アコンカグアの想い出

  【南米への道】
   アコンカグア(6959m)は南アメリカ大陸の西部を南北に約4000kmにわたって縦断するアンデス山脈の最高峰であると同時に、同峰が聳えているアルゼンチンの最高峰でもある。 初登頂の歴史は浅く、1897年にスイス人のツルブリッゲンによってなされたが、現在では日本百名山の海外版である“セブンサミッツ(七大陸最高峰)”の一峰として旅行会社のパッケージツアーの対象にもなっている人気の山である。 南アメリカ大陸の国々にすら行ったことのない私にとって、同峰は憧れというよりは遠い遠い遙か異国の夢の中の存在であった。 しかし2000年の大晦日の日に登ったキリマンジャロ(5895m)の山頂で、高山病に冒された頭の中で“もしかしたら、あと1000m位は登れるんじゃないか”という錯覚に陥ったことが、同峰に登ってみたいという漠然とした憧れを抱くきっかけの一つになったようである。

   しかしながらここ数年、ヨーロッパアルプスの山々に魅せられていた私にとって、同峰はやはり遠い存在になりつつあった。 ところが一昨年の春、テレビで俳優の西田敏行さんが同峰に登るというドキュメンタリー番組を見てからは、不思議とこの山の存在がぐっと身近なものとなってきた。 キリマンジャロ登山の時にお世話になった貫田宗男さんが主宰している旅行会社で、年末から年始にかけてアコンカグアの登山ツアーが催行されることとなったため、年初に一応申込書だけは頂いておいた。 その後機会ある毎に、相棒の妻に「アコンカグアに登ってみないか」と再三の誘いをかけてみたが、冷静な妻は経済的理由と登山の困難性を理由に全く乗り気ではなかった。 計画は暗礁に乗り上げ、アコンカグアへの道は再び遠のいた。 しかし年末近くになり妻が突然腰痛を患ったことで、思いがけず妻から“登山許可”がおりた。 出発の3週間前にツアーの申込みを行い、連日の残業で仕事を片付け、週末はプラブーツ・羽毛服等の装備の調達に奔走し、慌ただしく出発の日を迎えた。

   2002年の12月21日の夕刻、成田空港に貫田隊長以下11名のアコンカグア登山隊の猛者たちが集合し、隊長からフライトスケジュールと簡単な隊員の紹介があった。 事前に電話で説明があったが、今回のツアーは定員不足のため、登山家の奥田仁一さんと同行する5名の隊員と合体する形で行われることになっていた。 キリマンジャロ登山でお世話になった廣永さん、モン・ブラン登山の際にお会いした貫田さんの会社の稲村さんを除けばこの時が初対面の方々である。

   廣永さんの後援会の会長、登山家の谷川太郎さん、そして愛妻らに見送られて隊員一同成田を出発。 南米大陸の最高地点を目指して3週間の山旅は始まった。 低気圧にでもつかまったのであろうか、のっけから飛行機の揺れが激しい。 縦揺れのみでなく横にも揺れている。 まるで悪路を走る車のようだ。 日付変更線を越えてもまだ揺れは収まらず、多難な前途を予感させた。 約10時間を費やしてロサンゼルスには定刻どおり着いたようであったが、空港でのセキュリティチェックに時間がかかり、3時間の乗り継ぎ時間もぎりぎりであった。 ロサンゼルスからはペルーの首都リマを経由してチリの首都サンチャゴまでここからさらに約13時間の長旅である。

   ところで今回のこの登山ツアーは、いわゆる“冒険登山”ではなく、日本人の登山ガイド(今回は貫田さん)と現地の登山ガイドによりサポートされた“管理(おまかせ)登山”とでも言うべきものであり、自ら計画して実践するという登山本来の姿とは、ある意味では趣を異にするものである。 その賛否は別として、今回の登山ツアーでは、2年前の通貨危機の後遺症で治安があまり良くないアコンカグアの聳えるアルゼンチンには直接行かず、隣国のチリで高所順応のためのプレ登山を行い、体を高所に順応させてからアルゼンチンに入って、一気にアコンカグアの頂を目指すという計画であった。


成田空港に集合したアコンカグア登山隊の猛者


   12月22日の未明、サンチャゴ空港へ着陸のため高度を下げつつあった飛行機の窓から、モルゲンロートに染まるアンデスの山並みを見ることが出来る幸運に恵まれ、その中で一際高く聳え立つアコンカグアの雄姿もハッキリと確認することが出来たが、その余りの神々しさについつい見とれてしまい、シャッターチャンスを逃してしまった。 飛行機の運行状況を表示する機内のTVモニターを見ると、この時間の高度7000mの外気温はマイナス23度であり、あらためてアンデスの高峰の厳しさを思い知ったと同時に、本当にこんな大きな山に素人の私が登れるものかと、心配を通り越して自分の愚かさに呆れた。

   午前6時半、サンチャゴに到着。 日本との時差はちょうど12時間であり、また緯度もちょうど日本と同じ高さであるため、正に地球の真裏に来たという感じである。 山の上とは違い下界は厚い雲に覆われていて、すでにアンデスの高い峰々は見えなくなっていた。 代わりに見える周囲の標高の低いなだらかな山々は、乾燥している気候のためか黄金色をした干し草のような下草が地肌を覆い、緑の低木がまるで斑模様を描いたように点在して生い茂っている。 空港からタクシーに乗り、日本の自動車メーカーの工場が両脇に立ち並ぶ幹線道路を北上し、長い坂道を登って40分ほどで標高約700mのサンチャゴ市内の高級住宅街の中にある5ツ星のホテルに到着した。 町中には所々にブーゲンビリア等が咲いていて南国の臭いがするが、早朝のせいかとても涼しく感じられた。

   正午前、先ほど空港に出迎えてくれた現地ガイド(エージェントであるKLアドベンチャー社所属)のイワン(33歳)とヘラルド(27歳)の2名と再びホテルのロビーで合流し、山行全般の打ち合わせと簡単なメンバー紹介を行った。 「ナンバーワン(チーフガイド)はヘラルドで、私はナンバートゥーです」と、地元のチリ出身の先輩格のイワンが、年下であるがアコンカグアに16回の登頂経験があるというアルゼンチン出身のヘラルドをおどけながら紹介した。 続いて私達も呼んでもらいたい名前や愛称で自己紹介を行うと、意外にも二人とも南米人らしからぬ?几帳面なタイプで、私達の名前等を何度も復唱し、一人一人を一生懸命覚えようとしていた。 また彼らは非常に好意的であるように感じられたが、単に商売の上ということではなく、最後の最後まで私達のことを暖かくもてなしてくれた本当に心の優しい方達であった。

   1時間程のミーティングの後、昼食を兼ねてサンチャゴ市内の散策に全員で出掛けることとなった。 ホテルのフロントで現地通貨のチリペソ(1$=約700ペソ)に両替し、タクシーで稲村さんらが下調べしておいてくれた中央市場へと向かった。 当初の予想に反して市内には近代的な高層ビルも多く、また車線の多い道路には車の交通量も多く、走行している車のスピードも速かった。 反面、貧富の差が激しいのであろうか、交差点には信号待ちの車の窓拭きをしたり、芸(お手玉)をしたり、物を売って小遣いを稼ぐ子供達の姿が多く見られたのが印象的だった。

   市場の中央には“観光用”と思われるオープンレストランがあり、ウニ、海老、鮑、ふじつぼ等の魚介類に舌鼓を打ち、食卓を囲みながら隊員同志のコミュニケーションを図った。 今回のような長旅ではチームワークは不可欠である。 予想どおり隊員達の中には私のような人生の失敗者はおらず、その大半が日本山岳会に所属しているというエリート集団であり、山歴のみならず人生経験も豊富な素晴らしい方々ばかりであった。 登山家の奥田さんは、最近ではレーサーの片山右京さんのエベレスト登山のガイドを務めたというバリバリの現役であり、あの西田敏行さんの番組にも彼のサポート役で出演されていたということや、最高齢(71歳)の熊本さんは、陸上競技の中距離(800m・1500m)のシニアの部の現役のアジアのチャンピオンであり、ホノルルマラソンでは年代別2位の記録をもっているスーパーアスリートであること等が分かった。 また、その後の山行中に伺った話によれば、女性の最高齢?の宮澤さんは、小さな体ながらもヒマラヤの6000m峰を7座も登頂されているという超ベテランであること、御夫婦で参加されていた植木さんのご主人は、日本300名山の完登やヒマラヤの高所トレッキングを楽しまれ、奥さん(淑美さん)は数年前に気象観測機器の交換を兼ねた大蔵隊でマッキンリーに登られたという猛者であること、晝間さんは女性ながらも単独幕営縦走のみならず、ロッククライミングやアイスクライミングを精力的に行っているバリバリのクライマーであること、そして一番若い26歳の飯塚さんは、直前にヒマラヤのシシャパンマ(8027m)にアタックされ、半年後に出身大学(東京農大)のOBでエベレストを登るための高所順応と訓練が目的で奥田さんに誘われて参加された伸び盛りの登山家であること等が分かった。 こんな素晴らしい隊員達と憧れの山を目指すこととなった私は本当に果報者であった。 先のキリマンジャロ登山の時もそうであったが、登山ツアーもこういう点では大いに意義がある。

   市場を後にし、デパート等が立ち並ぶ商店街を散策して、地下鉄を乗り継いでホテルに戻った。 夕食まで同室の廣永さんと近況報告をしながらのんびりと寛ぐ。 ホテルの夕食に出されたステーキは大変美味しく、アコンカグア登山にきたことを忘れてしまうほどであった。 夜は9時過ぎまで明るく、夕食後にホテルの前からプレ登山で登る予定の雪を戴いたエル・プロモ(5424m・“エル”とは山の意味)がすごく立派に見えた。 同峰は、近年その山頂で500年前に生贄にされた子供のミイラが発見されたことで、歴史的にも意義を持つ山らしい(アコンカグアもその山中で子供のミイラが発見されている)。


高級住宅街の中にある5ツ星のホテル『ケネディ』


ホテルの屋上から見たサンチァゴの市街地


市場の観光用のレストランで魚介類に舌鼓を打つ


市場から地下鉄を乗り継いでホテルに戻る


   12月23日午前9時、2台のワゴン車に分乗して今日の宿泊地であるファレヨネス(2300m)のロッジへと向かう。 終点にあるラパルバのスキー場への専用道路となっているつづら折りの山道を約1時間ほど車に揺られて行ったが、意外にも一番強そうだった貫田隊長が車酔いでダウンしてしまった。 想像していたより小綺麗なロッジのラウンジには翼を拡げたコンドルの剥製が飾られ、アンデスの山の雰囲気を盛り上げていた。

   貫田隊長の体調の回復を待って、パロマ氷河を見渡す丘までのハイキングに出掛けた。 エージェントのKL社が用意した昼食のいわゆる“ランチパック”は、乾燥した硬めのパン(あまり美味しくない)とサラミ、チーズ、チョコレート菓子、ポテトチップス、オレンジ等の柑橘系果物等であり、この組み合わせは最後まで変わらなかった。 ロッジの入口にゴロゴロと寝そべっていたぬいぐるみのような大きな黒い犬が、私達が出発するや急に元気いっぱいに走り出し、常に私達をリードして先頭を歩いてくれたが、のっけから次々に出現する珍しい高山植物やサボテン(カクタス)の花に一同釘付けになり、歩みは全くはかどらなかった。 今日のハイキングは高所順応と時差ボケの解消が目的なので、現地ガイドとのコミュニケーションも徐々に図りながら、和気あいあいとした楽しい雰囲気で進められた。 途中本物のコンドルが間近まで飛んできて、地球の反対側からやってきた珍客を歓迎してくれた。

