マウント・クック(3754m)

  1月18日、殆ど眠れないまま静かに午前零時前に起床する。 山小屋の外に出てみると、ありがたいことに星空で風も無い。 平岡さんともう一人のAGLのガイドのジェーミンもこの状況を見てアタックすることに最終決定した。 昨夜の夕食の余りのご飯で雑炊を作って食べる。 トイレは二つあるので、10分ほど粘って無理やり用を足す。 登頂の成功も朝のお勤め次第だ。 

  今日は平岡さんとマンツーマンなので60mのザイルの3分の1位を体に巻き付け、ビーコンのスイッチを入れる。 妻に見送られて1時過ぎに山小屋を出発。 ジェーミンとトムソンのパーティーは5分ほど前に出発して行った。 日没から4時間しか経っていないので気温は高く、まだプラスだと思われる。 グランド・プラトーという広い雪原を緩やかに標高差で100mほど下る。 昨日のカナダパーティーのトレースは凸凹が激しくてあまり快適ではないが、トレースを辿らないと膝下のラッセルとなるので文句は言えない。 一旦平坦になるとクレバスだらけの悪名高いリンダ氷河への緩やかな登りとなる。 出発してから30分ほどでジェーミンとトムソンのパーティーに追いついたが、暑くなってきたのでジャケットを脱ぐと、再び彼らが先行していった。 後方にはガイドレスのパーティーのヘッドランプの灯りがいくつか見える。 勾配が次第にきつくなってくるとトレースは薄くなったが、雪が締っていて歩き易くなった。 それほど早いペースではないが、予想どおりアスパイアリングの疲れがまだ残っているようで、早くも足が重たくなってきた。 日頃のトレーニング不足を痛感するが、アプローチの段階でそんな弱音は吐いてられない。 むしろこんなチャンスは滅多にないと喜ぶべきだろう。 

  間もなくセラックに囲まれたクレバス地帯に入り、上下左右に迂回しながら進む。 幅50センチから1mほどのクレバスを何度も跨いだり飛び越えたりすることはリンダ氷河では特別なことではない。 暗闇の中、氷河を取り囲む側壁からは絶えず小さな雪崩や落石の音が聞こえてくる。 まさにクックは“登山者を選ぶ山”だ。 ジェーミンがルートを探している傍らを平岡さんが追い越して先行する。 トレースに関係なく、クレバスの状況によって刻々とベストなルートは変わるのだろう。 標高は稼げず時間も掛かるが、これもリンダ氷河では当たり前のことなので苦にならない。 クレバス地帯を過ぎると左方向に向かって登り易い斜面となった。 雪は適度に硬く締っているので、トレースに沿ってアイゼンの爪を利かせながら快適に登る。 

  幅の広い氷河の真ん中で初めて休憩となった。 ここら辺がリンダ氷河で唯一の安全地帯とのこと。 ザックに括り付けた時計を見ると3時半で、プラトー・ハットで2200mにセットした高度計の標高はまだ2850mだった。 休憩している傍らをジェーミンとトムソンのパーティーが追い越していく。 大柄な若いトムソンに励ましの声を掛ける。 休憩後もしばらく快適な斜面が続いたが、“好事魔多し”の諺どおりこの先何かの障害により登頂出来なくなることもこの山では充分あり得るので、明日の再アタックもイメージしながらモチベーションを高めて登り続けた。 間もなく傾斜が明らかに急になり始めた所で平岡さんからストックをデポするように指示があった。 気温はマイナスの3度まで下がったので再びジャケットを着る。 ここからがいよいよ登攀の開始である。 体に巻きつけていたザイルを解き、平岡さんの背後2〜3mにピッタリ付くような感じのコンテで登る。 相変わらず雪は硬く締って登りやすかったが、斜面の傾斜はさらに増してきたので、安全を期してスノーバーを打ち込んで確保し合いながらスタカットに切り替える。 

