の夏にベルナー三山(アイガー・メンヒ・ユングフラウ)を登られたということで、何か不思議な縁を感じた。 太田さん夫妻は明日高所順応のため、ブライトホルンへ登られるという。 屋台から酒や肴を調達しながら、マッターホルンを中心とする山談義が延々と続き、何時までも佇んでいたい楽しい雰囲気であったが、打ち上げは山に登れた後にゆっくりやろうと、心を鬼にして太田さん夫妻に続き席を辞した。


シュヴァルツゼー(湖)


シュヴァルツゼーから見たマッターホルン


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たマッターホルン


ドム(中央左)・テッシュホルン(中央右)・アルプフーベル(右)


ダン・ブランシュ


オーバーガーベルホルン(左)・ツィナールロートホルン(中)・ヴァイスホルン(右)


ヘルンリヒュッテ


寒々しいマッターホルンの北壁


ツムットの集落付近から見たリムプフィシュホルン(中)・シュトラールホルン(右)


ツェルマットのメインストリートで催されていたお祭り


  【ブライトホルン】
  8月19日、夜明け前から降り始めた小雨はあがり、初めてホテルの部屋からマッターホルンが見えた。 今日は天気が悪いので、今後のスケジュールを練りながら軽いハイキング程度に留めようと思っていたが、今朝の天気予報では今日の天気は昨日の予報からだいぶ好転したので、当初の計画に従って昨年初めてガイドレスで登ったブライトホルンに再び登ることにした。 また向こう5日間の週間天気予報によれば明後日あたりから天気は安定しはじめ、4日後、5日後あたりが快晴となっていた。 しかしいくら天気が良くても雪が溶けなければマッターホルンには登れない。 いろいろと考えた結果、とりあえず明日(20日)はリッフェルホルンでの岩登りの講習会、21日から22日にかけては一泊二日でドムへの登山、そして24日と25日の2回をマッターホルンのアタックの日とすることに決めた。

  朝食を急いで食べた後、ガイドの予約をするため、am8:30に開くアルパインセンター(ガイド組合)に向かう。 英語が殆ど話せない旨をカウンターの女性に謝り、知ってる限りの怪しげな英語と予め日本で山の名前や希望の日等を書いてきたメモを見せながら、ガイドの予約を申し出た。 思ったより苦労したが、それでもなんとか通じたようで、幸運にも一応希望日どおりでガイドは手配出来るようであった。 彼女から登山経験?を聞かれたので、「メンヒ、ユングフラウ、ブライトホルン、アラリンホルン、アーンド、キリマンジャロ」と目一杯の山々を正直に答えたところ“合格”したようで、彼女は“手配書”のようなものを書き終わると私に説明を始めた。 それによると、まず岩登りの講習会は明日のam7:45にツェルマットの駅でガイドと待ち合わせること、次にドムはB.Cのドムヒュッテで21日のpm4:00にガイドと待ち合わせること、そして岩登りの講習会のガイド料190フラン(邦貨で約15000円)とそれの5パーセントのガイド手配料10フラン及びドム登山のガイド手配料40フランはここで支払い、ドム登山のガイド料750フラン(邦貨で約58000円)は登山終了後にガイドに直接支払うようにとのことであったが、肝心のマッターホルンについては手配書や説明はなく、“予約台帳”のようなものに私の名前を記入しているだけであった。 台帳に記入し終わると、彼女から「22日の午後か23日の午前中にもう一度ここに来て下さい」と言われた。 彼女の話ぶりから、どうやら雪のためマッターホルンのガイドがその日に山に入るかどうかが確定していないからのようであった。 問題はこの“予約”の意味するところは、はたしてマッターホルンが登れるようになった場合に、再度この予約の順番で登る日が決まるのかどうかということである。 そのあたりの細かいやりとりは、拙い私の語学力ではとても通じず、もどかしい思いであったが、5日後の快晴の天気予報が当たるとも限らないので、良い方に理解するしかなかった。

  アルパインセンターでのガイドの予約に30分以上もかかったため、だいぶ出発が遅れてしまったが、ブライトホルン(4165m)に登る準備をした後、am10:30過ぎにホテルを出発した。 時間・天気とも中途半端だったせいか、日曜日にもかかわらずゴンドラやロープウェイは空いていた。 am11:25に終点のクライン・マッターホルン(3883m)に着き、トンネルの出口でアンザイレンしてam11:40に出発した。 名前は伺えなかったが、私達より少し年配の一人の邦人男性がすぐ後から続いた。 取り付きまでは約1時間の雪原(ブライトホルン・プラトー)歩きであり、このトレイルからの景色もよく記憶していて懐かしい。 しかし前回と全く違うのは、登山者の数である。 この時間帯であれば、下山してくるパーティーが沢山見えるはずであるが、早朝の天気が悪かったせいか、意外にもかなり前方を登っているパーティーが数組見えるのみであった。

  ロープウェイ等でツェルマットから一気に標高差2200m以上を上がるため、普通に歩くだけでも体に対するストレスは相当強いはずだが、訓練のため早足で休まずに歩き続けた。 その横を先程の男性が「お先に〜!」と勢い良く追い抜いてゆく。 よほどのベテランらしい。 50分ほどで取り付きに着きアイゼンを着けるが、困ったことにすでに午後に入ったせいもあり、後続隊が全く見えてこない。 前方には先程のベテラン氏の他に二組のパーティーが見えているが、はたして私達と同じピストンかどうかは分からない。 ブライトホルンを周回する上級者向けのルート(トラバースルート)があるからだ。 昨年一度ガイドレスで登っているとはいえ、今日はすでに少し霧も湧き出しているし、後続のパーティーもいない状況ではブライトホルンとはいえ侮れない。 もし先行しているパーティーが全員下山して、後続のパーティーが来なかった場合には、潔くその時点で私達も下山しようと心に決めた。

  明瞭なトレイルが一直線に続く登りやすい斜面を、高曇りではあるがマッターホルンをはじめとする周囲の山々の展望を楽しみながらひと登りすると、運が良いことに雪原の向こうから取り付きに向かってくる一組のパーティーの影が見えてきた。 これで一安心と色気を出し、昨年約1時間かかった登りを45分程で登ろうと少しペースを上げたが、血液がだいぶ酸欠になっていたようですぐに息が上がってしまった。 それでもペースを落とすことなく、まるで何かに取りつかれたように喘ぎ喘ぎ登り続けていくと、山頂直下の所でもう先程のベテラン氏が下ってきた。 風が急に強くなってきたので長話しは出来なかったが、氏はこれから仲間と一緒に名峰ヴァイスホルン(4505m)を目指されるとのことであった。 念のため山頂の登山者の状況を聞いたところ、まだ二組のパーティーがいるとのことであった。

  山頂に近づくにつれさらに風は強まり辛かったが、pm1:20に予定より5分早く取り付きから40分で山頂に着いた。 昨年と違い高所順応が出来ていない上に、ハイペースで登ったのでバテバテであったが、とりあえず目標の一峰を無事登ることが出来た。 ちょうど私達と入れ違いに山頂にいた二組のパーティーが下山していったため、思いがけずあの賑やかなブライトホルンの山頂で私達だけの世界となる幸運に恵まれた。 風の当たらない場所に腰を下ろし、懐かしい展望を堪能していると、間もなく最後のパーティーが到着した。 「ボンジュール!」。 挨拶の言葉でフランス人と分かった。 「コングラチュレーション!」と笑顔で“恩人”を歓迎した。 本日の“殿(しんがり)”は私達より少し年上の夫婦のパーティーであった。 高所順応のためもっと山頂に長居したかったが、“国際親善”にとお互いの写真を撮り合った後、再び殿にならないように先に山頂を辞した。

  天気はやはり不安定で、風も強まりマッターホルンも霧の中に見え隠れするようになってしまったので、クライン・マッターホルンの展望台は割愛し、早々にロープウェイに乗り込んだ。 偶然にもロープウェイの中で、昨日屋台で知り合った太田さん夫妻と再会した。 太田さん夫妻は予定どおりブライトホルンに登った後、難しいトラバースルートを周回されたとのことであった。 素人の私達とは雲泥の差だ。 お互いのマッターホルンの登頂の成功を祈念し合い、私達は途中駅のトロッケナー・シュテークの駅で下車した。 駅舎の上のレストランのテラスで、登ってきたブライトホルンを眺めながら祝杯をあげたが、風邪のため体は相変わらずだるく、先程から高度障害によるものと思われる頭痛も始まり、ふと“これが今回のアルプス山行の最初で最後の頂となってしまうのではないか?”という不安な気持ちが頭をよぎった。


ブライトホルンプラトーから見たブライトホルン


ブライトホルンの山頂


山頂から見たマッターホルン・ダンブランシュ・オーバーガーベルホルン・ツィナールロートホルン(左から)


下山後にトロッケナー・シュテークから見たブライトホルン


トロッケナー・シュテークから見たドム(中央左)とツェルマットの町(左下)


  【リッフェルホルン】
  8月20日、am6:30起床。小雨が降っているようで、マッターホルンも霧の中に眠っている。 今日はリッフェルホルン(2996m)で岩登りの講習を受ける予定であるが、この天気ではどうなることやら。 それ以上に風邪が治らずに体調が悪く、元気であれば初めての体験にワクワクするはずなのに、まったくやる気がおこらない。 しかしそんなそぶりは妻の前で見せる訳にはいかない。 ツェルマットの駅にam7:45に集合なので早めに朝食をとり、妻に見送られて造り笑顔でホテルを出発した。 妻はトレーニングのため、生まれて初めての単独行でツェルマットの裏山へのハイキングに出掛けるという。 

  人出の多い駅前でガイドと落ち合うことは難しいと思ったが、その心配は要らなかった。 いかにも受講生らしい長身のイギリス人の青年がすぐに声を掛けてきた。 片言の英語と片言の日本語で社交辞令を交わしているうちに、観光客やハイカーとは一線を画した格好の猛者達が10名程集合した。 しかしザイル等の登攀道具を持った人も何人かいて、はたして誰がガイドなのか分からない。 集合時間ちょうどに、誰よりも目つきの鋭いレゲエ風のミュージシャンのようなヘアースタイルの長身の男性が輪の中に入ってきた。 “レゲエ氏”は青く吸い込まれそうなその輝く瞳で全体を見渡し、ザイルを持ったうちの一人と何やら言葉を交わすと、出発時間の迫ったゴルナーグラート行きの登山電車に乗り込んでいったので、皆一同彼の後に続いた。 この人がチーフのガイドなのであろうか?。 車中では猛者達は談笑し、観光客は霧の合間から見える風景に一喜一憂していたが、私は言葉の壁に加え体調の悪さで眠くて仕方がなかったので、一人片隅で居眠りを決め込んでいた。 そして心の中では密かに今日の講習会が雨で中止にならないものかと願っていた。 風邪が完治しない中、冷たい雨に打たれたらますます体調は悪化し、4日後のマッターホルンへのアタックの日を迎えてしまうからだ。 まして明日からはドムに登ることになっている。 自分で決めた計画であったが、はたしてこの先どうなることやら。 そうこう思案しているうちに、出発点であるローテンボーデンの駅に着き、他の乗客が終点のゴルナーグラートの展望台に向かう中、猛者達だけが下車した。

  昨年写真を撮りにきた“逆さマッターホルン”で有名なリッフェルゼー(湖)を見下ろしながら、リッフェルホルンに向かって歩いて行く。 しかしなぜか隊列は定まらず、皆バラバラになって歩いている。 私は訳が分からず仕方がないので、何気なく先程のレゲエ氏のすぐ後について歩いていった。 5分ほど歩いたところで、氏は突然私の名前を聞いてきた。 「酒井です」。 社交辞令の言葉も思い浮かばなかったので、とりあえず名前だけを答えた。 「オー、サケーイね!」。 氏の名前も聞き返すこともなく、最初の自己紹介は終了した。 氏は私のことをひどく無口な人だと思ったに違いない。

  リッフェルゼーからせり上がっているリッフェルホルンの基部にさしかかった所で、皆一同に荷物を下ろした。 いよいよ講習の始まりか、どうやら中止はなさそうだ。 早速レゲエ氏は私とすぐ近くにいた私より年配のもう一人の外国人に向かって話を始めた。 「これから訓練に入ります。 岩登りの基本は二つです。 一つは小股で登ること、もう一つは手の力を使わず足で登ることです」。 やはりレゲエ氏はガイドであった。 氏は直ぐに目の前のちょっとした岩の塊に取り付いて手本を見せた後、私達にも同じことを二度三度とやらせた。 周囲を見渡すと、他のメンバー達もそれぞれ2〜3人のグループに別れて同じことをしているようだった。 どうやら私が想像していた団体の講習会ではなく、少人数の講習会のようであった。 簡単な“準備運動”の後、ハーネスを着け、新品のヘルメットを被り、雨具を着てガイド氏の後に続いて湖の反対側の方向に歩き始めた。 10分程歩いたところで滑りやすい岩の斜面をトラバースする所があり、ここからアンザイレンした。 私は図らずもいつもと同じ殿となった。 セカンドにならなかったのは、言葉が不自由だとガイド氏が困るからであろう。

  小雨が降ったりやんだりする中、am9:00過ぎに訓練用の岩壁の下に着いたが、さすがに確保なしでは登れそうにない角度だ。 後にアルパインセンターで岩のグレードは4級であることが分かった。 ガイド氏はセカンドの外国人に、ヌンチャクを回収するように指示を与えると、「私の登るルートをよく見ておきなさい」とだけ言い残して、すぐに岩壁に取り付いた。 上を見上げると5mおき位にハーケンが打ってあり、ガイド氏は一つ一つヌンチャクをそこに引っ掛けながら、リズミカルにどんどん登っていく。 登攀中のコミュニケーションがとれないと困るので、パートナーとお互いの自己紹介を行った。 パートナーの名前はアヘイムさん、ドイツ人だった。 ガイド氏は20m程登ったところで、上から私達に登ってくるように指示した。 セカンドのアヘイムさんが先に登り、私が続く。 下からは分からなかったが、要所要所に手掛かりはあった。 しかし教えられたとおりになるべく腕力を使わないようにするため、顔や体を岩に密着させる格好で登らなければならない。 アヘイムさんが少し神経質になってきた。 雨で岩が濡れているからだ。 ガイド氏に確保されているとはいえ、アヘイムさんが落ちれば私も一緒に落ちるかもしれない。 だが不思議と恐怖感はなかった。 私も五体を駆使して岩にしがみつかなければならず、必死だったからだ。 先程までのやる気のなさは一気に吹き飛んだ。 一番困ったのは、アヘイムさんと私を結ぶザイルの長さが3m程しかないことであった。 アヘイムさんは腕力も強く足も長いため、彼のペースに合わせて無理に登ろうとすると腕力を使ってはいけないことは分かっていても、使わざるを得ないのだ。

  最初の1ピッチを何とか登りきった。 私の両腕はすでにパンパンに張り、握力は全く残っていなかった。 ガイド氏は笑顔で「オッキー(OK)!、ベリー・グゥー!」と一言私達を労った。 私も初めて笑顔で応え、おどけながら胸に手を当てて「心臓がドキドキしましたよ!」というジェスチャーをして見せた。 アヘイムさんも「のっけからきつかったですね〜」という意味あい?の言葉を発し、やっとお互いに打ち解けることが出来た。 ガイド氏は私達が回収したヌンチャクを受け取ると、何の指導もすることなくまた上へと登っていった。 やっと雨はあがり、陽が射してきた。 振り返ると新雪をうっすらと被った大河のようなゴルナー氷河が足下で白く輝き、対岸のブライトホルンが圧倒的なボリューム感で迫っている。 こんなデラックスな岩登り講習会も、そうざらにはないだろう。 体は重いがやっとやる気になってきた。 やはり私には太陽エネルギーが必要なのだ。

  2ピッチ目、3ピッチ目は1ピッチ目より傾斜も緩く、腕を酷使せずにすんだ。 ガイド氏は「オッキー!、ベリー・グゥー!」を繰り返すだけであった。 ガイド氏が先行している間が私達の休憩時間であり、狭いテラスで持参した行動食をアヘイムさんと交換しながら食べたり、片言の英語で雑談したりして連帯感を強めていった。 気が緩んだのも束の間、4ピッチ目は再び大変だった。手掛かりがどうしても見つけられず、ハーケンの上に手や足を掛けて登る場面もあって、本当に緊張した。 5ピッチ目、6ピッチ目は強烈な陽射しで岩も乾き、また慣れてきたせいもあり、少し楽しむ余裕も出てきた。ガイド氏の「オッキー!」の声のトーンは最後まで変わることなく、7ピッチ目で一気に山頂直下に躍り出て、とりあえず“登頂”の握手を皆で交わしあった。

  下りはてっきり今登ってきたルートをそのまま下りるのかと思ったら、山頂を越えて反対側のかすかな踏み跡のあるなだらかな斜面を、リッフェルゼーを足下に見ながら出発点に向かって下っていった。 そのまま下りて行けそうだったが、2か所ほどわざと崖になっている所を選び、下降の訓練があった。 今度は殿の私が先に下りることになった。 登りと逆の方法で下りるのかと思ったら、ガイド氏が上から「岩から手と足を離しなさい!」とジェスチャーを交えて言った。 いわゆる“懸垂下降”のことであろうか?。 半信半疑であったが、覚悟を決めて恐る恐るまずは手を、続いて足を離すと体は無事“宙吊り”となった。さらにガイド氏は「手と足で岩を突いて後ろ下に飛びなさい!」と言う。 言われるままにやってみると、体重のかけ方に比例して面白いように体が下に下がっていく。 日本では下降器(エイト環)を用いてやるのが一般的であるが、こちらではガイドが上で確保するだけのシンプルなものであった。 念のためガイド氏に、「この方法は何と言うのですか?」と尋ねたところ、“アブセーリング”とのことであった。 う〜ん、どこかで聞いたことがある。 やはり懸垂下降のことだ。 たった2回の下降の訓練であったが、痛めていた左膝への影響もなくホッとした。 ガイド氏は私達が下った崖のすぐ脇の切り立った岩壁をなんなく一人で下りてくる。 それを見てアヘイムさんは「ライク・ア・モンキー(まるで彼は猿だね)!」とガイド氏を驚きの気持ちを込めてからかっていた。

