キリマンジャロ(5985m)

   2000年12月31日午前0時30分、登りの最終キャンプ地(C.3・4750m)での気温はマイナス5℃。 風は無く寒さはそれ程感じない。 空は日付が変わる前と同じ満天の星空である。 しかし貫田隊長は気温が少し高いことを懸念してか顔色が少し曇っている。 真っ暗な避難小屋の前で点呼をとり合った後、「ウフル・ピークまで行くぞ〜!」と大声で勝鬨をあげ、自分自身を含め皆に気合を入れようとしたが、体力を温存されているのか、体調がすぐれないのか、それともウフル・ピークにこだわっている私が煙たがられているのか、他の隊員の応答は控え目だった。

   昨年の9月中旬、山の会での北アルプス裏銀座の山行中にたまたま淑子(坪山)さんから“隊員が足りないから”という理由で突然誘われたことに端を発したのが、今回のキリマンジャロ山行である。 私の頭の中の海外登山計画には、『キリマンジャロ』という山名は一番奥のほうに一応インプットされてはいたものの、まさかこんなに早い時期に行くことになろうとは全く考えてもいなかった。 果してキリマンジャロとはどんな山なのであろうか?。

   山から帰ると、直ぐにキリマンジャロという山を調べてみた。 キリマンジャロ登山のガイドブックは市販されていなかったが、七大陸の最高峰の一つであり、かつ“登山道”や“山小屋”があるというこの名山は、ベテランの登山家から芸能人まで幅広い人々を迎え入れているようで、同峰に登った人の著書は非常に多く、これらがガイドブックの代わりになった。 その中でも特に印象的だったのは、当時の七大陸最高峰世界最年少登頂者の野口健さんが同峰で初めて高山病を体験し、嘔吐を繰返しながら登ったという記述であった。 どうやらこの山の登頂の鍵は、高山病の克服にあるようだ。 また、これらの著書によれば同峰は大きな火口をもつ火山であり、その最高点である『ウフル・ピーク』(5895m)のみならず、一般ルート(殆どの人がこのルートを登るようだ)を登った場合に、最初に到達する火口のお釜の縁である『ギルマンズ・ポイント』(5685m)という一つのピークをもって山頂とする説があることが分かった(ちなみに国立公園の管理事務所ではどちらも山頂とみなし、登頂証明書を発行している)。 しかしいくら火口が大きいと言っても、標高差で200m以上も違ったら、見える景色は絶対に違うはずだ。 また、どうせ七大陸の最高峰の一つにチャレンジするなら、絶対にウフル・ピークを目指そうと心に固く誓った。 バカは高い所に登りたがるのである。

   ところで今回のキリマンジャロ山行は、淑子さんの岳友である吉村さんが主催している広島市民登山講座が、旅行会社のW社に発注した手配旅行であったが、同社の代表でエベレストのサミッターである貫田宗男さん(隊長)の案で、山小屋等の施設の整った東面の一般ルート(マラング・ルート)ではなく、殆ど登山者が入っていないと言われる静かな北面のナルモロ・ルートをテント泊で登り、一般ルートを下るというユニークな試みであった。 この案には私も大賛成で、これが参加の申し込みをした最大の理由であった。 ところがいざ蓋を開けてみると、高度障害のみならずキャンプ地の水質の悪さや、午後には決まって雨が降るという雨期の名残のような気象状況等により、隊員の中には体調を崩す者が続出した。 かくなる私もそのうちの一人で、入山以来胃腸の調子が思わしくなく、とうとう頂上アタックの日を迎えてしまった。 しかし幸いなことに、頭痛や吐き気という高山病特有の症状は、途中何度か軽い頭痛はあったものの、一つ手前のキャンプ地(C.2・3900m)で高所順応日を一日設けたこと等により全く無くなっていた。