   午後3時前に目的地であるパロマ氷河を見渡す丘の上に建つ壊れた避難小屋に着いた。 先ほどから天気は少し下り坂となっていたが、とうとう雨が降りだしてきたので避難小屋の中に逃げ込んだ。 生憎の雨と霧で展望は得られなかったが、最近1か月ほど山に登っていなかったので、ウォーミングアップにはちょうど良いハイキングであった。 雨は30分ほどであがったが、結局これが滞在期間中唯一の“お湿り”になろうとは知る由もなかった。

   午後4時過ぎにロッジに戻ると、食堂で紅茶やコーヒーを飲みながら、貫田隊長から高山病と高所順応についての“特別講義”があった。 講義の後、早速第1回目のパルスオキシメーターによる血中酸素飽和度の測定があった。測定の結果まだ95%あり、平地との差は殆どなかった。 明日からは朝夕1回ずつの測定となる。 ガイドのイワンやヘラルドと夕食を共にし、最後のシャワーを浴びてから就寝した。 再びベッドで寝られるのは1週間後だ。


ファレヨネスのロッジ


パロマ氷河を見渡す丘までのハイキングに出掛る


サボテン(カクタス)の花


コンドル


  【高所順応】
   12月24日、午前7時起床。 時差ボケで夜中の1時頃から眠れなかった。 貫田隊長と奥田さんが各隊員の室を回って、朝の血中酸素飽和度の測定を行う。 とりあえず94%あったが、今日からは深呼吸を8回ほどした後の数値も測定する。 99%、ずっとこのままであって欲しいと願う。 いよいよ今日から高所順応と訓練を兼ねたエル・プロモへの5泊6日のプレ登山が始まる。 今日は3300mの高さにあるピエドラ・ヌメラダというキャンプ地まで車と徒歩で行く予定であるが、身の回りの物以外は全てムーラと呼ばれるラバ(馬とロバをかけ合わせたもの)が運んでくれることになっているので楽チンだ。

   午前10時前に2台の4輪駆動車でロッジを出発し、カーブの多い坂道を登ってラパルバのスキー場へと向かった。 イワンの話では同スキー場は南米一の規模を誇っていて、ヨーロッパを始めとする北半球のスキー選手達もオフ・シーズンの練習に訪れるとのことであった。 スキー場の入口からもさらに未舗装の道路が上に延びていたが、今年は残雪が多く道路を塞いでいるため、予定より手前の標高2700m位の所で車を降りて歩き出すこととなった。 若干雲が多めの天気であったが、暑くもなく寒くもなく、歩くにはちょうど良い登山日和である。 私達よりも前に到着していた“荷物”はムーラの背中に積まれ、100mほど上の所を登って行くのが見えたが、ムーラのスピードは想像していたよりも遙かに速く、すぐに私達の視界から消えていった。

   道路の終点からスキー場のスロープを登り、一つ目の峠を越えて下りにかかると周囲の景色は一変し、残雪を戴く荒々しい岩峰を望む素晴らしいハイキングトレイルとなった。 午後1時、二つ目の峠を登りきった所で昼食の休憩をしていると、旅行会社『Aガイズ』のガイドの平岡さんとその隊員達10名ほどが、後から追いついてきた。 隊員の一人に話を伺うと、アコンカグアに登るため私達と同様にエル・プロモで高所順応をされるとのことであった。 手持ちのアコンカグアの資料の筆者でもある平岡さんは南米の山々の登山事情に明るく、この山域のエキスパートであるらしい。

   私達の隊より平均年齢が10歳以上は若そうなAガイズ隊に先を譲り、のんびりと再出発する。 後ろから聞こえてくる貫田隊長と奥田さんの興味深い登山界のよもやま話(裏話?)に耳をそばだてながら、岩屑のトレイルをだらだらと下っていく。 乾燥した気候のせいか標高が高いためか周囲の緑は乏しく、緑豊かなカナダやスイスの山々との景観とは明らかに雰囲気が違う。 午後2時過ぎに三つ目の峠に着き、やっと山並みの左奥に鎮座するエル・プロモの雄姿を拝むことが出来た。 なだらかではあるが、雪を多く戴いたスケールの大きい山容に圧倒され、アコンカグアの頂はおろか“果してあの頂に辿り着くことが出来るのだろうか”という思いが頭をよぎった。 しばらくするとKL社の社長のホワキンがムーラにまたがり、颯爽と反対側から峠に登ってきた。 こちらでは馬方の頭領を『ガウチョ』と呼ぶらしいが、少し恰幅の良い彼の姿はまさにそれであった。 ホワキンは私達のテントの設営を終え、これから町に帰るとのことであった。

   エル・プロモを正面に見据えながら再びだらだらと下り始めると、まもなく足下にピエドラ・ヌメラダのキャンプ地が見え、午後3時に到着した。 小さな池の畔にあるキャンプ場にはイベント会場に似合いそうな巨大なオレンジ色のドーム型のテントがあった。 貫田隊長からKL社が用意した食堂用のテントであるとの説明があったが、半径6m・高さ3m程の床のないテントの一部は透明のビニールとなっていて、明るい“ダイニング”にはテーブルクロスが掛けられたテーブルと折り畳み式の椅子が置かれ、私達の目をさらに驚かせた。 イワンの話によれば、邦貨で80万円位はする代物らしい。 我が家(テント)も新品のブランド品であり、KL社は装備品にかなりお金を注ぎ込んでいるようだ。 ムーラが運んでくれた荷物をテント内に搬入する。 ホテルと同様、パートナーは廣永さんであり、結局今回の山行中ずっとお世話になることになった。

   荷物の整理を終えて、早速食堂テントでティータイムと洒落込んだ。 快適さはテントのみではなく、食事の献立にも表れていた。 意外なことにガイド達は料理の腕前もなかなかで、また“料理研究家”を自称する稲村さんもガイド達を手伝って腕を奮ってくれたので、テント内での食事はアンデスの山中にいることを忘れさせるほど豪華な内容となった。 また今夜はクリスマス・イブであり、チリの名産品であるワインや怪しげな地酒で登山の前祝いを行った。 廣永さんがハーモニカで賛美歌等を演奏し、貫田隊長がイワン、ヘラルド、そして今日から合流したガイド見習いのマルセイロに日本から持参したプレゼントを手渡し、のっけから非常に楽しい雰囲気となった。


高所順応と訓練を兼ねたエル・プロモへのプレ登山に出発する


ラパルバのスキー場を過ぎると残雪を戴く荒々しい岩峰が望まれた


貫田隊長とチーフガイドのヘラルド


テントの設営を終えたKL社の社長のホワキンと峠で出会う


ピエドラ・ヌメラダのキャンプ地と巨大な食堂テント


快適な食堂テントでの夕食


イワン(右)・ヘラルド(中)・マルセイロ(左)にクリスマスプレゼントを手渡す


   12月25日、午前6時過ぎには明るくなってきたが、周囲を高い山々に囲まれたキャンプ地にはなかなか陽射しが届かず、テントの外に出るととても寒い。 アンデスの山中では陽射しが有るのと無いのとでは大違いであることを体感した。 貫田隊長がパルスオキシメーターを持ってテントを訪問する。 血中酸素飽和度の数値は標高のわりには悪く、86%であった。 午前8時頃になってやっと陽が当たり始め、食堂テントに集合して朝食となった。

   ゆっくりと朝食を食べ、午前9時半に高所順応の訓練登山に出発した。 今日の目的地は、標高4200mの所にあるエル・プロモ登山のB.Cとなるラ・オーヤのキャンプ地であり、明日以降の宿泊及び頂上アタックに備えてそこを往復するということであった。 快晴の天気であったが、これから先2週間以上もこの晴天が続くことになるとは、誰も予想出来なかった。 高所での経験が豊富な宮澤さんは、マルセイロと共にキャンプ地で留守番をされることになった。

   キャンプ地の脇の潤いのある小さな草原を通過すると、その後は単調な岩屑のトレイルが続き、次第に傾斜が増してくると皆だんだん無口になってきた。 その重苦しい雰囲気を打破するかのように突然ムードメーカーの淑美さんが山の歌を口ずさむと、廣永さんがこれに続き隊は再び活気づいた。 途中ほぼ1時間毎に休憩となったが、今度は廣永さんがハーモニカの演奏をして、皆を楽しませてくれた。 後ろを振り返ると、すこし先の尖った秀峰が見えてきたので、イワンに山の名前を訊ねてみたところ、サンホセ(5350m)という火山であると教えてくれた。 ラ・オーヤのキャンプ地が間近になった辺りで、『アコンカグア山頂の嵐』(チボル・セケリ著)に記されていた“ペニテンテス”という名称の無数の氷塔が目の前に出現した。 高さが1〜2mほどのユニークな形をした氷塔は、強い風が氷河を削り取って出来た自然の芸術品であり、アンデスの山に多く見られるらしい。 氷河とは全く趣を異にした白い妖精達に、隊員一同目を奪われた。

   午後2時前にラ・オーヤのキャンプ地と思われるテントの張られていた広場に着いたが、イワンの話によると、ここはまだラ・オーヤではないとのことであった。 ラ・オーヤはまだ残雪に覆われているため、今日の訓練は標高約4000mのこの広場までで終わりとなり、明日以降の宿泊もここで行うことになった。 “ラ・オーヤ下”からは眼前にエル・プロモが大きく望まれたが、ここからの標高差はまだ1400mほどあり、その頂は遙か遠くに見えた。 ラ・オーヤ下では風が強かったため、のんびりと寛ぐことが出来ず、隊員一同思い思いに休憩した後、僅か40分ほどで下山することとなった。

   午後4時過ぎ、宮澤さんとマルセイロに迎えられてキャンプ地に戻ってきたが、“写真家”の廣永さんはキャンプ地の手前で見かけた高山植物の群落につかまって帰ってこない。 食堂テントでは何とスイカが振る舞われ、KL社の心憎いばかりの演出には脱帽した。 夕食は前菜のメロンと生ハムに続き、スパゲティーであったが、味付けも良くとても美味しかった。 今回の登山ツアーではテントで14泊することになっていたが、まさかこんなに素晴らしい環境が用意されているとは思わなかった。 夕食中に今度は『Aトレック』のガイドである大波さんが、貫田隊長を表敬訪問しにきた。 どうやらアコンカグアの登山ツアーを催行しているこちらのエージェントのプログラムが似かよっているため、他の登山隊と殆ど同じ行程になっているようであった。 血中酸素飽和度の数値は84%とあまり芳しくなく、夜中に初めて軽い頭痛の症状が出た。


ピエドラ・ヌメラダのキャンプ地とエル・プロモ


高所順応にB.Cとなるラ・オーヤのキャンプ地に向かう


この日から快晴の天気が2週間以上続いた


ほぼ1時間毎に休憩しながらゆっくり登る


ペニテンテス(氷塔)


ラ・オーヤのキャンプ地直下の標高約4000mの広場で引き返す


ピエドラ・ヌメラダのキャンプ地に戻る


   12月26日、午前6時起床。血中酸素飽和度の数値は90%に上がったが、軽い頭痛の症状は続いていた。 荷物を整理してテントをたたみ、ラ・オーヤ下へ荷上げしてくれるムーラの到着を皆で出迎えた。 朝食後、皆で食堂テントをたたみ、午前9時前にラ・オーヤ下のキャンプ地に向けて出発した。 今日も快晴の素晴らしい天気である。 多少高所に順応したせいか、昨日より少し速いペースで午後1時前にラ・オーヤ下のキャンプ地に到着した。 早速テントの設営にかかるが、ただでさえ気圧が低いのに、風が強いため骨が折れる。 設営後、外は風が強くて寒いのでテントの中で寛ごうとしたが、強烈な陽射しで暖められたテントの中は暑くていられず、居場所に困ってしまった。

