マッキンリー(6194m)

   入山14日目(6月15日)、気持ちの整理もついていたせいか、あるいはテントを叩く風も無かったためか、夜中に尿意で目覚めたものの良く眠れた。 淑子さんの足跡を辿りたいという強い思いが通じたのか、逆に淑子さんが私を呼んで下さったのか、嬉しいことに昨日と変わらない素晴らしい青空が広がっていた。 思わず歓声を上げ、躍り出したくなるような気持ちを抑えるのに苦労する。 もう何も迷うことはない。 山頂でピッケルを頭上に掲げる淑子さんの勇姿も鮮明に脳裏に焼きついたままだ。 “淑子さん、待っててください!。 今、私もそこに行きます!”。

   すでに何組もの先行パーティーがデナリパスに向けて陽の当たり始めた明瞭なトレイルを登って行くのが見える。 デビットには栗本さん、細江さん、そして私が、エイ・ジェイには徳田さん、山田さん、梶山隊長が、それぞれアンザイレンし、予定より少し遅れて10時過ぎに出発。 7時の気温はマイナス20℃だったが、陽が当たってくれば寒さは感じない。 快晴無風の天気のお陰で緊張感やプレッシャーというものはあまり無く、ここまで辿ってきた長い道のりを噛みしめながら、その集大成として一歩一歩淑子さんの待つ山頂に向けて登って行く。 気圧はさらに低くなっていくが、羽毛服・羽毛のミトン・ビバーク用の3Lサイズの雨具・行動食・1Lのテルモスだけとなった軽いザックのお蔭で、今までのような辛さはない。 これ以上望めないと思える絶好の登山日和に、逆に何か不測の事態が起きるのではないかと疑いたくなってしまうほどだ。

   デナリパスに上がる手前には何箇所にもわたって確保支点が設けられており、強風やルートの状態が悪い時の登攀の困難さが想像出来る。 渋滞気味であったにもかかわらず好天に恵まれたため、デナリパスまで概ね予定どおりの2時間半で着くことが出来た。 MC手前のウィンディー・コーナー同様、風の強い場所として悪名高いデナリパスも、今日は不気味なほど風が弱く、相変わらず私一人余裕はないが、隊員一同の足並みは快調で、登頂の可能性はにわかに高まった。 淑子さんが私達の隊を暖かく迎えてくれたのだ。

   デナリパスでほんの少しだけ休憩した後、所々で岩が露出している顕著な雪稜に取り付く。 すぐに短いフィックスロープも見られたが、幾つかの岩場の基部を左から巻いた後は、幅の広い緩やかな雪の斜面となった。 帰路に立ち寄ることが出来たが、そのうちの一つの岩場の上に大蔵さんが設置した気象観測機器が置かれていた。 下部の氷河上と同じように、再び要所要所にレンジャーやガイド会社が立てた目印の細い竹竿が見られるようになり、アイゼンの爪跡のトレイルも明瞭である。 相変わらず風も無く天候が安定していたお陰で、デナリパスから1時間ほど登ったちょっとした平坦地で図らずも休憩することとなった。 高度計の針は電池の消耗で作動しなくなってしまったが、標高はすでに5800mくらいだろう。


快晴無風の天気のお陰で緊張感やプレッシャーというものはあまり無い


ガイドのデビットと栗本さん、細江さん、そして私がザイルで繋がる


デナリパスに上がる手前には何箇所も確保支点が設けられているので渋滞気味だった


デナリパス(中央)を通過して顕著な雪稜に取り付く


デナリパスからは幅の広い雪稜を幾つかの岩場の基部を左から巻いて登る


雪稜は徐々に広く、また勾配も緩くなっていく


デナリパスから1時間ほど登ったちょっとした平坦地で2回目の休憩となる


   前方には悪天候の時に山頂と誤認し易いと言われるアーチデコンズタワーの小さなピークが見えた。 先行パーティーのお陰で、これから辿るルートの状況も良く分かる。 傾斜は緩くなる一方だったが、行動食でお腹を満たし過ぎたのか、6000m近い高度のせいか、足取りがだんだんと重たくなってきた。 波打つような凸凹の緩斜面をだらだらと越えて行くと、トレイルは一旦下りとなり、足下には『フットボール・フィールド』と呼ばれる広大な雪原が広がっていた。 その雪原の向こうにはネットの写真で見た幅の広い巨大な雪壁となっているマッキンリーの山頂が大きく望まれ、その迫力とスケールに思わず息を飲んだ。 “何と大きな山であろうか!”。 淑子さんもここからあの神々しい頂を見据え、渾身の力を振り絞って最後の雪壁を登られたのだろう。 雪原までは僅か数十メートルの下りだったが、もし天候や体調が悪ければ、その威圧的な姿に圧倒され、ここから引き返すことになるだろう。

   雪原へと下ると、そのほぼ真ん中辺りで最後の休憩となった。 すでにMCを出発してから5時間半が経過していた。 デビットから、あと1時間で山頂に着く(実際には渋滞により2時間以上かかった)ので、不要な荷物(ザック)をデポし、羽毛服をジャケットの上から着ていくようにとの指示があった。 眼前の雪壁を登り詰め、頂上へと向かう最後の稜線(カシンリッジ)で風に吹かれなければ、本当にもう山頂も夢ではない。 相変わらず寒くはなかったが、羽毛服を着込み、行動食をお腹に詰め込んで、羽毛のミトンとカメラと淑子さんの遺骨だけをポケットに入れて、いよいよ最後の雪壁の登りにかかる。 上部に行くにつれ雪壁は見た目よりも急になり、足は上がらず息だけが上がるが、幸か不幸か先行パーティーの渋滞により、カシンリッジまで登るのに1時間ほどかかった。


