メンヒ(4099m)

   7月26日、am6:00起床。 明け方少し雨が降ったようだった。 麓の天気は回復しても山の天気はぐずついてしまうのではないかという不安な気持ちが一瞬頭をよぎったが、日本から持参した食糧を自炊して鋭気を養い、身仕度を整えてam6:45にホテルを出発した。 ホテルから10分ほどのグリンデルワルトの駅に着くと、すぐにガイドのヨハン氏らしき人が目にとまった。 「グッ・モーニング!、ナイス・トゥー・ミーチュウ!。 マイ・ネーム・イズ・ヨシキ・サカイ・アーンド・ヒロミ。 ソーリー、ウイー・キャン・スピーク・イングリッシュ・ベリー・リトゥル」と、知っているかぎりの怪しげな(おかしな)英語で挨拶をした。 ガイドのヨハン氏は写真よりもさらに年配に見えた。 おそらく50歳を過ぎているのではないだろうか。 ディパックぐらいの小さな布地のザックも年代を感じさせるものだった。 氏はシャフトが短い重たそうなブレードのピッケルをザックにくくり付けていたが、何故かザイル等の登攀道具は持っていないようだった。

   am7:19、クライネ・シャイデック行きの始発電車が駅を出発した。 今日は天気が良くなるとみたのか、早朝にもかかわらず観光客が非常に多い。 登山者も数名見られた。 先ほどグリンデルワルトの駅で知り合ったばかりの市村さんという日本人夫婦の登山者が近くにいたので、情報交換しながら車内で時間をつぶすことにした。 ご主人の方は以前ユングフラウを登ったことがあるというベテランで、今回は奥様を連れて再びユングフラウを登りにきたとのことだった。

   am8:00、クライネ・シャイデック駅でユングフラウヨッホ行きの始発電車に乗り換える。 朝方曇っていた天気も徐々に良くなり、目の前にアイガー(3970m)とユングフラウ(4158m)、そしてようやくその雄姿を見ることが出来たメンヒ(4099m)を加えたベルナー三山が、神々しくそしてとてつもなく大きく望まれた。 登山電車でどんなにアプローチが短縮されようとも、これからあそこの頂に登ろうとしていることが未だに信じられない。 ピッケル等の登攀具を荷物置場に積みこんだ後に乗車したため、私達を含めた登山者達は終点まで1時間近くの間、ずっと入口付近で立ち続けることになってしまった。 普通の電車と違い急勾配を登るため、立ったままでの乗り心地は悪かった。 しかし何よりも困ったことは、ヨハン氏との会話だった。 「スイスには初めて来ましたが、本当に美しい国ですね」とか、「日本にも富士山という山がありますが、ご存じですか?」などと一通りの“社交辞令”が終わると、雑談が続かず言葉の壁で間が持てなくなってきた。 氏は地元の出身だろうから、会話の基本はなまりのあるドイツ語だが、組合に所属している公認のガイドなので日常の英語は充分話せるはずだ。 氏は私達が英語を殆ど理解出来ないと思ったのか、これからのスケジュールや登山の注意事項等について、全く話しかけてこなかった。 またどちらかと言えば口数の少ない人のようにも思えた。 私達は山へ登る前から精神的に疲れてしまった。 ガイド付き登山も決して楽じゃない。


ユングフラウヨッホへの登山電車の車窓から見たメンヒ


   クライネ・シャイデック駅を出ると、一つ目のアイガーグレッチャー駅から終点のユングフラウヨッホ駅までは、アイガーとメンヒの真下を通る全長7122mのトンネルの中だ。 途中のアイガーヴァント駅は、アイガーの北壁を内側からくり抜いてガラスの窓をはめ込んだ観光用の駅で、5分間の停車時間に窓のあるテラスに向かい、まるで北壁の真っ只中にいるような雰囲気を楽しむことが出来た。 さすがに観光の国スイス、心憎いばかりの演出だ。

   am8:55、ユングフラウヨッホの地下駅に着いた。 ヨッホとはドイツ語で“鞍部”の意味だ。 乗客の殆どが我先に駅の真上にあるスフィンクスの展望台に向かうのを尻目に、私達はうす暗く寒い駅の構内の片隅でオーバーパンツ、スパッツ、ハーネス等を付けた後、通行止めの柵を乗り越えて登山口への暗いトンネルの中を歩きだした。 トンネルの出口付近にはガイド専用?の物置があり、ヨハン氏が今日の登山に必要なザイル等の登攀具を取り出している。 なるほどそいうことだったのか!。 トンネルを出るとそこは眩いばかりの大雪原だった。 群青色の空と雪原の向こうに連なっている山々の景色に意表を突かれ、それまでの不安な気持ちも全て吹っ飛んでしまった。

