9月30日、夜中に風がテントを叩いた。 今までB.Cで風が吹いたことは一度もなかったので、昨日の風はモンスーン明けのジェット気流の前兆なのだろうか。 気負いは全く無かったはずだが、肝心な時に鼻づまりで良く眠れず、寝不足で朝から脈拍が71と高かった。 今日も雲は多いが昨日と同じように悪い天気ではない。
ポールが下山したので今回の第一次隊の隊員は3名のガイド(デーブ・ハイメ・平岡さん)を除くと、私達4人の日本人の他、無酸素登頂を目指すピエール(フランス/男性)とビリー(ドイツ/女性)、そしてヘルバート(ドイツ/男性)・デービット(イギリス/男性)・ウォーリー(アメリカ/男性)・ヴォルデマース(ラトヴィア/男性)・クリスティーヌ(ラトヴィア/女性)の11人となった。 セルゲイ(ロシア/男性)はスキー滑降のため、チーフガイドのエイドリアンと共に第ニ次隊になった。
朝食をゆっくり食べ、9時半前に外国人隊員達よりも一足早く全員一緒にB.Cを出発する。 埼玉岳連隊も私達と同じ10月4日の登頂日を選んだようで、モレーンの背を登って行く姿が見えた。 出発直前にモニカから一人一人ハグをされ、熱烈な見送りを受ける。 モニカは「山頂からの無線のコールを楽しみに待っています!」と言って送り出してくれた。
モレーンの背に積もった雪の上のトレースを辿って30分ほど登ると、先行していた埼玉岳連隊に追いついた。 B.CからC.1への登りは今回で5回目だったが、降雪によりB.Cからずっと雪の上を歩くようになったので、少しだけ新鮮味があった。 クランポン・ポイントまでは埼玉岳連隊と相前後して登ったが、歩きにくいガレ場が雪で登り易かったこともあり、今までで一番早く1時間半足らず着いた。 今日もクランポン・ポイントからは各々のペースで登っていく。 氷河上のトレースは各隊の往来で溝のように踏み固められていたが、B.Cで5日間も休養していた割には足が重く、今一つ調子が上がらない。 工藤さんは今日も絶好調のようで、その差はどんどん開いていく。 天気は晴れて暑いかと思うと、急に曇ってきて冷たい風が吹いたりして安定しない。
1時半前にC.1に着くと、隣にはAG隊のテントがあった。 他の隊のテントは無かったので、埼玉岳連隊は上のC.1のようだ。 前回とほぼ同じ4時間で着いたが、今までで一番疲れた感じがした。 案の定、間もなく軽い下痢の症状があらわれ、お腹の調子が急におかしくなった。 声も少しかすれ気味だ。 C.1に着いた順番でテントに入ることにしていたので、今日も工藤さんと一緒になる。 SPO2と脈拍は87と97で、疲労のバロメーターとなる脈拍がかなり高かった。 昨日綿密に行った食糧計画をもう一度見直し、ギリギリまで明日以降の荷物を減らそうと思案する。
午後は水作りに追われながらも体を温めることに専念したので、夕方にはお腹の調子も良くなり安堵する。 夕食もフリーズドライのカレーを完食することが出来た。 夕食後はあまり寒さを感じなくなり、脈拍が78にまで下がった。 明日は5時半に出発するとのことだったが、日没後から小雪が舞い出し、前回と同じような状況になった。 すでに心の準備は出来ていたので、気持ちの焦りは少なかったが、明日は何とかC.2まで辿り着けることを願わずにはいられなかった。
10月1日、エアーマットはC.2にデポしてあるので代用品のテントマットで寝たが、寒さと地面の凹凸が気になり殆ど眠れなかった。 4時過ぎに起床して外の様子をうかがうと、ありがたいことに満天の星空だった。 昨日の下痢が怪我の功名となり、未明に用を足すことなく予定どおり5時半過ぎにC.1を出発。 寝不足の割には不思議と昨日ほど足は重たくない。 風もなく、今までで一番良い天気になりそうな予感がした。 C.1からC.2の区間が一番の核心なので、この天気は本当にありがたい。 前回の順応ステージの時に見た素晴らしい山々の景色が今日も同じように蘇ってくる。 C.1からは積雪量が一段と増し、トレースの溝は深い所で50センチほどにもなっていた。
