12月31日午前9時、マイクロバスに乗り、いよいよアコンカグアへ向けて出発となった。 プレ登山を経験したばかりのためか、不思議と何の気負いも感じなかったが、川の水に含まれている鉱物の作用によって出来た『インカの橋』と名付けられた自然橋を過ぎた所で、車窓からいきなり雪を戴いた神々しいアコンカグアの南壁が望まれると、一気に気持ちが昂ってきた。 幹線道路から砂利道を少し入った所で車を降り、登山口のレンジャーステーションで入山許可書のチェックを受ける。 国立公園のレンジャーから、一人一袋ずつ通し番号が記されたゴミ袋を手渡され、ゴミは全てこの袋に入れて持ちかえるようにと指示があった。 レンジャーステーションのすぐ脇には立派なヘリコプターが1台置かれていた。
快晴の天気の下、アコンカグアの南壁を正面に見据えながら午前10時前にレンジャーステーションを出発。 イワンと奥田さんがテントの設営場所を確保するために先行してくれた。 首から三角巾で右腕を吊ったヘラルドとビルフィーニャに導かれ、殆ど起伏のない草原の中の幅の広いトレイルをゆっくり歩いていくと、間もなくアコンカグアの雄姿を水面に映す小さな湖(オルコネス湖)の湖畔に着き、一同思い思いに湖越しのアコンカグアを写真に収めた。 標高約2900mのレンジャーステーションから1時間ほどで、赤茶けた濁流の川(オルコネス川)に架かる吊り橋があり、その手前に『コンフルエンシアまで4時間・プラサ・デ・ムーラスまで12時間』という標識があった。 コンフルエンシアは今日の宿泊地、プラサ・デ・ムーラスは明日の宿泊地(B.C)だ。
吊り橋を渡るとトレイルはようやく上り勾配となり、幅の広いオルコネス谷の乾燥した砂礫の道を遡っていくようになった。 間もなく私達の荷物を満載したムーラの一団が、マルセイロに率いられて砂塵を舞い上げながら傍らを追い越していった。 単調なトレイルとは対照的な4〜5千m級の個性的な山々が谷の両側に見え始めると、隊員一同カウントダウンを始め、廣永さんのハーモニカの演奏に続いて、お互いに新年の挨拶を交わし合った。 日本と12時間の時差があるため、正午に日本の新年を迎えたのだった。
右手にアルマセネス山(5102m)の奇峰、左手の赤茶けた前衛峰の奥に雪を戴いたトロサ山(5432m)の岩峰が見えてくると、間もなく足下にコンフルエンシアのキャンプ地を見下ろす崖の上に着いた。 コンフルエンシアとは赤茶けたオルコネス川の濁流とアコンカグアの南壁の氷河から流れ出す清流との合流点を意味するらしい。 傍らにはエル・プロモで見た、石で周りを囲まれた儀式の行われた壕があり、ヘラルドがアコンカグアの8合目あたりの岩場を指して、数年前あの辺りで神に捧げられた子供のミイラが発見されたことを教えてくれた。
100mほど急な斜面を谷底へ下り、午後2時半に大小のテントで埋めつくされたコンフルエンシアのキャンプ地(3368m)に着いた。 奥田さんと途中から先発隊を追いかけてくれた飯塚さんが、ガイド達と食堂テントの設営をして迎えてくれた。 到着後すぐに私達もテントの設営をしたが、谷間にあるキャンプ地は風が強く吹き抜け、テントの中にも容赦なく細かい砂塵が入り込んでくる。 さらに困ったことに、テントの中は強烈な陽射しでとても暑く、まるで砂漠の中にいるようだった。 「わざわざ地球の反対側まで来て、何をやってるんだろうね!」と廣永さんとボヤき合ったが、食堂テントでスイカが出た時は、地獄に仏を見たようだった。 夜になるとようやく風も少し収まり、シャンパンで新年のお祝いをした。 予想どおり、各国から集まっている登山者達が、母国の時間に合わせてカウントダウンを行うため、一晩中谷間のキャンプ地は騒がしかった。
1月1日、元旦の朝食には雑煮が振る舞われ、午前9時に今日の目的地のB.Cのプラサ・デ・ムーラス(4320m)を目指して出発した。 手持ちの資料によれば、ここからの標高差は約900m、距離は約22kmもあるという。 今日も雲一つない快晴の素晴らしい天気だ。 赤茶けたオルコネス川の濁流を渡渉し、急坂をぐんぐん登っていくと、30分ほどで谷底から這い上がり、丘を一つ越えると再び緑濃い気持ちの良い草原(湿原)となった。 可憐な高山植物が咲き乱れているオアシスのような草原を過ぎると、トレイルは再び乾燥した土と砂だけの世界になってしまった。 今日は向かい風が時々強く吹き、バンダナでマスクを作って歩いたが、砂埃と乾燥した空気のせいで鼻の中が痛い。
遮る物がないだだっ広いオルコネス谷からの景色は雄大で、B.Cまでの往復のトレッキングを楽しむ人達もいることが頷ける。 右手にはアコンカグアの巨大な山塊、左手にはヘラルドが教えてくれた、コロンビア・メキシコ・フィンガー(ロス・デドス)といった5000m級の峰々が、抜けるような青空の下に顔を揃えている。 整地されたような平らな地面と、そこから屹立するそれらの山々との境目が何とも奇異に見えて面白い。 起伏のないトレイルを歩くスピードは意外に速く、10分ほど歩くと山の景色は違って見える。 草木のない殺伐としたトレイルに唯一アクセントをつけている『ピエドラ・グランデ』と名付けられた大きな石の周りで一休みする。 朝方は遙かオルコネス谷の突き当たりに小さく見えていたロス・デドス(5018m)が眼前に大きく立ち塞がるようになると、谷間は次第に狭まり、岩屑が堆積する河原歩きとなった。 何本にも枝分かれして流れが弱まってきたオルコネス川を、何度か靴を濡らさないように飛んだり跳ねたりしながら渡渉すると、間もなく河原のトレイルは終わり、アルペンルートへ変わるイバーネスという場所で休憩となった。
