ユングフラウ(4158m)

   7月27日、ほとんど眠れないままam4:00の起床時間になってしまったが、不思議と眠いという感じは全くしなかった。 外はまだ真っ暗だったが、嘘のように風はやんでいた。 登れるかもしれない。 本当にアルプスの天気は気まぐれだ。 食堂で慌ただしくパンとスープの朝食をとった後、予定より少し早いam4:40にヒュッテを出発し、まだ暗い雪原をユングフラウヨッホへと向かった。 緩やかな下り坂のため歩行は楽だった。 はたして体は高度に順応したのだろうか?。 眼前にはこれから登るユングフラウの黒いシルエットがうっすらと浮かび上がっている。 昨日通った雪原のトレイルには新雪が積もっていたが、ヨハン氏は真っ暗な雪原を何の迷いもなく、ヘッドランプの灯り一つでどんどん進んでいく。 40分ほどでユングフラウヨッホのトンネルの出口に着いた。

   ヨハン氏は昨日のように出口付近の物置に登攀具を取りに行ったようだったが、何故かなかなかトンネルから出てこなかった。 何をしているのだろうか?。 “スピード=安全”ではなかったのか?。 せっかく早立ちをしたにもかかわらず、結局私達は寒いトンネルの出口で20分近くも待たされ、夜が白み始めたam5:30過ぎにようやくザイルを結び合って出発することとなった。 古林さんや川村さんを始めとする他の登山者達はこちらへは来なかった。 おそらく雪原のどこかを、取り付きに向けて近道をしたのだろう。 取り付きへはそのほうが近いからだ。 この氏の行動は非常に不可解で不合理に思えたが、理由を聞くことも出来ず、取り付きに向かって黙々とさらに雪原を緩やかに下っていった。 途中何箇所かクレバスの通過があったが、氏は水たまりを避けるようになんなく進んでいく。

   トンネルの出口から1時間ほどで尾根の取り付きに着いた。 地図では取り付きの標高は3411m、ここから山頂までは約750mの標高差だ。 先行していたパーティーはここでアイゼンを着けていたが、ヨハン氏は躊躇無く先へと進んだ。 一般ルートどおりであれば、隣接峰のロートタールホルン(3969m)との鞍部のロートタールザッテル(3885m)まで同峰の東北東側稜を登り、そこから本峰の東南稜(ヨッホから見たユングフラウの左側の稜線)に取り付いて山頂に向かうはずである。 登り始めると間もなく岩稜帯となり、そこで1回目の休憩となった。 ガイドブックにはこの辺りに雨量計(どの程度のものかは分からない)があり、良い目印になると記されていたが、暗かったせいか雪のせいか分からないが、見つけることは出来なかった。 ほんの2〜3分の、立ったままでの短い休憩だった。 氏はここで繋いでいたザイルを短く結び直した。 すぐ近くでアイゼンを着けているパーティーがいたが、未だ氏からの指示はなかった。

   休憩後に岩場を回り込むようにしてしばらく登ると、進行方向が変わって目の前に急な雪の斜面があらわれた。 今度こそアイゼンを着けるだろうと思ったが、ヨハン氏は躊躇無くピッケルのブレードを頭の上から降り下ろして雪面に刺し、靴を雪面に力強く蹴り込んで60度位ありそうな急斜面を登り始めた。 これには私も驚いた。 私達のレベルではアイゼンを着けていても怖いぐらいの急斜面を、氏はリズミカルに登っていく。 氏は3mほど登ったところで後ろを振り返り、「キック・ステップ!」と私達に指示した。 先に登って上で確保するまでもなく、氏のつけた靴跡をさらに自分の靴で蹴り込んで後に続けということだった。 半信半疑だったが、なるほど登ってみればツボ足のほうが安定することが分かった。 分からないのは、新雪で今日の雪の状態は分からない筈なのに、何故氏が自信をもってアイゼンを着けなかったかである。 急な雪面はすぐに終わり、登りきると一転して今度はアイゼンが邪魔になるぐらいの緩やかな幅の広い雪稜となった。 全ては計算尽くされていたのだった。 それでは何故トンネルの出口で無駄な時間を過ごしていたのか、ますます不可解に思えた。 若手のガイド達を先行させ、新雪にトレイルをつけさせようとしたのか、それとも天気と気温(雪)の状況を推し量り、ベストの時間帯を待っていたのだろうか?。 もしそこまで考えていたのであれば、氏は本当に優れた山岳ガイドだ。

