【初めての8000m峰】
2011年の秋は、以前から憧れていたネパールのアマ・ダブラム(6812m)に登る予定でいたが、前年の秋に神田の石井スポーツで開催された海外登山のスライドショーの二次会でガイドの平岡さんからネパールのマナスル(8163m)に誘われ、急遽予定を変更して初の8000m峰に臨むことになった。 私はネパールにも行ったことはないし、順番的にもより困難な登攀が要求されるアマ・ダブラムを若いうちに(すでに50歳を過ぎて若くはないが)登ろうと考えていたが、平岡さんから「アマ・ダブラムはそれほどむずかしくなく、酒井さんなら60歳になっても登れる。 高い山は高齢になればリスクが高くなるので、将来8000m峰に登る計画があるなら少しでも早い方が良い」というアドバイスを受けた。 私は何人かの山仲間が登っているマナスルには強い憧れがあったものの、初めての8000m峰としては一番易しく、かつ、気象条件も厳しくないチョ・オユー(8201m)を考えていた。 平岡さんにこの辺りの話をしたところ、現在高所登山の主流となっている商業登山隊の最大手のヒマラヤン・エクスペリエンス社(HIMEX)がチベット問題で中国側からのチョ・オユー登山を止めてしまい、マナスルなどの他の山に切り替えているので、今では“インフラ”の整っているマナスルの方が現実的には登り易くなっているという。 今回のマナスル登山はこのHIMEX隊に平岡さんが日本人の専属ガイドとして雇用され、私が隊員として参加すればすでに参加を決めている仙台の工藤さんと2名になるため、費用は230万円ほどで済むとのことだった。 アマ・ダブラムに未練はあったが、来年は勤続30年ということで長期休暇が取りやすい環境が出来ていたので、その場で参加を決めることになった。
マナスル(8163m)は世界に14座ある8000m峰のうちの1座で、そのうちの8番目の標高を誇り、ネパールのほぼ真ん中の中国との国境付近に聳えている尖峰である。 アイガーのミッテルレギを初登攀したことで有名な槇有恒氏を隊長とする日本人隊が今から55年前の1956年に初登頂した唯一の8000m峰であることも興味深い。 この時の記録は同氏の著書『マナスル登頂記』に詳細が記されているが、この本には現代の高所登山でも十分通用するタクティクスも随所に見受けられ、またこの時の初登ルートが現在でも一般ルートとなっている。
年末から年始にかけては、マナスルに向けての装備品の調達を行った。 6000m峰までの装備で足りないものは、主に高所靴といわれる長靴のようなタイプの登山靴と厚い羽毛服だ。 この二つのアイテムは物理的な面のみならず精神的な面での安心感もあるため、お金を惜しまずに最高級かつ最新の物を買うことにし、靴はザンバランの『エベレスト8000』、羽毛服はヴァランドレの『ベーリング』となったが、他に新調したクランポン(グリベル)などの登山用品も含めて石井スポーツの越谷部長の好意により“遠征割引”ということで全て20%引きにしていただいた。 また、同店に勤めている登山家の平出和也さんからも色々とアドバイスを受けたのみならず、海外の山の情報交換も出来て良かった。 この高所靴と羽毛服は事前に厳冬期の浅間山と蓼科山という風の強い独立峰で試してみたが、強風や低温に関しては全く問題なく製品に対する信頼感は高まった。 また、高所靴は雪の上であればそれほど歩きにくくなく、重さも一般の二重靴とあまり変わらなかった。
その後3月に未曾有の大震災があり、先行きが危ぶまれたが、7月の海の日の連休に小淵沢で今回の登山メンバー(男性3人と女性1人)の顔合わせと説明会があり、仙台の工藤さんは来られなかったが、大阪の藤川さんと舞鶴の齋藤さんが来られた。 お互い初対面のはずだったが、紅一点の齋藤さんとは2年前の7月にお互いの目標の山(私はワスカラン、齋藤さんはラクパ・リ)への高所順応のため富士山に登り、その山頂でエールを交歓していたことが分かり、その偶然さに驚いた。 翌日は親睦を兼ねて平岡さんがガイドで横岳の『小同心クラック』を皆で登ったが、その下山中にマナスルの麓の村に日本人学校を建てた登山家の野口健さんにお会いするというオマケがついた。 説明会では平岡さんからB.Cでの滞在が長期間(1か月)になるので、その間にストレスを溜めないような快適用品も重要との話があり、折り畳みのイスや分厚いエアーマットなどを持って行くことにした。 また下着などは天候によっては洗濯が出来ないことがあるので、多目に用意することにした。 お菓子は行動食のみならず、B.Cで食べる嗜好品も沢山用意したため、装備品の総重量は47キロにも膨れ上がり、このうち20キロはEMS(国際郵便)で事前にHIMEXのカトマンズ事務所に送ることになった。 今回の8000m峰登山の最大の懸案事項は、酸素マスクとメガネ・オーバーグラスとの相性だったので、フレームが柔らかくレンズの小さなものを2つ作って持って行った。 当初は登山隊員の中に石川直樹さんとガイドの田村真司さん(スイスのツェルマット・アクティブマウンテン社代表)がいたが、直前に石川さんがキャンセルされたため、田村さんも来られなくなってしまったのは残念だった。
【カトマンドゥ】
2011年8月26日の夜、見送りに来てくれた妻と一緒に勤務先から羽田空港に直行する。 タイ航空のチェックインカウンターの前で今回山にご一緒する仙台の工藤さんと落ち合う。 工藤さんは前年にダウラギリ、前々年にアマ・ダブラムとネパールの山に通っている同年代のサラリーマンだ。 タイ航空のHPの注意書きに従い、預ける荷物20キロと機内持ち込みの手荷物7キロを時間を掛けてパッキングしたにも係らず、先にチェックインした工藤さんの話しでは預ける荷物は30キロまでOKだったとのこと(あとで関西からのメンバーにも聞いたところ、関空では25キロまでOKだったが、齋藤さん(るみちゃん)は2キロオーバーで1万円の超過料金を徴収されたとのことだった)。
飛行機が羽田を発ったのは日付の変わった27日の午前零時過ぎで、羽田からタイのバンコクまでは所要5時間、時差は2時間だった。 ちょうど寝る時間帯だったが、気持ちの昂ぶりで殆ど眠れなかった。 バンコクのスワンナプーム空港は乗り継ぎだけだったが、手荷物の中からメガネのネジを締める小さなドライバーと小型の万能ナイフを没収されてしまった。 空港のロビーで関空から来た藤川さんとるみちゃんに再会する。 トランジットは5時間ほどあり、ベンチで横になったりして過ごす。 バンコクからカトマンドゥまでは3時間、時差は1時間15分だった。 日本よりも緯度の低いネパールだが、予想どおり古くて小さなトリブヴァン空港には空調設備などはなく、この時期はまだ蒸し暑かった。 入国審査と同時に行うビザの申請の列に並ぶと、登山家の竹内洋岳さんのチュ・オユー登山のサポート役で来たというガイドの中島健郎さんと出会った。 ネパールの観光ビザは90日間で100ドルとネパールの物価水準を考えると非常に高い。 意外にも申請はスムースで5分足らずだった。
空港ではインドのルンサール・カンリ(6662m)の登山ツアーのガイドを終えたばかりの日焼けした平岡さんが出迎えてくれ、手配したワゴン車に乗ってホテルに向かう。 街中は埃っぽく、色々な匂いが混在した独特の匂いがする。 車はそれほど多くなく、中型のバイクが多い。 タクシーはインドから入ってくる中古車が多いためか、殆どがスズキの小型車だ。 今回の入下山時に泊まるホテル『ハイアット・リージェンシー』はネパールで一番高級なホテルで、周囲を高い塀に囲まれただだっ広い敷地の中にあり、入口のゲートには警備員が3人もいた。 入口からホテルの建物までの距離も数百メートルあり、歩いて出入りする人はいない。 ここは正に別世界で、ネパール(カトマンドゥ)にいるという気が全くしない。 ウエルカムドリンクを頂いてから工藤さんとツインの部屋に入ると、ベッドはWサイズでバスルームにはバスタブとシャワーが別々にあって驚いた。 シャワーは湯量が豊富で、バスタブに浸かる必要もないほどだった。 EMSで送った荷物が部屋に届くと、明後日向かうサマ村へのヘリには一人当たり20キロまでしか荷物が積めないので、それを超える荷物はプラスチックの樽に入れて陸路で運ぶため、その振り分けをするようにとの指示があった。 但し、陸路で運ぶ荷物は私達がB.Cに着く頃に届くとのことで、必然的に登山用品などの不急なものを樽に入れることになった。
夕方の6時から全体のミーティングがあるとのことで階下のバーに集合すると、想像以上に多くの人達が集まってきた。 外国人の隊員は20代から40代の人が中心で、一人だけ60代と思われる方がいた。 誰かが音頭をとってくれるわけでもなく、好き勝手にお互いの名前を名乗り合って握手を交わしたため、誰が誰なのか全く分からないし覚えられない。 この原因はもともとエントリーしていた私達を含む12人の登山隊員とガイド3人に、B.Cまでのトレッキング隊員が4人と10人の“軍人”とTVクルー(カメラマン)1人、そしてガイドが2人急遽増えたためだった。 ガイドの中には昨年ニュージーランドのアスパイアリングで会ったデーブや、ペルーのアルパマヨで会ったエイドリアンの顔があり嬉しかった。 中庭で隊長のラッセル・ブライスが長々と歓迎の挨拶をした後は、ミーティングではなく三々五々飲み会に移行した。 ラッセルとも少しだけ話をしたが、意外と気さくで腰の低い人だった。 59歳ということで少しお腹も出ているが、この公募登山隊を組織してからエベレストは2回、チョ・オユーは9回、マナスルは1回、そしてシシャパンマは2回自らも山頂に立ったとのことだった。 今春エベレストで亡くなられた登山家の尾崎隆さんの死因については、登山期間が短く高所順応が不十分だったと残念がっていた。
今回急遽隊員に加わった若い軍人さん達は、アフガニスタンで戦争に従事したイギリス兵で、中には戦傷で肘から先の手がない人や指がない人がいた。 イギリスの慈善事業の団体がこの兵士達がエベレストに登る(マナスルはそのプレ登山)というドキュメンタリー番組を企画・テレビ放映し、その収益金を身障者へのチャリティーに充てるのだという。 その企画を今回ラッセルが引き受けることになったらしいが、日本(人)では全く考えられない発想にのっけから驚かされた。 このことがこれからの登山活動にどのような影響を及ぼすのか全く想像すら出来ない。 しばらく中庭で前祝いにビールを飲みながら歓談した後、ホテルの1階のメインのレストランで夕食を食べる。 2000ルピー(邦貨で約2100円)のディナーバイキングにしたが、スープ、前菜、そしてメインからデザートに至るまで料理の種類が多く、またどれも美味しいので、ついつい食べ過ぎてしまった。 階上にはさらに高級な専門店もあるようだったが、これで充分満足だった。
8月28日、前夜の睡眠不足と寝心地の良い広いベッドで10時間ほどぐっすり寝たので疲労感はあまり感じない。 スイスや南米に比べるとネパールは移動時間が少ないばかりか時差も3時間15分と無いに等しいので本当に楽だ。 朝食のバイキングは宿泊費に含まれているが、夕食のバイキングとレベルは全く同じで贅沢だ。 ネパールの山を登りに来たとは思えない優雅な時間を過ごす。 食後にロビーでミーティングがあり、明日のサマ村へのヘリのフライトスケジュールや荷物の重量制限の再確認などについてラッセルから細かい説明があった。
ミーティングが終わると明日の早朝の出発まで自由時間となったので、ネパールが3回目のるみちゃんに観光案内をお願いし、藤川さん・工藤さんと一緒にタクシーで有名な観光地のボダナートに行く。 タクシーにはメーターが無く、乗る前に運転手と交渉で金額を決める。 運転手の言ってくる金額の6〜8割くらいの金額に落ち着くのが普通のようだった。 ボダナートはネパール最大の仏塔が聳えるチベット仏教の聖地とのことで、ホテルからは意外と近く5分ほどで着いた。 入場料は150ルピー(邦貨で160円)だったが、自国のネパール人は無料だという。 四方に象徴的なブッダの目が描かれた30mほどの高さのユニークな仏塔には”タルチョ”と呼ばれる経文が刷り込まれた五色の旗が張り巡らされ、4層の台座の一番下の壁には経文が書かれた小さなマニ車がびっしりと並べられていた。 回すことによりお経を唱えたことになるというマニ車の右側を通らなければならないため、必然的に台座の一辺が100m近くある仏塔を時計回りに一周する。 仏塔の周りに所狭しと並ぶ土産物屋からは「オムマニペメフム、オムマニペメフム」という祈りの言葉がCDから流れ、五体倒地をする巡礼者の姿も散見された。 また、“ゴンパ”と呼ばれる僧院も敷地内にあり、大勢の僧侶達が祈祷や修行をしている光景が見られた。
1時間ほどボダナートを観光してからホテルの方角に街中を歩く。 日曜日のせいか車の往来は少ない。 道路には大量のゴミが捨てられていたり、牛が寝そべっていたりする。 カルチャーショックを受ける人も多いらしいが、ボリビアの寒村を経験しているせいか、あまりそれは感じなかった。 ホテルの入口まで歩きながら散策すると、偶然先ほど乗ったタクシーが停まっていたので、同じタクシーでタメルという観光客で賑わう商店街に行く。 5キロほどの距離を走って400ルピー(邦貨で420円)だった。 タメルの入口にはタクシーが並び、道路を挟んでノースフェイス・マウンテンハードウェア・ミレーなどのブランド品のみを扱う登山用品店が4軒あった。 その隣の『FUJI』という名の両替屋に入ると、店主は日本語が堪能で驚いた。 この界隈で日本語が分かる人がいるのは心強い。 1万円を両替すると9400ルピー(1ルピーで1.05円)だった。 4軒の登山用品店を順次見て回ると、いずれもウェアーのみならず登攀具からザック、寝袋、登山靴に至るまで品揃えはそこそこ充実しており、また値段は全般的に日本の半額程度と安かった。 私は日除帽を藤川さんと工藤さんはダウンパンツを買った。 るみちゃんは以前ここで高所靴を買ったとのことだった。 タメルの商店街に入ると、観光用の“リクシャ”と呼ばれる人力車が見られたが、日本のように人ではなく自転車で観光客の乗った車を引いていた。 観光客向けの中古の登山用品や洋服、日用雑貨、宝石、絨毯、骨董品、手芸品、紅茶などを売っている商店街を散策しながらイタリア料理の店で昼食にピザを食べる。 店内には地元の人は誰もおらず、お客は全て観光客だった。
昼過ぎにホテル帰り、大きな樽に詰め込んだ重たい荷物をホテルの入口に運ぶ。 登山隊でこの高級ホテルを利用しているのは私達の隊くらいなので、他の観光客からは奇異な目で見られていることだろう。 スペイン人の医師のモニカ(女性)が今日から隊に合流し挨拶にきたが、良く日焼けした顔は医師と言うよりも登山隊員という感じだった。 明朝の出発は5時半と早いので、夕食は昨夜と同じようにホテルのレストランで食べる。 バイキングのメニューは昨日とはガラリと変わり中華風だった。 明日からは高所なのでお腹一杯に食べれないし、食事も簡素になるので、美味しい料理をお腹一杯に食べて寝た。
8月29日、今日も優雅に朝食のバイキングを楽しみたかったが、未明の4時半に起きて予定どおり5時半過ぎにホテルを後にした。 雨模様だったので、果たしてヘリが飛んでくれるか心配だったが、空港に着いた時は止んでくれた。 街中は月曜日の朝ということもあってか、車や人通りはすでに多く、食料品店などはすでに開いていた。 空港では旅客機に乗る時と同じ身体検査と荷物検査があり、それが終わると滑走路の外れから構内専用車で少し離れたヘリポートに行く。 ヘリは日本の川崎製だった。 定員は7名でパイロットと助手と私達5人が乗り込み、HIMEX隊の中では一番早く7時過ぎに空港を飛び立った。 カトマンドゥの市街地が眼下に一望出来て面白い。 すぐに段々畑の多い田園地帯となり、2500m前後の高度を維持しながら飛び続ける。 遥か右前方の雲の間に銀嶺が見えたが、山群などは分からない。 ヘリは次第に狭い谷間を縫って飛ぶようになり、左手に雪を頂いた高い山が見えてくると霧がだんだんと深くなってきた。 高度が3900mを超えたところで視界がかなり悪くなり、突然ヘリが旋回したので、もしかしたらここで引き返すのかと思ったが、眼下に集落が見えたのでホッとした。 すぐに私達の隊のテントのあるキャンプ場も見え、人家から僅か数10mしか離れていない草むらにコンクリートを円形に打っただけの直径10mにも満たない簡易なヘリポートに無事着陸した。 搭乗時間は45分だった。
石垣で四方を囲まれた立派なキャンプ場には炊事棟やトイレもあり、大きなダイニングテント2張と個人テントが17張設営されていた。 当初このキャンプ場では1人で1つのテントを使うことになっていたが、今回は隊員が急遽10人も増えたので、2人で1つのテントを使うことになった。 まだ8月末とシーズンも早いので他の隊は入っておらず、私達の隊がキャンプ場を独占していた。 個人テントに荷物を搬入し、ダイニングテントでお茶を飲みながらネパール人スタッフ(コック)が用意してくれた遅い朝食を食べる。 私達の後から次々とヘリで運ばれてくる外国人隊員がダイニングテントにやってくると、皆で名前や国、職業などをそれとなく尋ねる。 今日の時点で分かったことは、B.Cまでのトレッキング隊員を除いた22人の登山隊員はイギリス人が9人(全て軍人さん)、日本人が4人、ラトヴィア人が2人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、オーストラリア人、南アフリカ人、ネパール人(軍人さん)がそれぞれ1人ということだった。 また女性は2人でうち1人はるみちゃん、もう1人は最年少(25歳)のラトヴィア人だった。 日本人隊員の平均年齢は50歳(65歳・55歳・51歳・30歳台)を超えているが、外国人は30歳台だろう。
B.C(4750m)に上がる順応のため今日から4泊するこのサマ村の標高は当初3800mほどあるといわれていたが、高度計やカトマンドゥで買った地図によると3530mだったので、初期順応の遅い私には大いに助かった。 正午にSPO2(血中酸素飽和度)と脈拍を今回から持参したパルスオキシメーターで早速測ってみると、それぞれ85と66だった。
昼食は軍人さん10人と私達を含むその他の隊員12人は必然的に2つのグループに分かれ、2つあるダイニングテントでそれぞれ食べることになった。 ここでの食事は、種類ごとにステンレスの鍋に入った料理がダイニングテントに運ばれてくるので、それを皆で取り分けて配膳するというシステムだ。 自分の好きな物を好きな量だけ食べられることが嬉しい。 とりあえず腹八分目にして様子を見る。 生肉などの食材は日数の掛かる陸路で運ばれるため、本格的な料理はB.Cからになるようだ。 明日からのスケジュールは、7時に起床・朝食8時・昼食12時半、夕食6時とのことだった。