  周囲が白み始め、背後に悠然と聳えるNZで2番目に高いタズマン(3491m)の白い峰が暗闇から浮かび上がる。 モノトーンの凄みのある景観だが平岡さんの確保と登攀で写真を撮る暇がない。 傾斜は少し緩み、ジェーミンとトムソンのパーティーはコンテに切り替えたが、私達は引続きスタカットで登る。 背後のタズマンが朝焼けに染まり始めると、頭上に核心部の『サミットロック』と呼ばれる稜線の岩場が見えた。 長大なリンダ氷河を登りつめるとその最上部には大きなシュルントが口を開けており、その手前で2回目の休憩となった。 時刻は6時ちょうど、高度計の標高は3200mを超えていた。 風は今のところ無くありがたい。 たぶんここから先は山頂まで休む場所がないので、日本から持ってきた煎餅などをお腹に詰め込む。 

  ジェーミンとトムソンのパーティーは短い休憩のみで再び先行し、シュルントの左端の崩壊寸前のスノーブリッジを渡ってからサミットロックに突き上げるクーロワールの入口に向けて右方向にスタカットでトラバース気味に登っていく。 下からは2人のガイドレスのパーティーが追いついてきたが、それ以外のパーティーの姿は見えなくなっていた。 私達もジェーミンとトムソンの後に続き、バイルとハンマーを凍てついた雪壁に深く刺しこみながらスタカットでトラバースする。 クーロワールの入口の岩場まで登ると、岩の末端に丈夫なスリングが2本掛けられていた。 休む間もなくセルフビレイを取り、先行する平岡さんを確保する。 雪の詰まったクーロワールは50度を超える急斜面だ。 60mのザイル一杯で登りきると、サミットロックの岩稜帯となった。 ありがたいことに天気は良く、稜線には風もなかった。 暖かな陽射しが何とも言えない安堵感を与えてくれる。 タズマンもすでに目線の高さだ。 足場は常に安定しないが、サングラスを掛けるためにヘルメットを被り直したところ、一瞬気持ちが緩んだのか、あご紐を留め忘れて次の動作に入ったため、ヘルメットを下に落としてしまった。 幸い下から登ってくるパーティーはいなかったが、数々のアルプスの山を共にしたヘルメットは乾いた音を響かせながらリンダ氷河に向けて空しく消えていった。 これからサミットロックを登ろうとする矢先に意気消沈したが、平岡さんはお構いなく登攀を続行してくれた。 

  サミットロックは雪が少なければ岩登りの要素が強いらしいが、今日は雪が多いためバイルとハンマーを両手で操りながら五体を駆使して3級+のミックスの岩場を強引に攀じ登る。 要所要所にある確保支点が心強い。 ジェーミンとトムソンが常に一歩リードする形でザイルを伸ばしていく。 平岡さんとはお互いに姿は見えないので、怒鳴るように確保のコールをする。 喉が渇くと岩から垂れ下がった小さな氷柱(つらら)を折って口に含む。 ダブルアックスでの登攀と確保との繰り返しで休む間もないが、困難でも登れない岩や壁が出てくることはなかったので、焦らず確実に足場を決めて絶対にテンションをかけないように無我夢中で岩を攀じる。 

  2時間ほどで核心部のサミットロックの岩稜帯を抜けると、頭上に神々しい頂上稜線が見えてきた。 あと標高差で200mもないだろう。 頂上に伸びる雪稜の末端に休むのにちょうど良い場所があり、3回目で最後の休憩となった。 頂上方面の写真を撮ろうとしたところ、急に霧が湧いてきた。 霧が去ってから撮れば良いと思ったが、結局その後霧が晴れることはなかった。 ガイドブックによれば、ここから先は特に難しい所はないはずだが、山(特にクック)は登ってみなければ分からない。 少し前に妻から平岡さんへ無線交信があり、「あと1時間ほどで山頂に着きます」と返信されたことを聞いて、登頂の可能性と期待がにわかに高まった。