たまたまそこで休憩していた3人の日本人のパーティーと情報交換すると、そのうちの若い女性から、「強風に苦しめられ、また高所順応が上手くいかず、途中のキャンプ地では何度も嘔吐しましたが、3人のうち自分を含めて2人が頂に立つことが出来ました」という生々しい体験談を聞くことが出来た。 ところが色々と話を伺っているうちに、その方のお父さんは今回私達が参加している登山ツアーで、数年前にアコンカグアを登った直後に、山頂直下で持病が悪化して亡くなったとのことで、今回の山行はその供養とのことだった。 その亡くなられた方は、山の会の淑子さんの知人だったことが帰国後に分かり、その偶然さに大変驚いた。
彼女らのパーティーと別れ、アルペンルートに変わったトレイルをB.Cに向かってひたすら歩き続ける。 ロス・デドスを左手にやり過ごすと、今度は雪をたっぷり戴いた秀峰クエルノ(5462m)がオルコネス谷の突き当たりに鎮座するようになった。 オルコネス川はいつの間にか遙か足下になっていた。 傍らを何度かムーラの一団が砂塵を巻き上げながら通り過ぎたが、人間には真似の出来ない彼らの強靭な脚力には本当に脱帽だ。 以前はここにB.Cがあったという朽ちた廃屋の前で最後の休憩となり、そこから30分ほど崖をジグザグに喘ぎながら急登すると、目の前が急に開け、午後5時過ぎにクエルノや左隣のカテドラル(5335m)、そしてペニテンテスの大群落と荒々しい岩の鎧を身に纏ったアコンカグアの西壁に囲まれたB.Cのプラサ・デ・ムーラス(4230m)に着いた。 B.Cの入口にはレンジャーの詰所があり、その奥には様々な色や形をした沢山のテントの花が咲いていた。
キャンプ地の奥の方に蒲鉾型をしたKL社の常設テントが3張あり、それぞれ食堂・調理場兼スタッフの控室・食料倉庫だった。 昨日までのドーム型の食堂テントも豪華だったが、常設テントの居心地も充分過ぎるくらい良かった。 夕食前の血中酸素飽和度は75%で、予想に反してあまり芳しくなかったが、頭痛も全くなく食欲も旺盛だった。 今晩は新年のお祝いで、テントキーパーのコルフェリーナ嬢の手作りの料理に舌鼓を打ったが、ここで油断してはならないので、アルコールは控え、お腹も八分目にしておいた。 夕食後、他のツアー会社のガイドの倉岡さんが食堂テントに貫田隊長を表敬訪問しに来たが、高所登山のエキスパートといわれる倉岡さんが数日後に高山病(肺水腫)で下山したことを知り、高所順応の難しさをあらためて思い知った。 高山病の予防薬のダイアモックスを貫田隊長も今晩から服用するというので、私も念のため半錠だけ服用することにした。
1月2日、B.Cを午前10時過ぎに出発し、C.1のキャンプ・カナダ(4900m)まで荷上と高所順応のため往復する。 B.Cの裏手に広がる2mほどの高さのペニテンテスの群落の狭い切り裂きを抜けると、富士山のように踏み固められた砂礫のトレイルとなり、途中3回の休憩をして3時間ほどでキャンプ・カナダに着いた。 他のパーティーの多くがB.Cから直接一つ上のニド・デ・コンドレスのキャンプ地(C.2)に上がるため、テントが20ほど張れる程度のこぢんまりとしたキャンプ地だった。 砂礫のスロープの遙か上のモレーンの上に、明後日以降のキャンプ地となるニド・デ・コンドレス(鷲の巣の意味)が立ちはだかっている。 昨日オルコネス谷からずっと見上げてきたロス・デドスが目線と同じ高さになり、雪をタップリ戴いたクエルノの雄姿も眼前に迫るようになってきたが、目指すアコンカグアの頂はまだまだ先だった。
意外にもしばらくここに留まって高所順応の訓練をすることもなく、アタックに必要なアイゼン・ピッケル・防寒服等をデポ用のテントに残し、僅か30分ほどでC.1から下山した。 登りとは違うルート(砂走り)を通ったため、僅か50分ほどでB.Cに着いた。 遅い昼食はコルフェリーナ嬢の手作りの美味しいピザだった。 昼食の腹ごなしに、B.Cから少し離れた所にポツンと建っている『ホテル・レフヒオ』へ行ってみることにした。 B.Cから20分ほどでペニテンテスの群落に囲まれたホテルに着いたが、ホテルという名前に恥じない立派な山小屋だった。 食堂の壁には各国の登頂者のサインが書かれた色紙やペナントが所狭しと飾ってあった。 ホテルはとても快適な居心地だったが、登山ルートから外れているせいか、宿泊客はそれほど多くないように思えた。 ホテルからの帰りに、夕陽に照らされたアコンカグアの西壁が黄金色に染まり、その余りの神々しさに思わず時間を忘れて立ちつくした。
夕食前の血中酸素飽和度は79%で、昨日よりも少し良くなった。 ダイアモックスでドーピングしたせいだろうか。 昨夜、数値は気にしないと心に決めたばかりだったが、数値が良くなったことがとても嬉しかった。 夕食中に知人の所属するM山の会の高橋さんらが貫田隊長を表敬訪問しに来た。 今回のアコンカグア登山は会の20周年の記念行事として計画されたとのことだが、発起人の知人が体調を崩して参加出来なかったことがとても残念だった。