昼過ぎからは日が陰って寒くなる。 テント内の気温は16度あるが、体が順応していないためか寒さを感じる。 午後は個人テントで同室の工藤さんと読書などをして静かに過ごす。 るみちゃんは所属している山岳会への報告書作りと昼寝、藤川さんはナンプレなどをしている様子。 夕方にはSPO2が90・脈拍が58と少し改善し、夕食も美味しく満腹に食べられた。 夕食は最初に炒りたてのポップコーンか揚げたてのえびせんをつまみにスープをお椀で飲み、メインの料理の後には必ず果物かケーキのデザートが付いた。
【サマ村での高所順応】
8月30日、ネパールでは6月から8月までがモンスーンとよばれる雨期で、夜中はこの時期としては普通の雨が降っていた。 予想していた頭痛ではなく、息苦しさあるいは軽い動悸で1時間半に一度くらいの間隔で目が覚めた。 同じテントの工藤さんは一晩中熟睡している感じで羨ましかったが、起床時のSPO2と脈拍はそれぞれ88と66で、思ったより悪くなかった。 朝には雨は止んだが、標高が高いので陽が当たるまでは肌寒い。 7時の起床時間になるとキッチンスタッフが、予想していた“洗面器にお湯”というスタイルではなく、ステンレスの鍋に入った熱いおしぼりを個人テントに持ってきてくれた。 おしぼりには香水が使われていて驚いた。 おしぼりに続いて大きなマグカップに注がれたミルクティーも配られ、さらっとした味でとても美味しかった。
8時に朝食を食べにダイニングテントに行く。 国際隊なのでとりあえず「グッモーニング」と英語で挨拶をし、その後は隊員やガイドの母国に応じてドイツ語やスペイン語などで挨拶をして親睦を図る。 ラトヴィア語では「ラブリートゥ」というらしい。 親日家のアメリカ人のウォーリーからは「おはようございます、ヨシキー」と返ってくる。 食事の前にも朝と同じおしぼりのサービスがあった。 朝食にはまずオートミールが出され、その後に食パンと目玉焼きというシンプルなものだった。 もちろんおかわりは自由だ。 意外にも朝食の間にポーチに入れておいた予備の充電池が突然高温を発し、表皮が溶けてしまうというアクシデントがあり、危うく一緒に入れておいたパルスオキシメーターも壊れるところだった。
午前中は散歩程度に高所順応のハイキングに出掛ける。 トレッキング隊やガイドも含めると30人以上の団体となるので、私達は外国人隊員達を見送ってから一番最後に出発する。 陽射しはそこそこあるが、雨期なので日本の梅雨のような曇天だ。 中国(チベット)との国境の山々は見えているが、マナスルは厚い雲の中で全く見えない。 村の周囲は緑が濃く、乾燥しているという感じは全くしない。 ブリ・ガンダキ川に沿って、B.Cへのトレイルの途中にあるマナスル氷河の舌端(約3850m)の高さを目指してゆっくり歩く。 河原から平らな石を背負って歩いてくる村の子供達にカメラを向けると、皆一様に顔をそむけてしまう。 一方で一番大きな子供はMP3を聞きながら歩いていた。 日本にはない青い花の高山植物が多い。 予備の充電池が使えなくなってしまったので、写真を撮る枚数が制限されてしまうのが悔しい。
キャンプ地から1時間ほど緩やかに登って行くと、55年前の日本隊がB.Cにしたカルカ(石室)のある平坦地に着いた。 ここは『ジャパニーズ・ベースキャンプ』という名称があるようだ。 そこからさらに30分ほど急坂を登り、眼下に乳白色の氷河湖が見えた所でハイキングを終了した。 先行した外国人隊員達は氷河湖の畔に行ったようだった。 相変わらず天気は冴えないが、雨が降らなかっただけありがたい。
キャンプ地を見下ろす高台のゴンパに立ち寄り、昼過ぎにキャンプ地に戻る。 外国人隊員達は村で仕入れたビールを飲んで寛いでいた。 キッチンスタッフが作ってくれた昼食を食べ、午後は個人テントで文庫本を読んだりして静養する。 SPO2と脈拍はそれぞれ87と87で、脈が少し高い。 意識的に水分を補給するように努めたが、夕方から少し頭痛がしてお腹もゆるくなった。 気温は15度前後だが、肌寒く感じるのでダウンを着込む。 るみちゃんはお腹がチクチク痛いということで夕食をパスした。 私も食べながらお腹が少しもたれてきたので、腹八分目にしておいた。 夕食後のSPO2と脈拍はそれぞれ90と65で、2週間前に登った富士山の山頂での数値とほぼ同じだった。
8月31日、この時期(雨期)の特徴なのだろうか、昨夜と同じように夜中は小雨が降っていたが、朝には止んだ。 相変わらず頭痛はないが、息苦しさあるいは軽い動悸で1時間半に一度くらいの間隔で目が覚めた。 深呼吸をするほどでもなく、またいつの間にか寝てしまうということの繰り返しだ。 起床前のSPO2と脈拍はそれぞれ85と60で、起床後は89と64だった。
今日は昨日のB.C方面への道とは正反対の方向に山道を辿り、4100m付近まで高所順応のハイキングに出掛けた。 今日も歩くペースの速い外国人隊員達の後から出発する。 人口数百人のこぢんまりとしたサマ村の中心を抜け、起伏のない道をしばらく歩くと、左手に真新しい青い屋根の学校のような建物が見えた。 その僅かに先の分岐を右に折れて山道に入る。 るみちゃんはお腹の調子が優れないとのことで、無理をせずここで引き返すことになった。 すぐに急坂の登りとなり息が切れる。 健脚の工藤さんは前を行く外国人隊員と同じペースで登っていき、間もなく視界から消えた。 しばらく登ると氷河から流れ出す乳白色の荒々しい川と合流する。 川の水しぶきが飛んでくる急坂をひと登りすると、今度は一転して平らな草原となった。 生憎の曇天で周囲の展望はないが、順応が目的と割り切れば涼しくて快適な山歩きだ。 草原にはヤクや馬が放牧されていた。
ゆっくりだが休まずに歩き続けると、キャンプ地からちょうど標高差で500m登った所にあるゴンパの傍らで、先行していた外国人隊員と工藤さんが寛いでいた。 行動食のゆで卵やチーズを食べて30分ほど休んでから、キャンプ地に下る外国人隊員と別れ、少し先に見える数軒の人家のある所まで登る。 平岡さんが顔にけがをしている子供に傷薬を塗ってあげると、その父母や祖父母たちが寄ってきて皆で写真に納まった。 マナスルを登りにきたことを伝えると、長老が分厚い雲を指さし、「あそこがマナスルだ!」と教えてくれた。 晴れていればさぞ素晴らしいマナスルの雄姿が望まれるに違いない。 家の軒先で干していた白い小さな物は、ヤクのチーズだと教えてくれた。 山は見えなかったが、僅かばかりでも奥地の住人と触れ合えて良かった。
サマ村に下り、青い屋根の建物に立ち寄ってみると、それは野口健さんが寄付を募って建てた小学校だった。 私達は野口健さんの友人だと話すと、4〜5名のスタッフが総出で校舎内を隅々まで案内してくれた。 3時過ぎにキャンプ地に戻ると、スタッフがおやつにインスタントラーメンを作ってくれた。 昨日と比べそれなりに長い距離を歩いたので、個人テントに戻り夕食まで昼寝をして過ごす。 夕食後は山の話に花が咲き、夜遅くまでダイニングテントで盛り上がった。 体もだいぶ順応してきたようで嬉しい。 予定どおり明日はレスト日となった。
9月1日、昨日、一昨日と同じように夜中は小雨が降っていたが、今日も朝には止んだ。 夜中に起きた回数は3回とだいぶ少なくなった。 起床前に「マナスル!」という声が聞こえたのでテントから飛び出すと、雲間からマナスルの神々しい頂が初めて見えた。 皆も一様に起き出してマナスルの雄姿に釘付けとなる。 写真では何度も見ていたが、そのシンボルの尖ったピナクル(岩塔)は畏怖の念を覚えるほど崇高で、サマ村の人々が昔から神とあがめている気持ちが理解出来た。 ここから仰ぎ見たマナスルの頂はあまりにも遠く、まだまだ現実的ではない。 SPO2は92まで上がり、体調はほぼ完璧になったので、久々に朝食をお腹一杯に食べた。
今日は明日からのB.C入りに備えてのレスト日だが、体力に勝る外国人隊員達は三々五々今日もどこかへ散歩に出掛けていった。 私達は高台のゴンパ(僧院)でラマ僧のプジャ(祈祷)を受けることを仲介役の村のロッジの女将に昨日頼んでおいたので、9時過ぎに女将と一緒にゴンパに行ったが、ラマ僧からプジャは朝の8時と夕方の4時にしかやらないと言われたので、夕方の4時に出直すことになった。 ラマ僧にお布施をすると、何やら唱えながら一人一人にタルチョ(経文が刷り込まれた五色の布)を授けてもらった。 久々に外国人(日本人)が訪れたことが嬉しかったのか、高齢のラマ僧はとてもご機嫌だった。
キャンプ地に戻り、午前中は陽射しがあったので洗濯をする。 正午に外国人隊員達が散歩から帰ってきた。 いつものように賑やかなランチタイムとなり、色々な言葉や笑い声が飛び交う。 昼食後に明日のB.Cへの移動についてのミーティングがあった。 夕方の4時に高台のゴンパを再訪すると、すでにプジャは始まっていたが、どうやらこれは特定の人のためのものではなく、毎日のお勤めのような感じだった。
いよいよ明日から待望のB.C入りだ。 当初はカトマンドゥから直接ヘリで入るサマ村での順応が上手くいくかどうか心配だったが、全く問題なく過ごせて良かった。
【サマ村からB.Cへ】
9月2日、昨夜は初めて雨が降らなかったが、今朝はマナスルの山頂は厚い雲で見えない。 体調は引き続き良く、起床前のSPO2と脈拍はそれぞれ88と58だった。 予定どおり6時に朝食を食べ、9時に出発するという外国人隊員達よりも一足早く7時前にキャンプ地を出発する。 B.Cまでの標高差は1200mほどあるので、ゆっくり歩いて7〜8時間は掛かるだろう。
ブリ・ガンダキ川に沿って進み、ナイケ・ピーク(6211m)を望みながらB.Cへの道を辿る。 最初のうちは3日前にハイキングで歩いた道なので記憶に新しい。 1時間ほどで『ジャパニーズ・ベースキャンプ』を過ぎ、マナスル氷河の舌端を左手に見ながらジグザグに登り高度を稼ぐ。 途中に集落はないが、登山隊の荷上げで多くの村人やヤクが通るためか、道はしっかりとしている。 途中何本かの沢を渡り、4000mを超えた辺りで早くも外国人隊員の先頭グループに追いつかれる。 聞けば予定より早く8時に出発したとのことだったが、それにしても皆一様にペースが速い。 外国人最高齢のデービット(65歳)は上半身裸で登っていた。 トレイルの傾斜が強まってくると間もなくモレーンの背に上がり、霧で視界が悪くなった岩屑の痩せ尾根を黙々と登る。 風に吹かれると嫌な所だが、ありがたいことに今日は無風だった。 もっとゆっくり登りたかったが、今にも雨が降ってきそうだったので私達も足早に登る。
予定よりもだいぶ早く正午過ぎにB.Cに到着。 霧が深く立ち込めていて周囲の状況は全く分からないが、殆どの外国人隊員達は私達よりも前にB.Cに着いたようだ。 個人用テントの指定はないので、早い者勝ちで好きなテントを選び、とりあえず中に入って一服する。 B.Cでは一人に一つのテントだ。 テント内には硬質のウレタンマットが敷かれていたが、さらにその上にスポンジの薄いマットレスが配られた。 これだけでも充分だが、今回の長期滞在に備えて持参した厚さ5センチのエアーマットを敷くと、寝心地は普段の生活と変わらないレベルになった。
すぐにダイニングテントに昼食が用意されたが、厨房の設備がサマ村のキャンプ地よりも整っているため、料理がとても美味しい。 間もなくサマ村のポーター達によって荷上げされた荷物が届き、個人用テントに搬入する。 ポーターの中には子供達もいて賑やかだ。 霧が少し晴れると、山中のB.Cとは思えないほど壮観なHIMEX隊のテント村が出現した。 荷物を解いてテント内を自分の部屋のように色々とレイアウトする。 一か月ほどここで過ごすわけだから入念にやるが、この作業が意外と楽しい。 トレッキング隊やガイドさんの分も合わせると30張り以上の個人用テントがあるので、昨日ラマ僧から授かったタルチョを目印代わりにテントの入口に括り付ける。 間もなく雨が降ってきたが、テントサイトの水はけは非常に良く全く問題なかった。 さあ、これからは頭痛との闘いだ。 テント内も11℃と高所らしく冷えてきた。 15分おきにパルスオキシメーターでSPO2を測り、下界では出来ない色々な深呼吸を試す。 夕食の時間まで文庫本を読みながらこの地味な作業を繰り返し行った。
夕食は毎日6時半からで、キッチンスタッフがフライパンを叩いて合図してくれる。 ダイニングテントや配膳の仕方はサマ村のキャンプ地と全く同じだ。 まだ生肉などの食材が届いてないので料理はシンプルだが、味付けやセンスはとても良い。 工藤さんは相変わらず食欲旺盛で、外国人隊員達よりも沢山食べていた。 夕食後のSPO2と脈拍はそれぞれ78と72で、良くも悪くもない数値だった。
9月3日、雨はみぞれ混じりの雪となって未明にかけて降っていた。 心配していた頭痛はSPO2が低いにもかかわらずあまりひどくなく、夜中に3〜4回比較的軽い頭痛で目が覚めたほどだった。 深呼吸を15回ほどすると3分ほどで頭痛はなくなり、疲れているのですぐにまた眠りに入った。 夜中のSPO2の最低値は55で起床前は71だった。 外でるみちゃんの声がしたので慌ててテントから顔を出すと、昨夜からの悪天が嘘のように雲一つない快晴で、眼前にマナスルのシンボルのピナクルの岩峰が圧倒的な高さで望まれた。 もちろん昨日までサマ村から仰ぎ見ていた中国との国境のサムド(6335m)も間近に見えた。 澄みきった青空を背景に山々の写真を撮っていると、“マナスル=悪天候”という当初思い描いていたイメージが払拭された。
朝食前のSPO2と脈拍は82と77になり、最低限度の順応はしていたようだ。 サマ村での4泊は結果的にはベストだった。 朝食はパンケーキにベーコン、そぼろ玉子、豆のトマトソース煮などだったが、下界の味と変わらない感じで、日本食でなくても全然大丈夫だ。 朝食後はラッセルからスタッフの紹介があり、一人一人の名前をそらで読み上げていた。 スタッフの紹介が終わると、引き続きラッセルから施設の案内があった。 共用テントは12張あり、隊員用のダイニングテントが2張、スタッフ用が1張、スタッフの寝室用が3張、本部兼通信室・キッチン・食糧倉庫・備品倉庫・トイレ・シャワールームが各1張だが、まだ一部が出来上がっていないというから驚きだ。 トイレはタンク式になっており、環境に配慮して汚物は垂れ流しにすることなくヘリでサマ村に降ろすとのことだった。 シャワールームには手押しのポータブルシャワーが置かれていたが、お湯を沸かすコストが高いので、週に1回くらいにして欲しいとラッセルの冗談めいた話があった。 通信室にはソーラーパネルによる充電器があったが、大勢の人が使うため結果的にはとても使いにくい状況だった。 B.Cは思っていた以上に広く、他の隊よりも早くスタッフがB.C入りした我がHIMEX隊が一番低くて広い場所を独占していた。 上部のキャンプサイトにはまだこれから他の隊が続々と来るようだ。 日本からは他に近藤さんを隊長とするAG隊と大山光一さんを隊長とする埼玉岳連隊が入山することがこの時点で分かっていたが、結局それ以外の日本人隊の入山はなかった。 施設の案内が終わると今度は医師のモニカから、過去の入院歴・今の健康状態・薬の服用の有無・過去に登った最高高度の山とその時に高山病の症状が出たかなどについての問診と、血圧・SPO2・脈拍の測定があった。 普段は底抜けに陽気なモニカも仕事になると真剣だ。
個人用テント(我が家)に戻り、入口や瓦礫の土台を整地して住み易くする。 折り畳み式のイスを真ん中に置いたが、これが非常に快適だった。 陽射しが強いと個人用テントでは暑いのでダイニングテントに行き、日が陰ると個人用テントに戻る。 時々くる軽い頭痛を除けば全く快適なB.Cで4750mの高度を感じない。 午後からは曇りとなり、一気に寒くなる。 個人用テントと共用テントの間は綺麗に整地された未使用の広いスペースがあったので、ヘリポートにでもなっているのかと思っていたが、何とスタッフ達は支柱にネットを張ってバレーボールの試合を始めたので驚いた。 この高さで普通に運動が出来るのだから高所には強いわけだ。 夕方前から弱い雨が降り出し、夜には本降りとなった。
9月4日、夜中の雨は明け方には止んだ。 すでに他の隊のプジャが始まったようで、早朝から太鼓の音がB.Cに響いていた。 昨夜は一度軽い頭痛で起きただけで、久々にまずまず熟睡出来た。 起床前のSPO2と脈拍は74と64で昨日よりも僅かばかりだが良くなっていた。 嬉しいことに今日も晴れていてマナスルが見える。 朝食も美味しく食べられ、朝食後のSPO2は85まで上がった。 るみちゃんはお腹の調子が依然としてあまり良くならず苦しんでいる。
午前中に私達の隊もプジャをやるとのことで、皆でその準備を見学する。 各自一つずつピッケルなどの登山用具を持ち寄り祭壇に供える。 カトマンドゥで樽に入れた登山用具がまだ届いてなかったので帽子を供えると、お供えにはヤクのバターが塗られた。 プジャの準備には1時間以上もかかり、途中から小雨が降り始めて寒くなった。 ラマ僧によるプジャが始まるとスタッフから一握りのお米が配られ、節目節目にラマ僧の掛け声で頭上に放り投げる。 30分ほど過ぎるとタルチョ(五色の旗)が四方に張り巡らされ、祭壇に供えられていたチャン(お酒)が振る舞われた。 これで終わりかと思ったら再び祈祷が始まった。 初めは面白かったがだんだんと飽きてくる。 ラマ僧の鳴らすドラの単調なリズムが眠気を誘う。 いったいいつになったら終わるのだろうと思い始めた頃ようやく祈祷が終わったようで、お供えのビール、お酒、お菓子が振る舞われ、サーダーのプルバから顔や服に小麦粉を塗られ、首にはお守りの赤い紐をつけてもらう。 正午前にようやくプジャは終わった。 プジャが終わるとスタッフ全員が肩を組み、民謡を歌いながらステップを刻む“シェルパダンス”というシェルパ民族の踊りを披露してくれた。
昼食後はラッセルの提案で希望者のみC.1への途中にある氷河の取り付きまで1時間ほど登ることになった。 日本人隊からは健脚で一番元気な工藤さんのみが参加することになり皆で見送る。 午後はカトマンドゥから陸路で運ばれてきた樽の荷物が届いたので、荷物の整理とテント内のレイアウトをやり直す。 日本から持ってきたお菓子などもこれで自由に食べられる。 ハイキングに行った人達は天気が悪くなったためか意外と速く1時間ほどで戻ってきた。 再び冷たい雨となり、気温は一気に下がってテント内で9℃となった。 夕食はダル(豆)のカレーとデザートに焼きりんご。 お腹の調子も良く、入山以来初めておかわりをして食べた。
9月5日、昨夜はみぞれが降ったが夜明け前から晴れとなった。 今朝も青空の下にマナスルが見える。 真夜中に軽い頭痛で起きた時のSPO2は71、起床前のSPO2と脈拍は78と59で昨日よりもほんの僅かだが良くなった。 起床後のSPO2は88となり、順応の指標となる90台までもう少しだ。 相変わらずお腹の調子は良いが、昨日の冷たい雨の中のプジャのせいか持病の鼻づまりが少しする。 明日からの順応ステージに備えて早朝からスタッフがC.1までのルート工作とテントの設置に出掛けたとのことだった。
