【ブランカ山群】
2009年の7月に憧れのペルーのブランカ山群に行く機会を得た。 “ブランカ”はスペイン語で白を意味する。 ブランカ山群とは、南米大陸の西部を南北に約4000kmにわたって縦断するアンデス山脈の一部で、ペルーの北西部を南北に約185kmの長さで連なり、最高峰のワスカラン(6768m)を筆頭に6000m峰を27座、5000m峰を80座ほど擁する大きな山群だ。 尚、ペルーには他にイェルパハ(6617m) ・ ヒリシャンカ(6094m) ・ シウラ(6344m)等の名峰(難峰)を擁する『ワイワッシュ山群』というアルピニスト垂涎の山群や、サルカンタイ(6271m)の聳える『ビルカバンバ山群』、霊峰アウサンガテ(6384m) ・ ピコ・トレス(6093m)等の聳える『ビルカノータ山群』がある。
前年の2008年の8月に南米の山のガイドとしては第一人者の平岡竜石さんとボリビアの山を登った時に、「来年の夏は是非ペルーの山に連れて行ってください」とお願いしておいたところ、年明けに平岡さんから最高峰のワスカラン(6768m)をメインとしたブランカ山群の登山ツアーを企画しているという連絡があった。 一昔前までワスカランはとても難しい山というイメージがあったが、インターネットの情報やブランカ山群のガイドブック(洋書)、そしてブランカ山群の山を数多く登られている知人の三井孝夫さんの話によると、高さを除けばブランカ山群の6000m峰の中では易しい部類の山だと分かった。 ボリビアで6000m峰を2座登り、オホス・デル・サラド(6893m)というチリの最高峰にもチャレンジした妻を無理矢理誘い、私自身5度目、妻も3度目の南米行となった。 また、嬉しいことにエクアドルとボリビアの山にご一緒した友人の伊丹さんとマッキンリーにご一緒した栗本さんも平岡さんが主催するこの登山ツアーに参加することになり、ますます期待に胸が膨らんだ。
その後平岡さんの計画も煮詰まり、山行期間は7月18日から8月10日までの24日間、プレ登山としてイシンカ(5530m)とトクヤラフ(6032m)の2座を登ることが決まった。 イシンカは高所順応やガイドレスなどで良く登られている穏やかな容姿の山だが、一方のトクヤラフは6000m峰の中では標高こそ低いものの、山頂付近の氷河の状態が複雑で不安定な難しい山だ。 最高峰のワスカランはもちろん、個人的にはこの山にチャレンジ出来ることの方が嬉しく、万が一メインのワスカランに登れなくても、トクヤラフに登れたらその方が嬉しいとさえ思った。
図らずも今回は平岡さんが契約先のAG社から独立してフリーとなった最初の登山ツアーとなり、それ故か結果的に参加したメンバーの8名(男性5名・女性3名)は全て平岡さんの過去の登山ツアーの参加者だった。 出発の2ヶ月前の5月に秩父の小川山の麓の廻り目平(金峰山荘泊)で参加者の親睦会を兼ねたツアー全般の説明会とクライミングの無料講習会も行われ、今回の登山ツアーは事実上始まった。
今回の登山ツアー『ワスカラン登山隊2009』はリマのホルヘ・チャベス空港で集合・解散することになっていたが、直前のガイドの研修でシャモニから帰国したばかりの平岡さんも同じ日に日本から出発することになり、7月18日に成田空港で参加者全員と平岡さんが顔を合わせた。 出発ロビーで各々簡単に自己紹介を行う。 今日初めてお会いしたのは、廻り目平での説明会に参加されなかった近藤さん・田路さん・三栗野さんの3人で、他は説明会でお会いした割石さんと友人の伊丹さん・栗本さんだ。 近藤さんはマッキンリー、田路さんはマナスル、三栗野さんはNZの山で平岡さんとご一緒されたということだった。
午後3時半発のデルタ航空のアメリカでの乗継地はアトランタだったが、成田からアトランタまでの所要時間は約12時間、アトランタでのトランジットは2時間半、アトランタからリマまでの所要時間は約6時間だったので、今までの南米への渡航中では一番楽だった。 アメリカでの入国審査も事前のESTA申請が功を奏したのか、非常にスムースに短時間で終わった。 春先に大騒ぎとなった新型インフルエンザも成田・アトランタ・リマの各空港では何ら警戒も検査もしていなかった。 リマのホルヘ・チャベス空港には深夜に到着し、空港に併設された豪華な4ツ星のホテル『ラマダ・コスタ・デル・ソル』に泊まった。 ウエルカムドリンクのピスコサワーで一同賑やかに乾杯したが、私はいつもどおりのジンクスで下山するまでアルコールは控えることにした。
7月19日、今日は空港から約400km離れたカルアス(2650m)という小さな町までエージェントが用意したバスで移動する。 8時にホテルを出発するので、快適な4ツ星のホテルでも長旅の疲れは取れなかったが、朝食のバイキングは4ツ星に相応しくとても美味しかった。 現地のエージェントは平岡さんが長年利用している『エクスプロランデス社』で、同社が手配したスイスの旅行会社との合弁会社の『スイザペルアナ社』の20人乗りのベンツのマイクロバスが迎えに来てくれた。 今にも雨が降り出しそうな空模様だったが、この時期のリマは“ガルーア”と呼ばれる濃霧が毎日のように発生して曇天が続くとのことで、逆に山岳地帯はこの時期は乾期で澄みきった晴天の日が続くらしい。
人口約800万人という首都のリマは空港から少し離れた場所にあり、これから向かう山岳地帯とは正反対の方向なので今日は通らず、パンアメリカンハイウエイを海岸線に沿って北上する。 沿線には市街地や外国資本の工場のような建物は殆どなく、チリと同様に鉱物資源が豊富に埋蔵されているのか、乾燥した荒野に鉱山関連の施設が散見された。 寝不足と時差ボケで居眠りをしているうちにバランカという町に着き、海岸のレストランで昼食を食べる。 『セビッチェ』という白身魚やイカ・タコなどの魚介類と玉葱をあえたペルーを代表する料理などに舌鼓を打つ。 チリだけでなくペルーも魚料理がとても美味しいことを実感した。
浜辺でさざ波と戯れ、高度計の数字を0mに合わせる。 バランカの町を過ぎると、間もなく『ワラス200km/リマ207km』と記された道路標識のある三叉路があり、ここを右折して山岳地帯に入る。 大きな谷を遡るように緩やかな勾配の道を、登り一本調子で標高4050mのコノコーチャ峠を目指す。 山肌は乾燥が進み、所々にサボテンが生えている。 収穫された色々な種類のイモが大地に整然と並べられている光景がいたるところで見られた。 単調な景色と時差ボケで再び居眠りをしているうちにコノコーチャ峠は通過してしまい、道路はワラス(3090m)に向かって緩やかに下っていく。 曇天ながら雪を戴いたブランカ山群の山々が草原の向こうに聳え立ち、峠から少し下った所で車を停めてもらい写真タイムとなる。
午後4時過ぎにコノコーチャ峠から1時間ほどでワラスに着いた。 ワラスはアンカシュ県の県庁所在地で、ブランカ山群の登山やトレッキングの拠点となる人口8万人の中堅都市だが、繁華街から少し外れた町並みは想像していたよりも地味だった。 いつもなら町から見えるというワスカランは今日は残念ながら雲の中だ。 エージェントの事務所に立ち寄り、責任者のベロニカさんと会う。 ベロニカさんは小柄だが、以前ガイドとして田部井さんをワスカランに案内したという経歴があり、今回のチーフガイドはベロニカさんの弟のマキシミアーノ(通称マックス)とのことだった。
ワラスから30km離れたカルアス(2650m)へは30分ほどで着いた。 人口4500人の町はワラスよりもさらに一回り地味で田舎臭かったが、宿泊先のホテル『エル・アブエロ』は三井孝夫さんが翻訳された『ブランカ山脈・ワイワッシュ山脈』の著者でもあるフェリッペ・ディアスさんが経営しており、調度品などのセンスも良く、こぢんまりとしたペンションのようだった。 部屋割りは私と妻、近藤さんと伊丹さん、割石さんと田路さん、栗本さんと三栗野さんのペアで、これは後日B.Cでのテントでも同じだった。 今日の宿泊客は私達だけとのことで、食堂でお茶を飲んで寛ぎながら平岡さんから高所順応のレクチャーを受ける。 パルスオキシメーターによる血中酸素飽和度はすでに89%になっていた。 夕食はホテルで食べたが、ディアスさんの奥さんや娘さんが作った料理は盛り合わせがとても丁寧で、味付けも良くとても美味しかった。
【ラグーナ69】
7月20日、青空は見えているが今日も雲が多い天気だ。 冬なので日の出の時間は6時くらいと遅く、気温は日本の秋のような感じだ。 ホテルの朝食は夕食と同様に丁寧な作りで気持ち良い。 今日は高所順応でポルタチュエロ・リャンガヌーコ峠(4767m)まで車で行き、そこから歩いて下るハイキングをする予定だ。