1月3日、ありがたいことに高所順応は上手くいっているようで、体調はすこぶる良い。 他の隊員達も絶好調のようだ。 快晴の天気の中、いよいよ今日からA.B.C(前進キャンプ)入りだ。 B.Cまでは何ら不自由なく、とても快適に過ごしてきたが、今日からはそうはいかない。 ブランチ(早めの昼食)の後、先発した奥田隊に続いて正午前にB.Cを出発。 風もなく暖かいのでジャケットは着ないで登る。 共同装備のテントや食料以外の個人装備を50Lのザックに背負い、昨日と同じ所で3回休憩して、C.1のキャンプ・カナダに午後2時半に着いた。 貫田隊長から明日以降の荷上げについて、B.Cに常駐している有料のポーターを使うかどうかの提案があったが、この程度のことで人を頼っていたのでは登頂はおぼつかないので、折角の提案にも手を上げなかった。
快適な食堂テントは無くなってしまったが、風もなく穏やかな天気だったので、テントの周囲で隊員一同車座になってティータイムを楽しんだ。 気温は低い(0度位)が、陽射しが強いため無風であれば長袖のシャツ一枚でいられる。 “プラブーツが劣化により突然壊れることがある”という話題に及んだところで、全く偶然にも宮澤さんの履いていた愛用のプラブーツのソールが突然剥がれてしまった。 急遽無線でB.Cに靴の有無を照会したが、同じサイズの靴が見当たらないというので、とりあえず補修用の接着剤を注文した。 飯塚さんが一生懸命接着面を石で磨いていると、2時間足らずでビルフィーニャが大きな荷物と一緒にどこかで調達してきたプラブーツを担いで登ってきたので、一同そのパワーに仰天した。
ダイアモックスの服用を続けたため、夕食前の血中酸素飽和度は83%で、昨日よりさらに良くなった。 夕食は各自のテントの中で食べることになっていたが、まだ日没前でそれほど寒くなかったので、隊員一同再び車座になり寄り添いながら外で食べた。 夕食はフリーズドライのピラフや短く刻んだスパゲティーだったが、体調が良かったせいか美味しく感じた。 明日からはいよいよ5000mを超える所に上がるので、「今日は最後の幸せな夜ですね」と同室の廣永さんと話しながら寝たが、昼間暖かく感じていたことによる反動か、それともB.Cとの600mの標高差のせいか、夜中に寒さで何度も目が覚めた。 明け方、温度計を見るとマイナスの10度で、寒さに弱い私には目眩がしそうな気温だった。
1月4日、寒さに震えながらもテントの外で膝を付け合わせ、和気あいあいとスープのみの朝食をとる。 テントを畳み出発の準備をしていると、午前9時頃にようやくキャンプ地にも陽が当たり始めた。 先発した奥田隊に続いて午前9時半にC.1を出発し、C.2のニド・デ・コンドレス(5350m)に向かう。 トレイルは昨日のC.1までと同じように踏み固められていたので、プラブーツの紐を緩めに履いて登った。 時折突風が吹くものの全般的に風は弱く、絶好のアタック日和だ。 途中1回休憩しただけで、午後零時半にC.2に着いた。
テントを設営してティータイム(昼食)とした後、C.3のキャンプ・ベルリン(5800m)へ高所順応とアタックに必要な登攀具をデポしに行く。 5800mといえば、以前登ったキリマンジャロ(5895m)とほぼ同じ高さだ。 しかも今日はC.1のキャンプ・カナダ(4900m)から出発しているため、これから先は体力的に相当きついと思ったが、廣永さんの山の歌に元気付けられたせいか、先程と変わらぬペースで2時間ほど登ると、あっけなくC.3に着いてしまった。
最終キャンプ地のC.3は猫の額ほどの狭さではなかったが、テントの数はC.2以下に比べると極端に少なかった。 体力に勝る外国人は、C.2からアタックするのが当たり前なのだろうか?。 キャンプ地は上下二段に別れていたが、私達の隊は1〜2人がやっと入れるような小さな避難小屋(炊事場)のある下段にテントを設営した。 目の上には濃い群青色の空を背景にして、手持ちの資料の写真にあったものと同じ赤茶けた三角錐の小さな突起のような山頂が手に取るように見え、また『アコンカグア山頂の嵐』に記されていた、強風によって造られた奇妙な形をした岩が所々に散在していた。 日本を出発した時はここまで来られるかどうかも定かではなかったので、何かとても嬉しい気分になった。 C.2からの展望もさることながら、6000mに迫るC.3からは、既に5000m級のクエルノやカテドラルが足下になったのみならず、それらの山々の背後に聳えている無数のアンデスの山々も一望出来るようになり、遙か遠くにエル・プロモの姿も確認出来た。
C.3にしばらく留まって高所順応することなく、登攀具をテントにデポして僅か30分ほどでC.2に下った。 下山中に上からC.2を見下ろすと、私達の隊が幕営しているキャンプ地の一段下にも広いキャンプ地があり、C.2はB.Cと同じぐらいの広さがあることが分かった。 午後5時にC.2に着き、皆で今日一日のお互いの健闘を讃え合った。
夕食前の血中酸素飽和度は83%で昨日と同じだったが、さすがにC.1からC.3へ一日で登ったため軽い頭痛がした。 夕食はアルファー米にフリーズドライのカツ丼とふりかけで、以後B.Cに戻るまで同じような質素なメニューだった。 尿瓶として愛用していた水筒をうっかりC.1に忘れてきてしまったが、食べ終わったアルファー米のパッケージで代用することを思いついた。 今宵の宿は昨日までと比べて一回り小さなテントだったが、夜になると風が強まり寒さで全く眠れなくなってしまった。 風が断続的に吹き込むのでテントを点検すると、外張りのファースナーが壊れて開いたままになっていた。
