1月21日、朝7時に起床。 天気予報よりも良い天気で青空が少し見える。 朝食を自炊して食べ、AGLで天気予報を見ながら平岡さんと最終的な打ち合わせを行い、午後1時に他のAGLのパーティーとヘリをシェアしてタズマンサドル・ハットに向かうことになった。 ホックステッタードームを登るのは好天が期待出来る明後日だが、ヘリで入山出来る時に入山しておくのがNZの山では鉄則なので、明日の停滞は覚悟の上で今回もそれに従うことにした。 下山後の明後日の夜に泊まるクライストチャーチの安宿の手配をしてもらい、帰国までの全てのスケジュールが決まった。
マウントクック空港からクックに登るためプラトー・ハットに入るガイドと登山客の2人と一緒にヘリに乗る。 ヘリの搭乗にもすっかり慣れ、まるでタクシーにでも乗るような感覚だ。 機上からは雲が多目ながらもクックが良く見えた。 ヘリはプラトー・ハットの脇にガイドと登山客を降ろすと、スイスのアレッチ氷河のように長く緩やかなタズマン氷河の上を這うように飛んでいく。 降雪量の多いNZの山では氷河の後退は観測されていないとのことだが、今は盛夏なので氷河も痩せて見える。 正面には目指すホックステッタードームの丸い純白の頂が望まれ、左手には今回は登頂を諦めたミナレッツも良く見えた。 フライト時間は15分と今までで一番長く、天気も予報に反してそこそこ良かったので、ヘリ代は高いが下手な観光をするよりずっと良かった(一般的にはこれが最たる観光かもしれない)。 ヘリは氷河から突出した岩塔の上に建つタズマンサドル・ハットのすぐ上まで私達を運んでくれた。 ヘリのランディングポイントは頭上にホックステッタードームの頂が迫る別天地だ。 ここから山頂までの標高差は僅か500mほどだろうか。
タズマン氷河の源頭部に位置するタズマンサドル・ハットは今回泊まった山小屋の中では最も古くて粗末だったが、逆に展望は一番良く、クックを始めサザンアルプスの主脈の山々を一望することが出来た。 すでにハイシーズは過ぎたため、予想どおり山小屋に先客はいなかった。 宿泊者名簿に記載された名前も少なく、この山小屋が建て替えられない理由が分かった。 宿泊者名簿で数日前に平岡さんの知り合いのガイドのロイがここからホックステッタードームの隣に聳えるエリー・デ・ビューモント(3109m)に登ったことが分かり、山小屋に置かれていたガイドブックを平岡さんが真剣な表情で読み始めた。 天気は次第に下り坂となり、山小屋は私達だけで貸切りとなった。
無線の設備やシステムは他の山小屋と全く同じで、今日は平岡さんが7時半からのDOCとの無線交信を行った。 天気予報によると、明日は少し天気が好転したようで時々陽が射すような天気になるらしい。 この天気予報を聞いた平岡さんから、明日は山小屋で停滞せずに登頂すれば日本人初となるエリー・デ・ビューモント(美しきエリー)に登りませんかという提案があった。 平岡さんの説明では、途中にあるセラック帯を上手く回避出来ればそこから山頂まではそれほど難しくないとのことで、登頂の可能性は充分ありそうだった。 ホックステッタードームには予定どおり好天が期待される明後日登るが、明日は平岡さんが勧めるエリー・デ・ビューモントを登ることにした。 もちろん天気が悪くなれば無理をしてまで登らないつもりだ。
1月22日、朝3時に起床。 今日はもともと停滞する予定だったので、登れたら儲けものという意識が働き、いつものような緊張感は全くない。 ゆっくり朝食を食べて身支度を整え、4時半に山小屋を出発した。 あいにく空には星が見えず曇っていることが分かる。 やや下り気味にだだっ広いタズマン氷河の源頭部を巻くように歩いていくと、途中から突然トレースが現れたので、それに従い緩やかに登り下りを繰り返しながら進む。 山小屋で2250mにセットした高度計は、1時間歩いた所で50mほど下がっていた。 間もなく夜が白み始め、周囲の地形が朧げに分かるようになった。 あいにくの曇天で、残念ながら今日は朝焼けの景色は見られそうもない。 エリー・デ・ビューモントに突き上げる氷河の末端の広いコルで休憩する。 頭上には大規模なセラック帯があり、その奥に霧に煙ったエリーの頂稜部が微かに見えた。
