6月2日、AAI社のガイドと共にタルキートナにある同社の大きな倉庫に行き、全ての衣類と装備品の点検を受ける。 少しでも軽量化した方が良いということで、嗜好品や着替え等は最小限に抑えるように指示があったが、逆にオーバー手袋、ダウンジャケット、寝袋、マット、登山靴などは軽くて薄いものは駄目との指摘を受け、不合格となった装備品は半ば強制的に同社のものをレンタルさせられた。 点検が終ると、クレバスからの自己脱出についての実技テストがあり、事前の講習会での訓練の成果を披露することとなった。
タルキートナのメインストリートにある有名な『マッキンリー・ピザ』で昼食のピザを食べ、国立公園管理事務所(レンジャーステーション)で事前の登録申請とのチェックを受けてから入園料を支払い、登山と環境に関する制約事項、特に排泄物の処理についてのレクチャーをレンジャーから受ける。 ここでCMC(クリーン・マウンテン・カン)という排泄物を入れるプラスティックの容器を一つ渡される。 途中何箇所か指定されたクレバスには捨てることが出来るが、アラスカの自然と環境を守る観点から、原則は全てを持ち帰ることが望ましいらしい。 掲示板には今シーズンのマッキンリーへの入山予定者は1170人で、現在までの登頂率は44%と表示されていた。
その足で町外れの小さな飛行場へ向かう。 タルキートナから約100キロ離れたマッキンリーまで人跡未踏の森や谷や氷河の全てを踏破するのは非現実的なので、全ての登山者はセスナを使ってのアプローチとなる。 気象条件の厳しい山域を飛び、氷河の滑走路に降り立つセスナは、必然的に天気により運行が左右されるため、タルキートナで2〜3日足止めを食うことも珍しくないらしい。 当日の天気は薄曇りだったが、2機のセスナをチャーターし、待ち時間なく乗ることが出来た。 これも地元のAAI社に依頼しているお陰に他ならなかった。 一人当たり約50キロの荷物を積み込み、初めてセスナの助手席に座る。 いよいよ憧れのマッキンリーに向けての出発だ。 エンジンの音と振動が、期待と不安で高鳴る心臓の鼓動とシンクロしている。
あっという間に離陸したセスナの機上からは、氷河からの白濁した水が流れる川や、真っ青な無数の小さな湖沼・緑の森・残雪の山々が眼下に一望され、目線の高さには視界一杯に無数の氷河の山々が遠望された。 そのほぼ中央に山頂を雲で隠した大きな山があり、すぐにそれがマッキンリーだと分かった。 “この雄大なアラスカの景色を機上から淑子さんも目に焼き付けたことだろう”。 今回の山行はまさに淑子さんの足跡を辿ることが目的だが、のっけからその一端に触れることが出来たような気がした。 セスナは時速100キロ以上の速さで飛んでいるはずだが、山のスケールが大きいため遠くの風景がなかなか変わらず、まるでセスナが止まっているかのような錯覚を覚える。 眼下に温暖化で後退した氷河が見え始めると、ようやく高い山々が間近に迫ってきた。 時折横風が強く吹くと、機体が一瞬ふらっと揺れる。 コックピットの高度計は3000m辺りを指していた。
30分ほどの刺激的なフライトを終え、私達を乗せたセスナは幅の広いサウスイーストフォーク・カヒルトナ氷河に下から坂道を登るような格好で着陸した。 ここがマッキンリーの実質的な登山口となる標高2134mのランディング・ポイント(L.P)だ。 緑濃い長閑なタルキートナの集落とは全くの別世界となった純白の氷河の真っ只中のL.Pには、東南の方角に秀峰ハンター(4441m)が屹立し、登山口としては充分過ぎるほどの迫力のある景観を誇っていた。 温暖化の影響か、陽射しは弱いが想像に反してL.Pはとても暖かく、今日から2週間以上この雪と氷だけの世界に身を置くことに対する緊張感を和らげてくれた。 前のパーティーが使っていたテント場の跡地をスコップとスノーシューで整地し、AAI社が用意したテントを4張り立てる。 風雪に耐えられるように複雑な構造をしたテントの設営は、初めてということも手伝って1時間以上かかった。 登山に関するタクティクス(戦略)は全てAAI社及びそのガイドが決定するが、食事についても同社が用意した食材を使ってガイドが作るようだ。 まるで大名登山のようで楽だが、逆に時間を持て余し気味だった。 テントは日本の規格では3人用だが、今日は栗本さんと二人で使う。 栗本さんは今回の男性隊員の中では最高齢(58歳)だったが、モチベーションも一番高く、その点は本当にありがたかった。
入山2日目(6月3日)、今日も薄曇りの天気だった。 昨日スムースに入山出来たにも係わらず、意外にも今日は休養(順応)日だとガイドから指示があった。 昼前に気温が上がってきたところで、ピッケルを使っての基本動作と滑落停止の訓練、ソリの曳き方とクレバスから引き上げる訓練を行い、さながら登山教室のような雰囲気だった。 出発前に各人の登山技術をガイドたちが知りたかったのだろう。 マッキンリー登山の一般ルートの『ウエストバットレス・ルート』は技術的には易しいと言われているが、高い山では天候等の条件次第で状況が一変するからだ。 夕方になってようやく神々しいマッキンリーの頂稜部が初めて望まれ、その雄姿に隊員一同の目が釘付けとなった。 ここからの標高差は4000mほどだが、それ以上にその頂との距離を感じた。
入山3日目(6月4日)、この時期のアラスカは白夜なので、夜中でもヘッドランプが不要なほど明るい。 この特異な気象条件はアプローチからアタックまでのマッキンリー登山のタクティクスに充分活かされているようで、次のキャンプ地のC.1へは陽射しがあると暑い昼間の行動を避け、真夜中に起床して未明に出発することになった。 ザックには個人装備が約15kg、ソリには個人装備の他、テント・食糧・燃料等30kg近くの荷物を積み、腰(ハーネス)ではなくザックにロープを結んで引っ張る。 さらにメインザイルでガイド1名と隊員2名がアンザイレンし、スノーシューを履いて歩くため、まるで奴隷のように全く身体の自由が利かない。 このようなスタイルの登山は今まで経験したこともなく、また今後も滅多に経験することはないだろう。 身分は大名から一変して足軽のようになった。