1時間足らずで上のC.1に着くと、前回にも増して30張り以上のテント村となっていた。 スタッフ達の尽力のお蔭でルートは前回の順応ステージの時とほぼ同じで、フィックスロープも完全に修復されていた。 相変わらず風もなく穏やかで絶好の登山日和だ。 各隊が一斉にアタック体制に入ったため、急斜面のフィックスロープの所では少し待たされることもあった。 セラック帯の中間部の休憩ポイントに着くと、高度障害で苦しんでいる最年少のクリスティーヌをガイドのデーブや同じ国の父親のような存在のヴォルデマースが一生懸命励ましている光景が見られた。 間もなく上のC.1から登ってきた埼玉岳連隊も休憩ポイントに着いた。
天候も安定しているので、休憩ポイントからは各々のペースで登ることになった。 作戦どおりユマーリングなどで極力無駄な筋力を使わないよう意識して登る。 今度こそ本当にモンスーンが明けたのだろうか、空の色は群青色のヒマラヤンブルーとなっていた。 気温の上昇と共に雲海が徐々に上がってくる。 セラック帯を過ぎ、C.2まであと僅かとなると暑さが急に増してきた。 外国人隊員の最高齢のデービットが座り込んでいる。 6000mを超える高さで私も長袖のアンダー1枚となった。 今日は工藤さんもペースが上がらず、途中から私が先行する。
正午前に前回よりも少し早く6時間少々でC.2に着き、B.Cに無線で連絡を入れる。 C.2のテントは全員で泊まった前回の順応ステージの半分になり、その跡地には他の隊のテントが張られていた。 デポ用のテントからデポ品を回収し、空いているテントに入る。 間もなく工藤さんが着いたので、今日も工藤さんと同じテントになる。 暑さで脱水気味だったので、休む間もなく水作りを始める。 昼食は行動食のチーズとクラッカーだ。 テントの中は陽射しがあると暑いが、陽が陰るとその反動もあってとても寒く感じる。 C.2以降は装備や携行品は同じになるので、C.2までに使ったジャケットやオーバーパンツなどとこれから使う羽毛服の上下などを入れ替える。
夕方のSPO2と脈拍は84と78で、昨日とあまり変わらない数値になり驚いた。 動悸も少なくなり、何とか幸せにC.2の夜を過ごせそうだ。 夕食は一人前食べられると思ったが、食欲はあまり湧かず、アルファー米を3分の1ほど残した。
10月2日、5時半に起床。 前回の順応ステージでもそうだったが、6000mを超えるC.2(6300m)での宿泊は体への負荷が大きく、B.Cでは順応している体にもダメージを与える。 前回の順応でC.2に泊まった時からすでに2週間が経過してしまったので、その効果も殆ど感じられなかった。 相変わらず食欲はあまり湧かず、朝食は昨夜残したアルファー米に塩昆布を入れた茶漬けとポタージュスープで充分だった。
7時過ぎにC.3(6700m)に向けて出発する。 昨日のような快晴ではないが、風も無く良い天気だ。 朝の冷え込みは今までで一番厳しかったが、陽が昇ってからは暖かくなり、厚い羽毛服の上下ではどうみても過剰装備だ。 前回の高度計の記録ではC.2からC.3の間の標高差は400m足らずであるばかりか単調で登り易い斜面のみなので、天気と体調さえ良ければ昨日と比べて全く気楽なものだ。 ただAG隊や埼玉岳連隊のようにC.3での睡眠時に酸素を使わないため、昨日にも増して無駄な筋力を使わないよう、また体内酸素の温存を心掛けて登る。
C.2を出発して間もなくクレバスに向かって一旦少し下って登り返す所があるが、その後はC.3まで幅の広い緩やかな勾配の氷河が続くので、所々に他の隊のキャンプ(C.2)が設けられていた。 私達の隊はキャンプを4つ出しているが、3つの隊も結構あるように思えた。 相変わらず風は無く穏やかだが、山頂付近や稜線では強風により雪煙が舞っているのが見えた。
