1月11日、7時に起床。 相変わらず風邪が治りきらず体が少し重い。 ここ数年風邪をひいたことがなかったので、本当に間が悪い。 雨こそ降っていないが灰色の雲が山々を覆い天気は良くない。 もちろんクックは望むべくもなく、3年前の滞在時から時間が止まっているような気がする。 8時に平岡さんがガイドハウスから迎えに来てくれ、自炊はせずにハーミテージで朝食のバイキングを優雅に食べる。 @16.5NZ$(邦貨で約1,200円)と@25NZ$(邦貨で約1,900円)の二種類が用意されていたが、前者でも充分な内容だったので迷わずそちらを注文した。
朝食後にAGLの事務所で天気予報を確認する。 今日は一日曇天だが、明日から明後日にかけて良い天気となり、その翌日は天気が崩れるが、その後は大きな高気圧により週末から来週にかけて晴天が続きそうだった。 この予報を見る限りでは、明後日の好天を上手く拾ってアスパイアリングを登った後、週末にはクックにも登れそうな感じだったが、クックは度重なる降雪でしばらく登れないとのことで、明日の朝9時にヘリでアスパイアリングのアタックベースとなるコリントッド・ハットに入山することが決まり、昼過ぎにアスパイアリングの登山拠点となるワナカに車で移動することになった。
事務所内で平岡さんに装備の点検をしてもらう。 事前にメールや電話でアドバイスを受けていたが、主な登攀具は、ハーネス・ヘルメット・アイゼン・ピッケルとバイルを1本ずつ(クックではバイルとハンマー)、スノーバー1本・ATC・カラビナ7枚・アイススクリュー1本・120センチのスリング3本・60センチのスリング2本・ビーコンといったところだ。 このうちアイススクリューとビーコンは持っていないのでレンタルする(無料)。 AGLのスタッフの話ではクックや近隣の山が大雪で登れないため、コリントッド・ハットにすでに9名の登山者がいるという。 山小屋の定員は12名なので、念のためテントを持っていくことにしたが、当初空いていると思われた山小屋の混雑を考えると少し気が重い。
昼食をハーミテージの2階の喫茶店で軽く食べてから、3時前にワナカに向けて出発する。 途中のトワイゼルでガソリンを補給するが、ガソリンの価格は日本の約1.5倍と高い。 移動中にヘリの運航会社から電話があり、明日のフライトの時間を9時から12時に変更して欲しいとのこと。 明日は久々に良い天気となるので、観光客のオーダーが増えたのだろう。 ヘリのフライト料金が高い(10分くらいで5〜6万円掛かる)ため、相乗りをするのがこちらでは常識のようで、ヘリの運航会社もそれを前提にフライトスケジュールを組んでいるとのこと。 到着時間が遅くなれば山小屋へ泊まれる可能性が低くなるかもしれないが、運航会社の意向に従った方が何かと得策なのでOKする。
NZの一般道は制限速度が100キロで信号機が殆どないため、マウントクック村から200キロ余りのワナカに2時間半ほどで到着。 AGLが契約しているモーテルは前回の旅で泊まったモーテルのすぐ近くだった。 部屋は4畳半くらいの広さに二段ベットがある個室で、トイレ・シャワー・キッチン(電子レンジや電気コンロなどの調理器具や炊事道具は全て揃っている)は共同だった。 宿泊料は邦貨で@2〜3千円くらいだろう。 NZにはこのような安価なモーテルが街中や観光地に多くあり、旅行者にはありがたい。 モーテルから5分ほどのスーパーマーケットに明日から5日分くらいの食材を買いに行く。 意外にもお米は色々な種類のものが売られていて、NZでは日常的な食べ物のようだ。 夕食はモーテルで自炊し、明日からの登山に備えて早めに就寝する。
1月12日、7時に起床。 良く寝たがまだ微熱が取れずもどかしい。 それとは対照的に青空が一面広がり、モーテルからも白い山並みが見えた。 NZでこんなに良い天気を見たことがないので嬉しくなる。 この天気なら今頃アスパイアリングにアタックしているパーティーも多いだろう。 天気予報どおりなら明日はさらに良い天気になるので、登頂の可能性と早期の下山が現実的になってきた。