  山頂から30分程で下りきり、am11:00過ぎに出発点に戻った。 ザイルを解いて即解散かと思っていたところ、堰をきったようにアヘイムさんがガイド氏に話を始めた。 ドイツ語での会話が弾んでいる。 全く分からないかと思ったが、話の流れからどうやらアヘイムさんは若い頃マッターホルンに一度登ったことがあるようで、年を重ねた今日、再びチャレンジしに来たようだった。 二人の話が一段落したところで、社交辞令にアヘイムさんとガイド氏の年齢を尋ねてみた。 アヘイムさんは53歳、ガイド氏は30歳とのことであった。 更に遅ればせながら、ガイド氏の名前を尋ねたところ、ヴォルフカンク・カインプレという難しい名前で、オーストリア出身であると笑顔で答えてくれた。 調子に乗って、「私は岩登りは今日が初めての素人ですが、私でもマッターホルンに登れますか?」と片言の英語でヴォルフカンク氏に尋ねてみたところ、直ぐに氏から「ノー・プロブレム、エイト・アワー」という思ってもいなかった答えが返ってきた。 8時間とは外国人向けのマッターホルンの標準的な登攀(往復)時間であり、単なる社交辞令にしては具体的すぎる。 もしかしたら本当に登れるかもしれない・・・。ヴォルフカンク氏から思わぬ太鼓判を押してもらい喜んでいると、アヘイムさんが話に加わってきて、「サケーイ、本当に岩登りは今日が初めてかい?。 今日の岩登りはマッターホルンより短いが難しいよ。 マッターホルンの特徴は易しい岩登りが連続するだけだから、ここが登れた貴兄ならきっと登れるよ」と加勢してくれた。 そして豚だけがマッターホルンに登った・・・。  思いがけず最後はそんな方向に話が飛び、正午前にヴォルフカンク氏は腰を上げた。 私と氏はローテンボーデンの駅から登山電車でツェルマットに向かったが、アヘイムさんは再び湧き始めた霧の中を歩いて下っていった。 車内では相変わらず日本人の団体客が楽しそうに歓談していたが、私は体力の温存のため再び一人片隅で居眠りを決め込んだ。 ツェルマットの駅でヴォルフカンク氏に丁重にお礼を言って別れたが、まさか4日後に再び氏とザイルを結んでマッターホルンに登ることになるとは、夢にも思わなかった。


リッフェルゼー(湖)とリッフェルホルン(8月26日の撮影)


  【ドム】
  8月21日、天気は予想どおりの晴天だ。 昨日の午後は天気が悪いことを口実にホテルで充分に休養したため、風邪はだいぶ良くなったようだ。 今日は予定どおり明日ドム(4545m)にアタックするためのB.Cとなるドムヒュッテ(2940m)に向かう。 ツェルマットをam9:10に出発する登山電車に乗り、二つ目のランダで下車した。 この駅の標高はツェルマットより約200m低い1430mであり、ここからドムヒュッテまでの標高差は約1500mもある。 病み上がりのような体には少々きついが、スイスで二番目に高い(国境線上にない山の中では最高峰)憧れのドムの頂に立つことを夢見て歩き始めた。

  ランダの集落はとても小さく、別荘や貸しアパートのような建物が多い。 歩き始めてすぐに立派な教会があり、中に入って登頂の成功を神に祈った。 アフリカでもそうであったが、田舎の町で一番立派な建物は教会である。 所々に『ドムヒュッテ』と記された標識のある舗装された狭い急な坂道を15分程歩くと、小さな牧場の脇からハイキングトレイルは始まった。 今日はもう訓練をする必要はないので、体をいたわりながらゆっくりと時間をかけて登ることにした。 大きなザックを背負ったガイドレスと思われる何組かの外国人のパーティーと抜きつ抜かれつしながら、樹林の中の急なトレイルを登る。 ランダの谷を挟んで樹間に見えるヴァイスホルンが、ツェルマット周辺の展望台から見た端正な正三角形の岩峰とは違い、たっぷりと雪を戴いた優美な山肌を披露している。 その姿はどこから見ても本当に素晴らしく、“アルプスで最も美しい山”と讃えられているのはうなずける。

  トレイルは2時間程で森林限界となり、久々に浴びる夏の陽射しが肌に痛いが、氷河を越えて吹いてくる風はとても冷たく、暑さはさほど感じなかった。 私の持っている5万分の1の地図には載っていないが、『ヨーロピアンヒュッテ』という名の小さな山小屋が、トレイルから少し離れた所に建っていた。 標高は2200m位であろうか。 ヨーロピアンヒュッテを過ぎるとトレイルは急に険しくなり、鉄梯子やロープを使って登るような“アルペンルート”になってきた。 そしてそれはトレイルエンドのドムヒュッテまでずっと続き、図らずもアプローチから充実した“登山”となった。

  pm2:30、体はだるいが足の筋力はまだ衰えていなかったようで、予定より1時間も早く、ランダの駅から約5時間でドムヒュッテに到着した。 氷河のすぐ脇のモレーンの上に建つ堅固な石造りの六角形の建物は、いかにもアルプスの山小屋という雰囲気が感じられ、周囲の景観に溶け込んでいる。 予想どおり日本人は他に見受けられなかったが、ヒュッテの回りには大勢の外国人達が思い思いのスタイルで日光浴を楽しんでいた。 午後の陽射しはまだまだ強烈で、私達にとっては日向にいることが苦痛であるのに、本当に彼らの体質は理解しがたいものがある。 どうやら明日登る人達だけではなく、今日登った人達も沢山いるようだ。 私達のように一泊二日の行程にすると、ここから山頂まで累積標高差で1650m登った後、ランダの駅まで3000m以上下らなければならないからであろう。

  アルパインセンターで受領した“手配書”を見せながら、片言の英語で宿泊の手続きをする。 このヒュッテを切り盛りしている女将さんは今まで町中で会った人達とは違う大変牧歌的な地元民で、何と二桁の足し算が暗算で出来ず、大きな電卓を何度もたたきながら宿代の計算を行っていた。 宿代を支払おうとすると、何故か明日帰る時で良いという。それでは何のための計算だったのか?。 寝室に案内されると、室内は日本の山小屋と同じようなスタイルの二段ベットで、1mおきに枕と毛布がたたんで置いてあった。 唯一違うのは、厚さが10cm位あるマットレスが敷いてあることであった。 食堂に戻ると女将さんから、明日の私達のガイドは24歳の女性であると言われ、妻と顔を見合わせて驚いた。 傍らのテーブルに雑記帳が置いてあったので、暇つぶしに日本人の名前を探してみたところ、ほんの僅かではあるが名前やコメントが記されていた。 また意外にもドムヒュッテまでを目的としたハイキングの団体の名前もあった。

  約束のpm4:00になってもガイドは現れず、やきもきしながら明日の準備等をしているうちに、pm6:00の夕食の時間となってしまった。 後で分かったが、天気が続くとガイドは毎日何処かの山に入っているため、その日の仕事(ガイド)が終わる時間が定まらないのである。 今日は久々に天気が良かったせいか宿泊客が多く、ヒュッテの食堂は満杯であった。 しかし夫婦二人だけで切り盛りしているために配膳は遅れ、最初のスープが配られてから、サラダ、マッシュポテトとビーフシチューの盛り合わせの三品が配られるまで1時間半もかかった。 ちょうど隣の席に私達と同様にガイドを待っているという外国人の男性二人が座ったので、片言の英語で雑談などをして時間をつぶした。 食事の途中のpm7:00頃、やっと男女一名ずつのガイドが一緒に到着して声を掛けられた。 食後にミーティングをしますということで、二人は別のテーブルに向かった。 女性のガイドは外国人としては小柄で、また24歳よりは年上に見えた。 どうやら明日のガイド付き登山は、ここにいる二組だけのようであった。

  食事が終わり食堂が空いたところで、あらためてガイドと自己紹介をし合った。 ガイドの名前はスーザン氏、34歳であった。 さては女将さんに一杯食わされたか!。 スーザン氏は開口一番ドムについて、「イーズィー・バッド・ローング(易しが、とにかく距離が長い山である)」と言った。 そして間を置かずに「出発はam2:30を予定してますが大丈夫ですか?」と聞いてきた。 驚いて思わず時計を見た。 夕食の時間が遅くなったので既にpm8:00を過ぎている。 「朝食は何時からですか?」と一応尋ねたところ、これからヒュッテの女将さんに交渉するとのことであった。 次に私達の装備を点検したいというので、先程せっかくパッキングした荷物を全てまたザックから取り出し、一つ一つ丁寧に点検を受けた。 昨年お世話になったガイドのヨハン氏は全くそんな事はしなかったのに、女性であるが故の慎重さであろうか?。 アイゼンが靴に合うかどうかも入念に点検している。 どうやら装備は合格したようだ。 点検が終わると氏から、「明日の朝は大変暖かいので、出発時にはジャケットやオーバーズボンは身につけないように」とのアドバイスがあった。 ツェルマットの町でも早朝はかなり冷え込むのに、この氷河の傍らの3000m付近の場所が暖かいということは信じられなかった。 しかし寒さが苦手な私は、“暖かい”という言葉を聞いて心が軽くなった。 ミーティングが終わると、氏はヒュッテの女将さんと明日の朝食の時間について交渉を始めたが、結局am3:30前には出来ないとのことであった。 あっけなく朝食は無しで出発するということに決まったが、氏は全く悪びれていない。 ガイドブックにも記されているように、この山は“登山者を選ぶ山”なのだ。 たまたま夕食が口に合わなかった時にと持ってきたアルファー米の赤飯があったので、これを朝食に充てることにした。 pm9:00にベッドに横になったが、期待と不安が大きくてなかなか寝つけない。 ほんの一眠りしただけでam2:00の起床時間となった。


ツェルマットで滞在したホテル『アルペンブリック』


ドムヒュッテへのトレイルから見たヴァイスホルン


ドムヒュッテとドムの頂(左)


ドムヒュッテとヴァイスホルン


ドムヒュッテから見たツィナールロートホルン(右)とマッターホルン(左)


  身支度を整え半信半疑で外に出てみると、実際の気温は分からないが、スーザン氏の言ったとおり本当に寒さは感じなかった。 ヘッドランプの灯の下、ヒュッテのテラスでアルファー米の赤飯と行動食を食べた。 氏ともう一人の若い男性のガイドのダニエル氏は仲が良いのか、どうやら一緒に行動するような雰囲気であった。 お湯を貰うことが出来なかったため、ヒュッテの脇に引水してある水を水筒につめたが、これが大失敗であった。

  am2:30、予想どおりダニエル氏を先頭に2組のガイド登山隊総勢6人は暗闇の中を出発した。 先行しているパーティーは勿論いない。 得体の知れぬ緊張感が体を支配している。 岩を登る6人の靴音だけが静かな闇を切り裂いていく。 昨日のミーティングでは約1時間程岩場を登ってから氷河に下り立ち、そこからアンザイレンするということであった。 空は満天の星で、風もなく暖かい。まだ3000mの高さであるため呼吸も楽である。 このままずっと行けたらいいのにと願う。 一応トレイルはあるが、浮き石の多い岩場を30分程登ると、体もかなり温まってきた。 今日はろくに朝食も食べていないのに、背中やお尻がやけに汗ばんでくるなと不思議に思った直後、ザックの異変に気が付いた。 「ジャスト・ア・モーメント!」。 大きな声で皆を足止めし、恐る恐るザックを下ろしヘッドランプの灯で中を調べると、何と水筒から水が漏れ、中の荷物が濡れているではないか!。 水筒を見ると、不運なことに保温のために被せておいたカバーの止め口の紐がキャップの溝にかんでいて、そこから水が漏れていたのだった。 500CC程の水が衣類を濡らし、一番底に入れてあったオーバーズボン(雨具)は腰のゴム辺りが濡れてしまい、使い物にならなくなっていた。 ザックは外側からの濡れには強い反面、内側からの濡れには弱いということを初めて知った。 思わぬアクシデントと皆を足止めしてしまった気まずさで、のっけから気持ちが沈んでしまった。

  悔しい気持ちを引きずりながら足取りも重くさらに15分程登り、取り付きであるフェスティ氷河の上に下り立った。 スーザン氏は私達に「ここからは少し寒くなるので、フリースやオーバーズボン等を身に着け、アイゼンもここで着けなさい」と指示した。 濡れたオーバーズボンをはくわけにもいかないので、逆にズボンや靴を脱ぎ、予備に持っていた薄手のアンダータイツをはくことにした。 私が準備や水漏れの後始末に手間どっていたので、ダニエル隊は先行した。 アンザイレンした後、10分程遅れて私達も取り付きを出発した。 今回も私が殿(しんがり)だ。 各々を繋いでいるザイルの間隔は12〜3mといったところか。 暗闇の中、数百メートル先のダニエル隊のヘッドランプの灯が、星のようにまたたいて見えるのが面白い。 緩斜面の氷河をほぼ真っ直ぐに登っていく。 クレバスが思ったより多いが、雪が締まっているので踏み抜きはなさそうだ。 相変わらず風もなく助かるが、無駄な労力を使ったせいか、それとも暗闇の中の単調な登高が延々と続くためか、睡魔が襲ってきた。 そしてとうとうアンザイレンしていることをいいことに、目をつむりながら登るようになってしまった。

  1時間15分休まずに登り続け、ようやく行く手を塞いでいる岩場の前で休憩しているダニエル隊に追いついた。 スーザン氏とダニエル氏がなにやら打ち合せをしている。 打ち合わせが終わるとダニエル隊は急な岩場を登り始めた。 ダニエル隊が登っているわずかな時間が、私達の休憩時間となった。 今まで私達が登ってきたのがフェスティ氷河で、岩場を50m程登って支尾根を乗越した後、反対側のホーベルク氷河へは懸垂下降で下り立った。 妻は初めての経験に少しまごついている。 さらに登り易い斜面の所まで30m程下ったが、こちらの氷河も相変わらずの緩斜面である。 もうここからは別行動としたのであろう、ダニエル隊は先行しヘッドランプの灯はどんどん遠ざかっていく。 ひたすら緩やかな雪面を登る。 クレバスもなくなり、雪面を“シュルッ、シュルッ”と擦れるザイルの単調な響きが再び眠気を誘う。 前を行く妻は相変わらず真面目に歩いているようだ。 ふと昨夜氏が言った言葉が頭をよぎった。 “イーズィー・バッド・ローング”、ローング・・・ローング・・・。

  am6:00前になってやっと長い夜が明けてきた。 後ろを振り返ると、ヴァイスホルンを背景にセピア色をした空が茜色に染まり始めていた。 絶景だった。もし今日ドムに登れなかったとしても、この素晴らしい夜明けの景色を見れただけでも充分であった。 休憩して写真を撮りたかったが、スーザン氏に言い出す勇気はなかった。 先程の水漏れ事件で遅れをとっているからだ。 昨年のユングフラウ登山同様に、再び心のシャッターを切った。 夜が明けてくると、やっと眠気が覚めてきた。 どうやら睡眠不足というよりは、体内時計により眠さを感じていたようだった。

  am6:25、ホーベルク氷河を1時間以上登り続け、トレイルが右に大きく曲がっている所でやっと休憩となった。 高度計はないが、標高は既に4000m前後であろう。 左手にはナーデルホルン(4327m)、レンツシュピッツェ(4294m)を始めとするミシャベルの山々の頂と稜線がはっきり見えるが、肝心のドムの山頂は奥まっていて未だに拝むことが出来ない。 ヴァイスホルンの雄姿を写真に撮っていると、スーザン氏はザイルをコンティニュアス用に短く結び直した。 やはり休憩には理由があったのだ。 10分程休憩した後、山腹を大きく巻いている明瞭なトレイルを登り始めた。 陽は昇ったがまだ私達のいる所は日陰である。 風も少し出てきたので早く日向に出たい。

  30分程登ったであろうか、前を登る妻のペースが明らかに落ちてきた。 妻はスーザン氏に「モア・スローリー!」と何度かリクエストしていたが、しばらくしてとうとう妻の足は止まった。 疲れたので少し休みたいと言う。 長時間の登高で、知らず知らずのうちにボディブローを受けていたのだった。 氏は「ノー・プロブレム」と優しく了解してくれた。 私も妻に「もうここまで来れれば充分だから、登れそうになかったら無理をしないでいつでも引き返していいよ!」と励ますと同時に、“シャリバテ”かもしれないと思い、ポケットに入れておいた煎餅等の行動食を食べさせた。 妻は食べ終わると少し元気が出たようで、再びゆっくりではあるが歩き始めた。 時々後ろから妻に「無理をしないでいつでも引き返していいよ」と繰り返し声を掛けたが、実は私もシャリバテで相当へばっていたのであった。

