アマ・ダブラム(6856m)

   10月29日、昨夜からの突然の喉の不調は残念ながら解消せず、夜中には発熱で汗をかいたりして全く熟睡することが出来なかった。 風邪のひき始めのような症状だが順応は問題ないようで、起床前のSPO2は86、脈拍は57と数値はとても良かった。 体がだるいのでもう少し寝ていたかったが、今日の朝食はいつもよりも早い7時からなので、仕方なく早めに起きてダイニングテントに行く。 間もなく現れた倉岡さんに急変した体の状態を伝え、善後策について話し合う。 アタック日として最も天気やルートの状態が良いのは今回のタイミングだが、まだ日程的にはかなり余裕があるので、次の良い機会を捉えてアタックすることも全く問題なかった。 話し合いの結果、とりあえず5000m地点まで登ってみてその時の体調の状態で判断することになった。 

   キッチンスタッフの勘違いで朝食は8時からとなってしまったので、予定より1時間遅れて9時ちょうどに倉岡さんと二人でB.Cを出発。 “通い慣れた” C.1への道を今回で最後になることを祈りながら歩き始める。 前回の順応時よりも荷物は重いが、今日もシングルブーツで登れることがありがたい。 天気は快晴ではないがまずまずだ。 喉が貼り付くように痛いため終始無言で登る。 ペースは今までの中で一番遅かったが、B.Cからゆっくり休まずに登り続け、1時間半ほどで5000m地点に着いた。 体が温まったせいか喉の痛みが少し薄らいできたので、一休みしてからとりあえずC.1を目指すことにした。 C.1で容体が悪化した場合は、今回は順応と諦めてB.Cに戻ろうと思った。 5000m地点を過ぎると上空に雲が広がり始め少し寒くなってきた。 5400mのヤクキャンプの手前で正午になったので、アンプルバが握ってくれた梅干しのおにぎりを食べてゆっくり休憩する。 食欲があるのが救いだ。


朝食の玉子焼き


9時ちょうどに倉岡さんと二人でB.Cを出発する


B.Cと5000m地点の間から見たアマ・ダブラム


5000m地点


5000m地点から見たカンテガ(中央)とタムセルク(右)


5000m地点からヤクキャンプへ


昼食の梅干しのおにぎり


   昼食後はさらに天気が悪くなり、小雪が舞うようになってきたが、焦らずマイペースを保ったまま進む。 風が殆どないのがありがたい。 ヤクキャンプを過ぎると私達の荷物を背負ったウォンチューとゲル達が追い付き、そして追い越していった。 もうすでに行程の3分の2以上は過ぎているはずだが、なぜかここからが長く感じる。 アマ・ダブラムの頂稜部は雲に覆われ見えなくなった。 大小の岩の間を縫うようにして途切れ途切れとなった踏み跡を登り続けていくと、ようやく頭上に懐かしいC.1のテント村が見えてきた。 足元の岩場は次第に登り辛くなった。 C.1の直下では傾斜が急になり、フィックスロープが張られていたが、ユマールはシェルパ達に預けてしまったので手で掴んで登る。 予想よりも少し早く、4時ちょうどに雪の全くないC.1(5800m)に着いた。 

   C.1のテントサイトは5年前に来た時よりも石積みの状態が良くなり、テントも新しく大きなサイズだったので、テントの中は予想以上に快適だった。 シェルパ達に上げてもらった荷物をテントに搬入して落ち着くと、意外にも倉岡さんから今夜の睡眠用の酸素を毎分1L吸うように指示があった。 疲れた時にすぐに酸素を吸うことにより、リカバリーの効果が増すとのことで、すぐに横になっても大丈夫だという。 倉岡さんは本人が言うとおり高所に強い体質のようで、今回初めて経験するこの高度でも全然平気なようだった。 酸素を吸い始めると体が暖まり、1時間ほどすると脈が下がってきた。 酸素を吸ってリラックスしていると倉岡さんがお湯を沸かしてくれたので助かった。 

   昨夜の打ち合わせでは明日はC.3まで行くことになっていたが、ウォンチューの判断で急遽C.2までとなった。 C.2までなら半日行程なので、体のみならず気も楽だ。 夕食前のSPO2は84で脈拍は66となり、夕食のレトルトカレーと白米が美味しく食べられた。 これも全て酸素のお蔭だ。 喉の痛みはやや治まり、もしかしたら明日の朝は今朝よりも体調が良くなるのではないかと期待が持てた。 睡眠時には酸素を0.5L吸って寝たが、時々熟睡することができ、この高度にしてはまずまずの良い睡眠だった。