   セピア色の空が水色に変わり、モルゲンロートに染まっていたユングフラウの山頂に朝陽が当たり始めた。 金色に輝く頂は、まるで山の写真集の1カットにあるような幻想的な光景だった。 トレイルを少し離れた所に絶好の撮影ポイントがある。 写真だ!。 しかし今は許されない。 何度も心の中でシャッターを切り続けた。 この時の“写真”は今でも私の心の中に、他のどんな写真よりも鮮明に写っている。 少し足場の安定した所に出たため、ポケットからカメラを取り出し、昨日のようにザイルを緩めることなく、歩きながら片手でシャッターを切った。 東北東側稜には危険箇所がなく傾斜も緩いためか、それとも高所に順応したためか、昨日に比べて足取りは全く軽い。 am7:00を過ぎて、ようやく大雪原を挟んで聳え立つ山々の上から太陽が昇ってきた。 ロートタールザッテルに向かって伸びているトレイルと、先行しているパーティーが良く見渡せる。 稜線は相変わらず風もなく、陽射しで体も暖かくなってきた。 どうやらアルプスの山の神に歓迎されたようだ。 今日こそは下山するまでこの天気がもって欲しいと願う。 間もなく前方に何組かのパーティーが休憩している場所が見えてきた。


ユングフラウの東北東側稜の取り付きに向かう


取り付き付近からロートタールザッテルへ向かうパーティー


   ユングフラウヨッホを出発して約2時間半後のam8:00に中間点のロートタールザッテルに着いた。 ヨハン氏はここで私達にアイゼンを着けるように指示し、どっかりと腰を下ろした。 眼前にはメンヒとアイガーが連なって見え、ヨッホの展望台が小さく光っている。 相変わらず7〜8mほどのザイルの長さの範囲でしか行動出来ないので、理想の撮影ポイントに行くことは出来ないが、ここぞとばかりに写真を撮りまくる。 見上げると、山頂まで幅の広い雪稜(南東稜)が一直線に続いていた。

   15分ほど大休止した後、ザッテル(狭い鞍部)を乗越し、南東稜へ取り付いた。 意外にもザッテルを乗越したとたん、そこには強い風が吹き荒れていて、まるで別の山にいるような厳しい状況になった。 大休止はこのためだったのか!。 そしてトレイルもガラリと様相を変えた。 最初は足がすくむほどの急斜面を上り気味にトラバースする。 ここで足を滑らせたら、三人とも助からないだろう。 風が強いため体がよけい硬くなる。 雪が硬く締まっているため、ピッケルを一回一回思いきって打ち込まなければならず右腕が疲れる。 長いトラバースが終わり、やっと足元が安定したのも束の間、今度は一変して崩れやすい新雪の急斜面の登りになった。 ガイドブックにはこの辺りは急な岩場で、確保用の杭が数本打ってあると記されていたはずだ。 しかし今日は岩も杭も殆どが雪に埋もれている。 先行していたパーティーもここで順番待ちをしていた。 図らずも束の間の休憩となったが、これが最後の休憩となるとは知る由もなかった。 ヨハン氏が僅かに雪面から出ている鉄の杭にザイルを絡めて確保した後、再びピッケルを深く打ち込み一歩一歩慎重に登る。 登りは何とかなるが下りは大変だと思うほど雪が脆かった。 アルプスの山の一般ルートは思ったより手強く、あらためてガイドの有難みを痛感した。

   危険地帯を過ぎると、あとは山頂まで30度位の幅の広い雪稜の登りとなった。 標高差にして約200mといったところか。 雪が締まっているため、アイゼンの爪痕のトレイルしかなく、ガイド達が客(クライアント)のレベルに合わせてジグザグの角度を変えながら登っていく。 ヨハン氏は全く後ろを振り返ることもなく、黙々と私達を上に引っ張っていく。 登りながら、20mほど離れたところを指さして妻が叫んだ。 「今あそこを下っていくのは古林さんよ!」。 すでに古林さんは下りにかかっていた。 「早かったですね〜、お疲れ様〜!」。 古林さんも気がついたようだった。 相変わらず風は止まないが、動いていれば寒くはない。 しかし何といっても昨日とは違い足がそれほど重たくない。 今日は数を数える必要はなかった。 妻は相変わらず順調だ。 傾斜が緩み、ナイフリッジとなっている雪稜の先にサミッターで賑わっている山頂が見えてきた。 山頂手前で順番待ちをしていた時、初めてヨハン氏から“観光案内”があった。 「あそこに見えているのがモン・ブランですよ!」。 氏が指さした南西の方向にそれらしき大きな山塊があったので、それとなく分かった。 その少し左に先の尖った山が見えたので、氏に「マッターホルン?」と聞いたところ、氏は相槌を打っていた。 私達がこれから登る予定の山々もあの辺りにあるはずだ。