   am9:30、メンヒの南東稜の取り付きに向けてヨッホを出発する。 アルプス登山の第一歩は広大な雪原(ユングフラウフィルン)歩きから始まった。 このルートは今日宿泊予定のメンヒスヨッホヒュッテに行くトレイルでもある。 僅かに上り勾配となっているまっすぐなトレイルは登山者によって踏み固められ、危険箇所は無いらしく、ザイルやアイゼンは着けずに歩いた。 もし私達だけならばヒドゥンクレバスを恐れ、ここでもアンザイレンしただろう(旅行会社の説明会の講師であった登山家の鈴木昇巳氏もその必要性を唱えていた)。 天気は快晴となり、右手にはヨーロッパで最も長いアレッチ氷河とそれを囲む山々、左手にはこれからアタックするメンヒが、ここからの標高差が600mとは思えないほどの圧倒的な大きさで聳えている。 また振り返ればユングフラウが、クライネ・シャイデックから見上げた時の幅の広い容姿とは全く違う、雪をたっぷり戴いたスリムな双耳峰に姿を変え、その優美さを披露している。 そしてここから見たユングフラウヨッホは、まさにメンヒとユングフラウをつなぐ稜線の鞍部だった。 こんな絶好なロケーションは滅多にない。 まさに展望のトレイルだ。 ゆっくり写真を撮っていきたいと願わずにはいられなかったが、ヨハン氏はルートや周囲の山々の名前等を説明することもなく、ひたすら目的に向かって黙々と歩き続けるだけだった。 ガイドの究極の使命はいかに安全にかつ速く“客”を山頂に導き、無事に下山させることであり、登山中にムダ話や写真を撮るという行為はご法度であるに違いない。 「写真を撮りたいので少し待ってくれませんか」と喉から手が出るほど言いたかったが、言葉の障害で上手く伝わらず気分を害されては困るので、氏に気づかれないように写真を撮っては雪原を走って追いつき、また写真を撮るということを繰り返していた。 しかしながら素人の私には、このことが後で高山病の引き金になろうとは知る由も無かった。


メンヒの南東稜の取り付きに向かって氷河を歩く


氷河から見たユングフラウとスフィンクスの展望台(右)


   ヨッホから40分ほどで南東稜の取り付きへの分岐に着いた。 取り付きへのトレイルは薄く、今日の入山者の少なさを物語っていた。 ここでヨハン氏とザイルを結び、am10:20にいよいよ登山開始となった。 アイゼンはまだ着けなくて良いと言う。 もう“まな板の上の鯉”だ。 言われるままにヨハン氏、妻、そして私の順にアンザイレンして登り始めた。 周囲を見渡すと一組だけ先行するパーティーが見えた。 天気は良くガイドもいるため、緊張感はそれほど感じないが、何せ“ヴァリエーションルート”のこと、この先どうなることかは全く分からない。 もしガイドレスで臨んでいたら、今どんな気持ちであるかを自問自答してみた。 そういえば“取り付きには岩屑の上に明瞭な踏み跡がある”とガイドブックには記されていたが、今は全て雪の下だ。 その年の雪の量によってガイドブックの記述も役に立たないことを思い知らされた。

   初めての“殿(しんがり)”に戸惑いもあったが、だんだんと慣れてきた。 恐らくヨハン氏は、結んだザイルを通じて私達の体力や技術を短時間で見抜くだろう。 30分ほど“試運転”した後、岩の露出した斜面の手前で休憩となった。 氏はここでやっとアイゼンを着けるよう私達に指示をした。 この先にはあの“ベルグラ”があるのだろうか?。 氏は岩の隙間に荷物の一部をねじ込んだ。 「デポジット?」と聞くと通じたようで、不要な荷物があれば一緒に置いても良いと言う。 “デポ”はアルプスでも存在していた。 明日用の行動食などをデポし、すぐにまた登り始めた。 ベルグラはルート上には見られなかったが、昼前にもかかわらず雪は硬く締まり、アイゼンが良く利く。 トレイルは相変わらず薄いが、よく見るとあちらこちらにアイゼンの爪跡がある。 しばらくすると確保無しでは登れないような高さ5mほどの垂直に近い岩場がルート上にあらわれ、氏に上で確保してもらいながら登った。 結果的にはここが唯一の難所だった。 登ってみると岩の上には確保用の鉄の杭が打ってあった。 やはり“一般ルート”だ。 しばらくは稜線(南東稜)に上がる手前の急な雪面をジグザグに登る。 ガイドブックに記されていた岩稜帯やミックスの斜面は、大雪のためか全く出現しなかった。