昼食後はさらに天気が悪くなり、小雪が舞うようになってきた


ヤクキャンプを過ぎると私達の荷物を背負ったウォンチューとゲル達が追い付いた


ヤクキャンプからC.1へ


ヤクキャンプからC.1へ


C.1直下の岩場


C.1のテントサイト


テントに着いてからすぐに今夜の睡眠用の酸素を毎分1L吸う


夕食は倉岡さんが作ってくれた


酸素のお蔭で夕食前のSPO2は84で脈拍は66となった


   10月30日、ありがたいことに風のない静かな夜だった。 B.Cよりも1時間早く6時半からテントに陽が当たり始めて暖かい。 喉の痛みは残念ながら治っていなかったが、悪くもなっていなかった。 酸素のおかげで頭痛は全く無く、起床後のSPO2は85、脈拍は61で申し分ない。 朝食のレトルトカレーと白米も一人前美味しく食べられた。 倉岡さんが衛星通信で貫田さんに天気予報を確認すると、予報は変わらずサミット・ディの明日は快晴無風で、今日もほぼ同じような良い天気とのことだった。 これから登るC.1からC.2までの間の岩稜の登攀はアマ・ダブラムの一般ルートで一番難しい区間だが、今シーズンはC.2までルート上に雪が全くないので、シェルパ達に高所靴を担いでもらい昨日と同じようにシングルブーツで登ることになった。 ここまでくると“大名登山”を通り越した“宮様登山”だ。 

   気温が上がって暖かくなった8時半過ぎにC.2を出発。 酸素は毎分2Lだ。 順応は少し不足しているが、5年前は高所靴で登った岩場をシングルブーツで酸素を吸って登ることになるとは想定もしていなかった。 今年はC.1に雪が全くないためか、5年前に比べてC.2方面に設営されたテントが多い。 フィックスロープはスイス隊の情報どおり新しい11mmのナイロンロープが使われていて頼もしい。 長いC.1のテント村をトラバース気味に斜上しながら抜けると、標高差ではC.1から僅か200mほどしかないC.2のある岩棚や、ダブラムと呼ばれる山頂直下の雪の瘤とその下のC.3、そして垂涎の山頂が間近に迫るようになった。 ルート上で一番の核心となるレッド・タワーと呼ばれる尖った岩塔が頭上に見え始めると岩壁の斜度が急になり、ユマールで強引に攀じ登る箇所が多くなったが、シングルブーツと背中の酸素がありがたい。 高度感とロケーションは抜群で、順番待ちの間に周囲の山々の写真を撮る。 レッド・タワーの直下では複数のパーティーの下りで少し渋滞した。 意外にも昨日は山頂付近の風が強かったようで、登頂出来なかったという声がすれ違った人達から聞こえてきた。 切り立ったレッド・タワーの登りは予想以上に厳しかったので酸素の量を3Lに増やし、先に登ったウォンチューに“お助け紐”を出してもらった。 レッド・タワーを登り終えると、目と鼻の先にC.2のテントサイトが見え、山頂はいよいよ手の届く所に見えてきた。 レッド・タワー以外での長い順番待ちがなかったので、予想よりも早く正午前に待望のC.2(6000m)に着いた。 テントサイトに偶然居合わせたシェルパのダ・デンディが温かい紅茶を差し入れてくれた。


C.1から見たC.2


朝食のレトルトカレーと白米


倉岡さんが衛星通信で天気予報を確認する


気温が上がって暖かくなった8時半過ぎにC.2を出発する


C.1に雪が全くないためか、5年前に比べてC.2方面に設営されたテントが多い


フィックスロープはスイス隊の情報どおり新しい11mmのナイロンロープが使われていて頼もしい


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1からC.2へ


C.1とC.2の間から見たC.1


C.1とC.2の間から見たタウツェ(中央)とチョ・オユー(右)


C.1とC.2の間から見たカンテガとタムセルク(右)