ゆっくり朝食を食べてから荷物をまとめてチェックアウトし、ビジターセンター(国立公園の管理事務所/DOC)で入山届の提出と情報の収集を行う。 DOCの担当者の話では、昨日までずっと天気が悪く、山小屋で天候待ちをしているパーティーがまだ相当数あり、今日も好天なのである程度の入山者が見込まれるため、山小屋に泊まるのは難しいかもしれないとのことだった。 尚、NZの山小屋には管理人がいないため、食料と寝具を持参する必要がある。 今回は登山プログラムの料金に含まれているが、コリントッド・ハットの使用料は@20NZ$(邦貨で1,500円)で、後日クレジットカードでDOCに支払うことになっている。 天気予報は昨日と変わらず、明日まで天気は良いとのことで予定どおり入山することになった。 ワナカの町のシンボルのワナカ湖も美しく輝き、湖畔のオートキャンプ場も賑やかだ。 ヘリポートのあるラズベリーフラット方面に向かうアスパイアリング道路にはサイクリングを楽しむ人も多い。 前回の滞在時に登ったロイズ・ピーク(1578m)の山頂が見えたが、平岡さんもその昔登ったことがあるとのことで驚いた。
町外れの道路脇のビューポイントからは目指すアスパイアリングの頂稜部が僅かに望まれた。 雲一つない快晴の天気に気持ちも大きくなり、週末にはクック、来週はNZで2番目に高いMt.タズマン(3497m)やミナレッツ(3040m)にも登れるのではという夢のような話で盛り上がる。 道路の舗装が切れてマツキツキ谷に入ると羊の群れが道路を横断し、観光客のように車から降りて写真を撮って戯れる。 ざっと数えても千頭くらいはいるだろう。 和食には欠かせない醤油を買い忘れたことに気が付き、時間もあるので一旦町に戻る。 ヘリは道路の終点のラズベリーフラットからではなく、もっと手前から飛べるようだ。 正午前に牧草地の片隅に作られた小さなヘリポートに着くと、私達と相乗りする登山者が2名待っていた。
車の傍らで身支度を整え、12時半にヘリに乗り込む。 マッキンリーの時はスキープレーンに乗って氷河にアプローチしたが、ヘリに乗るのは妻共々始めてだ。 パイロットを入れると6名で荷物も満載した小型のヘリだが、フワリと軽く空中に舞い上がると、あっという間に高度を上げながらマツキツキ谷の上空に鳥のように身軽に飛んだ。 マツキツキ谷を数分遡ると眼下にラズベリーフラットの駐車場が見え、そこからはさらに高度を上げて右手のロブロイ・ピーク(2644m)の方向に向かって行った。 天気が良いので山々が良く見え、観光客のように大はしゃぎだ。 アスパイアリングは独立峰だが、周囲には2000mから2500mクラスの山が多く聳え、またどの山も山頂に雪を戴いていて迫力がある。 万が一アスパイアリングに登れなくても、機上からの豪快な景色だけで満足してしまいそうだ。 突然、先ほどまで頂稜部しか見えなかったアスパイアリングが眼の前にその神々しい姿を現した。 いきなりの真打の登場に開いた口が塞がらない。 間もなくヘリはMt.ビーバン(2030m)の直下にあるビーバン・コル(1851m)という岩の露出した平坦地に下り立った。 僅か10数分だったが、とても刺激的で印象に残るフライトだった。 ビーバン・コルからでもアスパイアリングは日帰りでアタック可能なので、周囲を石で囲ったテントサイトがいくつか見られた。 私達もそれを選択肢として考えていたが、山小屋(コリントッド・ハット)からのほうが行動時間と歩行距離が短く、登頂の可能性が少しでも高いので、手間は掛かるが山小屋に行くことにした。
NZ方式(キウイ式)のザイルの結び方を平岡さんに教わり、5日分の食料と燃料(ホワイトガソリン)を平岡さんと分担し、それらを入れたダンボール箱をビニールのゴミ袋で包み、スリングでハーネスに結んでソリのように曳く。 ビーバン・コルを2時前に出発し、標高差で100mほど雪のスロープを下り、アスパイアリングを右手に望みながら広く平らなボナー氷河を僅かに下りながら黙々と歩く。 午後に入ったので少し空の色が濁ってきたのが惜しまれる。 しばらくすると山頂から下りてくるパーティーの姿が散見されたので、今日登ったパーティーがヘリで下山してくれれば山小屋に泊まれるかもしれない。 ヘリは視界が良ければ夜の9時頃まで飛べるらしい。 中間地点で赤い色の山小屋(コリントッド・ハット)が頭上に見えるようになり、先ほどとは逆に標高差で100mほど登り返して3時半に山小屋に着いた。