   平岡さんの率いるAガイズの隊員達は昨日ここに泊まり、きょう早速エル・プロモにアタックしたらしい。 午後2時半頃その隊員達のうちの何人かが下山してきた。 そのうちの一人の方に話を伺ったところ、午前5時過ぎに出発したが、途中で風が強くなって思うように登れなくなり、時間切れとなってしまったので、午前10時半頃に山頂を目指す本隊と別れて下山してきたとのことであった。 またトレイルはザレていて歩きにくく、風で雪が凍結しているような危ない所もあったこと、そして足は寒さを感じなかったが、指先は手袋を三重にしていても寒かったとのことであった。 結局本隊は登頂に成功し、午後4時頃に下山してきたが、エージェントの方針なのであろうか、その足でピエドラ・ヌメラダのキャンプ地に下っていった。

   夕食は具の沢山入ったカレーライスと豆腐の味噌汁の御馳走であったが、さらにそれに輪をかけるように淑美さんがわざわざ日本から持ってこられた“蕗味噌”を堪能することも出来た。 血中酸素飽和度の数値は89%であり、意外にも人並みに順化しているようで、お腹も絶好調であった。 高山病の予防薬であるダイアモックスは、貫田隊長もまだ服用していないということだったので、私もまだ服用しないことにした。

   真夜中に突然激しい頭痛に襲われて目が覚めた。 初めての経験であれば焦ったであろうが、頭痛はキリマンジャロ登山で経験済のため、慌てることなく半身を起こして何度も腹式呼吸を繰り返した後、外のトイレまでゆっくりと散歩してから水を沢山飲み、再びテントの中で座って腹式呼吸を続けると、少し痛みが和らいだ。 どうやら“熟睡”しすぎたようだった(寝ている間が一番呼吸が浅くなるため)。 外では稲妻が全く音をたてずに夜空を切り裂いていた。 明日は破天荒になるのであろうか?。 その後は1時間位毎に起きて腹式呼吸をしたので、頭痛はさらに軽くなった。 明け方、強い風がテントをゆすり始めたので、トイレに行くのがおっくうになり、初めて尿瓶(古い1Lのプラスチックの水筒)を使ったが、なかなかこれが便利で、以後ずっと愛用し続けることになってしまった。


B.Cのラ・オーヤ直下までムーラが荷上げをしてくれる


ラ・オーヤ直下から見たエル・プロモ


   12月27日、頭は“痛い”から“重たい”に変わった。 血中酸素飽和度の数値は83%に下がった。 貫田隊長も同数値で、やはり昨夜頭痛がしたとのことであった。 どうやら高山病の症状は緩和されたが、時差ボケがまだ続いているようであった。 今日は明日のプレ登山に備えての軽いメニューで、ラ・オーヤのキャンプ地の少し上の氷河の辺りまで往復することになった。 本番を意識して新品のプラブーツに足を通し、オーバーパンツを履いていくことにした。 気温が上がった午前10時に出発し、40分ほどでラ・オーヤのキャンプ地(4200m)に着いた。 テントが2張ほどあったが、キャンプ地の前にあるという氷河湖は雪で埋まっていた。 希望によりキャンプ地の裏手の雪の斜面を登るグループと、稜線上のトレイルを登るグループとに別れてそれぞれ高所順応を行うことになり、プラブーツにアイゼンを着け、感触を確かめながら雪の斜面をゆっくりと登った。 呼吸も全く苦しくなく、明日のアタックに向けて自信がついた。 1時間後に標高4400mの地点で一同合流し、下山することになった。 稜線上は風が強く寒かったが、イワンは「アコンカグアの風はこんなもんじゃないですよ!」と言った。

   午後0時半にキャンプ地に戻った。 稲村さんが作ってくれた昼食の讃岐うどんはとても美味しかったが、高山病の予防に腹八分目にしておいた。 午後は隊員一同思い思いに寛ぐ。 昨日と同じような快晴の天気だが、今日はテントの中にいてもそれほど暑くは感じなかった。 気候に順応したのか、それとも大気中の湿度が昨日より高いためであろうか、明日の天気が気がかりだ。 ありがたいことに体はやっと高所に順応してきたようで、昼寝をしていても頭痛はしなかった。 明後日再びサンチァゴに下ってしまうのがもったいない。 いったん下って、またこの面倒臭い“手順”をふまなければならないと思うとうんざりする。 大きな山を登るためには高所順応のみならず、モチベーションの持続も結構難しいことをあらためて実感した。 夜中に再び強い風が吹き荒れていたが、昨日の稲妻に代わって天の川にかかっている南十字星が見えた。


指呼の間のラ・オーヤのキャンプ地に向けて出発する


ラ・オーヤのキャンプ地


キャンプ地の裏手の雪の斜面で高所順応を行う


今回のB.Cとなったラ・オーヤ直下の広場


  【エル・プロモ】
   12月28日、午前4時起床。風はまだ収まっていないが、空は明るい満天の星空であり、天気は今日も良さそうである。 陽が当たってくるまではとても寒いので、ダウンジャケットを着込み、オーバーパンツを履いた。 勿論、靴はプラブーツである。 支度を整えてから食堂テントで朝食を食べ、午前5時にいよいよエル・プロモ(5424m)に向けて出発となった。 昨夜の天気予報では午前中は風が強いが、午後は穏やかな天気になるという。 アコンカグアには登れるかどうかも全く定かではないので、プレ登山とはいえ、この山の頂には是非立ちたいと願った。

   経験豊富で高所順応の必要がないというベテランの宮澤さんをB.Cに残し、ヘラルドを登攀隊長、イワンを副隊長とする総勢12名は昨日高所順応のために登った岩屑の急斜面を、ヘッドランプの灯を頼りに黙々と登り始めた。 2人の現地ガイドに加えて貫田隊長・奥田さんといった登山家がサポートしている本当に贅沢なパーティーである。 風はずっと吹き続けている訳ではないが、登るにつれて強さが増してくるようで、そのせいかペースは昨日よりも幾分速いように感じられた。 二重山稜となっている尾根道を登っていくが、高所順応が足りないせいか、体がまだ起きていないせいか足の運びが鈍い。 山頂までの標高差1400m余りが心に重くのしかかってくるが、“この山をクリアー出来なければ、アコンカグアなど夢のまた夢だ”と気合を入れる。

   登り始めて1時間ほどすると辺りは白み始め、ヘッドランプの灯を消す。 時折強い風が吹くと、分厚いダウンジャケットのせいで寒さは我慢できるが、昨日の情報どおり手袋を三重にしていても指先が冷たい。 たまに後ろを振り返るが、ラ・オーヤ下のキャンプ地から登ってくるパーティーは他に見られなかった。 午前7時になってやっと待望の朝陽が当たってきたが、風の強さは衰えることなく、時々耐風姿勢をとらざるを得ないほどになってきた。 風は所々で急に止むこともあるが、突然耐風姿勢もとれないような爆風が吹き、地面に顔を伏せて爆風が通り過ぎるのを待つ場面もあった。 呼吸をするのもままならず、“このまま登り続けて行って大丈夫だろうか?”と経験の無さも手伝って緊張したが、他の隊員達は皆平気な顔をしていた。

   しばらく強風に耐え続けて登っていくと、ありがたいことに周囲に1mほど石を積み上げた2坪ほどの広さの馬蹄形の壕があり、一同そこに逃げ込んで一息つくことが出来た。 そこはまさに山の神に生贄を捧げるための“儀式”を行った場所であった。 あまりの風の強さから、“おそらく今日の登山はここで打ち切りとなってしまうだろう”と内心思った。 ここで引き返すのは残念だが、本番前にアクシデントがあっても困るので仕方がないと思い始めた時、意外にも貫田隊長から「ここでアイゼンを着けて下さい」との指示があった。 不安な気持ちで一杯だったが、下山したいと言い出す軟弱な隊員は誰もいなかった。 私は自分のことだけで精一杯だったので全く気が付かなかったが、壕のなかで一息ついている間に、奥田さんと飯塚さんがこれから先のルート上にある雪の斜面にフィックスロープを張りに行ってくれた。

   壕を出ると風は一段と激しさを増し、前を登る隊員のザックや体を掴みながら、頭を下げて間隔を開けないように一団となって、さながら“ムカデ競争”のように進むこととなった。 間もなく雪の斜面となったが、風で飛ばされても平気なように、奥田さんと飯塚さんが脇を固めてくれたので安心だった。 雪の斜面を過ぎるとようやく風も弱まってきたが、高度のためかシャリバテか足が思うように上がらなくなり、一歩進む毎に立ち止まることもしばしばであった。余りのペースの遅さを見かねた奥田さんが、「隊のペースが落ちるので、ザックを持ちましょう」と提案してくれた。 本当に情けなかったが、他の隊員の迷惑になるといけないと思い、言われるままにザックを預けることにした。しかし、すぐに“素人とは言え私も登山者の端くれだ。こんなことで人を頼っていたのでは、今後登山を続けていく資格はない”と思い直し、奥田さんに「再び遅れるようなことがあったら、その時は必ず従いますから」との条件を付けて、ザックを返してもらった。 大変失礼なことだとは分かっていたが、違う意味でこの登山が苦痛なものとなってしまうので、あえて自我を押し通すことにした。

   呼吸は追いつかず足は上がらないが、頭痛や吐き気といった高山病の症状が出ている訳ではないので、奥田さんと約束した以上何が何でも遅れてはならないと、気合を入れ直し歯をくいしばって登っていくと、トレイルの脇の風の当たらない所で、高度障害で登れなくなり、ぐったりと座り込んでしまっている先行者の姿がポツリポツリと見られるようになってきた。 一瞬彼らの姿を自分にダブらせたが、“ここで脱落するようなことがあれば、アコンカグアには行けないぞ”と何度も何度も自分に言い聞かせた。

   正午を過ぎ、すでに山頂らしき所は頭上に見えてきたが、隊の登高ペースは明らかに落ち、先頭のイワンのすぐ後ろについて登っていた稲村さんの足がとうとう止まった。 間もなく貫田隊長が、あまりここで無理をしないようにとの配慮からであろうか、「現在午後0時半ですが、予定よりも登頂に時間がかかっているため、一応ここで隊としての登山は終了したいと思います」と皆に説明をした。 奥田さんも「このままのペースでは山頂まで1時間半以上はかかると思います」と念を押したが、皆ここまで苦労して登ってきたので、プレ登山とはいえ是非山頂を踏みたいという気持ちが強く、誰一人ここで下山したいと言う隊員はいなかった。 隊員一同の心情を察してか、貫田隊長が「それでは、あと1時間ということで時間を区切り、山頂に辿り着けなくてもその時点で引き返すことにしましょう」と提案し、隊員一同最後の力をふり絞って再び黙々と頂を目指して登り始めた。 やっと高度に順応し足が上がるようになってきた私は、標高差であと150mほど先に見える青空との境目が山頂であれば、あと1時間あればきっと辿り着けるはずだと確信した。 ありがたいことにトレイルを吹き抜ける風の勢いもようやく弱まり、やっと登ることに集中することが出来た。

   午後1時過ぎ、先ほどの地点から1時間を費やすことなく、いちばん元気な淑美さんを先頭に一同順次エル・プロモ(5424m)の山頂に辿り着いた。 どこが一番高い所か分からないような広い山頂はさすがに風が強く、30mほどの爆風が吹き荒れていたが、イワンが指さす先に目指すアコンカグアの雄姿がハッキリと望まれた。 苦労を共にしてきた隊員一人一人と肩を叩き合い、お互いの登頂の成功を祝福しあった。 日本を発つ時には考えもしなかった、感激一杯の登頂だった。 貫田隊長と一緒に最後に登ってきた稲村さんを待って、僅か10分ほどで早々に山頂を辞することとなったが、このプレ登山は“全員登頂”という嬉しい結果に終わったのみならず、アンデスの強風に打ち勝ったことによる自信は“本番”のアコンカグア登山においても非常に役立つこととなった。