1月5日、寒さに震えながらテントの中で陽が当たってくるのを待つ。 貫田隊長が測った夜中の気温はマイナスの15度だったという。 私達のテントの中はいったい何度だったのだろうか、尿瓶の中身もカチカチに凍っていた。 風邪をひいてしまったのか、鼻の奥が詰め物をされたようにズキズキと痛む。 もともとが鼻炎持ちなので、ここに障害が出るのが一番こたえる。 周囲で談笑する皆の声が羨ましく感じるほど、気分は落ち込んでしまった。 同室の廣永さんも頭痛で調子が悪そうだった。 キャンプ地に陽が射し込んでくる午前9時にようやく朝食となったが、体が冷えきっていたので具の無いインスタントラーメンがとても美味しく感じた。
宮澤さんは最終キャンプ地をC.3から少し上げたいということで、彼女が奥田さんや飯塚さんと一緒に一日早くC.3に出発するのを見送ってから、高所順応には悪いとは分かっていたが、鼻の痛みと寒さにめげてお昼過ぎまでテントの中で静養することにした。 寝ている間に元気一杯の植木さん夫妻は、二人だけでC.3まで遊びに行かれたようだった。 体の芯まで冷えきっていたので、昨日まで暑く感じたテントの中がとても心地良かった。
充分に昼寝をしてようやく体も正常になってきたので、夕方近くにキャンプ地の周囲を散歩した。 意外にも登山ルートから少し離れた下段のキャンプ地の方が、私達の隊が幕営しているキャンプ地よりも盛況だった。 夕食前の血中酸素飽和度は83%で昨日と同じだった。 宮澤さんが飯塚さんと一緒に上のC.3に泊まっているため、今晩から奥田さんを加えて3人で寝ることとなった。 テントの中で奥田さんからヒマラヤの高所登山の経験談や、西田敏行さんとの撮影山行の貴重な思い出話を聞くことが出来た。 昨夜眠れなかったことによる反動か、風もなく昨夜のように寒くなかったせいか、朝まで熟睡することが出来た。
1月6日、ありがたいことに心配していた鼻の痛みは峠を越え、また、入山した時からずっと続いている快晴の天気は今日も続いていた。 予定では明日がアタック日となるので、この異常なほど安定した天気がもう一日続いてくれることを願った。 今日はここから450m上のC.3に登るだけなので、キャンプ地に陽が射し込んでくるのをテントの中で待ってブランチとし、正午前にC.2を出発した。 今日は全く風のない絶好のアタック日和で、一歩一歩の登りがとても楽しい。 途中の大岩の下で1回休憩しただけで、2時間足らずで最終キャンプ地のキャンプ・ベルリン(5800m)に着いた。 今日も憧れのアコンカグアの山頂が良く見える。
テントを設営してから、隊員一同車座になって和やかなティータイムを過ごす。 たまたま目の悪い私が、300mほど上の岩場に登山者の姿を発見した。 山頂へのルートとはだいぶ違う方向に見えたので、“他にも登山ルートがあるのですか?”という話題を提供したところ、ヘラルドの表情が急に険しくなった。 それを見て一同その登山者が遭難しかけている状況にあることが分かった。 ヘラルドは脱兎のごとく岩屑の急斜面を駆け登り、登山者のもとへと向かった。 ビルフィーニャもそれに続いて登り始め、少し違った角度で後方からヘラルドを援護している。 そのスピードと絶妙な連携ぶりは一同を驚かせたのみならず、登山者にもその意図が確実に伝わり、ルートを外して行き詰っていた登山者を無事に保護することが出来た。 ヘラルドとビルフィーニャの卓越した運動能力と心の優しさを再認識した一場面だった。
午後3時半にAガイズの登山隊のメンバーと思われる人達がキャンプ地に下りてきた。 登頂の成否について訊ねることは遠慮したが、その足取りからみて登頂されたことが見て取れた。 今日のような絶好のアタック日和に登頂することが出来たAガイズの登山隊は、本当に幸運で羨ましい限りだった。 しばらくすると今度は下からM山の会の安部さんら3人のメンバーが相次いで登ってきたが、そのうちの一人の女性は疲労困憊し、立っているのもやっとという状態だった。 すかさずビルフィーニャが力水を飲ませに彼女のもとに走り寄ったが、彼女は翌々日高山病でB.Cに下山したとのことだった。
アコンカグアの登頂の成否にかかわらず、将来このキャンプ地を再訪することは叶わないで、傍らの見晴らしの良い岩の上に陣取り、眼前に広がる雄大なアンデスの山並みを見渡して一人悦に入った。 夕食前の血中酸素飽和度は76%と昨日より悪くなったが、鼻の痛みはなくなり、予想に反して体調は万全だった。 反面、一番強い淑美さんのお腹の調子が悪くなってしまったことが少し気掛かりだ。 いつもより早めの夕食の後、貫田隊長から明日の頂上アタックのスケジュールについて簡単な説明があった。 明日の準備を終え、午後8時には窮屈な寝袋に潜り込んだ。 高度のせいか、それとも気持ちの昂りか、日付が変わる頃になっても全く寝つけなかった。 熟睡しない方が高山病になりにくいので焦ることはなかったが、隣の二人の安らかな寝息が羨ましかった。