   アタック前日のミーティングでは、出発時刻を午前0時30分とし、ウフル・ピークに行くためには、ギルマンズ・ポイントへの到着時刻を午前7:00までとしなければならないことが決められた。 ミーティングの後、私のザックからは愛用の一眼レフカメラは消えた。 行動食や水もぎりぎりのところまで落とし、荷物の軽量化を図った。 早めの夕食の後、夕方の6時にはシュラフにもぐり込んだが、高山病の予防のため敢えて熟睡しようとはしなかった。 寝ることにより呼吸が浅くなり、高山病の症状が出やすくなるからである。 これは昨年の夏にスイスのユングフラウを登った時の経験を生かしたものだ。 胃腸の調子が悪い上に高山病の症状が出たら、ウフル・ピークを踏むことは出来ない。 当初は気楽なツアー登山だとたかをくくっていたが、今の自分の置かれている状況を考えれば仕方がない。 久々の真剣勝負だ。

   午前0時40分、貫田隊長及び隊員16名(男性9名・女性7名)は、地元のガイド6名と共に避難小屋を出発。 残念ながら吉村さんと高度障害で体調のすぐれない長男の光君(小学6年生)は遅れて出発することになった。 ガイドのジョセフを先頭に、ヘッドランプの灯火は山頂を目指して暗闇の中を泳ぎ始めた。 暗くてよく分からなかったが、登山道は思ったより急で険しかった。 “ポレ・ポレ”(スワヒリ語で“ゆっくり”の意味)のペースで登るという当初の打ち合わせとは程遠い、普通のペースで登っているように感じているのは私だけか、皆淡々と無言で登って行く。

   30分ほどで最初の休憩となった。 時間は僅か5分ほどであった。 いつもであれば充分な時間だが、水筒をザックから取り出す時も腹式呼吸に努め、高山病の予防をしなければならないため、全く休んだ気にならない。 登山道は東に向かってトラバース気味に進み、出発して約2時間後に一般ルートとの合流点に到着した。 標高はすでに5000mを超えているであろう。 年末年始のため、夏の富士山のように大勢の登山者が列をなしているような光景を想像をしていたが、そのようなことは全くなかった。 すでにかなり上の方にヘッドランプの灯かりが見えるが、下の方には全く見えない。 我が隊のペースが遅いのか、それともここから下の勾配がきついせいなのであろうか?。

   キリマンジャロの初登頂者の功績を讃えて名付けられた『ハンス・メイヤーズ・ケーブ』と呼ばれる洞穴の前で15分間の大休止となる。 やっとゆっくり行動食を食べ、一息つくことが出来た。 風が少し出てきたのでダウンジャケットを着込む。 すでに上から弱々しい足取りで下ってくる登山者がぽつりぽつりと現れたが、途中で高山病になってしまったのであろうか?(たまたま前日に同峰に登られていた知人から帰国後に聞いた話では、登っている途中で救助用の一輪車に乗せられて下山していった外国人が高山病で亡くなられたということであった)。 貫田隊長は、「このまま行けば6時にはギルマンズ・ポイントに着けますよ」と私達を元気づけてくれた。 しかしすでに2〜3人の隊員の姿は見えなくなっていた。 果して“全員登頂”の目標は達成出来るのであろうか?。

   再び黙々と登り始める。 時計を見るとすでに3時半を過ぎている。 お腹の調子は良くも悪くもならないが、このまま何事も無く過ぎてくれれば、山頂は掌中にありそうだ。 高山病の防止のためには、腹式呼吸で思い切り酸素を体に送り込む必要があるが、あまりやり過ぎると弱っているお腹に悪い。 また水分も多めに取らなければならない。 “究極の選択”とはまさにこのことか。 30分ほど登り、再び5分間の休憩となる。 ここで田中さんのヘッドランプが球切れとなった。 たまたま近くにいた私がヘッドランプの灯を中腰で提供していたところ、とうとう一羽目の雉が飛んできてしまった。 10余名の隊員を足止めにし、登山道から少し離れた足場の悪いザレた斜面に直行したのは、後にも先にも私だけであり、暗くて顔が見えなかったのが救いであった。