   風の強さを除けばトレイル上には危ない所は全くなく、下りは引力の法則に従うだけなので、山頂から3時間余りで宮澤さんとマルセイロが首を長くして待つラ・オーヤ下のキャンプ地に下り、全員登頂の嬉しい報告をすることが出来た。 着替えをして一休みした後、食堂テントでささやかにエル・プロモ登山の打ち上げの祝杯を上げたが、さすがに屈強な廣永さんも胃痛のため打ち上げに参加出来ないほどの大変なプレ登山であった。 私はアコンカグアの頂に立つまでは山中での飲酒は控えようと心に固く誓っていたので、下戸の貫田隊長と二人でジュースで乾杯した。 苦労して登った直後の打ち上げだけに、皆の口は滑らかであったが、ヘラルドが強風で肩を脱臼してしまったことや、稲村さんが強風で舞い上げられ、貫田隊長が飛びついて止めたという話を聞いて驚いた。 当のヘラルドは肩を脱臼しているにもかかわらず、何事も無かったかのように元気に振る舞っている姿には本当に頭が下がった。


風が非常に強く、フィックスロープを頼りに進む


エル・プロモの山頂


エル・プロモの山頂


エル・プロモからの下山中に見た風景


エル・プロモからの下山中に見た風景


   12月29日、午前6時半起床。 昨晩は疲れていたので熟睡したが、頭痛は全くなく体調はすこぶる良い。 3日間の滞在で体は充分に高所に順応したようだ。 テントを撤収してから食堂テントで朝食を食べ、B.Cの荷物を下ろすために麓から登ってきたムーラを皆で出迎え、午前8時半にラ・オーヤ下のキャンプ地を後にした。 昨夜は、いったん下山して再び一から登り始めることがとても苦痛に感じたが、げんきんなもので、今日は久々にホテルに泊まって風呂に入り、御馳走が待っていると思うと足取りは軽く、B.C直下のペニテンテスの“群落”を通過すると、あっという間に最初のキャンプ地であるピエドラ・ヌメラダまで下った。 キャンプ地で休むこともなく、最初の峠まで緩やかに登り、峠で昨日の登頂の余韻に浸りながら最後のエル・プロモの雄姿を目に焼き付けた。 往きは高曇りの天気だったが、今日は快晴無風の絶好のトレッキング日和だ。 隊の最後尾を歩き、もう二度と訪れることはないトレイルからの風景の写真を撮りながら至福の時を過ごす。 二本の沢が合流する所で早めのランチタイムとなったが、またもやメロンが出現し、皆の目を驚かせた。

   往きとは少し違うトレイルをとったようで、大きな池の脇から最後の峠を越えると、やっと眼下にラパルバのスキー場が望まれるようになった。 残雪の残るスキー場のスロープを思い思いに“足スキー”で下り、午後2時半にスキー場のリフト乗り場の前に着いた。 正味5時間近く登ったり下ったりしながら歩いたことになるが、皆昨日のハードな登山の後とは思えないほど元気だ。 私は歩き疲れて背中が少し痛い。 雑談をしながらKL社の送迎の車を待っていると、何かの手違いであろうか、私達を出迎えてくれたのは4輪駆動の小型トラック1台であった。 その狭い荷台に全員(11名)が乗車したため、未舗装の悪路ではまるで遊園地の乗物のような刺激的な乗り心地であったが、これもまた登頂の成功からくる余裕からか、楽しい想い出の一コマであった。

   途中でホテルからの送迎用のワゴン車2台に乗換え、午後4時前にはサンチァゴの市街地に入った。 今朝のキャンプ地での気温はマイナス5℃であったが、町中は真夏の暑さで、周囲の車のドライバー達はみな半袖姿であり、長袖のシャツやフリースを着ていた私達は何か場違いであった。 そして高級ホテルのドアマンには申し訳ないほどほこりまみれの服や荷物を携えてチェクインすることになってしまった。 夕食(打ち上げ)は、“焼肉派”と“和食派”に別れて行うこととなり、それぞれ夜の町に消えていった。 日本食に飢えていた私は和食派に賛同し、ホテルから15分程歩いた所にある『さくら』という名の日本料理の店で、植木さんが御馳走してくれた『アコンカグア』という名前のワインでプレ登山の打ち上げと、明日からの本番に向けての前祝いを兼ねて祝杯を上げた。 注文した寿司の味はそれほどでもなかったが、意外にも天ぷら蕎麦は日本の蕎麦屋よりも美味しく感じた。


B.Cの荷物を下ろすために麓から登ってきたムーラ


今日も快晴無風の絶好のトレッキング日和となる


山の神に生贄を捧げるための“儀式”を行った壕


ラパルバのスキー場


サンチァゴの市街から遠望したエル・プロモ


『さくら』という日本料理の店でプレ登山の打ち上げをする


   12月30日、プレ登山の疲れ(打ち上げの疲れ?)か、朝寝坊してホテルのレストランで昨夜の“情報交換”をした後、正午前にホテルを発ってサンチァゴ空港へと向かった。 焼肉屋に行かれたメンバーの話では、肉の味もさることながら、店内で大変面白い趣向のダンスショーが催され、一同大いに盛り上がったとのことであった。 アコンカグアの聳えている隣国のアルゼンチンへは車でも近いが、国境の検問(入国審査)に時間がかかるため、サンチァゴ空港から空路で行くことになっている。 空港へと向かう途上、KL社の社長のホワキンが海鮮料理のレストランで登山の前祝いの昼食会を催してくれた。 『チリモイア』という地元特産の果物を使ったミックスジュースで乾杯(こちらでは“サルー”と言うらしい)した後、香ばしく焼かれたナンを鮮やかな緑色や黄色のタレにつけて食べたり、炒めた米の上にココナッツミルク味の野菜炒めがのった地元の料理を堪能した。 この登山ツアーは普段の私の貧乏旅行と比べると、本当にいたれりつくせりだ。

   昼食後サンチァゴ空港に向かい、ホワキンに見送られてアルゼンチンのメンドーサ行きの小型飛行機に乗った。 機内では、アコンカグアが見えるようにとイワンが乗客に交渉してくれ、窓側の席を譲ってもらった。 その甲斐あって、眼下には昨日登ったエル・プロモが見えたのを皮切りに雪を戴いたアンデスの山々が次々と広大なスケールで展開し、目指すアコンカグアの雄姿が遠望されると、隊員一同の目は釘づけとなった。

   午後4時前、ちょうど1時間の飛行でメンドーサ空港に着いた。 迎えに来てくれたマイクロバスに荷物を運び終えると、貫田隊長から隊員一同に、エル・プロモ登山で高所に充分順応したと思われるので、明日から2泊することを予定していたコンフルエンシアのキャンプ地(3368m)での滞在を1泊にするという計画の変更の説明があった。 必然的にアタックの予備日が1日増えることになるので、私もその案には賛成であった。 マイクロバスに乗り、入山手続きをするためメンドーサの市内にある国立公園の管理事務所に向かう。 上空からは碁盤の目のように整備されているように見えた町や畑も、2年前の通貨危機の影響なのであろうか、廃屋や閉店している商店が目立ち、町全体に活気がなかった。 また走行している車も古く、いまだバブルの後遺症から立ち上がれない日本の将来の姿を見るようであった。 管理事務所での入山手続きは全てガイド達がやってくれた。 入山料はハイシーズンなので1人200ドルであった。 地元出身のヘラルドがご馳走してくれた名物のアイスクリームを食べ、しばらく市内を散策した後、再びマイクロバスに乗り200km近く離れた今日の宿泊地であるペニテンテス(前述の氷の塔の名称がそのまま地名になっている)のロッジに向かった。 初めて足を踏み入れたアルゼンチンの風景を車窓から堪能したかったが、明日からの長い山行に備え、目を閉じたまま3時間ほどバスに揺られていった。

   午後9時、大きな犬に迎えられてペニテンテスのロッジに到着。 山小屋程度のロッジを想像していたが、立派な3ツ星クラスのホテルであった。 夕食のテーブルには、ヘラルドのフィアンセという若い女性(ビルフィーニャ・21歳・大学生)が同席していた。恐らく彼の脱臼の怪我が心配で、見舞いがてら会いに来たのだと一同思っていたところ、意外にも明日から私達に同行するということであった。 そのきゃしゃな外見からは想像出来なかったが、驚いたことにアコンカグアには2回登頂した経験があるという。 彼女の参加により隊の厚みはさらに増すことになった。


KL社の社長のホワキンが海鮮料理のレストランで昼食会を催してくれた


メンドーサ行きの飛行機の窓から目指すアコンカグアの雄姿(中央左奥)が遠望された


メンドーサにある国立公園の管理事務所


ヘラルドがご馳走してくれた名物のアイスクリームを食べ、メンドーサの市内を散策した


3ツ星クラスの立派なペニテンテスのロッジ


チーフガイドのヘラルド(右)とフィアンセのビルフィーニャ(左)


ロッジでのディナーバイキング


  【アコンカグアへ】

   12月31日午前9時、マイクロバスに乗り込み、いよいよアコンカグアへ向けて出発となった。 プレ登山を経験したばかりのためであろうか、不思議と何の気負いも感じなかったが、川の水に含まれている鉱物の作用によって出来た『インカの橋』と名付けられた自然橋を過ぎた所で、車窓からいきなり雪を戴いた神々しいアコンカグアの南壁が大きく望まれると、一気に気持ちが昂ってきた。 幹線道路から砂利道を少し入った所で車を降り、登山口のレンジャーステーションで入山許可書のチェックを受ける。 国立公園のレンジャーから一人一袋ずつ通し番号が書かれたゴミ袋を手渡され、ゴミは全てこの袋に入れて持ちかえるようにとの指示があった。 レンジャーステーションのすぐ脇には立派なヘリコプターが1台置かれていた。

   快晴の天気の下、アコンカグアの南壁を正面に見据えながら午前10時前にレンジャーステーションを出発。 イワンと奥田さんが、テントの設営場所を確保するために先行してくれた。 首から三角巾で右腕を吊ったヘラルドとビルフィーニャに導かれて、殆ど起伏のない草原の中の幅の広いトレイルをゆっくりとしたペースで歩いていくと、間もなくアコンカグアの雄姿を水面に映す小さな湖(オルコネス湖)の湖畔に着き、一同思い思いに湖越しのアコンカグアを写真に収めた。標高約2900mのレンジャーステーションから1時間ほどで、赤茶けた濁流の川(オルコネス川)に架かる吊り橋があり、その手前に『コンフルエンシアまで4時間・プラサ・デ・ムーラスまで12時間』という標識があった。 コンフルエンシアは今日の宿泊地、プラサ・デ・ムーラスは明日の宿泊地(B.C)である。

   吊り橋を渡るとトレイルはようやく上り勾配となり、幅の広いオルコネス谷の乾燥した砂礫の道を遡っていくようになった。 間もなく私達の荷物を満載したムーラの一団が、マルセイロに率いられて砂塵を舞い上げながら傍らを追い越していった。 単調なトレイルとは対照的な、4〜5千m級の個性的な山々が谷の両側に見え始めると、隊員一同カウントダウンを始め、廣永さんのハーモニカの演奏に続いて、お互いに新年の挨拶を交わし合った。 日本と12時間の時差があるため、正午に日本の“新年”を迎えたのであった。

