イリマニ(6438m)

  8月12日、さすがに高所に慣れたのか、息苦しさを感じることもなく午前零時の起床時間となった。 妻も相変わらず体の不調はないようで安堵した。 ありがたいことに多少雲はあるものの風はなく、穏やかなアタック日和となりそうだ。 ワイナポトシもそうであったが、イリマニも独立峰であるため風の有無は登頂の有無を左右する。 昨夜の夕食の余りのアルファー米にお湯を注ぎ、お粥にして食べる。

  今日は宗宮さんと中村さんがロッキーとアンザイレンして先発し、次に私達夫婦がエロイとアンザイレンして続き、最後に白井さんと伊丹さんがラミーロとイリネロと共にアンザイレンし、平岡さんが最後尾となって暗闇の中を順次登り始めた。 幅の広い雪稜は単調ではあるものの、見かけ以上に緩急の差があった。 エロイはアルプスのガイドのように急斜面では早足で登り、逆に緩斜面では意識的にゆっくりと登っているような感じであった。 高所で生まれ育ったエロイからすれば1時間あたり200m以上の標高は稼ぎたいところだろうが、私達はそうはいかない。 前を行く妻がエロイのペースに引き込まれようとするのを、後からザイルを張り気味にしてペースダウンを促す。 経験上、オーバーペースとなった体で6000mを越えるとペースが極端に落ち、足がどうにも言うことを聞かなくなるからだ。

  2回目の休憩で妻がハーネスを外して用を足していると、後から白井さんと伊丹さんのパーティーが追い着いてきた。 最後尾で全体の指揮を取っていた平岡さんから、妻のペースはそのままで良いが、休憩時間を短くするようにとの強い口調での指示があった。 平岡さんは白井さんと伊丹さんをラミーロとイリネロに託して先行させ、代わって最後尾となった私達のザイルに加わった。 平岡さんは妻に登頂の意思を確認すると、妻のザックから中身のテルモスなどを取り出して私に持たせ、空になったザックを自らのザックに括りつけた。 後で聞いた話では、経験上こうすることによって弱者に心理的なインパクトを与え、登頂に導いたケースが多々あるとのことだった。 少し身軽になった妻は先ほどよりも早いペースで登っていき、間もなく斜度が一段と急になる所の手前で休憩していた白井さんと伊丹さんのパーティーに追い着いた。

  夜が白み始め、先行しているパーティー(ロッキーに率いられた宗宮さんと中村さんであろうか?)の姿が朧げに見え、この上のルートのイメージが少し掴めた。 高度計は機能していないが、ここまでの所要時間などを考えると、ここを登りきれば山頂へと続く稜線に出られそうだった。 相変わらず風もなく天気は安定しており、間もなくここも暖かな陽光に恵まれるだろうと思ったのは甘かった。 この先のルートの状況(足場)が悪いのか、先行しているパーティーの歩みは遅くなり、僅か200m〜300mほどの標高差の登りは遅々として捗らなかった。 登る時間よりも待つ時間のほうが長くなり、まるで岩場での順番待ちをしているようだった。 傾斜は確かに今までよりきついが、踏み固められたつぼ足のトレイルは登りやすく全く問題ない。 なぜこの先が渋滞しているのか理解に苦しむ。 しかしながらボリビアの山での暗黙のルールなのであろうか、ラミーロやエロイは先行パーティーを追い抜く気配は全くなく、ただじっと前のパーティーが登るのを待っているだけだった。 後ろを振り返ると、最後尾の平岡さんも遅い歩みに少しイライラしている様子が伺えた。 動きが緩慢なのでだんだんと足先が冷たくなってくる。 体は楽だが、先が見えているだけに精神的に疲れてくる。

  しばらくこのような状況が続いたが、ようやく傾斜も緩み、渋滞もなく登れるようになった。 太陽の恵みだけではなく、もうじき頂稜部の新鮮な景色が見られると思うと心が弾む。 間もなく私達の体にも待望の朝陽が当たり始めた。 軽やかな足取りで山頂へと続く稜線まで登り詰めると、今までの暗く寒々しい風景は一変し、眩いばかりのイリマニの中央峰が圧倒的なスケールで眼前に鎮座し、ヒマラヤ襞も見られるストイックな北峰がもう目線の高さに迫っていた。 そして幅の広い雪稜がまるで紺碧の空に吸い込まれていくように痩せ細っていく先に、目指す南峰の頂稜部が見えた。 ありがたいことに風も殆どなく、登頂の手応えを感じた。