  休憩が終わると平岡さんから、ここから先はコンテで登るので気を引き締めてアイゼンの爪を確実に置いて登るようにとの指示があった。 山頂で霧が晴れてくれることを祈りながら、憧れの頂に向けてラストスパートに入る。 サミットロックの登攀で酸欠気味となった体には3000m後半でも高度の影響を感じたが、登頂の希望に満ち溢れた心が足を上に持ち上げる。 願いは叶わず霧はさらに深まり、ジェーミンとトムソンの姿も見えなくなった。 30分ほど足元だけに集中して幅の広い雪稜をジグザグを切りながら喘ぎ登っていくと目の前にジェーミンとトムソンが並んで座っていた。 そこから先では急に稜線は痩せ細り、まるで空中に消えて行くかのようだった。 

  AGLのガイド登山では、先住民のマオリ族が先祖としてアオラキ(“雲を突き抜ける山”の意/クックのこと)を崇めているので、その思想を尊重して(現実的にも1991年に起きた山頂の崩壊により、最高点は不安定な雪庇となっているため)山頂の一歩手前までしかガイドしないという説明を受けていたので、念のため「ここが山頂ですか?」と平岡さんに聞いてみると、「そうです!、登頂おめでとうございま〜す!」と弾んだ答えが返ってきた。 その瞬間、張り詰めていた気持ちが一気に緩み、にわかに目頭が熱くなってきた。 一度は諦めかけた憧れの山の頂に導いてくれた平岡さんに両手で拝むように握手を交わし、「ありがとうございました!、クックは登れる山なんですね!!」と笑顔で言葉を発したつもりだったが、すでに涙声になっていた。 ジェーミンやトムソンとも握手を交わしてお互いの登頂を称え合う。 

  山頂(ハイピーク)は猫の額ほどのスペースしかないので座り込んで登頂の余韻に浸る。 風も無く穏やかで暖かい。 上空は青空だが足下には霧が湧き、残念ながらNZで一番高い所からの絶景を見ることは叶わない。 しかし今はそれを差し引いてもお釣りがくるほどの達成感で心が満たされていた。 平岡さんも嬉しそうにAGLの事務所に無線で登頂の連絡を入れる。 10時ちょうどだった。 間もなくガイドレスの二人が登ってきて狭い山頂は鈴なりの賑わいとなった。 今日も平岡さんが“登頂ケーキ”を取り出し、6等分して皆に振舞った。 年間2桁しかいないクックの登頂者は、NZではヒーロー(英雄)か、クレイジー(気違い)だ。 30分ほど霧が晴れるのを待って山頂に留まっていたが、願いは叶わず山頂を辞する。 ガイドレスのパーティー、ジェーミンとトムソンに続いて最後に下る。 登る時は全く問題なかった雪稜も雪が緩み始めて滑り易くなったので、途中からは慎重を期して後ろ向きになり、平岡さんに上から確保されながらスタカットで下る。 逆に登りでは時間が掛かったサミットロックの岩稜帯は全て懸垂下降(7〜8回)で下りたので楽だった。 尚、最後の2ピッチはジェーミンらのパーティーと60mのザイルを2本合わせて降りたが、これはAGLがその長さに合わせてルート上に確保支点を作っているためとのことだった。 最後にリンダ氷河の最上部の大きなシュルントをジェーミンに下からフォローされながら空中懸垂で越え、無事核心部の下降を終えた。 

  しばらく休憩した後、再び平岡さんとザイルを結び合ってリンダ氷河をコンテで慎重に下る。 霧で陽射しが遮られているのが幸いし、雪の状態は思ったよりも良い。 山頂は相変わらず霧の中だが足下の霧は次第に晴れ、照り返しも加わりとても暑くなってきた。 デポしたストックを回収し、ジャケットを脱ぐ。 テルモスの熱い紅茶はお役御免となり、雪を溶かして飲む。 足元の雪もだいぶ柔らかくなり、膝下まで潜るようになってきたので、傾斜が緩くなった所でアイゼンを外す。 未明に通過した中間部のクレバス帯はまさに雪と氷の芸術作品のオンパレードで、単調な下りにアクセントを添えてくれたが、これも登頂出来たことによる心の余裕からだろう。