カルアスからエージェントの車で幹線道路をユンガイ(2500m)に向かう。 30分足らずで通過したユンガイの町は人口が僅か1200人ということだが、1970年5月に起きた大地震とそれに誘発されたワスカランの雪崩と土石流により町が全て埋まり、2万人が亡くなるという不幸な歴史を持つ町だ。 ユンガイから北東へリャンガヌーコ谷への山道に入る。 道幅は広いが凹凸が激しく、車がマイクロバスのせいもあり激しく揺れる。 乗り物に弱い人は乗ってられないだろう。 雲が多いながらも車窓から双耳峰のワスカランと4つのピークを持つワンドイ(6395m)が見え始め、皆の目が釘付けとなる。 途中2箇所のビューポイントで車を降り、憧れの山と対峙しながら撮影大会となる。 ワスカランは南峰(6768m)と北峰(6664m)がある双耳峰だが、両峰の間のコル(6010m)からの独立度を考えると南峰と北峰は全く別の山で、麓からの標高差も大きいため、ペルーの最高峰に相応しい大きな山であることが良く分かった。 途中に国立公園の管理事務所とゲートがあり、@65ソーレス(邦貨で約2,000円/1シーズン有効)を支払う。 ワスカラン国立公園は1985年にユネスコ世界遺産に登録された自然の楽園だ。 間もなく眼下にリャンガヌーコ湖(チナンコーチャとオルコンコーチャという上下二つの湖に分かれている)という美しい湖が見え、湖畔にある今日の宿泊地のユラクコラルのキャンプ場(3880m)に着いた。
広く開放感のある湖畔のキャンプ場には、すでに先行していたエージェントのスタッフにより各人のテントと大きなダイニングテントが設営されていた。 ラウルという若いコックが昼食にトゥルーチャ(鱒)の唐揚げを作ってくれたが、味付けが日本人好みでとても美味しく、これからの山中での食事に期待が持てた。 パルスの数値は64%しかなかったが、特に何かの症状が出ている訳ではないので気にしないことにした。
昼食をゆっくり食べてから再び車に乗り、車道の最高点となるポルタチュエロ・リャンガヌーコ峠(4767m)に向かう。 これまでになく道路は勾配を増し、九十九折れのヘアピンカーブが断続的に続く。 ようやく辿り着いた峠は、凹型に両側の岩壁を粗く削り取って反対側のモロコチャ谷に抜けていた。 ガイドブックによれば、この峠からの展望は素晴らしく、ワンドイ(6935m)・ピスコ(5752m)・チャクララフ(6112m)・ヤナパクチャ(5460m)・チョピカルキ(6354m)そしてワスカランが一望されると記されていたが、午後になるにつれて天気は悪化し、山々は全て灰色の雲の帽子を被っていた。 高所順応とは言え、せっかくの楽しみがなくなってしまい残念だ。
峠からは辿ってきた車道とは別に湖畔のキャンプ場の近くまで通じているトレイルがあり、車を下に回送してキャンプ場に向けて下る。 下りとは言え高所順応が目的なので、意識的にゆっくり歩く。 小雨がパラつき始め、一時は雪のようなあられとなった。 写真を撮るような天気ではないので、目線は自然と足元の高山植物にいく。 日本にはない高山植物もあり、意外にもルピナスの群生がそこらじゅうに見られた。 約1時間で450mほど下り、先ほどの車道に合流するとエージエントの車が待っていた。 さらに車道を歩いてキャンプ場まで下ることも出来たが、天気も悪いのでここで今日のハイキングは終了となった。
キャンプ場に戻り、快適なダイニングテントでお茶を飲みながら寛いでいると、リサというベロニカの高校生の娘が現れた。 学校がインフルエンザで休校になったので母親の仕事の手伝い、一段上のキャンプ場にいるアメリカ人のグループの世話をしているとのことだった。 夕食は炒飯や酢豚などの中華料理だった。 コック(コシロネ)のラウルは料理上手のみならず人一倍研究熱心で、その明るいキャラクターも手伝って、滞在中は皆のアイドル的な存在となった。 パルスの数値は80%だったが、時々思い出したかのように軽い頭痛がするだけだったので、順応が比較的遅い私にとってはまずまずの体調だった。
7月21日、まだ薄暗い6時に洗面器に入ったお湯と暖かい飲み物がスタッフからテントに届けられて驚く。 ポーター(ポルタドール)やロバ(ブーロ)などに依存する一般的なペルーでのトレッキングではこれが基本のスタイルらしい。 パルスの数値は75%とあまり良くないが、頭痛もなくすっきり眠れた。 伊丹さんがだいぶ辛そうだが、毎度のことなので大丈夫だろう。 朝食には少し柔らかいご飯も出され、食べ物には何一つ不自由はない。
今朝も快晴ではないが、昨日より青空の占める割合は多い。 今日は高所順応のハイキングでここからデマンダ谷を遡り、ラグーナ69(4550m)という湖まで歩いて往復してから車でカルアスに戻る。 写真で見たラグーナ69は光沢のあるブルーの水を湛えた神秘的な湖だ。 8時前に車でキャンプ場を出発し、数分後に路肩に数台の車が停まっていた登山口で車を降りる。 U字谷の側壁の上にヒマラヤ襞の発達した荒々しいチャクララフの白い頂稜部が見え、その迫力ある姿に息を呑む。 道路から樹林帯を少し下ってデマンダ谷に下り立つと、セボヤパンパという草原が広がり、川沿いのキャンプ場には沢山のテントが張られ、ブランカ山群で一番登られている山のピスコとワンドイへのトレイルを示す標識があった。
キャンプ場を過ぎても草原の中のトレイルは勾配が緩く、時々左手の側壁の背後からワンドイ南峰の尖ったピークが顔を出す。 振り返るとワスカラン北峰の巨大な山塊が圧倒的な高さで聳え立っていた。 天気が不安定なのか山頂には笠雲が取り付いていたが、次第に南峰も見えるようになってきた。 今日も高所順応が目的なので各々のペースで意識的にゆっくり歩く。 車を降りてから1時間半ほど過ぎた辺りで谷が狭まり、トレイルの勾配が増してきた。 氷河から流れ出す滝を擁する大きな岩壁の上にチャクララフが見え、急坂をジグザグに登っていくと小さな池があり、ピスコ東峰(5700m)と西峰(5752m)の眺めが良かった。 勾配のない広い草原の脇をしばらく歩いてから、再び勾配がきつくなったトレイルを30分ほど頑張って登る。 振り返るとヤナパクチャ(5460m)の眺めが良かった。
モレーンの背に乗るとピスコが次第に近づき、間もなくラグーナ69の鮮やかな青い湖面が目に飛び込んできた。 眼前にはチャクララフがまるで屏風のように屹立し、ピスコが名脇役のようにその絶景を引き立てている。 休む間もなくカメラのシャッターを切り、少しでも良い撮影ポイントを探すため湖畔を奔走する。 10年前に訪れたカナダのロッキー山脈で数々の神秘的な湖沼を見たが、それに負けるとも劣らないラグーナ69の湖面の美しさにいつまでも感動が覚めやらない。 しばらくすると皆も休憩を終えて動き出し、湖畔で撮影大会となった。
青空は見えるが天気は優れず、一時は小雪が舞うほどだったが、順応のため2時間ほど湖畔に滞在し、後ろ髪を引かれる思いでラグーナ69を後にした。 天気はその後も良くならず、帰路ではワスカランは雲で見えなくなっていた。 ラグーナ69から2時間ほどで登山口に戻ると、偶然にもピスコを登られて下山してきたという日本人の男性二人と出会った。 彼らはこれからアルパマヨ(5947m)とキタラフ(6036m)を登りに行かれるとのことだったが、今回の滞在中に山中で出会った日本人はこの方達だけだった。
登山口で待っていたエージエントの車でカルアスに帰る。 車の揺れは激しかったが、疲れと時差ボケのせいで途中のユンガイまで居眠りをする。 カルアスのホテルに予定より遅く着いたので、外食はやめてホテルで夕食を食べる。 今晩は鶏肉がメインで、センスの良い美味しい料理に舌鼓を打つ。 何となくだが酸素の濃さを実感した。
翌7月22日は予定どおり休養日となったが、平岡さんの提案で午前中に『チャンコス温泉』というこの辺りでは有名な温泉施設に皆で行くことになった。 ホテルから車で数10分のチャンコス温泉はとても地味な造りだったが、2ソーレス(邦貨で約60円)の入場料を払って中に入ると、水着で入る温水プール・別料金となる洞窟状のサウナ風呂・3畳ほどの広さの個室の風呂が20部屋ほどあった。 湯舟に浸かれたのは嬉しかったが、お湯の温度が低かったので、あまり快適な居心地ではなかった。
昼食は町外れのレストランの中庭で牛肉のステーキなどを食べた。 明日から向かうイシンカ谷方面には、ウルス(5495m)やランラパルカ(6162m)といった山々が見えたが、イシンカやトクヤラフはそれらの山々に隠されて見えなかった。 夕食は地元の人達で賑わう庶民的な鶏肉料理の店で蒸し焼きの鶏肉を堪能した。
【イシンカ】
7月23日、今日から6泊7日の日程でイシンカ(5530m)とトクヤラフ(6032m)の2座を登るため、イシンカ谷のB.C(4350m)の登山口のコユン村へエージェントの車で向かう。 残念ながら両峰ともワスカラン登頂のためのプレ登山なので予備日はなく、イシンカへのアタック日は明後日の25日、トクヤラフは28日の1日のみだ。 車中で平岡さんより今日から行動を共にする現地ガイド3名の紹介があった。 チーフガイドは平岡さんの馴染みのマキシミアーノ(通称マックス・42歳)、サブガイドはアグリピアーノ(通称アグリ・35歳)、そしてもう一人は平岡さんも初対面のエロイ(31歳)で、皆とても優しそうな面持ちの猛者だった。
車窓から雲間にワスカランを望み、ワラス方面に向かう幹線道路の途中から左に折れてコユン村に通じる山道に入る。 先日通ったリャンガヌーコ谷への道よりもさらに凹凸が激しく、所々でスタッフとガイド達が車から降りてスタックしないよう道を均しながら進む。 のっけから先行きが危ぶまれたが、意外にも奥に進むにつれて道路の補修工事が行われていて、コユン村のさらに奥にあるパシパ村の広い駐車場(コチャパンパ)まで車で入れた。 標高は3500mくらいだろうか。