朝食後はチーフガイドのエイドリアンからユマールやカラビナを使った一般的なフィックスロープの登り方、ATCを使ったフィックスロープの懸垂下降のやり方、悪天候時に素早い行動をするために実際の現場で行われている腕をフィックスロープに絡めて下る方法、そして登り下りのすれ違いの方法などについて一通りのレクチャーがあり、B.Cの背後の岩場にナイロンのロープを張って練習を行った。 この登攀用ではないナイロンのロープは練習用の物だと思っていたが、実際にこれがフィックスロープとして使われていることが後で分かって驚いた。 ある程度の長さのユマーリングは4年前にマッキンリーでB.CからH.Cへ上がる区間でやったことがあったが、今回はこれがメインになる。 久々に体を動かしたので、いつもは何でもないユマーリングやカラビナの掛け替えの動作で酸欠となり、気分も少し悪くなった。 本番を想定してオーバーミトンで練習したかったが、軍手でやるのが精一杯だった。 1時間ほどで雨が降り始めたので練習は午前中で終わりとなったが、これから更なる高みを目指すのであれば、日本でも定期的にユマーリングの練習をすることが絶対に必要だと痛感した。
昼食は普通に食べられたが、酸欠で頭が少し重くなった。 昼食後はB.Cに来てから初めて2時間ほど昼寝をした。 午後はシャワールームが空いていたので簡易シャワーで腰から下だけを洗ったが、これだけでもかなりリフレッシュ出来た。 逆に頭はすでに1週間以上洗ってないが、不思議とストレスは全くなかった。
夕食後にラッセルから明日からの順応ステージで使うトランシーバーが各人に貸与され、操作方法と本部への連絡事項などについての説明があった。 上部キャンプに出発する時間と到着した時間を各人が本部にその都度無線で連絡するのがこの隊の基本のようで、当然のことながらその内容は全隊員がリアルタイムに傍受することになる。 緊急事態に対応するため本部とガイドは24時間開局するとのことだった。 ラッセルは各人にトランシーバーを貸与して緊急時の安全性を高めたり自己責任を果たさせると同時に、全隊員のキャンプ間の所要時間を記録・管理することによって、客観的に順応度合いや能力を把握するという合理的なシステムを実践していることが分かった。
【B.CからC.1へ】
9月6日、B.Cに来てから4日が過ぎ、そろそろこの高さにも順応したかと思ったが、夜中に軽い頭痛で3回も目が覚めた。 SPO2を測るといずれも70台前半だったが、起き上って水を飲んだりしていると2〜3分で80台まで上がるので、深呼吸はしないでまた横になる。 長期にわたる今回の遠征ではごまかしはきかないので、B.Cでは小手先だけの順応のための深呼吸はあえてせず、水分摂取に重点を置くことを心掛けた。
今日は高所順応の第1ステージとして、日帰りでC.1(5500m)まで往復する。 6時起床で7時朝食と、いつもより1時間早いスケジュールで7時半にB.Cを出発する。 今日もまずまずの晴天だが、今までの天気の傾向からすると午後はまた天気が崩れるだろう。 テントサイトの背後のガレ場をケルンに導かれて登っていくが、意外と踏み跡はあまり明瞭ではない。 今日も外国人隊員達はどんどん先行し、すぐに姿が見えなくなった。 圧倒的な高さで聳えているマナスルを望みながら、彼らの速いペースに惑わされることなくゆっくりしたペースでモレーンの背を登る。 1時間ほど登ると大きな岩壁に突き当たり、左から回り込むようにして岩場に取り付く。 岩場にはフィックスロープが張られていたが、ロープは昨日の訓練で使ったものと同じ材質のナイロンだった。 ロープを掴むだけでも登れそうだったが、練習のためユマールをセットして登る。 氷河の融水が流れている滑りやすい岩場を通過すると、カトマンドゥからB.Cまで荷物の運搬に使われた青い樽が2つ置かれ、その先が氷河の取り付きになっていた。 ここは“クランポン・ポイント”と呼ばれ、この樽にアイゼンやピッケルなどの登攀具をデポすることになっていた。 また、ここはB.CとC.1の中間のチェックポスト(無線で本部に連絡する場所)にもなっていた。
いよいよ山頂に通じるマナスル氷河に足を踏み出す。 氷河の取り付きからは、地形的にクレバスがない場所を除いて基本的にフィックスロープが張られていた。 取り付き付近の傾斜は緩やかだったので、フィックスロープにカラビナを掛けるだけで登る。 私と藤川さんと平岡さんは体力温存のため保温材入りのシングルブーツ、工藤さんとるみちゃんは本番を想定して高所靴にアイゼンを着けて登る。 フィックスロープのお蔭でトレースは登山道のようになっているのでとても歩き易い。 風もなく穏やかで、絶好の登山日和だ。 しばらくすると雲が湧き始めたが、強烈な陽射しを遮ってくれてありがたかった。 何らストレスのない登りだが、酸素の希薄さだけは正直に伝わってくる。 ゆっくり歩いているつもりでも息が切れる。 るみちゃんが一番順応が遅れているようでペースが上がらないが、今日は最後まで皆で一緒に行動する。
B.Cを出発して4時間足らずで、チーフガイドのエイドリアンを先頭に外国人隊員達が次々に下ってきた。 たぶん彼らは3時間ほどでC.1まで登ってしまったのだろう。 C.1までは全般的に傾斜が緩く、ユマールを使う区間は殆どなかった。 B.Cから5時間弱を要してまだ建設途上のC.1に着く。 ナイケ・ピーク(6211m)との広い鞍部(ナイケ・コル)にあるC.1は風もなく穏やかだった。 意外にもB.Cにいると思っていた隊長のラッセルがC.1で私達の到着を首を長くして待っていた。 C.1からはマナスル北峰(7157m)が圧倒的な高さで望まれたが、サマ村から仰ぎ見ていたサムド(6335m)が、目線の高さまでになった。
C.1では長居することなく、とんぼ返りでB.Cに下る。 クランポン・ポイントで樽の中にアイゼンとピッケルをデポする。 途中の岩場は懸垂で下りたが、ナイロンロープの強度が心配だった。 下りは速く、2時間足らずで霧に煙るB.Cに着く。 ダイニングテントでキッチンスタッフが作ってくれたラーメンと、藤川さんが知人から頂いた貴重な松茸昆布を食べて英気を養う。 夕方のSPO2は87まで上がり、高所順応の効果が少しみられた。
9月7日、今日も朝方は青空が覗き、雲は多いがマナスルは見えた。 モンスーン(雨期)の時期でこの程度の天気なら、モンスーン明けはさぞ天気が良いだろうと期待が持てた。 昨夜は頭痛もなく、C.1にタッチしたことでようやくB.Cの高さに順応したようだ。 起床前のSPO2と脈拍は83と63で昨日よりも着実に良くなっている。 起床後のSPO2は85となり、昼前には90台まで上がって嬉しくなった。 昨日は下山後に薄着でいたので体が冷え、鼻づまりが少しする。 一方、相変わらずお腹の調子は良く、朝食を満腹に食べる。
ようやく通信と充電の状態が良くなったので、隊の衛星携帯を借りて妻と両親に電話をして近況と無事を伝える。 料金は1分間で4ユーロ(約500円)だった。 今日は予定どおりレスト日なので、晴れ間のある午前中に下着の洗濯やテント内の掃除や整理をする。 昼食はキッチンスタッフが私達のために関西うどんを作ってくれた。
明日からは高所順応の第2ステージとして、C.1(5500m)に3泊し、日帰りでC.2(6300m)まで往復することになっているため、昼食後にミーティングがあり、エイドリアンからその概要についての説明と、ブライアンから上部のキャンプ地で使う炊事道具や携帯トイレについての説明があった。 意外にもHIMEX隊では、スタッフによる個人装備の荷上げは一切行われず、B.C以外のキャンプ地では全て自炊で、水も自分で作るというスタイルだった。 また、個人装備と同様に食糧も全て自分で荷上げすることになるが、寝袋と硬いウレタンマットはスタッフが設営するテント毎に炊事道具や携帯トイレと共に備付られているとのことだった。 排泄物は環境問題への対応として携帯トイレに入れて全てB.Cに持ち帰ることになった。 フリーズドライの食糧や行動食は食糧倉庫に潤沢にあったが、平岡さんが日本から持ち込んだアルファー米やフリーズドライのカレーや牛丼、味噌汁などの日本食を持って行くことにする。 今回は3泊なので9食分で足りるが、最後のアタックステージでは5泊となるため、あらかじめ多目に食糧を荷上げしてC.1にデポしておくことにした。
今日も昼過ぎから冷たい雨となり、個人用テントの中で色々と荷上げする物資の計画を立てる。 夕方のSPO2と脈拍は89と61で、数値的には非常に良かったが少し気分が悪かった。 また、寝る寸前には頭痛ではないが左の後頭部を触ると軽い痛みがあり、明日からの順応ステージが少し心配になった。
【B.CからC.2へ】
9月8日、やはり少し風邪気味なのか、昨夜は鼻がつまって熟睡出来なかった。 また、夜中に寝袋のファスナーの調子が悪く、直そうと頑張っていたら過呼吸となり冷や汗をかいた。 この高度でも過呼吸になることを再認識した。 それでも起床後のSPO2と脈拍は90と57で、数値は非常に良かった。 今日はあいにく曇りがちでマナスルはすっきりと見えない。
11時に早めの昼食を食べ、午後から出発するという外国人隊員達よりも一足早く正午前にB.Cを出発する。 前回よりも順応は進んでいるようで足取りは軽いが、今日は食糧やエアーマット、上部キャンプで使う衣料などの荷物が10キロ以上あるので、次第にボディーブローが効いてくる。 クランポン・ポイントに着く前から、後から出発した外国人隊員達が三々五々追い越して行く。 氷河の取り付きからのルートは2日前に辿ったばかりなので記憶に新しかったが、一部でフィックスロープが使えない箇所もあり、氷河やクレバスの状態は日々変化していることが分かった。 午後の天気はいつもどおりで曇りがちだったが、むしろ強烈な陽射しを遮ってくれてありがたかった。 C.1までのルートは分っているため、今日は途中から各々のペースで登る。 B.Cに残った隊員はいないということか、医師のモニカも一番後ろから登ってきた。 前回よりも少しだけ早い4時間半のタイムで4時半前にC.1に着いた。 まだ他の隊が順応ステージに入っていないことに加え、以前から一般的に使われているC.1はさらにここからもう一段上にあるとのことで、C.1は私達の隊だけだった。 個人装備のボッカで体力を予想以上に消耗したので、テルモスに残っていたお湯でカップラーメンを流し込む。
C.1からは二人で一つのテントを使うことになっているため、今回の第2ステージでは藤川さんと一緒になった。 工藤さんは平岡さんと、るみちゃんは運良くテントが一つ余っていたので一人となった。 今日から同じテントで3泊するので、テントの下の凸凹に雪を入れて入念に整地し、後はひたすら今晩と明日の朝までの水作りに精を出す。 テントに備え付けられていた2つのアルミのコッヘルはいずれも取っ手がないタイプで、またガスカートリッジにも自動点火装置が付いてないので、非常に使いにくかった。
C.1に到着して間もなく頭痛が激しくなったが、夕食前のSPO2と脈拍はそれぞれ82と90と、それほど悪くはなかった。 モニカが各テントを回り、隊員の体調をチェックしていた。 夕食はフリ−ズドライのスパゲティーと粉末のスープ。 夕食後は藤川さんと深呼吸大会となった。 夜8時のSPO2と脈拍はそれぞれ74と74で、B.Cとの標高差は750mだが、体へのストレスはそれ以上にあるようだ。 また、氷河上のテント内は陽射しがないと結構寒く、快適なB.Cでの生活が懐かしかった。 テントに備え付けられていたシュラフは羽毛が1キロくらい入った厳冬期用の物だったが、B.Cで使っている自分のシュラフの方が暖かく、また湿っぽくて防虫剤の匂いが鼻に付いた。
9月9日、昨夜は予想どおり頭痛に悩まされながら寝ることになり、一番低い時はSPO2が59まで下がった。 起床前のSPO2と脈拍は64と58で、起床後は74と64になったが、不思議と頭痛はなかった。 SPO2が落ちた原因は昨日のボッカの疲れもあるが、ここ数日続いている鼻づまりの悪化だった。 乾燥で鼻の中の粘膜が切れて出血したものが巨大な鼻糞になり、それが鼻腔の奥に詰まってしまうのだ。
今日は予定どおりレスト日となった。 天気は今日も朝は青空が覗くが次第に雲が湧き、午後には天気が崩れるという感じで、この山域特有のモンスーン(雨期)気候が続いた。 曇ってはいるものの陽射しが感じられ、日中はテントの中でゴロゴロするにはちょうど良かった。 もし雲がなかったら、一人ならともかく二人では暑くてテントの中にはいられないだろう。 午前中は頭痛の代わりに気分が少し悪くなり、水作りを藤川さんにお願いする。 深呼吸を繰り返し行っていると、運良く小豆ほどの大きさのどす黒い鼻糞が取れ、呼吸が一気に楽になった。 SPO2も80台まで上がり、10時頃になってようやく朝食が食べれた。
お腹の調子は相変わらず良かったので問題なかったが、C.1から上のキャンプ地では携帯トイレを使うため、トイレはテントサイトの外れに雪のブロックを片側だけ1mほど積んだだけの簡素なものとなり、近くまでいかないと誰かが使っているかどうかも分からないし、風雪が強い時は大変なことになるだろう。 藤川さんは愛用のナンプレ、私は読書や日記をつけたりして専らテントの中で過ごした。
夕方、倉庫兼スタッフの宿泊用テントで明日のC.2までの行動予定についてのミーティングがあった。 夕食はB.Cから上がってきたスタッフが担いできてくれたピザをテントに戻ってからガスコンロで温めて食べた。 食べ物を消化するために多くの酸素が使われるため、夕食後は今日も藤川さんと深呼吸大会となった。 深呼吸により私はSPO2が90台まで上がったが、藤川さんは80台にしかならなかった。
9月10日、夜中じゅう細かい粒の雪が降っていた。 頭痛で2回起きたが、疲れていたのか水分補給なしで寝てしまう。 3回目の頭痛で起きた時が、5時半の起床予定時間だった。 SPO2が62しかなかったので、深呼吸により80台まで上げる。 慌しくお湯を作り出発の準備をしていると、新雪が多く危ないとのスタッフの判断でC.2へは行かないことになった。 まだ順応が不十分なので、この中止は正直ありがたかった。 C.1、出来たらC.2をB.Cと思うくらい順応していなければ登頂はおぼつかないだろう。 朝食を食べると体が温まり、激しい睡魔に襲われて1時間ほど寝る。 工藤さんから「モノトーンの景色が素晴らしいですよ〜」とテントの外から声が掛かったが、起き上がる気力がなかった。 8時頃になってようやくSPO2が84まで上がりホッとしたが、マッキンリーの時と同じように指先が紫色に変色していた。 間もなくエイドリアンがテントを訪れ、9時半に上のC.1辺りまで1時間ほど登りに行くという指示があった。
スタッフが先導し、待ちきれない外国人隊員達が9時半前に出発。 私達は少し間をおいて9時半過ぎに出発する。 天気は少し回復し、青空が僅かに覗いている。 風も無く寒くなかったので、ジャケットなしで登る。 るみちゃんが先頭になったが、今日は快調に登って行く。 逆に私はるみちゃんのペースについていくのが精一杯だった。 先頭のスタッフのラッセルが大変なのか、上手く順応していないのか、屈強な外国人隊員達も昨日までと比べてペースが遅かった。 ルート上にはフィックスロープがほぼ100%張られていたが、ユマールを使うほど急な斜面はなく、カラビナだけを掛けて登る。 まだテント村が出来ていない上のC.1を過ぎ、1時間ほど登った辺りから新雪が多くなり、次第に登りにくくなってきた。 意外にも一番若いクリスティーヌ(ラトヴィア)がバテ気味になっていた。
出発してから1時間半ほどで前方にセラック帯が立ちはだかり、そこで今日の順応行動は終了となった。 C.1からの標高差は僅か260m、標高は平岡さんのGPSで5800mほどだったが、順応不足でとても疲れた。 予定どおりC.2を目指していても、果たして辿り着けたかどうか疑問である。 最終到着地点には総勢30名の隊員やガイドが集い大賑わいだ。 エイドリアンとセルゲイ(ロシア)がスキーで滑降していく。 すばらしい技術と体力だ。 日本人でここまで出来る人はごく僅かだろう。 二人はもちろん山頂から滑る計画だ。 隊員のセルゲイはともかくエイドリアンはチーフガイドであるが、これを容認している隊長のラッセルも太っ腹だ。 風は全くなく暖かかったので、1時間ほど順応のためそこに滞在する。 下りは新雪に足を取られながらも30分ほどでC.1に着いた。
お昼は昨日のご飯の余りとチキンラーメンとネパール製のラーメンを藤川さんと半分ずつ食べたが、C.1だとまだB.Cの半分ほどしか食べられない。 昼食後は迷わず昼寝を決め込んだ。 夕方前から小雪が舞い出し、いつもと同じような天気になった。 意外にも夕方のミーティングでエイドリアンから、予定では明日はB.Cへ下山するだけだったが、C.2にタッチしてから下山することに変更し、下山後はB.Cで2日間休養するという指示があった。 今も小雪が降り続いている状況で明日C.2まで行けるのだろうか?。 皆の顔には“明日は大雪にならないかな〜”と書いてあったが、るみちゃんの情報では、今日軍人チームのメンバーで順応に行けなかった人がいたことや、クリスティーヌのモチベーションが下がっていることなどが背景にあるようだった。 ミーティングの最後にエイドリアンからビーコンの使い方についての説明があった。 明日は今日よりも30分早い6時半の出発となった。 SPO2の低下を危惧し、夕食は軽くスパゲティーだけにした。 夕食後のSPO2と脈拍は85と70になって安堵した。
9月11日、5時に起床。 頭痛はなかったが空腹のせいか夜中に何度も目が覚めた。 夜中のSPO2の最低値は64だったが、起床後のSPO2と脈拍は78と58でまずまずだった。
カップラーメンを流し込み、6時半過ぎにガイドのデーブからビーコンの動作チェックを受けてC.1を出発。 雪はテントの周りで数センチ積ったが、今は青空が僅かに覗いている。 今日も不思議と風は無く、ジャケット無しで登り始める。 最初の1時間ほどは昨日登ったルートなので気は楽だ。 意外にも大柄なポール(オーストラリア)が遅れ、私達の後から登ることになった。 今日は先行している外国人隊員達のペースが昨日以上に遅くなり、いつものように引き離されることはなかった。 逆に私達は昨日の最終到着地点までは昨日よりも少し早いペースで登ることが出来た。
