マウント・アスパイアリング(3033m)

  1月15日、朝3時に起床すると、意外にも平岡さんから昨夜デーブやベテランパーティーと話し合い、4時に起床することになったとの説明があり、眠くは無いが再び床に就く。 暗いうちに核心部のランプの氷壁に取り付くことはあまり得策でないと判断したからだろうか。 4時少し前に静かに起床し、山小屋の外に出ると綺麗な星空で風もなくホッとした。 取り決めた4時になると今日アスパイアリングに登る3組のパーティーが一斉に起き出し、狭い山小屋はにわかに活気づいた。 室内灯を点け、3台のガソリンストーブに火が灯る。 昨夜のうちに作っておいたサンドイッチを頬張り、インスタントのスープをすする。 山小屋から出発出来るありがたさを痛感する。 トイレは一つしかないので皆の動きに目を遣りながらすばやく用を足す。 これは経験がものをいう大事なテクニックだ。

  この山を知り尽くしているのか、3人のベテランパーティーは私達のガイドパーティーを待たずに出発していった。 私達もザイルを結び合いアイゼンを着けて5時過ぎに出発し、デーブらのパーティーが続いた。 前方には先行しているベテランパーティーのヘッドランプの灯りが見える。 夜明け前だが暖かく、気温は間違いなくプラスだ。 ボナー氷河に向けてやや下り気味にトラバースし、北西稜から少し離れた位置をキープしながら比較的登り易い斜面を黙々と登って行く。 上方に揺れていたベテランパーティーのヘッドランプの灯りはいつの間にか見えなくなり、ランプの手前から北西稜の岩場に取り付いたようだった。 その結果ランプの氷壁ルートを登るのは私達とデーブのガイドパーティーだけとなった。

  単調な氷河の登高を1時間余り続けていくと、雪が硬く締り斜面の傾斜も増してきたので、伸ばしたザイルを束ねてタイトロープで登ることとなった。 間もなく夜が白み始め、周囲の山々が暗闇から浮かび上がってきた。 頭上には北西稜に突き上げる岩壁が覆いかぶさるように立ちはだかり、行く手を遮っている。 ここがランプの取り付きのようで、平岡さんがザイルを伸ばして氷壁の偵察とルートの確認に向かった。 図らずもそれを待つ間に素晴らしい朝焼けのシーンを鑑賞することが出来た。 予報どおり、あるいはそれ以上の好天となりそうで嬉しくなる。

  ランプの取り付きからはルートを熟知したデーブらのマンツーマンのパーティーが先行して登っていく。 取り付き付近はセラックが崩壊していたので登りにくかった。 そこを越えると今度はひたすら急斜面の氷壁の登攀となった。 ルートは基本的に北西稜の岩場の基部に沿って登るような感じで、途中に一つだけ確保支点が設けられていた。 スノーバーを打ち込んでセルフを取り、50度ほどの急斜面をダブルアックスでザイルを伸ばしていく平岡さんを下から確保する。 被った岩を利用してフレンズでランニングを取っていくこともあったが、フレンズがなかなかリリース出来ずに苦労する一幕もあった。 アイゼンを蹴り込みながらダブルアックスでの氷壁の登攀が繰り返し数ピッチ続き、ふくらはぎは悲鳴をあげ、腕もパンパンに張ってくるが、この高度感とスリルは他ではなかなか味わえない代物だ。

  空は次第に青みを増し、眼下のボナー氷河にアスパイアリングの尖った頂が投影された。 風もなく天気の崩れる心配は今のところなさそうで安堵する。 雲海が辺り一面の谷を埋め尽くし、氷河が果てしなく広がっているように見える。 デーブらのパーティーとほぼ並行に相前後しながら、ランプの終了点となる北西稜のコルを目指す。 一昨日登った登山者からの情報どおり氷壁のコンディションはとても良かった。 間もなく頭上にアスパイアリングの白い頂と山頂に続く黒い岩稜帯が見えてきた。