コチャパンパを10時過ぎに出発し、谷間ではなく尾根筋のトレイルを行く。 朝方は晴れていたが、今シーズンの天気はどうも不順なようで、すでにワスカランも雲に隠されて見えなくなってしまった。 イシンカ谷の末端の扇状地を右の眼下に見ながら、正面に見えているウルス(5495m)の裾野を回り込むように緩やかな尾根道を進む。 普段の山歩きの3分の2くらいのペースで1時間半ほど歩くと、谷からの川が傍らを流れる広い牧草地に着いた。 牧草地の傍らでランチタイムをしていると、私達の荷物を運ぶ馬が何頭も通り過ぎていく。 日本では常にボッカ役なので、それと比べたらまさに大名登山だ。 運悪くアブに額を刺されてしまったが、これが後々まで響いてくるとは知る由もなかった。
牧草地から少し登ったところでコユン村への谷筋のトレイルが右に分岐していた。 陽の当たらない谷間の鬱蒼とした樹林帯を進むと再び谷は広がり、簡素な造りの国立公園の管理事務所があった。 すでに入園料は支払ってあるので、ガイド達が入園届けに名前などを代筆してくれた。 谷は上流に行くにつれてさらに扇状に広がるようになり、再び牧草地のようになってきた。 季節は冬だが、氷河からの豊富な水流により、そこらじゅうにタンポポのような黄色い花が咲いている。 相変わらずの曇天だったが、谷の奥にパルカラフ(6274m)の白い山肌が見え始めると、ようやくトクヤラフの神々しい純白の尖った頂がその左に見えた。
夕方の4時半前にイシンカ谷のB.Cに到着。 麓からは想像も出来ない広く平らな牧草地には、私達のテント以外に10張くらいのテントがあった。 意外にもB.Cからはイシンカが見えず、トクヤラフが眼前に鎮座していた。 B.Cにのみ設営される大きなダイニングテントでは、いつでもお茶やお菓子が食べられるようになっていてありがたい。 まだ順応途上なので体調は万全ではないが、ラウルが作ってくれた夕食(メインはトゥルーチャのクリームソース煮)がとても美味しかった。 食後のデザートを待っていると、ガイドのアグリとスタッフが蝋燭の火が灯った大きなケーキを持ってテントに入ってきた。 図らずも今日は妻の51回目の誕生日。 平岡さんの演出と、麓からこの大きなケーキを担ぎ上げてくれたスタッフに感謝の気持ちで一杯だった。 一同大いに盛り上がり、皆でバースデーソングを合唱すると、スタッフも現地語の歌を披露してくれた。 ケーキはとても美味しく、妻は今までで一番思い出に残る誕生日になったと喜んでいた。
7月24日、心配していた頭痛もなく朝を迎えた。 寝起きのパルスの計測でも80%と、安静時にしては非常に良かった。 ようやくこの時期らしい晴天になりそうな空模様となり、朝焼けのトクヤラフを撮ろうとしたが生憎の逆光だった。 朝食の主菜はパンケーキとご飯だが、私にはご飯と日本から持参した漬物が最高の御馳走だ。 朝食を食べ終わった8時頃になって、ようやく谷間にあるB.Cに陽が射し込んでくる。 3人のガイド達とあらためて簡単な自己紹介を行なう。 私達の愛称はいつもどおり“ヨシ”と“ヒロ”だ。 「トクヤラフ・イズ・マイ・ドリーム!」といつものように熱く語ると、ガイド達も真剣な口調で「必ず皆さんを登頂に導きますよ」と応えてくれた。
9時半前にイシンカのH.Cに向けてB.Cを出発。 天気も体調も上々だ。 イシンカ谷の左岸の側壁をジグザグを切りながら効率良く登っていく。 トクヤラフはもちろん、谷の対岸に屹立するウルスの東峰(5420m)・中央峰(5495m)・西峰(5450m)の荒々しい頂稜部も次第に良く見えるようになった。 この山もイシンカと並んで高所順応のために良く登られている山だ。 1時間半ほど登った所でイシンカの隣に聳えるランラパルカ(6162m)の重厚な頂稜部の岩壁が見え、その圧倒的な迫力に一同歓声をあげる。 トクヤラフもヒマラヤ襞と幾重にも重なる複雑で巨大な雪庇を披露し、ブランカ山群の山の険しさをあらためて実感した。 間もなく待望のイシンカが姿を現した。 周囲の高峰から見ると目立たない存在だが、下から見上げたその山容はまさに“山”という字のような均整のとれたものだった。
雨期には池となりそうな広いカールの底で、優美なイシンカと荒々しいランラパルカを眺めながら、ラウルがB.Cで調理したランチを温めて食べる。 カールの底から100mほどランラパルカの方向に向けてジグザグを切りながら登ると石造りの立派な避難小屋があり、案内版には『標高5000m』と記されていた。 小屋は人気もなく快適そうだったが、ガイド達は一瞥もせずにそこから50mほど下の乳白色をしたイシンカ湖へ向けて下って行った。
夕方の4時過ぎにH.Cのイシンカ湖に到着。 すでに先行していたスタッフによりテントが設営されていた。 体力に勝る外国人はB.Cからイシンカにアタックするのか、あるいは先ほどの避難小屋を利用するのか、湖畔のキャンプ地は私達の隊だけだった。 H.Cのロケーションは素晴らしく、イシンカ湖の対岸に鎮座するランラパルカと、標高以上に高く見えるイシンカが間近に聳え立つ別天地だ。 石を積んで造られた半円形の椅子に車座になってティータイムを楽しむが、日没が近いため風が冷たい。 妻を初めメンバー同元気そうで安堵する。 プレ登山とは言え、明日の登山ルートの下見に氷河への取り付きまで登っているガイド達の姿が見え、ペルーでナンバーワンと言われる今回のガイドチームの質の高さを感じた。
H.Cでは明日のアタックのメンバーでテントの割り振りが決められた。 男性チームは私と栗本さんと田路さんの3人と、割石さんと三栗野さんと平岡さんの3人。 女性チームは妻と伊丹さんと近藤さんの3人だ。 ダイニングテントはないので、夕食は夕陽に染まるイシンカを鑑賞しながら外で温野菜と鶏肉の煮込み料理を食べた。
7月25日、前夜はすぐに眠りについたものの、夜中に何度か頭痛で目が覚めた。 田路さんは熟睡、栗本さんは寝言を言っていた。 起き上がることまではしなかったが、寝ながら頭痛がなくなるまで深呼吸を繰り返す。 毎度のことで驚かないが、いつも周りの人よりも1〜2日順応が遅い。 今日は4時に出発する予定なので3時前に起床する。 風もなく星が沢山見える。 隣のテントの妻に声を掛けると、まずまずの体調とのことで安堵する。 今日はイシンカの登頂後にH.Cには戻らず、山頂を越えて直接B.Cに下るという計画なので、荷物をパッキングしてからテントを出る。 私達が出発した後にスタッフ達がB.Cに荷物を下ろすという仕掛けだ。 外に用意されていたビスケットなどの朝食を立ち食いし、予定より少し遅れて4時半にH.Cを出発。 しばらく湖岸を歩いてから急傾斜の岩稜に取り付く。 明るければ何でもないが、所々に凍っている所やガレ場があり気が抜けない。 頭の大きさほどの落石があり、ヒヤリとする場面もあった。
H.Cを出発して1時間半ほどで氷河への取り付きに着いた。 取り付きでハーネスやアイゼンを着けていると夜が白み始め、眼前にランラパルカの岩壁が迫っていた。 取り付きからは予定どおりマックスを先頭に私達のパーティーが先行する。 ヘッドランプは不要になり、周囲の状況が良く分かるようになった。 最初は急だった斜面もすぐに傾斜は緩くなり、間もなく眼下にイシンカ湖が俯瞰された。 相変わらず風もなく穏やかな登山日和だ。 重厚なランラパルカの右に秀麗なオシャパルカ(5888m)も見え始めた。 私達のパーティーは絶好調で、所々で足を止めながら後続隊を待つ。 すでに荒々しいウルスの3つのピークも目線の高さだ。 間もなく暖かな朝陽が当たり始め登頂を確信したが、先頭のマックスは慎重に所々でヒドゥンクレバスを確認していた。 ランラパルカとイシンカを繋ぐ主稜線のコルに上がると、素晴らしい鋭峰が目に飛び込んできた。 下山後に地図で確認すると、3つの頂を持つワンサン(6395m)だった。 ありがたいことに主稜線に上がってからも風はなく、優美な雪稜の先の山頂とそこからの大展望に期待が膨らむ。 意外にも山頂直下は短いが急な雪壁になっていて、上からマックスに確保されながら登る。 10mほどのナイフリッジの先に猫の額ほどの狭い山頂があった。
プレ登山とは言え、高度感たっぷりのブランカ山群の記念すべき第一峰に登れたことがとても嬉しかった。 田路さん、栗本さんと固い握手を交わして登頂を喜び合う。 後続隊はまだ雪壁の下に着いてなかったので、先に皆で写真を撮り合う。 まだ9時過ぎだったが、残念ながらワスカラン方面には雲が湧き、眼前のトクヤラフも一瞬その頂が見えただけで、すぐに雲に隠されてしまった。 やはりまだブランカ山群の天候は不安定なのかもしれない。 間もなくエロイとアンザイレンした妻と伊丹さん、近藤さん、イセケル、そしてアグリとアンザイレンした三栗野さん、割石さん、エルセリオ、最後に殿(しんがり)の平岡さんがバレンティンと相次いで狭い山頂に到着した。 全員の登頂が叶ったことで一同大いに盛り上がった。 山頂は全員が寛ぐにはあまりにも狭かったので、記念写真を撮り合ってから反対側に少し下った安全地帯で休憩する。 上空は青空だが、相変わらずワスカラン方面の雲が取れないことが玉にキズだ。
今日は縦走形式なので、ウルスを正面に見据えながら昨日昼食を食べた広いカールの底を目指して登りとは反対方向に下る。 正午前に氷河の取り付きに着くと、H.CからB.Cへ下ろした荷物の中からスタッフ達がトレッキングシューズをここまで運んでくれていた。 大名登山もここまでくると本物だ。 登頂が叶ったイシンカを眺めながらラウルが作ってくれたランチを食べ、意気揚々とB.Cへ下る。 360度の展望は叶えられなかったが、全員が登頂出来たことで隊のムードはさらに良くなり、次の目標に向けて幸先の良いスタートが切れた。 あとは体調の維持と本物のアンデスの青空の到来を願うのみだ。