L.Pからは緩やかな下りがしばらく続いたが、前の人が曳くソリが自分にぶつからないように、後ろから前の人のソリをコントロールしなければならず、慣れていないことも手伝って結構これが大変だった。 早朝までは青空が覗いていたが、その後は終始曇りがちの天気となり、氷河上は次第に深い霧に包まれていった。 素晴らしい氷河からの景色を愛でることは出来なかったが、雪が固く締ったままの状態で行動出来たため、1時間に1回程度の休憩を挟み5時間少々で、風除けの雪のブロックに囲まれた各隊のテントが並ぶC.1(2350m)に着いた。 C.1といっても特に決まった場所にあるわけではなく、だだっ広い氷河のど真ん中の平らな場所がC.1となるようだ。 小雪が舞う中、ブロックは積まずに整地だけをしてテントを4張設営する。 テントは今日も栗本さんと二人で使ったが、結局栗本さんとは最後まで一緒のテントだった。 C.1からは巨大なパラソルのようなキッチンテントを設営した。 キッチンテントには床がなく、雪面を1mほど掘り下げてテーブルや椅子を雪で作る。 夕食は梶山隊長がフライパンで日本から持参した餅を焼いてくれたが、これが実に美味しかった。
入山4日目(6月5日)、次のキャンプ地のC.2へ今日も未明に出発したが、のっけから濃い霧に包まれてしまった。 晴れていればこの辺りからマッキンリーの頂稜部とその登攀ルートのウエストバッドレスが良く見えるはずだが、昨日と同じように写真の被写体が終始見当たらず、重い荷物に辟易しながら黙々と奴隷のよう進むだけだった。 各人を繋ぐザイルの間隔は15mほどあるため、会話をすることも出来ない。 斜面の勾配は昨日よりも少し急になり、途中からスノーシューのクライミングサポートを上げて登る。 休憩を挟んで4時間少々登った通称『スキー・ヒル』と呼ばれる所で急に霧が晴れ、初めて氷河からの素晴らしい景色を見ることが叶った。 後続のパーティーとの差が開いてしまったため、しばらく足を止めて周囲の雄大な風景の写真を撮る。 そこから1時間ほどでC.2(2850m)に着いたが、天気が良くなったので煩雑なテントの設営も苦にならなかった。 昨日のC.1と同様に、C.2もだだっ広い氷河のど真ん中の平らな場所で、氷河とその周りを囲む純白の山々が創り出す極地の風景に、ただ溜息をつくばかりだ。 L.Pからは近すぎて山頂が見えなかった秀峰ハンター(4441m)がその全容を惜しみなく披露している。 風もなく暖かいので、キッチンテントでコーヒーやお茶を飲みながら寛ぐ。 荷上げは本当に辛いが、氷河のアプローチ区間でのテント生活は楽しいものだ。
入山5日目(6月6日)、今日は通称『デポキャンプ』(D.C)と呼ばれる次のキャンプ地を目指す。 早朝はカヒルトナ氷河を挟んで対峙するカヒルトナ・ドーム(3818m)とカヒルトナ・ピーク(3912m)にも朝陽が当たり、好天の兆しが感じられたが、結局今日も行動中はずっと曇天で、途中からは霧も濃くなった。 もちろん周囲の風景はろくに見えず、昨日と同じように黙々と重荷を背負って奴隷のように歩き続ける。 最後の1ピッチではホワイトアウト寸前の状態になったことで、2時間も休まずに歩き続けたため、ザックが肩に食い込んで発狂しそうになったが、ザイルとソリで体をがんじがらめに縛られているため、一瞬たりとも足を止めることは出来ない。 自分一人だけではなく、他のメンバーも同じように頑張っていることだけが唯一の心の支えだった。 先行していた紅一点の竹下さんの歩みが捗らなくなり、途中でこのパーティーを追い越すことになった。 中高年の女性にはこの荷上げは体力的に相当厳しいだろう。 当時55歳だった淑子さんも良くこの荷上げの辛さに耐え、頑張ったものだとあらためて感心する。 まさに今日は雪中行軍という感じだ。
小雪の舞う中、デポ品を埋めた目印の竹竿やスキー板が乱立するD.C(3350m)に着く。 C.2からは4時間の行動だったが、最後の1ピッチが長かったことでへとへとに疲れ、テントを設営する気力もなくソリに積んだ荷物の上に座り込んで頭を垂れていた。 さすがに若い細江さんや徳田さんも疲れた様子だった。 ガイドのデビットが周囲にブロックが積まれた空のテントサイトを見つけてきてくれたので、整地をしてからテントを設営する。 煩雑なテントの設営も今日で3回目となりだいぶ慣れてきた。 意外にもデビットから明日は荷上げを行わず、休養(順応)日にするという指示があった。 嬉しい反面、アタックの予備日が1日減るので複雑な心境だ。 ベースキャンプ(M.C)に上がる前に完全に体を高度に順応させるのがAAI社のタクティクスなのだろう。 L.PからD.Cまで終始天気には恵まれなかったが、セスナでのアプローチにも無駄がなく、あらためてここまでの順調さを実感した。
入山6日目(6月7日)、今日は図らずもD.Cでの休養日となったが、一日中雪が降り続いていたので気温は上がらず、また午後からは激しく降り積もったので、時々テントの外に出て雪かきをしなければならなかった。 快適に休養日を過ごすことは出来なかったが、もし今日行動していたら昨日以上に休憩も出来ず、悲惨な目に遭っていたに違いないので、結果的には休養日に相応しい日となった。 気象条件の厳しいアラスカの天候が、今日の天気を境にどちらに転ぶのかは神のみぞ知るところだ。 いずれにしても今回の登頂の成否については、淑子さんが歓迎してくれれば叶うだろうし、もしそうでなければ叶わないという考えは入山前と変わらなかった。 狭いテントに押し込められていたものの、同室の栗本さんと山のよもやま話しなどをしていると退屈なこともなく、ストレスを感じることは全くなかった。 ただ、凍傷の前兆なのか手の指先全部が紫色に変色しているのが唯一の気掛かりだった。