1月7日、午前4時半起床。 夜半から吹き始めた風は朝まで止むことはなく、寒さにめげて用足しに行きそびれてしまった。 天気が悪くなる前兆ではないかと思われるような黒い雲が、足下に広がっているのが月明かりで見えた。 暗く狭いテントの中で、アルファー米とふりかけの朝食を食べながら身支度を整える。 昨日何度も練習したにもかかわらず準備に時間がかかる。 テントの中の荷物を整理して、午前6時の出発時間ぎりぎりにスタートラインに立った。 寝不足だか体調は万全だ。 気温は低く多少の風はあるものの、羽毛の手袋と宇宙服のような分厚い羽毛服、そしてプラブーツで完全武装しているため寒さは感じない。 予定より少し遅れたが、一人も欠けることなくC.4から出発する宮澤さんと飯塚さんを除いた7人の隊員(熊本さん・植木さん・淑美さん・廣永さん・晝間さん・稲村さん・私)と貫田隊長・奥田さん、そしてガイドのヘラルド・イワンと見習いのマルセイロ、さらに助っ人のビルフィーニャを加えた4人の現地スタッフは全員一丸となって、いよいよ憧れの頂を目指してアタックを開始した。
登攀隊長のヘラルドを先頭に、お腹の調子が悪い淑美さんが続くが、なぜかペースはとても速く、ついていくのが精一杯だった。 まもなく夜は明け、ヘッドランプは不要となった。 ジグザグの踏み固められた岩屑のトレイルをただ黙々と登って行く。 傾斜もそこそこあるので、標高は着実に稼いでいるはずだ。 C.3から1時間ほど登った時、突然ヘラルドが足を止め、足下の雲海を指しながら「シャドー!」と言った。 何と見事な“影アコンカグア”が雲海のスクリーンに映し出されていた。 素晴らしい天からの贈り物に感謝したが、標高が上がるにつれて風は次第に強まってきた。 風が強まるとヘラルドのペースも速くなるような気がした。 夜は明けたが、北側の斜面を登っているため陽射しには当分恵まれず、これから先のことを考えると緊張感がなかなか解けない。 再びただ黙々と登り続ける。 “もっと楽しまなくては・・・”。 しかし、ますます強くなってくる風の勢いに、その気持ちもかき消されていった。
いつの間にか隊列は長くなり、中程にいた私も先頭集団から少し遅れ気味になったが、前を歩く廣永さんの背中だけを必死に追いかけながら登る。 殿(しんがり)との間もだいぶ開いているようだった。 登ることに集中し過ぎたせいか、時間の観念がなくなってきた(時計を見たくても三重の手袋で見ることが出来なかった)。 風に追い立てられながら喘ぎ喘ぎ登っていくと、岩で囲まれたトレイルの脇のこぢんまりとしたスペースに、宮澤さんと飯塚さんの二人が泊まったと思われるテントがあった。 標高は6300m位のはずだ。 テントの脇で一服することもなく、上を目指して再び単調な岩屑のジグザグのトレイルを黙々と登り続けた。
お腹の調子が良くなったのだろうか、相変わらず淑美さんの足取りは軽く、ついていくのが精一杯だ。 しばらくするとまたズルズルと先頭集団から遅れ出してしまった。 先程のテント場から30分ほど登ったところで、目の上に稜線のコルのような所が見え、先頭集団が一服している様子がうかがえた。 やっとの思いで稜線に上がると待望の陽射しには恵まれたが、風速20mを超えるような強風も吹き荒れていた。 傍らに朽ちた避難小屋の残骸があったので、そこが手持ちの資料に記されたインディペンデンシアという所だと分かった。
常に風に追い立てられながら、C.3から3時間近く歩き続けてきたのでとても疲れた。 風が強いためか、休憩というよりは足踏みしたまま先に進む気配がなかったので、少しでも風の弱い所を選び、風上に背を向けて座り込んだ。 貫田隊長は殿を務めているのか、しばらく周囲に姿が見えなかった。 手持ちの資料ではインディペンデンシアの標高は6546mとなっているので、これが正しいとすればC.3からここまでの標高差約750mを3時間足らずで登ったことになり嬉しいが、ますます強くなる風はその嬉しさをもかき消した。 座りながら煎餅を食べ、腹式呼吸で体力の回復に努める。 情けないことに自分のことだけで精一杯だったため、周囲の状況が全く分からず、いつの間にかベテランの宮澤さんは飯塚さんと共に下山され、一番元気そうに見えた淑美さんもお腹の調子が回復しないので、これからマルセイロと下山されるという話を聞いて驚いた。 20分ほど経っても出発する気配がなかったので、“強風のため今日の登山は中止になるのでは”と思い始めた時、突然貫田隊長から「ここでアイゼンを着けて下さい」との指示があった。 この程度の風はアコンカグアでは当たり前ということか、エル・プロモ登山のことが頭をよぎり、にわかに緊張する。 風が強いためアイゼンを着けるのも一苦労で、脱いだ羽毛の手袋が危うく飛んでいくところだった。
インディペンデンシアから短い雪の稜線を登る。 アイゼンを着けたことで先程よりもさらに足が重たくなったが、意外にも風はだんだんと弱まり、雪の斜面を登りきった稜線の肩のような所で風は止んだ。 先に登った隊員はここで一服し、後続隊を待つことになった。 ここからは稜線から一歩右に下がり、広大な砂礫のスロープをトラバースしていくトレイルが延々と続いているのが見渡せた。 風がなくなり安堵したのも束の間、砂礫のスロープに一歩足を踏み入れたとたん状況は一変し、先程と同じ風速が20mを超えるような強風が吹いていた。 たまたま突風が吹いただけですぐに止むだろうと思ったのは甘かった。 風はますます強まり、ザックからジャケットを取り出して着るのもままならない状況になってしまった。 先程の風のない所まで引き返そうとも思ったが、団体行動のためそれも出来ず、寒さに耐えながら歩き続けた。 この時の風のボディーブローが私の体力を徐々に奪っていった。 風は一瞬たりとも止むことはなく、右横から容赦なく吹きつけてくる。 ダウンジャケットのフードを深く被り、斜め左側を向いて歩く。 30分ほど強風に耐えながら歩いていくと、トレイルの脇に風を遮る大きな岩が一つだけあり、隊員一同そこで一息ついた。 三重の手袋の脱着は一苦労だが、ようやくジャケットを着ることが出来た。