   この休憩の後、何となく先頭のガイドのペースが少し上がったような気がした(私のペースが落ちたのか?)。 目標がギルマンズ・ポイントであればこのペースでも何とか頑張れそうだが、私は妻を含めここまで苦労を共にしてきた隊員全員で100%確実にウフル・ピークまで登りたいと願っていた。 念のため近くにいた淑子さんらに意見を求めたところ、やはりペースは早くなったようだと言うので、意を決して貫田隊長に「本隊を二つに分けて“ゆっくり登り隊”を結成したい」と直訴した。 全てはウフル・ピークを見据えてのわがままだった。 これに対して仏の貫田隊長は、「すでに遅れている後続隊のサポートにガイドが回り、ガイドの人数が不足しているため、本隊を切り離すことは出来ないので、ペースをゆっくり登り隊の方に合わせましょう」という提案をしてくれた。 先頭の“エリート軍団”には申し訳ない思いであったが、この借りはいつかきっと返そうと心に誓った。

   ペースは元に戻り?、エリート軍団とゆっくり登り隊は、また何事も無かったように暗闇の中を黙々とひたすら登り続けた。 たまに後ろを振り返り、まだまだ余裕があるふりをして必死に登っている妻を励ますが、もしかすると私の方が弱っているのかもしれない。 “山は楽しく登るものだ”と日頃から吹聴している私にとって、本当に情けない限りである。 しかし一方では、“こんな状態でもウフル・ピークまで行くことができたら感動はより大きいぞ、山頂ではどんなポーズを決めようか”などと山頂で歓喜する姿を想像して一人悦に入っていた。 すでに胸のポケットには、マッチ箱ほどの小さな紙片に《2000年12月31日登頂/酒井善樹(40)酒井裕美(42)》と昨晩書いたメモを入れてある。 これを山頂の石と引換えに置いてくるのだ。

   ギルマンズ・ポイントの直下で夜が白み始めた。 上に行くほど傾斜がきつくなり、ゆっくり登り隊の列が長くなってきた。 上方約50mほどの所に人影が見え隠れしている。 あそこがギルマンズ・ポイントに違いない。 しかし足は思うように上がらず、その距離はいっこうに縮まらない。 深呼吸をして肺に空気を吸い込むが、もう20%ぐらい吸い足りないような気がする。 必死で前を登る淑子さんの背中を追う。 すでに妻と西廣さんの姿は見えなくなっていた。

   午前6時過ぎ、120%の力を出しきり、エリート軍団の最後尾でギルマンズ・ポイント(5685m)に辿り着いた。 『ここはギルマンズ・ポイントです』と英語で書かれた立派な標識があった。 嬉しかった。 そしてホッとした。 とにかく“第一関門”をクリアーすることが出来たのだ。 一瞬気持ちが緩みかけたが、ここは単なる休憩場所だとすぐに自己暗示をかけ、標識から目をそむけた。 淑子さんが「おめでとう!」と暖かく握手を求めてきたが、私は「いゃ〜、まだここは山頂じゃないから」とそれを冷やかに撥ねつけ強がってみせた。 本当は素直に喜びを分かち合いたかったが、握手をしたら最後、もうここで朽ち果ててしまいそうだったからだ。 淑子さんの困惑した顔が今でも目に浮かぶ。 「高山病になると性格が悪くなる」と出発前に貫田隊長が話していたが、まさにその通りであった。

   火口原があまりにも広大なため、ギルマンズ・ポイントはお釜の縁という感じではなく、稜線上の一つのピークという感じであった。 その稜線は南に向かって高さを増し、ずっと先の方でその肩を落としている。 あそこが山頂(ウフル・ピーク)に違いない。 火口原には時代からとり残されたような階段状の氷河が幾つか見えた。 地球の温暖化により、数十年後には無くなってしまう運命だという。 セピア色の空がオレンジ色に染まり始め、間もなく遙か眼下の衛星峰マウエンジ(5149m)の右手の雲海の中から、太陽がゆっくりと姿を現した。 あの偉大な太陽が、まさに足下から昇ってくるのだ。 カメラのフラッシュの花が咲き乱れ、20世紀最後の荘厳な日の出を予定どおりギルマンズ・ポイントから見ることが出来たことで、わが隊を含め居合わせた人々は大いに盛り上がった。 私も再び気持ちが緩みかけたが、深呼吸を絶やすことなく続け、体力の回復に努めた。

