ワスカラン(6768m)

  8月4日、2時の出発に合わせて零時過ぎに起床する。 風の音でほとんど眠れなかったが、緊張と興奮で全く眠くはない。 この高度で一晩大過なく過ごせたので数値に関係なく順応はOKだろう。 風は少し弱まったが、依然として小雪が舞っている。 平岡さんからアタックの有無についての指示はなかったが、昨夜食べ残したアルファー米にお湯を足してお茶漬けにして食べ、狭いテントの中で身支度を整える。 雪が降り止まないので出発は少し遅れるだろうと思い始めたころ平岡さんがテントに顔を出し、予定どおり2時に出発するとの指示があった。 意を決して用便に行くが、テントの周りにはクレバスがあり、足元の安定している所は風が強い。 ほんの少しお尻を出しただけで、凍傷になるほど寒さが厳しかった。 妻に体調のことを聞くと、私同様まずまずのようで安堵する。

  パーティーの編成は昨日と変わり、チーフガイドのマックスには栗本さん、田路さん、割石さん、ガイド見習いのアブラン、エロイには近藤さん、三栗野さん、ガイド見習いのホエールとローナウ、アグリには私、妻、ガイド見習いのロベルト、平岡さんには、伊丹さん、ガイド見習いのバレンティンがそれぞれザイルで繋がり、磐石の体制で臨むことになった。 2時過ぎに準備の出来たパーティーから順次出発していく。 結局私達が一番遅くなり、2時半近くになってようやく出発した。 ガルガンタのコルの末端のキャンプ地から少し下り、だだっ広いコルの中心に向かって緩やかに登っていく。 雪は降っているのか風で飛んでくるのか分からないが、一向に降り止む気配はなかった。 今日も帰りのルートを担保するために、ガイド達が赤い旗を要所要所に立てていく。 予想どおりコルは風の通り道となっていて、まるで吹雪の中を歩いているような感じだった。 それでも風はトクヤラフの時よりは弱くて助かった。 ジャケットのフードを深く被り、目線を足元だけに置いて黙々と勾配の緩い単調な登りを続けていく。 こんな状態では身も心も山頂までもたないだろう。

  C2を出発して1時間ほどでようやくガルガンタのコルから勾配のある南峰への登りに入った。 アグリはセカンドの妻との間のザイルだけを短く直した。 風雪に耐えながら幅の広い雪稜をしばらく登っていくと、オーバーハングした雪壁の基部で前のパーティーが足を止めていた。 先頭のマックスがこの先でルートファインディングをしているのだろう。 図らずもそこで休憩となったが、近藤さんは体調が思わしくなく、残念ながらすでにホエールとC2に引き返したようだった。 雪が降り止まないのでもしかすると今日はここで撤退かと思い始めた時、ようやく前のパーティーが動き出した。 ピッケルを打ち込みながら雪壁の基部に沿って左から回り込むように登る。 この天気でまだ先に進むということはマックスが撤退を考えていない証拠だ。 嬉しい反面、不安な気持ちもあり複雑な心境だ。

  6時を過ぎたが天気が悪いので周囲はまだうす暗い。 先頭のマックス達のパーティーが新雪に印したトレースをジグザグを切りながら黙々と登る。 すでにジャケットは風雪によりバリバリに凍り付き、まるで鎧を着ているような感じになっていた。 間もなく頭上には大規模なセラック帯が朧げに見え始めた。 セラック帯の入口付近から私達のパーティーが先行することになったが、視界が悪いのでルートファインディングに時間が掛かる。 先頭のアグリが行き詰まった状況を見た後方のマックスが途中から違うルートで進んだので、私達は一旦そこから渋々引き返して再びマックス達の後に続いた。