しばらく休憩した後、ストックをデポし、眼前のセラック帯を右から回り込んで急な雪壁に取り付く。 ユマールとピッケル(下りは懸垂)を駆使して登ったが、ここもフィックスロープは同じ材質のナイロンだったので驚いた。 本当に耐久性は問題ないのだろうか?。 初めのうちはピッケルを打ち込んで雪壁を登っていたが、一部が雪から氷に変わってきたので、両手で拝むようにユマーリングしながら登る。 7〜8歩登っては体をロープに預け、10秒ほど休むことを繰り返す。 高所では非常に負荷のかかる場所だ。 今日はほぼ空身だが、次回以降はここをボッカしながら登らなければならないし、本番アタックの時は高所靴で登らなければならないので、さらに負荷がかかって大変だろう。
急な雪壁が終わると傾斜の緩やかな道となったが、前を登る工藤さんのペースが遅くなった。 やはり高所靴では登りにくのだろう。 再び急な雪壁となり、30mほどユマーリングで登ると、その上は広場になっていて先行していた外国人隊員達が寛いでいた。 間もなく上から下ってきたエイドリアンから、この先は気温の上昇で雪の状態が悪いので、ここで打ち切りにしますという指示があった。 標高は平岡さんのGPSで6000mを少し超えていた。 C.1からの標高差は500mほどで、C.1からC.2への行程の3分の2ほどを登ったことになる。 今日も順応のためそこで1時間ほど滞在してからC.1へ下る。
11時半過ぎにC.1へ戻り、食べなかった食糧・テルモス・ジャケット・薄手の羽毛服の上下・エアーマット・テントマットなどを二重の袋に詰めてC.1の倉庫にデポし、携帯トイレを背負ってB.Cに下る。 C.1から下は雨だったのか、氷河の雪がだいぶ溶けて黒々としていた。 今日も午後から曇りとなり、涼しくて助かる。 クランポン・ポイントからは小雨となって肌寒くなったが、ジャケットはC.1にデポしてきたので、長袖のシャツ一枚のままで下る。
2時半に待望のB.Cに下山。 他の隊のテントが一気に増え、上から見ているとお花畑のようで面白かった。 個人用テントに着くと、今日B.Cに上がってきたという埼玉岳連の細谷さんが挨拶に来てくれた。 事前に新聞やネットの情報で大山光一さんを隊長とする3人のメンバーが来られるということは分かっていたが、どうやら私の父が同じ市内に住む細谷さんに私の出発後に電話をしたようだった。
着替えをしてからダイニングテントでキッチンスタッフが作ってくれた揚げたてのフライドポテトをつまみながら皆で談笑する。 高所順応の第2ステージを無事終えたことで気も緩み話が弾んだ。 夕食には木のプレートと厚い鉄板の上に乗ったステーキが出てきて驚いた。 夕食後は早々に個人用テントに戻った。 疲れていたのですぐに眠りに落ちると思ったが、体がだるかったり、お腹が張ったり、左手の中指の爪が乾燥で割れて痛かったりして一晩中眠れなかった。
【順応の合間のレスト】
9月12日、天気は朝から小雨模様だ。 早朝から丘の上のテントサイトのプジャの太鼓の音が響き渡っている。 風邪と同じような症状で体がだるく熱っぽかったが、原因は酸欠によるふくらはぎの筋肉痛だということが起きてから分かった。 程度の差はあるが、皆も同じような症状のようだ。 起床前のSPO2と脈拍は82と59で、起床後は88と72だった。
朝食後にエクアドル人のガイドのハイメと平岡さんを交えて雑談を交わすと、エクアドルの最高峰のチンボラソは北面からの新しいルートで登られているという話や、コトパクシの縦走ルートなどの耳寄りな情報があり、マナスルに登る前から次の山の計画で大いに盛り上がった。 天気は悪いが、C.1からC.2へのルートをより安全なものにするためのルート工作に、エイドリアンはスタッフ達と一緒に出掛けて行った。 高所順応の第3ステージとして、明後日からC.1(5500m)に1泊、C.2(6300m)に3泊し、C.3(6700m)にタッチすることになっているが、平岡さんから日本人隊は休養日を1日追加してC.2での宿泊を1泊減らすというタクティクスをラッセルに相談するという案が出された。
正午のSPO2と脈拍は82と61、天気は午後も相変わらず悪く、モンスーンらしくなった。 昼食後は少し離れた丘の上に設営された埼玉岳連隊のテントを訪ねる。 その途中でサマ村からちょうど上がってきたAG隊の近藤さんと梶山さんに偶然出会った。 AG隊がそろそろ来ることは分かっていたので驚かなかったが、二人もまるで私がここにいることを知っていたかのようだった。 AG隊の隊員は男性が5人、女性が4人とのこと。 カトマンドゥでは埼玉岳連隊と同じホテルだったようだ。 これで日本人隊は総勢3隊となった。 埼玉岳連隊のテントで、大山さん、風間さん、そして細谷さんとしばらく歓談する。 隊長の大山さんは普通のサラリーマンとして海外遠征登山を実践してきたパイオニアでもあり、休暇の取り方や遠征費用などの話に及ぶと、同じ境遇で話が弾んだ。 昨年は大山さんと風間さんの二人の隊でチヨ・オユーを29日の期間で登れたので、今回もその経験を活かして短期決戦で臨まれるという。 今回の順応はC.2(6300m)までで、C.3(6700m)にはタッチせずにアタックするとのことで、アタック日は私達の隊と同じ日にするようだ。 HIMEX隊のスタッフがルート工作をしてくれるので、ボッカを自分達のスタッフに委ねることが出来るため、サーダーを通じてHIMEX隊にフィックスロープの使用料を事前に支払っているとのことだった。
3時のSPO2と脈拍は83と66だった。 今度は埼玉岳連隊の三人がHIMEX隊のテントに訪れ、再び山の話しで盛り上がる。 埼玉岳連では大山さんを中心とするメンバーで8000m峰14座を全て登るというプロジェクトが始動しているらしい。
夕食後のSPO2と脈拍は86と62だった。 ラッセルから今後のスケジュールについての説明があり、高所順応の第3ステージとして、明後日からC.1に1泊、C.2に2泊してからC.3にタッチしてC.2に1泊、その後はB.Cに下山してアタック日まで4日程度休養を兼ねて待機し、最後のアタックステージでは隊を一般人と軍人チームに分けて、一日ずらして登頂を目指すとのことだった。
9月13日、久々に天気は良くなりマナスルが見えた。 昨夜は9時前に寝たが、朝の6時半まで二回尿意で目が覚めただけで、B.Cに来てから始めてぐっすりと熟睡出来た(皆も同じ意見だった)。 起床前のSPO2と脈拍は85と55で、起床後は87と73だったが、数値以上に体が楽に感じた。 ふくらはぎの筋肉痛はまだ残っているが、快便で体調はとても良い。
朝食前にテントサイトの傍らを流れる小川で衣類の洗濯をする。 氷河からの水は冷たいが、強烈な陽射しで良く乾く。 昨日B.C入りしたAG隊がモレーンの背を歩いている姿が見えたので、お互いに手を振り合ってエールを送る。 朝のガイドミーティングで平岡さんの提案がラッセルに承認され、私達は明日もB.Cで休養することになった。
朝食後は皆で洗髪大会となり、ポータブルの簡易シャワーでお互いにお湯をかけあって頭を洗う。 頭のみならず気持ちもリフレッシュし、レスト日のありがたみを痛切に感じた。 正午のSPO2と脈拍は91と68で非常に良かった。 昼食はキッチンスタッフがまた私達のために関西うどんを作ってくれた。
午後はるみちゃんを除くメンバーでAG隊のテントを訪問し、勝手知ったる我が家のようにお茶やお菓子をいただきながら楽しく談笑した。 意外にもAG隊の4人の女性のうち3人はマナスルは今回が初めてではなく、またそのうちの2人は以前HIMEX隊で2度登れなかったという話を聞いて、そのモチベーションの高さには驚愕した。 AG隊のサーダーのプラチリとその弟のダ・デンディやコックのマイラは、日本人隊が良くお世話になっているエージェント(コスモトレック)から来ているため日本語がペラペラで、私以外のメンバーとは全員顔見知りだった。 AG隊のテントにいると、あらためてHIMEX隊が国際隊だということを実感する。
夕食後にエイドリアンからルート工作の進捗状況と明日以降の日程についての説明があった。 ルート工作については、今日22人のスタッフ全員でC.3までルートを拓いたが、C.1からC.2の間の状態が悪く長時間の作業を強いられたので、スタッフから明日は休みたいとの要請があり、外国人隊も明日もう1日休養することになったとのこと。 私達もこれに合わせて明後日まで休養日となり、結果的に今回の休養日は4日間となった。 これが幸と出るか否かは神のみぞ知るところだが、日程的に余裕があるのがHIMEX隊のメリットだろう。 就寝前のSPO2と脈拍は88と63。 14月に照らされたマナスルが神々しかった。
9月14日、今日も早朝は青空でマナスルが良く見えた。 順応でC.2直下までは行ったものの、まだ山頂は現実的ではない。 昨夜も良く眠れ、起床前のSPO2と脈拍は83と59だった。 朝食前にテントサイトでイギリス在住のネパール人のマニンドラ(マニ)と片言の英語で雑談を交わす。 マニは英国軍人チームの中では一番若く、また唯一実戦に参加していない(怪我をしていない)という異色の隊員で、現在の赴任先のマレーシアではキナバルをいつもトレーニングで走っているらしく、富士山の登山マラソンの話をすると、是非参加したいと目を輝かせていた。 ネパールでは自分と同じように外国の軍隊の傭兵として働いている人も少なくないという。 朝食後はダイニングテントで平岡さんから今年のエベレスト登山の土産話や、るみちゃんの所属している山岳会やその関連の山岳会などの現状などについて色々と興味深い情報を得ることが出来た。 こういう時の話は他では聞けない秘話も多く、とても面白くまた参考になった。
いつもより早く昼前から雨が時々降るようになったが、スタッフも休養日なのでバレーボールを雨の合間にやっていた。 ネパールではバレーボールは結構盛んらしい。 この高度でバレーボールが普通に出来てしまうことも凄いが、B.Cの中では一番広くて平らな場所をバレーボールのコートにしてしまうという発想も凄い。 他の隊から見たら非常に違和感があるだろう。
昼食後は読書と食べ過ぎが原因の昼寝をする。 SPO2は80台の後半をキープするようになり、頭痛もなくお腹も絶好調だが、休養日が4日もあると体がなまってしまうのではないかと心配になる。 夕方から夕立のような激しい雨が降り気温が一気に下がったが、それでもまだ季節は夏なのか、B.Cでは雪にならなかった。 反面、昨日せっかく拓いたC.3までルートが雪で埋まってしまうのではないかと心配になった。
9月15日、昨日の雨でモンスーンらしい気候に戻ったのか、今日は久しぶりに早朝から小雨が降っていた。 昨夜は9時間ほど寝たが、まだ寝足りないような感じで、4日前の筋肉痛がうっすらと残っている。 高所で負荷をかけるような行動は厳禁だとあらためて肝に銘じる。 起床前のSPO2と脈拍は83と58で起床後は90と65と非常に良くなったが、もしかするとSPO2の向上が眠さを助長しているのかもしれない。
朝食後のガイドミーティングで、ラッセルから待望の登頂予定日についての伝達があった。 天気予報では明日から1週間天気が良く、その後モンスーンが明けるということなので、今日から(私達は明日から)の高所順応の第3ステージの終了後に3日間(軍人チームは2日間)B.Cで休養し、9月27日(軍人チームは26日)をアタック日とすることが決まった。 この計画は門外不出であることは言うまでもない。
昼前に少し晴れ間が見えてきたので、AG隊のテントに今日の夕食に使う鰹節や粉ワサビなどの食材を貰いにいく。 あいにくAG隊のメンバーは梶山さんとC.1タッチに出掛けていて不在で、これから追いかける近藤さんしかいなかった。 AG隊では前回まで上部キャンプはC.1〜C.3の3か所だったが、今回は私達と同じC.4まで建設する計画なので、C.1の場所は私達の隊と同じ場所にしたとのことだった。 B.Cのテントサイトには各国の登山隊が集結し、沢山のテントの花が咲いていた。 現在約19隊でスタッフを含めると200人くらいの人がいるらしい。 パーミッションの関係から少人数の国際隊もあるようだ。
昼食後も小雨が降っていたが、1時過ぎから外国人隊員達は三々五々C.1に向けて出発していった。 女医のモニカだけラッセルと共に残ったが、どうやら今回モニカは登山パーミッションを取っておらず、そのことを前回の高所順応の時に他の隊から指摘されたとのことだった。 この狭い世界でそんなつまらないことをやり玉にあげる人がいるのかと驚いた。 外国人隊員達が 全員出発してから、ダイニングテントで今回の順応ステージ(3泊4日)の時のアルファー米やフリーズドライの食糧を次回のアタックステージ(5泊6日)のことも考えながらチョイスする。 自分で荷上げする10日分の食糧計画を決めるというのは意外と難しく、一品一品ノートに書き込んで整理しながら無駄なくかつ必要なものだけを選んだ。
食糧計画が決まったので次は上部キャンプで使う衣類や携行品の入念なチェックを行う。 これもアイテム毎にどこからどこまで使いどこにデポするか(あるいはすでにデポしてあるか)を一つ一つノートに書き込んで整理する。 例えば登山用のエアーマットは前回C.1にデポしてきたが、今回の順応ステージではC.2に荷上げしてデポし、次回のアタックステージではその代用品としてテントマットをB.CからC.1に荷上げして使い、C.2ではデポしたエアーマットを使ってから順次C.3・C.4に荷上げして使い、これにより少しでも体力を温存したいアタックステージではC.1からC.2への荷上げを省くという作戦だ。 この点がH.Cからのワンプッシュで登れる6000m峰と8000m峰の決定的な違いということだろう。
夕方になると料理が趣味というるみちゃんと平岡さんが夕食を作り始めた。 メインディシュはチキンカツで、チーズ用のおろし金で古いパンをすりおろしてパン粉を作り、ご飯は圧力鍋で炊くという入れ込みようだった。 今晩は外国人隊員達がいないので、私達と留守番のモニカとラッセルで夕食を食べることになった。 ナスの素揚げ(味噌ダレ)、オクラのおひたし、キャベツの千切り、それに味噌汁が加わった和定食に皆で舌鼓を打った。 もちろんモニカとラッセルも非常に美味しいと喜んでいた。 今日は最後まで冷たい雨となり、気温は昨日よりも下がって初めて吐く息が白くなった。
【B.CからC.3へ】
9月16日、前日からの雨はB.Cで初めて雪となり、うっすらとテントに積もった。 いよいよ夏が終わり秋となるのだろう。 やはり昨夜は食べ過ぎたようであまり快眠は出来なかった。 それでも起床後のSPO2と脈拍は86と68で好調だった。 今日から上部キャンプに上がるので、6時起床で7時朝食と、いつもより1時間早いスケジュールで8時にB.Cを出発する。
アタック用の羽毛服や手袋などは今回荷上げしておきたいが、大雪や強風でテントが潰される可能性があるので、予備がある食糧品中心のボッカをする。 ザックの容量は35Lしかないので、サブザックを紐で括り付けて運ぶ。 B.CからC.1はすでに2回往復しているので、気楽であるが面白みに欠ける。 ましてや順応となるとなおさらだ。
皆で一緒にB.Cをスタートしたが、るみちゃんのペースがなかなか上がらず、クランポン・ポイントでしばらく待つ。 るみちゃんは体調が思わしくないようなので、平岡さんに任せて藤川さん、工藤さんと共に先行する。 雲は多いが陽射しは強く、氷河上は照り返しで暑い。 他の隊も順応やボッカの最盛期で、B.CからC.1の間も人の行き来が多くなった。 途中、埼玉岳連隊がC.2までの順応を終えて下りてきたが、順応不足が原因なのか皆下痢で苦しんでいるとのことだった。
暑さに苦しめられながらも、珍しく健脚の工藤さんよりも一足早く4時間少々でC.1に到着。 終始マイペースで登ったが前回よりも30分ほど早かった。 C.1には全員分のテントがあるが、外国人隊員達はいないので、テントを一人で使う。 前回と同じテントを選んだが、テントの下の雪が溶けて凹んでいたので、スコップで雪を入れて整地する。 他の隊は頭上の台地にC.1を建設したようで他にテントは無かった。 少し落ち着いてからSPO2と脈拍を測ると80と98で、脈が非常に高かった。 水分摂取に努めて夕方には脈拍を78まで下げることが出来たが、何だか前回の滞在時の方が体が楽だったような気がする。
今日も午後は水作りに追われる。 今回のボッカの量が一番多い藤川さんは1時間以上遅れて到着したが、るみちゃんと平岡さんは一向に登ってくる気配がない。 無線では何も言ってこないのでそれほど心配はしなかったが、結局3時間ほど遅れてようやく二人が着いたので安堵する。 るみちゃんはどうやら胃腸の調子が相当悪いらしい。 平岡さんから明朝はB.Cから2名のスタッフが上がってくるのを待って5時に出発するとの指示があった。 8時には寝たが、前回C.1で3泊したことが嘘のように脈が高くて動悸が収まらず、また寒さも手伝って殆ど眠れなかった。
9月17日、4時前に起床。 夜中に少し雪が降ったようで、うっすらとテントに積もっていた。 起床後のSPO2は70と80の間で安定しない。 睡眠不足で体調は良くないのだろうが、緊張感があるためか高山病の症状はない。 予定どおり5時前にB.Cから2名のスタッフがサポートに上がってきてくれた。
少し出発の準備が遅れ、5時過ぎにC.1を出発する。 今日も不思議と風は全くない。 眼前には神々しいマナスル北峰のシルエットが暗闇に浮んでいる。 次第に夜が白み始め、マナスルがモルゲンロートに染まる素晴らしい景色を堪能する。 前回の順応ステージでは曇天で全く見られなかったラルキャ(6249m)などの周囲の山々も見えるようになった。 るみちゃんは昨日よりもペースが上がり、体調は良くなったみたいだ。 昨夜の新雪が少し積もっているので氷河が白くて綺麗だ。 上のC.1にもだいぶテントの数が増えてきた。 相変わらず風もなく、絶好の登山日和となり安堵する。
意外にも前回の順応ステージの初日に到達した5800m地点の手前からルートは左に大きくトラバースし、前回とは正反対の方角に向かっていた。 長いトラバースが終わるとセラック帯に突入し、フィックスロープをユマーリングしながら登る。 前回のルートよりも複雑で部分的に非常に急な所もあり、荷物の重さも手伝って苦しい登高が続く。 C.1からC.2までの間が一番の核心ということだったが、正にそのとおりだった。 大きく口を開いたクレバスにはアルミの梯子も架けられていて、スタッフやエイドリアンのルート工作には、ここ数年マナスルを続けて登っている経験が生かされている感じがした。 気温の上昇で次第に霧が湧いてきたが、陽射しが強烈なので涼しくてちょうど良かった。 そろそろC.2も見えてくるだろうと思った頃、誰の指示だか不明だが、数人のスタッフがC.2から下りてきて私達のザックを背負ってくれた。 私はザックにカメラや水筒を付けていたので、紐で括り付けた食糧の入ったサブザックを託した。