  最後の登りに向けてトレイルは左に大きく反転し、やや直登気味に傾斜を強めた。 高さの目安にしていたナーデルホルンの頂が目線より下になってきた。 そして妻の足取りにも“頂に立ちたい”という強い意思が感じられるようになってきた。 山頂はまだ見えてこないがそう遠くはないはずだ。 前方から先行していたダニエル隊が下ってくるのが見えた。下りのスピードは早く、あっという間にダニエル隊と再会した。 「コングラチュレーション!」。 無事登頂を果たされた二人の隊員に労いの言葉をかけた。 スーザン氏とダニエル氏は一言二言話をしただけですれ違い、休憩にはならなかった。 さあ私達も彼らに続くのだ、山頂は近い!。 

  ダニエル隊と別れると傾斜はさらにきつくなり、また風も一段と強まってきた。 妻に続き私も足が上がらなくなってきた。 しかし水漏れ事件の前科者の私が休憩をリクエストすることは許されない。 “この状況を乗り切れないようでは、マッターホルンなど夢の夢だ”と自分に言い聞かせた。 しかし山頂直下の急斜面でとうとう私の足も止まった。 シャリバテだった。 「ジャスト・ア・モーメント!」。 声をふり絞って先頭のスーザン氏に呼びかけた。 手袋をはずしてポケットにある行動食を探したが、先程の休憩の時に妻に全部あげてしまったので、飴玉が一つしか残っていなかった。 仕方なく飴玉を口にしたが、意外にも僅か30秒程の休憩とたった一粒の飴玉で私の体は蘇った。 再び喘ぎ喘ぎ登り始めると、間もなく傾斜が緩み稜線の先に十字架らしき物が目に飛び込んできた。 時計を見るとam9:00ちょうど、ヒュッテを出発してから6時間30分の長旅であった。 岩の露出した猫の額程の狭い山頂には、十字架にはりつけにされたキリスト様の像が、誰が着せたのであろうか虹色の布をまとって立っていた。

  「お疲れ様〜!、やったね〜!、よく頑張った!、おめでとう!」。 妻と抱擁し、お互いの登頂を讃え合った。 ラストスパートがきつかっただけに、辿り着いた感激は一層大きかった。 「コングラチュレーション!」。 スーザン氏も私達の登頂を喜んでくれた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!」。 素人の私達をここまで連れてきてくれた氏と固い握手を交わした。 神様が用意してくれた素晴らしい快晴の天気の下、スイス第二の高峰の頂からはツェルマット周辺の山々のみならず、モン・ブランやベルナー・オーバーラントの山々等、アルプスの山々が全て見渡せた。 昨日からずっと見上げてきた眼前のヴァイスホルンも心なしか低く見える。 よくここまで登って来れたものだと、我ながらあらためて感心した。 先程までの疲れも全て吹っ飛び、夢中で写真を撮りまくった。 そして未明に出発してから初めて腰を下ろして休憩し、行動食を食べながら妻とダイナミックなアルプスの展望を楽しんだ。 日本では馴染みの薄い山であるが、計画どおりここまで登ってこれたという達成感と、快晴の天気の中私達だけで山頂を独占した気分は実に爽快であった。

  登っている時とは違い、山頂での休憩時間はあっという間に経過し、am9:20、スーザン氏に促されて思い出深い頂を後にした。 僅か20分間の頂であったが、私達にとってドムは“イーズィー・バッド・ローング”のみならず、“インプレッシィブ(心に深く残る山)”であった。 そして何よりもこの長い登りの経験と高所順応は、次の山々へのチャレンジに際して本当に大きな自信となり、また財産となった。 それにしてもここから麓のランダの町までの累積標高差は3160mである。 これほどまでに長い下りが他にあるだろうか。 下りは例によって私が先頭を任された。 終始眼前のヴァイスホルンを眺めながら、たった今私達がつけてきたトレイルを下る。 先程の辛い登りが懐かしい。 30分程下った所で、やっと後続のガイドレスと思われるパーティーと出会った。 多分am4:30頃にヒュッテを出発したのではないだろうか。 結局その後も4〜5組のパーティーとしか出会わなかった。 どうやら地元でのドム登山は、ガイドレスで二泊三日で登るのが主流のようだ。

  傾斜も緩み、あとは鼻歌交じりで下るだけだと思ったところに、思わぬ落とし穴が待っていた。 先程懸垂下降で下りた岩場を少し迂回しながら登り、ピッケルを背中とザックの間に挟んで上からスーザン氏に確保されながらトラバース気味に切り立った岩場を攀じっていた時、突然氏が私に向かって「ヨシ(善樹)、背中のピッケルが落ちそうよ!」と叫んだ。 驚いた私は足元がおろそかになり、足を踏み外して痛めていた左膝を思いっきり岩にぶつけ、さらに“グニャリ”とひねってしまった。 “やってしまった!、これで今回の山行も全て終わったな”と一瞬思った。 左膝をかばいながら何とか岩場を登りきり、支尾根の上で座り込んでしまった。 あまりのふがいなさに、心配する妻に向かって「あそこでスーザンが余計なことを言うからだよ!」と大声で八つ当たりしたところ、氏もバツが悪そうだったので、「アウチ、アウチ、バッド・スモール・アクシデント!」と左膝をさすりながら苦笑いし、おどけて見せた。 15分程の長い休憩をもらい足を休ませた。 マッターホルンどころか、これからまだまだ下りは長い。 恐る恐る歩いてみたが、不思議と痛みは感じなかった。 以前ひねった方向と逆にひねって元に戻り、治ってしまったのだろうか?。

  岩場を下り再びフェスティ氷河に下り立った。 ここからはスーザン氏が先頭になり、表面の雪が少し腐り始めた緩やかな斜面を下っていった。 上りと同じルートを下っているのであるが、上りは暗闇の中だったので見える景色は新鮮だった。 しかし上りでの時間が掛かりすぎたためか、次の(明日の)仕事に備えてか、氏は走るようにどんどん下っていく。 こんなに疲れる下りも初めてだ。左膝は本当に大丈夫だろうか?。 さらに下って行くとクレバス帯となったが、大きく口を開いてまたぐことが出来ないクレバスを、迂回せずに走って飛び越えるという荒技も何度かやってのけた。 取り付きまで下るとザイルが解かれ、岩場の踏み跡のトレイルを所々で立ち止まって写真を撮りながら、やっとマイペースで下ることが出来たが、下りの道のりも本当に長かった。

  未明に出発してから約10時間後のpm0:40に無事ヒュッテに戻ってきた。 「お疲れ様でした〜!」と妻に労いの言葉をかける。 もうとっくに居ないと思っていたダニエル氏もテラスで待っていた。 やはりスーザン氏とはただならぬ仲なのかもしれない。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!」。 両手で拝むように氏と握手を交わし、ガイド料の750フラン(邦貨で約58000円)を支払い、100フランのチップを手渡した。 テラスで氏との最後の記念写真をダニエル氏に撮ってもらった後、休憩もせず氏はダニエル氏と一緒に下山していった。 驚いたことに氏は明日マッターホルンのガイドをするため、下山後にまたヘルンリヒュッテまで登るという。 別れ際に「私も明後日マッターホルンに登る予定で〜す!」と大見栄をきった。 下りが予想以上にハイペースだったので妻は相当疲れたらしく、ヒュッテの中で少し休みたいという。 私も同じ気持ちだったが、たった今氏から間接的に“マッターホルンにガイドが入る”という情報を入手したため、明日以降の予定が気になり、なるべく早くアルパインセンターに行きたくなったので、ヒュッテで昼食を食べた後に妻にハッパをかけ、女将さんにガイドと私達二人分の宿代150フラン(邦貨で約12000円)を支払って別れを告げ、pm2:00過ぎに下山にかかった。 

  ランダからツェルマットへ向かう登山電車は1時間に1本なので、ぎりぎりに上手く乗れるように調整しながら、ヒュッテから1510mの標高差をゆっくりとではあるが休まずに3時間半程で下った。 結局pm5:27発の登山電車は何かのトラブルで30分程遅れて到着したため、ツェルマットにはpm6:30近くになってようやく着いた。 直ちにアルパインセンターに向かい、受付でマッターホルンのガイドの予約の確認をしたところ、ルートの状態が良くなったので、明後日(24日)の予約は取れているが、その翌日(25日)は駄目だと言う。 片言の英語で「24日にもし登れなかった時に、その翌日の25日に再度アタックが出来るように申し込んだはずですが」と訴えたが、なかなか要領を得ない。 受付の人がツェルマットに滞在している知り合いの日本人のツアーコンダクターに電話をかけ、通訳をしてもらったところ、ガイドの予約が一杯で2日続けては予約が取れない状況であること、また今までそのような申し込み方をした人もいないということであった。 また次に予約が取れるのは28日以降であるとのことであり、結局マッターホルンへのアタックは、とりあえず明後日の1回のみとなってしまった。

  ホテルに戻る途中、情報収集にと増井氏の滞在しているホテルを尋ねてみた。 生憎氏は不在であったが、サポート役の奥様が留守番をされていて、氏は太田さん夫妻と明日マッターホルンにアタックする予定で、ヘルンリヒュッテに向けて出発したということであった。 増井氏らがアタックするということは、ルートの状態も良くなり、また明日が好天であると見極めたからに違いない。 ドムの“登頂報告”を奥様にしたところ、奥様も以前氏と登られたそうであったが、直前に泊まったモンテ・ローザヒュッテの食事がもとで食中毒にかかり、大変な思いをされた苦い経験があるとのことであった。 明後日私もマッターホルンにアタックする旨を伝え、スーパーマーケットで夕食の買い物をしてからホテルに戻り天気予報を見ると、明日どころかまだ向こう5日間ぐらい晴天が続き、また平年より気温が高い状態が続くとの信じられないような嬉しい予報であった。 雨で迎えられた今回の山行であったが、神頼みが効いたのか、運が向いてきたようだ。


ホーベルク氷河から見たドムの頂稜部


ドムの山頂


ドムの山頂から見たヴァイスホルン


ドムの山頂からテッシュホルン(右手前)越しに見たモンテ・ローザ(中央奥)


ドムの山頂から見たマッターホルン(左端)・モン・ブラン(中央奥)・ヴァイスホルン(右端)


ドムの山頂から見たベルナー・オーバーラントの山々


ドムヒュッテへの下りから見た山頂方面


ドムヒュッテへの下りから見たナーデルホルン


ドムヒュッテへの下りから見た山頂方面


ガイドのスーザン氏


フェスティ氷河から見たドムの頂稜部


ドムヒュッテのテラスでスーザン氏と


ドムヒュッテから見たヴァイスホルン(右)とツィナールロートホルン(左)


ドムヒュッテからランダへ下る


  【マッターホルン】
  8月23日、am8:00起床。 最近は老化現象で筋肉痛が翌々日に出るため、今日は体が少しだるいだけだ。 嬉しいことに心配していた左膝の痛みも不思議と無かった。 今日は明日マッターホルン(4478m)にアタックするため、先日下見に行ったB.Cのヘルンリヒュッテ(3260m)に再び行く予定である。 出発は午後からでも良いので、午前中はホテルでゆっくり休養することにして、久々に朝食のバイキングを優雅に堪能した。 妻は私のことが心配で明日ヘルンリヒュッテまで迎えに来たいというので、明日の打合せを行なう。 明朝ヒュッテからの出発はam4:30頃であろうから、運良く登れたとして山頂まで上り5時間、下り4時間とみて、ヒュッテに戻ってくるのは早くてもpm1:30頃になるから、ヒュッテにpm1:00頃に迎えに来てくれれば良いということにした。 手袋からアイゼンまで装備を何度も点検した後、昨日のドム登山の経験を生かし、ヒュッテを期待せず不測の事態に備えて、食料、水、お湯等を充分にザックに入れた。

  正午過ぎにヘルンリヒュッテに向かうため、妻に見送られてホテルを出発した。 妻は私を見送った後、ゴルナーグラートの展望台に散策に向かうようだ。 これが最後の別れになる可能性もあるので、入念に別れの挨拶?を交わした。 乗り慣れたゴンドラを乗り継ぎ、シュヴァルツゼーへpm1:00に到着。 昨日登ったばかりのドムの頂が遙か高く望まれ、よくもまああそこまで登れたものだと我ながらあらためて感心した。 ここからヘルンリヒュッテまでは標高差約700m、コースタイムは2時間である。 一週間前に登ったばかりなので、ルートは手に取るように分かる。 しかし今日は左膝を労り、さらに疲れをこれ以上増やさないように、ヒュッテまでの目標時間を3時間とする牛歩を決め込んだ。 後から登ってくるハイカーや登山者の全てに「プリーズ、プリーズ」と道を譲りながら、一歩一歩足を優しく踏み出す。 しかし呼吸だけは全開だ。 酸素を取り入れ、疲れないようにするだけではなく、更に溜まっている疲れも取らなければならないのだ。 こんな発想の登り方は生まれて初めである。 追い越していく人達からは、“この人はよほど山登りが苦手なのだろう”と思われたに違いない。 まあ確かにそのとおりかもしれないが。

  途中足取りも軽く下ってくる日本人の登山者とすれ違った。 時間的にみて今日マッターホルンに登った人に違いない。 挨拶を交わし、山の状況を尋ねた。 山下さんというその人の話によれば、ルート上の雪はまばらで、全く心配は要らないという。 またマッターホルンに登る前に、ツィナールロートホルン(4221m)を登ってこられたというベテランの彼は、山頂まで僅か3時間45分で登られたとのことであった。 さらに何人かの日本人のパーティーを見かけたが、相当苦戦しているように感じたとのことであった。 増井氏らのことであろうか?。 「おめでとうございました!」と祝福して、山下さんを見送った。

  再びヒュッテに向け、ゆっくりと登り始めた。 昨日ほどではないが、今日もほぼ快晴の天気である。 しばらくすると、トレイルを疾風のように駆け降りてくる強者がいた。 他ならぬスーザン氏であった。 「ハロー!」と声を掛けると氏もすぐに気が付き、ニッコリと手を振って応えてくれたが、よほど急いでいるようでそのまま走りながら下っていった。 明日は何処の山に行くのであろうか?。 結局その後は日本人の登山者とは出会わず、予定どおりpm4:00少し前に昨年から数えて3度目のヘルンリヒュッテに到着した。 天気の良いことも手伝って、ヒュッテのテラスは今までにない大盛況だった。 しかし私の目にすぐに飛び込んできたのは、増井氏や太田さん夫妻の姿ではなく、リッフェルホルンの岩登り講習会のガイドであったヴォルフカンク氏であった。 氏は周囲の山男達と歓談していたが、私が挨拶をすると覚えていてくれたようで、思いがけない再会となった。 明日マッターホルンにアタックする旨を伝えたところ、氏も明日はガイドで登るという返事が返ってきた。 しかしまだ誰のガイドで登るのかは分からないという。 テラスには増井氏らの姿はなかったので、ヒュッテの中に入ると、今度はダニエル氏の姿が目に止まった。 相変わらずニコニコしながら、「オー・ヨシ!(善樹)」と迎えてくれた。 氏も明日マッターホルンをガイドするという。 先程相棒の妻と別れて少し寂しかったが、孤独感もどこかに吹っ飛んでしまった。

  ヒュッテで宿泊の手続きをする。 ガイドと私の二人分の宿代は144フラン(邦貨で約12000円)であった。 受付の女性からガイドとのミーティングをpm6:30から食堂で行なう旨の説明があった。 食堂には日本人の登山者が数名見受けられたので、情報収集にと話に加わらせてもらうと、昨日ガイドレスで登ったパーティーの一部の人達が、昨日のうちに下山出来ず、途中のソルベイヒュッテ(避難小屋/一般の宿泊は不可、遭難者と北壁登攀者のみ使用出来る)でビバークを余儀なくされ、まだ帰ってこないので一同皆で心配しているとのことであった。 先程の山下さんの話はこの一件かもしれない。 幸いにも、間もなくそのパーティーは疲労困憊しながらも無事下山してきた。 そして相次いで増井氏も慌ただしくヒュッテに入ってきた。 氏の話では、太田さん夫妻は無事登頂されたということであったが、最終のゴンドラに間に合うようにと、すでに先行して下っていったとのことであった。 「お疲れ様でした!」と一言だけ労って、急ぐ氏を見送った。 それにしても地元の優秀なガイドですら1対2のガイドをしないのに、二人を連れて登頂された増井氏の技術、体力、精神力には本当に頭が下がる。 その後、私に続いて関さんという若い人がシュヴァルツゼーから登ってきた。 明日は私と同様ガイド付き登山であるという。 しかし彼は英語が堪能で、ガイドはアルパインセンターで依頼した人ではなく、知り合いのプライベートガイドであるという。 どうやら明日マッターホルンにアタックする日本人は私達二人だけのようであり、お互いの登頂の成功を祈念し合った。

  一段落したので、指定された部屋に行って荷物を整理した後、明日に備えて1時間程昼寝をした。 とにかく少しでも休むことだ。 筋肉疲労で足が熱くなっているのが良く分かる。 個室もあるという話だったが、寝室は普通の雑魚寝式の二段ベッドの相部屋だった。 pm6:00過ぎにベッドから起きて食堂に下りていくと、すでに食堂のテーブルは宿泊客で溢れ返っていた。 間もなく食堂の一角で予定どおりガイドとのミーティングが始まり、登山客とガイドが二つのテーブルに分かれて座った。 雪で登れなかった日が続いたことによるしわ寄せか、各々約20人程の大人数である。 若い女性も一人いたが、予想どおり日本人は私一人であった。 隣に座ったのは、偶然にも岩登り講習会の集合場所で最初に声を掛けてきたイギリス人の青年であった。 早速ガイドのチーフと思われる人が挨拶と何やら説明をした後、メモを片手に登山客の名前とそれに付くガイドの名前を次々と読み上げた。 客とガイドはその場でお互いを確認し合い、立ち上がって挨拶を交わしていく。 一人目、二人目、三人目・・・「サカイ」と呼ばれる。 「イエス」と手を挙げて答えると、何と次に呼ばれたガイドはヴォルフカンク氏であった。 何という偶然だろうか!。 それとも何か裏があったのであろうか?。 驚きが先行し英語での言い方が思い浮かばなかったので、「よろしくお願いします!」と3日前とは別人のように日本語で力強く挨拶した。 にわかに私の心は軽くなった。