  しばらく登るとちょっとした平坦地があり、ようやく休憩となった。 高度計は電池の消耗で標高が表示出来なくなっていたが、恐らく6300mくらいだろう。 雪は止んだが霧が濃く周囲の状況は全く分からない。 風は弱まったものの吹き止むことはなかった。 すでに8時半になっていたが頼みの陽射しにも恵まれず、体力の消耗も手伝って寒気がする。 私のみならずパーティー全体も明らかに消耗していた。 最後尾の三栗野さんのパーティーの姿はまだ見えない。 この状況を見た平岡さんから、登山の継続の意思についてメンバー各人に意見が求められた。 平岡さんの説明では山頂まで少なくともまだ3〜4時間掛かるので、山頂まで登る自信がない人はここから引き返すことも選択肢としてあるとのことだった。 私はギリギリであるがまだ体力と気力は残っていたので、マックスや平岡さんが撤退を決断しない限り、今の時点では登り続けることに迷いはなかった。 一方、前回のトクヤラフの件があったので今日こそは何とか妻と一緒に山頂に立ちたいと願っていたが、今の状況では自分のことだけで精一杯で妻のフォローは出来ないため、あらためて妻と話し合ったところ、妻は迷わず引き返すことを決めた。 私も妻の経験と体力を考えるとそれが正しい選択だと思った。 メンバー各々が苦渋の決断した結果、妻と割石さん、栗本さんの三人がアグリ、アブラン、ロベルトと共にC2に引き返すことになり、私と田路さん、伊丹さんの三人とマックス、アブラン、バレンティン、そして平岡さんが頂を目指すことになったが、この状況下ではメンバー各々が正しい選択をしたと思えた。

  ここからはパーティーの編成を変え、マックスにアブランと私、そして平岡さんに伊丹さん、田路さん、バレンティンがザイルで繋がった。 濃霧で周囲が見えないため、セラック帯が終わったのか回避出来たのか判然としなかったが、雪が深いこと以外は特に困難な局面はなく、高所らしいゆっくりとしたペースで登る。 相変わらず陽射しはないが風は少し収まり、歩いていれば寒さはさほど感じなくなった。 小1時間ほど登ると先頭のマックスが足を止めた。 どうやら大きなヒドゥンクレバスが斜めに走っているようだ。 マックスはクレバスの縁に沿って上下に歩き渡れる場所を探していたが、その慎重さは尋常ではなく30分以上もアブランと共にクレバスの中を覗きこんだりしていた。 三井さんの一件があったせいだろうか。 その様子を静観していた平岡さんが業を煮やしてマックスに確保を頼み、クレバスを勇んで飛び越えたので一件落着したが、ヒドゥンクレバスを発見してから平岡さんに確保されて全員がクレバスを渡り終えるまで1時間近くかかった。 しかしながらその間に一瞬霧が晴れ、背後の北峰が目に飛び込んできた。 上空は晴れていることが分かり、冷え切っていた心と体に勇気と希望がみなぎった。

  クレバスを越えてからも単調な登りが続き、やがて傾斜が緩くなってきた。 時々周囲の霧が部分的に晴れ、山頂方面や背後の北峰が見えるようになり、天気の回復が僅かばかり期待された。 後続のパーティー(たぶんエロイ、三栗野さん、ローナウ)の姿も豆粒ほどに見えた。 風が収まってきた所で休憩となった。 平岡さんの提案で私とバレンティンが入れ替わり、ここからはマックス、アブラン、バレンティンの3人が先頭でトレースを作り、平岡さん、伊丹さん、田路さん、私の4人が後に続くことになった。 ペースは相変わらずゆっくりで楽だが、広大なスロープを右方向に延々と斜上しながら登っていく感じで標高が全然稼げない。 あらためてワスカランのスケールの大きさを実感する。 1時間ほど登ると暖かな陽が射してきた。 ワスカラン北峰がようやく目線の高さになり、トクヤラフの再来かと喜んだのも束の間、しばらくすると再び濃霧に閉ざされてしまい、以後二度と晴れることはなかった。

  傾斜が一段と緩み、(たぶん)最後の休憩となった。 すでに正午を過ぎ、予定よりも大幅に遅れているので、時間切れになるのではないかと心配になる。 小用の痕を消そうと不用意にアイゼンで雪を削ったことが原因で右足のアイゼンが外れたことに気が付かずに登り始めてしまい、後ろから大声で平岡さんに報告する。 平岡さんは顔色を曇らせたが、ここで対策を講じていたら登頂はおぼつかないので、無理やり拝み倒してそのまま登らせてもらう。 幸い傾斜が緩いので登りに関しては全く支障がなかった。

  霧はますます濃くなり、視界は20mほどしかなくなった。 殆どホワイトアウトしたこの状況で登山を継続出来るのもこの山を知り尽くしたマックス達のお陰だ。 前方でマックスが両手で頭の上に○印を作っているのが見えた。 いよいよサミットかと思い胸が高鳴ったが、そこに着くとマックス達は再び逃げるように先に進んだ。 さてはすぐその先が本当の山頂だと思ったが、一向にそれらしき所が見えてこない。 そのうち再び風が強まってきて、消耗している体に追い討ちをかける。 殆ど平らに近い頂上稜線を風雪に耐えながら開き直って見えない山頂に向かって歩く。 もう何が起きても頂を踏むしかない。