コルからしばらくセラック帯に向かって緩やかに登り、10mほどのまるで“馬返し”のような急な雪壁を登ると、そこから先はリンダ氷河顔負けの芸術的なセラック帯となった。 上空には部分的だが青空が覗き、エリーの頂稜部が一瞬だけ見えた。 まだ気温も低く雪も締っていたので、基本的にはコンテでセラック帯を縫うようにして登る。 セラック帯は見た目よりも登り易かったので、何とか突破出来ると思われたが、最後に下からは見えなかった巨大なクレバスが現れた。 クレバスの縁に沿って歩き、活路を見出そうとしたところ、数日前にロイが渡ったと思われる崩壊寸前のスノーブリッジがあった。 しかしそれは既に痩せ細り、渡ることがはばかれた。 平岡さんも「大人のすることではない」と潔く諦め、一旦引き返してから他にルートを求めしばらくセラック帯をさまよったが、先ほどのスノーブリッジが唯一クレバスを越えられるルートであることが分かり、結果的に登頂を断念せざるを得なかった。 エリー・デ・ビューモントの日本人初登頂は叶わなかったが、奇妙な形の氷塔が乱立するセラック帯の景観はユニークで、下手な観光やハイキングをするより断然面白かった。 さほど悔しい気持ちにならず登頂を諦められたのも、アスパイアリングとクックに登れたお陰だ。
安全地帯となる取り付きの広いコルまで戻って一服する。 時刻はまだ8時半だ。 周囲には依然として薄い霧が湧いていたが、明日は天気が良いとの予報だったので、今日もこれから次第に天気は良くなるだろうと思い、ここから稜線を縦走してホックステッタードームに登ることを平岡さんに提案したところ、平岡さんも同じ意見だったので急遽これから登ることになった。 平岡さんからトップを任され、コルから幅の広い緩やかな傾斜の雪稜を登る。 最初のうちは時々霧の合間からMt.グリーン(2837m)の尖った頂などが背後に望まれたが、予想に反して次第に霧は濃さを増してきた。 単調な斜面を30分ほど登ると平らな雪原のような所に出た。 視界の悪い雪原を時々朧げに見える太陽の位置を頼りに黙々と歩く。 一瞬霧が晴れてホックステッタードームの頂稜部が見えたが、途中に雪の禿げた岩などが見えただけで、正しいルートは判然としなかった。 再び傾斜がきつくなり、ホックステッタードームの頂稜部の登りに入った。 小さなヒドゥンクレバスが多くなり、殆どホワイトアウトした状況で私がトップで登るのは危ないと思ったので、平岡さんにトップを任せる。 霧は小雨に変わり、ホックステッタードームに登ろうとしたことを後悔した。 ここまで来たら引き返すよりも山頂を踏んで反対側から山小屋に直接下山した方が早いので、雨の中を辛抱して登るしかない。 風がなく気温が高いことが救いだ。 山頂直下では痩せた尾根を一旦かなり下ってから登り返す。
傾斜が緩み始めると間もなく平岡さんから、「この先から下りとなるので、この辺りが山頂だと思います」という説明があった。 周囲が全く見えないのでピンとこないが、とりあえず頂を踏めたことを喜ぶ。 達成感よりも、あとは山小屋に下るだけだという安堵感の方が勝っていた。 時刻は10時半で、コルからは2時間の道程だった。 天気の回復は全く見込めず雨にも濡れるので、記念写真を撮っただけですぐに下山する。 この山の最大の魅力と言える山頂からの素晴らしい展望は叶えられなかったが、やはりアスパイアリングとクックの登頂効果は絶大で、さほど悔しい気持ちにならずに済んだ。