  ミーティングはガイドとの“お見合い”だけで終了し、そのままの席で夕食に移行した。 隣のイギリス人青年はベジタリアンということで、メインディシュのステーキの代わりに用意された草鞋のような大きなチーズを食べていた。 彼は写真家ということで、日本にも何度か来たことがあるらしく、富士山や日本のアルプスも登ったことはないが、麓から眺めたことはあるという。 夕食はpm8:00過ぎに終わり、ガイドのいるテーブルに赴いて、あらためてヴォルフカンク氏と固い握手を交わした。 氏が装備の点検をしたいということで部屋に行き、靴やアイゼン等の点検を受けた。 アルパインセンターで言われたとおり、ピッケルは不要であるという。 どうやらガイドが装備の点検をすることは、ツェルマットでは当たり前のことのようであった。 点検が終わると明日の打ち合せに入った。 意外にもドム登山の時と同様に、氏から「明朝は暖かいので、出発時にはジャケット等の暖かい衣類は着用しないように」という指示と、「朝食はam4:30から始まり、am4:45に出発します」という指示があった(要するにam4:45には必ず出発出来るように、am4:30までに身支度を整えた後、15分間で食事を済ませるようにということであった)。 この辺りの微妙な言葉の意味が分からず、関さんを呼んで通訳をお願いした。

  pm9:00頃にベッドに横になった。 先程少し休んだので眠くはないが、とにかく体を休めることを心掛ける。 最初の1〜2時間程は熟睡できたが、その後は寒くて何度も目が覚めた。 どうもお腹が少しゆるいようだ。 一つしかない男女兼用のトイレに行くと必ず誰かが入っていて、入口で待たされた。 夜中に気がつくと、何と部屋の窓が全部開いていた(欧州人は暑がりなので、山小屋の窓を開けて寝る習性があることが後で分かった)。 お腹は相変わらずゆるく、再びam3:00頃目が覚めた。 すでに出発したパーティーの声が外でする。 再びトイレに行き、しばらくベッドに横になった後am4:00前には起床して、暗い廊下に出てヘッドランプの灯で持参したアルファー米の赤飯を食べ、念のため正露丸を飲んだ。 しばらくすると暗闇の中、皆も起きだしてゴソゴソと準備をしはじめた。


シュヴァルツゼー付近から見たマッターホルン


シュヴァルツゼー付近から見たドム(中央)とツェルマットの町


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たオーバーガーベルホルン


ヘルンリヒュッテへのトレイルから見たマッターホルン


  am4:30にヒュッテの照明が一斉に灯り、食堂に下りていくと既にテーブルの上にはパンや飲み物等が用意され、沢山の山男達が食事を始めたところだった。 私はそれらには全く口をつけず、決められたam4:45の5分前にはハーネスを着け、ヘルメットを被り、ヒュッテの入口付近で待機していた。 すぐにヴォルフカンク氏がやって来た。 「グッ・モーニング、オッキー?」。 「グッ・モーニング、イエス」。 氏と出発の確認をした後、ヒュッテの入口でザイルを結び、am4:45ちょうどに出発した。 全て決められたとおりであった。 唯一私が犯した過ちは、ヴォルフカンク氏の忠告に反してフリースのセーターを着たことであった。 お腹にだけは自信が持てなかったからだ。

  外はまだ真っ暗闇だ。 私達に前後してガイド登山隊がam4:45出発のルールに従って次々とヒュッテを出ていく。 既に上方では先行しているガイドレス隊のヘッドランプの灯がいくつか揺れている。 筋肉疲労と寝不足で体調はあまり良くないが、私の耳にはまさに今こうして私とアンザイレンしているヴォルフカンク氏が4日前に言った、「ノー・プロブレム、エイト・アワー」の一言が鮮明に残っていた。 さ〜て、予定どおり今日は楽しむぞ!。 山頂でガッツポーズを決める姿を想像しながら、いよいよ夢に向けての第一歩を踏み出した。

  ところがヒュッテを出たとたん、思いがけない“レース”が始まった。 ヒュッテの裏手を20m程登った先に、垂直の岩壁に固定ロープが下がっているヘルンリ稜の取り付きがあるが、ヴォルフカンク氏はいきなり脱兎のごとく早足で私を引っ張り始めた。 確か取り付きまでは明瞭なトレイルがついていたはずだが、何故かガイド達は皆違う所を登っているようだった。 結局取り付きで私達は20人中唯一の女性客の後につくことになった。 私は内心ホッとした。 これで少しはゆっくり登れそうだからだ。 先程のようなハイペースで登っていったら、最後にバテてしまうだろう。

  取り付きからはヘッドランプの灯だけなので良く分からなかったが、確保されるようなことはない軽快な岩登りが続いた。 ガイドブック等に記されているように、一応ルートは決まっているようだ。 途中何か所か溶けた雪が凍っている所もあったが、ヴォルフカンク氏がその都度「アイス!」と注意するだけで、何事もなく登り続けた。 氏が言ったとおり風もなく暖かい。 ペースも先行する女性パーティーのお蔭でちょうど良い。 しかし取り付きから15分程登った時、突然氏はルートを外れた。 何と先行する女性パーティーを追い越しにかかったのだ。 雪山ではトレイルを外して追い越す(追い越される)ことは他の山で経験したが、まさかこの岩山でしかも暗闇の中それを実行するとは思わなかった。 前のパーティーより急な岩場を攀じ登って追い越しをかけるが、不思議と岩は脆くない。 氏は強引に追い越しをかけた訳ではなく、ちゃんと“プライベート・ルート”を持っているかのようであった。 ここまで楽をしたのだから仕方がないと思ったのは甘かった。 女性パーティーを追い越したのも束の間、今度は前を行く三人のガイドレス隊を追い越し、更にその後もう一組のガイド隊を追い越した。 私は気が気ではなかった。 体は今のところ何とかついていけるが、急峻な岩場をスピーディーに登るため、痛めている(痛くはなかったが)左膝をかばうために、使ってはいけない腕の力を使わざるを得ないのだ。

  そんなレースのような登り方を30分程続けたため、体から汗が吹き出してきた。 ヘルメットを被っている額から汗がしたたり落ち、目にしみてくる。 日本の夏山でもこんなことは経験がない。 「ジャスト・ア・モーメント!」と喉から手が出るほど言いたかったが、せっかく追い越したのにすぐに追い越されてはヴォルフカンク氏にも後続隊にも悪いし、忠告を守らなかった私に非があるため、しばらく後続隊を引き離してから氏に声を掛けた。 氏も何となく気付いていたようで、私がフリースのセーターを脱いでいる間に私のザックを開け、私がヘルメットを被り直している間にセーターをザックの中に入れてくれた。 その間おそらく30秒程の早業であった。 二人の息も合ってきたようだ。 「ソーリー、ソーリー」と丁重に謝り、再び暗闇の中を登り始めた。 その後、ルートを外し正しいルートに戻ろうと横からトラバースしてきたガイドレス隊を戻りかける直前に猛チャージでかわし、更にその前にいたもう一組のガイドレス隊に道を譲られた後、まるで“ポールポジション”を取ったかのように氏は意識的にスピードを緩めた。 全く予想もしていなかった先陣争いであった。

  am6:00前、夜が明けてきた。 ゴルナー氷河の向こうが茜色に染まり始めている。 一昨日のドム登山の時に見た、ヴァイスホルンを背景にしたあの幻想的な夜明けのシーンが、更に広大なスケールで展開していく。 もう今日も快晴の天気に間違いない。 快適な岩登りが続く。 ましてや初めてのマンツーマンガイド、しかもタイトロープであるため、私はまるで荷物のようにどんどん上へ上へと引っ張られていく。 ヒュッテから1時間以上も休まずに岩場を登ってきたからには、かなりの標高差を稼いだに違いない。 このままいけば本当に夢は叶うかもしれない。 しかしいつまた氏の“ターボチャージャー”が回りだすか分からないので、常に100%の腹式呼吸を心掛けた。 間もなく頭上の岩肌が黄金色に染まってきた。 いよいよ待望の朝陽が昇ってくる。 だが不思議と後ろを振り返り、日の出の瞬間を見たいとか、写真を撮りたいという願望は全く湧いてこなかった。 とにかく頂に立つことだけを目指し、生まれて初めて“山登り”に集中していた。 いや、集中せざるを得なかったのかもしれない。

  am6:50、ヘルンリヒュッテを出発してから2時間5分で、無事第一関門であるソルベイヒュッテ(4003m)に着いた。 岩棚にへばりつくように建てられたヒュッテは、物置のような小さな避難小屋であった。 8時間のコースタイムで登るためには、ここまでが2時間で、上りの中間点であるとガイドブックには記されている。 更にガイドブックによると、ここまで3時間以上かかった場合には、ここで引き返すことになっているらしく、もしここで休憩するようなことがあれば、それは下山を意味するとも記されていた。 5分程遅れたが“合格”したようで、ヒュッテの前の狭いテラスを休まずに通過した。 私はここまで2時間30分はかかるとふんでいたので少し気持ちが軽くなり、また絶好の天気と相まって登頂への手応えを充分に感じたが、いつもとは別人のように謙虚で、決して気持ちを緩めることはなかった。

  ソルベイヒュッテからは傾斜も一段と急になり、ルート上の要所要所に“豚のしっぽ”のような確保用の鉄の杭が出現した。 ザイルを伸ばし、ヴォルフカンク氏が10m程登ったところで私が足元の杭に絡めたザイルをはずし、上から確保されながら急な岩場を攀じっていく。 鉄の杭は正しいルート上にしかないため、先程のような追い越しにはかなりの困難が予想される。 ここに遅く到着すればするほど、待ち時間が多くなるだけではなく、落石(落人?)等の危険な要素も生まれてくる。 ポールポジションの必要性はここにあったのだ。 ヒュッテを通過してから15分、何度か確保されながら急な岩場を攀じった後に突然休憩となった。 後続隊との間隔が開いたからのようだ。 朝食をあまり食べていなかったので、行動食をどんどん食べ、更にあらゆるポケットにねじ込んだ。 3分程ですぐに出発となり、間もなく“肩の雪田”に辿り着いた。 ツェルマットからマッターホルンを仰ぎ見たときに、中央の稜線(ヘルンリ稜)が山頂の下で“く”の字の逆に左に折れ曲がっている所である。

  ヴォルフカンク氏からアイゼンを着けるように指示されたが、斜面が急でなかなか思うようにいかず、5分以上もかかってしまった。 雪は締まっていて先行者のトレイルもあり登りやすかったが、ピッケルがないので下りは少し怖いかもしれない。 雪の斜面はすぐに終わり、今度は痩せ尾根の急な登りとなった。 ルートは基本的に稜線の左側(東面)にとられているが、時たま右側(北面)を巻くこともある。 北面(北壁)には風が少し吹いていて、陽も当たらず寒かった。 そして間もなく最も困難だといわれる、8本の懸垂固定ロープを使う岩場に着いた。

  先行するパーティーが一組いたため、初めてここで順番待ちとなった。 上を見上げると、岩壁の角度は驚くほどではないが、前のパーティーは手掛かりを見つけるのに苦労しているようだった。 また固定ロープは、ガイドブックに記されていたとおり直径が4〜5cmもあり、指の短い私には掴みにくかった。 しかし思ったよりロープは滑り易くはなく、薄手のアクリルの手袋のままで登ることにした。 ヴォルフカンク氏が「登り方をよく見ていなさい!」と指示をして、思ったより強引に登っていった。 しかし私は最初の1本目をロープを片手に、腕の力をあまり使わずに登ったため、氏から「もっとロープを使って登りなさい!」との指示が飛んだ。 言われたとおり2本目からはロープを両手で掴みながら勢い良く登ったが、速くは登れるものの体力(腕力)の消耗は顕著に現れ、4本目位ですでに腕がパンパンになってしまった。 幸いにもその後は手掛かりも多くなり事なきを得た。 無我夢中で8本目の懸垂固定ロープを登りきると、休む間もなく再び雪の斜面の登りにかかった。

  しかし私のペースは明らかに落ち、ヴォルフカンク氏はそれを感じてか5分程登った所で2回目の休憩となった。 すかさず水を飲み、ポケットの行動食を食べる。 だが何故か氏は出発してからまだ何も飲み食いしていない。 マッターホルン程度は朝の散歩位に思っているのだろうか?。 すると突然氏は笑みを浮かべながら私に語りかけた。 「サカイさん、あそこに見えているのが頂上で、あと20分位で着きますよ」。 サケーイはサカイに変わっていた。 氏の指さす方向には、抜けるような青空と次第に痩せていく純白の雪の壁しか見えていない。 どうやらもう岩場はなく、この雪の斜面を真っ直ぐに登り詰めた所が山頂のようだ。 「イエス、イエス」と相槌を打ち、目だけが登頂を確信したが、ここでも決して気持ちを緩めることはなかった。 

 ヴォルフカンク氏に励まされ、最後の登りにかかる。 時計を見ると何とまだam8:00を少し過ぎたところであった。 もう何の心配もなく山頂まで行けると思われたが、氏は一向にペースを落とそうとはしない。まるでラストスパートを楽しむかのように、グイグイと私を引っ張っていく。 私も無我夢中でついていくが、顔は上がらず全く余裕がない。トレイルから少し離れた所に、銅像のようなものが立っていた。 私にはそれが丸い顔をしたマリア様のように見えたが、はたしてただの岩が光っていたのであろうか?。 氏に尋ねることもなく登りに集中した。 足は思うように上がらないが、今は登ることが楽しくて楽しくて仕方がない。 あとほんの僅かの辛抱で夢が叶うのだから・・・。

  am8:25、ついにその時はやって来た。ヴォルフカンク氏は歩みを止め、後ろを振り返ると何も言わず満面の笑顔で私に手を差しのべてきた。 麓から見上げたとおりの狭く尖った山頂は、意外にも岩ではなく固い雪に覆われていた。 これ以上何も望むことがない快晴無風の天気の中、夢にまで見た憧れのマッターホルンの頂に辿り着いたのだ!。 ヘルンリヒュッテを出発してから、僅か3時間40分の登攀であった。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!、ユー・アー・グッド・ガイド!、マッターホルン・イズ・マイ・ドリーム!」と興奮しながら氏と握手を交わすと、こらえきれずに拳をふり上げ、雪崩が起きる程の大きな声で「やったぜー!!」と青空に向かって一声叫んだ。 これには氏も驚いたに違いない。 少し下った50m程先に人影がかたまって見えた。 あそこがイタリア側のピークであろう。 ピークにあるはずの十字架は人影で見えなかった。 登る前、山頂に着いてから余裕があったらイタリア側のピークにも行き、キリスト様を拝んでこようと考えていたが、感動しすぎて忘れてしまった。 しばらく山頂で登頂の余韻に浸りたかったが、氏は「後続隊に山頂を譲らなければならないので、写真を撮ってから少し下った所で休憩しましょう」と言った。 氏に記念写真を撮ってもらい、僅か5分程で感激の山頂を辞した。

  続いて到着したパーティーに「コングラチュレーション!」と声をかけ、山頂直下の雪のはげた岩の狭いテラスで休憩した。 既に何人かの先客がいたが、皆が次々に「コングラチュレーション!」と祝福の握手を求めにきてくれた。 ヴォルフカンク氏はザックから携帯電話を取り出し、何処かに連絡をしている。 電話が終わると、氏はペットボトルのコーラを一気に飲み干した。 私は仁王立ちしてあらためて憧れの山からの展望を楽しみ、ここに辿り着くまでのさまざまな道のりを振り返りながら一人感激に浸っていた。 山が急峻であるため、今までに経験したことがない高度感が実に爽快であったが、意外にも周囲に山々が接していない独立峰なので、景色はあまりパッとしなかった。 こんな贅沢な悩みも初めてだ。 足下のツェルマットの町は豆粒のように小さく見えるが、なぜか50kmも離れたモン・ブランがかなり近くに見える。 パノラマの写真を撮り、足元の小石を三つポケットにねじ込んだ。 未だにここにいることが信じられないという気持ちと、良い天気と良いガイド、そして良い体調?の三拍子が揃えば、素人でも楽しく登れるんだという自分の考えが正しかったという気持ちとが交錯して、全く興奮が覚めやらない。 山登りを始めてから10年余、数知れぬ程の思い出があるが、これほど自分自身に感動したことは記憶にない。 また一年間思い焦がれていた憧れの山の頂に、この天気であれば世界中に登れない山がないのではと思えるほどの最高の条件の下、たった一回のアタックで登れたことは本当にラッキーであった。

  am8:45、空はますます青みを増し、まだ下山するには早すぎる時間であるが、ヴォルフカンク氏に促され、感動と興奮が覚めないまま憧れの山の頂に別れを告げることとなった。 しかし今までの山とは違い、これからが本番である。 初登頂に成功したエドワード・ウインパーらの7人のパーティー中の4人の悲劇を最初に、過去に数百人もこの下りで命を落としているからだ。 “ヘルンリヒュッテに無事到着して初めて登頂したことになる”と気を引き締める。 先程より少し柔らかくなった雪の斜面を、私が先頭になり忠実にトレイルを拾って下る。 後ろから確保されているため、思ったほど怖くはなかったが、ピッケルがないためアイゼンの爪を一歩一歩雪に打ち込む感じで確実に下った。 しばらく下ると、「右足と左足の間隔をもっと開けなさい!」と後ろの氏から声が飛んだ。 再び足元だけに集中して下ったため、関さんの姿と先程の銅像?は確認することが出来なかった。