ロートタールザッテルから見たフィンスターアールホルン(中央奥)


ロートタールザッテルから見たメンヒ(中)とアイガー(左)


東南稜の幅の広い雪の斜面


   am9:20、下山するパーティーと入れ替わりに、夢にまで見た憧れのユングフラウの山頂に余裕を持って辿り着くことが出来た。 想像していたよりも狭い山頂は、各パーティーがほとんど同じ時間帯に登るため鈴なりだった。 「やったね〜!、最高だね〜!、どおだ〜!」。 昨日とは違う、嬉しさ一杯の山頂だった。 握手を交わした妻の顔も今日は満足そうだった。 「サンキュー・ベリー・マッチ!」。 手袋を外してヨハン氏と握手を交わす。 さあ写真だ!。 氏が腰を下ろしたため、半径5mほどしか行動範囲はないが、憧れの山からの展望は最高だった。 目の前のメンヒがすぐ左隣のアイガーと肩を組んで聳え、その僅かな隙間からヴェッターホルンが顔を覗かせている。 そして時計回りにメンヒの右にはシュレックホルン、グロース・フィーシャーホルン、フィンスターアールホルン等のベルナー・オーバーラントの名峰が並び、足下にはアレッチ氷河に続く大雪原(ユングフラウフィルン)が広がっている。 振り返れば、ロートタールホルンの向こうで端正な純白の頂のアレッチホルン(4195m)が孤高を誇っている。 そして南方のブリュムリスアルプ連山の遙か向こうには、イタリアとの国境に聳えるマッターホルンを始めとするヴァリス地方のフィアタウゼンダーがずらりと並び、フランスのモン・ブランへと続いているのが良く分かる。 まさにここはベルナー・オーバーラント、スイスの“へそ”だった。 ヨハン氏と記念写真を撮っていると、とっくに登頂したと思われた川村さんが果敢にも単身で登ってこられ、嬉しい再会となった。 お互いの登頂を讃え合って写真を撮り合った後、氏に促されてam9:40にもう二度と来ることは叶わない憧れの頂を後にした。


ユングフラウの山頂


山頂から見たメンヒ(中央)とアイガー(左)


山頂から見たアレッチホルン


山頂から見たブリュムリスアルプ方面の山々


   下りは例によって私が先頭だ。 もう氏に良いところを見せる必要もないので、登頂の余韻を味わいながら広い雪稜を自分の下り易い場所を選んで下っていった。 30分ほどで広い雪稜を下りきると、先ほどの“危険地帯”に着いた。 登り以上に他のパーティーも苦戦している。 見た目はさほどでもないのだが、気温の上昇により先ほどより更に新雪が脆くなっているようだ。 ヨハン氏が鉄の杭にザイル絡めて私達を後ろから確保し、一歩一歩慎重に下る。 20mほど下った時、打ち込んだピッケルの周りの雪が崩れ、バランスを失って尻もちをついてしまい、雪の上を滑り始めてしまった。 “しまった!”と思った瞬間、アンザイレンしていた妻も私に引きずられて転び、止まりかけていた私の背中にぶつかってきた。 たまらず二人一緒に数百メートル下の谷底に向けて滑り始めた。 私達の心臓は一瞬凍りついた。 だが幸運にも、すぐ先にあった確保用の杭に向けて真っ直ぐに滑ったため、両足を広げて杭にしがみつき、辛うじて二人とも止まった。 助かった!。 もしこの杭がなかったらヨハン氏は私達を止められたかどうか。 しばらくして氏が上から心配そうに下ってきた。 「ソーリー!、ソーリー!」と何度も頭を下げて謝った。 もう二度と失敗は許されない。 ロートタールザッテルへの最後の下りのトラバースでは、初心に帰って足元だけを見ながら亀のようにゆっくり歩いた。

   ザッテルを乗越し、“安全地帯”に着いた。 大休止だ。 相変わらずここは風もなく暖かかった。 ヨハン氏はどっかりと腰を下ろし、ザックから干し肉を取り出してナイフで削って食べ始めた。 もうあとは危ない所は無く楽勝だと、私達も行動食を食べて寛いでいると、意外にも氏から「ここからしばらく行った所から左に下ります」という指示があった。 私にはそれが何を意味しているのかすぐに分かった。 ガイドブックに記されていた“ダイレクト・ルート(現在は危険なので使われていない昔の一般ルート)”のことだ。 しかし、“スピード=安全”がここで登場するとは思わなかった。 ここでの大休止にもやはり理由があったのだ。