先行パーティーのお陰でこれから辿るルートの状況が良く分かる


標高6000m付近でようやく真のマッキンリーの山頂が正面に見えた


『フットボール・フィールド』と呼ばれる広大な雪原へ下る    山頂は幅の広い雪壁の左端


羽毛服を着込み、カシンリッジへの雪壁を喘ぎ登る


   意外にもカシンリッジとの合流点はちょっとした広場のようになっていて、何組かのパーティーが休憩していた。 山頂方面に目を遣ると、指呼の間に写真で見た山頂直下の巨大な雪庇が見えた。 ほんの一瞬風を感じたものの、すぐにそれも収まり、ようやく100%登頂を確信した。 山頂に伸びる雪稜は急に痩せ細り、相変わらず先行パーティーにより渋滞していた。 山頂の写真を撮ると一瞬気持ちが緩んだのか、不意に目頭が熱くなり、目から涙が溢れてきた。 まだ山頂に辿り着いた訳ではないが、その夢が叶うことが時間の問題となり、山頂を待たずに淑子さんと二人だけで感動を分かち合うことが出来たのである。 願いは叶った。 素人の私の身を案じて、最後の最後までこのような素晴らしい天気を用意してくれたのも淑子さんをおいて他になかった。 きっと淑子さんはデナリ(先住民がマッキンリーにつけた名称で“偉大なるもの”の意)の山の神になられたのだろう。 下山してくるパーティーとの行き違いもあり、あと僅かばかりとなった山頂への登攀は遅々として捗らなくなったが、もうそんなことはどうでも良かった。 今の私にはもはや山頂さえも不要だった。 淑子さんがこの最後の雪稜を辿られた時の情景や、山頂に立たれた時の感激の場面を思い浮かべながら一人悦に入った。 そして今までとは別人のように、最後はまるで雲の上を歩くような軽やかな足取りとなり、万感の思いを込めて夢にまで見た憧れのマッキンリーの頂に辿り着いた。 時刻は夕方の6時25分、HCを出発してから8時間を超える長い道のりだった。


カシンリッジとの合流点はちょっとした広場のようになっていて、何組かのパーティーが休憩していた


カシンリッジとの合流点からは指呼の間に山頂直下の巨大な雪庇が見えた


山頂に伸びる雪稜は急に痩せ細り、先行パーティーにより渋滞していた


憧れのマッキンリーの山頂に辿り着く


   ふと我に返り、山頂に導いてくれたデビット、ザイルパートナーの栗本さんと細江さんと交互に握手を交わし、肩を叩き合ってお互いの登頂を讃え合い、登頂の喜びを新たにした。 残りの隊員達のパーティーは、カシンリッジとの合流点で休憩していた他のパーティーが割り込んだため、すぐには山頂に到着しそうもなかった。 当時の淑子さんと同じくピッケルを頭上に掲げたポーズで写真を一枚だけ撮ってもらい、早速淑子さんの散骨をさせていただく。 気持ちが昂揚していたのか、快晴無風とは言えマイナス20℃の世界で3重の手袋を外し、指先の症状のことも忘れて、素手でご主人の晃三さんから託された細かな骨を山頂の片隅の雪の中に祈りを込めて埋めさせていただいた。 「本当にここは素晴らしい所ですね!。 今日は良い天気をありがとうございました!」。 淑子さんも見た紺碧の空の下、入山前の感傷的な気持ちに苛まれることなく、爽やかな気持ちで淑子さんに語りかけることが出来たことが自分でも嬉しかった。

   間もなく到着したエイ・ジェイの率いる山田さん、徳田さん、そしてしんがりの梶山隊長と皆で再び登頂の成功を祝い、猫の額ほどの狭い山頂で何枚も記念写真を撮った。 唯一、苦楽を共にしてきた竹下さんがいないことが本当に悔やまれる。 長く遠かった道のりの果てに、ようやく辿り着いた愛しい山頂からの眺めは正に筆舌に尽くし難く、周囲に聳える無数の白い山々と、この山を源とする全ての氷河が眼下に納まり、唯一この場所がその展望を可能にしていることを教えてくれた。 これほどまで感動的な頂が他にあっただろうか?。 “夢のようだ、夢ならいつまでも覚めないで欲しい”。 傍らにいる淑子さんと共に私も心の中で呟いた。 そして、もう二度と来ることは叶わない山頂を辞する時、淑子さんに再び語りかけた。 「お会い出来て嬉しかったです!。 安らかに、いつまでもここで夢の続きを見ていて下さい!」。

   淑子さんの眠るデナリの頂は、私にとっても一番の記憶に残る場所となった。


山頂の片隅で淑子さんの散骨をさせていただく


猫の額ほどの狭いマッキンリーの山頂


(左から)梶山 ・ 山田 ・ 酒井 ・ 徳田 ・ 細江 ・ 栗本 ・ エイ・ジェイ ・ デビット(手前)/敬称略


快晴無風の山頂で何枚も記念写真を撮る  (左から)酒井 ・ 山田 ・ 栗本 ・ 細江 ・ 徳田/敬称略


山頂から見たフォレイカー


山頂から見たハンター


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