  間もなく先程の懸垂固定ロープのある所に着いた。 一組のパーティーが前で下りの順番待ちをしていた。 下を覗くと、さながら盛夏の日本の山の稜線の鎖場のように、登りのパーティーが数珠つなぎになっている。 少し風が出てきたので、待たされている間に素早くジャケットを着込む。 ヴォルフカンク氏は前のパーティーのガイドが下り始めたとたん、足元の杭に素早くザイルを絡めた。 見ると今度は登ってくるパーティーのトップの人が、固定ロープを掴みながら足元に顔を出した。 氏はその人がまだ完全に登り切らないうちに、そして僅か2〜3秒の時間も惜しむかのように、そのすぐ横から私に懸垂下降をするように指示した。 日本の山では“登り優先”という暗黙のルールがあるが、“スピード=安全”の哲学か、登山のルールが違うのか、それとも民族的な思想の違いかは分からないが、ここでは“早いもの勝ち”であった。 氏に言われるままに下降を始めると、登りのパーティーのセカンドの人がすぐ脇の固定ロープ掴みながら、必死の形相で登ってくる。 その人の体をかすめるように、制動もままならないアイゼンを着けた素人の私が飛び下りているのだ。 危ない!。 下っている私の方が腰が引けてしまう。 もし私がバランスを崩したらぶつかる可能性もあるし、登ってくる人をかわしても、着地点付近では次の登りのパーティーが順番待ちをしている。 “左膝の秘密”は氏には教えていない。 思わず飛ぶ方向をルートから少しでもそれるように軌道修正したところ、上から氏が大きな声で「そっちに行っては駄目だ、真下に下りなさい!」と叫ぶ。 仕方なく再び人のいる所を目指して飛び下りた。 登りのパーティーはそんな状況を考える余裕もなく、特にガイドレス隊はトップがセカンド以下の人達に怒鳴るように指示を与えている。 ザイルを杭に絡め、下で氏を待っていると、他のパーティーのザイルがムチのように体に当たってくる。 一週間前に観光案内所で藤山さんが、“さながら戦争のような状況であった”という意味がよく理解できた。 私はもう登頂して気持ちにも余裕があるが、登っている人達にとってはあまり良い気持ちではないはずだ。 “スピード=安全”とは“スピード=自分の安全”を意味しているようにすら感じ、あらためて氏がポールポジションにこだわった理由に納得した。 登る人がいなければ、固定ロープを使って下りるのだろうが、結局固定ロープには一回も触れることなく全て懸垂下降で下りることとなった。

  “戦場”を過ぎると登りのパーティーもまばらになり、気楽になったが油断は禁物だ。 一歩一歩に再び「集中!、集中!」と自分に言い聞かせながら下る。 肩の雪田を下りきった所でアイゼンを外し、少し下った先で休憩となった。 戦場の通過は大変だったが、懸垂下降を多用したため、時間はさほどかからなかった。 体が欧州人に比べて小さい私は懸垂下降で下ろした方が楽なのであろうか、ヴォルフカンク氏はソルベイヒュッテまでのさほど傾斜のきつくない所も、さながら荷物のように懸垂下降で私を下ろした。 

  am10:25、ソルベイヒュッテの前の狭いテラスを通過した。 先程とは違い、北壁の登攀者なのか、それとも登ることを諦めたパーティーか分からないが、ヒュッテの周囲には何人かの山男達が寛いでいた。 登りの状況から考えて、もう特に危険な所は無いはずだ。しかしヴォルフカンク氏は全く休もうとはせず淡々と下っていく。 その後私が用足しのための休憩をリクエストして、やっと2回目の休憩となった。 先ほどまでとにかく足元だけに集中していたので気が付かなかったが、下を見渡すとかなり遠くではあるが、ヘルンリヒュッテの屋根がはっきり見えた。 一瞬緊張感が緩んだその時、不意に目の周りの筋肉が緩み、目から涙が溢れ出てきた。 こんな事が今までの人生の中であっただろうか。 登る前から下る方が大変だと自分に言い聞かせていたため、山頂ではまだ緊張感があったのであろう。 ゴールが見えたことにより、無意識に緊張感から解放されたのであった。

  再び“こういう時が一番危ないのだ、ヘルンリヒュッテに無事到着して初めて登頂したことになる”と暗示をかけ、最後の下りにかかった。 登りは暗闇の中だったので、こんな所を登っていたのかと、あらためてルート上の岩の感触を確かめ、思い出に浸りながら下った。 しかしルートは4日前にアヘイムさんが言っていたように特に難しい所はなく、むしろ一度切れた緊張感を取り戻す方が難しかった。 少し楽な下りが続くと、二度三度とまた涙が溢れ出てくる。 “本当に私は単純だな〜”とつくづく思った。

  am11:50、山頂から約3時間で無事取り付きに辿り着いた。 これで本当に夢は現実となったのだ!。 20m程の雪渓を渡り切った所で、ヴォルフカンク氏は私を早く解放させたかったのか、目と鼻の先にあるヒュッテへの到着を待たずに、ニコニコしながらザイルを解き始めた。 天気が良いため、今日もヒュッテの周辺やテラスは大勢の登山客やハイカー達で賑わっている。 私達の前後には他のパーティーが全くいなかったので、皆の視線が私達に向けられているような“錯覚”を感じて何かとても誇らしい気分になった。 しかしザイルが解かれたとたん本当に気が抜け、足が急にふらふらとしてきた。 一刻も早く妻に登頂報告をしたかったが、どうやら妻はまだヒュッテに到着していないようだった。 ヒュッテに着き、あらためて氏に感謝の気持ちを伝えた。 私が今日マッターホルンに登り、今ここに無事立っていられるのも氏のお蔭に他ならなかったからだ。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、本当にありがとうございました!。 お蔭様で登れました!。 ユー・アー・グッド・ティーチャー!、ソーリー、アイ・アム・バッド・スチューデント(先生の言うことを聞かない悪い生徒でした)」。 いつものように拙い英語だが、力強くそして気持ちを込めて体全身で表現した。 すると氏からは意外な言葉が返ってきた。 「サカイさん、そんなことは全くありませんよ。 貴方は素晴らしかった。 貴方の時計を見てごらんなさい。 出発してからまだ7時間すらたっていないのですから!」。 時計を見るとam11:55であった。 出発したのがam4:45だから、すでに7時間10分が経過している。 だが山頂で20分程休憩をしているから、差し引きするとまさに氏が言ったとおりであった。 すかさず、「それは貴方が優れたガイドだったから!」と切り返した直後、ハッと気が付いた。 もしかすると氏も、4日前に私に言った「貴方なら8時間で往復出来ますよ」という“社交辞令”を覚えていたのではないだろうか?。 遠方からやって来た珍客の期待を裏切らないよう演出された氏の責任感の強さに、あらためて敬意を表さずにはいられなかった。


マッターホルンの山頂


マッターホルンの山頂から見たイタリア側の景色


マッターホルンの山頂から見たダンブランシュ


マッターホルンの山頂から見たヴァイスホルン


マッターホルンの山頂から見たドム(中央)とミシャベルの山々


マッターホルンの山頂から見たモンテ・ローザ(中央左)・リスカム(中央)・ブライトホルン(右手前)


ヘルンリヒュッテへの下りから見た山頂方面


ソルベイヒュッテからヘルンリヒュッテへ下る


  テラスにいた人に頼んで、ヴォルフカンク氏と並んで憧れの(現実となった!)マッターホルンを背景に写真を撮ってもらい、ヒュッテの中に入った。 テラスの盛況ぶりとは反対に、ヒュッテの食堂はガランとしていた。 何とダニエル氏がいた。 「コングラチュレーション!」。 「サンキュー・ベリー・マッチ!」。 氏と握手を交わし、近くにいた氏のお客さんとも登頂の握手を交わした。 氏は今日一番の到着は自分の客だが、二番目は私だと言って褒めてくれた。 氏に一杯差し上げようと、お酒の注文を聞いたところ、なぜかソフトドリンクで良いという。 明日の仕事に差し支えるからであろうか?。 二人仲良く炭酸飲料で乾杯した後、ガイド料の730フラン(邦貨で約56000円)を支払い、50フランのチップを手渡した。 相変わらずの拙い英語で氏の登山経歴を尋ねてみると、アルプスの山々が中心で、ヒマラヤ周辺の高峰にはまだ登られたことがないという。 また以前から岩登りに特別の興味があり、今はヨセミテを中心に活躍されているとのことであった。 またマッターホルンへのガイドは意外にも今日でまだ40回位であるという事と、今日使用したザイルは9mm/30mであることを教えてもらった。

  雑談を続けていると、突然ヘリコプターのけたたましい爆音が聞こえてきた。 先月は日本人が二人死亡し、今月も地元のガイドが一人亡くなったという話を聞いていたので、“遭難だ!”と直観的に思い急いで外に飛び出した。 テラスにいた人々も何事かとヘリの行方を見守っている。 ヘリはヒュッテの裏のヘリポートに一旦着地した後、乗ってきたレスキュー隊員1名を20m程のワイヤーで宙吊りにしたかと思うと、とてもヘリとは思えない猛スピードで山に向かって再び飛び立っていった。 まるで何かのショーを見ているような光景であった。 多分、ツェルマットから私を迎えに来てくれる妻も、私が遭難したのではないかと心配しているに違いない。 早くこの晴れがましいサミッターの顔を見せて安心させたい。 間もなくもう一台のヘリが飛んできた。 また遭難かと思い息を呑んだ。 しかし乗ってきたのは医者と報道関係者であった。 救助に向かったヘリは、20分程で遭難者を運んでヘリポートに戻ってきた。 点滴を受けながら治療を受けているところを見ると、どうやら一命は取り留めたようだ。 その様子をカメラマンが撮影している。 ヘリの周りは野次馬客で鈴なりとなり、皆固唾を呑んで見守っている。 応急処置をして、ヘリは再び遭難者を運んで飛び立って行った。 救助には天気の良さが幸いしたが、遭難の原因はあの“戦争”ではないかと思わずにはいられなかった。 間もなく関さんも無事登頂を果たし、晴れがましい顔でヒュッテに帰ってきた。 「お疲れさまでした!、おめでとうございました!」とお互いの登頂を讃え合い握手を交わした。 ガイドさんとも気が合うらしく、本当に羨ましい限りだ。

  pm2:00前、ヴォルフカンク氏が下山の準備を始めた時、ようやく妻がヒュッテに到着した。 自分だけ楽しませてもらったので、「お迎えご苦労様、無事登れたよ!」と一言控え目な登頂報告をした。 妻はやはり先程のヘリ事件を案じていたようだった。 別れ際に妻を氏に紹介した。 妻は周到にも内助の功を発揮し、日本からのお土産を氏に手渡していた。 明日のガイドで登る山を氏に尋ねると、意外にも明日はガイドの仕事はないという。 何か特別な用事でもあるのであろう。 最後に再び丁重にお礼を言い、決して社交辞令ではなく「スィー・ユー・アゲイン!」と再び固い握手を交わして氏を見送った。

  ヒュッテで遅い昼食をとりながら、妻に昨日から現在までの一連の出来事を、一つ一つ思い出しながら話し始めた。 中でも一番強調したのは、恩師であるヴォルフカンク氏との偶然の再会のことであった。 話の途中で明日アタックするという日本人のパーティーに山の状況等を聞かれたので、“戦争”の体験談や昨日の“ビバーク事件”を含め、雪やルートの状況等知ってる限りのアドバイスを行い激励した。 下山後にアルパインセンターで登頂証明書を10フランで買う予定でいたところ、ヒュッテにも用紙があるということで、関さんのガイド氏が無料で私の分まで代筆して書いてくれた。 そろそろゴンドラの最終時間が気になってきたので、関さんに一緒にシュヴァルツゼーに下りませんかと誘ったが、ガイド氏とお酒を飲みながらもう少し余韻を楽しみたいとのことだったので、再会を約して連絡先の交換をした後、pm3:00頃妻と一緒にヒュッテを後にした。 午後になっても青空は続き、今回を含めて3回通ったシュヴァルツゼーまでのトレイルを、話の続きを妻にしながら一歩一歩噛みしめるように下っていった。 途中何度も振り返り思い出の山を眺めたが、また無意識に涙腺が緩んでくる。 本当に今までにない不思議な体験であった。

  pm5:00過ぎにホテルに着き、荷物を置いてすぐにお世話になった増井氏のホテルへ“登頂報告”に向かった。 生憎氏は不在であったが、留守番の奥様に居所を教えてもらい、メインストリートのレストランのテラスで知人と懇談中の氏を見つけたので、「お蔭様で登ることが出来ました!」と一言お礼を言ったところ、氏も大変喜んでくれた。 天気とガイドに恵まれたことを強調したところ、このところのツェルマットの異常な暖かさには氏も驚いているという。 今晩もまた“市”が立つということを氏から教えられたので、「後でまた太田さん夫妻ともゆっくりお会いしましょう」と約束し、氏と別れてホテルに戻った。 屋台が出るまでにはまだ時間があったので、シャワーを浴びてからマーケットで買った韓国製の即席ラーメンを食べた後にベッドに横になったが、疲れと緊張感から解放されたことにより、不覚にも夜中までそのまま眠ってしまったため、楽しみにしていた増井氏や奥様、そして太田さん夫妻との再会の約束を果たすことが出来なかった。


ヘルンリヒュッテのテラスでヴォルフカンク氏と


遭難者の救助に向かうヘリコプター


ヘルンリヒュッテから見たモンテ・ローザ(左)・リスカム(中)・ブライトホルン(右)


シュヴァルツゼーへのトレイルから見たマッターホルン


  【フルーエヒュッテ】
  8月25日、朝食を食べた後しばらくしてから増井氏のホテルを訪ねたが、すでに日本に帰られてしまったのであろうか不在であった(その後偶然にも氏と奥様には帰国して僅か三週間後に北アルプスの山中で再会することが出来た)。 気を取り直してホテルに戻り、明日以降の天気予報をテレビで確認すると、未だに向こう5日間には雨の予報はなく、こんなに好天が続くこともあるのかと驚いた。 昨晩は意に反して充分に寝ることが出来たし、引き続き天候も安定しているので、この余勢を買って明日にでももう一つの大きな目標であるモンテ・ローザにアタックしようかと思ったが、妻がドム登山での疲れが原因であろうか、体にじんましんが出たまま治らないということで、アタックの日を一日先に延ばすことに決め、今日はアルパインセンターでガイドの予約をした後、ステリゼーという山上の湖を経由してフルーエヒュッテ(2607m)まで妻と行くことにした。 同ヒュッテは今回の山行で計画している、魚の背びれのような独特の山容をしたリムプフィシュホルン(4199m)のB.Cの山小屋でもあり、その下見を兼ねてのハイキングである。

  アルパインセンターに着くと、入口の扉が閉まっていた。 こちらに来てから一週間が過ぎ、曜日の感覚がなくなっていたので、同センターは土曜日だけ営業時間がpm4:30からであることを忘れていた。 結局妻の体調に関係なく、明日のモンテ・ローザへのアタックは出来なかった訳である。 同センターへはハイキングの帰りにまた立ち寄ることにして、町外れにある地下ケーブルの駅に向かった。 昨年も行ったスネガの展望台(2288m)までは標高差で600m以上あるが、ケーブルカーではたったの5分である。 展望台に着き、まずは緑のアルプの上に裾野を広げているマッターホルンの雄姿と対峙し、少しずつ構図を変えながら何枚も写真を撮ったりビデオを回したりしたが、“本当にあの頂に立ったんだな〜”と昨日のことを思い浮かべると再び涙腺が緩んでくる。 私の心はまだマッターホルンに登ったままであった。

  ハイキングトレイルの傾斜は急であったが、大きな目標を達成したことで身も心も軽く、疲れは全く感じなかった。 スネガからマッターホルンを背に、そしてヴァイスホルンを左手に眺めながら、最初の目的地であるステリゼーへは約1時間半程で着いた。 思ったより大きな山上の湖は、真っ青な空よりも一段と青い水をなみなみと湛えていた。 湖畔の夏の陽射しは強烈で、前を歩いていたハイカーが連れていた二匹の大型犬も次々に湖に飛び込んだ。 欧州では犬もチャレンジ精神が旺盛だ。 湖を半周してから振り返ると、風により湖面にさざ波がたっていたため、“逆さマッターホルン”は叶えられなかったが、湖越しに見たマッターホルンやオーバーガーベルホルン等の峰々は本当に絵になる風景で、ここぞとばかりに再び写真を撮りまくった。 今日は急ぐ必要もないので、湖畔のベンチで妻と久々にのんびりと時を過ごした。