  ランプの取り付きから3時間ほど経った9時ちょうどに陽光と展望に恵まれた北西稜のコルに着いた。 ここは北西稜の岩場を登るルートとの分岐(合流)点であり、途中から北西稜の岩場に取り付いた3人のベテランパーティーの姿が再び上の方に見えた。 コルには独立峰特有の強い風もなく、山頂を待たずしてクックもはっきりと遠望された。 核心部の氷壁の登攀は終わり、ここから山頂までは特に難しいところはないので、デーブらのパーティーと一緒に大休止する。 山小屋で1800mにセットした高度計の標高は2480mになっていた。 上空は雲一つない快晴でとても暖かい。 どうやら天気は前倒しに良くなったようだ。

  居心地の良いコルで30分近くも寛ぎ、足取りも軽く山頂へ向かう。 ガイドブックではコルから山頂まで2時間半となっているが、標高差とルートの状況を見る限り1時間半ほどで登れそうな感じがした。 見た目よりも緩やかな雪稜をしばらくコンテで直登して行くと、雪が切れて岩が露出し始めたのでアイゼンを外す。 雪があった方が断然登り易いが、夏には雪が付かないのか岩場には踏み跡がそれなりに見られ、これを辿ってジグザグに登る。 デーブらのパーティーはクライアントのペースが上がらなくなったのか、その差はみるみる開いて行く。 30分ほど単調な岩場の踏み跡を登り、最後は再びアイゼンを着けて次第に痩せていく雪稜を登る。 上から3人のベテランパーティーがノーザイルで降りてきた。 パーティーの一人に「速かったですね!」と祝福され登頂を確信する。

  3000m級の山なので高所登山のような息苦しさを感じることもなく、11時過ぎに憧れのアスパイアリングの山頂に辿り着いた。 NZのマッターホルンと呼ばれる山に相応しく、猫の額ほどしかない狭い山頂は一方がスッパリと切れ落ちていた。 妻と抱き合って登頂を喜び、平岡さんとも力強く握手を交わす。 昨年のペルーの山では強風のため涙を飲んだ妻も今日は満面の笑顔だ。 今まで見えなかった山頂の向こう側も一面雲海が広がり、2000m以上の山の頂だけが島のように浮かんでその存在を誇示している。 これほどスケールの大きな雲海は今まで見たこともなく、360度の見事な大展望に拍車をかける。 クックを始めとするサザンアルプス中央部の山々はもちろんのこと、南西のミルフォード・サウンド方面には名峰ツトコ(2746m)も遠望された。 また、山や雲海のみならず眼下には無名の氷河湖、そしてその先には本当の海(タズマン海)も望まれ、期待以上の展望の素晴らしさにため息をつくばかりだ。 一昨日無理して登らなくて正解だった。 平岡さんも嬉しそうにAGLの事務所に無線で登頂の連絡を入れ、登頂祝いにとわざわざ山頂まで持ち上げてくれたパウンドケーキをご馳走になる。 30分近くたってからようやくデーブらのパーティーが登ってきたので、お互いに記念写真を撮り合った。

  快晴無風の山頂に40分も滞在し景色も充分堪能したので、もう思い残すことはない。 下りは私が先頭になり、先ほど休憩したコルまで下る。 コルで短い休憩をした後、デーブらのパーティーと入れ違いにコルを発つ。 午後になると雪崩や落石の危険があるランプの氷壁ルートは下らず、引き続き北西稜の岩場を下る。 先ほどの頂稜部の岩場以上に明瞭な踏み跡があったのでこれを辿っていく。 間もなく大きなケルンが積まれた所に、ボナー氷河とは北西稜を挟んで反対側のサーマ氷河へ降りる立派な懸垂用の確保支点があった。 氷河へ懸垂で降りる準備をしていると、デーブらのパーティーが追いついてきたが、氷河へ降りる素振りもなくそのまま岩場を下っていった。 平岡さんがデーブに声を掛けたところ、今の時期は岩場を下る方が良いとのことだったので、デーブらのパーティーの後に続くことにした。 岩場には引き続き明瞭な踏み跡があり、また要所要所に懸垂用の支点が取り付けられていたので迷うことはなかった。 眼下に山小屋がはっきりと見えてくると目印の小さなケルンがあり、そこから左側のボナー氷河に降りた。 3人のベテランパーティーが今朝登ったトレースがあり、それを辿っていくと無事私達のトレースに合流した。 天気が安定していたためゆっくり下山したので、登りと同じ時間を要して山小屋には夕方の5時半に着いた。 予想外に2日間の停滞を強いられたが、最高の天気の日に登頂出来て本当に良かった。 時間的にはこのまま荷物をまとめてビーバン・コルからヘリで下山することも可能だが、今は雲海が災いしてヘリがとても飛べる状態ではないため、明日下山することになった。