山小屋のデッキからは北西稜の上に覆いかぶさるようなアスパイアリングの威圧的な頂稜部が仰ぎ見られ、先ほどビーバン・コルやボナー氷河から見た優美な姿とは全く違う山に見えた。 こぢんまりとした小さな山小屋は人や荷物で溢れ足の踏み場もない。 それどころか、まだ下山していないパーティーも多く、これからヘリで下山しようとする動きは全く見られなかった。 すでに数張のテントが山小屋の周囲に見られ、混雑の嫌いな平岡さんの提案でテントに泊まることになった。 山小屋から30mほど離れた岩陰の雪の上をスコップで一時間近くかけて整地してテントを設営する。 AGLから借りたテントは間口が150センチほどで、3人が寝るだけで精一杯だったので、岩陰に食料や荷物を置いて炊事や食事も全て外でする。 唯一山小屋の雨水タンクの水を使えるのが助かる。 ボリビアとペルーでしか使ったことがない新しい全身用のエアーマットの空気が漏れてしまいがっかりした。 夕方まで風はなく穏やかだったが、周囲の山々には次第に笠雲が取り付き始め、夕食後は風も強くなってきた。 就寝後は一段と風が強まり、テントを叩く風の音がうるさくて全く眠れなかった。 それどころか途中から雪ならぬ雨が降り始め、明日の天気予報は怪しくなってきた。
1月13日、3時に起床し、朝食を食べてからアタックする予定でいたが、まだ時々小雨が降っていた。 少し様子を見ましょうという平岡さんの提案で再び寝たが、皆のモチベーションが一気に下がったのか、再び目が覚めたのは周囲が少し白み始めた5時過ぎだった。 ルート上にはヘッドランプの灯りは見えず、私達以外のパーティーも登っていないようだった。 風や雨は収まったので朝食の準備をしながら一応出発に備えるが、今日はもう駄目だろうという雰囲気が漂っていた。 5時半を過ぎると、曇天ながらもアスパイアリングの山頂が見えたが、天気予報とはかけ離れた灰色の空を見て今日のアタックは中止になった。 仮に登れたとしてもこの天気では楽しくないだろう。 昨日同じヘリで入山した2人のパーティーも近くのテントサイトから恨めしそうに山を眺めていた。 昨日の予報を信じる限り、明後日からは大きな高気圧がやってくるので、それまでここで辛抱強く停滞するしかない。 今日アスパイアリングに登頂し、早ければ今日のうちに下山してクックに余力を持って臨もうというサクセスストーリーは脆くも崩れ去り、逆に当初の5日間の登山プログラムの期間(今日で3日目)では収まらない状況になってきた。 運悪くまた予報が外れたら、今回はアスパイアリングだけで終わってしまうかもしれない。 それならば、何としてでも良い天気の日に山頂に立ちたいと願った。
山小屋に泊まっていたパーティーの殆どが昨日アスパイアリングに登れたようで、8時を過ぎると順次下山していった。 幾つかのパーティーに声を掛けて山の状況を伺ったところ、昨日は天気が良かったが午前中は風が強く、未明に出発したパーティーの殆どは途中で引き返し、風が弱まってきてから再度登り返したか、風が弱まるのを待って遅く出発したかのいずれかだったようだ。 当然のことながら下山時間は遅くなるので、昨日のうちに下山するパーティーがいなかったことが納得できた。 また、氷壁のルートのコンディションは良好で問題はないとのことだった。 山小屋が空いたので、同じヘリで入山した2人のパーティーと共にテントを撤収して山小屋に移る。 あと3〜4日停滞することを考えると、狭いテントで過ごすのはとても辛く、今日のうちに山小屋に移れて本当に良かった。 唯一下山しなかった3人のベテラン風のパーティーは昨日登頂したらしいが、日程に余裕があるのか引き続きここをベースに活動するようだった。 山小屋の内部には2段ベットに12人分のマットレスが敷かれ、6人が座れる長イスとテーブル、そして炊事道具や食器が備わった調理台があった。 入口付近にはDOCと交信するための無線機があり、使用方法についての説明が傍らに記されていた。 宿泊者名簿には利用者の名前・住所・利用目的・明日の行き先を必ず記帳することになっていたため、日本人の足跡を辿ってみたところ、年末に山の友人が来ていたことが分かって驚いた。