正午前にようやく待望のC.2(6300m)に着いた。 今回は工藤さんと一緒のテントになる。 藤川さんはるみちゃんと、平岡さんはセルゲイと一緒になった。 C.1からC.2の制限時間は7時間だったが、休憩を殆どしないで6時間半を要した。 C.1は地面が平らだったが、C.2は少し傾斜があるので整地してもテントの建て付けが悪い。 休む間もなく水作りを始めるが、体が酸欠になっているのでビニール袋に雪を集める作業も辛かった。 ライターで火を着ける度にひび割れた親指が痛い。
夕方前から小雪が舞い出す。 顔が少しむくんでいるような感じがしたが、夕方のSPO2と脈拍は73と74で、何故か脈が意外と低かった。 鼻腔に詰まった鼻糞を取ろうとしたら鼻血が出てしまった。 夕食はアルファー米とフリーズドライのカレーを食べる。 食欲はC.1よりもさらに落ち、一人前のアルファー米を完食出来なかった。 今日は今までで一番高い睡眠高度を経験することになるが、日没後の7時にシュラフに入ると間もなく妙な振動がしてきた。 初めは高度障害による動悸かと思ったが、次の瞬間ドーンと凄い圧力を体が感じた。 “雪崩だ!”と気が付き、急いでシュラフから飛び出してテントのファスナーを開けると、すでに外に出ていたガイドや隊員もいた。 しばらく様子をうかがっていたところ、ガイド達の談笑する声が聞こえてきたので安堵した。 雪崩は確かに起きたようだが、だいぶ遠くで全く問題はないようだった。 翌日B.Cから入った情報では、ネパール国内で地震があり、カトマンドゥ郊外では数人の死者も出たとのことだった。
9月18日、5時半に起床。 風も無く静かな朝を迎え、テントの中から素晴しい朝焼けと日の出の写真を撮る。 軽い頭痛で夜中に5〜6回目が覚めたが、初めてC.1に泊まった時と同じくらいの感じで何とか眠れた。 それでも夜中に目が覚めた時のSPO2は56で、起床前のSPO2と脈拍は64と72で数値は良くなかった。 酸欠と放射冷却でダウンを上下に着込んでいても寒い。 気温が低いのでお湯がなかなか沸かずにヤキモキする。 朝食は昨夜の余ったアルファー米に塩昆布を入れた茶漬けを食べる。
7時半の出発予定だったが、10分ほど遅れて隊の最後尾でC.3(6700m)に向けて出発する。 快晴ではないがまずまずの天気だ。 陽が昇ると劇的に体感気温は上昇して暖かくなり、6300mという高度を全く感じない。 風も無いので手袋は二重で充分だった。 外国人隊員達は昨日C.2で休養していたが、今日もそれほど速いペースではない。 30分ほど登ると、前回の順応ステージでも不調だったポールが下りてきた。 SPO2は低いが、ボッカもなく昨日とは全く違う登り易い斜面が続いているので、この高度でも1時間に150mくらいは登れる。 途中で暑くなりジャケットを脱ぐ。
間もなく上方にC.3が見えてくると、右手のマナスル北峰もだいぶ低くなり、また左手のマナスルのピナクルもようやく手の届きそうな高さになってきた。 さすがにC.3直下では思うように足が上がらなくなったが、10時ちょうどに建設中のC.3に着く。 結局C.2からC.3までの間はユマールやピッケルを使うような所は全くなかった。 最後に外国人隊員の最高齢のデービット(イギリス)が到着し、皆で拍手をして迎えた。
意外にもHIMEX隊のC.3は今にも崩れそうな雪壁の真下に作られていた。 前回まではこの先の雪壁の上のコルをC.3にしていたが、昨年風でテントが飛ばされた苦い経験から今年はこの位置に建設することになったようだ。 他の隊は雪壁の上のコルや私達よりも少し下の斜面にC.3を建設していた。 今日もエイドリアンとセルゲイが気持ち良さそうにスキーで滑っていく。 私達は順応のため1時間ほどC.3に滞在する。 今のところ息苦しさを感じることは無いが、次回のアタックステージではここに泊まらなければならないと思うと気が重い。 下りではC.4へのルート工作に向かう我が隊の頼もしいスタッフとすれ違った。
予想どおりC.2までは1時間足らずで下る。 明日のB.Cへの下山は早いので、すぐにまた水作りをする。 お腹もさほど空いてなかったので、昼食はポタージュスープと行動食の余りで済ます。 昼食後のSPO2と脈拍は73と107で脈が異常に高かったが、一生懸命水分補給をすると、2時間後に脈拍は76まで下がった。 午後はC.2にデポする食糧と携行品を再度確認してノートに書き込み、その後は昼寝をして過ごす。 陽が射すとテントの中は暑くていられないほどになるが、陽が陰ると途端に寒くなるので、こまめにファスナーの開閉をしなければならない。 夕方のSPO2と脈拍は76と67になったが、数値以上に体は楽にならず、6300mの高度では順応よりも消耗の方が多きいような感じがした。 夕食は今日もアルファー米とフリーズドライのカレーにしたが、今晩も一人前を完食出来なかった。
9月19日、5時に起床。 未明から小雪が舞い始め、天気は悪そうだった。 昨夜は12時くらいまでは良く眠れたが、それ以降は息苦しい感じが続き、朝まで殆ど眠れなかった。 夜中は常にSPO2が60台で軽い頭痛があり、起床後のSPO2と脈拍は72と68だった。 食欲もあまり湧かず、朝食は昨夜の余ったアルファー米にチキンラーメン3分の2を食べるのが精一杯だった。 6300mの高度に泊まり、6700mにタッチしてまた6300mに泊まるということが想像以上に体にダメージを与えていることを体験した。 今回のC.2での2泊は順応の訓練にはなったものの、まだこの高度に順応出来ていないことが分かり、アタックステージに向けて不安材料が残った。 6時過ぎに雪が止んだので、ようやく我慢していたトイレに行く。 シットバック(携帯トイレ)が本当にもどかしい。 昨夜ノートに記したデポ品を再度チェックし、生地の厚い二重のスタッフバックに入れてデポ用のテントに置く。 デポ用のテントにはすでに大量の酸素ボンベが置かれていた。
ビーコンの作動チェックを受けて7時にC.2を出発しB.Cに向かう。 3日前にB.Cを出発した時は、3泊4日の順応でB.Cに戻ってくることがとても煩わしく、そのまま一気に山頂まで登ってしまいたいと思っていたが、今の状態では上に行く自信は無く、早くB.Cに戻りたいという気持ちの方が強かった。 天気は悪いが風が無いので行動するにはちょうど良い。 次回のアタックステージでの登りで少しでも役に立つように、複雑なセラック帯のルートをしっかり目に焼き付けながら下る。 このC.1からC.2の間をいかに体力を使わずに登るかによって、C.2以降の行動が楽になることは確かだ。 他の隊のようにC.1を少しでも上に建設し、C.2までの行動時間を短くしようとするタクティクスも頷ける。
C.2から2時間弱でC.1に到着。 私達の隊のテントは半分に減り(アタックステージでは隊を二つに分けて一日ずらすため)、代わってAG隊のテントが設営されていた。 C.1のデポ品を倉庫内で再度チェックし、“通い慣れた道” をB.Cへ下る。 次回ここを下る時は勝利の凱旋となるのか、それとも失意の下山となるのか、そんな発想がふと頭に浮かんだ。 B.Cに近づくにつれ皆の足取りも軽くなったような感じがした。
11時に小雨の中をB.Cに下山。 C.2からは正味4時間足らずだったが、殆ど休まずに下ったのでとても疲れた。 着替えをしてからダイニングテントで昼食となったが、食欲は回復して何でもおいしく食べられた。 お湯がいつでも自由に使え、食べ物も豊富にあるB.Cは本当にありがたい。 長かった3回の順応ステージも終わり、昼食後は久々に皆でお喋りを楽しんだ。 夕食はラム肉のステーキで、今日は迷わずおかわりをした。 デザートは登頂祈願のケーキだった。 寝る前のSPO2と脈拍は83と62で、今回の順応前とあまり変わらなかった。
【アタックに向けてのレスト】
9月20日、昨夜からの小雨は夜半から本降りとなった。 予想どおり良く眠れたが、夢も沢山見た。 C.1やC.2では夢を見た記憶がない。 C.2との標高差は1500mほどだが、まるで天国と地獄ほどの差がある。 起床後のSPO2と脈拍は90と55という理想的な数値となった。 疲労により鼻水が少し出ているが、この数日間のレストでこれも完治させ、完璧な体調に戻すのがこれからの作業だ。 朝食後にラッセルから予定どおり登頂予定日は26日(軍人チーム)と27日(一般チーム)にするとの話があったので、私達のレストの日は今日を入れて3日間となった。 天気予報では28日以降も天気は良いが、上空のジェット気流(風)が強まってくるようだ。 もし予定どおり順調に登頂出来れば、今月中にカトマンドゥに戻れることになり、日本にも1週間以上早く帰れるので、良いことづくしだ。
午前中は雨が降り続いていたので個人用テントで本を読んでいると、埼玉岳連隊の細谷さんがやってきた。 埼玉岳連隊は高所順応を前回のC.2泊の1回のみで、もうアタック待ちの体制に入っているとのことで驚いた。 3時にいつもスタッフが作ってくれるという太巻き寿司を持ってまた遊びに来てくれるとのことだった。
昼食後にラッセルから、アタックステージでの各キャンプ間の登りの制限時間と出発時間について次のような指示があり、制限時間内で登れなかった人はその時点でB.Cに下りるようにとのことだった。 @B.CからC.1へは制限時間5時間でB.Cの出発時間は8時。 AC.1からC.2へは制限時間7時間でC.1の出発時間は5時。 BC.2からC.3へは制限時間4時間でC.2の出発時間は7時。 CC.3からC.4へは制限時間7時間でC.3の出発時間は5時から7時の間。 DC.4から山頂へは制限時間6時間でC.4の出発時間は3時(12時起床)。 当初エイドリアンはこれよりもさらに1時間短い時間を提案したが、最終的にラッセルがこの時間に決めたとのことだった。 酸素ボンベは1人当たり4本用意され、それ以上は別料金となるということだったが、制限時間との関係から足りなくなることはないようだ。 尚、酸素はC.3からC.4間では2リッター、C.4での睡眠時は0.5リッター、アタック日は4リッターを吸うが、アタック日はスタッフが途中で換えてくれるとのことだった。 また酸素マスクはイギリス製の『TOP・OUT』(トップアウト)という製品で、従来使われていたロシア製の『ボイスク』等に比べて性能が30%もアップしているとのことだった。 明日は酸素ボンベとマスク、そしてレギュレターの使い方の説明を行い、その後は各人に貸与するので下山するまで各々が管理するとのことだった。
午後はアタックステージ(5泊6日)のアルファー米やフリーズドライの食糧と行動食を、上部キャンプにデポしてあるものと調整しながら無駄なくかつ必要なものだけをチョイスする。 約束の3時に埼玉岳連隊の大山さんと細谷さんが太巻き寿司を持って現れた。 風間さんはC.2での順応以来お腹の調子が悪くテントで静養しているとのことだった。 久しぶりに口にする酢飯の味が懐かしく、2時間ほど山の話しに花が咲いた。 外の雨は激しく降り続いていたが、雪にならないところを見ると気温は体で感じるほど低くはないのだろう。
9月21日、先日の長期予報はどこまで信じて良いのか、今日も天気が悪く曇っている。 これまでは午後は天気が決まって崩れるが、午前中は晴れ間の出る時の方が多かった。 起床後のSPO2と脈拍は88と65でまずまずだった。 昨日は一日中テントの中にいたので、朝食前に久々に柔軟運動を入念に行う。
朝食後にラッセルから酸素ボンベ・マスク・レギュレターの使い方について以下のような詳細な説明があった。 @酸素ボンベにレギュレターを接合する時は、ボンベが冷たいので必ず厚手の手袋をして行い、ボンベの栓は大切に保管すること。 Aレギュレターの目盛を0.5にセットしてゆっくり回し、“シュー”という酸素が漏れる音がしても、慌てることなく手早くボンベを回して接合すること。 Bレギュレターから酸素が漏れていても構わず酸素マスクのゴムホースと接合すること。 Cレギュレターと酸素ボンベを接合したら、レギュレターの圧力計の目盛が20(半分)以上あることを確認すること。 D息を止めて混合器が酸素で膨らむことを確認すること。 E酸素マスクの右側と下のバルブの外側は吐いた空気が凍りつくので、時々手で氷を払い落とすこと(これを怠るとバルブが詰まってしまい、酸素が供給されない)。 マスクの価額は1000ドル(約8万円)と高価だったが、将来まだ高所で使う可能性があるので、もし本当に性能が良ければ買っても良いかなと思った。
説明が終わると、HIMEXのロゴが入った専用バックに入ったマスクとレギュレターが貸し出された。 バックにはシリアルナンバーが付けられており、貸出簿に名前を記入する。 残念ながら軍人チームと一般チームから一人ずつリタイアする人が出てしまったため、その隊員への貸し出しは行われなかった。 酸素ボンベはHIMEXが独自の充填工場で酸素を充填・管理しているとのことで、行動用は長さ50センチ、睡眠用は40センチとなっていた。 酸素マスクの『TOP・OUT』は従来型に比べて随所に改良が施されているらしいが、ゴムが柔らかくて装着感がとても良く、また脱着も容易に出来るばかりか、最大の懸案事項だったメガネやオーバーグラスと干渉することもなかった。 今回準備したレンズの小さなメガネも使わなくて済みそうで本当に嬉しい限りだ。 午前中はマスクの装着とレギュレターとボンベの接合の練習に明け暮れた。 山のガイドをしているというピエール(フランス)とHIMEXのブロガーのビリー(ドイツ)は無酸素でチャレンジするようだ。
午前中から降り出した小雨は昼食時には本降りとなった。 午後はアタックステージでの衣類と携行品の詳細なリスト作りとチェックを行う。 夕方になってようやく雨が止んだので、高所靴の試し履きにテントサイトの裏のガレ場を散歩した。
夕食後は遅くまで平岡さんやるみちゃんと次の海外の山の計画を話し合った。 寝る前のSPO2と脈拍は85と63でいつもと変わらなかったが、シュラフに入る直前に右の脇腹の下に違和感を覚えた。
9月22日、夜中に少しお腹が痛くなったので、昨夜少し食べ過ぎたのかと思ったが、外が明るくなって目が覚めると下痢の症状が始まっていた。 今回の遠征では初めての下痢で、いつもは何でもないトイレが遠く感じた。 昨夜までは全く順調だったのに、何でまたこのタイミングで下痢になったのか全く思い当たる節がなく、その間の悪さを嘆かずにいられなかった。
朝食は平静さを装いつつヨーグルトだけで済ませ、午前中はとにかく静養しようと個人用テントに直行するつもりだったが、朝食後にラッセルからアタック日にマンツーマンでサポートしてくれるスタッフとの顔合わせをするという話があった。 アタック日のスタッフが誰になるかは私にとっても一番の関心事で、この日が来るのを楽しみにしていたが、熱もあるのか足がガクガクして立っているのも精一杯の状態だった。 ラッセルからスタッフの名前と一緒になる隊員の名前が交互に読み上げられ、各々が握手をしながら挨拶を交わしていく。 私にはニナ・チェリというどちらかと言えば年配のスタッフが付くことになった。 体に全く力が入らないが、作り笑顔で固い握手を交わす。 ニナ・チェリと親睦を深めるため、自己紹介や世間話でもしたかったが、今はそれどころではなかった。
スタッフとの顔合わせが終わると、昼食までの間個人用テントでシュラフにくるまって横になった。 間もなく第一次隊の軍人チームがC.1に向けて出発して行ったが、見送ることも出来なかった。 今日でなければすぐにでもモニカに診てもらうが、もしドクターストップにでもなったら全てが水の泡なので、何とか自己解決を図るしかなかった。 午前中は良い天気が災いしてテントの中が暑くなり不快だったが、ひたすらそれにも耐えるしかなかった。 下痢は収まったが、今度は熱で体の節々が痛くなってきた。 どうやら下痢というよりは高熱の風邪のようだった。 朝よりもさらに悪くなった今の体調では昼食も食べられないので、その時点で皆に今の体調を打ち明けるしかないだろう。 悪寒がする今の状態も最悪だが、C.1に出発する明日の朝もこの状態だったらどうしようかと、先のことばかり心配して気持ちが焦る。
昼食には少し遅れて顔を出し、時間をかけてサンドイッチを半分ほど食べる。 昼食後は意を決して平岡さんに今の体調を説明し、平岡さんに付き添われてモニカの診察を受けた。 下痢は止まり熱はこの時点で37度だったので、モニカからアスピリンの錠剤だけが処方された。 症状は高度障害によるものではなかったので、モニカもさほど心配していないようだった。 アスピリンを毎食後に飲み、明日の朝また診察室に来るように言われた。 意外にも平岡さんもお腹の調子が悪いようでモニカから薬をもらっていた。 ここ数年風邪をひいたことがなかったので、薬を飲むのも久しぶりだった。
明日の準備もしなければならないが、午後もひたすら個人用テントで寝続けた。 アスピリンが効いたのか、夕方になってようやく少し体が楽になったが、元々なぜ急に熱が出たのか原因が分からないので、まだまだ安心は出来なかった。 夕食も時間をかけていつもの半分ほど食べる。 平岡さんは下痢が治らないのか、夕食の席に顔を出さなかった。 症状の違いはあるが、もしかしたら原因は同じなのかもしれないと思った。
【最初のアタック】
9月23日、今日も朝方は青空が覗きまずまずの天気だった。 体調の管理を徹底して行ったせいか熱は奇跡的に下がり、嬉しいことに体のだるさはとりあえず無くなっていた。 起床後のSPO2と脈拍は86と62だったが、もう数値などはあまり気にならず、これからは今の体調が良いか悪いかだけにかかっている。 B.C入りしてから3週間が経ち、いよいよ今日から山頂へのアタックが始まる。
朝食前に出発の準備をしていると、意外にも平岡さんから体調が優れないので出発時間を遅らせたいという話があった。 下痢は治っていたが朝食は控え目にし、食後にモニカの診断を受ける。 脈拍が70と少し高かったが熱が下がったので、モニカが自分のことのように喜んでくれた。 モニカからC.1にはくれぐれもゆっくり歩いて行くようにと言われた。
9時に工藤さんとるみちゃんが先にC.1に向けて出発して行った。 私と藤川さんと平岡さんは1時間遅れて10時に出発した。 いつの間にか青空は消えて曇りとなったが、登るにはちようど良い気温だった。 AG隊の横を通ると、近藤さんと梶山さんが見送りに来てくれた。 順応しているので呼吸は楽だが、病み上がりなのでとにかく疲れないようにゆっくり歩く。 前回は4時間少々でC.1まで行けたので、5時間もあれば大丈夫だろう。 高所靴もゆっくり歩く分には何ら問題はない。 クランポン・ポイントまで1時間半ほどで着く。
クランポン・ポイントを過ぎると雪が舞ってきたので雨具を着る。 体調の優れない平岡さんやボッカに苦しむ藤川さんと少しずつ間隔が開き、途中から1人で先行することになった。 昨日の体調の悪さを考えると、嘘のように今日は体が動いていると自分でも不思議に思えた。 C.1の手前で先行したるみちゃんの姿が見えてきた。