ジャケットを着て出発すると、不思議と風が少し弱まったような気がした。 再び長いトラバースのトレイルを風に追い立てられながら黙々と歩く。 トレイルの傾斜が増してくると間もなく、雪渓がトレイルを塞いでいる所があり、その手前で図らずも休憩となった。 休憩している間にヘラルドと奥田さんが雪渓にフィックスロープを張ってくれたので助かった。 雪渓を登りきるとトレイルは階段状となり、無意識には足が前に出なくなってきたので、一歩一歩気合を入れながら意識的に足を持ち上げる。 間もなく大小の岩屑が堆積した崩れやすい急斜面として悪名高いグラン・カナレータの難所が左上方に見えてくると、トレイルは落石の巣のような所を通過することとなった。 貫田隊長が急いで通過するように指示したが、足はすでに言うことを聞かなくなっていた。
幸いにもグラン・カナレータに近づくにつれて風はだんだんと収まり、健脚派の揃った奥田隊が待つグラン・カナレータ直下の大岩の基部までやっとのことで辿り着き、崩れ落ちるようにへなへなと座り込んだ。 食べる気力もないほど疲れていたが、ここから山頂まで休憩は出来ないだろうから、一息つく間もなく煎餅やチョコレートを無理やりお湯で胃袋に流し込んだ。 熊本さん・植木さん・晝間さんの3人の表情にはまだまだ余裕が感じられるが、廣永さんは相当疲れているようで、座りながら私にもたれかかっていたが、その体はまるで氷のように冷たかった。 その様子と先程までの足取りを見て心配した貫田隊長が、廣永さんにイワンと一緒に下山することを勧めた。 私は相変わらず自分のことだけで精一杯だったので、私以上に疲労困憊している廣永さんに励ましの言葉をかけることが出来ず、このことが後々まで私を後悔させることになった。 C.3を出発してからすでに6時間以上が経過し、いつの間にか正午を過ぎていた。 「山頂まであと2時間位かかりますが、すでに予定の時間より遅れているので、ザックをここにデポしていきましょう」という貫田隊長の提案に、往復3時間以上は掛る(実際は4時間以上掛った)ことを全く考えずに、言われるままに水や食料の入ったザックをデポしたことが、後で考えると恐ろしいかぎりだった。 経験不足のため、低い気圧が体のみならず脳の働きをも鈍くさせていたことは、この時は知る由もなかった。
断腸の思いで廣永さんと別れ、無意識にカメラだけをジャケットのポケットにねじ込み、奥田隊の熊本さんと植木さんに続き、晝間さんや稲村さんと共に最後の力をふりしぼって山頂を目指した。 トレイルはすぐに雪の急斜面となったが、足跡のトレイルが階段状についていたのでピッケルを使わずに登ることが出来た。 しばらくの間はなんとか先頭集団のスピードについて行けたが、次第にそれもままならなくなり、ずるずると一人遅れだした。 先頭集団が要所要所で足を止め、私が登ってくるのを待っていてくれることが心苦しかったが、貫田隊長とマンツーマンで登ることとなった稲村さんが、さらに遅れていることが唯一心の救いだった。 奥田さんから、西田敏行さんが登頂を断念したのはこの辺りだと教えられた。
幸いにも“一歩登ると二歩崩れ落ちる”というグラン・カナレータの核心部は大部分が雪で埋まり、登りにくいと感じる所はあまりなかった。 また、風も収まったままであり、アコンカグアの山の神にようやく歓迎されたようだった。 しかしながら相変わらず登高ペースは上がらず、一歩登っては気合を入れ、また一歩登るという亀のような登り方が続いた。 周囲の景色を眺めたり、後ろを振り返ったりする余裕などは全くなく、ひたすら山頂だけを目指して登ることに集中していたので、ビルフィーニャがずっと私の後ろでサポートしていたことに最後まで気が付かなかった。 南峰(6930m)が垣間見られる稜線に上がった所でヘラルドが、“ここまで来ればもう大丈夫ですよ”と言わんばかりに、ふくらはぎを笑顔で摩ってくれた。 再び先頭集団から遅れての一人旅となったが、次第に視界には青空の占める割合が多くなり、山頂が近いことが分かった。 山頂直下の岩場を登っていると、ヘラルドがわざわざ私を迎えに下りて来てくれ、「もう山頂はすぐそこですよ」とニコニコしながら優しい目で疲労困憊している私を励まし、ゆっくり一歩一歩足の置場を教えてくれ、待望のゴールに導いてくれた。