時々雲の切れ目から陽が射すが、予報に反した曇天に気が滅入る。 平岡さんの話ではNZでは南極の気象の影響を受け易いので、こういうことも珍しくないとのことだった。 ティータイムの後、山小屋の周辺でクレバスレスキューの訓練をすることになった。 3年前にマッキンリーに登るため八ヶ岳のジョウゴ沢で講習を受けたことがあったが、普段の山行では全く実践する機会がないので、手順について忘れていることが多かった。 妻は初めてだったので、とても良い経験になった。 AGLの登山プログラムでは、入山前や停滞時にガイドとこのような訓練をするのが通例のようだ。 昼食は昨夜の残りのご飯をおじやにして食べる。 午後は山小屋のテラスで昨日教わったキウイ式のザイルの結び方を練習したりして過ごす。 天気は少し回復したが、明日の天気を示唆するかのように、入山するパーティーはいなかった。
夕食後の7時45分から無線でDOCとの定時交信が始まった。 まずDOCのスタッフから天気の概況と予報が伝えられ、それが終わるとこちらから3人のベテランパーティーのリーダーが代表して宿泊者の人数とパーティーの名称などを伝えた。 天気予報によると、明日は天気が崩れるが明後日から天気は徐々に良くなり、3日後の土曜日が良い天気になるとのことだった。 今日のことがあるので100%予報を信じることは出来ないが、平岡さんから明日はアタックするのは止めましょうという提案があった。 明朝は念のため早起きすることにして9時前に就寝する。 山小屋の中は意外と暖かく、冬用の寝袋に下着だけになって寝た。 昨夜と同様に日没後は風が急に強まり、予報どおり明日は天気が崩れそうだった。
1月14日、5時前に起きて外の様子をうかがうと、相変わらず風が強く星も見えなかったので、予定どおり今日はアタックしないことになった。 朝寝坊を決め込んで良く寝たせいか、ようやく風邪が治って体調が良くなった。 午前中は天気の状況に一喜一憂していたが、ありがたいことに昼頃から天気は回復し、好天が期待される明後日を待たずに明日にもアタック出来そうな空模様になってきた。 同じヘリで入山した2人のパーティーは近くのMt.ビーバンを登りに行ったが、3人のベテランパーティーと私達は一日中思い思いにのんびりと山小屋で寛いでいた。
3時過ぎにようやくビーバン・コルからこちらに向かってくるパーティーの姿が見えたが、そのパーティーのガイドは平岡さんの知り合いのデーブで、昨年の春に私の山の友人をチョモランマの頂に導いた方とのことだった。 また来月アスパイアリングを登る予定の友人のガイドもデーブであることが分かって驚いた。
今晩も夕食後の7時45分から無線でDOCとの定時交信が始まり、DOCのスタッフから天気の概況と予報が伝えられたが、明日はまずまずの良い天気になるとのことだった。 平岡さんから、明日は4時の起床でアタックを開始し、天気の状況を見ながらその後の行動を決めましょうという提案があった。 一昨日登頂した3人のベテランパーティーも訓練のためか明日もアタックするようだ。 明日は通称『ランプ』と呼ばれる氷壁の登攀がメインとなるが、そのランプのルートについての注意書きが山小屋の壁に貼られていた。
1月15日、4時前に静かに起床して山小屋の外に出ると、綺麗な星空で風もなくホッとした。 取り決めた4時になると3組のパーティーが一斉に起き出し、狭い山小屋はにわかに活気づいた。 室内灯を点け、3台のガソリンストーブに火が灯る。 昨夜のうちに作っておいたサンドイッチを頬張り、インスタントのスープをすする。 山小屋から出発出来るありがたさを痛感する。 トイレは一つしかないので皆の動きに目を遣りながらすばやく用を足す。 これは経験がものをいう大事なテクニックだ。