  ところが、その直後に前を登っている妻が突然うずくまった。 すかさず妻の所に歩み寄って事情を聞くと、寒気がして体の震えが止まらないという。 高度障害かと一瞬思ったが、先ほどまでの状況を考えると体力の消耗で低体温症になってしまったのかもしれない。 そこへ後から何も知らない平岡さんが追い着き、妻に向かって「もう少しだから頑張りましょう!」とハッパをかけた。 事情が分かっていない平岡さんに妻の突然の体の異変を説明したが、意外にも平岡さんはそれほど心配していない様子だった。 それどころか、しばらく休めば大丈夫という認識で「頑張りましょう!」と繰り返し妻にハッパをかけたので、たまらず私が「妻を殺す気ですか!」と声を荒げて叫ぶと、ようやく真剣に妻の介護をする気になってくれた。 ザックを妻のお尻の下に敷き、テルモスの暖かい紅茶を飲ませ、しばらくしてから行動食も少し食べさせた。 平岡さんが予備に持ってきたダウンのベストとエロイのジャケットを上から着せ、妻の背中に体を密着させて冷え切った体を少しでも温めるように努力する。 風もなく陽射しにも恵まれているから出来ることで、条件が少しでも悪ければこんな悠長なことはやってられない。 登頂を目の前にしてこれからどうするか悩んだが、もともと今回の山行は私が是非にと妻を誘った経緯もあり、今の状況では妻を一人で(もちろんガイドのエロイは一緒だが)下山させる訳にはいかないので、妻の症状が少し良くなってきたら、登頂は諦めて私も一緒に下山することを心に決めた。

  30分以上が過ぎ、陽射しも先ほどに比べてだいぶ強くなり、目に見えて暖かくなってきた。 消耗しきっていた妻の体にもようやく生気が蘇ってきたようで安堵する。 この様子ならエロイと2人だけで下山することが出来るかもしれないと思ったが、高所では何が起こるか分からないので、妻と一緒に下山することに迷いはなかった。 そんな私の気持ちを察してか、少し元気を取り戻してきた妻は、意外にももう少し頑張って登ってみると言い出した。 いつもに増して妻の意志は固く、とりあえず天気も安定していたので、妻の様子を見ながら再び登り始めることになった。

  真の山頂はまだここからでは見えないが、山頂へと続く幅の広い雪稜の傾斜は緩く、今の状況では本当にありがたい。 平岡さんと私で妻の両脇を固め、タイトロープでエロイが妻を引っ張る。 まるで荷物のような扱いで可愛そうだが仕方がない。 妻はけなげにも私達に迷惑を掛けたくないという一心でひたむきに頂を目指して登っている。 その姿を見て思わず目頭が熱くなり、不意に涙が溢れ出てきた。 登頂はとうに諦めていたので、「無理しないで、いつでも下山して良いよ!」と声を掛けるが、涙で声が詰まる。 ちょうどその時、上から宗宮さんと中村さんのパーティーが登頂を果たし、晴れがましい笑顔で下ってきた。 すれ違い際に祝福の言葉を掛けようとしたが、全く声にならなかった。 お二人は私達の状況を察して、そのまま静かに下山していった。 間もなく白井さんと伊丹さんのパーティーも相次いで下山してきた。 伊丹さんに一言だけ祝福の言葉を掛けたが、お二人も妻の異常を察知したようで、私達を静かに見送ってくれた。

  幅の広い雪稜は次第にやせ細り、ようやく中央峰や北峰が目線の高さになってきた。 相変わらず風もなく穏やかな天気でありがたい。 妻の足取りも先ほどよりしっかりしてきたようだ。 間もなく傾斜のなくなった稜線の僅かばかり先に山頂と思われる所が見えた。 大きな山に相応しい平らな広い頂だった。 先日のワイナポトシ同様、達成感よりも安堵感が先行し、違った意味での緊張感からも解放された。 枯れ果てたと思った涙が再び溢れ出てきた。