予想よりもだいぶ早く4時間ほどでC.2に着いた。 無線でB.Cに連絡を入れると、ラッセルではなくモニカが代わって応答してくれた。 倉庫にデポしてあったスタッフバックを回収して工藤さんがいるテントに転がり込む。 るみちゃんは食糧とヘッドランプを入れたデポ袋が見当たらないと困っていたが、まもなく見つかって事なきを得た。 今のところ体調は悪くなってないが、昨日の朝のように突然容体が悪くなることもあるので油断は禁物だ。
昼食は行動食だけだったせいもあり、夕食はフリーズドライのカレーを一人前食べた。 夕食後のSPO2と脈拍は83と67で、C.1ではまずまずだった。 明日は5時半の出発とのことで早く寝たが、C.2にデポしてあるエアーマットの代用品のテントマットでは寒くて12時過ぎまで眠れなかった。 日没後から雪が断続的に降り続いていたので、明日はラッセルとなることが必至で気が重かった。
9月24日、4時半前に起床して出発の準備を始める。 新雪が30センチほど積もり、今もまだ降り続いていた。 果たしてこの状況でC.2まで行けるのだろうか。 嬉しいことに体調の変化はなく、どうやら風邪は治ったようだった。 起床後のSPO2と脈拍は74と70だった。 5時過ぎに平岡さんから大雪のためしばらく出発を見合わせるとの指示があった。 5時半にB.Cから数名のスタッフがサポートに上がってくる予定だったが、大雪のため到着が遅れているらしかった。
7時前にようやく2人のスタッフが着いたが、雪崩の危険があるため一応C.1で停滞することに決まった。 スタッフ達にテントを掘り起こしてもらった後、自分達でも雪かきをする。 疲れたが体は暖まった。 B.Cから上がってきたスタッフ達は休む間もなくC.2までのラッセルと雪に埋もれたフィックスロープの掘り出しに出掛けて行き、ガイド達はC.2とB.Cを交えてトランシーバーで今後の行動予定を協議していた。 この雪はモンスーン明け前に毎年必ずあるというドカ雪なのだろうか。 このまま雪が降り続けば明日もC.2に行けるかどうか疑問だ。
正午のSPO2と脈拍は82と70だった。 停滞により食糧が不足してしまうので、昼食は倉庫にあった食べ残しのお菓子などで済ます。 昼過ぎから雪はみぞれに変わった。 今までのように順応目的なら停滞もさほど苦にならないが、アタック途中での悪天候による停滞は本当に辛い。 みぞれは降っているが、薄陽も射してきたのでテントの中が寒くないのが救いだ。 私は日記を綴り、工藤さんはMP3で音楽を聴きながら眠っていた。
明日はラッセルと長時間の行動が想定されたので4時過ぎに早めの夕食を食べ、早々に寝始めた矢先にハイメがテントを叩き、これからB.Cに下山することになったと伝えにきた。 間もなく平岡さんもテントにやってきて、夕方の天気予報で昨日までの天気予報が大きく変わり、これから数日雪が降り続くようなので、アタックを断念してB.Cに下山するとの指示があった。
慌しくアタックの装備からデポの準備への切り替えを行い、5時半過ぎにC.1を後にした。 一昨日、昨日と体調のことで苦労したことが徒労に終わり、まさかのアタック断念で気持ちの切り替えもつかないが、雪の中を駆け足でB.Cに下山する。 幾つかのフィックスロープは雪で埋まったままだ。 クランポン・ポイントも雪の中だったが、トレースがあるのでアイゼンをデポする。 クランポン・ポイントで日没となったのでヘッドランプを点けて下る。
7時過ぎにB.Cに着くと、B.Cにも10センチ以上の雪が積もっていた。 ダイニングテントではラッセルが自ら夕食を配膳し隊員を労った。 私達はまだC.1で良かったが、C.2から戻ってこなければならない第一次隊のダメージや苦労を考えると何倍も恵まれている。 緊張感や寒さで2日続けてあまり良く眠れなかったので、朝まで目を覚まさずに熟睡した。
【アタック待ちの日々】
9月25日、B.Cでも雪は一晩中降り続き、積雪は20センチほどとなった。 2日前に出発した時とは全く違う一面の雪景色だ。 ありがたいことに体調は今日も良く、起床前でもSPO2と脈拍は86と58で理想的だった。 昨夜は充分寝たはずだったが、酸素が濃くなったせいか午前中は眠くて仕方がなかった。 B.Cの裏手の氷河では湿雪による雪崩が頻発し、雷のような爆音を響かせていた。 朝食後にAG隊の女性が転んで腕を骨折し、モニカが治療したという話も耳に入った。
アタックステージに向けて体調の管理やモチベーションの向上に努め、一番良い状態で臨めるように仕上げてきたので、再びその状態に戻すことはたやすいことではなく、今日からは本当の意味で休養して気持ちもリセットするように心掛ける。 ここまで全てが順調だったお蔭でまだ予備日が一週間ほどあるのが救いだ。 外国人達は山での生活を楽しんでいるのか、停滞となっても普段と変わりなく明るい。 登頂ばかりを気にして沈んでいるのは私達だけのようだ。 昼過ぎからはSPO2も90まで上がり、脈拍も50台となった。
2時頃になってようやくマニを先頭にC.2からの第一次隊の隊員達がぽつりぽつりと帰還(生還)し、一人一人ラッセルから労われていた。 C.2からC.1の間では部分的に雪は胸ほどの高さもあり、フィックスロープも殆ど雪で埋まっていて、ルートの状態は非常に危なかったとのことだった。 C.1のテントも雪に埋まっていたとのことで、昨夜のうちに下りてきたことは正解だった。
夕食後にラッセルから、天気予報が変わり易くまだ日程に余裕があるので、焦らずに次の登頂の機会をうかがうとの話があった。 現時点ではアタック日を予測することが難しく、今夜もこれから雪となるので、とりあえず明日は休養日にするとのことだった。
9月26日、昨夜は鼻が詰まって良く眠れなかったので体調は今一つだ。 早朝は陽射しもあったが、間もなく小雪が舞い始めた。 予定どおりであれば今日が第一次隊の山頂アタック日だったので、5日前の天気予報は全く外れたことになる。 もはや頼りになるものがない。 今の天気予報は変わり易くて不安定ということなので、アタックステージには一番悪いパターンになってしまった。 長期戦になりそうなので、スタッフ達は全員サマ村に下山し、食糧や埋まってしまったフィックスロープの調達をすることになった。
明日の出発もないと決まったので、朝食後はAG隊のテントに遊びに行く。 ちょうどダイニングテントでトランプをやっていたので、その輪に加えてもらう。 腕を骨折したMさんが添え木をしていて痛々しかった。 隣のテントではAG隊のスタッフ達が気合の入ったバクチをやっていた。 昼前に埼玉岳連隊の大山さんがAG隊のテントを訪れた。 埼玉岳連隊は私達の隊の第一次隊と同じようにC.2に泊まっていたが、早めに見切りをつけて午前中に私達が停滞していたC.1を通過してB.Cに下ったとのことだった。 昼食はAG隊で焼きそばとハンバーグを御馳走になる。 雪はその後も降り続き、3時のティータイムをはさんで夕方までAG隊のメンバーとお喋りをして過ごした。 天気が悪くてヘリがサマ村に飛べなかったため、スタッフ達もサマ村から戻ってこなかった。
夕食後にラッセルから、雪で埋もれてしまった上部キャンプ間のルートの修復を短期間で済ませるため、各登山隊からスタッフの応援をもらい、明後日から共同で修復作業を行うという話しがあった。 一方、私は登頂へのモチベーションを維持するため、“マナスルは登れなかった”という自己暗示をかけることにした。 不安定な天候と当たらない天気予報、そして大雪により、再度アタックに出発しても今回のようなことがあれば、今度こそ時間切れで終わってしまうので、最後まで登頂出来ると期待していると、登れなかった場合の精神的なダメージが大きく、今回のみならず次の山への挑戦にも影響しそうな気がしたからだ。 結果は別として、マナスル登山は終了し、今は別の山を目指して準備を進めていると強く念じた。 人一倍往生際が悪い自分にとってこれが一番良い方法だと思った。
9月27日、予定どおりであれば今日が私達の山頂アタック日だったが、朝から曇っていて昨日以上に悪い天気だ。 それとは裏腹に起床前でもSPO2と脈拍は87と59で今日も絶好調だった。 メールや衛星電話も天気が悪くバッテリーが充電出来ないので使えない。 もう貸し借りしても読む本もなくなり暇を持て余していたので、午前中はダイニングテントでトランプを延々とやる。
昼前から雪が降り始めたが、埼玉岳連隊の細谷さんが情報交換に来た。 先日のアタック時もC.2で三人とも下痢になり大変だったようだ。 埼玉岳連隊は来月の18日にカトマンドゥを発てば良いとのことでまだ日程に余裕があるらしい。 入山はヘリだったが、帰りはカトマンドゥまで陸路を行くとのことだった。
昼食は平岡さんが牛とじ丼(親子丼を作ろうとしたが、鶏肉が無かった)とナスの味噌炒めを作ってくれた。 まだサマ村から生の食材が届かず、三度の食事も一部に缶詰などが使われ始めていたので、前回のチキンカツ定食に続きとても美味しかった。 午後も引き続きダイニングテントでトランプに興じる。 大切な休暇を毎日こんなことに使って本当にやりきれない。 夕方になってようやく雪も止んだので、テントの周りを散歩して冷えきった体を温める。
夕食後にラッセルから、現時点ではアタック日を10月4日と5日に考えているとの話があった。 今日はサマ村にヘリが飛んだので、新しい食糧がB.Cに荷上げされたが、フィックスロープは明日になるとのことだった。 そのヘリでリタイアしたポールが他隊のリタイアした隊員らと下山したという寂しい知らせがあった。
9月28日、アタック待ちの日々も今日で4日目に入った。 本当に何日ぶりだろうか、久々に快晴の朝を迎えた。 太陽の陽射しがとても暖かく感じられ、正にモンスーンが明けたという感じがした。 起床後のSPO2と脈拍は87と65だった。 暖かな陽に当たっているだけでとてもリラックス出来る。 バッテリーの充電も出来たようなので、朝食後に隊の衛星携帯を借りて妻に電話をする。 久々に声が聞けて嬉しかった。
束の間の晴れ間を利用して、隊員一同洗濯をしたり、シャワーを浴びたり、シュラフを干したりすることに余念がない。 午前中に近藤さんや大山さんが情報交換にやってきてしばらく雑談する。 各隊のスタッフ間での情報が錯綜しているらしく、私達のアタック日の予定やルート工作の進捗状況を正確に知りたいとのことだった。
昼食前と夕方の2回、テントの周りを散歩して体を動かす。 新鮮な食材が昨日サマ村からスタッフによって運び上げられたので、食事の内容がとても良くなった。 2週間ぶりにシャワーを浴びると、心身共にとてもリフレッシュ出来た。 5時になると日もすっかり陰って寒くなり、秋の訪れを感じた。
退屈なアタック待ちの日々が続いたせいか、夕食は誰の発案か立食のパーティーとなり、ワインやビールやソフトドリンクがふんだんに振る舞われた。 余興で軍人チームの代表によるクイズの出題が延々と続き(例えばニュージーランドでノーベル賞を受賞した人の名前を答えるとか全部で60問)隊員一同大いに盛り上がったが、途中で眠くなってしまったので一足先に寝てしまった。
9月29日、雲は多いが雪が降りそうな悪い天気ではない。 B.Cに来てから1か月近く経つが、季節はすっかり秋になり、朝の冷え込みが厳しくなってきた。 テントサイトの傍らを流れている氷河からのいく筋かの沢も水流の細いものは凍っていた。 各隊とも長期戦で食糧が不足しているのだろう、早朝から10頭ほどのヤクがサマ村から上がってきていた。 今日も退屈で長い1日となりそうだ。 起床後のSPO2と脈拍は89と66だった。
朝食後にラッセルからアタックのスケジュールについての説明があり、先日の天気予報は変わってないので、一次隊は明日の30日に出発して10月4日にアタック、二次隊は明後日の1日に出発して5日にアタックすることが決まった。 今日は未明からスタッフが総出でC.2に向けて出発し、雪に埋もれたフィックスロープとテントの掘り出しを行い、明日からはC.2からC.4までのフィックスロープを張り直してルート工作を行うとのことだった。 尚、アタックのスケジュールに合わせて10月8日にサマ村を発つ帰りのヘリの予約も済ませたとのことだった。 アタック日やヘリのフライトの日程が決まり、緩みきった気持ちが一瞬引き締まったが、心の中ではすでにマナスルは終わったことにしていたので、このラストチャンスに対しても気負いは無かった。
早朝は曇っていたが天気は次第に良くなり、午前中はるみちゃんを散歩に誘って雪に覆われたモレーンの背を登る。 藤川さんもザックを担いで登ってきた。 途中ですれ違ったAG隊のWさんと雑談を交わすと、AG隊はアタックステージを男性チームと女性チームの2つに分け、アタック日はそれぞれ10月5日と6日になったとのことだった。
昼食は平岡さんが五目炊き込みご飯を作ってくれ、外国人隊員達も興味深そうに味見をしていた。 ウォーリー(アメリカ)との雑談の中で、たまたま私達の出発日が明日だという話が出たので、慌てて平岡さんがラッセルに確認すると、昨夜一般チームと軍人チームのアタック日を入れ替えることが急遽決まったが、平岡さんの耳には入ってなかったようだ。 軍人チームは若いので、アタック日にC.2に泊まらずそのままB.Cまで下山出来るというのが理由だった。 出発日が明日になったので午後は装備や食糧の最終チェックをして過ごした。
【B.CからC.4へ】
9月30日、夜中に風がテントを叩いた。 今までB.Cで風が吹いたことは一度もなかったので、昨日の風はモンスーン明けのジェット気流の前兆なのだろうか。 気負いは全く無かったはずだが、肝心な時に鼻づまりで良く眠れず、寝不足で朝から脈拍が71と高かった。 今日も雲は多いが昨日と同じように悪い天気ではない。
ポールが下山したので今回の第一次隊の隊員は3名のガイド(デーブ・ハイメ・平岡さん)を除くと、私達4人の日本人の他、無酸素登頂を目指すピエール(フランス/男性)とビリー(ドイツ/女性)、そしてヘルバート(ドイツ/男性)・デービット(イギリス/男性)・ウォーリー(アメリカ/男性)・ヴォルデマース(ラトヴィア/男性)・クリスティーヌ(ラトヴィア/女性)の11人となった。 セルゲイ(ロシア/男性)はスキー滑降のため、チーフガイドのエイドリアンと共に第ニ次隊になった。
朝食をゆっくり食べ、9時半前に外国人隊員達よりも一足早く全員一緒にB.Cを出発する。 埼玉岳連隊も私達と同じ10月4日の登頂日を選んだようで、モレーンの背を登って行く姿が見えた。 出発直前にモニカから一人一人ハグをされ、熱烈な見送りを受ける。 モニカは「山頂からの無線のコールを楽しみに待っています!」と言って送り出してくれた。
モレーンの背に積もった雪の上のトレースを辿って30分ほど登ると、先行していた埼玉岳連隊に追いついた。 B.CからC.1への登りは今回で5回目だったが、降雪によりB.Cからずっと雪の上を歩くようになったので、少しだけ新鮮味があった。 クランポン・ポイントまでは埼玉岳連隊と相前後して登ったが、歩きにくいガレ場が雪で登り易かったこともあり、今までで一番早く1時間半足らず着いた。 今日もクランポン・ポイントからは各々のペースで登っていく。 氷河上のトレースは各隊の往来で溝のように踏み固められていたが、B.Cで5日間も休養していた割には足が重く、今一つ調子が上がらない。 工藤さんは今日も絶好調のようで、その差はどんどん開いていく。 天気は晴れて暑いかと思うと、急に曇ってきて冷たい風が吹いたりして安定しない。
1時半前にC.1に着くと、隣にはAG隊のテントがあった。 他の隊のテントは無かったので、埼玉岳連隊は上のC.1のようだ。 前回とほぼ同じ4時間で着いたが、今までで一番疲れた感じがした。 案の定、間もなく軽い下痢の症状があらわれ、お腹の調子が急におかしくなった。 声も少しかすれ気味だ。 C.1に着いた順番でテントに入ることにしていたので、今日も工藤さんと一緒になる。 SPO2と脈拍は87と97で、疲労のバロメーターとなる脈拍がかなり高かった。 昨日綿密に行った食糧計画をもう一度見直し、ギリギリまで明日以降の荷物を減らそうと思案する。
午後は水作りに追われながらも体を温めることに専念したので、夕方にはお腹の調子も良くなり安堵する。 夕食もフリーズドライのカレーを完食することが出来た。 夕食後はあまり寒さを感じなくなり、脈拍が78にまで下がった。 明日は5時半に出発するとのことだったが、日没後から小雪が舞い出し、前回と同じような状況になった。 すでに心の準備は出来ていたので、気持ちの焦りは少なかったが、明日は何とかC.2まで辿り着けることを願わずにはいられなかった。
10月1日、エアーマットはC.2にデポしてあるので代用品のテントマットで寝たが、寒さと地面の凹凸が気になり殆ど眠れなかった。 4時過ぎに起床して外の様子をうかがうと、ありがたいことに満天の星空だった。 昨日の下痢が怪我の功名となり、未明に用を足すことなく予定どおり5時半過ぎにC.1を出発。 寝不足の割には不思議と昨日ほど足は重たくない。 風もなく、今までで一番良い天気になりそうな予感がした。 C.1からC.2の区間が一番の核心なので、この天気は本当にありがたい。 前回の順応ステージの時に見た素晴らしい山々の景色が今日も同じように蘇ってくる。 C.1からは積雪量が一段と増し、トレースの溝は深い所で50センチほどにもなっていた。
1時間足らずで上のC.1に着くと、前回にも増して30張り以上のテント村となっていた。 スタッフ達の尽力のお蔭でルートは前回の順応ステージの時とほぼ同じで、フィックスロープも完全に修復されていた。 相変わらず風もなく穏やかで絶好の登山日和だ。 各隊が一斉にアタック体制に入ったため、急斜面のフィックスロープの所では少し待たされることもあった。 セラック帯の中間部の休憩ポイントに着くと、高度障害で苦しんでいる最年少のクリスティーヌをガイドのデーブや同じ国の父親のような存在のヴォルデマースが一生懸命励ましている光景が見られた。 間もなく上のC.1から登ってきた埼玉岳連隊も休憩ポイントに着いた。
天候も安定しているので、休憩ポイントからは各々のペースで登ることになった。 作戦どおりユマーリングなどで極力無駄な筋力を使わないよう意識して登る。 今度こそ本当にモンスーンが明けたのだろうか、空の色は群青色のヒマラヤンブルーとなっていた。 気温の上昇と共に雲海が徐々に上がってくる。 セラック帯を過ぎ、C.2まであと僅かとなると暑さが急に増してきた。 外国人隊員の最高齢のデービットが座り込んでいる。 6000mを超える高さで私も長袖のアンダー1枚となった。 今日は工藤さんもペースが上がらず、途中から私が先行する。