C.1とC.2の間から見たマランプラン


ルート上で一番の核心となるレッド・タワーと呼ばれる尖った岩塔


核心部のレッド・タワーの登攀


レッド・タワーの登りは予想以上に厳しかったので、ウォンチューに“お助け紐”を出してもらった


予想よりも早く正午前に待望のC.2に着いた


シェルパのダ・デンディと再会する


   猫の額ほどの狭い岩棚の上のC.2は例年であればテントが数張しか設営できず、多い時は1つのテントに4人が入ることもあるという劣悪なキャンプ地らしいが、今年はC.1と同じように新しいテントがいくつか設営されたようで、その数は10張ほどあった。 私達の入るテントはルート工作のために最初に設営されたものらしく、その中でも一番良いテントだった。 キャンプ地としては劣悪だが展望はとても素晴らしく刺激的で、他の山だったら山頂に匹敵するか、あるいはそれ以上だった。 眼下に見えるC.1は近いが、B.Cは遥かに遠くなっていた。 明日は好天が約束されているが、予想よりも登るパーティーが多くないようだ。

   行動時間が予想より短かく、昨日から吸っている1本目の酸素がまだ残っていたので、昨日と同じようにテントに入ってからしばらくの間は1Lの酸素を吸う。 1時間ほどするとSPO2は86、脈拍は73となり、GPSで6022mという高度は全く感じない。 陽射しに恵まれたテントの中では下着だけでもいられるくらい暖かかった。  明日の山頂アタックは零時半の出発と決まり、4時半に夕食のレトルトカレーと白米を食べた。 もちろん酸素のお蔭で完食出来た。 喉の痛みはなくなったが、今度は鼻が詰まったりして風邪の症状に変化が出てきたが、土壇場にきた今となってはもう全て受け容れるしかなく、また何があってもあと1日のことなので乗り切れる。 むしろ一番の悩みは、昨日の朝からトイレに行ってないことだった。


C.2から見た山頂


C.2から見たB.C


劣悪な環境のC.2にはテントが10張ほどあった


私達の入るテントはC.2の中でも一番良いテントだった


C.2からの風景


テントに入ってからしばらくの間は1Lの酸素を吸う


   10月31日、テントを叩く風の音は全くなかったが、鼻詰まりと気持ちの昂りで、酸素を吸っているにも関わらず殆ど眠れなかった。 1本目の酸素ボンベの酸素の残量がギリギリだったことが気になっていたことも原因かもしれない。 零時半の出発に合わせ、2時間前の10時半に起床することにしていたが、倉岡さんは10時から起きてお湯を沸かしていた。 起床後のSPO2は82、脈拍は68で相変らず酸素の効用は申し分ない。 ゆっくり準備を始めると体調は次第に良くなり、予想に反して朝食のカレーとアルファー米を完食出来た。 懸案だったトイレも同じ境遇だった倉岡さんに続いて食後に済ませることが出来た。 登頂後はC.1まで下りることになり、シュラフやマットなどの個人装備をパッキングしてからテントの外に出る。 天気は予報どおりの快晴で満天の星空だ。 風も全くないため、体感気温はマイナス5度くらいと予想以上に暖かい。 

   予定どおり零時半にC.2を出発。 ウォンチューの意見で倉岡さんが先行し、その後にウォンチューと私が続く。 まだ足元には雪が殆どないのでアイゼンは着けずにいく。 当初は登りが毎分2L、下りは1Lの酸素を吸うことになっていたが、最初の岩場の区間のスピードを上げるため2.5Lになった。 ゲルは留守番かと思ったが、彼も登頂したいのか私の後をついてきたので、結果的に私一人に3人のサポートが付くことになった。 ウォンチューの話どおり、C.2からの岩場の登りは昨日のC.1からC.2の間ほど難しくなく、今日から履いた高所靴でも問題なく登ることが出来た。 まだスタートしたばかりだが不安材料は全くなく、登頂の可能性がにわかに高まり嬉しくなる。 