体感気温は高いが気温は低いので、C.2から上では雪が良く締まっていてトレースが薄い。 最初の1時間ほどはそれなりのペースで登れたが、標高に比例して次第に足が重たくなってくる。 途中で暑さに耐えきれず厚い羽毛服を脱ぐ。 前回はシングルの登山靴で空身に近かったこともありそれほど苦しまなかったが、今日はC.3が見えてからは酸欠で足が全く言うことを聞かなくなり、最後の50mを登るのに1時間近くかかってしまった。
11時前にヘロヘロになってC.3に到着。 予想に反してC.2からは3時間半近くを要した。 体内酸素の温存を心掛けて登ったつもりが、図らずもすでに体内酸素を使い果たしてしまった。 他の隊は眼前の雪壁の上のコルや私達よりも少し下の斜面にC.3を建設していたが、私達の隊のテントは今にも崩れそうな雪壁の真下にへばり付くように設営されていた。 確かに地形的には稜線の風がテントに直接当たらないが、背後の雪壁が少しでも崩れたら一巻の終わりだ。 そこを敢えてキャンプ地にしたのは、素人の私には計り知れない何らかの理由があるのだろう。 今日も先に到着した工藤さんと一緒にテントに入ったが、前室部分は空洞状態でテントへの出入りもはばかられた。 日課の水作りもままならず、雪は雪壁から後室に吹き込んでくる雪を利用する始末だ。 スタッフから明日の行動用の酸素ボンベが配られた。 親日家のウォーリーが高度障害に苦しみ、途中で引き返したということが後で分かった。
稜線から吹き込んでくる風は冷たく、3時過ぎには陽が当たらなくなってしまったのでテントの中でも寒かった。 酸欠の体はどんどん消耗していく一方なので、地道に水分の補給と深呼吸を繰り返して体調の管理をする。 酸素が吸える明日の朝までの辛抱だ。 平岡さんからも今晩が一番の頑張りどころだと気合を入れられる。 遅い昼食はポタージュスープとおしるこ、夕食はとうとうアルファー米が半分しか食べられなくなった。 SPO2は常に70台前半しかなく、脈拍も80台以下には下がらなかった。 工藤さんはいつもどおり安らかに寝てしまったが、このまま普通に寝てしまうと朝にはSPO2が50台になってしまうことは必至なので、寝ながら深呼吸を定期的に行い、敢えて眠らないようにした。
10月3日、長い夜が明け6時前に起床。 夜中に少し雪が降ったが、明け方には止んでいた。 昨夜は熟睡してないこともあり、今のところ目立った高度障害はない。 天気も良いのか悪いのかはっきりしないが、とにかく最終キャンプ地のC.4(7400m)に向けて行動するのみだ。 今日からは初めて登るルートとなるが、C.3からC.4の間は急斜面や蒼氷が出ているところがあり、C.1からC.2の間に次いで登りにくいルートのようだ。 それ以前に今日は初めて酸素を使うので、その期待と不安で胸が一杯だ。 天気予報では天気は良いが風が少し吹くとのこと。
B.Cで何度も練習したとおり、まず酸素ボンベとレギュレターを接合し、次にレギュレターと酸素マスクのゴムホースを接合し、レギュレターの圧力計の目盛が20(半分)以上あることを確認し、息を止めて混合器が酸素で膨らむことを確認する。 最後にレギュレターのダイヤルを指示された毎分2リッターに合わせた。 平岡さんから「酸素は8時間しか持ちませんから、その時間内でC.4に着くように」とハッパを掛けられる。 テントの立地が悪いので準備に時間が掛かる。