マッキンリー登山はセスナの着陸地点のランディングポイント(L.P)からの下部の長い氷河のアプローチ(C.1〜D.C)と、通称『メディカルキャンプ』(M.C)と呼ばれるベースキャンプ(4330m)から上部の雪稜の登攀の2つのステージに分かれている。 『デポキャンプ』(D.C)は各登山隊が長い氷河のアプローチを終え、M.Cに上がる前に不要となった装備(スキー・スノーシュー・ソリ等)と帰路の食糧と燃料をデポ(雪の中に埋めていく)することからネーミングされたものだ。 そしてこのD.CとM.Cとの間には悪名高い『ウィンディー・コーナー』と呼ばれる風の強い場所がある。 この時の強烈な体験談については以前淑子さんからも直接伺った記憶があるが、その当時は全くの他人事だと思っていたことは言うまでもない。
入山7日目(6月8日)、まだ幸運が続いているようで、雪は止んで薄日が射していた。 今日は次のキャンプ地のM.Cに上がるための高所順応と荷上げを兼ねて、ここから標高差で750mほどの所にあるデポ地点まで往復することとなった。 目の前には『モーターサイクル・ヒル』と名付けられたスキー場のスロープのような緩く広い斜面があり、そのほぼ中央部に一筋の明瞭なトレイルが先行パーティーによってつけられていた。 荷上げがなければ短時間で標高が稼げそうな快適なトレイルだが、モーターサイクル・ヒルの上から右へ進路を変え、しばらく稜線を登った先にそのウィンディー・コーナーがある。 その名のとおり、地形的に風の通り道となっている所だ。
今日はこれまでとは違って遅い出発になった。 これからは寒さに合わせて気温が上がる時間帯に行動するというわけだ。 昨日の降雪による雪の抵抗を考えてソリは使わず、アタック時に用いる羽毛服や手袋、オーバーシューズ等の個人装備と食糧をザックに詰め込み、登山靴にアイゼンを着けてダブルストックで登る。 ザックの重さは20キロほどだが、ソリとスノーシューが無いだけで何かとても身軽になったような気がする。 D.CからM.Cまでのボッカは荷物を分散して運ぶので、昨日までの荷上げより楽かも知れない。 問題はウィンディー・コーナーの通過だ。
モーターサイクル・ヒルへ上がるトレイルは上部に行くほど見た目よりも急になったが、歩くペースはそれほど速くないので問題無い。 それよりもウィンディー・コーナーの風の脅威が常に頭の中を支配していた。 モーターサイクル・ヒルへは1時間足らずで着いた。 絶好の休憩場所と思われたが、風が少し出てきたため先頭のエイ・ジェイは足を止めることなく前へ進んだ。 モーターサイクル・ヒルは幅の広い尾根の末端という感じで、その先の斜面は進行方向に向けて左側に傾斜していた。 ソリを使った場合には、必然的に左側の斜面にソリがずり落ちるため、やっかいだろう。 天気は悪くないが雲が多く、晴れているという感じではない。 風は次第に強まっていったが、マッキンリーではまだそよ風くらいだろう。
上に行くにつれてさらに強まると思われた風は弱まり、左側への傾斜が緩まった場所でようやく休憩となった。 振り返ると、だだっ広いカヒルトナ氷河から屹立するカヒルトナ・ドーム(3818m)が目線の高さになり、ようやく景色が立体的に俯瞰されるようになった。 前方には両側から岩峰が迫るウィンディー・コーナーの入口と思われる峠のような所が見えた。 ここからは傾斜もだいぶ緩やかになり、再び風が強まらないことを祈りながら、だんだんと肩に食い込んでくるザックの重さに耐えながら再び黙々と登る。 最初に見えた峠のような所まで登ると傾斜はさらに緩くなり、その先にはまた同じような景色が見えた。 1時間以上登り続け、再び傾斜がきつくなり始めた所で、落石に備えてヘルメットを被る。 前方に見える顕著なコルがウィンディー・コーナーの入口だった。
間もなくウィンディー・コーナーにさしかかると、一時吹き止んでいた風が再び吹き始めた。 ジャケットのフードを深く被り、頭を垂れて足元だけを見ながら歩く。 入山以来初めてルート上に岩の地肌が見えた。 風で雪が飛ばされているのだ。 雪と氷の塊のように思えたマッキンリーもその下には岩があったと妙に感心した。 ルート上の所々に蒼氷が見られ、見ているだけで寒々しかった。 幸いにも風は時折風速10m以上吹くこともあったが、それ以外はウィンディー・コーナーにしては通常よりも弱めで、耐風姿勢を取ることもなく、僅か数10分で無事通過することが出来た。
ウエストバットレスの側壁に沿って左に回りこむと視界は広がり、前方に大きな山の塊が霧の中にぼんやりと見えた。 マッキンリーの頂稜部だろうか?。 間もなくD.Cから4時間半ほどで標高約4100mのデポ地点に着いた。 梶山隊長の話ではここからM.Cまでは1時間半ほどの行程とのこと。 デビットとエイ・ジェイと梶山隊長が素早くスコップで深さ1m・直径2mほどの穴を掘り、皆で担ぎ上げた荷物を埋めた。 その間も霧は上がらず、残念ながら山頂方面の景色はお預けだった。
しばらく休憩してから空身でD.Cへ下ったが、帰りもウィンディー・コーナーの風が弱くて助かった。 明日もこの程度の風であれば幸いだが、今日のようにまた淑子さんが守ってくれるだろうか。 荷物のない下りはまさに極楽だ。 天気は次第に下り坂となり、D.Cに着く頃には再び小雪が舞い始めたが、デポ地点から僅か1時間少々でD.Cに着いてしまった。 夕食前のミーティングで私達の登山隊の名称が私の発案で『チーム・カミカゼ』と決まり、M.Cからの本格的な登山活動でこの名称が無線交信や各方面との連絡で公式に使われることになった。
入山8日目(6月9日)、いよいよ今日は次のキャンプ地の通称『メディカルキャンプ』(M.C)に上がる。 夜中の雪は積るほどではなかったが、まだまだ天候は安定していない。 今は雪も止んで、上空には僅かばかりの青空も覗いているが、カヒルトナ・ピークには笠雲が取り付き、天候の悪化を告げている。 モーターサイクル・ヒルの上にも不気味な雲が湧き上がっている。 しかしながら、ここまで隊員一同の体調はとても良く、高山病の症状があったり風邪をひいている人は誰もいない。 唯一私の指先の色が紫色に変色したまま治らないのが玉に傷だ。
