トクヤラフ(6032m)

  7月28日、憧れのトクヤラフに登る時が来た。 零時前に起きて準備を始める。 緊張と気持ちの昂ぶりで全く眠くない。 寝起きのパルスの計測は71%とあまり良くなかったが、頭痛もなく体調は悪くない。 テントから身を乗り出して空を見上げると星が見えた。 風も昨日より確実に弱まっている。 一人前のアルファー米を半分以上食べると、運良く用便も済ませることが出来た。

  マックスを先頭に私達の隊が先発する予定だったが、色々と忙しいマックスの準備が遅れ、いちばん最後の出発となった。 先に行くメンバーに励ましの声を掛ける。 まだ順応途上なので完璧な体調の人はいないが、イシンカ同様全員揃って出発出来ることが何よりだ。 私達のパーティーは先頭のマックスの後にラッセル要員としてガイド見習いのビクトルが続き、栗本さん、私、田路さんの順番にザイルを繋いだ。 1時半過ぎにH.Cを出発。 吹きさらしの雪稜に上がると、予想どおり昨日ほどではないものの強い風が吹いていた。 風で飛ばされた雪が乱舞し、穏やかだったH.Cとは全く違う状況で寒さが身にしみる。 酸素の希薄さや暗さがさらに体感気温を下げ、昨日の強風が良い免疫になっているものの果たしてどこまで持ちこたえられるか不安が募る。 緩やかな登りが延々と続き、時間の割に標高を全然稼いでいないのが良く分かる。 H.Cも予定よりだいぶ下だったため、今日は長丁場となりそうで気が重い。 間もなく先行していた妻らのパーティーを全て追い越し、私達のパーティーが先頭に立つ。 今日のマックスは先日のイシンカよりも少し早いペースで登るが、ルートやクレバスを確認しているのか度々足を止める。 長い時は2〜3分も立ち止まり体が冷える。 寒さで電池が消耗したのかヘッドランプの灯火が暗く、風が正面から吹き付ける時も目をしっかり開けていなければならず疲れる。 遥か眼下に麓の村の夜景がおぼろげに見えた。

  4時過ぎに風の弱い場所で初めてまともな休憩となった。 今のところ指先や足先は温かくはないものの、冷たさを心配することもなくありがたい。 マックスは引き返そうという素振りも見せず、後続のパーティーと入れ違いに先に進む。 相変わらず強い風に苛まれながら緩やかな斜面をトラバース気味に登る。 1時間ほど登り、急な雪壁の手前で後続のパーティーを待ちながらの休憩となった。 私のみならず間もなく到着した妻を始め、皆一様に強風でかなり消耗しているように見えた。 残念ながら三栗野さんの姿はすでになかった。 寒さに弱い妻も上へ行く自信がなくなったようで、引き返すことを考えていた。 トクヤラフの山頂には是非二人揃って立ちたいが、確かにこの状況が続けば私自身も相当厳しいので、妻には無理して登ることはないことをアドバイスする。 もう1時間もすれば陽が昇るが、今日は陽射しが望めるかどうか定かではないからだ。 平岡さんもこの強い風では山頂直下まで行けても、最後の核心部は登れないだろうと思っていたと下山後に語った。

  全員が揃ったところでマックスを先頭に急な雪壁に取り付く。 長いアプローチが終わり、いよいよここからが本番のようだ。 すぐにセラック帯となったが、ルートを熟知したマックスは迷わずその間を縫うようにして通過する。 急斜面をジグザグに登っていくとようやく周囲が明るくなり、素晴らしい朝焼けのブランカ山群の山並みが目の前に広がった。 風も幾分弱まり、ようやく快晴の天気となりそうで嬉しかった。 しかしながら女性パーティーの歩みが捗らなくなり、次第にその差は開いていった。 頭上には切り立った巨大な雪壁と芸術的とも思える頂稜部の雪庇(キノコ雪)が望まれ、その迫力ある姿に圧倒されるばかりであった。

  マックスとアグリは立ち止まってしばらくルートを模索していたが、マックスはガイドグックに記されたノーマルルートである北西稜に向かって左へトラバースするルートを選んだ。 ところが意外にもアグリと割石さんのパーティーは違うルートを選んだようで、後続の女性パーティー共々間もなく視界から消えた。 私達はしばらくトラバースを続けた後、一旦少し下ってから20mほどの急な雪壁を上からマックスに確保されながら登った。 ダガーポジションで前爪を利かせながらの登攀に息が上がったが、雪壁を登りきると意外にもそこはなだらかな雪原になっていた。 上空はようやく乾期らしい澄み切った青空となり、周囲の山々も輝き始め、山頂を待たずして素晴らしい展望が叶った。 意外にもマックスは自ら写真を撮り始め、私達にも写真を撮るように勧めた。 再び前方に切り立った雪壁を望みながら右方向に緩やかな斜面を登って行くと、頂稜部の巨大なキノコ雪の直下でアグリと割石さんのパーティーと合流した。 間もなく伊丹さんが平岡さんと二人で登ってきたが、話しを訊くと残念ながら妻と近藤さんは途中で引き返したとのことだった。 今は風も弱くなり暖かな陽射しにも恵まれるようになったが、やはりあの強風は相当堪えたに違いない。 周囲を見渡すと私達以外の登山者の姿はなかった。