   稜線に上がってからは、風が少し吹き始めると同時に霧が湧き始めた。 今まで気がつかなかったが、後ろを振り返るとメンヒスヨッホヒュッテが眼下に小さく見えていた。 天気が崩れることを予見したのか、これが普通なのかは分からないが、ヨハン氏は全く休もうとしない。 ペースはそれほど速くない(むしろゆっくりだった)のに足が前に出なくなってきた。 すでに富士山より高い所を登っているので、私達にとっては未経験の高さだが、呼吸が苦しいというよりは足が鉛のように重たいのだ。 さぞかし妻も大変だろうと思って声を掛けたが、意外なことにそれほどでもないと言う。 後で分かったが、先ほどの雪原のアプローチや、アンザイレンした後も写真を撮るためにザイルを緩め、撮り終わると急いで登っていたことが原因で、私の血液中の酸素の量が不足していたのだった。 登山電車で標高差約2400mを一気に登り、高所順応していない体には自殺行為だったのだ。 もっと積極的に呼吸をして、体に酸素を送り込めば良かったのだが、単に疲れだと思っていたのが、経験不足のなせる業だった。 ガイドブックの一節がふと頭をよぎった。 「一番の危険はこの山をあなどって高所順応もせず、訓練や経験もないのに“ついでに登って帰ろう”と思うことである・・・」。

   ヨハン氏はまるで機械のように一定のペースを保ち、足場の悪い所は自分の靴を蹴り込みながらトレイルをつけていく。 その動きには全く無駄が見られなかった。 前を歩いている妻は、このペースに上手く順応したようだった。 “中堅”の妻ならいざ知らず、殿の私が休憩をリクエストすることは許されない。 一歩登る毎に心の中で数を数え、100まで数えるとまた1から数え始める。 “300まで数えたら休憩だ、500まで数えたら山頂が見えて・・・”。 山登りを始めたばかりの頃によく使った自己暗示法がここに来て復活した。 写真を撮る余裕や、妻を気遣う余裕はもはや無い。 ふと目を上げると、霧の中にナイフリッジとなっている純白の稜線の上に青空がかすかに見えた。 あそこが山頂だ!。 ガイドブックの写真と文章が目に浮かんだ。 最後の危険地帯に入ったためか、登頂を確信したのか、氏のペースが少し落ちてホッとした。 山頂に人影が見える。 先行していたパーティーだ。


メンヒの南東稜を登る


メンヒの山頂直下


   pm0:40、雪庇の少し張り出している猫の額ほどの狭い山頂に、ヨハン氏、妻、そして私の順に辿り着いた。 辿り着いた達成感と、もうこれ以上登らなくて済むのだという安堵感とが交錯している。 山登りを始めたばかりの頃を思い出させる、ほろ苦い思いだった。 「ご苦労さん!、やったね〜!、お疲れ様でした!」。 妻と固い握手を交わし、お互いの登頂を喜び合った。 そして寒かったが敬意を表して手袋を外して氏と握手を交わした。 「サンキュー・ベリー・マッチ!、ありがとうございました!」。 アルプスの扉を開いてから丸一年、夢にまで見た憧れのアルプスの山の頂に立つことが出来たのだ!。 妻は座り込んだままだったが、私はしばらく仁王立ちして一人悦に入っていた。 360度の大展望を期待していた山頂からは、先ほどまで青空の下に見えていたユングフラウも、霧のため全く見えなくなってしまった。 かろうじてアイガーの山頂とグロース・フィーシャーホルン、そして足下のアレッチ氷河が霧の中に見え隠れしている。 だが思ったより感激が少なかったのは、周囲の展望が霧のベールに包まれていたせいだけではないように思えた。 ガイドの有り無しでは、予想していた以上に登攀の難易度が違ってくることを体験したからだろうか?。 アンザイレンしていることに加え、雪庇で行動範囲が制限されるため、山頂での写真撮影は一苦労だった。 氏はすでにそわそわしている。 下山の時間は近い。 日本の山であれば霧があがるのをしばらく(いつまでも?)待つのが私達の常識だが、アルプスの山ではそうはいかない。 ここでの常識は“スピード=安全”だ。 僅か15分ほどで氏は腰を上げた。