予定よりも少し遅れて隊の最後尾で8時にC.3を出発すると、ちょうど下から登ってきた他の隊と一緒になってしまい、その後ろについて登り始める。 昨日の最後の登り方が非常に悪く、今日は昨日よりもさらに体が酸欠状態なので、いくら酸素を吸ったからといってC.4までまともに登れるかどうか心配だったが、初めて吸った酸素の効果は想像以上に絶大で、今までどおり足が普通に上がり息も切れない。 C.3の背後のコルに上がるまでは少し傾斜がきつかったが、ゆっくり登れば休まなくても登り続けられることが分かった。 コルに上がると、前方にはすでに大勢の人がさながら芥川小説の『蜘蛛の糸』のようにフィックスロープに繋がっている姿が見えた。 私達の隊と同様にこの日を待ちわびていた他の隊も一斉に動き出した訳だから無理もない。 無酸素の人も結構いたが、最後(山頂)まで無酸素なのだろうか。 天気は雲の間から薄日が射す程度だったので、羽毛服の上下を着ていても暑くはなかった。
生憎フィックスロープはずっと渋滞気味だったが、先行者のお蔭で階段状のトレースが出来上がっていたので、ユマールに頼ることなく省エネで登ることが出来た。 酸素を吸いながらの行動にも慣れてきたので、渋滞で足が止まっている時に酸素マスクを外してお湯を飲んだり鼻水をかんだりする練習をする。 傾斜は次第に増していくが、フィックスロープを外れて休めるような場所は無く、いい加減荷物の重さに疲れてくる。 正午を過ぎるとようやく渋滞は解消し、誰かが休むために雪を削った僅かなスペースを見つけてザックを下すことが出来た。 幸か不幸かすでに7000mを超え、C.4までの半分以上の標高差を稼いでしまった。 ありがたいことに天気は次第に良くなり、風も殆ど感じない程度だったので、C.4まで辿り着ける目処が立った。
休憩した地点からも引き続きフィックスロープが張られた急斜面が続く。 山頂はまだ見えてこないが、B.Cから仰ぎ見ていた山頂直下のピナクルはもう手の届きそうな高さとなり、雲に覆われたマナスル北峰(7157m)はすでに目線の下になっていた。 C.4の手前のトラバースの所ではいつも蒼氷が出ているとのことだったが、降雪によりそれらは全て雪に覆われ全く問題なく通過することが出来た。 しばらくすると傾斜が緩み始め、C.4が近いことが分かった。 地形的にこの辺りから風が強まると思っていたが、不思議と風は全く無く、今日の核心と思われた所もマイペースで登れた。 斜面の傾斜が無くなると前方に私達の隊のC.4のテントが見え、左手にはピナクルの右に待望のマナスルの山頂が望まれた。
2時半に最終キャンプ地のC.4(7400m)に到着。 酸素のお蔭で昨日とは全く違う足の運びで最後まで登ることが出来た。 今日はるみちゃんが一番に着き、すぐ後から工藤さんが、しばらくして藤川さんが平岡さんと一緒に到着した。 快晴無風のC.4からは山頂が手の届きそうなさに見え、明日の天気が悪いということであれば、このままもう登ってしまいたいような気分だった。 皆も一様に元気で、その表情には高所とは思えない余裕すら感じた。
意外にもC.4に到着してからすぐにラッセルから無線で、明日のアタックに同行するスタッフの変更と出発時間の指示があった。 意外にも明日は山頂を目指す人がスタッフを含めると100名前後になると見込まれるため、出発時間を当初予定していた3時前後ではなく、渋滞を避けるため普通のアタックでは考えられない5時半にするとのことだった。 何も知らない他の隊は私達の隊に何か異変があったのではないかと驚くに違いない。 私に付くスタッフはニナ・テンジンという名前で、年齢を聞くとまだ20歳という若さだったので驚いた。 私のみならず皆も若いスタッフに切り替わったので、これにはきっと何か理由があるのだろう。