B.Cに着くと再びトクヤラフが見えたが、依然として雲が多かった。 夕食はビーフシチューをご飯で食べる。 ラウルが腕を揮って作ってくれたので味は絶品だが、まだ順応が不完全なので腹八分目で我慢する。 夕食中にとうとう恐れていた雨がぱらぱらと降り始めた。 この雨を境に天気は快方に向かうのか、それとも下り坂となってしまうのだろうか?。
7月26日、夜中に時々テントを叩いていた雨は未明には雪となったようで、B.Cもうっすらと白くなっていた。 夜中に2〜3度目が覚めたが、疲れもあってまずまず熟睡出来た。 朝のパルスの数値は83%、脈拍は67だった。 4300mの高度なので私としては普通だ。 今日はレスト日なので朝食をのんびりと時間を掛けて食べる。 昨日の疲れもあるのか、パルスの数値とは別に自分も含め皆の目や顔が少し腫れぼったいような気がする。 午前中は風も強まり、再び雨がパラつく生憎の天気となったが、レスト日でちょうど良かった。 平岡さんの話では、今シーズンの天気は例年に比べて不順で、山にも雪が多いとのことだった。 確かに昨日登ったイシンカもガイドブックの写真より雪線が低かった。 明日向かうトクヤラフのH.Cも例年雪は無いが、今年は雪に覆われているようだ。
個人用テントに戻り、アイポットの音楽を聴きながら明日以降の準備をして過ごす。 午後に入ると天気は少し回復してきたが、時々強い風がテントを叩く。 昼食は温野菜を鶏肉や牛肉で巻いたシンプルなものだったが、ソースの味が絶品でラウルが皆の舌を驚かせた。 登山者相手の商売ではもったいない腕前だ。 食後は平岡さんから明後日のアタック時に使うユマール(登降器)の使い方の説明があり、テントの周りで掛け替えの練習をした後、未経験者と希望者を募って実地の訓練を行った。
夕方再び雨が降り出し、明日以降のことが気になりテントの中でやきもきする。 当初から危惧していたことだが、予備日がないのは精神的に辛いものだ。 そんな気持ちを和らげてくれるのはラウルの料理で、夕食もまた美味しい鶏肉の煮込み料理を堪能した。
【トクヤラフ】
7月27日、夜中は強い風が吹き荒れ、この分ではトクヤラフへの登頂はおろか、H.Cに行くのも危ぶまれたが、朝には風は収まり青空が見えていた。 昨日のような悪天ではないが、まだまだ天候は不安定のようだ。 予定どおり8時過ぎにトクヤラフのH.Cに向けてB.Cを出発する。 キャンプ地の傍らに建つ石造りの大きな山小屋(イシンカ小屋)の前を通るが、意外にも誰も利用していないようだった。 キャンプ地の環境が良いためか、それともシーズンが終わりに近いからだろうか?。 牧草地の外れからモレーンの縁に沿って緩やかに登る。 目指すトクヤラフの方向は相変わらず雲に覆われているが、イシンカ谷を挟んで反対側のランラパルカの上空には青空が広がっていた。 一昨日も同じような感じだったので、イシンカ谷を境に天気が違うのだろうか?。
間もなくトレイルはウルスの主稜線に登るような感じで90度左に折れてジグザグの急登となった。 私達の引率をアグリに任せ、マックス達がルートの偵察をするため先に進む。 間もなくトレイルに昨日の新雪が見られるようになり、スタッフ達にも追い越される。 登るにつれて風は強まり、そして冷たくなった。 先ほどまで青空だったランラパルカの上空も次第に雲に覆われ始め、天気は下り坂に向かっているように思えた。 氷河(残雪)の取り付きでアイゼンを着けながら簡単な昼食を食べる。 止まっているとダウンジャケットが欲しくなるほど寒かった。
昼食後、氷河に足を踏み入れると風は一段と強まり、時々耐風姿勢を取らなければならないくらいの突風が吹いた。 まだここから2〜3時間登らなければH.Cに着かないと思うと気が重い。 アタック日ならまだしもアプローチで消耗するのは御免だ。 強風に耐えながら1時間ほど登ると、寒々しい吹きさらしの雪稜に上がる手前の岩塔の基部で先行していたスタッフ達がテントを設営するための整地作業をしていた。 マックス達が偵察から帰ってこないが、恐らく当初予定していたH.Cは風が強すぎてテントが張れないので、この場所を今回のH.Cとするような雰囲気だった。 本来のH.Cまでは標高差で200mくらい、時間にして1〜2時間手前だろう。 間もなくそれが正式に決まり、岩陰で風を避けながらスタッフ達がテントを設営してくれるのを待つ。 強風が吹き荒れる中、近くの石などを巧みに積み上げて短時間に整地してしまう土木技術は一朝一夕のものではない。 ガイドのみならず、この“サポート軍団”の頼もしさをあらためて感じた。
テントに収まり、ようやく一息つく。 メンバーの割り振りは一昨日のH.Cと同じだ。 狭いテントだが、何の遠慮もなく過ごせるのが嬉しい。 妻の様子を見に女性陣のテントを訪ねると、伊丹さんや近藤さんも体調はまずまずのようで安堵する。 明日のレイヤードや装備のチェック、行動食の準備などを入念に行う。 トクヤラフで着ることを考えていなかった中厚のダウンジャケットはB.Cに置いてきたので、メリノウールのアンダーシャツを2枚重ねて着ることにした。 明日の起床は午前零時なので、出発は1時過ぎになるだろう。 田路さんから昨年のマナスルや40年前に挑んだマッキンリーの話しなどを聞いたりして過ごす。 夕食は各自のテントでアルファー米と味噌汁を好きな時間に食べ、日没後の6時過ぎにシュラフに入る。 即席のH.Cは稜線から外れているため風は弱いが、風は一晩中吹き止むことはなかった。 予備日がないので天気が悪くても予定どおりのアタックとなるが、もともとトクヤラフは難しい山なので、何とか明日は晴れてくれることを神に祈った。
7月28日、憧れのトクヤラフに登る時が来た。 零時前に起きて準備を始めるが、緊張と気持ちの昂ぶりで全く眠くない。 寝起きのパルスの計測は71%とあまり良くなかったが、頭痛もなく体調は悪くない。 テントから身を乗り出して空を見上げると星が見えた。 風も昨日より確実に弱まっている。 一人前のアルファー米を半分以上食べると、運良く用便も済ませることが出来た。
マックスを先頭に私達の隊が先発する予定だったが、色々と忙しいマックスの準備が遅れ、一番最後の出発となった。 先に行く妻らのメンバーに励ましの声を掛ける。 まだ順応途上なので完璧な体調の人はいないが、イシンカ同様全員揃って出発出来ることが何よりだ。 私達のパーティーは先頭のマックスの後にラッセル要員としてガイド見習いのビクトルが続き、栗本さん、私、田路さんの順番にザイルを繋いだ。 1時半過ぎにH.Cを出発。 吹きさらしの雪稜に上がると、予想どおり昨日ほどではないものの強い風が吹いていた。 風で飛ばされた雪が乱舞し、穏やかだったH.Cとは全く違う状況で寒さが身にしみる。 酸素の希薄さや暗さがさらに体感気温を下げ、昨日の強風が良い免疫になっているものの、果たしてどこまで持ちこたえられるか不安が募る。 緩やかな登りが延々と続き、時間の割に標高を稼いでいないのが良く分かる。 H.Cも予定よりだいぶ下だったため、今日は長丁場となりそうで気が重い。 間もなく先行していた妻らのパーティーを全て追い越し、私達のパーティーが先頭に立つ。 今日のマックスは先日のイシンカよりも少し早いペースで登るが、ルートやクレバスを確認しているのか度々足を止める。 長い時は2〜3分も立ち止まるので体が冷える。 寒さで電池が消耗したのかヘッドランプの灯火が暗く、風が正面から吹き付ける時も目をしっかり開けていなければならず疲れる。 遥か眼下に麓の村の夜景がおぼろげに見えた。
4時過ぎに風の弱い場所で初めて休憩となった。 今のところ指先や足先は温かくはないものの、冷たさを心配することはなくありがたい。 マックスは引き返そうという素振りも見せず、後続のパーティーと入れ違いに先に進む。 相変わらず強い風に苛まれながら緩やかな斜面をトラバース気味に登る。 1時間ほど登ると、急な雪壁の手前で後続のパーティーを待ちながらの休憩となった。 私のみならず、間もなく到着した妻を始め皆一様に強風でかなり消耗しているように見えた。 残念ながら三栗野さんの姿はすでになかった。 寒さに弱い妻も上へ行く自信がなくなったようで、引き返すことを考えていた。 トクヤラフの山頂には是非二人揃って立ちたいが、確かにこの状況が続けば私自身も相当厳しいので、妻には無理して登ることはないことをアドバイスする。 もう1時間もすれば明るくなるが、今日は陽射しに恵まれるかどうか定かでない。 平岡さんもこの強い風では山頂直下まで行けても、最後の核心部は登れないだろうと思っていたと下山後に語った。
全員が揃ったところでマックスを先頭に急な雪壁に取り付く。 長いアプローチが終わり、いよいよここからが本番のようだ。 すぐにセラック帯となったが、ルートを熟知したマックスは迷わずその間を縫うようにして通過する。 急斜面をジグザグに登っていくとようやく周囲が明るくなり、素晴らしい朝焼けのブランカ山群の山並みが目の前に広がった。 風も幾分弱まり、ようやく快晴の天気となったので嬉しかったが、女性パーティーの歩みが捗らなくなり、次第にその差は開いていった。 頭上には切り立った巨大な雪壁と芸術的とも思える頂稜部の雪庇(キノコ雪)が見え、その迫力ある姿に圧倒されるばかりだった。