この山を知り尽くしているのか、3人のベテランパーティーが私達のガイドパーティーを待たずに出発していった。 私達もザイルを結び合いアイゼンを着けて5時過ぎに出発し、デーブらのパーティーが続いた。 前方には先行しているベテランパーティーのヘッドランプの灯りが見える。 夜明け前だが暖かく、気温は間違いなくプラスだ。 ボナー氷河に向けてやや下り気味にトラバースし、北西稜から少し離れた位置をキープしながら比較的登り易い斜面を黙々と登って行く。 上方に揺れていたベテランパーティーのヘッドランプの灯りはいつの間にか見えなくなった。 彼らはランプの手前から北西稜の岩場に取り付いたようで、ランプの氷壁ルートを登るのは私達とデーブのガイドパーティーだけとなった。
単調な氷河の登高を1時間余り続けていくと、雪が硬く締り斜面の傾斜も増してきたので、伸ばしたザイルを束ねてタイトロープで登ることとなった。 間もなく夜が白み始め、周囲の山々が暗闇から浮かび上がってきた。 頭上には北西稜に突き上げる岩壁が覆いかぶさるように立ちはだかり、行く手を遮っている。 ここがランプの取り付きのようで、平岡さんがザイルを伸ばして氷壁の偵察とルートの確認に向かった。 図らずもそれを待つ間に素晴らしい朝焼けのシーンを鑑賞することが出来た。 予報どおり、あるいはそれ以上の好天となりそうで嬉しくなる。
ランプの取り付きからはルートを熟知したデーブらのマンツーマンのパーティーが先行して登っていく。 取り付き付近はセラックが崩壊していたので登りにくかった。 そこを越えると今度はひたすら急斜面の氷壁の登攀となった。 ルートは基本的に北西稜の岩場の基部に沿って登るような感じで、途中に一つだけ確保支点が設けられていた。 スノーバーを打ち込んでセルフを取り、50度ほどの急斜面をダブルアックスでザイルを伸ばしていく平岡さんを下から確保する。 被った岩を利用してフレンズでランニングを取っていくこともあったが、フレンズがなかなかリリース出来ずに苦労する一幕もあった。 アイゼンを蹴り込みながらダブルアックスでの氷壁の登攀が繰り返し数ピッチ続き、ふくらはぎは悲鳴をあげ、腕もパンパンに張ってくるが、この高度感とスリルは他ではなかなか味わえない代物だ。
空は次第に青みを増し、眼下のボナー氷河にアスパイアリングの尖った頂が投影された。 風もなく天気の崩れる心配は今のところなさそうで安堵する。 雲海が辺り一面の谷を埋め尽くし、氷河が果てしなく広がっているように見える。 デーブらのパーティーとほぼ並行に相前後しながら、ランプの終了点となる北西稜のコルを目指す。 一昨日登った登山者からの情報どおり氷壁のコンディションはとても良かった。 間もなく頭上にアスパイアリングの白い頂と山頂に続く黒い岩稜帯が見えてきた。
ランプの取り付きから3時間ほど経った9時ちょうどに陽光と展望に恵まれた北西稜のコルに着いた。 ここは北西稜の岩場を登るルートとの分岐で、ランプを通らず北西稜の岩場に取り付いたベテランパーティーの姿が再び上方に見えた。 コルには独立峰特有の強い風もなく、山頂を待たずしてクックがはっきりと遠望された。 核心部の氷壁の登攀は終わり、ここから山頂までは特に難しいところはないので、デーブらのパーティーと一緒に大休止する。 山小屋で1800mにセットした高度計の標高は2480mになっていた。 上空は雲一つない快晴でとても暖かい。 どうやら天気は前倒しに良くなったようだ。
居心地の良いコルで30分近くも寛ぎ、足取りも軽く山頂へ向かう。 ガイドブックではコルから山頂まで2時間半となっているが、標高差とルートの状況を見る限り1時間半ほどで登れそうな感じがした。 見た目よりも緩やかな雪稜をしばらくコンテで直登して行くと、雪が切れて岩が露出し始めたのでアイゼンを外す。 雪があった方が断然登り易いが、夏には雪が付かないのか岩場には踏み跡がそれなりに見られ、これを辿ってジグザグに登る。 デーブらのパーティーはクライアントのペースが上がらなくなったのか、その差はみるみる開いて行く。 30分ほど単調な岩場の踏み跡を登り、最後は再びアイゼンを着けて次第に痩せていく雪稜を登る。 上からベテランパーティーがノーザイルで降りてきた。 パーティーの一人に「速かったですね!」と祝福され登頂を確信する。