スタッフからアタック用の酸素ボンベと睡眠用の少し短い酸素ボンベが配られたが、今日の分の酸素がまだ残っているので、1リッターに減らして吸い続ける。 今日は本当に酸素の効果を実感した一日だった。 明日のアタックでは今日の2倍の毎分4リッターの酸素が吸えることになっているが、明日はボッカもないので今日の倍の酸素を吸ったら本当に普段のペースで登れてしまうだろう。 天気予報では明日は良い天気になるとのこと。 予報どおり良い天気がこのまま続けば登頂の可能性は非常に高いが、この高さでは何が起こっても不思議ではないので、引き続き登頂への期待はしないように努めた。 昨日のウォーリーに続き、今日は外国人最高齢のデービットが高度障害に苦しみ、途中で引き返したということが後で分かった。
水作りをしながら早めの夕食を食べる。 脈拍は80台とまだ高いがSPO2は80台あり、C.2と同じくらいの食欲があった。 未明に用足しに行かなくて済むように、指定されたテントサイトの裏の岩場に行く。 ちょうど日が落ちるところだったが、陽射しが無くなるとそれまでの暖かさが嘘のように極端に寒くなった。 酸素ボンベを睡眠用のものに交換し、レギュレターのダイヤルを指示された毎分0.5リッターに合わせる。 今晩は初めて酸素を吸っての睡眠となる。 行動中と違って違和感があると思われたが、僅か0.5リッターでも息苦しくないばかりか指先や体が温まり、まるで酸素療養を受けているような感じがした。 酸欠で苦しんだ昨晩からは想像も出来ないことだ。 図らずもSPO2の数値以上に体は楽になり、気が付くと日付が変わる頃まで熟睡していた。 目が覚めるとお腹の虫が鳴っていた。 それまで鈍っていた胃腸の機能が酸素によって回復し、消化が早まったようだった。
10月4日、B.Cと同じくらいの深い眠りから覚めて4時前に起床する。 図らずも酸素の効用で食べ物の消化が早まり用足しに行きたくなってしまったが、この時間帯ではそれなりの時間と労力を要するので我慢することにした。 その辺りの微妙な“調整”をしていたため準備に時間が掛かってしまい、出発が予定より少し遅れて5時半過ぎになってしまった。 るみちゃんと工藤さんはすでに予定どおり5時半に出発していった。 出発直前に睡眠用と登山用の酸素ボンベを交換し、レギュレターのダイヤルを指示された毎分4リッターに合わせる。 すでに周囲は明るくなり、ヘッドランプはテントに置いていく。 前方には次々と登って行く人の姿が見えた。 スタッフのニナ・テンジンは前ではなく後ろについて登るようだ。 ありがたいことに風は無く、空には一片の雲も見えない。 朝焼けに染まる背後の山々が美しく、のっけから写真を撮りながら登る。 前だけではなく後ろからも次々と人が登ってくる。
今日は昨日の倍の毎分4リッターの酸素を吸って登り、4時間後に新しい酸素ボンベと交換する。 スペアの酸素ボンベは同行するスタッフが背負って登るのが一般的だが、今回は別のスタッフがルート工作を兼ねて先行し、山頂の手前に酸素ボンベをデポしてあるようだ(埼玉岳連隊は3時半頃にC.4を出発したが、途中で私達の隊のスタッフに追い越されたとのことだった)。 無酸素で登っている人を所々で追い越しながら登って行くと、それなりに前後の間隔があいてきた。
4リッターの酸素の効果は絶大で、昨日の経験も手伝って装着していることに対する違和感やストレスは全く無く、プラスの効果だけを実感する。 息切れせずに日本の山をテント泊装備の荷物を担いで登るくらいのペースで足を止めずに登れる。 今日は昨日より荷物が軽いのでさらに楽だ。 慌しく出発したのでオーバー手袋はまだザックの中で、薄手の手袋の上に厚手のフリースの手袋をしただけだったが、結局最後までオーバー手袋もダウンミトンも使わなかった。 気温は低い(埼玉岳連隊の話では夜中の2時で外気温はマイナス25度だったとのこと)が、これも明らかに4リッターの酸素のなせる業だ。 8163mのマナスルなら3リッター位が一般的だろう。 酸素の使い方や出発時間の決め方など一連のラッセルのタクティクスには感心したが、やはりC.3では睡眠用の酸素が欲しかった。