   ギルマンズ・ポイントでの感動の“日の出ショー”が終わると、貫田隊長はおもむろに説明を始めた。 18名の隊員は残念ながら11名になっていた。 「皆さん、あそこがウフル・ピークです。 一応ここでも山頂ですが、ウフル・ピークまで行きたいと思う人は、往復で3〜4時間かかりますのでそのつもりでいて下さい。 行ける自信のない人は決して無理をしないで下さい。 ガイドの人数が途中で引き返す人の分までないので、途中で引き返すことはできません。 All・or・nothingで考えて決断して下さい!」。 仏の貫田隊長が言った最初で最後の厳しい発言だった。 間髪を入れず、「さぁ〜て皆でウフルまで行きましょうか!」と一番危ない私が、一番元気なふりをして気勢をあげる。 弱い犬ほどよく吠えるのである。 もちろんエリート軍団には迷いなど全くなかったが、ゆっくり登り隊の副隊長である妻は、最後に到着した西廣さんが「行かない」と言ってくれることを密かに期待していた。 しかしそんな企みは彼女の強い精神力の前に一蹴され、貫田隊長の判断で、当初の予定であった7時を待たずに11名の隊員はウフル・ピークを目指して再び歩き始めた。

   ギルマンズ・ポイントで30分近くも休憩したにもかかわらず、私の足の運びは全く冴えず、雪の混じり始めた稜線の道をたったの5分ほど行く間に、先頭を行くガイドとの差は2〜30mにもなってしまった。 時々貫田隊長が後ろを振り返ると、いかにも写真を撮っているふりをしてごまかしていた。 何とかしなくては。 鉛のように重たい足を引きずりながら必死に食らいついていくと、雪渓や落石等の危険地帯を過ぎた日当たりの良い広場のような所で図らずも休憩となった。 相変わらずの造り笑顔だけは絶やさないようにして、へなへなとその場に座り込んだ。 その瞬間私の眼に飛び込んできたのは、朝陽を浴びて輝いているとてつもなく大きな氷河の壁であった。 何というファンタスティックな光景であろうか!。 これがあの“キリマンジャロの雪”なのか!。 数秒前とはまるで別人のようにすくっと立ち上がり、息をするのも忘れ夢中で写真を撮った。 青空が広がり風もない稜線の状況から見て、ここにいる隊員全員の登頂を確信したのであろうか、貫田隊長の顔にも余裕の笑顔が見える。

   休憩が終わり再び辛い行軍が始まった時、私の体に異変?が起きた。 理由は分からないが、足取りが急に軽くなってきたのだ。 お腹を気にし過ぎて、シャリバテになっていたのかもしれないが、全く不思議なものである。 亀はにわかに兎に変身した。 それとは反対に、妻や西廣さん、そして足首を捻挫しながらも果敢にアタックを続けている山岸さんが遅れ始めた。 エリート軍団との差はみるみる拡がっていく。 私も駆け出して行って、今度こそエリート軍団の仲間入りを果たしたかった。 しかし、はやる気持ちをぐっと抑え、これから先は何が起ころうともこの三人と心中しようと心に決めた。 そして今度こそ本当の“殿(しんがり)”を務めることとなった。

   左手に見える巨大な氷河の壁はますますその迫力を増し、まるで異次元の世界を作りだしている。 この素晴らしい景観は、ギルマンズ・ポイントを卒業した者のみに許された特権である。 また右に目を向けると、眼下の荒涼とした広大な砂礫の火口原には、つま楊枝の先でなぞったような一筋のトレイルが見え、所々に登山者が蟻のように歩いている。 ギルマンズ・ポイントも遙か遠くになってきた。 氷河と火口原があまりにも大き過ぎるため、下界の景色は全く見えない。 見えるのは果てしなく続く雲海のみであり、まさにここは文明社会とは隔絶された原始の世界であった。