マックスとアグリは立ち止まってしばらくルートを模索していたが、マックスはガイドグックに記されたノーマルルートを選び、北西稜に向かって左へトラバースを始めたが、アグリと割石さんのパーティーは違うルートを選び、後続の女性パーティー共々間もなく視界から消えた。 私達はしばらくトラバースを続けた後、一旦少し下ってから20mほどの急な雪壁を上からマックスに確保されながら登った。 ダガーポジションで前爪を利かせながらの登攀に息が上がったが、雪壁を登りきると意外にもそこはなだらかな雪原になっていた。 上空はようやく乾期らしい澄み切った青空となり、周囲の山々も輝き始め、山頂を待たずに素晴らしい展望が叶った。 意外にもマックスは自ら写真を撮り始め、私達にも写真を撮るように勧めた。 再び前方に切り立った雪壁を望みながら右方向に緩やかな斜面を登って行くと、頂稜部の巨大なキノコ雪の直下でアグリと割石さんのパーティーと合流した。 間もなく伊丹さんが平岡さんと二人で登ってきたが、話しを訊くと残念ながら妻と近藤さんは途中で引き返したとのことだった。 今は風も弱くなり暖かな陽射しにも恵まれるようになったが、やはりあの強風は相当堪えたに違いない。 周囲を見渡すと私達以外の登山者の姿はなかった。
生き残った隊員5人とガイド達は一丸となって核心部のキノコ雪の基部まで登ると、あれほど吹き荒れていた風は嘘のように止み、そこは日溜りのように暖かかった。 時刻は8時半になり、出発してからすでに7時間が経過していた。 空はますます青くなり、双耳峰のコパ(6188m)やワルカン(6125m)の向こうにワスカラン南峰(6768m)の山頂も見えた。 キノコ雪の基部からマックスがダブルアックスでルート工作に向かう。 1時間ほどの長い時間を費やし、私達が安全かつ確実に登れるように頂上直下からフィックスロープが張られた。 ザイルを解いて伊丹さんから順番にキノコ雪をユマールで登り、中間点で確保していたアグリの所に順次辿り着いた。 中間点からは高度感のある雪稜をユマールで登り、頂上直下の垂直に近い数メートルの雪壁を上からマックスに確保されながら最後の力を振り絞って登りきると、伊丹さんが放心状態で座っていた。 そこから先は威圧的なキノコ雪の下からは想像もつかないような緩やかな雪のスロープが指呼の間となった山頂に向けて延びていた。 荒々しい氷河を身にまとったパルカラフ(6274m)が眼前に迫り、イシンカからも良く見えたワンサン(6395m)もすっきりと望まれ、登頂を目前にして最高の気分だ。 雪壁の上で写真を撮りながら皆を待つ。 田路さん、栗本さん、割石さんが続き、最後に殿の平岡さんの笑顔が見えた。
再び皆でザイルを繋ぎ、目頭が熱くなるのを抑えながら紺碧の青空に吸い込まれるように山頂に向かう。 ほんの僅かな登りで全員一緒に憧れのトクヤラフの頂に辿り着いた。 眼下にはトルコ石のような青い氷河湖が望まれ、ランラパルカ(6162m)も目線の高さだ。 あれほど吹いていた風が嘘のように止み、快晴無風の頂となることを誰が想像しただろうか!。 皆で肩を叩き合いながら登頂を喜び、はちきれんばかりの笑顔で写真を撮り合う。 登る前からメインのワスカランよりむしろこの山に登りたかったので、登頂が叶って本当に嬉しかった。 時計を見るとすでに11時を過ぎていた。
下りはユマールと懸垂下降でキノコ雪の基部まで下り、登りと同じパーティー編成でH.Cに下山したが、途中から再びマックスはアグリや平岡さんのパーティーと違うルートを下ったので、私達の隊が一番遅く2時半過ぎにH.Cに着いた。 途中で引き返した妻ら3人も元気でH.Cで過ごしていたようで安堵した。 妻に簡単に登頂報告をしてから、休む間もなくB.Cへ下る支度をする。 疲れてはいるものの、ここより遥かに快適なB.Cへ下れると思えば苦にならない。 昨日はH.Cから見えなかったトクヤラフが間近に仰ぎ見られたが、その頂は登った後でも神々しく、あらためて登れて良かったと思った。
3時半にH.Cを出発。 下るスピードは早く、僅か2時間足らずでB.Cに下山した。 間もなくトクヤラフが夕焼けに染まり、有終の美を飾ってくれた。 夕食は暖かいクリームシチューだった。 味はもちろん言うまでもない。 トクヤラフには全員登頂出来なかったが、予定どおりの日程で無事プレ登山が終わったことで皆の気持ちも和らいでいた。 明日は登山口へ下山するだけなので、体のことは考えずに久々にお腹一杯に食べた。
7月29日、山の神の気まぐれか、早朝から雲一つない快晴の天気で風もない。 今日がアタック日だったら全員登頂出来たに違いなく、一日違いの好天が恨めしい。 荷物をロバに託し、9時過ぎに想い出多いイシンカ谷のB.Cを後にする。 途中何度も振り返りながらトクヤラフの写真を撮る。 次第に狭隘となるイシンカ谷を下り、正午前に往きと同じ広い牧草地の傍らでランチタイムとなるが、またもやここでアブに額の同じ所を刺されてしまった。
牧草地から谷を離れると、登山口のコチャパンパに向けて緩やかな起伏の尾根道となる。 間もなく往きには見えなかったワスカラン南峰やコパ(6188m)が大きく望まれ、思わず皆で歓声を上げる。 今日はウルス(5495m)やオシャパルカ(5888m)もすっきり望まれ、図らずもペルーに来てから一番の好天となった。 コチャパンパにはすでにエージェントの車が待っており、お世話になったスタッフ達と再会を誓ってワラスに向かう。
山の斜面に広がるワラスの町は坂道が多かった。 今日から滞在するホテル『アンディーノ』も町を見下ろす高台に建っていたが、このホテルはワラスで一番高級らしい。 ホテルの展望台からもワスカランが良く見えた。 チェックインを終えると、平岡さんから日本人の登山者一人がガイドと共にワスカラン北峰で遭難したというニュースが伝えられた。 風が一番強かった一昨日のことだろうか?。 それにしてもマイナーなワスカラン北峰にガイドと登る日本人がいたということがとても意外だった。 やはり今年は天候が不順なので、ワスカランもルートのコンディションが悪いのだろうか?。 トクヤラフには運良く登れたが、ワスカランは登れないかもしれないという思いが脳裏をかすめた。
久々にシャワーを浴びてから、プレ登山の打ち上げをするため皆で街の中心部に歩いて下る。 途中のクリーニング屋に洗濯物を預け、地元の人で賑わうレストランに入る。 牛の心臓の串焼きなど沢山のメニューがありなかなか面白い。 注文を終えると平岡さんから、ワスカラン北峰で遭難した日本人は知人でペルーの山の師匠の三井さんだったという最新の情報が伝えられ、あまりの驚きに思わず大声で叫んでしまった。 もちろん今夏も三井さんがペルーに滞在し、山を登られていることはメールでのやり取りで知っていたが、ホテルでの遭難の第一報の時は全くそんなことは思いもつかなかった。 打ち上げの宴も上の空だ。 平岡さんがエージェントからその後に聞いた情報では、馴染みのガイドのクラウディオと共に深いクレバスに転落し、後日仲間のガイドがクレバスの中で遺体を確認したらしいが、依然として詳細は不明のようだった。 帰国後は真っ先に今回のペルーの山行の報告をすることを楽しみにしていたので、全く想像も出来ない事態にただ呆然とするばかりだった。
7月30日、図らずも夜中に三井さんの夢を見た。 現地にいても未だその現実は受け容れられない。 目がむくんでいるような感じがしたので鏡を見ると、左目のまぶたが大きく腫れあがり、目が半分しか開いていなかった。 疲れや脱水症状とは明らかに違い、2度も同じ所(額)をアブに刺されたことが原因のようだった。 天気は今日も快晴で、ホテルからワスカランやチョピカルキ(6354m)・ワンドイ(6395m)などが見えた。 今日は予定どおり休養日ということで、午前中は皆と『モンテレー温泉』という温泉施設に遊びにいくつもりだったが、大事をとって目の腫れが引くまでホテルで静養することにした。 妻と近藤さんも疲れ気味なので温泉には行かなかった。
温泉に遊びに行く元気なメンバーを玄関先で見送り、ホテルにあったPCで三井さんの遭難の情報を収集する。 意外にも今回の遭難は日本のマスコミにも大きく取り上げられたようだった。 卓越した登攀技術と経験、そして馴染みのガイドのクラウディオと臨んだワスカラン北峰で何が起きたのだろうか。 遭難したと伝えられる25日は私達がイシンカに登った日だった。 あの日は好天だったが、ワスカラン方面には雲が湧き、確かに山は見えていなかった。 今年はやはり例年よりも積雪が多く、雪崩やヒドゥンクレバスが多いのかもしれない。 三井さんの遭難により、私達の今後の登山活動にも影響が出るだろうし、同じ山にこれから向かおうとする私達の前途も全く例外ではない。 山登りを続けて行く以上、いつか三井さんと同じ運命を辿ることになるのかと考えさせられる。
夕食は今日も皆で一緒に食べることになり、街の中心部まで歩いて下る。 途中のクリーニング屋に預けた洗濯物を受取り、地元の人で賑わう庶民的な無国籍風のレストランに入る。 色々なメニューを注文し、皆でシェアしながら楽しく食べた。 予定では明日からワスカランに入山することになっていたが、平岡さんから三井さんの遭難で山が騒がしく精神的に落ち着かないので、明日もう1日ワラスで休養してから入山しましょうという提案があった。 私はもちろんのこと、隊員一同この提案に異論はなかった。