   右手にアルマセネス山(5102m)の奇峰、左手の赤茶けた前衛峰の奥に雪を戴いたトロサ山(5432m)の岩峰が見えてくると、間もなく足下にコンフルエンシアのキャンプ地を見下ろす崖の上に着いた。 コンフルエンシアとは赤茶けたオルコネス川の濁流とアコンカグアの南壁の氷河から流れ出す清流との合流点を意味するらしい。 傍らにはエル・プロモで見た、石で周りを囲まれた“儀式”の行われた壕があり、ヘラルドがアコンカグアの8合目あたりの岩場を指して、「数年前あの辺りで神に捧げられた子供のミイラが発見されたんですよ」と説明してくれた。

   100mほど急な斜面を谷底へと下り、午後2時半に大小のテントで埋めつくされたコンフルエンシアのキャンプ地(3368m)に着いた。 奥田さんと途中から先発隊を追いかけてくれた飯塚さんが、ガイド達と食堂テントの設営をして迎えてくれた。 到着後すぐに私達もテントの設営をしたが、谷間にあるキャンプ地は風が強く吹き抜け、テントの中にも容赦なく細かい砂塵が入り込んでくる。さらに困ったことに、テントの中は強烈な陽射しでとても暑く、まるで砂漠の中にいるようだった。 「わざわざ地球の反対側まで来て何をやってるんだろうね!」と廣永さんとボヤき合ったが、食堂テントでスイカが出現した時は、地獄に仏を見たようであった。 夜になるとようやく風も少し収まり、シャンパンで新年のお祝いをした。 予想どおり、各国から集まってきている登山者達が、母国の時間に合わせてカウントダウンを行うため、一晩中谷間のキャンプ地は騒がしかった。


『インカの橋』と名付けられた自然橋


登山口のレンジャーステーション(標高約2900m)


アコンカグアの雄姿を水面に映すオルコネス湖


オルコネス湖を振り返る


アコンカグア登山隊


オルコネス谷から見たアコンカグア(南壁)


『コンフルエンシアまで4時間・プラサ・デ・ムーラスまで12時間』と記された標識


赤茶けたオルコネス川(左)


幅の広いオルコネス谷の乾燥した砂礫の道を辿る


コンフルエンシアのキャンプ地


   1月1日、元旦の朝食には雑煮が振る舞われ、午前9時に今日の目的地であるB.Cのプラサ・デ・ムーラス(4320m)を目指して出発した。 手持ちの資料によれば、ここからの標高差は約900m、距離は約22kmもあるという。 今日も雲一つない快晴の素晴らしい天気である。 赤茶けたオルコネス川の濁流を渡渉し、急坂をぐんぐん登っていくと、30分ほどで谷底から這い上がり、丘を一つ越えると再び緑濃い気持ちの良い草原(湿原)となったが、可憐な高山植物が咲き乱れていたオアシスのようなこの草原を過ぎると、トレイルは再び乾燥した土と砂だけの世界になってしまった。 今日は向かい風が時々強く吹き、バンダナでマスクを作って歩いたが、砂埃と乾燥した空気のせいで鼻の中が痛い。

   遮る物がないだだっ広いオルコネス谷からの景色は雄大であり、B.Cまでの往復のトレッキングを楽しむ人達もいることは頷ける。 右手にはアコンカグアの巨大な山塊、左手にはヘラルドが教えてくれた、コロンビア、メキシコ、フィンガー(ロス・デドス)といった5000m級の峰々が、抜けるような青空の下に顔を揃えている。 一面整地されたような平らな地面と、突然そこからせり上がっているそれらの山々との境目が何とも奇異に見えて面白い。 起伏のないトレイルを歩くスピードは意外に速く、10分ほど歩くと山の景色は違って見える。 草木のない殺伐としたトレイルに唯一アクセントをつけている『ピエドラ・グランデ』と名付けられた大きな石の周りで一休みした。 朝方は遙かオルコネス谷の突き当たりに小さく見えていたロス・デドス(5018m)が眼前に大きく立ち塞がるようになると谷間は次第に狭まり、岩屑の堆積する河原歩きとなった。 何本にも枝分かれして流れが弱まってきたオルコネス川を、何度か靴を濡らさないように飛んだり跳ねたりしながら渡渉すると、間もなく河原のトレイルは終わり、アルペンルートへと変わるイバーネスという場所で休憩となった。

   たまたまそこで休憩していた3人の日本人のパーティーと情報交換すると、そのうちの1人の若い女性から、「強風に苦しめられ、また高所順応が上手くいかず、途中のキャンプ地では何度も嘔吐しましたが、3人のうち自分を含めて2人が頂に立つことが出来ました」という生々しい体験談を聞くことが出来た。 ところが話を色々と伺っているうちに、何とその方のお父さんは、今回私達が参加している登山ツアーで、数年前にアコンカグアを登られた後に山頂直下で持病が悪化して亡くなられたとのことであり、今回の山行はその供養でもあったとのことであった。 さらにその亡くなられた方は、山の会の淑子さんの知人であったことが帰国後に分かり、その偶然さには大変驚かされた。

   彼女らのパーティーと別れ、アルペンルートに変わったトレイルを再びB.Cに向かってひたすら歩き続ける。 ロス・デドスを左手にやり過ごすと、今度は雪をたっぷり戴いた秀峰クエルノ(5462m)がオルコネス谷の突き当たりに鎮座するようになった。 オルコネス川はいつの間にか遙か足下になっていた。 傍らを何度かムーラの一団が砂塵を巻き上げながら通り過ぎたが、人間には真似の出来ない彼らの強靭な脚力には本当に脱帽である。 以前はここにB.Cがあったという朽ちた廃屋の前で最後の休憩となり、そこから30分ほど崖をジグザグに喘ぎながら急登すると、目の前が急に開け、午後5時過ぎにクエルノや左隣のカテドラル(5335m)、そしてペニテンテスの大群落と荒々しい岩の鎧を身にまとったアコンカグアの西壁に囲まれたB.Cのプラサ・デ・ムーラス(4230m)に着いた。 B.Cの入口にはレンジャーの詰所があり、その奥には様々な色や形をした沢山のテントの花が咲いていた。

   キャンプ地の奥の方に蒲鉾型をしたKL社の常設テントが3張あり、それぞれ食堂、調理場兼スタッフの控室、倉庫であった。 昨日までのドーム型の食堂テントも豪華であったが、常設テントの居心地も充分過ぎるくらいであった。 夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は75%であり、予想に反してあまり芳しくない数値であったが、頭痛も全くなく食欲も旺盛で体調は万全である。 今晩は新年のお祝いで、再びテントキーパーのコルフェリーナ嬢の手作りの料理に舌鼓を打ったが、ここで油断してはならないので、アルコールは控え、お腹も八分目にしておいた。 夕食後、他のツアー会社のガイドである倉岡さんが、食堂テントに貫田隊長を表敬訪問しに来たが、高所登山のエキスパートといわれる倉岡さんはその後高山病(肺水腫)になり、途中で下山されたということが後に分かり、高所順応の難しさをあらためて思い知った。 高山病の予防薬といわれるダイアモックスを、貫田隊長も今晩から服用するとのことだったので、私も念のため半錠だけ服用することにした。


コンフルエンシアからB.Cのプラサ・デ・ムーラスへ


コロンビア


可憐な高山植物が咲き乱れていたオアシスのような草原


メキシコ


フィンガー(ロス・デドス)


遮る物がないだだっ広いオルコネス谷


アコンカグアの南壁


アルペンルートへと変わるイバーネスという場所で休憩する


オルコネス谷の突き当たりに鎮座するクエルノ(5462m)


以前B.Cがあったという場所にある朽ちた廃屋


アコンカグアの西壁


B.Cのプラサ・デ・ムーラス


  【B.CからA.B.Cへ】

   1月2日、B.Cを午前10時過ぎに出発し、C1であるキャンプ・カナダ(4900m)まで荷上と高所順応のため往復する。 B.Cの裏手に広がる2mほどの高さのペニテンテスの群落に作られた、1人がやっと通れるほどの狭い切り裂きを抜けると、富士山のような踏み固められた砂礫のトレイルとなり、途中3回の休憩をはさんで3時間ほどでキャンプ・カナダに着いた。 他のパーティーの多くがB.Cから直接一つ上のニド・デ・コンドレスのキャンプ地(C2)に上がるためか、テントが20ほど張れる程度のこぢんまりとしたキャンプ地であった。 砂礫のスロープの遙か上方のモレーンの上に、明後日以降のキャンプ地となるニド・デ・コンドレス(“鷲の巣”の意味)が立ちはだかっている。 昨日オルコネス谷からずっと見上げてきたロス・デドスが目線と同じ高さになり、雪をタップリ戴いたクエルノの雄姿も眼前に迫るようになってきたが、目指すアコンカグアの頂はまだまだ先であった。

   意外にもしばらくここに留まって高所順応の訓練をすることもなく、アタックに必要なアイゼン・ピッケル・防寒服等を一つだけ設営したデポ用のテントに残し、僅か30分ほどでC1から下山を開始した。 登りとは違うルート(砂走り)を通ったため、50分ほどでB.Cに到着した。 遅い昼食はコルフェリーナ嬢の手作りの美味しいピザであった。 昼食の腹ごなしに、B.Cから少し離れた所にポツンと建っている『ホテル・レフヒオ』へ行ってみることにした。 B.Cから20分ほどでペニテンテスの群落に囲まれたホテルに着いたが、ホテルという名前に恥じない立派な山小屋であった。 食堂の壁には各国の登頂者のサインが書かれた色紙やペナントが、所狭しと飾ってあった。 ホテルは非常に快適な居心地であったが、登山ルートから外れているせいか、宿泊客はそれほど多くないように見えた。 ホテルからの帰路、夕陽に照らし出されたアコンカグアの西壁が黄金色に染まり、その余りの神々しさに思わず時間を忘れて立ちつくした。

   夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は79%で、昨日よりも少し良くなった。 ダイアモックスで“ドーピング”したせいだろうか。 昨日“数値は気にしない”と心に決めたばかりであったが、げんきんなもので数値が良くなったことがとても嬉しかった。 夕食中に知人の所属するM山の会の高橋さんらが貫田隊長を表敬訪問しに来た。 今回のアコンカグア山行は会の20周年の記念行事として計画されたとのことであったが、発起人である当の本人が体調を崩して参加出来なかったことが大変残念であった。


B.Cの裏手に広がるペニテンテスの群落の狭い切り裂きを抜ける


B.Cを俯瞰する


ロス・デドス(5018m)


カテドラル(5335m)


クエルノ(5462m)


富士山のような踏み固められた砂礫のトレイル


キャンプ・カナダ


ペニテンテスの群落に囲まれた『ホテル・レフヒオ』


ホテルの内部


黄金色に染まるアコンカグアの西壁


   1月3日、ありがたいことに高所順応は上手くいっているようで、体調はすこぶる良い。 他の隊員達も絶好調のようだ。 快晴の天気の中、いよいよ今日からA.B.C(前進キャンプ)入りだ。 B.Cまでは何ら不自由なく、また大変快適に過ごしてきたが、今日からはそうはいかない。 ブランチ(早めの昼食)の後、先発した奥田隊に続いて正午前にB.Cを出発。 風もなく暖かいのでジャケットを着ないで登る。 共同装備のテントや食料以外の個人装備を50Lのザックに背負い、昨日と同じ所で3回休憩して、C1のキャンプ・カナダへは午後2時半に到着した。 貫田隊長から、明日以降の荷上げについてB.Cに常駐している有料のポーターを頼むかどうかの提案があったが、体調も良いし、この程度のことで人を頼っていたのでは登頂はおぼつかないので、折角の提案にも手を上げなかった。