  ステリゼーからは正面にリムプフィシュホルン、シュトラールホルン(4190m)、そして山羊の角のように見えるアドラーホルン(3988m)の山並みを望みながら、ひと登りでフルーエヒュッテに着いた。 しかしここからはまだリムプフィシュホルンの頂は遠く、B.Cとはいえ取り付きまでは相当な距離がありそうだった。 他の山小屋とは違いアプローチが楽なため、家族連れや年配者、そして若い女性の姿も多く見られた。 マッターホルンを正面に眺めながらテラスで昼食を食べ、無事山に登ることが出来ましたという内容の手紙を両親等に書いた。 このまま天気が一週間続けば(そんなことはありえないだろうが)、もしかするとリムプフィシュホルンへの登頂のチャンスもあるかもしれない。 ヒュッテの裏手からもまだトレイルは続いていたが、これからガイドの予約をしなければならないので、そこから先は“本番”に残し、再訪を誓ってヒュッテを後にした。

  ステリゼーからは登ってきたトレイルではなく、グリンジゼー、ライゼーという小さな湖の湖畔を通るトレイルを周遊して歩き、スネガの展望台へと戻った。 ツェルマットまでは再び地下ケーブルで下り、pm4:30少し前にアルパインセンターに着いたが、既に入口には開館を待つ10数名の人達が並んでいた。 天候が安定しているので、希望する明後日のガイドの手配は難しいかと心配だったが、受付の人が何処かに電話をかけた後に予約はOKであると言われた(後でその理由や電話をかけた先は分かった)。 ガイド手配料の50フラン(邦貨で約3900円)を支払って、手配書を受け取った。 最初は敷居が高かったアルパインセンターでの予約の取り方の要領もだんだんと分かってきたが、これが最後の予約となるとは知る由もなかった。 マーケットで明日からの登山に備えて行動食等の買い出しを行った後、観光案内所で聞いた安くて旨いお勧めのイタリア料理店で早めの夕食を食べてホテルに戻った。

  久々にゆっくりと入浴した後、昨年オーバーロートホルンの山頂での偶然の出会いから、ブライトホルンを一緒に登った藤本さんが一昨日あたりから泊まっているはずのホテルを訪ねてみることにした。 藤本さんも私同様マッターホルンに惚れ込み、同峰に登るために私達よりも一週間程遅く、ツェルマットを再訪されていたのであった。 ホテルのラウンジで日本では会ったことのない藤本さんと一年振りに再会した。 藤本さんは今日早速高所順応とトレーニングを兼ねて、わざと荷物を重たくしてブライトホルンに登られたという。 既に還暦を過ぎているのに、昨年と変わらぬバイタリティーには本当に頭が下がる。 藤本さんから、「暖かさでブライトホルンのルート上にもクレバスが口を開けてましたよ!」という話を聞いて驚いた。 私も一週間前にツェルマットに来てから、昨日運良くマッターホルンに登ることが出来たことまでの詳細な経緯と、きっかけとなった高橋さんの著書のことを話したところ、同書のことは藤本さんも良くご存知であり、私のマッターホルンの登頂の成功を心から祝ってくれた。 藤本さんは予定どおり二週間近くツェルマットに滞在されるということであったが、まだマッターホルンのガイドの予約をされていないとのことだった。 私は藤本さんにも是非マッターホルンの頂に立って欲しかったので、ここ数日好天が続いているため、天気の周期からみてそろそろ一雨(雪)来そうだったこと、また今シーズンの前半に雪で登れない日が続いたため、この時期になっても相変わらずマッターホルンへの登山希望者が多いことなどから、早めのガイドの予約とリッフェルホルンでの岩登りの講習会の受講を勧めた。 そして明日から妻とモンテ・ローザに登る計画を話し、お互いの健闘を祈念し合ってホテルに戻った。


スネガから見たマッターホルン


ブラウヘルト付近から見たオーバーガーベルホルン


ステリゼー(湖)


ステリゼーから見たマッターホルン


アルパインセンター(ガイド組合)


  【モンテ・ローザ】
  8月26日、今日も予報どおりの快晴の天気である。 まるで条件反射のような感覚で、ホテルの部屋から朝陽を浴びて輝くマッターホルンの写真を撮った。 朝食のバイキングをゆっくりと堪能した後、装備を入念に点検してam10:00過ぎに、明日モンテ・ローザ(4634m)にアタックするためのB.Cとなるモンテ・ローザヒュッテ(2795m)に向けホテルを出発した。 ガイドとの待ち合わせはヒュッテで行うことになっているが、昨年観光案内所で最近ではヒュッテまでのトレイル上にある氷河の状態が悪く、ガイドがいないと危険だと言われたことが記憶に残っていたので、念のためザイルを持っていくことにした。 

  am10:48発の登山電車に乗り、ローテンボーデン駅へと向かう。 6日前に岩登り講習会で登ったリッフェルホルンと出発点は同じである。 しかし今日は前回と比べて体調も良く、車中では観光客の一人となり、懐かしい車窓からの展望を楽しんでいた。 そういえば風邪はいつの間にか治っていた。 “無理が通れば道理は引っ込む”という諺は当たっているかもしれない(実は当たってはいなかった)。 am11:25、ローテンボーデンに到着。 今日もここで下車したのは私達と数名だけであった。 マッターホルンには久々に雲が寄り添っている。眼前にリッフェルホルン、眼下にリッフェルゼーを見下ろす高台から標識に従って左に折れヒュッテへと向かった。

  足下のゴルナー氷河越しに、ブライトホルン、ポリュックス、カストール、リスカム(4527m)、そしてモンテ・ローザと続く山並みを眺める第一級の展望のハイキングトレイルを、ほぼ水平に歩いていく。 ここから見たモンテ・ローザの頂は遙に遠く、私達の挑戦を拒んでいるかのようであったが、そんな不安な気持ちを打ち消してくれたのは、先日のドム登山での経験であった。 30分程でトレイルは氷河に向けて緩やかに下り始めた。 時々向こうからやって来る登山者やハイカーとはすれ違うが、時間も遅いせいかこちらからヒュッテに行く人影は見つけることは出来なかった。 しばらく下った後、陽射しを避けて大きな岩の陰で昼食としたが、氷河から吹き上げてくる風はけっこう冷たく、日陰にいるとすぐに体が冷えてくる。

  pm1:00過ぎ、ゴルナー氷河に下り立つと、風は一段と冷たくなった。 氷河の“トレイル”には、数10m毎に旗の付いた鉄棒が一応目印に立ってはいるもののクレバスだらけで、迂回するか、またぐか、飛び越えないと進めない。 なるほどこれで上に新雪が積もったら、即ヒドゥンクレバス(落とし穴)の出来上がりだ。 怖いもの見たさに青白く妖しげに光るクレバスの中を覗き込むと、何故か中に引き込まれそうな妙な気持ちになってくる。 クレバスには底の見えない深さのもの、水が溜まっていたり流れていたりしているもの、雪が詰まったもの等、様々な種類があった。 氷河の幅は約2km位と思われたが、クレバスに阻まれ10mですら真っ直ぐに歩くことが出来ないので、1時間以上もかかってやっと渡り切った。

  ゴルナー氷河を過ぎると、ハイキングトレイルは所々に梯子やロープの付いたアルペンルートに変わり、15分程急な岩場を登ると、やっとモンテ・ローザヒュッテが見えてきた。 ヒュッテの直前で、小さな子供を肩車して下ってくる父親とその家族に出会った。 “チャレンジ精神は旺盛でも本当に危ないなあ”と心の中で思いつつ、「ハロー」と挨拶だけ交わしてすれ違ったが、この人が明日の私達のガイドとなるとは知る由もなかった。 思ったより時間が掛かったが、pm3:00過ぎにヒュッテに到着した。 ヒュッテは風雪に耐えられるような堅固な造りの三階建ての立派な建物であった。 テラスでは今日アタックしたパーティーであろうか、数人の山男たちが日光浴を楽しみながら、ビールを飲んで歓談していた。 振り返るとゴルナー氷河の流れて行く先には、既に雪がなくなり真っ黒に日焼けしたマッターホルンの正三角形の東面が、砂漠の中のピラミッドのように聳え立っている。 そして眼前にはそれとは反対に、たっぷりと雪を身にまとった秀峰リスカムが、圧倒的なボリューム感で迫っているが、モンテ・ローザの頂は岩の基部に建っているヒュッテからは見えなくなっていた。

  ヒュッテに入り、食堂で宿泊の手続きをする。 対応してくれたのは私達と同年代位の愛想の良い女性であった。 手配書を見せ、いつものようにガイドの分も含めて宿代を支払おうとすると、「ヒュッテの小屋番が明日の私達のガイドなので、ガイドの宿代は要りませんよ」と言われた。 なるほど、そいうことだったのか!。 昨日アルパインセンターの受付の人が電話をした先はこのヒュッテだったのであろう。 結局宿代は二人で100フラン(邦貨で約7700円)であった。 念のため朝食のことを聞くと、am2:00に食堂で朝食を出しますということだったので安堵した。 またガイドはホギーという名前で、夕食の後で紹介しますと言われた。 朝食がam2:00ということは、出発はam2:30頃であろう。 指定された三階の部屋に荷物を置きに行く。 二段ベッドに敷いてあるマットレスは柔らかく、上掛けも上質なものだった。 明日に備えて1時間程昼寝をした後、食堂に下りていくとカウンターに宿帳が置いてあったので、記念に名前や住所等を書き込んだ。 増井氏や藤山さんの名前を探してみたが、残念ながら見つけられなかった。 他にも日本人の名前がないかと興味深く探してみたが、ドムヒュッテの雑記帳より少しは多かったものの、やはり殆ど見つけることが出来なかった。 夕食までまだ少し時間があったので、明日の下見にとヒュッテの裏手に行き、岩場のトレイルを少し登ってみたり、ガイドブックのコピーを何度も読み返したりして時間をつぶした。

  pm6:00の夕食の時間となり食堂に行くと、どこにこれだけの人がいたのであろうかと思う程の山男や山女達がやって来たが、予想どおり私達以外の日本人は誰もいなかった。 私達の隣に座ったガイド氏とイタリア人と思われる二人の若い女性客は、今日の山行の思い出話しに花が咲いているようであった。 社交辞令に話を伺うと、彼女らは今朝イタリアのチェルヴィニアという町からロープウェイでテスタ・グリジャ(クライン・マッターホルンと並ぶ、ブライトホルン等のイタリア側の登山口)に上がり、ブライトホルン、ポリュックス、カストールの山腹を踏破し、リスカムを登ってきたという。 また明日は私達と同じくモンテ・ローザを登るということであった。 このルートを縦走して更に明日モンテ・ローザを登るというのは凄い体力である。 ガイド氏はひと仕事やり遂げた安堵感からか、ビールのジョッキを次々におかわりし、顔を紅潮させながら機関銃のように喋りまくっている。 彼女らもこれに負けじと高笑いしながら、話のキャッチボールが延々と続いていた。 配膳を手伝っている中年の男性を指して、「多分あの人がガイドのホギーさんよ」と妻が言った。 見ると先程子供を肩車して氷河に下りて行ったお父さんだった。 今日は日曜日なので、町から家族が遊びに来ていたのであろう。 楽しみにしていた夕食のメインディッシュは、鶏肉の入ったカレーの汁をパサパサした米と和えたようなものだったが、食べてみると塩と香辛料が強すぎて閉口した。

  夕食後私達のテーブルにホギー氏がやってきた。 早速挨拶と自己紹介をした後、口髭を少したくわえたいかにもイタリア人と思われる風体の氏に年齢を聞くと42歳ということだったので、「私が41歳で妻が43歳なので、ワン・ツー・スリーですね」と社交辞令を言ったが、その真意は私達がいつも若く見られがちなので、誤って若い人向けのペースで登らないで欲しいというアピールであった。 あらためて「登りにどの位時間が掛かりますか?」とホギー氏に尋ねてみると、直ぐに「セブン・アワー」という答えが返ってきた。 妻が片言の英語で、「先日ドムに登った時、登りに6時間半かかったので7時間じゃ無理だわ」と氏に訴えかけたが、この山のことを知り尽くしていると思われる氏は“任せなさい”という感じで全く耳を貸さなかった。 先程隣に座っていた陽気なガイド氏とは正反対に、ホギー氏はどちらかといえば寡黙な職人気質のように思えた。 氏は簡単に私達の装備の点検を終えると、「明日の朝食はam2:00からで、am2:30に出発します」と一言だけ私達に指示を与え、特に明朝は暖かいなどというアドバイスはなかった。 さすがに最高峰は寒いのであろうか?。 pm8:00前に寝室に行きベッドに入ろうとすると、先程隣に座っていた元気印の女性が私達のすぐ横にある窓を開けにきた。 私達が「寒いから困る」と言ったところ、「外気を取り入れないと高山病になっちゃうわよ!」とジェスチャーを交え笑いながら反論し、「それでは寝る場所を換えましょう」と提案してきたので、私達は風の直接当たらない奥の方で寝ることとなった。 それにしても欧州人の日光浴と、この山小屋の窓を開ける習性は全く理解しがたいものである。


ゴルナー氷河    モンテ・ローザ(左)・リスカム(右)


ゴルナー氷河    マッターホルン(左)・ダンブランシュ(中)・オーバーガーベルホルン(右)


モンテ・ローザヒュッテとリスカム


モンテ・ローザヒュッテ


  8月27日、am1:45起床。 私は3時間以上熟睡できたが、神経質な妻はいつものように殆ど眠れなかったという。 眠たい体に鞭を打ち、身支度を整えてから食堂に行くと、既にパンと飲み物が中央のテーブルに置かれ、皆めいめいにそれを取って自分の席で食べ始めていた。 テーブルのパンを少し食べただけで、専ら用意してきたアルファー米の赤飯や菓子パン等の自前の食料を食べ、紅茶用に用意されていたお湯をテルモスに入れた。 打ち合わせたとおりam2:30前にヒュッテの裏口でホギー氏を待っていると、同室のイタリア人のパーティーが先に出発した。 相変わらず賑やかで、後ろを振り返り私達に手を振っている。 本当にタフで陽気なイタリアーノだ。 間もなく氏が現れ、早速アンザイレンした後、am2:35にイタリア隊に続き二番手で憧れのモンテ・ローザの頂を夢見て出発した。 10分程しか違わなかったのに、上方にはイタリア隊のヘッドランプの灯は見えなかった。 今日も私が殿である。 足元と妻の背中だけを見ながら、一応踏み跡のついている急な岩場のアルペンルートを登る。 標高もまだ3000m以下であるし、体も充分に高所順応しているので、呼吸は全く苦しくない。 これはひょっとすると今日もいけるかもしれない。 いや、今回マッターホルン登山という私のわがままを聞いてくれた妻のためにも、この最高峰には何としても登らなければならないのだ。 私がマッターホルンで受けた感動を妻にも味わってもらいたかったからだ。 体はまだ完全に起きていなかったが、今日は違った意味で気合が入っていた。

  岩場の登りは軽快で、どんどん標高を稼いでいく。 これで30分に1回休憩があれば申し分ないのであるが、そんな呑気なことは言ってられない。 なにせ今日のゴールはあのドムの頂より遠く、そして高いのだ。 ホギー氏のペースは速くもなく遅くもなく、上手に私達を上へ上へと導いていく。 出発してから1時間が過ぎ、ルート上にも雪が多く見られるようになってきたが、まだ氷河の取り付きには着かない。 休憩が約束されている取り付きには早く着きたいが、氷河の上は寒く、また重い足かせ(アイゼン)を着けなければならないので、なるべくこのまま登り続けたいと願う。

  am4:05、出発してから1時間半でモンテ・ローザ氷河の末端に着いた。 私達と入れ違いにイタリア隊は出発していったが、その後は登りで彼女らの姿を見ることはなかった。 ガイドブックによれば取り付きの標高は3277mとなっており、ヒュッテからの標高差が約500mであることを考えると、この取り付きの位置はガイドブックどおりであると思われ、ルートの状態も例年どおりと推測される。 ホギー氏からアイゼンを着けるように指示があり、10分程の休憩となった。 氏は氷河歩き用にザイルを長く伸ばした。 相変わらず満天の星空で、今日も好天が期待される。 先程食堂にいた山男達はその後どうしたのであろうか、次のパーティーの到着を待たずにam4:15、取り付きを出発した。