3000m級の山なので高所登山のような息苦しさを感じることもなく、11時過ぎに憧れのアスパイアリングの山頂に辿り着いた。 NZのマッターホルンと呼ばれる山に相応しく、猫の額ほどしかない狭い山頂は一方がスッパリと切れ落ちていた。 妻と抱き合って登頂を喜び、平岡さんとも力強く握手を交わす。 昨年のペルーの山では強風のため涙を飲んだ妻も今日は満面の笑顔だ。 今まで見えなかった山頂の向こう側も一面雲海が広がり、2000m以上の山の頂だけが島のように浮かんでその存在を誇示している。 これほどスケールの大きな雲海は今まで見たこともなく、360度の見事な大展望に拍車をかける。 クックを始めとするサザンアルプス中央部の山々はもちろんのこと、南西のミルフォード・サウンド方面には名峰ツトコ(2746m)も遠望された。 また、山や雲海のみならず眼下には無名の氷河湖、そしてその先には本当の海(タズマン海)も望まれ、期待以上の展望の素晴らしさにため息をつくばかりだ。 一昨日無理して登らなくて正解だった。 平岡さんも嬉しそうにAGLの事務所に無線で登頂の連絡を入れ、登頂祝いにとわざわざ山頂まで持ち上げてくれたパウンドケーキをご馳走になる。 30分近くたってからようやくデーブらのパーティーが登ってきたので、お互いに記念写真を撮り合った。
快晴無風の山頂に40分も滞在し景色も充分堪能したので、もう思い残すことはない。 下りは私が先頭になり、先ほど休憩したコルまで下る。 コルで短い休憩をした後、デーブらのパーティーと入れ違いにコルを発つ。 午後になると雪崩や落石の危険があるランプの氷壁ルートは下らず、引き続き北西稜の岩場を下る。 先ほどの頂稜部の岩場以上に明瞭な踏み跡があったのでこれを辿っていく。 間もなく大きなケルンが積まれた所に、ボナー氷河とは北西稜を挟んで反対側のサーマ氷河へ降りる立派な懸垂用の確保支点があった。 氷河へ懸垂で降りる準備をしていると、デーブらのパーティーが追いついてきたが、氷河へ降りる素振りもなくそのまま岩場を下っていった。 平岡さんがデーブに声を掛けたところ、今の時期は岩場を下る方が良いとのことだったので、デーブらのパーティーの後に続くことにした。 岩場には引き続き明瞭な踏み跡があり、また要所要所に懸垂用の支点が取り付けられていたので迷うことはなかった。 眼下に山小屋がはっきりと見えてくると目印の小さなケルンがあり、そこから左側のボナー氷河に降りた。 ベテランパーティーが今朝登ったトレースがあり、それを辿っていくと無事私達のトレースに合流した。 天気が安定していたことでゆっくり下山したので、登りと同じ時間を要して山小屋には夕方の5時半に着いた。 予想外に2日間の停滞を強いられたが、最高の天気の日に登頂出来て本当に良かった。 時間的にはこれからビーバン・コルに向かいヘリで下山することも可能だが、今は雲海が災いしてヘリが飛べる状況ではないため、迷わず明日下山することになった。
コリントッド・ハットからの下山については、日程に余裕がある時や悪天候でヘリが飛べない時に、ボナー氷河をクオーターダーク峠まで登ってからフレンチ稜をフレンチリッジ・ハット経由(一般的にはここで泊まる)で下り、マツキツキ谷を歩いて車道の終点のラズベリーフラットに行く方法もある。 時間に制約がなければ、アスパイアリングを眺めながら展望の良いこのルートを歩いて下ってみたいが、クックの登山が控えているので今回は迷わずヘリで下山することを選んだ。 ヘリのフライト費用は750NZ$(邦貨で56,000円)と高額だが、デーブのクライアントもヘリでの下山を希望したので、幸運にもヘリをシェアすることになった。 デーブがヘリの運航会社に無線で連絡すると、明朝9時に入山を予定している登山パーティーがあるので、もし飛べるようであれば9時過ぎにビーバン・コルでピックアップ出来るという願ってもない応答があった。 ベテランパーティーは明日フレンチ稜を下るとのことだったが、彼らの足なら1日で下ってしまうだろう。 夜7時45分からのDOCとの定時交信で、明日も良い天気になるとの予報を聞いてひとまず安堵した。 食料も残り少なくなり、夕飯はスパゲティーを食べる。 夕食後は妻と山小屋のテラスで夕陽に染まるアスパイアリングを眺めながら登頂の余韻に浸った。