   しばらく登っていくと酸素の濃さのせいか暑くなってきたので、思い切ってアウターのダウンジャケットを脱ぎ、三重にしていた手袋のうち中間のウールの手袋も外した。 少し身軽になって登り始めると、地形はクーロワール状となった。 その直後、不意に右手の甲に強い衝撃を受けた。 周囲が暗いので一瞬何が起きたのか分からなかったが、数秒後に落石が当たったのだと思った。 手の甲は痛いというよりも痺れている感じだったが、それとは別に人差し指が痛くなってきた。 先行している倉岡さんやウォンチューはまだ私が落石に当たったことに気が付いていないようだ。 オーバー手袋を外すと、インナー手袋の人差し指の部分に血が滲み、指は痛くて全く曲らなかった。 直感的に“ああこれで終わったな”と悲しみにも似た悔しさがこみ上げてきた。 直前にウールの手袋を外してしまったことが悔やまれた。 恐る恐るインナー手袋を外すと、人差し指の第一関節付近の皮がペロンと剥けて血が滲み出ていた。 凍傷を併発すると怖いのですぐにインナー手袋をはめ、酸素マスクを外して倉岡さんとウォンチューを呼ぶ。 倉岡さんは落石に当たっても程度によっては続行可能だと思っていたようだったが、私の血の滲んだインナー手袋を見るなりすぐに登山の中止を決めた。 もちろん私もこの状態で続行したいとは微塵も思わなかった。 ウォンチューは自分の責任ではないのに、何度も何度も私に謝っている。 倉岡さんがウォンチューにヘリでのレスキューを確認すると、C.2にはヘリは来られないということで、B.Cまで自力で下山することになった。 寒くはないが凍傷の防止と傷の保護のため再びウールの手袋をはめて直ちに下山体勢に入った。 思いがけない出来事に、“好事魔多し”という諺しか頭に浮かんでこなかった。


零時半にC.2を出発する


   再び倉岡さんが先行し、ウォンチューに全てを委ねながら岩場を下る。 C.2までは特に難しい所はなかったので、30分ほどで戻ることが出来た。 テントに置いた個人装備の回収はせず、また休むこともなくそのまま下り続ける。 核心部となるC.1までの道程はとても険しいが、まだ登ってくる人がいないのが救いだ。 ウォンチューはテクニックというよりは力任せに私を導いていくが、そのスピードはかなり遅く、下降は遅々として捗らない。 業を煮やした倉岡さんがウォンチューに代って私を同時懸垂で下すことになり、ウォンチューとゲルは再びC.2に戻って個人装備の回収をすることになった。 私は下降でもそのまま2.5Lの酸素を吸い続けたので全く疲れることはなかったが、腰痛持ちの倉岡さんは相当大変な作業を強いられることになってしまった。 静寂の暗闇の岩稜で黙々と二人の逃避行が続いた。

   どのくらいの時間が経過したのだろうか、ようやくC.1に近づきトラバース地帯に入った。 ここまで下れれば後は自力でも下れるため気は楽だ。 C.1から少し離れた岩棚にテントが2張あり、その直下の僅かな平坦地で一息入れる。 アマ・ダブラムのシルエットがとても神秘的だ。 何事もなければもうアイゼンを着けてC.3付近の雪壁を登っていたことだろう。 少し落ち着いたせいか、行き場のない悔しさが再びこみ上げてきた。 異変を察知したのか、近くのテントからヘッドランプの灯りが一つこちらに向かってきた。 ヘッドランプの主はペンバ・ギャルツェンで、テントには明日の登頂を目指す石川さん達がいることが分かった。 ペンバにお見舞いの言葉をかけられてC.1へ向かう。 まだ暗いC.1はひっそりと静まりかえっていた。 C.1でウォンチュー達と合流し、靴をシングルブーツに履き替えようと思ったが、まだ二人のヘッドランプが遠かったので高所靴のままB.Cへ下る。 緊張感から少し解放されると指の痛みだけではなく、脱力感からか足が重たく感じられるようになった。