7月31日、天気は今日も快晴だ。 つい先日までは乾期としては不安定な天気だったが、これからは毎日こうした天気が続いてくれるのだろうか。 ワラスの標高は3090mで、このホテルは高台にあるので3200mくらいだが、高所にもだいぶ体が慣れてきたようで体調はとても良い。
今日は皆で昼食とワラスの町の散策、そして土産物を物色したりして時を過ごす。 ダウンタウンの廉価な中華料理店で昼食を食べ、お決まりの市場の見学をする。 乾燥させたトウモロコシなどの穀物やイモの種類が多いのが印象的だった。 平岡さんと市場の場外にある雑貨屋に立ち寄り、ペルー在住で日本人の登山者の面倒をボランティアでみている谷川さんと会った。 当然のことながら谷川さんも三井さんの遭難の件ではご心労のようだった。 谷川さんの話では、遭難の状況について当時情報が錯綜して諸説が報道されたが、実際には最終キャンプからアタックに出発した日の夜になってもテントに戻らなかったこと以外の事実は何も分かっていないということで、本格的な捜索活動をするため三井さんのご家族や三井さんの知り合いの和田さんもエクアドルからこちらに向かわれているとのことだった。 谷川さんとしばらく雑談してから土産物を物色してホテルに戻った。
夕食は昨日モンテレー温泉に行ったメンバーが昼食を食べたという繁華街のフランス料理の店に行き、その店の看板メニューのクレープの包み焼き料理に舌鼓を打つ。 お腹一杯に食べられるのも今日までだ。 当初は全く期待していなかったが、ペルー(ワラス)では殆どの店で美味しい料理が安心して食べられることが分かった。 平岡さんの大学の山岳部の後輩のNHKのカメラマンが、ワスカランの登山シーンの収録にワラスに来ているとのことだったが、その番組では私達の登山隊のガイドのマックス達がワスカランを登るシーンがメインとのことで、私達と入れ違いにワスカランに入山するようだ。 マイナーなペルーの山が日本に紹介されることは嬉しいことだ(後日『グレート・サミッツ』というタイトルで放映された)。
【ワスカラン】
8月1日、快晴の天気は今日も続いた。 今日から5泊6日の日程で、ペルーそしてブランカ山群の最高峰のワスカラン南峰(6768m)へ登る。 朝食を食べているとガイドのエロイとスタッフ達がホテルに集合し、登山口までのアプローチには相応しくないような大きなバスで8時過ぎに出発する。 途中でガイドのアグリやマックスを自宅の前でピックアップしたが、彼らの家は意外と広くて大きかった。 先日滞在したカルアスのディアスさんの店にアイスクリームを食べようと立ち寄ったが、あいにくまだ開店しておらず空振りに終わった。 もちろんディアスさんも三井さんのことで大変ご心労のようだった。 ユンガイの手前のマンコスという小さな村から幹線道路を右折して山道に入る。 道路は未舗装だが全く問題なく、僅かな時間で登山口のムーショの集落に着いた。 高度計の標高は3160mで、ワラスとほぼ同じ高さだ。 バスが停まった所には昔ながらの素朴な食堂とトイレやベンチがあり、ロバやスタッフ達が揃うのを待つ。 村の子供達が珍客にお菓子をねだりにやってくる。
10時半に今日の目的地のB.C(4300m)に向けて出発する。 眼前には目指すワスカラン南峰や北峰が大きく鎮座し、そのスケールの大きさと頂の遠さに今更ながらため息をつく。 僅かに進んだ車道の終点から登山道に入る。 入口には『B.Cまで5.5キロ』と記された標識があった。 季節は冬だが陽射しは強く、氷河から流れ出す沢の水が豊富なため、周囲には青々と葉を茂らせた畑が多く見られた。 女性や子供達が農作業に励んでいる姿が見られたが、皆活き活きとして楽しそうだった。 植林されたユーカリの木々に覆われた登山道を緩やかに登って行く。 所々で木々が疎らになると暑いので日陰を選んで歩く。 休憩を挟んで2時間ほど登った所に大きな露岩があり、その岩の上でランチタイムとする。 まだB.Cよりも下なので行動食ではなく、先行したラウルが用意してくれた豚肉料理をパンでいただく。 露岩の上は適当に風もあり、昼寝をしたくなるような心地良さだったが、近藤さんが少し遅れて到着したことが気掛かりだ。
露岩を過ぎると登山道の傾斜は増し、間もなく森林限界となって展望が良くなった。 前方にはワスカランの南峰と北峰の頂稜部が中間部の巨大な岩盤層の上に神々しく仰ぎ見られたが、その距離や高さは先程よりも大分縮まったように感じられ、少しばかり現実的なものになってきた。 北峰は今回目指す山ではないが、三井さんのことを思うとカメラを向ける回数が南峰よりも多くなる。 相変わらず近藤さんの歩みが捗らず、所々で休憩しながら待つ。 抗癌剤治療の後遺症を克服して頑張っている姿には本当に頭が下がる思いだ。
荷上げ用のロバ達と入れ違いに夕方の4時半にB.Cに到着。 傍らの標識には4200mと記されていた。 高度計の標高は4280mだったので、ムーショからの標高差は1120mだった。 B.Cは背後に迫る岩盤層との境目に人工的に作られたような感じで、テントサイトは小さな段々畑のようだった。 すでにスタッフ達によりテントは設営されていたので、荷物を運び入れてから食堂テントで寛ぐ。 他のパーティーはいないようだ。 夕食前にC.1とC.2の雪上のキャンプ地で自炊するアルファー米とふりかけ、インスタントの味噌汁、水もどし餅などが配られた。
巨大な岩盤層の真下にあるB.Cからは山頂方面は見えない。 眼下には麓の集落や畑といった牧歌的な風景が広がり、その向こうには目線の高さに雪のないネグロ(黒い)山脈が延々と連なっている。 夕焼けが綺麗で、明日も晴天が続きそうだ。 美味しいラウルのディナーが食べられるのも今日で最後なので、お腹一杯という訳にはいかないが、それなりにお腹を満たす。 順応は進んでいるので明日のC.1(5200m)も問題ないと思うが、今日が最後の幸せな夜だ。
8月2日、周囲が明るくなった6時半に起床する。 妻共々睡眠中の頭痛もなく体調は良い。 食堂テントで朝食を食べるが、まだ陽が当らずに寒い。 9時に今日の目的地のC.1(5200m)に向けて出発する。 B.Cの片隅に『キャンプ・モレーナ(標高4850m)まで3キロ』と記された標識があった。 B.Cの裏手のロープが付けられている急な岩場をひと登りすると巨大な岩盤層があらわれ、ケルンに導かれながら右方向に平らな岩盤の上をトラバース気味に延々と登る。 岩盤は古くは氷河で覆われていたそうで、氷河により表面が磨かれスラブ状になっていた。 間もなく岩盤層に隠されていたワスカラン南峰と北峰の頂稜部が頭上に見え始めた。
正午前に数年前に建てられたという新しい山小屋に着いた。 高度計の標高は4680mで、山小屋の入口の看板にはそれとほぼ同じで4675mと記されていた。 B.Cにあった標識の表示とだいぶ違うのはなぜだろうか。 石造りの山小屋はとても大きくて立派だったが、登山者よりもトレッキングをする人達に利用されているような感じがした。 傍らに国立公園の管理事務所があり、エロイが代表して全員の名前などを入山届けに記入する。 三井さんの入山届けを管理人さんにお願いして見せてもらう。 入山日は7月22日で、行き先は意外にもワスカラン南峰となっていた。 管理人さんに話しを伺うと、やはりまだ下山されていないとのことだった。
山小屋の前で30分ほど休憩し、再び傾斜を増した岩盤の上をジグザグに登る。 1時間ほど登るとようやく氷河の舌端(取り付き)に着いた。 取り付きで1時間ほど大休止してランチタイムとし、休憩後はアイゼンを着けて“盾”と呼ばれるワスカラン南峰の切り立った西壁に向かってなだらかな雪面を真直ぐに登る。 クレバスはないようでザイルは結ばない。 一般的には西壁を登ることは出来ないので、明日はC.1から左方向にトラバース気味に登ってC.2のガルガンタのコル(南峰と北峰の間の広い鞍部)を目指す。 そして明後日のアタック日はコルから右に伸びる稜線を登ることになる。 今日は風もなく穏やかで、先日の強風に苛まれたトクヤラフとは大違いだ。 次第に凄みを増して近づいてくる南峰と北峰に胸を躍らせながら、足取りも軽く淡々と登って行く。
取り付きから休憩も含めて2時間ほど登り、夕方の4時半にスタッフ達によりテントが設営されていたC.1(5200m)に着いた。 高度計の標高は5280mだったので、B.Cからの標高差はちょうど1000mだった。 左手には北峰が岩盤帯から仰ぎ見た山容とは違う尖った頂に姿を変えて偉容を誇っている。 C.1にも他のパーティーは見られなかった。
今日からテントは3人住まいとなり、前回同様に栗本さんと田路さんと一緒になる。 キャンプ地から見た夕焼けはとても綺麗で、ピンク色に染まる南峰をバックに皆で交互に写真を撮り合った。 体調は今のところ良く、ここが最終キャンプ地なら嬉しいが、明日はもう一つキャンプを上げなければならない。 陽が沈むと急に寒さが厳しくなった。 今日からはアルファー米とふりかけ、そしてインスタントの味噌汁だけの夕飯だ。 明朝は危険なセラック帯を通過するために暗いうちからの出発となるので、夕食後は早々に眠りに就いた。