  ドム登山の時と同じように単調な雪の斜面を登ることを想像していたが、のっけからデブリやクレバスが多く、絶えず足元に集中して登らなければならなかった。 セカンドの妻はホギー氏の歩くルートを一応参考に出来るが、殿の私はどうしても自己流のルートになってしまう。 暗闇の中、二度三度と雪を踏み抜き、雪の詰まった浅いクレバスに落ちた。 その度に慌てて体を引き上げたため、まだスパッツをしていなかった靴の中に雪が入った。 凍傷になると困るので氏を呼び止めスパッツを付けたが、しばらくするとデブリやクレバスはルート上から殆どなくなり事なきを得た。 ノルトエント(4609m)の他、9つの衛星峰を擁する巨大なモンテ・ローザ(最高峰はデュフールシュピッツェ)の山腹を左から回り込むようにひたすら歩きに歩く。 気が遠くなりそうな単調な登高も、ドム登山で充分経験したお蔭でなんとか耐えられる。 幸いにも時折冷たい風が吹くのを感じる程度で今のところは快調であるが、気温は今までの山の中で一番低く感じるので、天候が悪くなったらこの漫然とした登高も相当厳しいものとなるに違いない。

  am5:30を過ぎ、夜が少し白み始めてきた。 既に取り付きからは1時間以上も歩き続けているが、ホギー氏には全く休もうとする気配は感じられなかった。 ここまでは順調に登ってきていると思われたので、今日こそは素晴らしい朝焼けの写真を撮ろうと心に決めていた。 何度も後ろを振り返りながらシャッターチャンスをうかがっていたが、ここから見えない東の空に雲が出ているのであろうか、一向に山が染まってこない。 そうこうしているうち、am6:00ちょうどに突然ホギー氏が歩みを止めて休憩となった。 特に何の変化も目印もなさそうな所だったので、氏は時間で区切ったのであろう。 図らずも撮影タイムとなったが、肝心のマッターホルンは相変わらず黒く、またもや願いは叶えられなかった。 “主役”の妻を気遣い、「長かったね〜、でもここまでくればもう大丈夫だよ。 7時間の内もう半分来たからね!」と元気づけると、妻も今日は結構良いペースで登っているとのことであり、とりあえず安堵した。 10分程休憩した後、再び単調な登りは始まった。 引き続きトレイルは右へ反転することなく左へ左へと斜めに登っていく。 北斜面を登っているのでまだ太陽を拝むことは出来ないが、周囲はだんだんと明るくなってきた。 取り付きから2時間半程でやっとトレイルは右へ反転し斜度を増した。 この辺りがガイドブックに記されているノルトエントとの分岐点であろうか。 しかしノルトエントに向かうトレイルらしきものは全く分からなかった。

  am7:00を過ぎると、灰色だった空の色も少しずつ水色に変わってきた。 変わらないのはホギー氏のペースである。 妻の言うとおり氏のペースは常に一定であり、楽ではないが決して苦しくはない。 これが“職人技”というものか。 再びトレイルが左に反転した時、雪の斜面の上に黒い小さな岩の塊が見えた。 ガイドブックの記述も忘れ、とっさにあれが山頂だ(実は稜線上のピークの一つにすぎなかった)と、自分に都合がいいように思い込んでしまった。 “山頂”が近づくにつれ、トレイルは直登気味に小刻みにジグサグを切るようになり、高さの目安にしていたリスカムも、だいぶ低く見えるようになってきた。 コーナーにさしかかると、斜め後ろから妻に「もうすぐだ、もうすぐだ」と声を掛ける。 妻に何としても登頂してもらいたいと願うあまり、その願いが叶いそうになってきたことが嬉しくて、不意にまた涙が出てきてしまった。 どうやらマッターホルンの後遺症がまだ続いているようだ。

  am8:00ちょうど、先程の休憩から休まずに2時間近く登り続け、標高4359mの主稜線上のコルに着いた。 意外にもまず目に飛び込んできたのは、衛星峰のジグナールクッペ(4556m)とその山頂に建っている、深山には不釣り合いなマルゲリータ小屋(アルプスで最も高い所にある山小屋)の四角く黒いシルエットであった。 そしてこれから向かう左手の稜線の先には待望の“山頂”が手の届きそうな所に見えている。 コルで休憩となり、山頂を誤認していた私は妻に、「よほどのことがないかぎり、あそこ(山頂)まであと1時間はかからないよ。 良かったね〜、もう間違いなく登れるよ!」と太鼓判を押して励ました。 しかし油断は禁物である。 既に5時間以上も歩き、相当なボディーブローを受けているからだ。 これが最後の休憩になると思われたので、行動食を無理やりお湯で流し込み、妻にもシャリバテにならないよう沢山食べることを勧め、更に残った行動食を出来る限りジャケットのポケットにねじ込んだ。 ホギー氏がザイルを短く結び直した。 いよいよこれからが本番である。

  10分程休憩した後、気合を入れて夢の実現に向け最後のアタックに入った。 ところが稜線の急な雪の斜面に取り付くと同時に状況は一変した。 コルでは全く無風だったのに、突然冷たい風が強く吹き始め、足元の雪はカチカチに凍結していた。 たまらずジャケットのフードを被ったが、休憩の時に下にフリースを着込まなかったことを後悔した。 ピッケルもアイゼンも雪面に力強く打ち込まないと登ることが出来ない。 強い風は収まらず、足元も非常に不安定だったが、ホギー氏は“スピード=安全”の原則に従ってか、先程までとは全く正反対の速いペースでグイグイと私達を引っ張り上げた。 私はギアチェンジが上手くいかず、すぐに息が上がってしまったが、ここを乗り切らなければ妻共々憧れの頂に辿り着くことが出来ないという思いだけで、必死になって駆け登った。 もし氏がいなかったら、迷わず一旦コルまで引き返しただろう。 細かなジグザグの登りを20分程続けて雪稜を登りきり、なんとか一つ目の小さなピークに辿り着いた。 ピークを越えたとたん強風は収まり、幸いにも以後山頂まで風で悩まされることはなかったが、ここは最高峰に辿り着くための“関所”だったのであろうか?。 短い時間ではあったが、アルプスの気まぐれな天候の怖さをあらためて思い知らされた。 ピークからは左右に見える衛星峰の位置からみて、今まで山頂と思い込んでいた眼前の岩峰は稜線上のピークの一つに過ぎず、真の山頂はまだだいぶ先であることが分かり、がっかりさせられた。 

 既にam8:30を過ぎ、出発から6時間が経過した。 まだ見えぬ山頂に少し焦りを感じ始めたが、再度“セブン・アワー”を信じて妻を元気づけた。 いや、むしろ自分自身を元気づけていたのかもしれない。 ピークから少し下った後、稜線は雪から岩へと変わった。 稜線の岩場は痩せていて非常に高度感がある。 アイゼンを着けているので登りにくかったが、風も弱まりマッターホルン登山の時と比べてゆっくり登れたので楽しかった。 しかし体の小さい妻は何箇所か手掛かりのない所で、ホギー氏に確保されながらの登攀に苦戦していた。 二つ目の小さなピークを越え、再びナイフリッジの雪稜を登りきった後、氏は「岩陰にピッケルをデポしなさい」と私達に指示した。 前方には今度こそ山頂と思われる黒い岩峰が見えた。 いよいよ大詰めだ。 シャリバテもなく、妻も登頂を確信したに違いない。 ノルトエントの頂も目線の高さになってきた。 再び稜線の岩場を小さく登り下りしていると、前方にやっとイタリア隊の三人の姿が見えてきた。 良く見ると彼女らは既に下ってきている。 未明以来の再会に、「コングラチュレーション!」と登頂を祝してエールを送ると、直ぐに「コングラチュレーション!」と弾んだ声が返ってきた。 彼女らの表情とジェスチャーで山頂はすぐそこであることが分かった。

  高さ5m程の幅の狭いチムニーを、上からホギー氏に確保されて登りきると、傍らに十字のフレームに納められた気象観測器が設置されていた一坪程の広さの岩のテラスに躍り出た。 周囲を遮るものがなくなり、空の青さが倍になった。 仏頂面の氏が初めてニヤリと微笑んだ。 先に登った妻は茫然と立ったままであった。 「やったね〜!、おめでとう!、お疲れ様!、良かったね〜!」。 機関銃のように労いの言葉を並べ、最高峰のサミッターとなった妻を抱擁して讃えたが、私自身も達成感と安堵感の両方で胸は一杯であった。 とうとう高嶺の花を手に入れることが出来たのだ!。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!」。 しばらくして我に返り、妻と交互に敬意を表して氏にお礼を言いながら、拝むように両手で固い握手を交わした。 時計はam9:25を指していた。 未明にヒュッテを出発してから6時間50分、奇しくも私がマッターホルンを往復した時間と同じであった。 素人の私達を約束どおり見事に最高峰の頂に立たせてくれた氏は、やはり一流の職人であった。 振り返れば2年前にモン・ブランに思いを馳せ、昨年憧れのアルプスの山々の扉を開いた素人の私達にとって、まさかスイスとイタリアの両国の最高峰の頂に立てるなどということは夢にも思わなかった。 しかしアルプスの山の神は私達に絶好の天気を与え、歓迎してくれたのであった。 気が付くと山頂の岩には赤子のキリスト様を抱いた優しい顔のマリア様のブロンズのプレートが打ちつけられており、思わず感謝の気持ちを込めて手を合わせた。

  結局山頂は今日も殆ど風もなく快晴であった。 気温はマイナス5度であったが、陽射しがあるので寒さはさほど感じない。 予想していた以上に最高峰の頂からは、ちょうど富士山からの眺めと同じように、周囲にある山々が全て低くそして遠くに見えた。 ゴルナーグラートの展望台もはるか足下に見える。 なるほど、あそこからここを見上げたら、とても素人が登れるとは思わないだろう。 写真を撮りながら山座同定をしていた私達にホギー氏も加わってきたが、ここから見える20座程のフィアタウゼンダー(4000m峰)の山名が、全て分かるようにまで精通していた私達の意外な実力?には感心していた様子だった。 

  いつものように感激と興奮が覚めないまま、山頂での時間はあっと言う間に過ぎ、ホギー氏は腰を上げた。 しかし私は最高峰の頂を踏めたという達成感が大きかったせいか、不思議といつまでもここに佇んでいたいという強い願望は湧いてこなかった。 am9:45、氏に促されて、もう二度と来ることは叶わないであろう憧れの頂を後にした。 下りの岩場でのルートファインディングは、トップの私がしなければならなかったので大変だったが、余計なことを考えずに足元に集中していたので、安全面ではかえって良かったのかもしれない。 マッターホルンの時は懸垂下降で下りたため感じなかったが、アイゼンを着けての下りはけっこう重労働であった。 ピッケルを回収し、20分程下った所で次に登ってくるパーティーがやっと見えてきた。 先程強風で苦労した急な雪稜の下りも、すでに風はなくなり、山頂から1時間弱で無事コルに戻ることが出来た。 コルは相変わらず風もなく、日溜まりとなっていてとても暖かかった。 氏もザックを下ろして休憩モードに入った。 氏は厚手のジャケットを脱ぎザックにしまったが、下は何と半袖のTシャツ1枚であった。 もうここからは安全地帯と見たのか、氏ものんびりと寛いでいる。せっかくなので妻と私が交互に氏と写真に納まった。 山頂では少し疲れ気味だった妻も今は活き活きとしている。

  am10:45にコルを出発。 あとはひたすら取り付きまでだだっ広い雪の斜面に登山靴のシュプールを描くだけだ。 スキーシーズンにはこのコルまで登り、ゴルナー氷河に向かって滑降していくというのが、こちらでは定番のスキーツアーであるということを聞いたことがあり、妻と顔を見合せて「スキーがあったらいいのにね〜!」と言い合った。 ホギー氏もそう思っているに違いない。 登りには4時間近くかかった取り付きまでの雪の斜面を、休むことなく一気に下る。 途中傾斜が一段と緩んだ所で氏が先頭に変わり、ドム登山の時と同じように走るように下っていった。 豆粒程であったマッターホルンの黒いシルエットもみるみる大きくなっていく。

  ホギー氏のペースが遅くなった。 クレバス帯に入ったのだ。 未明には何度か浅いクレバスに落ちたので、慎重に行動しなければならなかった。 午後の方が雪が腐り危ないからだ。 しかし先程トップを交代したことで一旦緊張感が抜けてしまった私は、不注意にも雪の詰まった浅いクレバスを通過した時に、凍った地面に足を滑らせて転び、眼鏡が飛ぶほど右の側頭部を雪面にぶつけてしまった。 幸いにも外傷はなかったが、頭を強打したため少し不安な気持ちになった。 頭の痛みは消えなかったが、妻に心配をかけないようにと平静を装っていた。 しかし“気分が悪くなってきたら危ない”と心配していると、自己暗示にかかってしまったのか、本当に気分が悪くなってきてしまった。

  正午過ぎに無事?氷河への取り付きに戻った。 アイゼンを外し、ザイルも解かれ最後の休憩となった。 下ってきた山の斜面を振り返り見ながらのんびりしていると、後は私達だけで大丈夫とふんだのか、ホギー氏は一人で先に下っていってしまった。 取り付きから下はガイドの責任区間にはなっていないのであろう。 その後ろ姿はまるで糸の切れた凧のようであった。 仕方なく私達も腰を上げ、氏の後に続いた。 途中2〜3箇所あった短い雪の急斜面を、氏は登山靴をショートスキーのように巧みに操り、遊びながら上手に下っていく。 私達も氏の真似をしてみたが、私はまだしもスキー1級の腕前の妻ですら氏のようには決まらなかった。 

  午後の陽射しが最高潮に達したpm1:05にヒュッテに到着。 未明に出発してから10時間半の長丁場であった。 ホギー氏の顔はガイドから小屋番へと変わり、早速私達に飲み物の注文を聞いてきた。 本当はワインでも注文し、美酒に浸りたい気分であったが、頭の痛みが心配だったのでいつものようにソフトドリンクを注文した。 テラスで待っているようにと言われたが、ホギー氏は一向に現れなかった。 氏のことではなく飲み物のことだったのか?。 「お疲れ様でした〜!、登頂おめでと〜う!」。 テラスで先に妻と二人で祝杯をあげたが、陽射しが強すぎてかなわず食堂の中に入った。 お腹もすいてきたので、スパゲティーを注文した。 間もなくビールを片手に氏が現れた。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、本当にありがとうざいました!」。 あらためて感謝の気持ちを込めて氏と乾杯した。 食堂の壁に“登頂証明書15フラン”とあったので、氏にお願いして書いてもらった。 証明書を受け取り、ガイド料の880フラン(邦貨で約67800円)を支払い、100フランのチップを手渡した。 雑談の最中に注文したスパゲティーがくると、氏は遠慮したのか、それとも山小屋の仕事が忙しかったのか分からないが、静かに席を立っていった。 氏は最後までシャイな山案内人であった。 食事が終わると、スパゲティーが大盛りだったせいか、体が急に重たくなってきた。 ドム登山同様に疲れきっていた妻から、“もう一晩ヒュッテに泊まってゆっくりしていきたい”という提案があった。 私も大きな目標を達成出来たので、ふとそれも良いかなと思った。 しかし頭の痛みが心配だったことと、もし逆に痛みがなくなり運良く好天が続けば、さらにもう一峰登れるかもしれないと妻を強引に説得し、疲れた体に鞭打ってツェルマットに戻ることにした。


モンテ・ローザ氷河から見た山頂方面


モンテ・ローザ氷河から見たゴルナー氷河とマッターホルン(左)


4359mのコルから見た衛星峰のツムシュタインシュピッツェ(左)


モンテ・ローザの山頂


モンテ・ローザの山頂から見たリスカム


モンテ・ローザの山頂から見たマッターホルン(左端)とヴァイスホルン(右端)


モンテ・ローザの山頂から見た衛星峰のツムシュタインシュピッツェ(手前)とジグナールクッペ(奥)


モンテ・ローザの山頂から見た衛星峰のノルトエント(右手前)とドム(左端)


4359mのコルでホギー氏と


モンテ・ローザ氷河の取り付きまでだだっ広い雪の斜面をひたすら下る


  「サンキュー・ベリー・マッチ!、スィー・ユー・アゲイン!」。 pm3:00前、厨房にいたホギー氏に声を掛けて別れを告げ、ゴルナー氷河へのアルペンルートを下った。 コルからの下りで相当飛ばしたため、足は既にガタガタであったが、先程自分の不注意で転んでいるので、足元には充分に注意して慎重に下った。 ゴルナー氷河からは何度も後ろを振り返り、写真を撮ったり双眼鏡を覗いて登ったルートを確認したりして登頂の余韻に浸った。 ここから山頂までは標高差が2000m以上もあるためか、未だに自分達がその一番遠くの高い所にいたということが信じられない。 幸いにも頭の痛みは次第になくなり、氷河を渡り切る頃には気分も良くなってきた。 “よし、これでもう一峰いけるぞ!”。 心も軽やかになり、重たかった足取りも急に軽くなってきた。

  氷河を無事渡り切り、ジグザグの急なトレイルをひと登りすると、ローテンボーデンの駅まで標高差で100mほどのだらだらとした最後の登りになった。 ここからは危険な所が全くないハイキングトレイルなので、少し気持ちを緩め鼻歌交じりに約3km先のゴールを目指した。 今日の山行の思い出に浸りながら、次の目標に向けての思いを馳せる、弥次喜多山行の“興行主”の私にとっては最高のひとときであった。 片やその“被害者”である妻は、下りにセットされた足のギアを、もう登りに変換することが出来ないらしく、途中から傾斜が一段と緩んだトレイルを、老婆のようにゆっくりゆっくり登ってくる。 ローテンボーデンをpm6:03に出発する登山電車でツェルマットに下る予定だったが、妻にラストスパートをかける余力がなかったので、僅かの差で間に合わなかった。 次の下り電車の出発は約1時間後のpm7:15だったので、pm6:37に到着した上り電車に乗って、一つ先の終点のゴルナーグラートへ向かった。 足が棒になって動けない妻を駅に残し、下り電車が出発するまでの僅かな時間を惜しみ、5分程坂道を登った先にある展望台へと急ぎ、誰もいない展望台であらためてモンテ・ローザを仰ぎ見て一人悦に入った。 夕陽に照らされたモンテ・ローザの頂は何度見ても遙かに遠く、高嶺の花に変わりはなかった。 やはり私達は良い夢を見ていたのかもしれない・・・。

  モンテ・ローザに別れを告げ、妻の待つ駅に戻りpm7:09発の登山電車に乗って、ツェルマットへと下った。 車中では私も睡魔には勝てず、妻と同様に夢の続きを見ながらの凱旋となってしまった。 pm8:00過ぎにホテルに戻ったが、レストランで打ち上げをする余力もなくなり、シャワーを浴びた後にインスタントラーメンを流し込んでベッドに潜り込んだ。