正午前に前回よりも少し早く6時間少々でC.2に着き、B.Cに無線で連絡を入れる。 C.2のテントは全員で泊まった前回の順応ステージの半分になり、その跡地には他の隊のテントが張られていた。 デポ用のテントからデポ品を回収し、空いているテントに入る。 間もなく工藤さんが着いたので、今日も工藤さんと同じテントになる。 暑さで脱水気味だったので、休む間もなく水作りを始める。 昼食は行動食のチーズとクラッカーだ。 テントの中は陽射しがあると暑いが、陽が陰るとその反動もあってとても寒く感じる。 C.2以降は装備や携行品は同じになるので、C.2までに使ったジャケットやオーバーパンツなどとこれから使う羽毛服の上下などを入れ替える。
夕方のSPO2と脈拍は84と78で、昨日とあまり変わらない数値になり驚いた。 動悸も少なくなり、何とか幸せにC.2の夜を過ごせそうだ。 夕食は一人前食べられると思ったが、食欲はあまり湧かず、アルファー米を3分の1ほど残した。
10月2日、5時半に起床。 前回の順応ステージでもそうだったが、6000mを超えるC.2(6300m)での宿泊は体への負荷が大きく、B.Cでは順応している体にもダメージを与える。 前回の順応でC.2に泊まった時からすでに2週間が経過してしまったので、その効果も殆ど感じられなかった。 相変わらず食欲はあまり湧かず、朝食は昨夜残したアルファー米に塩昆布を入れた茶漬けとポタージュスープで充分だった。
7時過ぎにC.3(6700m)に向けて出発する。 昨日のような快晴ではないが、風も無く良い天気だ。 朝の冷え込みは今までで一番厳しかったが、陽が昇ってからは暖かくなり、厚い羽毛服の上下ではどうみても過剰装備だ。 前回の高度計の記録ではC.2からC.3の間の標高差は400m足らずであるばかりか単調で登り易い斜面のみなので、天気と体調さえ良ければ昨日と比べて全く気楽なものだ。 ただAG隊や埼玉岳連隊のようにC.3での睡眠時に酸素を使わないため、昨日にも増して無駄な筋力を使わないよう、また体内酸素の温存を心掛けて登る。
C.2を出発して間もなくクレバスに向かって一旦少し下って登り返す所があるが、その後はC.3まで幅の広い緩やかな勾配の氷河が続くので、所々に他の隊のキャンプ(C.2)が設けられていた。 私達の隊はキャンプを4つ出しているが、3つの隊も結構あるように思えた。 相変わらず風は無く穏やかだが、山頂付近や稜線では強風により雪煙が舞っているのが見えた。
体感気温は高いが気温は低いので、C.2から上では雪が良く締まっていてトレースが薄い。 最初の1時間ほどはそれなりのペースで登れたが、標高に比例して次第に足が重たくなってくる。 途中で暑さに耐えきれず厚い羽毛服を脱ぐ。 前回はシングルの登山靴で空身に近かったこともありそれほど苦しまなかったが、今日はC.3が見えてからは酸欠で足が全く言うことを聞かなくなり、最後の50mを登るのに1時間近くかかってしまった。
11時前にヘロヘロになってC.3に到着。 予想に反してC.2からは3時間半近くを要した。 体内酸素の温存を心掛けて登ったつもりが、図らずもすでに体内酸素を使い果たしてしまった。 他の隊は眼前の雪壁の上のコルや私達よりも少し下の斜面にC.3を建設していたが、私達の隊のテントは今にも崩れそうな雪壁の真下にへばり付くように設営されていた。 確かに地形的には稜線の風がテントに直接当たらないが、背後の雪壁が少しでも崩れたら一巻の終わりだ。 そこを敢えてキャンプ地にしたのは、素人の私には計り知れない何らかの理由があるのだろう。 今日も先に到着した工藤さんと一緒にテントに入ったが、前室部分は空洞状態でテントへの出入りもはばかられた。 日課の水作りもままならず、雪は雪壁から後室に吹き込んでくる雪を利用する始末だ。 スタッフから明日の行動用の酸素ボンベが配られた。 親日家のウォーリーが高度障害に苦しみ、途中で引き返したということが後で分かった。
稜線から吹き込んでくる風は冷たく、3時過ぎには陽が当たらなくなってしまったのでテントの中でも寒かった。 酸欠の体はどんどん消耗していく一方なので、地道に水分の補給と深呼吸を繰り返して体調の管理をする。 酸素が吸える明日の朝までの辛抱だ。 平岡さんからも今晩が一番の頑張りどころだと気合を入れられる。 遅い昼食はポタージュスープとおしるこ、夕食はとうとうアルファー米が半分しか食べられなくなった。 SPO2は常に70台前半しかなく、脈拍も80台以下には下がらなかった。 工藤さんはいつもどおり安らかに寝てしまったが、このまま普通に寝てしまうと朝にはSPO2が50台になってしまうことは必至なので、寝ながら深呼吸を定期的に行い、敢えて眠らないようにした。
10月3日、長い夜が明け6時前に起床。 夜中に少し雪が降ったが、明け方には止んでいた。 昨夜は熟睡してないこともあり、今のところ目立った高度障害はない。 天気も良いのか悪いのかはっきりしないが、とにかく最終キャンプ地のC.4(7400m)に向けて行動するのみだ。 今日からは初めて登るルートとなるが、C.3からC.4の間は急斜面や蒼氷が出ているところがあり、C.1からC.2の間に次いで登りにくいルートのようだ。 それ以前に今日は初めて酸素を使うので、その期待と不安で胸が一杯だ。 天気予報では天気は良いが風が少し吹くとのこと。
B.Cで何度も練習したとおり、まず酸素ボンベとレギュレターを接合し、次にレギュレターと酸素マスクのゴムホースを接合し、レギュレターの圧力計の目盛が20(半分)以上あることを確認し、息を止めて混合器が酸素で膨らむことを確認する。 最後にレギュレターのダイヤルを指示された毎分2リッターに合わせた。 平岡さんから「酸素は8時間しか持ちませんから、その時間内でC.4に着くように」とハッパを掛けられる。 テントの立地が悪いので準備に時間が掛かる。
予定よりも少し遅れて隊の最後尾で8時にC.3を出発すると、ちょうど下から登ってきた他の隊と一緒になってしまい、その後ろについて登り始める。 昨日の最後の登り方が非常に悪く、今日は昨日よりもさらに体が酸欠状態なので、いくら酸素を吸ったからといってC.4までまともに登れるかどうか心配だったが、初めて吸った酸素の効果は想像以上に絶大で、今までどおり足が普通に上がり息も切れない。 C.3の背後のコルに上がるまでは少し傾斜がきつかったが、ゆっくり登れば休まなくても登り続けられることが分かった。 コルに上がると、前方にはすでに大勢の人がさながら芥川小説の『蜘蛛の糸』のようにフィックスロープに繋がっている姿が見えた。 私達の隊と同様にこの日を待ちわびていた他の隊も一斉に動き出した訳だから無理もない。 無酸素の人も結構いたが、最後(山頂)まで無酸素なのだろうか。 天気は雲の間から薄日が射す程度だったので、羽毛服の上下を着ていても暑くはなかった。
生憎フィックスロープはずっと渋滞気味だったが、先行者のお蔭で階段状のトレースが出来上がっていたので、ユマールに頼ることなく省エネで登ることが出来た。 酸素を吸いながらの行動にも慣れてきたので、渋滞で足が止まっている時に酸素マスクを外してお湯を飲んだり鼻水をかんだりする練習をする。 傾斜は次第に増していくが、フィックスロープを外れて休めるような場所は無く、いい加減荷物の重さに疲れてくる。 正午を過ぎるとようやく渋滞は解消し、誰かが休むために雪を削った僅かなスペースを見つけてザックを下すことが出来た。 幸か不幸かすでに7000mを超え、C.4までの半分以上の標高差を稼いでしまった。 ありがたいことに天気は次第に良くなり、風も殆ど感じない程度だったので、C.4まで辿り着ける目処が立った。
休憩した地点からも引き続きフィックスロープが張られた急斜面が続く。 山頂はまだ見えてこないが、B.Cから仰ぎ見ていた山頂直下のピナクルはもう手の届きそうな高さとなり、雲に覆われたマナスル北峰(7157m)はすでに目線の下になっていた。 C.4の手前のトラバースの所ではいつも蒼氷が出ているとのことだったが、降雪によりそれらは全て雪に覆われ全く問題なく通過することが出来た。 しばらくすると傾斜が緩み始め、C.4が近いことが分かった。 地形的にこの辺りから風が強まると思っていたが、不思議と風は全く無く、今日の核心と思われた所もマイペースで登れた。 斜面の傾斜が無くなると前方に私達の隊のC.4のテントが見え、左手にはピナクルの右に待望のマナスルの山頂が望まれた。
2時半に最終キャンプ地のC.4(7400m)に到着。 酸素のお蔭で昨日とは全く違う足の運びで最後まで登ることが出来た。 今日はるみちゃんが一番に着き、すぐ後から工藤さんが、しばらくして藤川さんが平岡さんと一緒に到着した。 快晴無風のC.4からは山頂が手の届きそうなさに見え、明日の天気が悪いということであれば、このままもう登ってしまいたいような気分だった。 皆も一様に元気で、その表情には高所とは思えない余裕すら感じた。
意外にもC.4に到着してからすぐにラッセルから無線で、明日のアタックに同行するスタッフの変更と出発時間の指示があった。 意外にも明日は山頂を目指す人がスタッフを含めると100名前後になると見込まれるため、出発時間を当初予定していた3時前後ではなく、渋滞を避けるため普通のアタックでは考えられない5時半にするとのことだった。 何も知らない他の隊は私達の隊に何か異変があったのではないかと驚くに違いない。 私に付くスタッフはニナ・テンジンという名前で、年齢を聞くとまだ20歳という若さだったので驚いた。 私のみならず皆も若いスタッフに切り替わったので、これにはきっと何か理由があるのだろう。
スタッフからアタック用の酸素ボンベと睡眠用の少し短い酸素ボンベが配られたが、今日の分の酸素がまだ残っているので、1リッターに減らして吸い続ける。 今日は本当に酸素の効果を実感した一日だった。 明日のアタックでは今日の2倍の毎分4リッターの酸素が吸えることになっているが、明日はボッカもないので今日の倍の酸素を吸ったら本当に普段のペースで登れてしまうだろう。 天気予報では明日は良い天気になるとのこと。 予報どおり良い天気がこのまま続けば登頂の可能性は非常に高いが、この高さでは何が起こっても不思議ではないので、引き続き登頂への期待はしないように努めた。 昨日のウォーリーに続き、今日は外国人最高齢のデービットが高度障害に苦しみ、途中で引き返したということが後で分かった。
水作りをしながら早めの夕食を食べる。 脈拍は80台とまだ高いがSPO2は80台あり、C.2と同じくらいの食欲があった。 未明に用足しに行かなくて済むように、指定されたテントサイトの裏の岩場に行く。 ちょうど日が落ちるところだったが、陽射しが無くなるとそれまでの暖かさが嘘のように極端に寒くなった。 酸素ボンベを睡眠用のものに交換し、レギュレターのダイヤルを指示された毎分0.5リッターに合わせる。 今晩は初めて酸素を吸っての睡眠となる。 行動中と違って違和感があると思われたが、僅か0.5リッターでも息苦しくないばかりか指先や体が温まり、まるで酸素療養を受けているような感じがした。 酸欠で苦しんだ昨晩からは想像も出来ないことだ。 図らずもSPO2の数値以上に体は楽になり、気が付くと日付が変わる頃まで熟睡していた。 目が覚めるとお腹の虫が鳴っていた。 それまで鈍っていた胃腸の機能が酸素によって回復し、消化が早まったようだった。
【山頂アタック】
10月4日、B.Cと同じくらいの深い眠りから覚めて4時前に起床する。 図らずも酸素の効用で食べ物の消化が早まり用足しに行きたくなってしまったが、この時間帯ではそれなりの時間と労力を要するので我慢することにした。 その辺りの微妙な“調整”をしていたため準備に時間が掛かってしまい、出発が予定より少し遅れて5時半過ぎになってしまった。 るみちゃんと工藤さんはすでに予定どおり5時半に出発していった。 出発直前に睡眠用と登山用の酸素ボンベを交換し、レギュレターのダイヤルを指示された毎分4リッターに合わせる。 すでに周囲は明るくなり、ヘッドランプはテントに置いていく。 前方には次々と登って行く人の姿が見えた。 スタッフのニナ・テンジンは前ではなく後ろについて登るようだ。 ありがたいことに風は無く、空には一片の雲も見えない。 朝焼けに染まる背後の山々が美しく、のっけから写真を撮りながら登る。 前だけではなく後ろからも次々と人が登ってくる。
今日は昨日の倍の毎分4リッターの酸素を吸って登り、4時間後に新しい酸素ボンベと交換する。 スペアの酸素ボンベは同行するスタッフが背負って登るのが一般的だが、今回は別のスタッフがルート工作を兼ねて先行し、山頂の手前に酸素ボンベをデポしてあるようだ(埼玉岳連隊は3時半頃にC.4を出発したが、途中で私達の隊のスタッフに追い越されたとのことだった)。 無酸素で登っている人を所々で追い越しながら登って行くと、それなりに前後の間隔があいてきた。
4リッターの酸素の効果は絶大で、昨日の経験も手伝って装着していることに対する違和感やストレスは全く無く、プラスの効果だけを実感する。 息切れせずに日本の山をテント泊装備の荷物を担いで登るくらいのペースで足を止めずに登れる。 今日は昨日より荷物が軽いのでさらに楽だ。 慌しく出発したのでオーバー手袋はまだザックの中で、薄手の手袋の上に厚手のフリースの手袋をしただけだったが、結局最後までオーバー手袋もダウンミトンも使わなかった。 気温は低い(埼玉岳連隊の話では夜中の2時で外気温はマイナス25度だったとのこと)が、これも明らかに4リッターの酸素のなせる業だ。 8163mのマナスルなら3リッター位が一般的だろう。 酸素の使い方や出発時間の決め方など一連のラッセルのタクティクスには感心したが、やはりC.3では睡眠用の酸素が欲しかった。
間もなく先行していたるみちゃんに追いつくと、同行のスタッフが勝手に酸素の流量を2リッターにしてしまったとボヤいていた。 昨日急遽スタッフが変更したこともあり、その辺りの指示がきちんと伝わってなかったようだ。 4リッターの酸素を吸ったるみちゃんは、足早に私を追い越していった。 もしかしたら体が小さい分、同じ酸素の流量でもそれ以上の効果があるのかもしれない。 最初のフィックスロープが張られたやや急な斜面を登り終えると、正面から強烈な太陽の光が当たり始めた。 おあつらえ向きにフラットな場所があり、るみちゃんと工藤さんが休憩していたので私も迷わず一服する。 時計を見ると8時だったので、時間的にはもう半分過ぎたことになる。 相変わらず天気が良く風も無かったので、ついついのんびりと20分ほど休んでしまう。 登頂前には全く想像もしていなかった緊張感の無さだ。
最後尾で登ってきた藤川さんと平岡さんと入れ違いに山頂に向かう。 太陽が正面からまともに照り付けて眩しいので、フリースの帽子と目出帽を脱いで日除けの帽子に替える。 しばらく登ると暑くなってきたので、羽毛服のファスナーも開け、手袋も薄手のもの1枚となる。 8000m峰の登山とは思えない暖かさに驚く。 足は酸素のお蔭で全く重たくなく、気持ちはますます軽くなる。 周囲の6000m峰はどんどん低くなり、空は真っ青なヒマラヤンブルーだ。 あれほど天気に翻弄され続けた日々が全く嘘のようだ。 るみちゃんと工藤さんは前方にはっきりと見えるが、後ろの藤川さんと平岡さんは他のパーティーに紛れてはっきりと判別がつかない。
間もなく前方にデポしてある酸素ボンベが見えてきた。 時計を見るとちょうど9時で、かなりゆっくり登っても制限時間内に着いた。 ニナ・テンジンに酸素ボンベを換えてもらうが、天候が良いので待っている間も全く苦ではなく、写真を撮ったりしながら眼下の雄大な景色を堪能した。 しばらくすると手先が冷たくなってきたので手袋を二重にしたが、後でニナ・テンジンが流量を毎分2.5リッターにしていたことが分かった。
上空には相変わらず雲一つなく、少なくとも午前中は雲が湧くことはないだろう。 図らずも今日が今シーズン一番の登山日和となった。 2本目のフィックスロープが張られた斜面を登っていると、B.Cからいつも仰ぎ見ていたピナクルの岩峰が目線の高さになり、そしてついにそれも眼下となった。 もう山頂は指呼の間に見えるが、いつものように“好事魔多し・・・”というフレーズが頭に浮かんでくる。 その直後にヘルバートが登頂したという声が無線から聞こえてきた。 間もなくハイメを先頭にヘルバート、ヴォルデマースそしてクリスティーヌの3人が相次いで下ってきた。 山頂まであと10分で着くとのことで、これで本当に登頂を確信した。
頂稜部に連なる小さな岩峰の基部を左からトラバースすると、その先の平らなコルと尖った狭い山頂付近に大勢の人がいるのが見えた。 登る前は当然のことながら登頂の感動は大きいと思っていたが、いつものように目頭が熱くなるということはなく、また良く耳にする“早く下りたい”とか“もうこれ以上登らなくて済む”という発想も全く起きない。 ただ単に“次の山に繋げるために登れて良かった”、“結果を出せて良かった”という安堵感だけが頭の中を支配していた。
10時半前に山頂直下の平らなコルに到着。 C.4から僅か5時間足らずだった。 埼玉岳連隊の3人がすぐ近くにいたが、酸素マスクなどで分からなかった。 コルでしばらく順番待ちをしていると、るみちゃんと工藤さんが相次いで山頂から下りてきたのでお互いの登頂を喜び合う。 コルから少し先の岩の基部まで登り、そこでまた順番待ちをする。 前のイタリア隊が山頂に長居していたので、結果的に30分以上待たされたが、風もなく穏やかなので全く苦にならない。 周囲の景色を充分過ぎるほど堪能し、写真を撮りまくる。 間もなく藤川さんと平岡さんも到着した。 これでメンバー全員の登頂も叶った。
11時になってようやく待望の8163mの山頂に立つ。 山頂は1人がやっと居られるだけのスペースしかない雪庇の基部だった。 雪庇の上は危ないので登ることが出来ず、反対側の景色を見ることは叶わなかったが、それは登頂前から分っていたことなので悔しさはない。 山頂に立ってもなお涙は出なかった。 やはり快晴無風の天気と潤沢な酸素で今日の登りが一番楽だったせいだろうか。 酸素マスクを外して8163mの空気を胸一杯に吸い、ニナ・テンジンに登頂の写真を撮ってもらう。 意外にもニナ・テンジンもデジカメを持っていて、私に山頂での写真を撮ってくれという。 それまで控え目だった彼の山頂でのガッツポーズは私よりも気合が入っていた。 藤川さんを狭い山頂に招き、一緒の写真に納まった。