   ウォンチュー達がC.1に着いたことを見計らってヤクキャンプの手前で休憩し、ハーネスを外して二人が下りてくるのを待つ。 周囲が白み始めアマ・ダブラムが良く見えるようになると、また悔しさがこみ上げてきた。 間もなく休憩場所に下りてきたウォンチュー達から靴を受け取り、ダウンパンツなども脱いで身軽になる。 C.2にデポしたオキシフルを傷口につけようとしたが、凍っていて駄目だった。 ここからはウォンチュー達が先行して下る。 二人共相当な荷物を背負っているが、しばらくすると視界から見えなくなってしまった。 私も酸素の力を借りて休まずに可能な限りの速さでB.Cへ下った。 間もなくご来光となり、アマ・ダブラムが美しく輝き始めた。 山を見るのは辛いが、もう二度とここに来ることはないだろうと思い、何枚も写真を撮った。 B.Cを眼下に望む5000m地点に着くと、後ろを歩いていた倉岡さんがしばらくしてから追いついてきたが、途中のサイドモレーンのトラバース区間で転んだらしく、全身に擦り傷を負い左手の薬指が曲がっていた。 先ほどの想定外のハードなレスキュー作業で相当疲れたのだろう。 B.Cを目がけて下っていくと、ようやくC.1方面に向かう登山者とすれ違うようになった。 予想どおり、間もなくキッチンボーイのパサンがティーポットを携えて迎えにきてくれた。 暖かいオレンジジュースをがぶ飲みして生き返る。 予想よりもだいぶ早く、9時ちょうどにB.Cに着いた。


C.1から少し離れた岩棚の直下の僅かな平坦地で一息入れる


まだ暗いC.1はひっそりと静まりかえっていた


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


C.1とB.Cの間から見たヌンブール(奥)とコンデ・リ(手前)


C.1とB.Cの間から見たカンテガ(中央)とタムセルク(左)


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


C.1とB.Cの間から見たタウツェ


C.1とB.Cの間から見たチョ・オユー(左)とギャチュン・カン(右)


C.1とB.Cの間から見たアマ・ダブラム


予想よりもだいぶ早く、9時ちょうどにB.Cに着いた


   すぐに朝食が用意され、凍ったオキシフルをお湯で溶かして傷口につけた。 幸い外傷は骨には達していないように見えて安堵した。 食事の途中でヘリの到着まであと30分だと聞かされ、急いで個人用テントの中の荷物をダッフルバックに詰め込む。 幸か不幸かヘリは予定よりも10分ほど早くB.Cの上空に現れたので、ここで別れるウォンチューやキッチンスタッフに慌ただしくアンサミットボーナスとチップを手渡し、倉岡さんとゲルと3人でヘリに飛び乗った。 ヘリはカトマンドゥに直行するとばかり思っていたが、僅か10分足らずのフライトでルクラの空港に降り立った。 今日は天気が良いので、空港では飛行機・ヘリともフル稼働で5分から10分おきに離発着していたが、私達のヘリは臨時便なので2時間ほど待たされることになった。

   ルクラを飛び立ったヘリは幾重にも重なる山並を舐めるように低空で飛び、飛行機とほぼ同じ所要時間の40分でカトマンドゥの空港のヘリポートに降り立った。 意外にもヘリポートには救急車が待機しており、サイレンを鳴らしながら20分ほど走って病院に着いた。 後で分かったが、この病院は外国人の旅行者専用で、地元の人は利用していないということだった。 問診の後のレントゲン撮影で、右手の人差し指の真ん中の骨が粉砕骨折していることが分かった。 C.1からの下りで転んで左手の薬指が曲がっていた倉岡さんもレントゲン撮影を受けたところ、意外にも剥離骨折していることが分かった。 整形外科の専門医が夜に来るということで、治療費の支払いを兼ねてまた夜に病院に行くことになった。


B.Cから倉岡さんとゲルと3人でヘリに飛び乗る


ヘリはカトマンドゥではなく、僅か10分足らずのフライトでルクラの空港に降り立った


ルクラの空港のヘリポート


ルクラの空港からカトマンドゥの空港ヘ


ヘリの機上から見たカトマンドゥ


カトマンドゥの空港のヘリポートには救急車が待機していた


カトマンドゥの外国人の旅行者専用の病院


レントゲン撮影で右手の人差し指の真ん中の骨が粉砕骨折していることが分かった


私の右手と倉岡さんの左手


   タクシーでホテル『シャングリラ』に戻り、片手で久々にシャワーを浴びて一息つく。 エージェントの社長のスバシに航空券の変更の手続きを依頼し、ホテルの斜向かいのベトナム料理店で倉岡さんと傷を舐め合いながらささやかな打ち上げを行う。 夕食後に倉岡さんとタクシーで病院に向かい、整形外科の専門医から骨折の状態について詳細な説明を受けたところ、二人とも帰国後すぐに手術をした方が良いということだった。 治療費は総額で354ドル(邦貨で約40,000円)と予想以上に高額だった。


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