   快適な食堂テントは無くなってしまったが、風もなく穏やかな天気だったので、テントの周囲で隊員一同車座になってティータイムを楽しんだ。 気温は低い(0度位)が、陽射しが強いため無風であれば長袖のシャツ一枚でいられる。 “プラブーツが劣化により突然壊れることがある”という話題に及んだところで、全く偶然にも運の悪いことに、本当に宮澤さんの履いていた愛用のプラブーツのソールが突然剥がれてしまった。 急遽無線でB.Cに靴の有無を照会したが、同じサイズが見当たらないとのことで、とりあえず補修用の接着剤を注文した。 飯塚さんが一生懸命接着面を石で磨いていると、2時間足らずでビルフィーニャが大きな荷物と一緒に、どこかで調達した靴をB.Cから担いで登ってきたので、一同そのパワーに仰天した。

   ダイアモックスの服用を続けたため、夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は83%で、昨日よりもさらに良くなった。 夕食は各自の狭いテントの中で食べることになっていたが、まだ日没前でそれほど寒くなかったので、隊員一同再び車座になり寄り添いながら外で食べた。 夕食はフリーズドライのピラフや短く刻んだスパゲティーであったが、体調が良かったせいであろうか、思ったよりも美味しく感じられた。 明日からはいよいよ5000mを超える所に上がるので、「今日は最後の幸せな夜ですね」と同室の廣永さんと話しながら寝たが、昼間暖かく感じていたことによる反動か、それともB.Cとの600mの標高差のせいか、夜中に寒さで何度も目が覚めた。 明け方、温度計を見るとマイナスの10度であり、寒さに弱い私には目眩がしそうな気温であった。


キャンプ・カナダ(C1)


キャンプ・カナダ(C1)


キャンプ・カナダから見たアコンカグアの西壁


   1月4日、寒さに震えながらもテントの外で膝を付け合わせ、和気あいあいとスープのみの朝食をとる。 テントをたたみ出発の準備をしていると、午前9時頃にようやくキャンプ地にも陽が当たり始めた。 先発した奥田隊に続いて午前9時半にC1を出発し、C2のニド・デ・コンドレス(5350m)に向けて前進する。 トレイルは昨日と同様しっかりと踏み固められており、プラブーツの紐を緩めに履いて登った。 時折突風が吹くものの全般的に風は弱く、絶好のアタック日和である。 途中1回休憩しただけで、C2に午後0時半に到着した。

   直ちにテントを設営し、ティータイム(昼食?)とした後、C3のキャンプ・ベルリン(5800m)へ、一昨日と同様に高所順応とアタックに必要な登攀道具をデポしに行く。 5800mといえば、以前登ったキリマンジャロ(5895m)とほぼ同じ高さである。 しかも今日はC1のキャンプ・カナダ(4900m)から出発しているため、これから先は体力的に相当きついだろうと思ったが、廣永さんの山の歌に元気付けられたせいか、先程と変わらぬペースで2時間ほど登ると、あっけなくC3に着いてしまった。

   最終キャンプ地であるC3は猫の額ほどの狭さではなかったが、テントの数はC2以下に比べると極端に少ない。 体力に勝る外国人は、C2からアタックするのが当たり前なのであろうか?。 キャンプ地は上下二段に別れていたが、私達の隊は1〜2人がやっと入れるような小さな避難小屋(炊事場)のある下段にテントを設営した。 目の上には濃い群青色の空を背景にして、資料の写真にあったものと同じ赤茶けた色の三角錐の小さな突起のような山頂が手に取るように見え、また『アコンカグア山頂の嵐』に記されていたとおり、強風によって造られた奇妙な形をした岩が所々に散在していた。 日本を出発した時はここまで来られるかどうかも定かではなかったので、何かとても嬉しい気分になった。 C2からの展望もさることながら、6000mに迫るC3からは、既に5000m級のクエルノやカテドラルが足下になったのみならず、それらの山々の背後に聳えている無数のアンデスの山々も一望出来るようになり、遙か遠くにエル・プロモの姿も確認することが出来た。 

   一昨日と同様、しばらくここに留まって高所順応の訓練をすることもなく、登攀道具をテントにデポし、僅か30分ほどでC3から下山を開始した。 下山中に上からC2を見下ろすと、私達の隊が露営している場所のさらに一段下にも広いキャンプ地があり、意外にもC2はB.Cと同じぐらいの広さがあることが分かった。 午後5時にC2へ着き、皆で今日一日のお互いの健闘を讃え合った。

   夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は83%で昨日と同じであったが、さすがにC1からC3を一日で登ったため軽い頭痛がした。 夕食は日本製のアルファー米にフリーズドライのカツ丼とふりかけであり、以後B.Cに戻るまでは同じような質素なメニューであった。 尿瓶として愛用していた水筒をうっかりC1に忘れてきてしまったが、食べ終わったアルファー米のパッケージで代用することを思いついた。 今宵の宿は昨日までと比べて一回り小さく軽いテントであったが、運の悪いことに夜になると風が強まり、途中から寒さで全く眠れなくなった。 あまり風がテントに吹き込む感じがしたので、テントを点検したところ、何と外張りのファースナーが壊れて開いたままになっていた。


キャンプ・カナダ(C1)からニド・デ・コンドレス(C2)へ


しっかりと踏み固められていた砂礫のトレイル


ニド・デ・コンドレス(C2)の直下


ニド・デ・コンドレス(C2)


C2からC3のキャンプ・ベルリンへ  高所順応とアタック時の登攀道具をデポしに行く


キャンプ・ベルリン(C3)直下


キャンプ・ベルリン


キャンプ・ベルリンから見た山々の風景


キャンプ・ベルリンには強風によって造られた奇妙な形をした岩が所々に散在していた


   1月5日、寒さに震えながらテントの中で陽が当たってくるのを待つ。 貫田隊長が計った夜中の気温はマイナスの15度であったという。 私達のテントの中はいったい何度だったのだろうか?。 尿瓶の“中身”もカチカチに凍っていた。 風邪をひいたのか、それとも冷たい風でやられたのか、鼻の奥が詰め物をされたようにズキズキと痛む。 もともとが鼻炎持ちなので、ここに障害が出るのが一番こたえる。 周囲で談笑する皆の声が羨ましく感じるほど、気分は落ち込んでしまった。 同室の廣永さんも頭痛で調子が悪そうであった。 キャンプ地に陽が射し込んでくる午前9時にやっと朝食となったが、体が冷えきっていたので具の無いインスタントラーメンがとても美味しく感じられた。

   宮澤さんは最終キャンプ地をC3から少し上げたいということで、彼女が奥田さんや飯塚さんと一緒に一日早くC3に出発するのを見送ってから、高所順応には悪いとは分かっていたが、鼻の痛みと寒さにめげてお昼過ぎまで大事をとってテントの中で静養することにした。 寝ている間に元気一杯の植木さん夫妻は、二人だけでC3まで遊びに行かれたようであった。 体の芯まで冷えきっていたので、昨日まで暑く感じたテントの中がとても心地良かった。

   充分に昼寝をしてやっと体も正常になってきたので、夕方近くにキャンプ地の周囲を散歩した。 意外なことにB.Cとは違い、登山ルートから少し離れた下段の露営地の方が、私達の隊が露営している場所よりも盛況であった。 夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は83%で昨日と同じであった。 宮澤さんが飯塚さんと一緒に上のC3に泊まっているため、今晩から奥田さんを加えて3人で寝ることとなった。 テントの中で奥田さんからヒマラヤの高所登山の経験談や、西田敏行さんとの山行の思い出話等を聞くことが出来た。 昨夜眠れなかったことによる反動か、風もなく昨夜のように寒くなかったせいか、朝まで熟睡することが出来た。


ニド・デ・コンドレス(C2)


   1月6日、ありがたいことに心配していた鼻の痛みは峠を越え、また入山した時からずっと続いている快晴の天気は今日も続いていた。 予定では明日がアタック日となるので、この異常なほど安定した天気がもう一日続いてくれることを願った。 今日はここから450m上のC3に登るだけなので、キャンプ地に陽が射し込んでくるのをテントの中で待ってブランチとした後、正午前にC2を出発した。 今日は年に何度もないであろう、全く風のない絶好のアタック日和であり、一歩一歩の登りがとても楽しい。 途中の大岩の下で1回休憩しただけで、2時間足らずで最終キャンプ地であるキャンプ・ベルリン(5800m)に着いた。 今日も憧れのアコンカグアの山頂が良く見える。

   テントを設営した後、隊員一同車座になり和やかなティータイムを過ごす。 たまたま目の悪い私が、300mほど上の岩場に登山者の姿を発見した。 山頂へのルートとはだいぶ違う方向に見えたので、“他にも登山ルートがあるのですか?”という話題を提供したところ、ヘラルドの表情が急に険しくなった。 それを見て一同その登山者が遭難しかけている状況にあることが分かった。 ヘラルドは脱兎のごとく岩屑の急斜面を駆け登り、登山者のもとへと向かった。 ビルフィーニャもそれに続いて登り始め、少し違った角度で後方からヘラルドを援護している。 そのスピードと絶妙な連携ぶりは一同を驚かせたのみならず、登山者にもその意図が確実に伝わり、ルートを外して行き詰っていた登山者を無事に“保護”することが出来た。 ヘラルドとビルフィーニャの卓越した運動能力と心の優しさを再認識した一場面であった。

   午後3時半にAガイズの登山隊と思われる人達がキャンプ地に下りてきた。 登頂の成否について訊ねることは遠慮したが、その足取りからみて登頂されたことが想像された。 今日のような絶好のアタック日和に登頂することが出来たAガイズの登山隊は、本当に幸運であり羨ましい限りであった。 しばらくすると今度は下からM山の会の安部さんら3人のメンバーが相次いで登ってきたが、そのうちの一人の女性は疲労困憊し、立っているのもやっとという状態であった。 すかさずビルフィーニャが、力水を飲ませに彼女のもとに走った(彼女は残念ながら翌々日高山病でB.Cに下山されたとのことであった)。

   アコンカグアの登頂の成否にかかわらず、将来このキャンプ地を再訪することは叶わないで、傍らの見晴らしの良い岩の上に陣取り、眼前に広がる雄大なアンデスの山並みを見渡して一人悦に入った。 夕食前の血中酸素飽和度の測定の結果は76%と昨日より悪くなったが、鼻の痛みはなくなり、予想に反して体調は万全である。 反面、一番強い淑美さんのお腹の調子が悪くなってしまったことが少し気掛かりである。 いつもより早めの夕食の後、貫田隊長から明日の頂上アタックのスケジュールについての簡単な説明があった。 明日の準備を終え、午後8時には窮屈な寝袋に潜り込んだ。 高度のせいか、それとも気持ちの昂りか、日付が変わる頃になっても全く寝つけなかった。 経験上寝ない方が高山病になりにくいことが分かっていたので焦ることはなかったが、隣の二人の安らかな寝息?が羨ましかった。


キャンプ・ベルリン(C3)


キャンプ・ベルリンから見た山頂方面


  【頂上アタック】
   1月7日、午前4時半起床。 夜半から吹き始めた風は朝まで止むことはなく、寒さにめげて用足しに行きそびれてしまった。 天気が悪くなる前兆ではないかと思われるような黒い雲が、足下に広がっているのが月明かりで見えた。 暗く狭いテントの中で、アルファー米とふりかけの朝食を食べながら身支度を整える。 昨日何度も練習したにもかかわらず、準備に時間がかかる。 テントの中の荷物を整理して、午前6時の出発時間ぎりぎりにスタートラインに立った。 寝不足だか体調は万全である。 気温は低く、多少の風はあるものの、羽毛の手袋、宇宙服のような分厚い羽毛服、プラブーツで“完全武装”しているため寒さは感じない。 予定より少し遅れたが、一人も欠けることなく“C4”から出発する宮澤さんと飯塚さんを除く、7人の隊員(熊本さん、植木さん、淑美さん、廣永さん、晝間さん、稲村さん、そして私)と貫田隊長、奥田さん、そしてガイドのヘラルドとイワンに見習いのマルセイロと助っ人のビルフィーニャを加えた4人の現地スタッフは全員一丸となって、いよいよ憧れの頂を目指してアタックを開始した。