のんびりムードで朝食を食べてから、荷物を整理してテントを撤収し、スノーシュー等のデポ品を埋め、正午前にようやく出発となった。 天気は朝方より少し回復し、昨日よりはだいぶ良くなった。 デビットとエイ・ジェイだけが空のソリを重ねて曳く以外は、昨日と同じ20キロほどの荷物をザックに背負うだけだ。 ウィンディー・コーナーの風の心配を除けば、ほぼ昨日と同じスケジュールでM.Cに行けるはずなので気は楽だ。
幸運なことに今日も風は弱く、また次第に青空が広がり始めたので、太陽の陽射しが身も心も暖めてくれる。 有難いことに今日も淑子さんのご加護によりウィンディー・コーナーの風は弱く、相変わらず荷物の重さにだけは閉口するが、昨日同じD.Cから4時間半ほどでデポ地点に着いた。 前方にはウエストバットレスの雪と岩の巨大な壁が威圧的な面持ちで聳えていた。 しかしながら、まだここからは山頂は見えなかったことが後で分かり、あらためてこの山のスケールの大きさを知った。
意外にもデポ地点ではスコップ等のギアの一部をピックアップしたのみで、埋めた荷物をソリで運び上げることはなかった。 梶山隊長から、明日M.Cから有志で“逆ボッカ”をする旨の説明があった。 デポ地点からM.Cへは標高差で250mほど緩やかにひと登りするだけとなったが、先行していた竹下さんのペースが上がらなくなり、途中から栗本さんと私の小隊が先行し、デポ地点から1時間半ほどで待望のM.Cに着いた。 インターネットの情報どおり、M.Cには沢山のテントと各国から訪れている大勢の登山者で賑わっていた。 日本人のパーティーの姿も散見されたので、後続隊がM.Cに着くまでの間に栗本さんと情報交換に伺うと、宇波さんと本多さんという方々から、ここ一週間以上ずっと天気が悪く、M.Cでの停滞を余儀なくされているという貴重な話を聞くことが出来た。 ようやく明日から天気が快方に向かうとのことで、明日からハイキャンプ(H.C)に上がられるという。 現在のM.Cの盛況ぶりはこのためだったようだ。
間もなく後続隊がM.Cに到着し、今日の荷上げの終了と『チーム・カミカゼ』の全員が揃ってスタートラインに立てたことを皆で喜び合った。 山頂に辿り着けるか否かは山の神と淑子さんに委ねるしかなかったが、入山前の最低限の目標として何とかM.Cまで行き、淑子さんが感じたその雰囲気や感動を味わい、またその風景を見たいと願っていたので、スタートラインと言えども本当にここまで来れて良かったと思った。
ウエストバットレスの懐に抱かれたM.Cは広い雪原の中にあり開放感に溢れている。 L.Pでは遥か高く見上げていたハンター(4441m)が目線の高さになり、カヒルトナ氷河を挟んで鎮座しているフォレイカー(5304m)にも威圧感がなくなってきた。 テントサイトの整地とブロック積みを行うが、あまり良い場所ではなかったので、現在M.CにいるAAI社の第2次登山隊(私達は第3次)が明日H.Cに移動した跡地にテントを移設させることとなった。 整地とブロック積みで体は温まったが、夜8時を過ぎるとM.Cの背後のウエストバットレスに太陽が遮られてしまい、とたんに寒くなった。 明日のテントの移設を考えてキッチンテントは設営せず、肩を寄せ合いながらテントの外で夕食を食べた。 明日から天気が好転する兆しなのか、時間が遅くなるにつれて空の色は青みを増した。 夜10時でも真っ青だ。 単に天気が良くなったということだけでなく、高度が上がったことにもよるのだろう。 明日以降の天気はどうなるか分からないが、ここまで辿り着けた達成感と安堵感に浸りながらテントの脇で仁王立ちし、入山以来初めて見た紺碧のアラスカの空とウエストバットレスの白い山肌を眺めながら一人悦に入った。 当時の淑子さんはきっとそれ以上の想いがあったことだろう。
入山9日目(6月10日)、昨夜は入山以来最も冷え込みが厳しく、テントの中の気温はマイナス14℃で尿瓶の中身も凍っていた。 我慢出来ないほどの寒さではなかったが、寒さに弱い私にとってはこれから先のことが思いやられる。 今日は休養(順応)日だ。 M.Cは傍らに巨大なウエストバットレスの雪壁があるため、風も弱いが陽が当たり始める時間も遅い。 すでに未明から空は明るいが、テントサイトに陽が当たり始めるのは朝の9時半頃からなので、M.Cでの滞在中はこの時間からが活動の開始時間となる。
今日は昨夜から続いている快晴で、素晴らしい紺碧の空の下にハンター(4441m)やフォレイカー(5304m)の雄姿を眺めることが出来た。 そんなお気楽な感情とは無縁に、悪天候のためずっとM.Cで停滞を余儀なくされていた大勢のパーティーが一斉にウエストバットレスの稜線を目指して登って行く姿が見られた。 稜線に上がるルート上には明瞭なトレイルが印され、上部のフィックスロープが張られている場所も手に取るように分かった。 先頭はすでにここから2〜3時間ほどの稜線に着き、フィックスロープの手前で順番待ちしているパーティーを含めるとルート上には50人以上の人が見られ、さらにこれから荷上げに出発するパーティーも大勢いた。 途中の大きなクレバスの下にはスキーのシュプールが沢山見られた。 荷上げに使ったスキーで遊んだのか、初めからスキーが目的だったのかは分からないが、本当に外国人は遊び上手だとあらためて感心する。 嬉しいことに私のみならず隊員一同の体調はM.Cでも良好で、梶山隊長が初めてパルスオキシメーターで血中酸素飽和度を計測すると、いつも低数値という竹下さんを除いて皆90前後もあり、ここまでの順応が上手くいったことを物語っていた。 もちろん食欲も旺盛だ。