1月16日、朝6時に起床。 昨日と同じような良い天気に安堵したのも束の間、ビーバン・コル付近はまた雲海となっていた。 この状況ではヘリは飛んでくれないだろう。 朝食を簡単に済ませ、7時半にデーブがヘリの運航会社に無線で連絡すると、やはり予定していた9時には飛べないとのことで、入山する登山パーティーとの時間調整を依頼した。 しばらくするとヘリの運航会社から連絡があり、12時にビーバン・コルで待ち合わせることになった。 もしその時点でヘリが飛べなければ、私達も歩いてフレンチ稜を下らなければならないので、この時間がギリギリのところだ。
フレンチ稜を下る3人のベテランパーティーが出発していくのを見送り、お茶を飲んだり山小屋の掃除をしたりして私達も10時過ぎに山小屋を出発する。 今日も昨日と同じような良い天気だが、アスパイアリングに登るパーティーはもういない。 ちょうど私達が入山した時が一番のピークだったようだ。 食料をほぼ食べ尽くしたので今日はソリは曳かない。 ビーバン・コル付近の雲や霧が次第になくなってきたので安堵する。 ゆっくりだが休まずにボナー氷河を歩き、1時間半ほどでビーバン・コルに到着。 10分ほど遅れてデーブらのパーティーもコルに着いた。 間もなく雲や霧は完全になくなり、眼下にはマツキツキ谷が良く俯瞰された。 デーブがヘリの運航会社に無線でビーバン・コル付近の気象状況を説明する。 1時過ぎになってようやくヘリが飛来し、入山する登山パーティーと入れ違いに無事機上の人となった。 フレンチ稜やフレンチリッジ・ハットを眼下に見ながらあっという間にマツキツキ谷を下り、ラズベリーフラットでデーブらを降ろしてから再び舞い上がり、私達の車が停めてある牧草地の片隅の小さなヘリポートに無事着陸した。 下界は夏本番の暑さだった。 ヘリの運航会社の事務所でフライト料金を支払う。 総勢9人でシェアしたので、@75NZ$×3人=225NZ$(邦貨で16,800円)とかなり割安になった。 尚、ヘリで下山するか否かはクライアントの選択に委ねられているので、ガイドの分はクライアントが負担することになっている。
ワナカ向かって車を飛ばすと、意外にも湖沿いのメインストリートはトライアスロン大会のゴールのため通行止めになっていた。 飲食店はどこも見物客で混んでいたが、日本人が経営しているテイクアウト専門の日本食の弁当屋を偶然見つけランチタイムとする。 店のご主人と雑談を交わすと、やはりワナカでも年明けは悪い天気が続いていたとのことだった。 町中の大型スーパーで明日からのクック登山で必要な一週間分ぐらいの食材を買い、DOCに立ち寄って下山届を提出してワナカの町を後にする。 お腹も満たされ睡魔が襲ってくるが、運転を平岡さんと交代することなくマウントクック村へ車を走らせる。 トワイゼルの町の手前からクックが見えるようになり、所々で車を停めて写真を撮る。 すでに心はクックに飛んでいた。
夜の7時にマウントクック村に到着。 AGLの事務所で天気予報の確認をすると、明日は曇天だが明後日になると小さな高気圧がやってくるので、明日の昼頃にヘリでプラトー・ハットに入り、早ければ明後日にもクックにアタックすることになった。 一週間前にここに来た時とは大違いの朗報に胸が躍った。 久々にロッジでシャワーを浴びて汗を流し、ハーミテージ以外で唯一営業しているレストラン『オールド・マウンテニアーズ・カフェ』でささやかにアスパイアリングの登頂祝いをした。