   登攀隊長のヘラルドを先頭に、お腹の調子が悪い淑美さんが続くが、なぜかペースはとても速く、ついていくのが精一杯である。 まもなく夜は明け、ヘッドランプは不要となった。 ジグザグの踏み固められた岩屑のトレイルをただ黙々と登って行く。 傾斜もそこそこあるので、標高は着実に稼いでいるはずだ。 C3から1時間ほど登った時、突然ヘラルドが足を止め、足下の雲海を指しながら「シャドー!」と言った。 何と見事な“影アコンカグア”が雲海のスクリーンに映し出されていた。 素晴らしい天からの贈り物に感謝したが、標高が上がるにつれて風は次第に強まってきた。 風が強まるとヘラルドのペースも速くなるような気がした。 夜は明けたが、北側の斜面を登っているため陽射しには当分恵まれず、これから先のことを考えると緊張感がなかなか解けない。 再びただ黙々と登り続ける。 “もっと楽しまなくては・・・”。 しかし、ますます強くなってくる風の勢いに、その気持ちもかき消されていった。

   いつの間にか隊列は長くなり、中程にいた私も先頭集団から少し遅れ気味になったが、前を歩く廣永さんの背中だけを必死に追いかけながら登る。 殿(しんがり)との間もだいぶ開いているようであった。 登ることに集中し過ぎたせいか、時間の観念がなくなってきた(時計を見たくても三重の手袋で見ることが出来なかった)。 風に追い立てられながら喘ぎ喘ぎ登っていくと、岩で囲まれたトレイルの脇のこぢんまりとしたスペースに、宮澤さんと飯塚さんの二人が泊まったと思われるテントがあった。 標高は6300m位のはずである。 テントの脇で一服することもなく、上を目指して再び単調な岩屑のジグザグのトレイルを黙々と登り続けた。

   お腹の調子が良くなられたのであろうか、相変わらず淑美さんの足取りは軽く、ついていくのが精一杯である。 しばらくするとまたズルズルと先頭集団から遅れ出してしまった。 先程のテント場から30分ほど登ったところで、目の上に稜線のコルのような所が見え、先頭集団が一服している様子がうかがえた。 やっとの思いで稜線に上がると待望の陽射しには恵まれたが、風速20mを超えるような強風も吹き荒れていた。 傍らに朽ちた避難小屋の残骸があったので、そこが資料に記されたインディペンデンシアと名付けられている所であることが分かった。

   常に風に追い立てられながら、C3から3時間近く歩き続けてきたのでとても疲れた。 風が強いためか、休憩というよりは足踏みしたまま先に進む気配がなかったので、少しでも風の弱い所を選び、風上に背を向けて座り込んだ。 貫田隊長は殿を務めているのか、しばらく周囲には姿が見えなかった。 資料によれば、ここの標高は6546mとなっているので、これが本当に正しいとすればC3からここまでの標高差約750mを3時間足らずで登ったことになり嬉しいが、ますます強くなる風はその嬉しさをもかき消した。 座りながら煎餅を食べ、腹式呼吸で体力の回復に努める。 情けないことに自分のことだけで精一杯だったため、周囲の状況が全く分からず、いつの間にかベテランの宮澤さんは飯塚さんと共に下山され、一番元気そうに見えた淑美さんもお腹の調子が回復しないため、これからマルセイロと下山されるという話を聞いて驚いた。 20分ほど経っても出発する気配がなかったので、“強風のため今日の登山は中止になるのではないか”と思い始めた時、突然貫田隊長から「ここでアイゼンを着けて下さい」との指示があった。 この程度の風はアコンカグアでは当たり前ということであろうか、エル・プロモ登山のことが頭をよぎり、にわかに緊張する。 風が強いためアイゼンを着けるのも一苦労で、脱いだ羽毛の手袋が危うく飛んでいくところだった。

   インディペンデンシアから短い雪の稜線を登る。 アイゼンを着けたせいか、先程よりもさらに足が重たくなったが、意外にも風はだんだんと弱まり、雪の斜面を登りきった稜線の肩のような所で風は止んだ。 先に登った隊員はここで一服し、後続隊を待つことになった。 ここからは稜線上から一歩右に下がり、広大な砂礫のスロープをトラバースしていくトレイルが延々と続いているのが見渡せた。 風もなくなりホッとしたのも束の間、トレイルに一歩足を踏み入れたとたん状況は一変し、先程と同じ風速が20mを超えるような強風が吹き始めた。 たまたま突風が吹いただけですぐに止むだろうと思ったのは甘かった。 風はますます強まり、ザックからジャケットを取り出して着るのもままならぬ状況になってしまった。 先程の風のない所まで引き返そうとも思ったが、団体行動のためそれも出来ず、寒さに耐えながら歩き続けた。 この時の風のボディーブローが私の体力を徐々に奪っていった。 風は一瞬たりとも止むことはなく、右横から容赦なく吹きつけてくる。 ダウンジャケットのフードを深く被り、斜め左側を向いて歩く。 30分ほど強風に耐えながら歩いていくと、トレイルの脇に風を遮る大きな岩が一つだけあり、一同そこで一息ついていた。 三重の手袋の脱着は一苦労であるが、ここでやっとジャケットを着ることが出来た。

   ジャケットを着て出発すると、不思議と風が少し弱まったような気がした。 再び長いトラバースのトレイルを風に追い立てられながら黙々と歩く。 トレイルの傾斜が増してくると間もなく、雪渓がトレイルを塞いでいる所があり、その手前で図らずも休憩となった。 休憩している間にヘラルドと奥田さんが雪渓にフィックスロープを張ってくれたので助かった。 雪渓を登りきるとトレイルは階段状となり、無意識には足が前に出なくなってきたので、一歩一歩気合を入れながら意識的に足を持ち上げる。 間もなく大小の岩屑が堆積した崩れやすい急斜面として悪名高い“グラン・カナレータ”の難所が左上方に見えてくると、トレイルは落石の巣のような所を通過することとなった。 貫田隊長が急いで通過するように指示したが、足はすでに言うことを聞かなくなっていた。

   幸いにもグラン・カナレータに近づくにつれて風はだんだんと収まり、健脚派の揃った奥田隊が待つグラン・カナレータ直下の大岩の基部の所までやっとのことで辿り着き、崩れ落ちるようにへなへなと座り込んだ。 食べる気力もないほど疲れていたが、これから山頂まで休憩は出来ないであろうから、一息つく間もなく煎餅やチョコレートを無理やりお湯で胃袋に流し込んだ。 熊本さん、植木さん、晝間さんの3人の表情にはまだまだ余裕が感じられるが、廣永さんは相当疲れているようで、座りながら私にもたれかかっていたが、その体はまるで氷のように冷たかった。 その様子と先程までの足取りを見て心配した貫田隊長が、廣永さんにイワンと一緒に下山することを勧めた。 私は相変わらず自分のことだけで精一杯だったので、私以上に疲労困憊している廣永さんに励ましの言葉をかけることが出来なかったが、このことが後々まで私を後悔させることになった。 C3を出発してからすでに6時間以上が経過し、いつの間にか正午を過ぎていた。 「山頂まであと2時間位かかりますが、すでに予定の時間より遅れていますので、ザックをここにデポしていきましょう」という貫田隊長の提案に、往復3時間以上はかかる(実際はここに戻って来るまでに4時間以上かかった)ことを全く考えずに、言われるままに水や食料の入ったザックをデポしたことが、後で考えると恐ろしいかぎりであった。 経験不足のため、低い気圧が体のみならず脳の働きをも鈍くさせていたことは、この時は知る由もなかった。

   断腸の思いで廣永さんと別れ、無意識にカメラだけをジャケットのポケットにねじ込み、奥田隊の熊本さん、植木さんに続き、晝間さん、稲村さんと共に最後の力をふりしぼって頂を目指した。 トレイルはすぐに雪の急斜面となったが、足跡のトレイルが階段状についていたのでピッケルを使わずに登ることが出来た。 休憩後しばらくの間はなんとか先頭集団のスピードについて行けたが、次第にそれもままならなくなり、ずるずると一人遅れだした。 先頭集団が要所要所で足を止め、私が登ってくるのを待っていてくれることが心苦しかったが、貫田隊長とマンツーマンで登ることとなった稲村さんが、さらに遅れていることが唯一心の救いだった。 途中奥田さんから、西田敏行さんが登頂を断念したのはこの辺りだという話を聞いた。

   幸いにも“一歩登ると二歩崩れ落ちる”というグラン・カナレータの核心部は大部分が雪で埋まり、登りにくいと感じる所はあまりなかった。 また風も収まったままであり、アコンカグアの山の神にやっと歓迎されたようであった。 しかしながら相変わらず登高ペースは上がらず、一歩登っては気合を入れ、また一歩登るという亀のような登り方が続いた。 周囲の景色を眺めたり、後ろを振り返ったりする余裕などは全くなく、ひたすら頂だけを目指して登ることに集中していたので、ビルフィーニャがずっと私の後ろでサポートしていてくれたことに最後まで気が付かなかった。

   南峰(6930m)が垣間見られる稜線に上がった所で、ヘラルドが「ここまで来ればもう大丈夫ですよ」と言わんばかりに、ふくらはぎを笑顔で摩ってくれた。 再び先頭集団から遅れての一人旅となったが、次第に視界には青空の占める割合が多くなり、山頂が近いことが分かった。 山頂直下の岩場を登っていると、ヘラルドがわざわざ私を迎えに下りて来てくれ、「もう山頂はすぐそこですよ」とニコニコしながら優しい目で疲労困憊している私を励まし、ゆっくりと一歩一歩足の置場を教えてくれ、ゴールに導いてくれた。

   午後2時45分、アメリカ大陸で最も高い6959mのアコンカグアの山頂に這いつくばるようにして辿り着いた。 想像していたよりも広く平らな山頂には、資料の写真で見た金属製の丸みを帯びた小さな十字架が立っていた。 「ありがとうございました!、お蔭様で登ることが出来ました!」。 先に登頂した奥田さん、熊本さん、植木さん、晝間さんの4人と力強い握手を交わして登頂の喜びを分かち合った後、ヘラルドとビルフィーニャにもお礼の気持ちを伝えながら、力強い握手を交わし合った。 夢にまで見た憧れの山頂であったが、達成感よりも安堵感と疲労が先行し、崩れ落ちるようにその場にへなへなと座り込んでしまった。 写真を撮るエネルギーもすぐには湧いてこなかったが、本能的に座ったまま手の届く所にあった小石をかき集めてポケットにねじ込んだ。 今までずっと風に悩まされ続けてきたにもかかわらず、不思議なことに山頂に吹くアンデスの風は優しかった。 アコンカグアの象徴とも言える、鋭く切れ落ちた純白の南壁が目に飛び込んでくると、やっと登頂したという実感が湧いてきた。 しばらく呼吸を整えてから、各国のサミッター達が貼りつけたステッカーやペナントで飾りつけられた十字架を入れた記念写真を植木さんに撮ってもらったが、山頂での隊員一同の集合写真が撮れなかったことが本当に残念であった。 夢が叶ったことで気が抜けてしまったのか、しばらく座ったまま何もせずに南壁を眺めながらボーッとしていたが、二度と来ることが出来ない所にいるのだから充分に楽しんでいこうと思い、ヘラルドからチョコレート菓子と凍ってシャーベット状になったジュースを一口もらって鋭気を養い、小広い山頂の縁をぐるっと一回りしてパノラマの写真を撮り、全てが足下になったアンデスの山々を見渡しながら、ここまでの長かった道のりを思い出して一人登頂の余韻に浸った。