間もなく先行していたるみちゃんに追いつくと、同行のスタッフが勝手に酸素の流量を2リッターにしてしまったとボヤいていた。 昨日急遽スタッフが変更したこともあり、その辺りの指示がきちんと伝わってなかったようだ。 4リッターの酸素を吸ったるみちゃんは、足早に私を追い越していった。 もしかしたら体が小さい分、同じ酸素の流量でもそれ以上の効果があるのかもしれない。 最初のフィックスロープが張られたやや急な斜面を登り終えると、正面から強烈な太陽の光が当たり始めた。 おあつらえ向きにフラットな場所があり、るみちゃんと工藤さんが休憩していたので私も迷わず一服する。 時計を見ると8時だったので、時間的にはもう半分過ぎたことになる。 相変わらず天気が良く風も無かったので、ついついのんびりと20分ほど休んでしまう。 登頂前には全く想像もしていなかった緊張感の無さだ。
最後尾で登ってきた藤川さんと平岡さんと入れ違いに山頂に向かう。 太陽が正面からまともに照り付けて眩しいので、フリースの帽子と目出帽を脱いで日除けの帽子に替える。 しばらく登ると暑くなってきたので、羽毛服のファスナーも開け、手袋も薄手のもの1枚となる。 8000m峰の登山とは思えない暖かさに驚く。 足は酸素のお蔭で全く重たくなく、気持ちはますます軽くなる。 周囲の6000m峰はどんどん低くなり、空は真っ青なヒマラヤンブルーだ。 あれほど天気に翻弄され続けた日々が全く嘘のようだ。 るみちゃんと工藤さんは前方にはっきりと見えるが、後ろの藤川さんと平岡さんは他のパーティーに紛れてはっきりと判別がつかない。
間もなく前方にデポしてある酸素ボンベが見えてきた。 時計を見るとちょうど9時で、かなりゆっくり登っても制限時間内に着いた。 ニナ・テンジンに酸素ボンベを換えてもらうが、天候が良いので待っている間も全く苦ではなく、写真を撮ったりしながら眼下の雄大な景色を堪能した。 しばらくすると手先が冷たくなってきたので手袋を二重にしたが、後でニナ・テンジンが流量を毎分2.5リッターにしていたことが分かった。
上空には相変わらず雲一つなく、少なくとも午前中は雲が湧くことはないだろう。 図らずも今日が今シーズン一番の登山日和となった。 2本目のフィックスロープが張られた斜面を登っていると、B.Cからいつも仰ぎ見ていたピナクルの岩峰が目線の高さになり、そしてついにそれも眼下となった。 もう山頂は指呼の間に見えるが、いつものように“好事魔多し・・・”というフレーズが頭に浮かんでくる。 その直後にヘルバートが登頂したという声が無線から聞こえてきた。 間もなくハイメを先頭にヘルバート、ヴォルデマースそしてクリスティーヌの3人が相次いで下ってきた。 山頂まであと10分で着くとのことで、これで本当に登頂を確信した。
頂稜部に連なる小さな岩峰の基部を左からトラバースすると、その先の平らなコルと尖った狭い山頂付近に大勢の人がいるのが見えた。 登る前は当然のことながら登頂の感動は大きいと思っていたが、いつものように目頭が熱くなるということはなく、また良く耳にする“早く下りたい”とか“もうこれ以上登らなくて済む”という発想も全く起きない。 ただ単に“次の山に繋げるために登れて良かった”、“結果を出せて良かった”という安堵感だけが頭の中を支配していた。
10時半前に山頂直下の平らなコルに到着。 C.4から僅か5時間足らずだった。 埼玉岳連隊の3人がすぐ近くにいたが、酸素マスクなどで分からなかった。 コルでしばらく順番待ちをしていると、るみちゃんと工藤さんが相次いで山頂から下りてきたのでお互いの登頂を喜び合う。 コルから少し先の岩の基部まで登り、そこでまた順番待ちをする。 前のイタリア隊が山頂に長居していたので、結果的に30分以上待たされたが、風もなく穏やかなので全く苦にならない。 周囲の景色を充分過ぎるほど堪能し、写真を撮りまくる。 間もなく藤川さんと平岡さんも到着した。 これでメンバー全員の登頂も叶った。