ゴルナー氷河から見たマッターホルン


ローテンボーデンの駅へのトレイルから見たモンテ・ローザ


  【抜け殻】
  8月28日、朝方トイレに起きると、既に筋肉痛が始まったのか、身体中がだるかった。 昨日のモンテ・ローザ登山が充実していたことの証だと思うと、逆にだるさも心地よく感じられたが、それは大きな錯覚だった。 再び寝床に入り、部屋の中が充分明るくなった頃にゆっくりと起床した。 カーテンを開けると、ベランダから澄みきった青空を背景にしたマッターホルンの雄姿が見えた。 今日も快晴のようだ。 いったいいつまでこの晴天は続くのだろうか?。 疲れのため神経が鈍くなっていたのであろう、食堂に行く直前にやっと体の異変に気がついた。 未明からの筋肉痛は熱によるものだったのだ。 食堂のテーブルに座ったものの、気分が急に悪くなり食欲が全くない。 さては昨日ぶつけた頭の後遺症か、それともここに来て再び一週間前の風邪がぶり返したのであろうか?。 食堂にいる間に具合はどんどん悪くなり、体はガタガタと震えだして部屋への階段を登るのもままならず、ベッドに倒れ込んだ。 体温計がないので正確な体温は分からないが、身体中の筋肉が刺すように痛く、相当な高熱が出ているに違いない。 風邪薬を飲み、ただひたすらベッドの中で痛さと苦しさに耐えるしかなかった。 しばらくすると今度は下痢が始まり、翌々日まで三日間おさまることはなかった。 ベッドとトイレの間を何回も往復していると、ふと増井氏が以前モンテ・ローザヒュッテの食事がもとで食中毒になったという話を思い出した。 最後に食べたスパゲティーが原因だろうか?。 しかし今のところ妻は大丈夫だ。 残念ながら、意外にも?興行主の私の方が相棒の妻より体力がなかったということであった。 もともと体の弱い私の場合、無理が通っても道理は引っ込まなかったのである。

  外は今日も快晴の天気だが、妻は私のことを心配して外出もせず、知人に手紙を書いているようだった。 昨日嫌がる妻を無理に下山させたのに、本当に申し訳ない気持ちで一杯だったが、この“珍事”は私も全く予想出来なかった。 マッターホルンで運を使い果たしたのか、それとも大きな目標を達成したことによる緊張感の欠如で、お調子者の私が最後の一峰から滑落することを神様が止めてくれたのかもしれないと自分自身に言い聞かせるしかなかった。 絶好の天気であったが、山はおろかどこにも行くことが出来ず、ベッドの中で虚しく一日は過ぎていった。 夜の天気予報では明日も晴天であるが、明後日からは悪天候がしばらく続くとのことであった。


ホテルのベランダから見たマッターホルン


  8月29日、今日も予報どおりの晴天だった。 何とか昨日一晩寝て、今朝までには治したいという願いも虚しく、症状は少し軽くなったものの悪寒と下痢は続き、最後の切り札であったメッテルホルンへの日帰り登山も諦めざるを得なかった。 しかし昨日一日中病人の看護をしてくれた妻に義理を果たさなければならないし、また明日は体調が良くなっても天気が悪そうなので、今日のうちに少し無理をしてでも外出したいと思った。 ただハイキングに出掛ける程には体が回復していなかったため、気温が上昇してきたお昼近くにベッドから這い出して、先日のブライトホルン登山の時に割愛した、クライン・マッターホルンの展望台に行ってみることにした。

  “意を決して”出発したものの体にまるで力が入らず、普通であればホテルから5分程で行けるゴンドラの駅までの道がとても遠く感じる。 そんな“抜け殻”のような体ではあったが、ゴンドラやロープウェイの車窓からは、下から上へは勿論のこと東北面から東面、そして東南面へとそれぞれに個性的な山容に変化する愛しいマッターホルンの雄姿が終始眼前に望まれ、やはり無理をした甲斐があったと嬉しくなった。 藤本さんは運良く今日あたりアタックされているのであろうか?。 9日間も連続して快晴の天気が続いているため山は真っ黒に日焼けしているが、もし明日以降の予定であれば再びマッターホルンは雪化粧し、しばらくは人を寄せつけなくなってしまうだろう。 喜んだのも束の間、最後のロープウェイを降り、展望台に通じる薄暗いトンネルを歩いていると、まるで高山病にかかったかのように気分が悪くなってきてしまった。 専用のエレベーターで展望台に上がったが、少しの風でも寒く感じるため、目一杯厚着をした上に高所用の帽子を深く被った。 展望台の観光客の中で一番着膨れしていた私のことを、誰が5日前に眼前のマッターホルンの頂に立ったと想像できるであろうか。 いや、一番そう思っているのは他ならぬ私自身であった。

  アルプスで最も高い3883mの展望台からは、既に正午を過ぎているにもかかわらず、明日から本当に天気が崩れるのかと疑いたくなるような青空の下、ツェルマットの町を囲む毎度顔なじみの秀峰群のみならず、憧れのモン・ブランやグラン・コンバン(4314m)、そしてグラン・パラディゾといったアルプス西部の山々や、メンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)、アレッチホルン(4195m)といったベルナー・オーバーラントの山々も遠望できた。 もうこの大パノラマもしばらくの間は見納めになると思い、いつまでも展望台に居すわっていたかったが、ここで無理をすると日本にも帰れなくなりそうだったので、1時間程で展望台を後にして、ロープウェイで一つ下のトロッケナー・シュテークへ向かった。

  標高差で1000m近く下がったトロッケナー・シュテークに着くと、酸素が濃くなり気温も上昇したせいか、少し気分が良くなってきた。 駅舎の上にあるレストランのテラスの風の当たらないテーブル席に座り、眼前に大きく鎮座しているマッターホルンの右の一辺であるヘルンリ稜の登攀ルートを、登った時の思い出に浸りながらビデオでなぞりながら撮っていると、条件反射のように再び涙が出てきてしまった。 この病気もなかなか治りが悪いらしい。モンテ・ローザの登頂後、私から“登山家”と呼ばれるようになった妻は、今や抜け殻となった私をテラスに残し、30分程登った所にあるガンディックヒュッテまでのアルペンルートをさっ爽と登っていった。

  pm3:00頃に妻が戻ってきたので、今日の“山行”を無事終え、再びゴンドラを乗り継いでツェルマットへと下った。 私は一人寂しくホテルのベッドに潜り込み、妻は町へ買い物に出掛けた。 妻は足繁く通ったメインストリートの中程にある土産物店『WEGA』(ヴェガ)の店主で、増井氏らを始めとする岳人とも交流があるらしい西永さんという方と親しくなったようで、雑談で私がこの一週間でドム、マッターホルン、そしてモンテ・ローザの三つの山を登ったという話をしたところ、「一週間でその組み合わせの山を登った人も珍しいので、ご主人の体調が良くなったら記念品を差し上げたいので是非一緒にご来店下さい」と誘われたという。


クライン・マッターホルンの展望台から見たマッターホルン


展望台から遠望したモン・ブラン(左奥)とグラン・コンバン(右奥)


トロッケナー・シュテークから見たマッターホルン


  8月30日、“異常気象”にも終止符が打たれ、今日は予報どおり朝から小雨模様の天気だった。 明日にかけてもぐずついた天気が続くとのことで、まだ完治していない体調のことを考えると、残念ながら今回の弥次喜多山行が事実上終わったことを受け入れるしかなかった。 お昼近くになって少し晴れ間も出てきたので、ホテルから歩いて30分も掛からない所にある『ゴルナーシュルフト』の渓谷見物に出掛けた。 乳白色をした氷河の溶けだした水が、深く狭い渓谷を勢い良く流れていく様を、岩壁に取り付けられた木の遊歩道を歩き、真上から見物するというものであったが、入場料を支払った割には施設の規模は小さく、モンテ・ローザヒュッテの往復に歩いて横断した“水源”のゴルナー氷河のクレバスの方がはるかに刺激的だった。 帰りにツムットの古い集落の散策を行なったが、先程の渓谷で冷やされたためか、再び下痢の症状が出てしまったため、ほうほうの体でホテルに戻った。

  ホテルでしばらく休憩した後、土産物店の『WEGA』に行ってみることにした。 初対面の西永さんに、「一週間でドムとマッターホルンとモンテ・ローザの三つの山を登ってこられたなんて凄いですね〜」と褒められたが、「私が凄かったのではなく、快晴の天気が一週間も続いたことの方が凄かったですよ」と本音を言った。 西永さんはその昔、ツェルマットに観光に来た時に現在の店の女将さんと親しくなり、今日に至っているという。 ご好意に甘えて私達のフルネームと三つの山の登頂日を書いたメモを西永さんに手渡すと、一時間後にマッターホルンの山のデザインと、三つ(妻は二つ)の山の登頂日、山名、そして私達の名前が彫られたアーミーナイフが、西永さんから私と妻それぞれにプレゼントされた。 体調を崩した私を元気づけようとして下さった西永さんのこの粋な計らいには、本当に頭が下がる思いであった。

  体調も少し安定してきたので、ヘルンリヒュッテでお世話になった関さんの滞在しているホテルを訪ねてみたところ、フロントの女性から「残念ながらもうチェックアウトされてしまいましたよ」との案内があった。 ヘルンリヒュッテでの別れ際に、次にヴァイスホルンを登りたいと話されていたが、無事登頂を果して日本に凱旋されたのであろうか?。 その足で藤本さんのホテルも順次訪ねてみたが、こちらも不在だったのでメモを残してホテルに戻った。

  pm8:00過ぎ、藤本さんがホテルを訪ねに来てくれた。 一階のラウンジに下りていくと、藤本さんはたまたま居合わせた馬場さんというもう一人の中年の男性と歓談されていた。 お互いに知らなかったが、馬場さんもこのホテルに一週間前から泊まられており、数日前にマッターホルンに無事登られたということであった。 藤本さんは9月2日にマッターホルンのアタック日が一応決まったということであったが、今日から天気が下り坂になっていることを懸念していた。 確かに明日も雨(山は雪)という天気予報から考えて、3日後のアタックは難しいかも知れない。 しかし天気予報も外れることはあるし、藤本さんはもともと実力があるから大丈夫ですよと励まし、藤本さんの登頂を祈って乾杯した。 また藤本さんは一昨日リッフェルホルンの岩登り講習会に行ったところ、ガイドはあの高橋さんをマッターホルンの頂に導いたリッキー氏で、無事氏から合格点を与えられたということであり、岩登りの経験が豊富な馬場さんは、何とマッターホルンを3時間半で登られたという韋駄天であった。 それに引き換え私は、妻共々モンテ・ローザに無事登ることが出来たが、今は体調を崩してまるで抜け殻のような状態で全く情けないという近況報告をした。 三人の山談義は延々と続いたが、ラウンジが閉まるということで、今後のお互いの健闘を祈念し合って、pm10:00過ぎに一同解散した。


『ゴルナーシュルフト』の渓谷を見物する


  8月31日、残念ながら予報どおり今日も雨の天気だった。 藤本さんの落胆した顔が目に浮かび、何とも言えない気持ちだ。 明日は帰国のため始発の登山電車でツェルマットを発たなければならないので、朝食のバイキングも今日が最後である。体調はだいぶ良くなったが、今日は雨があがるまでハイキングには出掛けないと決めていたので、久々に優雅にバイキングを堪能した。 日本での山行は殆どが車中泊で、ホテル等には泊まったことがない私達にとって、同じホテルに二週間も滞在したことは画期的な出来事であり、貧乏性の私には罪悪感すら覚えるものであった。

  ツェルマットには今後しばらく来られそうもないので、午前中は妻と二人で雨の中を登山用品店や雑貨店、洋品店、時計店、山の絵を売ってる店、マーケット、土産物店等をしらみつぶしに見て回った。 午後になっても雨は降り続いていたので、私は専ら『WEGA』の地下にある書店で、豊富な種類のアルプスの山々の写真集やガイドブック、雑誌、地図、そしてマッターホルンの写真集等を立ち読みしていた。 同じ本でも殆どがドイツ語と英語の二種類、物によってはそれに加えてフランス語とイタリア語の四種類のヴァージョンがあるが、もちろん日本語訳のものは全くなかった。 あらためてここは欧州人達のリゾート地であることを痛感させられた。 次回?のために、アルプスの山々の登山ルートの詳細な解説が英語で書かれた大判の高価な写真集を、まるで宝物を手に入れたかのように勇んで買い求めた。 お腹もほぼ全快したので、早めの夕食をとりにイタリア料理店に行き、久々にこってりとしたスパゲティやピザ等をお腹一杯に食べ、私の道楽に2週間も付き合ってくれただけでなく、病人の看護までしてくれた相棒の妻にあらためてお礼を言い、長いようで短かった2週間を振り返りながら、しみじみと弥次喜多山行の打ち上げを行った。

  明日は未明にホテルを出発しなければならないので、ホテルに戻って前夜のうちにフロントでチェックアウトを済ませた。 長い間お世話になったフロントの女性に、妻が日本から持参したお土産をプレゼントしていた。 部屋に戻って荷物の整理とパッキングをする。 持参した食糧の分が減ったものの、土産物の重量や嵩が増えたためパッキングはひと苦労だった。 機内持ち込みをしないスーツケースに詰める荷物の重量制限は20kgであるが、秤がないので2週間前の“腕の記憶”を呼び起こして計量を行った。 結局、機内に持ち込む手荷物扱いの私のザックは15kg近くにまで膨れ上がってしまった。

  9月1日、am5:00起床。 昨日から降り続いていた雨も出発前には運良くあがってくれた。 身仕度を整えてam5:30にホテルを出発した。 メインストリートは一部が石畳になっているため、小さな車輪が付いたスーツケースを上手く引きずることが出来ないので、少し遠回りをして川沿いの道を駅に向かった。 霧が少しかかり、まだ真っ暗な裏通りには人影は全くなかった。 15分程重たいザックを背負い、スーツケースを引きずってガランとした駅前の広場に着くと、まるで私達を待っていたかのように、誰かが一人ポツンと立っていた。 藤本さんだった!。 何と義理がたいことに藤本さんは、帰国する私達をわざわざ夜も明けないうちから見送りに来てくれたのであった。 思いがけない出来事に、申し訳ない気持ちで一杯だった。 ましてや昨晩の天気予報でも、今後の天気は好転しないようであり、藤本さんの心中を察すると心が痛む。 もう言葉は要らなかった。 写真を撮り合って再会を誓い、固い握手を交わしてam6:00発の始発電車に乗り込み、藤本さんに見送られながら思い出深いツェルマットの町を後にした。 もう後は“通い慣れた道”を電車に揺られていくだけである。

  間もなく夜が明けてきた。周囲が徐々に明るくなり、車窓からの風景も山岳地帯から田園地帯へと変わりつつあったが、私の心はまだツェルマットを離れてはいなかった。 目をとじると、滞在していた日々の様々な出来事が一つ一つ鮮明な記憶として蘇ってくる。 思えばブライトホルンに続き、絶好の天気に恵まれて、ドム、マッターホルン、モンテ・ローザという憧れのアルプスの山々の頂に立つことが出来たことは本当に幸運であり、まさに夢のような出来事であった。 またそのどれ一峰をとっても、忘れがたい感動が深く心に刻まれ、いつまでも色あせることはないだろう。 アルプス弥次喜多山行の興行主の私はその余韻にいつまでも浸りながら、一人悦に入っていた。 しかし今回のこの山行を無事まっとうすることが出来たのも、前回同様にいろいろな方々との出会いがあったことに他ならなかった。 私にマッターホルンを登る勇気と知恵を与えて下さった『五十七歳の頂上』の著者である高橋銑十郎さんはもちろんのこと、観光案内所で素人の私の身を案じて声を掛けて下さった藤山さん、私のために無償のアドバイスをして下さったガイドの増井氏、私達をいつも暖かく迎えて下さった氏の奥様、岩登り講習会のザイル・パートナーのアヘイムさん、素人の私達を見事に憧れのアルプスの頂に導いて下さったガイドのスーザン氏、ヴォルフカンク氏、そしてホギー氏、ヘルンリヒュッテで通訳をして下さった関さん、体調を崩した私を元気づけて下さった西永さん、ツェルマットの駅で私達を見送って下さった藤本さんには感謝の気持ちで一杯だった。


未明のツェルマットの駅に見送りに来てくれた藤本さんと再会を誓う


  帰国後直ちに高橋さんに電話を入れ、直接お会いして登頂報告とお礼を申し上げたい旨を伝えたところ、快諾していただいた。 数日後高橋さんにお会いして、あらためてマッターホルンの登頂報告をさせてもらったところ、登頂の成功をご自身のことのように心から喜んでいただいた。 高橋さんは想像していたとおりの紳士で、マッターホルン登頂後も、奥様と毎年のようにツェルマットを訪れ、ガイドのリッキー氏やエミール氏の家族と交流を図られているとのことであり、今年はちょうど私達と入れ違いにツェルマットを後にされたとのことであった。 お互いにツェルマットで撮った写真を見せ合いながら、既に還暦を過ぎた高橋さんと年齢の垣根を越え、マッターホルンのサミッター同志の思い出話しは尽きることなく夜遅くまで続いた。 また帰国後に藤本さんから届いた便りでは、残念ながらとうとう今シーズンは悪天候のため登ることが出来なかったが、転んでもただでは起きない藤本さんらしく、既に来年のアタックの日を予約して帰国されたとのことであった。 素人の私が登れ、ベテランの藤本さんが登ることが出来ない、マッターホルンとはそんな気まぐれな孤高の山であり、それ故にその頂に立てた時の感動も大きかったのではないだろうか。

  最後は抜け殻のように成り果てながらも、多くの方々に支えられて今回も新たな頂に立つことが出来た私は、また一歩憧れのヨーロッパアルプスに近づけたような気がした。


山 日 記    ・    T O P