  クレバス帯を過ぎた所で先頭を平岡さんに代わり、スピードを上げて一気にグランド・プラトーまで走るように下る。 間もなくゴールのプラトー・ハットが小さく見えてきた。 こちらからは見えないが、妻は双眼鏡で私達の姿を捉えているに違いない。 山小屋までの100mほどの登り返しは暑さに閉口したが、妻に迎えられて4時半過ぎに満面の笑顔で山小屋に着いた。 妻には登頂出来た喜びを、そして平岡さんには再度感謝の気持ちを伝え、ザイルを解いて山小屋に入ったとたん、意外にも土砂降りの雨が降ってきた。 妻の話では山小屋の周辺では昼過ぎにかなりの雨が降り、私達が濡れ鼠で帰ってくると心配していたらしい。 本当にクックは気難しい山だ。

  ゆっくり着替えをしてから食堂で寛ぎ、一つ一つ今日の登山中にあった出来事を思い出しながら妻に話す。 妻の話では、登頂した3パーティー以外にもう1パーティーがアタックしたが、そのパーティーは午前中に引き返してきたとのことだった。 また、平岡さんに無線を入れた時はすでに雲が湧き始め、登頂の成否は私の顔を見るまで分からなかったようだ。 宿泊者名簿の通信欄に登頂出来たことを日本語で記入する。 たわいもない事だがとても幸せな気分だ。

  クックが予想よりだいぶ早く登れてしまったので予備日があと5日もあり、ヘリの料金以外は全て無料で希望の山にチャレンジすることが出来るため、登頂の余韻に浸りながらもあれこれと今後の計画について思案をめぐらす。 NZで2番目に高いタズマンが魅力的だが、クックと同様に山のコンディションがデリケートで、かつ、平岡さんとマンツーマンでしか登れないため今回は見送ることにした。 また、居心地の良いプラトー・ハットにしばらく留まり、ここからディクソン(3004m)に登るという選択肢もあったが、平岡さんからの勧めもあり、フォックスグレイシャーというマウントクック村とは山々を挟んで反対側に位置する観光地からアプローチするミナレッツ(3040m)に登ることにした。 但し今後の天気によっては山に登れない可能性もあるので、急遽苦手な観光の計画も練らなければならない。 当初は全く予想もしていなかったことだ。

  今日も夕食を早めに済ませ、7時からの天気予報とDOCとの無線交信に備える。 天気予報によると、明日は晴れるが明後日からしばらく天気は崩れるとのことだった。 とりあえず明日はヘリで下山出来そうなので安堵したが、天気予報を聞いてミナレッツに登る計画は少し微妙な感じになってきた。 外の雨は依然降り止まず、夕焼けの景色は期待出来ないので早々に床に就いた。


妻に見送られて山小屋を出発する


リンダ氷河で唯一の安全地帯という場所で休憩する


リンダ氷河の上部をスタカットで登る


背後のタズマン(3491m)が朝焼けに染まり始める


リンダ氷河の最上部で2人のガイドレスのパーティーが追いついてきた


サミットロックに突き上げるクーロワールの入口に向けて右方向にトラバースする


雪の詰まったクーロワールは50度を超える急斜面で、ここを登るとサミットロックの岩稜帯となる


登ってきたリンダ氷河を振り返る


サミットロックの基部でタズマンが目線の高さになる


雪が多いためミックスとなったサミットロックを登る


サミットロックの岩稜帯を抜けると、頭上(左奥)に神々しい頂上稜線が見えた(右奥が山頂のハイピーク)


不安定な雪庇となっているクックの最高点


クックの山頂(ハイピーク)


サミットロックの岩稜帯は全て懸垂下降する


リンダ氷河の最上部の大きなシュルント


リンダ氷河の中間部


足元の雪もだいぶ柔らかくなり、安全地帯でアイゼンを外す


プラトー・ハット(右上)へグランド・プラトーを登り返す


妻に迎えられて山小屋に着く


プラトー・ハットから見た登頂日の早朝のクック


帰国後にトムソン(右)から送られてきた山頂の写真


写  真    ・    オセアニア    ・    想い出の山    ・    T O P