11時になってようやく待望の8163mの山頂に立つ。 山頂は1人がやっと居られるだけのスペースしかない雪庇の基部だった。 雪庇の上は危ないので登ることが出来ず、反対側の景色を見ることは叶わなかったが、それは登頂前から分っていたことなので悔しさはない。 山頂に立ってもなお涙は出なかった。 やはり快晴無風の天気と潤沢な酸素で今日の登りが一番楽だったせいだろうか。 酸素マスクを外して8163mの空気を胸一杯に吸い、ニナ・テンジンに登頂の写真を撮ってもらう。 意外にもニナ・テンジンもデジカメを持っていて、私に山頂での写真を撮ってくれという。 それまで控え目だった彼の山頂でのガッツポーズは私よりも気合が入っていた。 藤川さんを狭い山頂に招き、一緒の写真に納まった。
山頂直下のコルに戻り、藤川さんとあらためてお互いの登頂を喜び合い、マナスルに誘ってくれた平岡さんにも感謝の気持ちを伝えた。 B.Cへの連絡を平岡さんがしてくれたので、少し休んでから下山するという二人と別れて先に下山する。 間もなく無酸素で登ってくるビリーとすれ違った。 ペースはゆっくりだが足取りはしっかりしているので、登頂は間違いないだろう。 長いフィックスロープを2本下ると傾斜の緩い広い雪原となった。 登山家の小西政継さんが悪天候でルートを見失い遭難した場所だ。 強烈な陽射しと照り返しで暑く、とうとうダウンジャケットを脱ぐ。 山頂から僅か1時間半足らずでC.4に到着すると、すでに二次隊の軍人チームのメンバーも到着していた。 二次隊を指揮するチーフガイドのエイドリアンから祝福を受ける。 登頂の余韻に浸りながらゆっくりしていきたいところだが、二次隊にテントを明け渡さなければならないので、休む間もなく個人装備を荷造りしてニナ・テンジンと一緒にC.2へ下山する。 酸素の流量を毎分2リッターに切り替える。
昨日ほどではないが、次々とC.3から登ってくる各隊の人達と急斜面のフィックスロープですれ違わなければならず煩わしい。 間もなく明日アタック予定のAG隊の近藤さんとFさんら3人の女性陣と相次いですれ違ったのでエールを送る。 少し遅れて腕を骨折しているMさんが終始うつむき加減で登ってきたので驚いた。 その先で先に下山した工藤さんが座り込んで休んでいた。 さすがの工藤さんも少し疲れている様子だった。 藤川さんと平岡さんもじきに下ってくるので、一声かけて先に下山する。 気温の上昇で7000mを境に雪が脆くなり、時々足を取られて尻餅をつく。 昨日はすっきり見えなかったC.3の周囲の景色が今日は良く見えたので退屈することはなかった。
C.4から休まずに下ったので、僅か1時間半でC.3に着く。 C.3でデポ品を回収していると、ニナ・テンジンが酸素ボンベを新しいものに交換してくれた。 もう酸素は無くても大丈夫だと思うが、その方がスタッフも荷下げの都合が良いのだろう。 C.3からは傾斜が緩むのでC.2まではもう楽勝かと思ったが、シャリバテや気の緩みで次第に足が重たくなった。 気が付くと、出発してから殆ど行動食を食べてなかった。 先ほどまでの喧噪が嘘のように周囲には人影が少なくなった。
長い一日が終わり、4時半にC.2に着いた。 テントサイトはすでに日陰になっていたので、皆テントの中で休んでいた。 先に着いていたるみちゃんとあらためてお互いの登頂を喜び合い、B.Cへ無線で連絡する。 ガイドのハイメや他のメンバーもテントから顔を出して祝福してくれた。 装備を解きようやく身軽になったが、休む間もなく水作りを始める。 ありがたいことに隣のテントのクリスティーヌから思いがけず1リッターの“力水”(お湯) が届いた。 水作りをしながら工藤さんや藤川さんらの到着を待つ。 工藤さんは日没前に、藤川さんと平岡さんは暗くなってからC.2に着いたが、二人ともかなり疲れているようだった。 工藤さんは靴を脱がずにそのまま1時間ほど横になって動かなかった。 藤川さんは平岡さんの勧めで酸素を吸ったまま寝たようだった。 もう何も心配しなくて良いので、デポしておいた食糧をお腹が一杯になるまで食べ、登頂の余韻に浸りながら最後のC.2での夜を過ごした。