  生き残った隊員5人とガイド達は一丸となって核心部のキノコ雪の基部まで登ると、あれほど吹き荒れていた風は嘘のように止み、そこは日溜りのように暖かかった。 時刻は8時半になり、出発してから7時間が経過していた。 空はますます青くなり、双耳峰のコパ(6188m)やワルカン(6125m)の向こうにワスカラン南峰(6768m)の山頂も見えた。 キノコ雪の基部で一息ついた後、マックスがダブルアックスでルート工作に向かう。 1時間ほどの時間を費やし、私達が安全かつ確実に登れるように頂上直下からフィックスロープが張られた。 ザイルを解いて伊丹さんから順番にキノコ雪をユマールで登る。 ありがたいことにユマールでの登攀中も風はなく、中間点で確保していたアグリの所に順次辿り着いた。 頂上直下の垂直に近い数メートルの雪壁を上からマックスに確保されながら最後の力を振り絞って登りきると、伊丹さんが放心状態で座っていた。 そこから先は威圧的なキノコ雪の下からは想像もつかないような緩やかな雪のスロープが指呼の間となった頂に向けて延びていた。 荒々しい氷河を身にまとったパルカラフ(6274m)が眼前に迫り、イシンカからも良く見えたワンサン(6395m)もすっきりと望まれ、登頂を目前にして最高の気分だ。 雪壁の上で写真を撮りながら皆を待つ。 田路さん、栗本さん、割石さんが続き、最後に殿の平岡さんの笑顔が見えた。

  再び皆でザイルを繋ぎ、目頭が熱くなるのを抑えながら紺碧の青空に吸い込まれるように山頂に向けて僅かに登り、全員一緒に憧れのトクヤラフの頂に辿り着いた。 眼下にはトルコ石のような青い氷河湖が望まれ、ランラパルカ(6162m)も目線の高さだ。 あれほど吹いていた風が嘘のように止み、快晴無風の頂となることを誰が想像しただろうか!。 皆で肩を叩き合いながら登頂を喜び、はちきれんばかりの笑顔で写真を撮り合う。 登る前からメインのワスカランよりむしろこの山に登りたかったので、登頂が叶って本当に嬉しかった。 時計を見るとすでに11時を過ぎていた。

  下りはユマールと懸垂下降でキノコ雪の基部まで下り、登りと同じパーティー編成でH.Cに下山したが、途中から再びマックスはアグリや平岡さんのパーティーと別れて登りと同じルートを下ったので、私達の隊が一番遅く2時半過ぎにH.Cに着いた。 途中で引き返した妻ら3人も元気でH.Cで過ごしていたようで安堵した。 妻に簡単に登頂報告をしてから休む間もなくB.Cへ下る支度をする。 疲れてはいるものの、ここより遥かに快適なB.Cへ下れると思えば苦にならない。 昨日はH.Cからは全く見えなかったトクヤラフの頂が間近に仰ぎ見られたが、その頂は登った後でも神々しく、あらためて登れて良かったと思った。

  3時半にH.Cを出発。 下るスピードは早く、僅か2時間足らずでB.Cへ下山した。 間もなくトクヤラフが夕焼けに染まり、有終の美を飾ってくれた。 夕食は暖かいクリームシチューだった。 味はもちろん言うまでもない。 トクヤラフには全員登頂出来なかったが、予定どおりの日程で無事プレ登山が終わったことで皆の気持ちも和らいでいた。 明日は登山口へ下山するだけなので、お腹のことは考えずに久々にお腹一杯に食べた。


1時半過ぎにH.Cを出発する


強い風の中、緩やかな登りが延々と続く(前を登るのは栗本さん)


私のみならず妻を始め、皆一様に強風でかなり消耗しているように見えた


長いアプローチが終わり、急な雪壁に取り付く


セラック帯を通過し、急斜面をジグザグに登っていく


周囲が明るくなり、素晴らしい朝焼けのブランカ山群の山並みが目の前に広がる


女性パーティーの歩みが捗らなくなり、次第にその差は開いていった


頭上には切り立った巨大な雪壁と芸術的とも思える頂稜部のキノコ雪が望まれ、その迫力ある姿に圧倒される


マックスはノーマルルートである北西稜に向かって左へトラバースするルートを選んだ


20mほどの急な雪壁を上からマックスに確保されながら登る


雪壁を登りきると意外にもそこはなだらかな雪原になっていた


上空はようやく乾期らしい澄み切った青空となり、山頂を待たずして素晴らしい展望が叶った


頂稜部の巨大なキノコ雪の直下で合流した隊員5人とガイド達は一丸となってキノコ雪の基部まで登る


マックスがダブルアックスでルート工作に向かう


頂上直下からフィックスロープが張られ、キノコ雪をユマールで登る(伊丹さん)


高度感ある頂上稜線をユマールで登る


頂上直下の最後の雪壁


雪壁を攀じ登る(伊丹さん)


頂上直下から見たパルカラフ(6274m)


頂上直下から見たワンサン(6395m)


快晴無風となったトクヤラフの山頂(左からマックス ・ 伊丹 ・ 酒井 ・ 栗本 ・ 田路 ・ 割石 ・ 平岡/敬称略)


眼下に見えたトルコ石のような青い氷河湖


山頂から見たランラパルカ(6162m)


キノコ雪の基部へ空中懸垂で下る


登りと同じルートを下ったためH.Cへの下山は一番遅くなった


2時半過ぎにH.Cに到着


H.Cから仰ぎ見た神々しいトクヤラフの山頂


H.CからB.Cへ下る


H.Cから僅か2時間足らずでB.Cへ下山する


B.Cから見た夕焼けに染まるトクヤラフ


写  真    ・    南アメリカ    ・    想い出の山    ・    T O P