8月3日、4時半の出発に合わせて3時に起床する。 夜中に軽い頭痛が一度だけあったが、この高度にしてはほぼ順調だ。 パルスでの計測でも酸素飽和度は81%あった。 妻もまずまずの体調らしく安堵する。 今日は明日のアタックと同じメンバーでザイルを結ぶことになり、マックスには栗本さん、三栗野さん、割石さん、エロイには近藤さん、伊丹さん、田路さん、そしてアグリには私と妻が繋がり、殿(しんがり)を平岡さんが務める。
まだ真っ暗な5時前に今日の目的地のC.2のガルガンタのコル(5900m)に向けて出発する。 早朝の出発は寒くて辛いが、明日のアタックに向けての装備の最終チェックが出来ることがありがたい。 スタッフ達も素早くテントを撤収して後から続く。 今回はスタッフ達の殆どがガイド見習いの精鋭で、荷上げはもちろんのこと、時には先頭でラッセルもする強者揃いだ。 C.1から上もしばらく緩やかな登りが続いたが、傾斜がやや増してくるとクレバスがあらわれ、迂回しながら進む。 周囲が白み始め、頭上に核心部のセラック帯が見えてきた。 C.1から1時間半ほど登り、セラック帯の手前で休憩となった。 やや風があり寒さが予想以上に厳しい。 セラック帯に入ると傾斜は一段と急になり、スタカットで登る急斜面では渋滞もあった。 帰りのルートを担保するため、ガイド達が小さな赤い旗を要所要所に立てていく。 上空には昨日までは見られなかった寒々しい白い薄雲が見られ、時折風花が舞うようになった。
1時間ほどで核心部のセラック帯を抜け一息入れるが、風が冷たくて休んだ気にならない。 昨日はまずまず順調そうだった近藤さんが今日はまた辛そうだ。 先行したスタッフ達がつけてくれた立派なトレースに助けられ、左方向のガルガンタのコルへと斜上していく。 小さな尾根を乗越すとようやく広いガルガンタのコルの末端が見えてきたが、そこから先は沢状地形となっていて50mほど下る。 相変わらず風が冷たく、高所の影響もあり体が全く温まらない。 自然に登るペースも速くなり、一番後ろを登っていた私達のパーティーがいつの間にか先頭になっていた。
朝陽がようやく当たり始めた所で後続のパーティーを待ちながら休憩し、平岡さんが私達のザイルから外れて後続隊と繋がり、そこからはアグリと私と妻が3人で先行する。 すでにスタッフ達の姿は見えなくなっていたので、この先のルートの状況やC.2の位置が掴めず少しやきもきしたが、そこから僅かに登った所がちょっとした平坦地になっていて、すでにスタッフ達によりテントが設営されていた。 本来のC.2は地形的にもう少し先のように思えたが、風が強いのでこの場所になったような感じがした。 高度計の標高は見忘れたが、早出したため時刻はまだ10時だった。 テントサイトも結構風があり、じっとしていると寒い。 10分ほど後続隊が登ってくるのを待ち、テントを割り振って荷物と共に中に入る。
風は次第に強まり、風に飛ばされた雪が地吹雪のようにテントを叩く。 時折雲間から陽が射すとテントの中が猛烈に暑くなるが、風が強いのでテントの入口を開けることも出来ず、逆に陽が陰って風が強まると急に寒くなるので温度調整がとても難しい。 狭いテントの中で座ったり横になったりしながら我慢して過ごすしか術がなく、ただでさえ負荷がかかる高所ではとても辛い。 隣のテントの妻のことが心配だったが、様子を伺うことも今日はままならない。 この風の中をガイド達は明日のルートの下見に行ったようだったが、風が強いのでトレースは残らないだろう。 少し離れたスタッフ達のテントでは常に笑い声が聞こえ、その余裕が羨ましかった。
夕方、平岡さんが明日のスケジュールの説明と健康状態の確認のためテントに顔を出した。 パルスでの計測では酸素飽和度は57%しかなく脈も90だったので、慌てて複式呼吸を繰り返す。 高山病の自覚症状はないが、数値を見ると気が滅入る。 明るいうちに夕食のアルファー米を食べ、6時には皆シュラフに潜り込んだ。 その後も風は一向に収まらず、前回のトクヤラフと似たような状況になり、ふと三井さんのことが頭に浮かんだ。
8月4日、2時の出発に合わせて零時過ぎに起床する。 風の音でほとんど眠れなかったが、緊張と興奮で全く眠くはない。 この高度で一晩大過なく過ごせたので数値に関係なく順応はOKだろう。 風は少し弱まったが、依然として小雪が舞っている。 平岡さんからアタックの有無についての指示はなかったが、昨夜食べ残したアルファー米にお湯を足してお茶漬けにして食べ、狭いテントの中で身支度を整える。 雪が降り止まないので出発は少し遅れるだろうと思い始めたころ、平岡さんがテントに顔を出し、予定どおり2時に出発するとの指示があった。 意を決して用便に行くが、テントの周りにはクレバスがあり、足元の安定している所は風が強い。 ほんの少しお尻を出しただけで、凍傷になるほど寒さが厳しかった。 妻に体調のことを聞くと、まずまずのようで安堵する。
パーティーの編成は昨日と変わり、チーフガイドのマックスには栗本さん、田路さん、割石さん、ガイド見習いのアブラン、エロイには近藤さん、三栗野さん、ガイド見習いのホエールとロナウ、アグリには私、妻、ガイド見習いのロベルト、平岡さんには、伊丹さん、ガイド見習いのバレンティンがそれぞれザイルで繋がり、磐石の体制で臨むことになった。 2時過ぎに準備の出来たパーティーから順次出発していく。 結局私達が一番遅くなり、2時半近くになってようやく出発した。
キャンプ地から少し下り、だだっ広いガルガンタのコルの中心に向かって緩やかに登っていく。 雪は降っているのか風で飛んでくるのか分からないが、一向に降り止む気配はなかった。 今日も帰りのルートを担保するために、ガイド達が赤い旗を要所要所に立てていく。 予想どおりコルは風の通り道となっていて、まるで吹雪の中を歩いているような感じだった。 それでも風はトクヤラフの時よりは弱くて助かった。 ジャケットのフードを深く被り、目線を足元だけに置いて黙々と勾配の緩い単調な登りを続けていく。 こんな状態では身も心も山頂までもたないだろう。
C.2を出発して1時間ほどでようやくガルガンタのコルから勾配のある南峰への登りに入った。 アグリはセカンドの妻との間のザイルだけを短く直した。 風雪に耐えながら幅の広い雪稜をしばらく登っていくと、オーバーハングした雪壁の基部で前のパーティーが足を止めていた。 先頭のマックスがこの先でルートファインディングをしているのだろう。 図らずもそこで休憩となったが、近藤さんは体調が思わしくなく、残念ながらすでにホエールとC.2に引き返したようだった。 雪が降り止まないので今日はここで撤退かと思い始めた時、ようやく前のパーティーが動き出した。 ピッケルを打ち込みながら雪壁の基部に沿って左から回り込むように登る。 この天気でもまだ先に進むということは、マックスが撤退を考えていない証拠だ。 嬉しい反面、不安な気持ちもあり複雑な心境だ。
6時を過ぎたが天気が悪いので周囲はまだうす暗い。 先頭のマックス達のパーティーが新雪に印したトレースをジグザグを切りながら黙々と登る。 すでにジャケットは風雪によりバリバリに凍り付き、まるで鎧を着ているような感じになっていた。 間もなく頭上に大規模なセラック帯が朧げに見え始めた。 セラック帯の入口から私達のパーティーが先行することになったが、視界が悪いのでルートファインディングに時間が掛かる。 先頭のアグリが行き詰まった状況を見て、後ろのマックス達が違うルートで進んだので、私達はそこから渋々引き返して再びマックス達の後に続いた。
しばらく登るとちょっとした平坦地があり、ようやくまともな休憩となった。 高度計は電池の消耗で標高が表示出来なくなっていたが、恐らく6300mくらいだろう。 雪は止んだが霧が濃く、周囲の状況は全く分からない。 風は弱まったものの吹き止むことはなかった。 すでに8時半になっていたが頼みの陽射しにも恵まれず、体力の消耗も手伝って寒気がする。 私のみならずパーティー全体も明らかに消耗していた。 最後尾の三栗野さんのパーティーの姿はまだ見えない。 この状況を見た平岡さんから、登山の継続の意思についてメンバー各人に意見が求められた。 平岡さんの説明では山頂まで少なくともまだ3〜4時間掛かるので、山頂まで登る自信がない人はここから引き返すことも選択肢としてあるとのことだった。 私はギリギリだがまだ体力と気力は残っていたので、マックスや平岡さんが撤退を決断しない限り、今の時点では登り続けることに迷いはなかった。 一方、前回のトクヤラフの件があったので、今日こそは何とか妻と一緒に山頂に立ちたいと願っていたが、今の状況では自分のことだけで精一杯で妻のフォローは出来ないため、あらためて妻と話し合ったところ、妻は迷わず引き返すことを決めた。 私も妻の経験と体力を考えると、それが正しい選択だと思えた。 メンバー各々が苦渋の決断した結果、妻と割石さん、栗本さんの三人がアグリ、アブラン、ロベルトと共にC.2に引き返すことになり、私と田路さん、伊丹さんの三人がマックス、アブラン、バレンティン、そして平岡さんと山頂を目指すことになったが、この状況下ではメンバー各々が正しい選択をしたと思った。