朝食後は逆ボッカチームとテント移設チームに分かれて行動する。 若い徳田さんや細江さんと共に逆ボッカチームに指名され、テント移設組に見送られてウィンディー・コーナー上部のデポ地点に荷物を取りに下る。 今日は風も無く、アタック日がこんな天気だったら嬉しくなるような登山日和だ。 正面にフォレイカーを終始望みながら、鼻歌交じりに下って僅か30分ほどでデポ地点に着く。 荷物は20キロを少し超えるくらいで、ここ数日から見れば驚くほどの重さではないが、精神的には逆ボッカは疲れる。 今日は天気が良いので本当に助かった。
1時間少々の苦行でM.Cに戻ることが出来たが、しばらくの間はザックの上に腰を下ろして動けなかった。 テント移設チームによって設営されたテントやそれを囲む雪のブロック、そしてキッチンテントは正に磐石の構えで、B.Cとして相応しいものに仕上げられていた。 結露で濡れたシュラフやシュラフカバーをテントの上で干し、夜の寒さに備える。 話には聞いていたが、陽射しがあって風のないM.Cは正に天国だ。 ただ、指先の変色が治らないことが唯一の気掛かりだった。
夕食後のミーティングで、デビットから明日は休養を兼ねてユマール(登高器)を使っての登下降と、確保支点へのメインザイルの掛け替えの訓練を行うとの指示があった。 個人的には明日荷上げを行って、明後日を休養日にしてくれた方が良いと思ったが、全てはこの山のことを知り尽くしたデビットに任せるしかない。 紺碧の空の色はますます濃くなり、明日も快晴の天気となることを予感させた。
入山10日目(6月11日)、夜の冷え込みはそれほどでもなく、快適に眠ることが出来た。 早朝は青空がほんの少しだけ覗いていたが、予想に反して天気は曇りがちだった。 この天気では昨日H.Cに上がったパーティーも頂上へのアタックはしないだろう。 デビットはこの天気を予測していたのだろうか?。 昼前から雪が降り始め、図らずもテントの中での休養を余儀なくされた。 雪が小降りになったところを見計らって、少し離れた場所にあるメディカルセンターを訪ねてみる。 名前の響きとは裏腹にメインのテントの内部はとても簡素で、目立った機材は殆ど無く、3〜4人のレンジャーが中でお茶を飲みながら歓談していた。 入口にあった天気予報の掲示板には、低気圧に覆われているため今日も明日も曇りがちだと記されていた。 昨日の好天は山の神の気まぐれだったのだろうか?。
昼食後しばらくすると雪が止んだので、テントの傍らにスノーバーを打ち込んで長方形にザイルを張り、オーバー手袋やミトン等をしてスピーディーにユマールを操作する練習と、スノーバーの先に付けたカラビナを確保支点に見立て、メインザイルを掛け替える練習を繰り返し行った。 天気も僅かばかり快方に向かっているように見えたが、果たして明日は予定どおりH.Cへの荷上げに行けるのだろうか?。
入山11日目(6月12日)、メディカルセンターの天気予報ははずれ、足下のカヒルトナ氷河は厚い雲海の下で見えないものの、上空は早朝から快晴の天気になった。 まだM.Cにこれだけのパーティーがいたのかと思うほど、H.Cを目指して登るパーティーは多い。 いよいよ私達も今日からが本番だ。 荷上げとは言え、未知のルートに対する期待と不安とが交錯している。 1シーズンに2回マッキンリーをガイドしているデビット達は全く慌てるそぶりもなく、出発は10時半を過ぎてしまった。 今日の荷上げはアタック時に使う衣類等の個人装備と食料や燃料で20キロ弱だ。 強烈な陽射しで体感気温は上昇し、途中でジャケットを脱ぎたくなるような暑さになった。 前を登るパーティーの歩みが遅いため、所々で立ち止らなければならなかったが、AAI社の方針なのかこの山での暗黙のルールなのか、トレイルを外して追い抜くことはしなかった。 M.Cから指呼の間に見えたフィックスロープの取り付きまで2時間たっても着かず、ザックが肩に食い込んでくるが、休憩せずに我慢して登る。 水筒はザックの中なので、何度もストックで雪を拾いあげて口に含む。 スローペースだが、本当に高所に順応しているのかと疑いたくなるほど足が重い。
ようやくフィックスロープの取り付きに着き、順番待ちを兼ねた休憩となる。 ここからストックをピッケルとユマールに持ち替えるため、周囲には沢山のストックがデポしてある。 意外にも、取り付きに皆より少し遅れて到着した竹下さんに、デビットが梶山隊長を通じて下山を勧める提案をした。 本人も他の隊員一同もデビットの突然の発言に驚いたが、とりあえずまだ今日は荷上げなので、パーティーのメンバー構成を急遽代え、梶山隊長と竹下さんと私とでパーティーを組み、最後尾でフィックスロープの登攀をすることとなった。 最高齢の女性のため、荷物の重さが原因なのだろう。 思わず同じような境遇だった淑子さんにその姿をダブらせる。 しかしながら私自身も精一杯なので、それを助けるだけの余裕がないことが悲しい現実だ。 フィックスロープの直前で3日前にM.Cで出会った本多さんと宇波さん夫妻が相次いで下山してきた。 すれ違い際に本多さんから宇波夫妻共々無事登頂されたとの朗報を聞き、登頂を祝って見送った。
フィックスロープに取り付くと、霧のため周囲の状況が良く分からなくなってしまった。 天気は再び悪くなってしまうのか?。 昨日の練習どおり、前を登る竹下さんと「スタート!、ストップ!」とコールを掛け合いながら、左手でユマールの掛け替えを繰り返し、右手のピッケルはダガーポジションで急な雪壁を登って行く。 ロープの一部は凍っているため、ユマールが全く利かない時がありもどかしいが、足場がそれなりに出来ているので不安は感じなかった。 総延長が200m以上あると言われるフィックスロープを1時間以上費やして登り、M.Cから4時間余りでウエストバットレスの稜線上のコル(4940m)に躍り出た。 稜線上では風が強いことを覚悟していたが、予想に反して風は殆どなくラッキーだった。 しばらく稜線を登った先で先発隊が休憩していたが、私達のことを30分近くも待っていたとのことで驚いた。 再びデビットは梶山隊長を通じて、竹下さんにここからエイ・ジェイと共にM.Cに下ることを強く勧めた。 背負っている個人装備をデポしたり、他の隊員に振り分けることもしなかったので、事実上竹下さんの山頂アタックが出来なくなってしまい、隊員一同とても辛い気持ちになったが、一番辛かったのはもちろん彼女自身だったに違いない。