  11時過ぎ、H.Cを出発してから9時間以上を要して憧れのイリマニの山頂(南峰)に辿り着いた。 真っ先に妻を抱擁し、そのまま二人とも地面に崩れ落ちた。 一旦は諦めた頂であったが、本当に登れて良かったとあらためて妻に感謝する。 そして平岡さんやエロイとも肩を叩き合いながら、感謝と喜びの気持ちを体全身で伝えた。 ボリビアのシンボルとも言われる名峰の頂に、今こうして立つことが出来たのだ。 何とドラマチックなサミットであろうか!。 皆で記念写真を撮り合い、登頂の喜びに浸りながら周囲の写真を撮りまくる。 山頂からの展望は、北峰と中央峰が隣接しているため、独立峰とは思えないユニークな景観である。 一番近くのムルラタ(5869m)がラ・パス付近から見た台形の穏やかな山容とはまるで違う南面の荒々しい岩肌を惜しみなく披露し、その左奥には僅か4日前に登ったばかりのワイナポトシとその背後にレアル山脈の山々が遠望された。 そして反対側に目を遣れば、果てしなく広がる赤茶けたアルティプラーノの先に次の目標であるサハマが米粒ほどの大きさに見えた。

  もう誰も登ってくることのない山頂に20分ほど滞在し、二度と来ることは叶わない想い出の頂に別れを告げて下山にかかる。 妻の下山をサポートするため、途中の写真撮影は平岡さんに任せてカメラをザックにしまった。 妻は相当疲れていたようだったが体調は悪化することもなく、僅か3時間足らずでH.Cまで下ることが出来た。 私達の無事の下山を心配していた皆に遅ればせながら登頂報告をし、あらためて皆で登頂の成功を称えあう。 マリオが差し出してくれた暖かいスープがありがたい。 結局、イリマニにはメンバー全員が登頂することが出来たわけで、まだサハマは残っているものの当初の目標は充分に達成出来た。 これだけの短期間で6000m峰を2つ登れたなんて夢のようだ。 着替えもそこそこにテントの傍らで仁王立ちし、登ったルートを目で追いながら一人悦に入った。

  明日のアタックに向けて下から外国人のパーティーが2隊ほどH.Cに登ってきた。 狭いテントスペースは更に狭くなり、ペニテンテスの上にもテントが張られた。 遠くのサハマが夕陽に照らされてはっきり見えるようになり、まるで私達を手招いているようだった。 今日はB.Cまで下りず、予定どおりここでもう1泊することとなった。 未明から12時間ほどの行動で疲れてはいたものの、5400mの高度とテントを叩く強い風は安眠を許してくれなかった。


ロッキーに率いられ先行する宗宮さんと中村さんのパーティー


ようやく傾斜も緩み、渋滞もなく登れるようになる


私達の体にも待望の朝陽が当たり始め、軽やかな足取りで山頂へと続く稜線に躍り出る


圧倒的なスケールで眼前に鎮座しているイリマニ中央峰


ヒマラヤ襞も見られるストイックな北峰が目線の高さに迫る


幅の広い雪稜がまるで紺碧の空に吸い込まれていくように痩せ細っていく


傾斜のなくなった稜線の僅かばかり先がイリマニ南峰の広く平らな頂だった


イリマニの山頂


イリマニの山頂


山頂から見たワイナポトシとその背後のレアル山脈の山々


山頂から見た荒々しいムルラタの山塊


山頂から見たサハマ


二度と来ることは叶わない想い出の頂を辞する


イリマニ北峰


荒々しい山肌を見せるイリマニ北峰


イリマニ南峰の登攀ルート


山頂から僅か3時間足らずでH.Cまで下る


夕焼けに染まるイリマニ南峰


H.Cから見たワイナポトシ


H.Cから見たサハマ


写  真    ・    南アメリカ    ・    想い出の山    ・    T O P