メンヒの山頂


山頂から見たアイガー


山頂から見たシュレックホルンとグロース・フィーシャーホルン(右端)


山頂から見たアレッチ氷河


   下りは私が先頭で行くように指示された。 いよいよ私がガイドだ。 後ろにヨハン氏がいることを考えずに、ガイドレスのイメージでいつもよりかなり気を遣って一歩一歩確実にナイフリッジの稜線を下り始める。 天気も本格的に下り坂となり、周囲の展望が無かったのでかえって足元に集中できた。 だんだん慣れてきたので、氏に良いところを見せようとして張り切って歩いたため、後ろの妻から「速い!」との注文がついた。 休憩することもなく南東稜を下りきり、南斜面への急な下りにかかった。 間もなく先ほどの岩場があり、上からヨハン氏に確保されて下り終えた所で休憩となった。 ここからはトレイルが薄いので、再び足元に集中して慎重に下り始めたが、曇天のため雪は締まったままで、アイゼンが良く利いてくれたので助かった。 しばらくすると小雪がパラつき始めた。 ヨッホを出発した時は快晴の天気だったのに、田村さんが言ったようにアルプスの山の天気は変わりやすかった。 結局下りも途中1回休憩しただけで、取り付きまで1時間45分で下ってしまった。 これでとにかく憧れのアルプスの山を一つ登ることが出来た。 いや登ったのではない、正しくは連れていってもらったのだ。

   さ〜て、後はメンヒスヨッホヒュッテまで登頂の余韻に浸りながら15分も歩けば着くだろうと安心した矢先、突然頭痛が襲ってきた。 すぐに治るだろうとたかをくくっていたが、これが私の高山病デビューだった。 雪は次第に強まり、ヒュッテに着く頃には本降りとなった。 そして頭痛も更に酷くなってきた。 ゆっくりヒュッテでくつろげると思っていたのに、本当に不快感この上ない。 食堂では周囲の山々を登ってきた登山客達がビールやワインを飲みながら楽しそうに歓談していたが、私は紅茶で頭痛薬を流し込み、手袋や帽子を乾かしながらひたすら得体の知れぬ頭痛と闘っていた。 妻は全く頭痛はないと言う。 私は高山病に弱い体質なのだろうか、それとも自ら高山病の症状を作り出してしまったのだろうか?。 

   ヒュッテの内部は基本的に日本の山小屋と違うところはなく、指定された二段ベットの上で静養していると、一人の年配の日本人が部屋に入ってきた。 古林さんという方だった。 間もなく夕食の時間となり、食堂で古林さんと情報交換すると、意外にも古林さんから「マッターホルンを登りに来たんですが、大雪でルートが開かないので、急遽予定を変更してツェルマットからこのヒュッテまで出向き、明日ユングフラウを登りに行くことにしたんですよ」という話があった。 古林さんは山の経験はもちろんのこと英語も堪能なようで、同じテーブルのガイドや外国人の登山客との会話も弾んでいる。 本当に羨ましいかぎりだ。 古林さんを通じて、今日の私達の“実力”についてヨハン氏に伺うと、「ペースは普通ぐらいでしたよ」との社交辞令?の返事が返ってきた。 食事をしながら古林さんと歓談していると、もう一人の日本人の青年が食堂にあらわれた。 彼も英語が堪能なようで、地図を拡げながら周囲の外国人とユングフラウの登山ルートについて話をしていた。 川村さんというその方は、単独行でガイドレスだった。 よほどの経験者であるに違いない。 彼もまたマッターホルンを狙いにきたようだった。 お二人が外国人と楽しそうに歓談されている姿を見て、海外では英語(外国語)も一つの大事な“登山技術”であることを思い知らされた。 これで私達を含め、明日ユングフラウへアタックする日本人は4名となった。 今朝ヨッホで別れた市村夫妻は、無事登頂を果たされたのだろうか?。

   夕食後、ヨハン氏から「明日はam4:00に起床し、am5:00に出発します」との指示があった。 就寝後にようやく頭痛がなくなりホッとしたが、今度は興奮と緊張で全く眠れなくなった。 後でこれも高山病の症状であることが分かった。 夜中に屋外にあるトイレに行くと、外は吹雪になっていた。 このままではトレイルも消えてしまい、破天荒のため残念ながら明日の登山は中止になってしまうだろうと思った。


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