  コリントッド・ハットからの下山については、日程に余裕がある時や悪天候でヘリが飛べない時に、ボナー氷河をクオーターダーク峠まで登ってからフレンチ稜をフレンチリッジ・ハット経由(一般的にはここで泊まる)で下り、マツキツキ谷を歩いて車道の終点のラズベリーフラットに行く方法もある。 時間に制約がなければ、アスパイアリングを眺めながら味わいのあるこのルートを歩いて下ってみたいが、クックの登山が控えているので今回は迷わずヘリで下山することを選んだ。 ビーバン・コルまでのヘリのフライト費用は750NZ$(邦貨で56000円)と高額だが時間には代えられないので、シェアする登山者がいなくてもチャーターするつもりでいたが、デーブのクライアントもヘリでの下山を望んでいたので、デーブがヘリの運航会社に無線で連絡すると、明朝9時に入山を予定している登山パーティーがあるので、もし飛べるようであれば9時過ぎにビーバン・コルでピックアップ出来るという願ってもない応答があった。 3人のベテランパーティーは明日フレンチ稜を下るとのことだったが、彼らの足なら1日で下ってしまうだろう。 夜7時45分からのDOCとの定時交信で、明日も良い天気になるとの予報を聞いてひとまず安堵した。 食料も残り少なくなり、夕飯はスパゲティーを食べる。 夕食後は妻と山小屋のテラスで夕陽に染まるアスパイアリングを眺めて登頂の余韻に浸った。


ボナー氷河に向けてやや下り気味にトラバースする


夜が白み始め、周囲の山々が暗闇から浮かび上がってくる


平岡さんがザイルを伸ばしてランプの取り付き付近の偵察をする


素晴らしい朝焼けのシーンを鑑賞する


ランプの取り付き


50度ほどの急斜面をダブルアックスでザイルを伸ばしていく平岡さんを下から確保する


ルートは基本的に北西稜の岩場の基部に沿って登る


空は次第に青みを増し、眼下のボナー氷河にアスパイアリングの頂が投影された


雲海が辺り一面の谷を埋め尽くし、氷河が果てしなく広がっているように見える


デーブらのパーティーとほぼ並行に相前後しながら氷壁の登攀が繰り返し数ピッチ続く


頭上にアスパイアリングの白い頂と山頂に続く黒い岩稜帯が見え始める


北西稜のコルの手前も氷壁のコンディションはとても良かった


陽光と展望に恵まれた北西稜のコルからは山頂を待たずしてクック(中央奥)もはっきりと遠望された


北西稜のコルから仰ぎ見たアスパイアリングの山頂


居心地と展望の良いコルで30分近くも寛ぐ


北西稜からの展望


次第に痩せていく最後の雪稜を登る


山頂直下で登頂を確信する


アスパイアリングの山頂


山頂の向こう側も一面雲海が広がっていた


山頂から見たサザンアルプス中央部の山々


雲海に浮かぶ周囲の山々


北西稜の岩場を見下ろす


眼下の無名の氷河湖


デーブらのパーティーとお互いに記念写真を撮り合う


明瞭な踏み跡を辿って北西稜の岩場を下る


北西稜の岩場から仰ぎ見たアスパイアリングの山頂


北西稜の岩場を懸垂で3ピッチ下る


ゆっくり下山したので、登りと同じ時間を要して山小屋に着いた


山小屋のテラスで夕陽に染まるアスパイアリングを眺めて登頂の余韻に浸る


写  真    ・    オセアニア    ・    想い出の山    ・    T O P