   ザッテルから10分も下らないうちに、登りでは見られなかった(気が付かなかった?)踏み跡が、左手の雪庇の方向につけられているのが見えた。 踏み跡を10mほど行くと、そこから先は下の雪原の縁まで一気に続く崖のような急な雪の斜面となっていた。 どうしたら良いものか分からずに立ち止まっていると、後ろからヨハン氏が「構わずそこを下りなさい」と指示してきた。 先ほどの出来事が頭に浮かび、一瞬妻と顔を見合わせた。 下る決心がついたのは、下の方に先行しているパーティーが見えたからだった。 初めのうちはまだ雪が適当に硬く怖かったが、雪は次第に柔らかくなり、膝までそして妻は股までもぐるようになった。 なるほど斜面は急だが、自分の体重で雪にもぐり、その抵抗で滑落しないことが分かってきた。 しかしこんなイレギュラーな下山方法は、ルートや雪の状態を知り尽くしていなければ絶対に無理だ。 後から下山したベテランの川村さんも、さすがに遠回りをして登ったトレイルをピストンしたという。 雪に足を取られ結構疲れるので、ゆっくり下りたいが、ヨハン氏が後ろから煽るように「どんどん下りなさい!」とハッパをかけてくる。 途中さすがに妻が音を上げて休憩をリクエストしたが、氏はこれを許してくれなかった。 上から下ってくる次のパーティーが、雪崩を引き起こす危険性があるからだろうか?。 急斜面を転がるように、あっという間に200mほど下の雪原の縁まで下ってしまった。 しばらく緩やかな斜面をゴールのユングフラウヨッホに向け歩いた所で、ようやく氏から休憩が認められた。 後ろを振り返り、下ってきたルートをあらためて見上げたが、よくあんな所を下ってきたものだと感心させられた。 気温がかなり上昇してきたため、ジャケットを脱いで長袖のシャツ一枚となった。

   トレイルの脇で一服した後、身も心も軽やかにゴールを目指し、最後の仕上げにかかった。 ユングフラウヨッホの展望台はすぐ近くに見えているが、不思議となかなか辿り着かない。 しばらくするとトレイルは緩やかな上り坂となり、pm0:30にようやく出発したトンネルの出口とは反対側の、大勢の観光客で賑わっている観光用の雪の広場に着いた。 ザイルを解き、メンヒ・ユングフラウのコンビネーション・ツアーは終了した。 登山に興味のない観光客は、広場を囲っている柵の外から急に出現した私達を、“いったいこの人達はどこから来たのだろう”という奇異の眼差しで見ていたが、不思議とそれが何か誇らしかった。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、二日間本当に有り難うございました!」。 最後に両手で拝むように握手をして、ヨハン氏に感謝の気持ちを込めてお礼を言い、憧れの山を背景に氏と最後の記念写真を撮った。 ヨッホの展望台は天気が良かったせいか、日本人を始め多くの観光客でごった返していた。 レストランのテーブルが一杯だったので、立ったままカウンターで氏とコーヒーを飲み、100フランのチップを手渡した。 最後の氏との雑談で分かったことは、50歳を超えていると思われた氏の年齢が48歳であったこと、そして何とメンヒには300回以上登ったことがあるということだった。


ロートタールザッテルからの下山に辿ったダイレクト・ルート


ユングフラウヨッホから見たユングフラウとガイドのヨハン氏


   ヨハン氏と別れ、違う階のセルフサービスの廉価なレストランで二日間の山行の思い出に浸りながら、久々にのんびり昼食を食べた。 食後に最上階のスフィンクスの展望台に行くと、テラスで下山してきた川村さんと再会した。 川村さんは名古屋の出身ということだったが、日高の冬山に憧れ、北海道に移り住んでいるという猛者だった。 しばらく眼前のメンヒとユングフラウの雄姿を眺めながら夢を語り合い、明日以降のお互いの健闘を祈念してヨッホを後にした。 川村さんは明日メンヒを登る予定で、これからまたメンヒスヨッホヒュッテに戻るとのことだった。

   憧れの山に別れを告げ、クライネ・シャイデックまで登山電車で下ってくると、残念ながらすでにベルナー三山の頂は霧に覆われ始めていた。 ヨッホもかなりの人出だったが、ここも駅前に“出店”が出現し、大勢の観光客で賑わっていた。 グリンデルワルトに向かう車中では、さすがに睡魔が襲ってきて、車窓からの風景を楽しむことが出来なかった。 ホテルに戻りシャワーを浴びるとさらに疲れがどっと出て、レストランへ行く気力も無くなり、インスタントラーメンを自炊して早々に床に就いたが、憧れのアルプスの山の頂に立つことが出来たことで、心は充分に満たされていた。


スフィンクスの展望台から見たメンヒ


スフィンクスの展望台から見たアレッチ氷河


山 日 記    ・    T O P