細長い頂上稜線を反対方向に緩やかに下ると尾根は次第に広くなり、このままホワイトアウトの状況が続くと山小屋を見つけることが危ぶまれると判断した平岡さんの提案で再び山頂に登り返し、自分達のトレースを辿って戻ることになった。 山頂からは再び私が先頭で下る。 天気が良ければ展望を楽しめるが、雨とホワイトアウトではまるで修行だ。 正午にエリー・デ・ビューモントの取り付きの広いコルまで戻ってようやく一服する。
コルからは再び平岡さんが先頭になる。 雨は少し小降りになったが、今度はだらだらとした登り下りの繰り返しに閉口する。 途中少しでも早く山小屋に戻りたいという思いから、自分達のトレースを外れて最短距離を進むことにしたが、だだっ広いタズマン氷河の源頭部の地形は意外と複雑で、近くにあるはずの山小屋がなかなか見つからない。 結局1時間以上も徘徊してから引き返し、再び自分達のトレースを辿ることになった。 ようやく朧げに山小屋が見えてホッとしたが、山小屋に帰り着いたのは3時だった。 山小屋から半日行程のホックステッタードームに未明から10時間以上を要したことになり、ある意味で印象深い登山となった。
山小屋は相変わらず私達だけで貸切りだったので、濡れた衣類を色々な所に干して乾かす。 温かいコーヒーを飲み、行動食の余りなどを頬張ってから皆で三々五々昼寝をする。 明日は当初の計画どおり“ノーマルルート”でホックステッタードームに再度登ることも考えたが、天気が良ければ山小屋付近からでも充分展望を楽しめるし、明後日の未明の便で帰国するため明日は早めに下山したかったので、明日は山に登らないことを平岡さんに伝えた。 夜7時半からのDOCとの無線交信の後、平岡さんがAGLの事務所を介してヘリの運航会社と連絡を取り、9時半のフライトが決定した。
1月23日、最後の朝焼けの景色を見るため5時半に起床する。 まだ昨日の雨の影響が残っているのか、快晴の天気予報とは違い山々の稜線には厚い雲が取り付いている。 山小屋の窓から少しずつ明るくなっていく外の景色をしみじみと眺める。 あっと言う間の2週間で、明日の今頃はもう帰国する飛行機の中だ。 残念ながら山々は朝焼けに染まらなかったが、次第に雲は取れ始め、朝食後にようやく青空が一面に広がった。 ヘリは山小屋の少し上に着陸するため、登攀具や余った食料などを予め運び上げる。 目を凝らすと昨日徘徊したトレースがすぐ近くに見えた。 頭上のホックステッタードームやエリー・デ・ビューモントも今日は良く見える。
搭乗の準備が出来たことを平岡さんがヘリの運航会社に連絡したところ、予約したヘリは飛ばなくなり、11時半に観光用のスキープレーンがここから1時間ほど下った平坦地(タズマンサドル)に着陸するので、それに便乗(シェア)する形で下山することになった。 山小屋に戻ってザックのパッキングをやり直し、ザイルを結んで10時半に山小屋を出発する。 天気は予報どおりの快晴となり、所々で足を止めながらクックやタズマン、そしてミナレッツの写真を撮る。 快晴のホックステッタードームの頂は逃したが、のんびりサザンアルプスの展望を楽しみながら氷河を下るのは山行のフィナーレとしては最高だ。 間もなく眼下のタズマンサドルに観光用のヘリとスキープレーンが1台ずつ見えた。
観光客は30分以上のんびりヘリの周辺で氷河からの景色を楽しんでいたので、結局出発は正午になった。 4列シートで定員11名のセスナより一回り大きなクラッシックな機体のスキープレーンは、軽快なヘリとはまた違った重厚な乗り心地で面白かった。 観光専用のフライトなので、パイロットが途中でタズマン氷河の上をスキー感覚で機体(車輪の横に付いているスキー板)を滑らせたり、高度を上げて旋回したりして乗客を楽しませてくれたので、機上からの展望もさることながら最後は純粋に観光モードで楽しめた。