山頂直下のコルに戻り、藤川さんとあらためてお互いの登頂を喜び合い、マナスルに誘ってくれた平岡さんにも感謝の気持ちを伝えた。 B.Cへの連絡を平岡さんがしてくれたので、少し休んでから下山するという二人と別れて先に下山する。 間もなく無酸素で登ってくるビリーとすれ違った。 ペースはゆっくりだが足取りはしっかりしているので、登頂は間違いないだろう。 長いフィックスロープを2本下ると傾斜の緩い広い雪原となった。 登山家の小西政継さんが悪天候でルートを見失い遭難した場所だ。 強烈な陽射しと照り返しで暑く、とうとうダウンジャケットを脱ぐ。 山頂から僅か1時間半足らずでC.4に到着すると、すでに二次隊の軍人チームのメンバーも到着していた。 二次隊を指揮するチーフガイドのエイドリアンから祝福を受ける。 登頂の余韻に浸りながらゆっくりしていきたいところだが、二次隊にテントを明け渡さなければならないので、休む間もなく個人装備を荷造りしてニナ・テンジンと一緒にC.2へ下山する。 酸素の流量を毎分2リッターに切り替える。
昨日ほどではないが、次々とC.3から登ってくる各隊の人達と急斜面のフィックスロープですれ違わなければならず煩わしい。 間もなく明日アタック予定のAG隊の近藤さんとFさんら3人の女性陣と相次いですれ違ったのでエールを送る。 少し遅れて腕を骨折しているMさんが終始うつむき加減で登ってきたので驚いた。 その先で先に下山した工藤さんが座り込んで休んでいた。 さすがの工藤さんも少し疲れている様子だった。 藤川さんと平岡さんもじきに下ってくるので、一声かけて先に下山する。 気温の上昇で7000mを境に雪が脆くなり、時々足を取られて尻餅をつく。 昨日はすっきり見えなかったC.3の周囲の景色が今日は良く見えたので退屈することはなかった。
C.4から休まずに下ったので、僅か1時間半でC.3に着く。 C.3でデポ品を回収していると、ニナ・テンジンが酸素ボンベを新しいものに交換してくれた。 もう酸素は無くても大丈夫だと思うが、その方がスタッフも荷下げの都合が良いのだろう。 C.3からは傾斜が緩むのでC.2まではもう楽勝かと思ったが、シャリバテや気の緩みで次第に足が重たくなった。 気が付くと、出発してから殆ど行動食を食べてなかった。 先ほどまでの喧噪が嘘のように周囲には人影が少なくなった。
長い一日が終わり、4時半にC.2に着いた。 テントサイトはすでに日陰になっていたので、皆テントの中で休んでいた。 先に着いていたるみちゃんとあらためてお互いの登頂を喜び合い、B.Cへ無線で連絡する。 ガイドのハイメや他のメンバーもテントから顔を出して祝福してくれた。 装備を解きようやく身軽になったが、休む間もなく水作りを始める。 ありがたいことに隣のテントのクリスティーヌから思いがけず1リッターの“力水”(お湯) が届いた。 水作りをしながら工藤さんや藤川さんらの到着を待つ。 工藤さんは日没前に、藤川さんと平岡さんは暗くなってからC.2に着いたが、二人ともかなり疲れているようだった。 工藤さんは靴を脱がずにそのまま1時間ほど横になって動かなかった。 藤川さんは平岡さんの勧めで酸素を吸ったまま寝たようだった。 もう何も心配しなくて良いので、デポしておいた食糧をお腹が一杯になるまで食べ、登頂の余韻に浸りながら最後のC.2での夜を過ごした。
10月5日、夜中に初めてC.2で風がテントを叩いた。 今日は山頂もきっと風が強いだろう。 最後のC.2での泊まりもやはり快適とは言えず、疲れてはいたものの興奮と酸欠であまり良く眠れなかった。 風のため二次隊の出発は6時半になったようで、私達一次隊は本当にラッキーだった。
工藤さんは相変わらず疲労の色が濃く、朝食や出発の準備も遅れがちだったので、私と藤川さんとるみちゃんの3人で先にB.Cへ下山することになった。 外国人隊員達は8時に、私達は少し遅れて8時半にC.2を出発した。 排泄物やゴミ、そしてC.2でのデポ品が加わったので、荷物は今までで一番重い15キロほどとなった。 最後の最後で荷物が重くて嫌になるが、登頂出来ずにこの重荷を背負って下山しなければならないことを思えば何とか耐えられる。 C.2から下では風も無く、天気も昨日と同じくらい良いので気は楽だ。 昨日・今日・明日の3日間が各隊のアタック日になったので、ルート上には下のキャンプ地から登ってくる人の姿は無い。 核心部のセラック帯を過ぎてC.1が近づいてきた頃、工藤さんの歩みが捗らないのでB.Cに着くのは夕方になるという平岡さんの声がトランシーバーから聞こえてきた。 ラッセルからC.3にいるスタッフへ酸素ボンベを持って工藤さんの下山をサポートするようにとの指示があり、それほど体調が悪くなってしまったのかと驚いた。
11時にC.1に着くと、意外にも私達の隊のテントは全て撤収されていた。 C.1にデポした個人装備はスタッフがB.Cに下してくれたようで助かった。 B.Cと平岡さんにトランシーバーで連絡し、しばらく休憩してからB.Cへ下る。 今まで何度ここを往復したことか。 今日に限って雲が湧かず、照り返しがきつくてとても暑い。 るみちゃんは荷物が重くてペースが上がらず、クランポン・ポイントからは藤川さんと二人で先行する。
B.Cが近づくにつれてモレーン上の雪は少なくなり、眼下に見えてきたB.Cにはすっかり雪が無くなっていた。 100mほど手前でモニカが手を振っているのが見えてきた。 もう姿も見えているのに「ベースキャンプ、ベースキャンプ、ジャパニーズチーム、ヨシィーキアンドマコト、カムバック、ナ〜ウ、オバ!」とトランシーバーに向かって興奮しながら叫ぶ。 何故か山頂に着いた時よりも嬉しかった。 背中の荷物の重さも忘れて走り出し、真っ先にモニカとハグ、そしてラッセルとも固い握手を交わした。 登れなかったウォーリーも自分のことのように登頂を喜んでくれたことが嬉しかった。 早速、藤川さんとビールで乾杯した。 間もなくるみちゃんも到着。 その直後に無線から工藤さんがC.1に着いたという知らせが届いて安堵した。 工藤さんはだいぶ元気になったとのことで平岡さんが先に下山。 夕方前に工藤さんも元気に下山してきた。 結果的に日本人チームは全員登頂・無事下山出来て本当に良かった。 これで全てが終わった。
夕方、二次隊もマニを先頭に次々とアタックを終えて山頂から長駆下山し、結局一人も残さず全員が日没前にB.Cに下山してしまうという離れ業をやってのけた。 登山隊としても大成功だろう。 埼玉岳連隊に登頂の報告に行く。 夕食はステーキ、デザートはもちろんサミットケーキだ。 最年少のクリスティーヌが入刀する。 ダイニングテントはもうお祭り騒ぎだ。 その後のことは全く記憶に残っていない。
【B.Cからカトマンドゥへ】
10月6日、早朝から雲一つない快晴の天気だ。 今日はAG隊の男性チームのアタック予定日だが、私達と同じように良い天気に恵まれていることだろう。 今日あたりが各国の登山隊の最終アタック日となりそうだ。 念の為、起床前にSPO2と脈拍を測ってみると89と54で、アタック前と変わらなかった。 体はまだ相当疲れているのだろうが、登頂出来た嬉しさでいつもと同じような動きが出来る。 逆に天気や体調管理などの心配事が全く無くなったことで体が軽いくらいだ。 カトマンドゥへのヘリでの帰還は明後日なので、明日もB.Cに滞在することになるが、これは予想に反して昨日のうちに全隊員と全スタッフがB.Cに下山出来たためで、本来は今日が登山活動の終了日だった。 サマ村へも下りられるが、順応していれば色々な環境が整ったB.Cの方が楽だ。
マナスルを眺め登頂の余韻に浸りながら、午前中は貸与されたトランシーバーや酸素マスクの返却をしたり、カトマンドゥまで陸路で運ぶため明日サマ村に下してもらう荷物の整理をする。 今回初めて使った酸素マスクの『TOP・OUT』(トップアウト)の値段は1000ドル位とのことだったが、使用感がとても良かったので、思わず次の高所登山のために買って帰ろうかと思った。 午後は通信状態も良くなったので妻に電話を入れ、登頂の成功と無事に下山したことを伝えた。 平岡さんから、アタックステージの間にブログに書き込みをいただいた友人からの応援メッセージを読み上げてもらったが、皆も自分のことのように登頂を喜んでくれて本当に嬉しかった。
夕方から登山活動終了のセレモニーがあり、ラッセルから今回の登頂の成果の説明とスタッフ達を労う挨拶があった。 夜は当然のことながらパーティーとなり、地酒を酌み交わしながら、お決まりのシェルパダンスが一晩中延々と続いたが、登頂した私達隊員よりも一仕事を終えたスタッフ達の方が今日は嬉しそうだった。
AG隊のSさんがシェルパダンスの写真を撮りがてら遊びに来たので、早速AG隊の女性チームの登頂報告を伺う。 Sさんの話では、腕を骨折しているTさん以外の3人は登頂出来たが、風が強かったので早朝から登ることが出来ず、FさんはC.4まで、Sさんともう一人のSさんもC.3までしか下れなかったとのことだった。 また、Tさんは前日C.4に到着したのが夜の8時になり、登頂を断念したとのことだった。 以前この隊に参加したことのあるSさんが登頂したことはすでにスタッフの耳には入っていたようで、サーダーのプルバが強引にシェルパダンスの輪の中にSさんを招き入れた。
10月7日、山頂付近の風の強さは分からないが、今日も午前中は快晴に近い天気となった。 朝食前にAG隊のスタッフのダ・デンディが血相を変えて平岡さんのところにやってきた。 Tさんの左手の指が凍傷で全部ジャガイモのような状態になってしまい、サマ村からカトマンドゥへのヘリはチャーター出来たが、サマ村への下山に付き添うスタッフが3人必要なので、HIMEX隊からスタッフの応援を頼みたいとのことだった。
朝食後はスタッフ達へのボーナスを集める。 クライミングスタッフには一人当たり250ドル、キッチンスタッフには150ドル、合計400ドルを手渡すことになった。 危険なルート工作やキャンプ地の設営、登頂のアシストなどをしてもらったスタッフ達にあらためて感謝の気持ちを込めてお礼をした。 彼らの献身的なサポート無しではとうていマナスルには登ることが出来ないことは言うまでもない。
明日は未明に荷物をまとめ、6時にB.Cを発つことになり、それに合わせて共用テントの解体などの撤収作業が始まった。 今日B.Cを発つ隊も多いようで、目に見えて周囲のテントの数が減っていくのが分かる。 午後にはスタッフ達の大半が荷物を背負ってサマ村に下りてしまい、他の隊同様に私達のテントサイトも物寂しくなった。
荷物の整理を済ませ、3時にAG隊のテントを訪問する。 すでに昨日登頂した男性チームのWさんとKさんも無事下山していて元気に迎えてくれた。 Kさんは工藤さんや藤川さん同様に手の指が軽い凍傷になっていた。 Wさんの話では昨日の山頂は風もなく穏やかで、またAG隊以外の隊は殆どいなかったので静かなサミットを楽しめたとのことだった。
10月8日、4時半に起床すると、夜中に雪が降ったようでテントが白くなっていた。 ダイニングテントでお湯をもらい、朝食にアルファー米の余りを食べる。 予定どおり6時に1か月以上滞在したB.Cを出発する。 もう二度とここを訪れることは無いのでとても名残惜しい気分だ。 B.Cに来た時はまだ夏のモンスーンの時期だったが、日の出の時間も遅くなり日本と同じように季節は秋になったようだ。
B.Cからは顕著な痩せ尾根を下る。 朝陽が頂稜部に当たり始めた神々しいマナスルに歓喜の声をあげ、何度も後ろを振り返りながら写真を撮る。 間もなくご来光となった。 澄み切った青空を背景にしたマナスルが白く輝き、数日前にその頂に立ったことが夢のように思える。 裾野の山肌は紅葉が始まっていた。 間もなく私達の荷物を運んでくれるサマ村の人達が老若男女総出で次々と登ってきた。 中には「ジャパニーズ?」とか「サミット?」と聞いてくる人や握手を求めてくる人もいて、槇有恒氏の著書『マナスル登頂記』に記された初登頂時の村人の妨害行為が嘘のようにフレンドリーな感じがした。
休憩なしで歩き続けたので、予定どおり8時にサマ村に着いた。 終盤はB.Cでもストレスを感じることは無かったので、特に酸素の濃さを実感することは無かった。 ヘリポートではコーラが配られ、草原に寝そべってヘリが到着するのを待つ。 ヘリに乗る順番はサマ村に着いた順なので、もちろん私達が一番後だ。 9時にようやく最初のヘリが飛んできたが、私達の乗るヘリが来たのはその1時間半後だった。 ヘリの大きさは色々あり、私達の乗った6人乗りのヘリは小型だったので、途中で給油のため一旦山間にある中継地に下りたため、カトマンドゥまで1時間ほど掛かった。
カトマンドゥの空港に降り立つと、酸素が濃いというよりは空気が重くて蒸し暑かった。 空港からタクシーでホテル『ハイアット・リージェンシー』に直行する。 B.Cから半日でカトマンドゥのホテルに着いてしまうなんて、一昔前のマナスル登山では考えられなかったことだろう。 1か月半ぶりにまともなシャワーを浴びる。 砂埃のある所を全く歩いていないので、それほど体が汚れているという感じはしなかった。 打ち上げと昼食を兼ねてタメル地区では有名な日本料理店の『桃太郎』に皆で行く。 まずはビールで乾杯し、餃子、カツ丼、すき焼きうどん、肉野菜ラーメン、炒飯、冷奴などを次々に注文する。 味は日本のものと変わりなく、期待以上の美味しさだった。 空港に着いた時点では酸素の濃さを実感することは無かったが、じわじわと酸素が体に行き渡ってきたようで胃腸が活性化し、普段の倍の量を食べてもまだ足りないくらいだった。 食後はタメル地区の商店街で土産物を物色し、るみちゃんのお勧めの店で紅茶のティーバックを買い占めた。
夕食は今日も皆の総意でホテルのディナーバイキングになった。 B.Cでの食事にストレスを感じることは無かったが、それでもこの時点で体重が5キロくらい落ちていたので、異常なほど食欲があり、冬眠明けの熊のように肉料理を中心にデザートのケーキも全種類食べ尽くした。 全員が登頂して登山隊としても大成功だったので、アルコールや話しも弾み、楽しい打ち上げの宴となった。 翌日はもう一日予備日があり、5ツ星の豪華なホテルでゆっくり休養したり、カトマンドゥの観光も出来たが、オープンのエアチケットで帰国日の変更が可能だったので、大切な有給休暇を無駄に使わないように、るみちゃんと二人で急遽帰国することになった。
【マナスルを終えて】
今回のマナスルは、初のネパール(ヒマラヤ)、初の8000m峰、初の酸素(ボンベとマスク)の使用、初の国際商業登山隊への参加、etc・・・と本当に初物づくしだった。 結果はアタック日が快晴無風という強運に恵まれ登頂することが出来たが、一歩間違えば登頂出来なかったという場面も多々あり、この辺りの気持ちのコントロールも含め、今まで経験した6000m峰の登山とは全く違うことを体験し、色々な意味で今後の高所登山に役立つことを多く学んだ。 但し、僅か一度だけの8000mオーバーの経験なので、自分では客観的だと思えることも実はかなり主観的なことであるかも知れず、まだまだ高所登山については経験不足・知識不足だと言わざるをえない。 一方、充分な経験と体力・技術があっても、天気が悪かったり、アタックステージでの体調が悪かったり、ルートの状況が悪ければ、当たり前のことだが登頂することは出来ない。 帰国してから半年後の2012年の春に行われたHIMEX隊のエベレスト登山では、積雪が少なかったことによりルートの状態が悪く、ルート工作中に頻発した落石でスタッフの一人が亡くなるという不幸な事故があり、これにより登山活動も中止になってしまった。 今後の8000m峰などの高所登山ではその点を踏まえ、登れなかった場合でもそれに投資したお金や時間などの全てについて後悔しないという心境になってから自然体でチャレンジしようとあらためて思った。 これも全てマナスルという大きな山に登れたことによる気持ちの余裕から生まれた発想だろう。
今回のマナスルでの最大の懸案事項は、酸素マスクの装着感と酸素の吸入だったが、実際にこれらを使用してみて、その効果の著しさには本当に驚かされた。 例えれば、山頂アタックの時に20キロの荷物を背負って酸素を吸った場合と、空身で無酸素の場合とでは、前者の方が登りでは速く、下りでは比べものにならないほど速いという感じだ。 行動中は言うに及ばず、睡眠時の僅か0.5リッターの酸素がどれだけ快適だったことか。 但し、酸素の使用も絶対的なものではなく、常にレギュレターやマスク、混合器の作動状態を確認するとともにボンベ内の酸素の残量を計算し、自分の行動中に必要な酸素ボンベの本数の把握と確保が必要である。 今回は全く問題なかったが、天気や体調の変化で行動時間が長くなり、酸素を予想以上に使わなければならなくなった時は要注意だ。 登頂出来ても下りで酸素切れになると事故に直結するので、アタック時は天気や体調に合わせて冷静な状況判断を自らがしなければならないと肝に銘じた。
今回のマナスルで参加したヒマラヤン・エクスペリエンス社(HIMEX)は商業登山隊の最大手の組織であるばかりか、エベレストを始めネパール国内にある8000m峰登山において常にリーダーシップを発揮している。 8000m峰登山を大衆化させたのも同社の出現によるところが大きいと言っても過言ではない。 事実、一部の登山家や組織を除いては、HIMEX隊のスタッフのルート工作によって伸ばされたフィックスロープを使用することが日常的に行われており、登山活動中は常に他隊からその動向を窺われている。 最近では積極的にHIMEX隊にフィックスロープの使用料を支払い、それを前提にルート工作を全くしないで登る隊も増えている。 今回のAG隊や埼玉岳連隊もその部類だ。 一方、日本の登山界では商業登山隊への批判も根強い。 しかしながらこれは全く島国根性的なナンセンスな話しで、商業登山隊であろうが、山岳会であろうが、仲間同士であろうが、合理的な順応のタクティクス、装備、酸素、そして何よりも優れた現地スタッフのサポートがなければ8000m峰の登頂はおぼつかない。 仮に登頂出来たとしても指一本でも凍傷になったりしたら、登山(隊)としては成功したことにはならないと私は思う。 安全性という面でもHIMEX隊はB.Cに医師を常駐させると同時に医療機器を常備し、他の隊の病人やケガ人の面倒も見ていた。 また先に記したとおり、アタックステージでは各キャンプ間の登りに制限時間を設け、隊長が客観的なデータで隊員の順応度合の管理を行ったり、各隊員同士が無線での本部との会話や指示をタイムリーに共有することにより、意思の疎通が図られていた。 また酸素ボンベについても、HIMEXは独自の充填工場で酸素を充填・管理することにより、不良品を極力排除するよう努めているとのことだった。 今回私はHIMEX隊に参加して、逆に国際商業登山隊の素晴らしさのみを実感した。 惜しむらくは英語が使いこなせれば、もっと楽しく有意義なものとなったことだろう。
帰国後はエベレストに登りたいという気持ちも徐々に高まってきたが、登山期間が2か月以上掛かるため、現役中に行くことは出来ない。 しかしながらそれは言い訳で、先のような気持ちになる時がいずれ訪れるかもしれない。 座右の銘にしている「やりたい(登りたい)のに出来ないと言っている人は、本当にやりたい(登りたい)わけではない」という田部井淳子さんの名言が思い出された。