   午後3時半になっても貫田隊長と稲村さんは頂上に姿を現さなかったので、二人を待たずに下山することになった。 ヘラルドが私のおぼつかない足取りを心配してくれ、アンザイレンしてくれた。 下山を開始した直後、ようやく貫田隊長と稲村さんの姿が見えた。 稲村さんは私以上に疲労困憊していたが、貫田隊長に付き添われるようにして登頂寸前であった。 稲村さんに伴走して山頂に戻ろうかとも思ったが、ヘラルドに下山を促されたため、稲村さんを激励してそのまま下山を続けた。 しばらく下っていくと、前を下っていく二人のパーティーの様子がおかしい。 初めは何かのトラブルで喧嘩をしているように見えたが、心配したヘラルドが仲裁に入り状況を訊ねたところ、どうやら一人が高山病にかかり、訳の分からないことを言いだして騒いでいたようであった。 ビルフィーニャが少しでも症状が緩和するようにと力水を与えた。

   1時間ほどで荷物をデポしたグラン・カナレータ直下の大岩の基部の所まで下り、ザックに入っていた煎餅をむさぼるように食べ、水をがぶ飲みするとやっと体に力が蘇ってきた。 しばらく雑談しながら休憩した後、貫田隊長らを待たずに下山を続けた。雪渓を通過して長大な砂礫のスロープのトラバースにさしかると、ここから先には登りの時と同様に強い風が吹き荒れていた。 気温が上がったので寒さはそれほど感じなかったが、ジャケットのフードを深く被り足元だけを見つめて歩かざるを得なかったので、残念ながら登りも下りも周囲の景色を愛でることは出来なかった。 再び風に追い立てられるように黙々と休まずに下り続けインディペンデンシアに着くと、ヘラルドはザイルを解いてからわざわざアイゼンまで外してくれ、笑顔で「フィニート!(やり遂げましたね)」と力強く言った。 ここからC3まではジグザグの踏み固められたトレイルを淡々と下るだけなので、登頂の余韻に浸りながら晴れがましく意気揚々とC3に凱旋したかったが、廣永さんが傍らにいないことや、宮澤さんや淑美さんが登頂することが出来なかったことが下りの足を重たくした。

   午後7時前、出発してから13時間ほどで無事C3のキャンプ地に帰還した。 真先にイワンが小走りにトレイルを駆け登ってきて出迎えてくれた。 「パーフェクト!」。彼の口癖を逆に言ってお礼の固い握手を交わした。 次々に出迎えてくれた宮澤さんと淑美さんが満面の笑みで祝福してくれたが、廣永さんはやはり控え目であった。 廣永さんの気持ちが痛いほど分かり登頂の喜びも半減してしまった。 緊張感と気持ちの昂りですっかり忘れていたが、長時間の行動で体はすでにガタガタであり、テントに戻ったとたんに疲れがどっと出た。 飯塚さんから手渡された熱いスープを口にすると、消耗していた体に少し活力が蘇ってきた。

   テントの中で貫田隊長と稲村さんの帰りを待ちながら、廣永さんにグラン・カナレータの直下で励ましの言葉もかけることが出来なかったことを詫びると共に、自分の実力の無さをあらためて嘆き、自分を責め続けた。 もしあの時の自分に余裕があれば、きっと廣永さんも山頂に立つことが出来たに違いなかった。 午後8時過ぎに貫田隊長が各テントを回り、私達を労いに来てくれたので、稲村さんも無事下山出来たことが分かった。 貫田隊長の話では稲村さんは下山中に高山病(視野狭窄)で目が見えなくなってしまい、下りも大変苦労したようであったが、今はテントの中で静養しているので心配は要らないとのことであった。 テントの中で簡単に夕食を済ませ、祝杯を上げることもなくシュラフに潜りこんだが、疲れ切っていたにもかかわらず、後悔の気持ちに苛まれてなかなか寝つけなかった。


山頂を目指してアタックを開始する


グラン・カナレータ手前


アコンカグアの山頂(左は南壁)


アコンカグアの山頂(晝間さんと)


アコンカグアの山頂からの景色


アコンカグアの山頂からの景色


アコンカグアの山頂からの景色


キャンプ・ベルリン(C3)に帰還する


  【下山】
   1月8日、夜半から再び風が強まり、今日単独で頂を目指すこととなった飯塚さんが出発する午前6時頃には、かなり強い風が吹いていた。 C3でこの強さであれば稜線には爆風が吹き荒れていることは必至だったので、同室の兄貴分の奥田さんも「風が強いので恐らく彼は登っていないと思いますよ」と予想していたが、念のため無線で呼びかけたところ、予想に反して飯塚さんは果敢にも強風の中を出発していたことが分かった。 さすがにエベレストを目指している若者は根性が違うと、あらためて感心させられた。

   遅い朝食を食べ、C3からの最後の景色を堪能し、テントを撤収して正午前に約1500m下のB.Cへと下った。 今日も風が強いが、快晴の天気である。 B.Cへ無事戻れる嬉しさか、隊員一同昨日のアタックの疲れを感じさせないほど足取りは軽い。 稲村さんは幸いにも高山病が治ったようであった。 C2のニド・デ・コンドレスで一服した後、C1のキャンプ・カナダを経由しないで直接B.Cへ下るルートをとった。 しばらくすると、飯塚さんが無事登頂を果たして、もう後ろから追いついてきた。 C3からの山頂往復は8時間であったという韋駄天ぶりに皆で仰天した。 さらに驚いたことに、稜線上に風は殆ど無かったとのことであった。 アンデスの風は本当に気まぐれだった。 C2からB.Cの間は“砂走り”も含め、いく通りものトレイルがあるが、偶然にも昨年の秋に女性最高齢でチョ・オユーに登られた内田さんのパーティーとバッタリ出会った。 淑美さんが知り合いということで気が付いたようであったが、海外では思わぬ所で思わぬ人に出会うことは意外に多い。

   午後3時にB.Cへ到着。 6日ぶりに戻ったB.Cには、テントの数がさらに増えて、活況を呈していた。 貫田隊長の話では、私達を含めた外国人は新年の休みを利用して登りにくるが、地元では新年を家族と共に過ごし、その後に続いている夏休みを利用して登りにくるとのことであった。 6日ぶりに着替えを行う。 1回10ドルの簡易シャワーもあったが、埃まみれの世界に体も順応したようで、それほど利用する気にはならなかった。 常設テントでささやかな?打ち上げを行ない、“常備品”のシャンパンを抜いて景気よく乾杯した後、地元産のワインとビールであらためて祝杯を上げた。 体も高度に充分順応しているのでアルコールも全くOKである。 明日、明後日と打ち上げは続くであろうが、こういう酒宴は何度あっても良い。 スープ、湯豆腐の前菜に続いて、コルフェリーナ嬢の手の込んだ肉料理が運ばれてくると、一同大いに盛り上がり、今朝までの貧しい食生活から一変した贅沢三昧の世界となった。


キャンプ・ベルリンからの景色


B.Cへ下る


B.Cとオルコネス谷


B.Cへ帰還する


B.Cで祝杯を上げる


   1月9日、アコンカグア探訪の旅も今日で終わりだ。 今日も快晴の天気であったが、いったいこの天気はいつまで続くのであろうか。 異常気象なのか、それとも今の季節はこれが当たり前なのであろうか。 朝寝坊して遅い朝食を食べた後、テントの周りで山々を眺めながら最後の写真を撮っていると、昨日B.C入りしたという単独行の学生さんに登頂ルート等について訊ねられたので、体験談を交えながら出来る限りのアドバイスをした。 登山ツアーで連れてきてもらった私と違い、食料から何から全て自力で担ぎ上げたそのチャレンジ精神には本当に頭が下がると同時に、ある種の羨ましさを感じた。

   当初の予定では、B.Cから登山口までの約30kmを歩くことになっていたが、「ムーラに乗りましょう」という貫田隊長の甘い誘いに、なぜか私以外の全員が賛成した。 ムーラのスピードには叶わないので、多数決の原理に従うことにした。 山頂では叶えられなかった隊員とスタッフ全員の記念写真を撮り、テントキーパー達に別れを告げ、正午前にムーラの待つ旧B.Cへと向かった。 午後1時前にB.Cから一段下がった旧B.Cの朽ちた廃屋の前に十数頭のムーラの一団が集合し、いよいよ“騎乗”することとなった。 

   馬方は隊員一人一人の体格に合ったムーラを中から選び、乗り方と手綱の操り方だけを簡単に手振りで説明しただけで、遠慮がちな隊員達を次々に鞍の上に乗せていく。 想像していたマンツーマン形式ではなく、4頭に1人の割合で馬方の見張りがつくというものであった。 最初はおっかなびっくりであったが、しばらくすると慣れてきて肩の力が抜けてきた。 手綱の操り方で進行方向が微妙に変わることも会得したが、周りを見渡すとムーラも人間と同じように様々な個性があるようで、乗り手の意志を忠実に遵守する者、なかなか言うことを聞かない者、前を歩くムーラの後だけを忠実に辿る者、集団を嫌いマイペースで進む者などがいることが分かった。 稲村さんの乗ったムーラが一番の暴れ馬で、途中から一番手慣れている奥田さんが交代したが、こともあろうにしばらくすると突然疾走して、奥田さんを振り落としてしまった。 幸いにも奥田さんに怪我はなかったが、他の人だったら大怪我をしていたに違いなかった。 私の乗ったムーラは、乗り手に似たのか?手綱を緩めるとすぐにトレイルを外れたがり、勝手に高い所に登っていってしまう変わり者であった。 彼は何度かトレイルの脇の急斜面を登り、下に向かって駆け下りたりして、私を充分に楽しませて?くれた。

   谷を下り、コンフルエンシアのキャンプ地の手前でオルコネス川の濁流をムーラに乗ったまま渡ることとなったが、1m近い水深の川床を安定した足取りで“渡渉”していく乗り心地はとても痛快であった。 午後6時半、登山口のレンジャーステーションに全員無事?到着した。 途中30分ほど昼食のために休憩しただけで、正味5時間もの間、鞍の薄いムーラの背中に跨がっていたため、お尻の皮が見事にむけてしまったが、これはご愛嬌であった。 アコンカグアへの道を完歩することは出来なかったが、1人120ドルの乗車賃も決して無駄ではなく、貴重な経験となった。

   レンジャーステーションから後ろを振り返ると、そこには入山した時と全く同じように、アコンカグアの堂々たる雄姿が青空の下に鎮座していたが、3日前にあの神々しい峰の頂に立ったことが、未だに信じられない思いであった。 遙かなるアンデスの高嶺に確かな足跡とほろ苦い想い出を残して、私のアコンカグア山行は終わった。 下山後はペニテンテスのロッジやサンチァゴの町で、苦楽を共にした隊員達と度重なる祝杯を上げたことは言うまでもない(このツアーは打ち上げが多過ぎる?)。

   装備品の購入費等も含めると、100万円近くかかった今回の登山ツアーは、貧乏人の私にとっては莫大な支出であった。 しかしこの山行で得られた様々な貴重な経験や感動は、今後の私の(登山)人生を豊かなものにしてくれるに違いない。 貫田隊長や現地ガイドのヘラルド、イワン、マルセイロ、そしてビルフィーニャはもちろんのこと、山行中に素人の私を支えて下さった奥田さん、飯塚さん、熊本さん、宮澤さん、植木さん、淑美さん、廣永さん、晝間さん、稲村さん、本当にありがとうございました。


山頂では叶えられなかった隊員とスタッフ全員の記念写真


想い出のB.Cを後にする


旧B.Cからムーラに乗る


アルマセネス


オルコネス谷をムーラで下る


乗り手に似た変わり者のムーラは帰路を充分に楽しませてくれた


盛夏のサンチアゴ


下山後は苦楽を共にした隊員達と度重なる祝杯を上げた


山 日 記    ・    T O P