エイ・ジェイと一緒にM.Cへ下山することになった竹下さんに見送られて先へ進むが、荷物の重さだけではなく、心まで重たくなってしまった。 デビットの説明では今日はH.Cまで上がらず、ここから稜線を1時間ほど登った所で荷物をデポするとのこと。 ウエストバットレスの稜線は所々が岩場となっていたが、インターネットの情報どおり、新雪直後とか風が強いという悪条件の場合以外では全く難しくなく、重い荷物が無ければストックだけでも登れそうな感じだった。 しかし、5000mを越える高度と肩に食い込む重い荷物はそれを許さない。 相変わらず霧のため視界は悪く陽射しもないが、風が無いことが本当にあり難い。 荷物の重さに辟易しながらも、今後の天気次第では今いる所が正に“最高到達点”になってしまう可能性があるので、一歩一歩に思いを込めて登る。
このルートの初登頂者の名前を冠した『ウォッシュバーン・サム』という顕著な岩塔の手前のちょっとした平坦地がデポ地で、先ほどのコルから1時間半ほどでようやく今日の苦行(荷上げ)も終った。 私達が休憩している間にデビットと梶山隊長がデポ用の穴を素早く掘り、個人装備と食料や燃料をデポした。 時間はすでに夕方の5時半になっていたが、空身での下山は本当に極楽そのもので、あっという間にコルまで下った。 しかし、その先のフィックスロープの下降は、初めての経験ということも手伝って意外と難しく、最後の下山時に重い荷物を背負って下る時のことが思いやられた。 M.Cに近づくと雪が舞い始め、あっという間に数センチ積った。 天気はまだ安定期に入っていないのかと落胆したが、夜の9時を過ぎると再び朝と同じくらいの青空になった。 本当にアラスカの山の天気は気まぐれだ。
夕食後のミーティングで、デビットから正式に竹下さんへの下山勧告があった。 理由は単に竹下さんの登高ペースが隊のペースよりも遅いということだけのようだった。 男性の隊員はいつもバテ気味の私を除いて皆元気で体調も良かったので、今までの3名×3パーティーという編成を、梶山隊長と竹下さんをマンツーマンのパーティーにして、残りを4名と3名のパーティーにすれば良いのではないかと思ったが、AAI社の方針ではそのような別行動は許されないのだろう。 デビットからの下山勧告は、シシャパンマやチョ・オユーといった高所の登山経験がある竹下さんにとっては本当に青天の霹靂だったに違いない。 隊員一同竹下さんを慰める言葉も見当たらなかった。
入山12日目(6月13日)、ありがたいことに天気は昨夜のまま変わらず、快晴の朝を迎えた。 予定どおり今日H.Cへ上がることになった。 ここまで順調にきているので、山頂アタックの予備日はまだ3〜4日あるが、AAI社の方針ではH.Cには最大3泊しかしないようだった。 山頂アタックを含め、これが最初で最後のH.C行きとなるわけだ。 幸運なことに、昨日登頂に成功したAAI社の第2次隊のパーティーが今日H.Cから下山してくる(竹下さんはこのパーティーと一緒に下山することとなった)ため、M.Cの私達(第3次隊)のパーティーのテントとH.Cの第2次隊のパーティーのテントを撤収せずに交換することになった。 つまり、H.Cにテントを上げなくて済むばかりか、すでにH.Cにはテントが設営されている状態になっているので、その思いがけない朗報に身も心も軽くなった。 しかし、もし今日H.Cに辿り着かなければ、今晩以降の私達のテントは無いので、見方を変えれば退路を絶たれたことにもなる。
H.Cから下山してくる第2次隊のパーティーとの連絡や打合わせ、荷物のパッキング、そして竹下さんとのお別れを惜しんでいるうちに、出発はお昼になってしまった。 日本の山では考えられないが、ここでは午後3時が正午くらいの感じだ。 竹下さんに見送られ、最低限の目標だったM.Cから次の目標のH.Cへ向かう。 悲しそうな素振りは微塵も見せず、笑顔で見送ってくれた竹下さんと一緒のチームでいたことを誇りに思った。 テントはなくなり、個人装備と燃料や食料の一部は途中まで荷上げしてあるので荷物はだいぶ軽くなったが、それでもまだ15キロほどある。 しかし、辛い荷上げも今日限りなので、ここは頑張るしかない。 反面、ウエストバットレスの稜線での風の心配を除けば昨日と同じスケジュールでH.Cに行けるはずなので気は楽だ。
昨日同様フィックスロープの手前で休憩となる。 今日も天気が良いため、荷上げやH.Cに上がる沢山のパーティーでフィックスロープは渋滞気味だった。 気温の上昇による霧で視界は一時遮られたが、稜線に上がる手前で紺碧の青空は戻り、M.Cから4時間弱でウエストバットレスの稜線上のコルに着いた。 今日こそは稜線上でマッキンリーの強風の洗礼を受けることを覚悟していたが、今日も穏やかで風は殆どなく本当にラッキーだった。 そして何よりもこれで何とかH.Cに辿り着けそうになったので安堵した。 遥か眼下となった長大なカヒルトナ氷河のみならず、稜線の反対側の足下の氷河も一面厚い雲海で埋まり、そのスケールの大きさに5000m以上の高度を感じる。 コルの上部でしばらく休憩してから、デポ地点の目印のウォッシュバーン・サムの岩塔を目指す。 昨日は霧で視界が悪かったが、今日はウエストバットレスのルートの状況が良く分かる。 足下にはM.Cのテント村が米粒のように見える。 しかし、まだ肝心の山頂らしき所は見えず、この山の奥深さをあらためて感じた。
昨日よりも少し時間がかかったが、コルから2時間弱でデポ地点に着き、個人装備と食料や燃料を積み増す。 ザックの重さはこれまでにない25キロ以上になったが、この程度でへこたれていては登頂はおぼつかないばかりか、アタックメンバーから外されると自らに言い聞かせ、H.Cまでの最後の荷上げに耐える。 ペースはゆっくりだが喘ぎ喘ぎ1時間半近く登り続け、まだ明るい夜の8時過ぎに待望のH.C(5250m)に着いた。