10月5日、夜中に初めてC.2で風がテントを叩いた。 今日は山頂もきっと風が強いだろう。 最後のC.2での泊まりもやはり快適とは言えず、疲れてはいたものの興奮と酸欠であまり良く眠れなかった。 風のため二次隊の出発は6時半になったようで、私達一次隊は本当にラッキーだった。
工藤さんは相変わらず疲労の色が濃く、朝食や出発の準備も遅れがちだったので、私と藤川さんとるみちゃんの3人で先にB.Cへ下山することになった。 外国人隊員達は8時に、私達は少し遅れて8時半にC.2を出発した。 排泄物やゴミ、そしてC.2でのデポ品が加わったので、荷物は今までで一番重い15キロほどとなった。 最後の最後で荷物が重くて嫌になるが、登頂出来ずにこの重荷を背負って下山しなければならないことを思えば何とか耐えられる。 C.2から下では風も無く、天気も昨日と同じくらい良いので気は楽だ。 昨日・今日・明日の3日間が各隊のアタック日になったので、ルート上には下のキャンプ地から登ってくる人の姿は無い。 核心部のセラック帯を過ぎてC.1が近づいてきた頃、工藤さんの歩みが捗らないのでB.Cに着くのは夕方になるという平岡さんの声がトランシーバーから聞こえてきた。 ラッセルからC.3にいるスタッフへ酸素ボンベを持って工藤さんの下山をサポートするようにとの指示があり、それほど体調が悪くなってしまったのかと驚いた。
11時にC.1に着くと、意外にも私達の隊のテントは全て撤収されていた。 C.1にデポした個人装備はスタッフがB.Cに下してくれたようで助かった。 B.Cと平岡さんにトランシーバーで連絡し、しばらく休憩してからB.Cへ下る。 今まで何度ここを往復したことか。 今日に限って雲が湧かず、照り返しがきつくてとても暑い。 るみちゃんは荷物が重くてペースが上がらず、クランポン・ポイントからは藤川さんと二人で先行する。
B.Cが近づくにつれてモレーン上の雪は少なくなり、眼下に見えてきたB.Cにはすっかり雪が無くなっていた。 100mほど手前でモニカが手を振っているのが見えてきた。 もう姿も見えているのに「ベースキャンプ、ベースキャンプ、ジャパニーズチーム、ヨシィーキアンドマコト、カムバック、ナ〜ウ、オバ!」とトランシーバーに向かって興奮しながら叫ぶ。 何故か山頂に着いた時よりも嬉しかった。 背中の荷物の重さも忘れて走り出し、真っ先にモニカとハグ、そしてラッセルとも固い握手を交わした。 登れなかったウォーリーも自分のことのように登頂を喜んでくれたことが嬉しかった。 早速、藤川さんとビールで乾杯した。 間もなくるみちゃんも到着。 その直後に無線から工藤さんがC.1に着いたという知らせが届いて安堵した。 工藤さんはだいぶ元気になったとのことで平岡さんが先に下山。 夕方前に工藤さんも元気に下山してきた。 結果的に日本人チームは全員登頂・無事下山出来て本当に良かった。 これで全てが終わった。
夕方、二次隊もマニを先頭に次々とアタックを終えて山頂から長駆下山し、結局一人も残さず全員が日没前にB.Cに下山してしまうという離れ業をやってのけた。 登山隊としても大成功だろう。 埼玉岳連隊に登頂の報告に行く。 夕食はステーキ、デザートはもちろんサミットケーキだ。 最年少のクリスティーヌが入刀する。 ダイニングテントはもうお祭り騒ぎだ。 その後のことは全く記憶に残っていない。