ここからはパーティーの編成を変え、マックスにアブランと私、そして平岡さんに伊丹さん、田路さん、バレンティンがザイルで繋がった。 濃霧で周囲が見えないため、セラック帯が終わったのかどうか判然としなかったが、雪が深いこと以外は特に困難な局面はなく、高所らしいゆっくりとしたペースで登る。 相変わらず陽射しはないが風は少し収まり、歩いていれば寒さはさほど感じなくなった。 小1時間ほど登ると先頭のマックスが足を止めた。 どうやら大きなヒドゥンクレバスが斜めに走っているようだ。 マックスはクレバスの縁に沿って上下に歩き、渡れる場所を探していたが、その慎重さは尋常ではなく、30分以上もアブランと共にクレバスの中を覗きこんでいた。 三井さんの一件があったせいだろうか。 その様子を静観していた平岡さんが業を煮やしてマックスに確保を頼み、クレバスを勇んで飛び越えたので一件落着したが、ヒドゥンクレバスを発見してから平岡さんに確保されて全員がクレバスを渡り終えるまで1時間近くかかった。 しかしながらその間に一瞬霧が晴れ、背後の北峰が目に飛び込んできた。 上空は晴れていることが分かり、冷え切っていた心と体に勇気と希望がみなぎった。
クレバスを越えてからも単調な登りが続き、やがて傾斜が緩くなってきた。 時々周囲の霧が部分的に晴れ、山頂方面や背後の北峰が見えるようになり、天気の回復が僅かばかり期待された。 後続のパーティー(エロイ・三栗野さん・ロナウ)の姿も豆粒ほどに見えた。 風が収まってきた所でようやく休憩となった。 平岡さんの提案で私とバレンティンが入れ替わり、ここからはマックス、アブラン、バレンティンの3人が先頭でトレースを作り、平岡さん、伊丹さん、田路さん、私の4人が後に続くことになった。 ペースは相変わらずゆっくりで楽だが、広大なスロープを右方向に延々と斜上しながら登っていく感じで標高が全然稼げない。 あらためてワスカランのスケールの大きさを実感する。 1時間ほど登ると暖かな陽が射してきた。 ワスカラン北峰がようやく目線の高さになり、トクヤラフの再来かと喜んだのも束の間、しばらくすると再び濃霧に閉ざされてしまい、以後二度と晴れることはなかった。
傾斜が一段と緩んだ所で最後の休憩となった。 すでに正午を過ぎ、予定よりも大幅に遅れているので、時間切れになるのではないかと心配になる。 小用の痕を消そうとアイゼンで雪を削ったことが原因で右足のアイゼンが外れてしまったことに気が付かず、後ろから大声で平岡さんに報告する。 平岡さんは顔色を曇らせたが、ここで対策を講じていたら登頂はおぼつかないので、無理やり拝み倒してそのまま登らせてもらう。 幸い傾斜が緩かったので登りに関しては全く支障はなかった。
霧はますます濃くなり、視界は20mほどしかなくなった。 殆どホワイトアウトしたこの状況で登山を継続出来るのは、この山を知り尽くしたマックス達のお陰だ。 前方でマックスが両手で頭の上に○印を作っている姿が見えた。 いよいよサミットかと思い胸が高鳴ったが、そこに着くとマックス達は再び逃げるように先に進んで行った。 さてはすぐその先が本当の山頂かと思ったが、一向にそれらしき所が見えてこない。 そのうち再び風が強まってきて、消耗している体に追い討ちをかける。 殆ど平らに近い頂上稜線を風雪に耐えながら開き直って歩き続ける。 もう何が起きても頂を踏むしかない。
前方で再びマックス達が佇んでいる姿が見えた。 その傍らには朧げに何本かの旗が見えた。 田路さんとマックスが抱き合っている。 今度こそ本当のサミットだ!。 平岡さん、伊丹さん、田路さん、マックス、アブラン、バレンティンと次々に握手を交わし、肩を叩き合って登頂を喜び合う。 辿り着いた憧れのブランカ山群の最高峰の頂からは、紺碧の青空も、周囲の名峰の数々も、そしてペルーの大地も見ることは叶わない。 しかしながら、風雪に耐えて登頂出来た達成感と安堵感がそれに勝り、感動と興奮がいつまでも覚めやらない。 妻、そしてメンバー全員の登頂が叶わなかったことが唯一惜しまれる。 風景の写真は撮れないので、皆で記念写真を何枚も撮り合う。 登頂時刻は2時20分で、C.2を出発してからちょうど12時間だった。 マックスがC.2のアグリと無線で交信する。 C.2へは明るいうちに下山出来そうにないので、無線の存在が本当に心強い。
愛しい山頂に20分ほど滞在して下山する。 右足のアイゼンがないので私達のパーティーの先頭を田路さんに代わってもらう。 最後に休憩した所でアブランが私のアイゼンを見つけてくれたので助かった。 残念ながら後続の三栗野さんのパーティーはどこかで引き返したようですれ違わなかった。 時間に余裕はないが、マックスは所々でクレバスの状態を慎重に確認しながら進んだため、セラック帯の途中で暗くなった。 ヘッドランプを点けての下山はさらに時間が掛かかった。 すでにテルモスの紅茶などは飲みきってしまったので、高山病の予防に時々雪を拾って口に含む。 下方のガルガンタのコルに灯りが見えた。 間もなくC.2からアグリ達が温かい飲み物を持って私達のサポートに来てくれ、消耗しきっていた体も心も一気に温まった。
山頂からの下山も登りの半分の6時間近くを要し、夜の8時半過ぎにようやくC.2に戻った。 18時間にも及ぶ長い道のりだった。 あらためて平岡さんやマックス、アグリ、エロイ、そしてスタッフの皆に感謝の気持ちを伝え、伊丹さんと田路さんを労いながらザイルを解く。 寒々しいテントの中で私達が下山してくるのを首を長くして待っていた妻らに控えめに登頂の報告をし、スタッフが作ってくれた温かいスープをいただいて装備を解く。 全てを終えて眠りについたのは夜も更けた頃だった。
8月5日、8時の出発に合わせて6時過ぎに起床する。 昨夜は疲れていたが興奮していたのであまり良く眠れなかった。 少し風はあるが上空は青空で、昨日とはうって変わって良い天気だ。 この天気だったらもっと楽しく全員が登頂出来たに違いない。 今日の青空が本当に恨めしい。 8時半近くなってC.2を出発。 今日はC.1を経てB.Cまで下る。 間もなく下から登ってきたパーティーは三井さんの捜索隊だった。 悲しいかな今の私にはその輪の中に入ることも出来ず、彼らの手に捜索を委ねるしかなかった。 登頂という夢は叶ったものの、再び現実を突きつけられ、後ろ髪を引かれる思いだった。
一昨日は気が付かなかったが、セラック帯の上部からは氷河とその下の岩盤帯との境目が見えた。 セラック帯の雪の状態は非常に良く、スノーブリッジやトレースもしっかり残っていた。 核心部の30mほどの急斜面はロアーダウンで順番に下る。 セラック帯の下部からは待望の陽射しに恵まれるようになり、C.2から3時間足らずでC.1に着いた。 稜線から雪煙が上がっているので風は強いかもしれないが、本当に今日は良い天気となり悔しい限りだ。 ここから先は危ない所はないので、所々で写真を撮りながらのんびりムードでキャンプ・モレーナへ下る。
C.1から1時間足らずで氷河の舌端(取り付き)に着き、ザイルを解いてランチタイムとする。 もう何も気にすることなく食べられるのが嬉しい。 ランチの後も取り付き付近でのんびり寛ぎ、スタッフ達がわざわざB.Cから担ぎ上げてくれたトレッキングシューズに履き替えてB.Cへ下る。 身も心もすっかり軽くなり、岩盤帯をハイキングモードで歩く。 3時半に待望のB.Cに着き、夕食の時間まで昼寝を決め込んだ。
夕食は期待どおりラウルが手の込んだ料理を沢山作ってくれ、久々に皆で舌鼓を打つ。 明日以降も下界で打ち上げの宴が続くだろうが、登頂の記憶が新しいB.Cでの打ち上げが一番だ。 アルコールはないが、登山活動も実質的に今日で終わったことで、夜遅くまでダイニングテントは賑わった。
8月6日、今日は登山口のムーショの集落まで下山し、迎えのバスでワラスのホテルに行くだけなので、ゆっくりと陽が当りはじめてから起床する。 昨夜の打合わせどおり、朝食後にガイドやスタッフ達にチップを手渡すセレモニーを行う。 マックスを頭とする今回のガイドチームの働きぶりは本当に素晴らしく、とても頼りがいがあった。 度重なる悪天候の中、素人の私がトクヤラフやワスカランの頂に立つことが出来たのも彼らの存在があってのことだ。 平岡さんがこのチームに“世界一”と太鼓判を押す理由も充分納得出来た。 チップを手渡す前に、平岡さんの提案で不用となった山道具や身の回りの物を個人的にガイドやスタッフ達にプレゼントする。 太っ腹にも伊丹さんと近藤さんが今回使った登山靴を供出すると、皆次々と色々な山道具を惜しみなく彼らに贈ったので場の雰囲気はさらに盛り上がった。 私はペルーにはない中型のテルモスを下山後にマックスにあげることにした。
登山隊全員での記念写真を撮り、ムーショから上がってきたロバに荷物を託して10時過ぎにB.Cを発つ。 何度も後ろを振り返りながら山を眺めて登頂の想い出に浸るが、三井さんのことを思うと手放しで喜べないのが辛い。 途中の大きな露岩を過ぎると緑がぐっと濃くなり、下山したという実感が湧いてくる。 足取りも軽くユーカリの林を抜け、1時半に登山口のムーショの集落に着いた。
迎えのバスの到着を待つ間に、昔ながらの素朴な食堂で昼食を兼ねた下山祝いをする。 今日から私もアルコールは解禁だ。 食堂は自炊となっていたので、ラウルが酒のつまみを作ってくれた。 意外にも冷蔵庫には沢山のビールが置いてあり、スタッフ達にもビールを振舞い、皆で乾杯して楽しい時間を過ごす。 久々に飲むビールで一同上機嫌となった。 ここでお別れとなる一部のスタッフ達との別れを惜しみながらほろ酔い気分でバスに乗る。 満場一致でカルアスのディアスさんの店に立ち寄り、酔い覚ましにお約束のアイスクリームを食べる。 夕方の5時過ぎにワラスのホテルに着き、シャワーを浴びてから皆で夜の街に繰り出した。