予想以上に広く開放的な絶好のキャンプ地には、立派なブロックに囲まれたAAI社の第2次隊のパーティーのテントが3張あり、辿り着けた安堵感と重荷から解放された喜びと疲れで、テントサイトに着くやいなや崩れ落ちるように座り込む。 気象条件が悪ければテントの設営も大変困難になるので、偶然とはいえ今回のAAI社の計らいは本当にありがたかった。 H.Cでは気象条件が厳しい(風が強い)ため、キッチンテントは設営しないので、夕陽で暖をとりながら立ったままフリーズドライの夕食を食べる。 夕食後デビットから、予定どおり明日は休養(順応)日にする旨の指示があった。 疲れもピークに達していたので嬉しい反面、もし明日が最後の好天で明後日以降天気が崩れた場合は、登頂(アタック)のチャンスを逃してしまうので、もし明日も好天が続くようであれば是非アタックしたいと願ったが、全てはAAI社の方針とデビットの判断に委ねるしかなかった。 テントの数が一つ減ったので、今日から細江さんが同じテントの住人になった。
入山13日目(6月14日)、シュラフから顔を出すと昨日以上の好天だった。 空には雲一つ無い快晴で、おまけに風も全く無かった。 休養日としても最高の日和となったが、こんなに良い天気は気象条件の厳しいこの山で明日も続くとは思えず、何とも言えない複雑な心境だった。 H.CはM.Cほどの広大さは無いものの、下からは想像出来ないような開放感に溢れたオアシスのような所で、また今日のような好天に恵まれれば、辿ってきたウエストバットレスのルートや長大なカヒルトナ氷河を上から俯瞰し、ハンターやフォレイカー等の周囲の秀峰を眺める絶好の展望地で、最終キャンプ地としては申し分ないロケーションを誇っていた。 明日の登攀ルートのデナリパス(5547m)への明瞭な一筋のトレイルが見える。 入山前は山頂へのアタックが出来るかどうかも予想がつかなかったので、H.Cまで辿り着けたのみならず、淑子さんも見たこの素晴らしい眼前の景色を見れたことで、当初の目標は充分に達成出来たという謙虚な気持ちと、ここまで来たら何が何でも山頂まで辿り着きたいという頂への強い憧れとが交錯している。 しかしながら、淑子さんが歓迎してくれれば素人の私でも山頂に辿り着くことが叶うだろうし、もしそうでなければ叶わないという考えは依然として変わらなかった。 ただ、山頂はこのH.Cからは見えないので、明日は何とか山頂が見える所まで登り、その場所で今回の一番の目的の淑子さんの散骨を行いたいと切に願った。 それが山頂であれば何も言うことはない。
気温はもちろん零下だが、陽光に暖められたテントサイトはまるで天国のようだった。 シュラフやシュラフカバー、インナーブーツ等を干し、隊員一同思い思いに明日のアタックへの準備や休養、テントの周囲の散策をして山頂への思いを馳せる。 D.Cからずっと気になっていた指先の変色は治ることはなかったが悪化することもなく、高度や寒さの影響はあるものの凍傷ではないという確信が持てた。 意外にもデビットから、明日のアタックは早朝からではなく、トレイルに陽が当たり始める9時以降になるという指示があった。 デビットは山頂までの往復に12時間位を考えているようだった。 今日は一日中雲一つ無い快晴の天気が続き、夕陽も夜の10時過ぎまでテントサイトを照らしていた。 周囲の山々にも雲は取り付いておらず、もしかしたら淑子さんの計らいで、明日もこの絶好の天気が続くかもしれないという希望が持てた。
入山14日目(6月15日)、気持ちの整理がついたせいか、あるいはテントを叩く風も無かったためか、夜中に尿意で目覚めたものの良く眠れた。 淑子さんの足跡を辿りたいという強い思いが通じたのか、逆に淑子さんが私を呼んでくれたのか、嬉しいことに昨日と変わらない素晴らしい青空が広がっていた。 思わず歓声を上げ、躍り出したくなるような気持ちを抑えるのに苦労する。 もう何も迷うことはない。 山頂でピッケルを頭上に掲げる淑子さんの勇姿も鮮明に脳裏に焼きついたままだ。 “淑子さん、待っててください!。 今、私もそこに行きます!”。
すでに何組もの先行パーティーが、デナリパスに向けて陽の当たり始めた明瞭なトレイルを登って行くのが見える。 デビットには栗本さん・細江さん、そして私が、エイ・ジェイには徳田さん・山田さん・梶山隊長がそれぞれアンザイレンし、予定より少し遅れて10時過ぎにH.Cを出発。 7時の気温はマイナス20℃だったが、陽が当たってくれば寒さは感じない。 快晴無風の天気のお陰で緊張感やプレッシャーというものはあまり無く、ここまで辿ってきた長い道のりを噛みしめながら、その集大成として一歩一歩淑子さんの待つ山頂に向けて登って行く。 気圧はさらに低くなっていくが、羽毛服・羽毛のミトン・ビバーク用の3Lサイズの雨具・行動食・1Lのテルモスだけとなった軽いザックのお蔭で、今までのような辛さはない。 これ以上望めないと思える絶好の登山日和に、逆に何か不測の事態が起きるのではないかと疑いたくなってしまうほどだ。
デナリパスに上がる手前には何箇所にも確保支点が設けられ、強風やルートの状態が悪い時の登攀の困難さが想像出来る。 渋滞気味だったにもかかわらず、好天に恵まれたことでデナリパスまで予定どおり2時間半で着くことが出来た。 M.C手前のウィンディー・コーナー同様、風の強い場所として悪名高いデナリパスも、今日は不気味なほど風が弱かった。 相変わらず私一人余裕はないが、隊員一同の足並みは快調で、登頂の可能性はにわかに高まった。 淑子さんが私達の隊を暖かく迎えてくれたのだ。