   稜線は相変わらず風もなく、気温は上昇し寒さはあまり感じない。 すでに登頂を果した日本人が数名下ってきた。 「こんにちは〜、お疲れ様でした〜!」と久々に日本語の挨拶を交わし合う。 しばらく雑談を交わしながら、最後尾の西廣さんを待つ。 彼女は吐き気もあり、一番辛そうであったが、ガイドがザックを持とうとする誘いを何度も断り続けている。 山の経験も一番浅いのに、本当に気丈な人だ。 妻も相当苦しそうだが、足取りはしっかりしている。 半年前のアルプスの経験が生きているようだ。

   間もなく大勢の登山者(サミッター)で賑わっているウフル・ピークが見えてきた。 エリート軍団はすでに登頂を果たしているだろう。 何度もストックを振り回し、叫び、存在をアピールして殿の役目を果たそうとしたが、山頂からの応答は全く無かった。 ちょっぴり寂しかったが、山頂での盛り上がりが想像できる。 あと僅かでその輪の中に入れるのだ。 嬉しくて、嬉しくて、まるで雲の上を歩いているような気分であった(まさにそのとおりであったが)。 「まだあと1000mぐらいは登れるのに〜!」と最後のハッタリをかましたら、今度こそ貫田隊長に怒られるだろう。

   午前8時過ぎ、夢にまで見た憧れのウフル・ピークに、次々とゆっくり登り隊の4人は辿り着いた。 もう目の上には真っ青な空しか見えない。 「やったあ〜!、着いたあ〜!!、登ったあ〜!!!」。 「おめでとう!」。 真っ先に淑子さんが握手を求めに来てくれた。 「ありがとうございました!、お蔭様で登れました!」。 今度は両手で拝むように力強く握り返した。 やっと胸のつかえがとれた。 そして次々に出迎えてくれたエリート軍団の隊員一人一人に、お礼を言いながら固い握手を交わし、貫田隊長と11名の隊員は再びお互いの登頂を喜び、そして讃え合った。 私が今ここに立っているのも、ここにいる皆のお蔭に他ならない。 これほど感動的な山頂が、今までにあったであろうか!。 何もかも忘れ、もう頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった。 最後に、精根尽き果てながらもアフリカ大陸の最も高い所まで付き合ってくれた妻と人目をはばからずに熱い抱擁をして、私のウフル・ピーク探訪の旅は終わった。

   高山病と闘いながらも、ひたむきに上を目指して頑張った西廣さん、アタック隊員の中の最高齢者であるのみならず、足首を捻挫しながらも決して弱音を吐かなかった山岸さん、登頂直後に百戦錬磨の淑子さんの目も涙で曇っていたという。 貫田隊長やエリート軍団にも、今日一日いろいろなドラマがあったに違いない。 そこは正に、皆のウフル(スワヒリ語で“開放された”の意味)・ピークであった。


草原から見たキリマンジャロ


北面のナレモルルート C.1


北面のナレモルルート C.2


C.2 から C.3へ


ギルマンズ・ポイントから見た20世紀最後の荘厳な日の出


ギルマンズ・ポイント


ギルマンズ・ポイントからウフル・ピークへ


エリート軍団の淑子さん


日当たりの良い広場のような所で休憩する


稜線は相変わらず風もなく、気温は上昇し寒さはあまり感じない


眼下の荒涼とした広大な砂礫の火口原


巨大な氷河の壁はますますその迫力を増し、異次元の世界を作りだしている


ウフル・ピークに辿り着く


火口原の氷河


“キリマンジャロの雪”


ウフル・ピークからギルマンズ・ポイントへ


ギルマンズ・ポイント付近から見たウフル・ピーク


ギルマンズ・ポイント


ホロンボハットから21世紀最初の日の出を見る


ホロンボハットから見たキリマンジャロ


マウエンジ峰


ジャイアントセネシオ


カメレオン


山 日 記    ・    T O P