午後2時45分、アメリカ大陸で最も高い6959mのアコンカグアの山頂に這いつくばるようにして辿り着いた。 想像していたよりも広く平らな山頂には、写真で見た金属製の丸みを帯びた小さな十字架が立っていた。 「ありがとうございました!、お蔭様で登ることが出来ました!」。 先に登頂した奥田さん・熊本さん・植木さん・晝間さんの4人と交互に力強い握手を交わして登頂の喜びを分かち合い、ヘラルドとビルフィーニャにもお礼の気持ちを伝えながら、力強い握手を交わし合った。 夢にまで見た憧れの山頂だったが、達成感よりも安堵感と疲労が先行し、崩れ落ちるようにその場にへなへなと座り込んでしまった。 写真を撮るエネルギーもすぐには湧いてこなかったが、本能的に座ったまま手の届く所にあった小石をかき集めてポケットにねじ込んだ。 今までずっと風に悩まされ続けてきたにもかかわらず、不思議なことに山頂に吹くアンデスの風は優しかった。 アコンカグアの象徴とも言える、鋭く切れ落ちた純白の南壁が目に飛び込んでくると、ようやく登頂したという実感が湧いてきた。 しばらく呼吸を整えてから、各国のサミッター達が貼りつけたステッカーやペナントで飾りつけられた十字架を入れた記念写真を植木さんに撮ってもらったが、山頂での隊員一同の集合写真が撮れなかったことが本当に残念だった。 夢が叶ったことで気が抜けてしまったのか、しばらく座ったまま何もせずに南壁を眺めながらボーッとしていたが、二度と来ることが出来ない所にいるのだから充分に楽しんでいこうと思い、ヘラルドからチョコレート菓子と凍ってシャーベット状になったジュースを一口もらって鋭気を養い、小広い山頂の縁をぐるっと一回りしてパノラマの写真を撮り、全てが足下になったアンデスの山々を見渡しながら、ここまでの長かった道のりを思い出して一人登頂の余韻に浸った。
午後3時半になっても貫田隊長と稲村さんは頂上に姿を現さなかったので、二人を待たずに下山することになった。 ヘラルドが私のおぼつかない足取りを心配してくれ、アンザイレンしてくれた。 下山を開始した直後にようやく貫田隊長と稲村さんの姿が見えた。 稲村さんは私以上に疲労困憊していたが、貫田隊長に付き添われるようにして登頂寸前だった。 稲村さんに伴走して山頂に戻ろうかとも思ったが、ヘラルドに下山を促されたため、稲村さんを激励してそのまま下山を続けた。 しばらく下っていくと、前を下っていく二人のパーティーの様子がおかしい。 初めは何かのトラブルで喧嘩をしているように見えたが、心配したヘラルドが仲裁に入り状況を訊ねたところ、どうやら一人が高山病にかかり、訳の分からないことを言いだして騒いでいたようだった。 ビルフィーニャが少しでも症状が緩和するようにと力水を与えた。
1時間ほどでザックをデポしたグラン・カナレータ直下の大岩の基部まで下り、ザックに入っていた煎餅をむさぼるように食べ、水をがぶ飲みするとようやく体に力が蘇ってきた。 しばらく歓談しながら休憩し、貫田隊長らを待たずに下山を続けた。 雪渓を通過して長大な砂礫のスロープのトラバースにさしかると、ここから先には登りの時と同じ強い風が吹き荒れていた。 気温が上がったので寒さはそれほど感じなかったが、ジャケットのフードを深く被り足元だけを見て歩かざるを得なかったので、残念ながら登りも下りも周囲の景色を愛でることは出来なかった。 再び風に追い立てられるように休まずに黙々と下り続けインディペンデンシアに着くと、ヘラルドはザイルを解いてからわざわざアイゼンまで外してくれ、笑顔で「フィニート!(やり遂げましたね)」と力強く言った。 ここから先は踏み固められたトレイルを淡々と下るだけなので、登頂の余韻に浸りながら晴れがましく意気揚々とC.3に凱旋したかったが、廣永さんが傍らにいないことや、宮澤さんや淑美さんが登頂出来なかったことが下りの足を登り以上に重たくした。
午後7時前、出発してから13時間ほどで無事C.3のキャンプ地に帰還した。 真っ先にイワンが小走りにトレイルを駆け登ってきて出迎えてくれた。 「パーフェクト!」。 彼の口癖を逆に言ってお礼の固い握手を交わした。 次々に出迎えてくれた宮澤さんと淑美さんが満面の笑みで祝福してくれたが、廣永さんはやはり控え目だった。 廣永さんの気持ちが痛いほど分かり、登頂の喜びも半減してしまった。 緊張感と気持ちの昂りですっかり忘れていたが、長時間の行動で体はすでにガタガタで、テントに戻ったとたんに疲れがどっと出た。 飯塚さんから手渡された熱いスープを口にすると、消耗していた体に少し活力が蘇ってきた。
テントの中で貫田隊長と稲村さんの帰りを待ちながら、廣永さんにグラン・カナレータの直下で励ましの言葉も掛けることが出来なかったことを詫びると共に、自分の実力の無さをあらためて嘆き、自分を責め続けた。 もしあの時の自分に余裕があれば、きっと廣永さんも山頂に立つことが出来たに違いなかった。 午後8時過ぎに貫田隊長が各テントを回り、私達を労いに来てくれたので、稲村さんも無事下山出来たことが分かった。 貫田隊長の話では稲村さんは下山中に高山病(視野狭窄)で目が見えなくなってしまい、下りも大変苦労したようだったが、今はテントの中で静養しているので心配は要らないという。 テントの中で簡単に夕食を済ませ、祝杯を上げることもなくシュラフに潜りこんだが、疲れ切っていたにもかかわらず、後悔の気持ちに苛まれてなかなか寝つけなかった。
1月8日、夜半から再び風が強まり、今日単独で山頂を目指すことになった飯塚さんが出発する午前6時頃には、かなり強い風が吹いていた。 C.3でこの強さであれば稜線には爆風が吹き荒れているのは必至だったので、兄貴分の奥田さんも「風が強いので恐らく彼は登っていないと思いますよ」と予想していたが、念のため無線で呼びかけたところ、予想に反して飯塚さんは果敢にも強風の中を出発していたことが分かった。 さすがにエベレストを目指している若者は根性が違うと、あらためて感心させられた。