デナリパスでほんの少しだけ休憩してから、所々で岩が露出している顕著な雪稜に取り付く。 短いフィックスロープも見られたが、幾つかの岩場の基部を左から巻いた後は、幅の広い緩やかな雪の斜面となった。 帰路に立ち寄ることが出来たが、そのうちの一つの岩場の上に大蔵さんが設置した気象観測機器が置かれていた。 下部の氷河上と同じように、再び要所要所にレンジャーやガイド会社が立てた目印の細い竹竿が見られるようになり、アイゼンの爪跡のトレイルも明瞭だった。 相変わらず風も無く天候が安定していたお陰で、デナリパスから1時間ほど登った平坦地で座って休憩することが出来た。 高度計の針は電池の消耗で作動しなくなってしまったが、標高はすでに5800mくらいだろう。
前方には悪天候の時に山頂と誤認し易いと言われるアーチデコンズタワーの小さなピークが見えた。 先行パーティーのお陰で、これから辿るルートの状況が良く分かる。 傾斜は緩くなる一方だったが、行動食でお腹を満たし過ぎたのか、6000m近い高度のせいか、足取りがだんだんと重たくなってきた。 波打つような凸凹の緩斜面をだらだらと越えて行くと、トレイルは一旦下りとなり、足下には『フットボール・フィールド』と呼ばれる広大な雪原が広がっていた。 その雪原の向こうにはネットの写真で見た幅の広い巨大な雪壁となっているマッキンリーの山頂が大きく望まれ、その迫力とスケールに思わず息を飲んだ。 “何と大きな山だろう!”。 淑子さんもここからあの神々しい頂を見据え、渾身の力を振り絞って最後の雪壁を登ったのだろう。 雪原までは僅か数十メートルの下りだったが、もし天候や体調が悪ければ、その威圧的な姿に圧倒され、ここから引き返すことになるだろう。
雪原へと下ると、そのほぼ真ん中辺りで最後の休憩となった。 すでにH.Cを出発してから5時間半が経過していた。 デビットから、あと1時間で山頂に着く(実際には渋滞により2時間以上かかった)ので、不要な荷物(ザック)をデポし、羽毛服をジャケットの上から着ていくよう指示があった。 眼前の雪壁を登り詰め、頂上へ向かう最後の稜線(カシンリッジ)で風に吹かれなければ、本当にもう山頂も夢ではない。 相変わらず寒くはなかったが、羽毛服を着込んで行動食をお腹に詰め込んだ。 羽毛のミトンとカメラ、そして淑子さんの遺骨だけをポケットに入れ、いよいよ最後の雪壁の登りにかかる。 上部に行くにつれ雪壁は見た目よりも急になり、足は上がらず息だけが上がるが、幸か不幸か先行パーティーの渋滞により、カシンリッジまで登るのに1時間ほどかかった。
意外にもカシンリッジとの合流点はちょっとした広場のようになっていて、何組かのパーティーが休憩していた。 山頂方面に目を遣ると、指呼の間に写真で見た山頂直下の巨大な雪庇が見えた。 ほんの一瞬風を感じたものの、すぐにそれも収まり、ようやく100%登頂を確信した。 山頂に伸びる雪稜は急に痩せ細り、相変わらず先行パーティーにより渋滞していた。 山頂の写真を撮ると一瞬気持ちが緩んだのか、不意に目頭が熱くなり、目から涙が溢れてきた。 まだ山頂に辿り着いた訳ではないが、その夢が叶うことが時間の問題となり、山頂を待たずに淑子さんと二人だけで感動を分かち合うことが出来たのだ。 願いは叶った。 素人の私の身を案じて、最後の最後までこのような素晴らしい天気を用意してくれたのも淑子さんをおいて他になかった。 きっと淑子さんはデナリ(先住民がマッキンリーにつけた名称で“偉大なるもの”の意味)の山の神になったのだろう。 下山してくるパーティーとの擦れ違いで、あと僅かばかりとなった山頂への登攀は遅々として捗らなくなったが、もうそんなことはどうでも良かった。 今の私にはもはや山頂さえも不要だった。 淑子さんがこの最後の雪稜を辿られた時の情景や、山頂に立った時の感激の場面を思い浮かべながら一人悦に入った。 そして今までとは別人のように、最後はまるで雲の上を歩くような軽やかな足取りとなり、万感の思いを込めて夢にまで見た憧れのマッキンリーの頂に辿り着いた。 時刻は夕方の6時25分、H.Cを出発してから8時間を超える長い道のりだった。
ふと我に返り、山頂に導いてくれたデビット、ザイルパートナーの栗本さんと細江さんと交互に握手を交わし、肩を叩き合ってお互いの登頂を讃え合い、登頂の喜びを新たにした。 山田さんと徳田さんのパーティーは、カシンリッジとの合流点で休憩していた他のパーティーが割り込んだため、すぐには山頂に到着しそうもなかった。 当時の淑子さんと同じように、ピッケルを頭上に掲げたポーズで写真を一枚だけ撮ってもらい、早速淑子さんの散骨をする。 気持ちが昂揚していたのか、快晴無風とは言えマイナス20℃の世界で3重の手袋を外し、指先の症状のことも忘れて、素手でご主人の晃三さんから託された細かな骨を、祈りを込めて山頂の片隅の雪の中に埋めさせてもらった。 「本当にここは素晴らしい所ですね!。 今日は良い天気を本当にありがとうございました!」。 淑子さんも見たアラスカの紺碧の空の下、入山前の感傷的な気持ちに苛まれることなく、爽やかな気持ちで淑子さんに語りかけることが出来たことが自分でも嬉しかった。
間もなく到着したエイ・ジェイの率いる山田さん、徳田さん、そしてしんがりの梶山隊長と皆で再び登頂の成功を祝い、猫の額ほどの狭い山頂で何枚も記念写真を撮った。 唯一、苦楽を共にしてきた竹下さんがいないことが本当に悔やまれる。 長く遠かった道のりの果てに、ようやく辿り着いた愛しい山頂からの眺めは正に筆舌に尽くし難く、周囲に聳える無数の白い山々と、この山を源とする全ての氷河が眼下に納まり、唯一この場所がその展望を可能にしていることを教えてくれた。 これほどまで感動的な頂が他にあっただろうか?。 “夢のようだ、夢ならいつまでも覚めないで欲しい”。 傍らにいる淑子さんと共に私も心の中で呟いた。 そして、もう二度と来ることは叶わない山頂を辞する時、淑子さんに再び語りかけた。 「お会い出来て嬉しかったです!。 安らかに、いつまでもここで夢の続きを見ていて下さい!」。 淑子さんの眠るデナリの頂は、私にとっても一番の記憶に残る場所となった。