  前方で再びマックス達が佇んでいる姿が見えた。 その傍らには朧げに何本かの旗が見えた。 田路さんとマックスが抱き合っている。 今度こそ本当のサミットだ!。 平岡さん、伊丹さん、田路さん、マックス、アブラン、バレンティンと次々に握手を交わし、肩を叩き合って登頂を喜び合う。 辿り着いた憧れのブランカ山群の最高峰の頂からは紺碧の青空も、周囲を取り囲む数々の名峰も、そしてペルーの大地も見ることは叶わなかった。 しかしながら風雪に耐え登頂出来た達成感と安堵感がそれに勝り、感動と興奮がいつまでも覚めやらない。 妻、そしてメンバー全員の登頂が叶わなかったことが唯一惜しまれる。 風景の写真は撮れないので、皆で記念写真を何枚も撮り合う。 登頂時刻は2時20分で、C2を出発してからちょうど12時間だった。 マックスがC2のアグリと無線で交信する。 C2へは明るいうちに下山出来そうにないので、無線の存在が本当に心強い。

  愛しい山頂に20分ほど滞在して下山する。 右足のアイゼンがないので私達のパーティーの先頭を田路さんに代わってもらう。 最後に休憩した所付近でアブランが私のアイゼンを見つけてくれたので助かった。 残念ながら後続の三栗野さんのパーティーはどこかで引き返したようですれ違わなかった。 時間に余裕はないが、マックスは所々でクレバスの状態を慎重に確認しながら進んだため、セラック帯の途中で暗くなった。 ヘッドランプを点けての下山はさらに時間が掛かかった。 すでにテルモスの紅茶などは飲みきってしまったので、冷たくて辛いが高山病の予防に時々雪を拾って口に含む。 下方のガルガンタのコルに灯りが見えた。 間もなくC2からアグリ達が温かい飲み物を持って私達のサポートに上がって来てくれ、消耗しきっていた体も心も一気に温まった。

  山頂からの下山も登りの半分の6時間を要し、夜の8時半過ぎにようやくC2に戻った。 18時間にも及ぶ長い道のりだった。 あらためて平岡さんやマックス、アグリ、エロイ、そしてスタッフの皆に感謝の気持ちを伝え、伊丹さんと田路さんを労いながらザイルを解く。 寒々しいテントの中で私達が下山してくるのを首を長くして待っていた妻らに控えめに登頂の報告をし、スタッフが作ってくれた温かいスープをいただいて装備を解く。 全てを終えて眠りについたのは夜も更けた頃だった。


2時半近くに小雪が舞うC2を出発する


C2を出発して1時間ほどでガルガンタのコルから南峰への登りに入る


オーバーハングした雪壁の基部で足止めされる


雪壁の基部をピッケルを打ち込みながら左から回り込むように登る


先頭のマックス達のパーティーが新雪に印したトレースを黙々と登る


頭上に大規模なセラック帯が朧げに見え始める


セラック帯の入口付近から私達のパーティーが先行する


マックスは30分以上もアブランと共にヒドゥンクレバスの中を覗きこんだりしていた


平岡さんがマックスに確保を頼み、ヒドゥンクレバスを勇んで飛び越えた


背後の北峰が見え、冷え切っていた心と体に勇気と希望がみなぎった


時々周囲の霧が部分的に晴れ、山頂(南峰)方面が見えるようになった


広大なスロープを右方向に延々と斜上しながら登る


ワスカラン北峰がようやく目線の高さになった


束の間であったが暖かな陽射しに恵まれた


再び濃霧に閉ざされてしまい、以後二度と晴れることはなかった


霧はますます濃くなり、視界は20mほどしかなくなった


殆ど平らに近い頂上稜線を風雪に耐えながら歩く


C2を出発してから12時間を要して山頂に辿り着いた


感動と興奮のワスカラン(南峰)の山頂


山頂で記念写真を何枚も撮り合う


C2からアグリ達が温かい飲み物を持って私達のサポートに上がって来てくれた


写  真    ・    南アメリカ    ・    想い出の山    ・    T O P