遅い朝食を食べ、C.3からの最後の景色を堪能し、テントを撤収して正午前に約1500m下のB.Cへ下った。 今日も風が強いが快晴の天気だ。 B.Cへ無事戻れる嬉しさか、隊員一同昨日のアタックの疲れを感じさせないほど足取りは軽い。 稲村さんは幸いにも高山病はすっかり治ったようだった。 C.2のニド・デ・コンドレスで一服し、C.1のキャンプ・カナダを経由しないで直接B.Cへ下るルートをとった。 しばらくすると飯塚さんが無事登頂を果たし、もう後ろから追いついてきた。 C.3からの山頂往復は8時間だったという韋駄天ぶりに皆で仰天した。 さらに驚いたことに、稜線上に風は殆ど無かったという。 アンデスの風は本当に気まぐれだった。 C.2からB.Cの間は“砂走り”も含め、いく通りものトレイルがあるが、偶然にも昨年の秋に女性最高齢でチョ・オユーに登った内田さんのパーティーとバッタリ出会った。 淑美さんが知り合いということで気が付いたようだが、海外では思わぬ所で思わぬ人に出会うことが意外に多い。
午後3時にB.Cに下山。 6日ぶりに戻ったB.Cにはテントの数がさらに増え、活況を呈していた。 貫田隊長の話では、私達を含めた外国人は新年の休みを利用して登りにくるが、地元では新年を家族と共に過ごし、その後に続く夏休みを利用して登りにくるとのことだった。 6日ぶりに着替えを行う。 1回10ドルの簡易シャワーもあったが、埃まみれの世界に体も順応したようで、それほど利用する気にはならなかった。 常設テントでささやかな打ち上げを行ない、常備品のシャンパンを抜いて景気よく乾杯し、地元産のワインとビールであらためて祝杯を上げた。 体も高度に充分順応しているのでアルコールも全くOKだ 明日、明後日と打ち上げは続くだろうが、こういう酒宴は何度あっても良い。 スープ、湯豆腐の前菜に続いて、コルフェリーナ嬢の手の込んだ肉料理が運ばれてくると一同大いに盛り上がり、今朝までの貧しい食生活から一変した贅沢三昧の世界となった。
1月9日、アコンカグア探訪の旅も今日で終わりだ。 今日も快晴の天気だったが、いったいこの天気はいつまで続くのだろうか。 異常気象なのか、それとも今の季節はこれが当たり前なのだろうか。 朝寝坊して遅い朝食を食べてから、テントの周りで山々を眺めながら写真を撮っていると、昨日B.C入りしたという単独行の学生さんに登頂ルート等について聞かれたので、体験談を交えながら出来る限りのアドバイスをした。 登山ツアーで連れてきてもらった私と違い、食料から何から全て自力で担ぎ上げたそのチャレンジ精神には本当に頭が下がると同時に、ある種の羨ましさを感じた。 当初の予定では、B.Cから登山口までの約30kmを歩くことになっていたが、「ムーラに乗りましょう」という貫田隊長の甘い誘いに、なぜか私以外の全員が迷わず賛成した。 ムーラのスピードには叶わないので、多数決の原理に従うことにした。 山頂では叶えられなかった隊員とスタッフ全員の記念写真を撮り、テントキーパー達に別れを告げ、正午前にムーラの待つ旧B.Cへ向かった。
B.Cから一段下がった旧B.Cの朽ちた廃屋の前に十数頭のムーラの一団が集合し、いよいよ騎乗することになった。 馬方は隊員一人一人の体格に合ったムーラを中から選び、乗り方と手綱の操り方だけを簡単に手振りで説明しただけで、遠慮がちな隊員達を次々に鞍の上に乗せていく。 予想していたマンツーマン形式ではなく、4頭に1人の割合で馬方の見張りがつくというものだった。 最初はおっかなびっくりだったが、しばらくすると慣れてきて肩の力が抜けてきた。 手綱の操り方で進行方向が微妙に変わることも会得したが、周りを見渡すとムーラも人間と同じように様々な性格があるようで、乗り手の意志を忠実に遵守する者、なかなか言うことを聞かない者、前を歩くムーラの後だけを忠実に辿る者、集団を嫌いマイペースで進む者などがいることが分かった。 稲村さんの乗ったムーラが一番の暴れ馬で、途中から一番手慣れている奥田さんが交代したが、こともあろうにしばらくすると突然疾走して、奥田さんを振り落としてしまった。 幸いにも奥田さんに怪我はなかったが、他の人だったら大怪我をしていたに違いなかった。 私の乗ったムーラは乗り手に似たのか、手綱を緩めるとすぐにトレイルを外れたがり、勝手に高い所に登っていってしまう変わり者だった。 彼は何度かトレイルの脇の急斜面を登り、下に向かって駆け下りたりして、私を充分に楽しませてくれた。 コンフルエンシアのキャンプ地の手前でオルコネス川の濁流をムーラに乗ったまま渡ることとなったが、1m近い水深の川床を安定した足取りで渡渉していく乗り心地はとても痛快だった。
午後6時半、登山口のレンジャーステーションに全員無事到着した。 途中30分ほど昼食のために休憩しただけで、正味5時間も鞍の薄いムーラの背中に跨がっていたため、お尻の皮が見事にむけてしまった。 アコンカグアへの道を完歩することは出来なかったが、1人120ドルの乗車賃も決して無駄ではなく、貴重な経験となった。 レンジャーステーションから後ろを振り返ると、そこには入山した時と全く同じように、アコンカグアの堂々たる雄姿が青空の下に鎮座していたが、たった2日前にあの神々しい峰の頂に立ったことが、未だに信じられない思いだった。 遙かなるアンデスの高嶺に確かな足跡とほろ苦い想い出を残して、私のアコンカグア登山は終わった。 下山後はペニテンテスのロッジやサンチァゴの町で、苦楽を共にした隊員達と度重なる祝杯を上げたことは言うまでもない。